和式帳合法発達段階の実証
小 倉 榮
一
郎
は し が き ︵1︶ 本稿と同時に他に二つ、同じテーマで書いたものがある。 ﹁近代会計学大系﹂の中六巻第八章日本会計史と、彦根論叢 一八五・六号で、前者では江戸中期に和式帳合法が一斉に開花し、商家の秘密主義が各家各様の帳合法を発達せしめる中 で、各家別にみるとある順序で段階を追って発達したように思えること、同時に、個別性が強く、同年代に揃って一定段階 ふし に達するというのではないが、全体として大観すると、 一定の順序と段階の節が見えることを概説した。後老ではその詳 論に及んだが、和式帳合法の研究を二側面に分つと、日常の記録・計算の技法の解明という側面では、帳簿史料が現存し ないので困難が多いが、中井家・村西家は少数の例外と考えられる。その推論の裏付けとして、明治二十三年刊行の﹁商 ︵2︶ 法活用帳合之法﹂を検討した。この内容は、洋式複式簿記の原理を基礎にしているけれども、和式帳合固有の記録計算技 法で固めているので、裏付けとして有力である。ところで、今日学界にあらわれる和式帳合の研究のほとんどは記録・計 算技法には触れないで、決算簿、すなわち、決算結果を累年記録する帳簿を用いて、決算構造を解明することに主眼を置 いている。諸家が大切に保存している帳簿は決算簿であって、会計計算簿の現存するものは稀である。したがって研究し ようにも史料がないのである。 和式帳合法発達段階の実証 一和式帳合法発達段階の実証 二 決算構造の研究は記録計算技法の研究に無縁ではありえない。相互に補完し合い、総合されねばならないものである。 決算構造の研究を進めると、そこから記録計算技法が推定できることもあるが、確証はえられない。一応別の分野と考え た方がよいと思う。 ヨ 決算構造の研究を総合すると、明確ではないが、ある発達の段階があるのに気付くのである。筆者はこれを四段階に分 けてみた。 ﹁前駆第一段階﹂ ﹁前駆第二段階﹂ ﹁第一段階﹂ ﹁第二段階﹂がこれである。各段階の特徴・説明、ならびに 各段階の実際史料の概要を述べたが、紙幅の都合で具体例による実証はできていない。筆者の試論にすぎないが、論理的 にも、実証の上からも、一応妥当な四段階であると考えている。本稿はこれらを承けて、もつぼら実際史料による実証を おこなうものである。 ︵1︶本稿執筆当時、未刊である。 ︵2︶ 滋賀県大津商業学校教諭磯村音介・斎藤軍八郎共著﹁商法活用帳合之法﹂ ︵3︶ 別稿で用いた年表と、使用した公式を参考のために再録する。 ︵次頁︶ 濫掛煽臨吟理−濫掛遮繍φ卑一醤滞圏県母鰍・⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮・⋮⋮:⋮:⋮・:⋮︵弼︶ \濫暑臣昇母職一濫叫H羅潭煕肖丁丁丁年財・⋮・⋮⋮⋮−−⋮・−−⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮︵へ︶ [ 〆醤曝囲累潭鰍十脹醤讃髄財11丁子H丁丁瞬⋮⋮⋮⋮:・⋮・⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮︵ロ︶ \盗斗購鰍ゆ罪−醤暑油繍φ卑一丁叫臼黒瀬鰍+醤瑠潰琳ゆ摯一年醒堀曲ゆ理⋮⋮︵・・︶
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遅瑠爵財謬卑i盗朔撮謡轟斗一丁丁丁強財・⋮⋮⋮⋮・⋮−−・⋮⋮⋮−⋮⋮⋮・⋮⋮−︵チ︶ 小野家 中井家 長谷川家 三井家 矢野家 正野家 囲池家 ⋮−⋮⋮1−⋮−◎1昂帳 朗① 富山家︵伊勢︶胴 U 早田家 ︵摂津︶ 、−⋮−⋮−−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮⋮︵﹀⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮◎1i−1公式8 ②眉裂◎◎1店卸昇 公式鴎 ◎−店算用昌利隻眼冥色 ・式困8 >⋮⋮⋮−⋮−⋮−−φ⋮⋮一⋮⋮⑨−大黒方勘脊録 ・式圏 ◎II一店則雛型㊨・歯 n︶−1仕上帳III−Il⑦∀−−−⋮−−−一−−−−−:一:−−一− 公式㈱轡翫齢算用帳−−F一⋮!⑥⋮分散◎
②万之算用覚◎猛◎ 米 屋 源 猛 西 璽 暦 安 芸 元和元年(16]5)壬 ロll 1・年(16・4)蒙 寛永1・(1633)Q 〃15年(・638)蕎 ”18年(1641)ilE 明暦元年(1655)① 覚寛文10年(1670) “12年(1672>1 1−−−::−1:−−1−−−lT公式↓ 公式剛 延宝元年(1673) 〃 4年(ユ676) 貞享元年(1684) 元禄4年(1691) 〃 13年(1700) 宝水5年(1708) 〃 7寿三(17王0) 正徳13年(1713) 享保13年(1728) 〃 19年(1734) 〃20年(1735) 延享3年(1746) 宝暦3Sf.(1753> 安水2iT三(1773) ll 5 ’L=±一(1776) 天明 (178) 文化14tF一(1817) 天保8年(1837> 嘉永6年(1853) 明冶16年(1883} 8 史i‘拶Lrt ①前駆第一段階 第一段階 二=.二=翁認ず誰定②旨樫第コセ階 鄭二段階 二 前駆第一段階と損益計箪 商人が営業のために、記録をもってしなければ管理できない財産、たとえば債権債務などの記録をすることは多い。売 掛金、貸付金、質物などは一般に帳簿に記録する。しかし、これは備忘録であって、これをも商業帳簿というなら、永正 十七年︵一五二〇︶の土倉帳などは現存する最古の商業帳簿であった。同類のものは他にも多いと思うし、現在でもどんな 和式帳合法発達段階の実証 三和式帳合法発達段階の実証 四 小商人もこれを設けている。これは﹁野芝管理簿﹂で、たとえその中で何らかの計算がおこなわれていても、それだけで は簿記ではない。 中国の四柱結冊法というのは正の数、負の数が混記されている場合に、残高を求めるため、期首在高、正数合計、負数 合計、期末残高の四項目をそれぞれ求め、これを明記して帳簿を締切る方法で、それのみでは簿記とはいわない。備忘録 とまったく同じ帳簿記録であっても、それが体系的計算に組み込まれると簿記になる。 重要な物財を管理するために多数の帳簿を設けたであろうが、記録による管理の必要性がなければ帳簿は設けられな い。たとえば、現金出納帳を欠いていることが意外に多いのである。同様に物財の管理でなくても、備忘録は作成され た。仕入帳・売上帳・経費帳ごときは仕切値の参照や、商品の授受の証明、後日の取引上の紛争処理のために設けられた かも知れないが、やがて、経営能率や効果の測定のために用いられて重要性を加え、損益計算を行うようになる。すなわ ち、営業成果の測定という情報目的が生じて、売上収益から売上商品原価を差引いて売買総益を求めるという算法が確立 し、損益計算という情報処理法が組立てられることになる。そのとき、売上帳・仕入帳・雑用帳等が、一体の計算組織を 構成する。その場合の売上帳等は簿記の帳簿である。体系的計算といっても、直接・問接の全収益・費用を網羅するわけ にはいかない。部分的な損益計算にすぎないことが多いであろう。そのような損益計算は商人には不可欠のもので、物性 管理のために帳簿を設けていなくても、損益計算はそれぞれの帳簿記録を用いておこなわれていたようである。 このような場合、簿記法の研究対象としては興味が少ないのである。前駆第一段階と呼んだのはそのためである。この 段階では、損益計算がある程度組織的におこなわれているとしても、財産に関しては何ら体系的計算は存在しないという 段階である。 ユ 安芸国賀茂郡竹原下市村の米屋︵吉井家︶は農業経営のかたわら、商業・利貸をおこなったが、同家の大福之本曇は﹁寛
永十年﹂から﹁寛永十四年﹂⋮⋮﹁享保十九歳﹂まで九冊あり、 一冊に何年分も含まれ、売掛金残高等を記載してある。 決済がすめば朱線で棒引きし、消されない分が次の大福之本帳に繰越された。二代目になって塩田経営をはじめたが、四 年後の明暦元年︵一六五五︶の﹁覚﹂が現存している。これは損益計算書で、整っているが、塩田経営のみの損益計算で、 大福之本帳とは結びついていない。 現存する大福之本帳は寛永十年︵一六三三︶から享保十九年︵一七三四︶までであるが、これに含まれているのは寛永四 年から享保十八年暮までである。これが最後のものではなかろうが、かりに最後として百年を超える長年月に亘ることに なる。この期間中に他家では高度の発達をとげるのであるから、隔絶されると、発達が止ってしまう適例であると思う。 ︵1︶ 中部よし子﹁江戸時代前期における記帳と帳合﹂神戸学院大学経済学論集4・3、二四頁。 三 前駆第二段階と資本概念 企業が意識されると、企業の正味財産、事業主の所有に属する純分を確定するという計算目的が生じる。一定時点にお ける資産の総額から負債の総額を差引いて、残る純財産がその時点における事業主の所有に属する正味身代、すなわち、 簿記上の資本︵公式︵原︶︶であると認識される。この額を確定しようという考え方は、日常の経営能率や効果を測定するの とはちがって、抽象的で総合的である。例外ではあるが、資産総額i経営資本、すなわち企業規模を算定する形になって いる史実もある︵公式ω︶。 一般には正味財産一自己資本を算定する形になっている。企業主である本家、主筋にとって は、正味財産の増減に最大の関心をよせる資本主意識が中心で、生業とはちがった、 ﹁企業﹂が意識されるにいたるので ある。簿記法の研究にとどめないで、経営史全般の研究にもとづけば、元禄前後に企業が意識されている証左は多いし、 間もなく共同出資ないしは企業持分の考え方が定着、制度化されるにいたる。自己資本としての正味身代の確定というの 和式帳合法発達段階の実証 五
和式帳合法発達段階の実証 六 がその計算思考的基盤である。 正味財産を計算的に確定するため総資産額・総負債額を求めるには、物慎管理のために常備されている物恥管理簿があ ればその残高を用いればよいが、すべての資産・負債項目について記録が存するわけではない。記録がなければ、期末の 時点で実情を調査してその額を算定すればよい。問屋仕切帳︵買掛金元帳︶売掛帳︵売掛金元帳︶貸借帳︵現金貸・借、時には 自己資本分も含む︶などは一般に常備されており、金銀出入帳もこの類であるが、割合大きな商人で金銀出入帳がないこと もある。これら帳簿記録が存しない項目は実地調査によればよい。商品の実地棚卸は今日も常識になっている。 正味財産が確定されれば期首すなわち前期末の正味財産と比較して差額を求めると、期間中の正味財産の増減分︵元入・ 引出を除く︶という意味での期間損益が算定できるという副産物がつく︵公式ω︶。この損益は資本主的利益概念である。ま た。期首正味財産に期間損益を加減すると期末正味財産が算定できるが︵公式回︶、この段階では前者の計算すなわち正味 財産の算定によって損益が算定されるという計算思考が主役である。 この段階中でもまた細部での展開はあったわけで、中井家の初期はその最簡易なものである。次に史料を掲げる。
︵店卸記︶t決算簿
享保十九年元手金二両 享保二十年 延金六両、合せて八両、元文元晒年廿歳
一金拾弐両也 延金也 〆都合 金弐拾両也 この形で十二年分が記録されている。形式の上からは公式回に相当するが、期末正味財産確定の前に期問損益が正確に算出されていた証拠はないし、 ︵利益︶が算出され 19才 享保19年(1734) 借入金 資本金 16両 2両( L
現金5両
合薬13両
そのように推定するには無理がある。したがって、期末正味財産が確定された後、延金 ︵公式eD︶、これを期首正味財産に加えるという形式︵公式回︶を採用したものであろう。享保十九年元 手金二両というのも、店卸記冒頭に書かれた追憶﹁尤仕入方の儀は合薬代銭六拾貫に遣金三両伯井田 玄皆様より借用仕候。子供の節貰墨金候銭糧に絵賃之溜り都合金弐両元手金と致候事﹂という記事にあ わせて、開始貸借対照表を上のように作ることはできるが、史料にあったというのではなく、各勘定科 目が十九才の少年の手によって継続記録されたとするのは不自然である。 へ ここで正野家を引用するのは有意義であろう。日野の薬商正野玄三家は今日も続いている旧家である が、初代は貞享元年から﹁惣勘定仕上帳﹂を残している。その冒頭﹁自戒七ケ條﹂に﹁毎年極月に惣勘 定仕、元金之延へり様子見合大切二商可仕事﹂とあり、初代玄三は当初十年問は呉服を商ったが、決算 記録は当初から相当詳細であった。 一 1 一 一 N 一 一 h拾壱七三七金弐八
五 両拾両八拾拾
両両弐壱弐両壱五
三 分両分 両両
分 壱三
拾三 百分分
拾匁壱分五厘 三匁壱分五厘 百八拾三匁壱分 四匁壱分 九匁五分 拾五両三分 和式帳合法発達段階の実証 金引拾五駄 縮百端辮詰色壷物
長岡頼母子掛金 長岡掛 田村五郎兵衛殿掛 出雲崎掛 越後残り物色々 七一一NNN−N
和式帳合法発達段階の実証 九両 弐拾弐両三分 拾七匁七分五厘 三分 銀五分 三拾両壱分 七匁四分 弐両 弐両 拾七両壱分 丸割白銀六百四+赫有 、小千谷掛 今町掛 監澤掛 京縮之残金 宿残紬真綿代 有 金 八 金銀合弐百六拾壱両壱分 一、百五拾両 助右衛門殿より預り 内 一、弐拾五両 心月様より預り 一、壱分五匁 京二指引借り有 右引残而元金六拾三両弐分 銀拾匁 となっていて、公式︵原︶の形式である。初代の仕上帳は享保十三年︵一七二八︶までであるが、右に慰霊されている﹁助 右衛門殿より預り﹂の助右衛門は玄三の兄井田助衛門であり、中井家初代源左衛門荘官の母の実家が井田家、その兄、伯 父玄泉が良佑十九才初行商のときの金主である。細心は中井家先代︵良佑の父︶が若くして死んだあと、良佑の商才を見込 んであらゆる援助をあたえたという関係であるから、正野家とも縁が深い。また、良説の先々代、先代は日野椀を手広く 商ったが、先々代光親から先代光治への家産相続のための﹁店卸勘定帳﹂︵正徳五年i一七一五︶がある。これは相続財産の 目録である。光治は四十五才で死去するが、死後親戚二人立合で財産調査をおこない﹁光治様治世拾ケ年之内、金五両三き 分不足相立申候事﹂といっている。公式㈲の計算を一代に適用したのである。 中井家の店卸記にもどって、そのあと、延享三年︵一七四六︶からは記載内容がやや詳細となる。 延金六拾九両三分
延享三踊年世才
一、金三百九拾三両 売懸金高 一、金百拾五両三分 合薬仕入 〆 金五百八両三分 内金三拾両 清水清左衛門殿借入 引〆金四百七拾八両三分 前年在金指引而 金六拾九両三分 延金 外にA皿五拾山ハ両並日達薦金脆旭居 延享三年におこなった同二年の決算で、前年帯金とあるのは、延享元年の期末正味財産で金四〇九両である。 ︵公式ω︶ この期間について、基礎の諸帳簿は現存しないから、実証というわげにはいかないが、典型的な前駆第二段階と考えて いる。しかも、富山家の﹁足利帳﹂とは外形は似ているが、性質はよほど異なる。中井家の場合、この期間は備付け帳簿 に不備があり、実地調査を交えねばならなかったものと考えるからである。その根拠は次の事実によっている。 宝暦十年から十三年の三年間、主人は支店開設のため太田原に詰切って陣頭指揮する。本家には戻らず、決算ができて いない。そこで、十年度の期首と十三年末の数字を用いて、四年分一括した純益額を求め、四等分して店卸記に記入する和式帳合法発達段階の実証九
和式帳合法発達段階の実識 一〇 のである。 ﹁辰已午三ケ年太田原誌生干雷撃勘定不仕候故三ケ年ならしに七尾此印上申候⋮⋮﹂と宝暦十三年秋の正味身代金四、 一八五両と銭八匁一分六厘から、宝暦九年の正味身代金二、八二二両一歩と銭九匁六分野差引いて、四期分通算利益金 一、 O七三両と銭三匁七分二厘を算出、これを四分して毎年の延金としたのである。もし、すべての勘定科目についてし かるべき帳簿が設けられ、記録が継続しておれば三年間不在であろうと、年度毎の決算が組めなくてはならない。ところ が通算して利益を求め、四で除して一年分とするというのは、資産・負債の勘定が、その全部に亘って開かれていなかっ た結果であると推定するQ いま一つの論拠はやや複雑な説明を要する。公式ωによって算出される利益は営業の結果としての資産・負債から算定 された結果的利益であって、どのような内容構成になっているかはわからない。資本主自身の元入れ引出しという資本取 引による正味財産の増減は除外できるが、その上でこの算式によって求められる損益は資本主的損益概念であって、営業 外の損益や、単純な損失が生じてもこれを別算することはできない。結婚式に多額の経費が要ったとしてもそれだけ利益 は減少する。また、固定資産を正味財産の計算から除外することが多いが、そのため、資本的支出があればそれだけ利益 が減少する。 当時すでに損益計算はおこなわれていたと考えられるが、組織的記録・計算からえられる損益計算ではないから、僧業 に関する限りの損益計算であって、営業外損費は漏れるのが自然である。かくて、公式0りによって算出した資本計算的成 果計算による利益と、公式困によって算定される損益計算的成果計算による利益には誤差が生じる道理である。このこと はもちろん知られていたのである。各所に﹁外に幾何普請金遣居﹂とか﹁家普請金五六両入用有勘定悪敷﹂などの注記を つけているのは、右に指適したように二つの利益額の不一致を直すための注記である。
すべての勘定でなくとも、相当数の勘定︵帳簿︶が揃えられると、取引描記原則は部分的に作用する。資産・負債の帳 簿の記入と、損益計算系統の収益・費用の記入も、多くのものが突合照合できるので、照合印を押したり、帳合わせとい う手法が、この段階から定着しはじめるのであろうが、全面的照合はできない。公式㈲8の両計算が一致することは望め ない。この辺が前駆的と呼ぶ所以である。そこで不一致の損益額について、その差の主なものを注記しておかなくてはな らないのである。 富山家が決算簿をつけはじめたのは相当早やく、元和元年︵一六一五︶七代目定弘は﹁足利帳﹂を開設したが、その内容 は一応中井家の﹁店卸記﹂に類似しているけれども、別に﹁算用帳﹂があって、それはつっと詳細な内容であると同時 に、計算結果は足利帳の正味財産と一致している。その関係は別添の年表に明示してあるように、算用帳を要約して足利 帳に記入したもののように思えるから、中井家の店卸帳とは違ったものである。 中井家の店卸帳初期全期に亘って基礎帳簿が不備のままであったのではない。宝暦頃からは支店を次々に開設し、本皮 店会計もやがて成立する定着期前期ともなると、基礎帳簿が完備するが、決算記録たる店卸記はかわらないで、富山家と 同様の情況となる。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ 拙著﹁江州中井家帳合の法﹂二〇頁。 脇田 修﹁元録・享保期近浅野入の一経営一日野・正野玄三家﹁惣勘定仕上帳﹂ 江.頭恒治﹁近江商入−甲井家の研究﹂三三頁。 拙著 前掲書 四〇頁Q 河、原一夫﹁江戸時代の帳合法﹂八頁、二二頁。 拙著 前掲吾 三九頁。 についてL ﹁国史論集﹂一=二四頁Q 和式帳合法発達段階の実証 一
和式帳合法発達段階の小夫証 一二 四 第一段階と資本金勘定 貸借対照表系統の諸勘定が次第に整い、 一方で損益計算書系統の諸勘定も充実して、それぞれの記入の間で照合関係が みられるようになる。特に正味身代の勘定、すなわち、資本勘定が加われば、貸借対照表系統の勘定は完結する。資本勘 定の出現がこの段階であって、資本計算的成果計算がすべて帳簿記録によってなされる。もっとも、損益計算的成果計算 は相当成熟していたにちがいないが、決算内容の一つとして決算簿に記録されていないというのがこの段階の特徴であ る。 早やくから存在していた損益計算書系統が決算報告書にあらわれないで、貸借対照表系統の決算のみがでてくるには、 それ相当の理由があったはつであるが、その実証はむつかしい。しかし、合理的な推論は可能である。 まつ、正味財産を確定するという考え方はすでに確立されていることである。これに加えて当時は決算を公開するとい うことはなかったが、元方が本家に、枝店・出店が上位の元方に、要は店の経営をまかされた者が主家に向けて決算報告 をしたものである。主家からは手代を差向けて立会決算をした例もある。決算報告はこのように監査の対象となった。ま た、出資者が多数の商家である組合商合はもとより、単独企業であっても、出資は縁故者複数をもって持分を分けていた から、今日のような決算報告の仕方ではないが、決算内容について諒解を求め、利益分配をおこなう必要があり、決算が 報告を前提としたことは今と異るところがない。ところが、損益計算書系統の諸勘定は内部会計として管理目的に用いる 場合には必要な勘定で、売上帳・仕入帳など管理目的には不可欠であるが、その記載内容の真実性・立証性という点では その記録の一々を相手方に照会するわけにもいかないし、不正粉飾があっても、売上帳、仕入帳の上だけでは検出の手段 を欠いている。貸借対照表系統の諸勘定は、その残高の真偽の検討が容易で、たとえ当該決算日には監査の眼をのがれえ
たとしても、相手方との決済が必要であるからには、その後の何かの時点で露見せざるをえないのであるから、損益諸勘 定の立証の手段として有用である。このようにして、動かぬ証拠を提供する勘定として、この計算系統に重点が置かれた ものと考える。 貸借対照表系統の諸勘定、すなわち、資産・負債の勘定が次々と登場し、その体系を完結せしめるのが資本金勘定であ るから、資本金勘定の存在は重要であるが、前駆第二段階で資本概念︵簿記上の資本概念で正味財産を意味する︶が確立する と、そのあと第一段階に移行して、資産・負債・資本の諸勘定が揃うには大して年数を必要としない。資本金勘定が加わ り、必要な諸帳簿︵勘定科目︶がすべて揃えば、第一段階に達することになる。 資本金勘定の出現は簿記発達史上きわめて重要で、その簿記理論構造中の意味はむつかしいけれども、実際に資本金勘 定が登場する経過はそれほど困難でも華やかでもなかった。 最初は預り金という体裁で負債に似た勘定として成立することがあった。支店の位置にある営業店からすれば、その資 本金は主人筋の人々からの﹁預り金﹂であった。史料にも﹁何某様お預り﹂というように表現されている。すなわち、運 用を委託されたという性格のものであり、それ故に、利益一運用の効果はこの委託者たる資本主に帰属するのである。 しかし、元金とか、元手金と呼ばれて、はじめから資本金として認識されているケースも多い。その場合、負債と同質 という考え方は薄く、正味財産i持分額という計算構造からくる概念に併せて、資本計算的成果計算におげる損益算出の ための基準額、または、水準線という簿記固有の概念でもある。実際問題として、出資者側からは追加元入や引出しがある のが常態であるから、前年末確定した期末正味財産額を当年度決算にまでそのまま使うというのではない。このような抽 象的金額に資本取引の加減をする必要上、資本金の勘定を設けてここで右の水準線の変更の記録をしなければならない。 それほどの抽象的な問題でなくとも、具体的に、利益が出れば資本主に帰属することは分っているのであるから、期首正 和式帳合法発達段階の実識 一三
和ド式帳Aロ法[発達段階の実d臥 一四 味財産に利益を加えて期末正味財産を算定する計算の場として資本金勘定が登場するのである。 とにかく、資本金勘定は意外に自然に、かつ、速かに登場して、この計算系統の勘定科目が出揃うのである。もっとも 固定資産は長く成立しないままで、したがって、正味財産は固定資産への長期投資を含まない額︵正味流伝資本︶であると いう事情は別に存するが、この事実があっても貸借対照表系統の形式的完結、帳合の法の形式的構成上には別にさしさわ りはない。 このようにして、第一段階では正味財産一簿記上の資本を算定するという計算体系が、帳簿記録とその計算・総合とい う手法で完結するが、損益計算は並行して発達しているけれども、この計算体系の中に組込まれず、決算報告書から除外 されている。 第一段階に到達してそこで停止してしまう事例を掲げよう。 ぞ 伊勢の豪商で江戸店を構えた當山家の﹁足利帳﹂はわが国最古の商業帳簿といわれるが、その内容ぱ正味身代とその増 ヘヨ 減を累年記録した本家の決算簿で、すでに三項で取扱ったところである。しかるに、その基礎に﹁算用帳﹂があった。現 存するものは、寛永十五年︵二登二八︶の算用帳が最古であるが、寛文十年︵一六七Q︶の鴻池家の算用帳よりはるかに早 く、三井家も中井家の比ではないが、その発達段階は第一段階にとどまるのであるQ もっとも他家にあってはこの時代でぱ前駆第一段階にあるときに、 ﹁足利帳﹂でさえ前駆第二段階にきているから、同 時代としては先鞭をつけていたことは確かであるが、その後の展開はみられず、 一世代経て後発の鴻池家帳合が卓越する ことになる。 紙幅の都合で、算用帳の史料全文を引用することば控えたいが、河原氏が詳細に検討されているので参照されたい。木 稿では要点と補足意見のみ記述するにとどめたい。
売掛金、貸付金など人名別に掲げ、棚卸商品が品目別に列挙される。惣高合一、一四三両なにがしと締めているが、そ れまでは明細であって、次に内として、以上を分類し直して八項目に整理し、合一、一四三両余が資産合計。また内とし て﹁羽書﹂ ︵小額紙幣・商人発行︶の発行高未回収分、市太郎預り、若衆預り金など負債合計一七一両余を差引いて、正味 財産を九七二両余と算出した上で、 ﹁出職早年二引合去﹂と︵寛永十五年は引子︶前年正味財産と比較して、二一七両不足 と純損失を等出している。なお、羽書ノ代として掲げられた小額商人紙幣の未回収高は別帳の﹁羽書仕入帳﹂の残高と一 致している。他の項目も同様の状況と推察されるが、現存帳簿史料がないので確認はできない。その後、万治三年︵一六 六〇︶から四年分があるが、内容に大差ない︵未尾に﹁紫合﹂すなわら利益分配を書添えている。この型は他家にもある︶・ やがて営業不振に陥り、享保二十年︵一七三五︶元方役制度を採用して挽回を謀った。大阪両替店、呉服店など書店の会 計制度を整備したというが、﹁書抜﹂︵決算下書か︶が加わっているけれども実質的には依然第一段階、期末正味財産確定の ための貸借対照表系統が完成し、損益計算が組込まれていない段階にとどまり、業績はさらに低下して分散した。 お 摂津吹田の早田家は地主であると同時に、利貸、酒造業という多角経営をおこなったが、元禄期の決算簿が現存してい る。寛文十二年︵一六七二︶以降、元禄三・四・五・六・十五・十六、宝永一・二・三・四年の﹁惣勘定﹂万之算用覚は、 基礎帳簿が現存しないので確定できないけれども、前駆第二段階、あるいは第一段階と考えてよい。元禄に入るとさらに る 整備されて、各種資産を並記してその合計﹁都合二二貫三四匁七七﹂内として負債を計上し、﹁〆五貫三〇一匁四〇﹂、﹁残 一六貫七三三匁三七﹂が期末正味財産で、次に﹁内一六貫八八匁九三 午正月八日勘定前に有﹂と期首正味財産を計上し て﹁指引して六四四匁四四 延銀﹂と当期純益を算出している。また、元禄に入ると﹁作徳米勘定﹂という米作経営の損 益計算が現存しているが、他の経営についても損益計算が存在したと推定できるけれども、両決算の構造的関係は明確で ない。以上の状況から、第二段階への兆候はあるが、複式決算構造と断定できる証拠はない。特に、元禄四緑年の決算で 和弐帳合法発達段階の実証 一五
和ド式帳合法発達段階の実融 一六 注記があり、 ﹁外に有之貸銀午正月八日勘定目録ノ奥二書記有之候ニハ減少無医﹂と貸銀の一部が決算から除外されてい る。滞貸を永代貸金帳や通俗的な意味での大福帳に附上げて、毎年の決算から除外することは珍らしいことではないが、 帳簿記入した上で貸倒損失として除外するのと、決算書の上で突然に奥書として除外し備忘にとどめるのとでは、簿記法 としては大差がある。元禄三軍年の﹁万之算用覚﹂があれば断定もできようが、このような点を考慮に入れて現状で確実 なことといえば、帳簿記録にもとつく資本計算的成果計算で、第一段階に達した帳合法と考える。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ 大森研造﹁我国在来の商業帳簿﹂経済論叢一二・五 一二五頁。 河原一夫﹁江戸時代の帳合法﹂二二頁。 中部よし子、前掲論文、二七頁。 元禄四未年正月八日の﹁万之算用覚﹂前掲論文三三頁による。 五 。,
第
霞
階と 異 形 の 鴻 池 帳 合 資本金勘定が登場すると簿記が体系的に完成するというのは、取引貸借複記原則に支配された仕訳けという記帳技術に 支えられている洋式複式簿記法の場合であって、和式帳合法では、資本計算的成果計算を帳簿記録によって完成するとい う第一段階への到達を意味するけれども、完成段階に相当する第二段階への到達には、いま一つ要件が欠けている。損益 計箪的成果計算との結合が必要で、それをいかにして実現したか、そのための具体的・技術的条件は何か。筆者は帳簿間 の記入突合による照合、照合印押捺による取引知育原則の貫徹をみてはじめて両成果計算は結合すると考える。 貸借対照表の計算と損益計算書の計算とが同一の損益額を算出すべきであること、両者が表裏となって計算を証明する 関係にあること、あるいは、これを変形して、正味財産の比較によって、その増減分として算出した純損益額は結果論的 総額であるが、損益計算はこれを原因面から分析的に説明する関係にあることは、すぐに意識されるはつであるから、理念としては複式決算構造は存在したも同然であるが、具体的実践的に両計算を一致させるには、取引複記海尉が貫徹する 必要がある。そのためには、損益計算に計上しなければならない異例の損益要素、たとえば、現金過不足とか、為替相場 の差損益、貸倒損失、臨時損益など、損益計算系統の勘定科目に欠陥するものを追加して完結せしめる必要があり、両系 統になされる取引記入に脱漏があってはいけない。この二条件が、突合照合という手段で同時に解決するのである。その ためには、多帳簿制の完成、記帳分担と帳合制度といった会計制度の整備が必要である。その点が洋式複式簿記の完成経 過とは異なる点である。 突合・照合印という和式帳合特有の技法は第一段階にあって、部分的には既におこなわれていたと思われる。売上帳・ 仕入帳・経費帳などの記入に遺漏なきを期するためには、金銀出納帳、売掛帳・問屋仕切帳など支払手段に関する諸帳簿 での相手記入と突合わせなくてはならない。損益計算書系統の諸勘定側からいって、欠けている勘定があっても、存在す る損益諸勘定・帳簿の記入については、すべて相手勘定・帳簿での出入記入がある筈で、突合され、照合印が押捺され尽 されねばならない。貸借対照表系統の勘定、帳簿はすでに完備しているからである。しかるに、その反対は真でない。貸 借対照表系統の勘定・帳簿に記入された損益取引で、該当する勘定、帳簿が開設されていないものは、照合印を押捺でき ないのである。もっと完全に言うなら、財産交替取引は、貸借対照表系統の勘定・帳簿が、資本金勘定も含めて、すべて 開設されているのであるから、すべて複記され、突合・照合で漏れるものはない。損益取引については、売上・仕入・経 費支払など勘定・帳簿が開設されているような主要な取引については、複記され、突合・照合印が漏れることはないが、 勘定・帳簿が欠けている取引については、貸借対照表系統のみに記入され、相手記入をすることができないので、照合印 が押されないままになる。ここが問題の焦点である。損益計算系統の既設の諸勘定に加えて、このような一回記入のみの 取引の相手に相当する勘定・帳簿が開かれるか、その取引を検討して、正当な処理方法を考えて相手記入をおこなわしめ 和式帳合法発達段階の実証 一七
和式帳合法発達段階の実証 一八 ると、必要な新らしい勘定・帳簿が出現して、かくて、損益計算系統の欠陥分が埋められて、必要な全損益勘定︵帳簿︶が 揃い、両勘定体系が完結するし、取引の記入、処理の合理的方法が定立されるであろう。かくて、多帳簿制、照合による 取引複記の確認、複式決算構造の成立ということになる。このようにして第二段階への到達は、理論よりも技術に制約さ れる関係にあるQ 一例を掲げよう。本家が財務部門を担当するのみで、営業をおこなわず、そこでは家庭生活もおこなわれている。営業 部門として店が各地に設けられると、店は完全な一会計主体として複式構造の決算をなし、報告書を本家に送る。本家は 出資者の立場にあるので、帳合法としては幼稚なことが多い。本家の私的贈答用の品物を、産地である店の所在地で.調達 するに、店が代行して支払も店の金でおこなった。その場合の幼稚な処理法は本家が店に送金して始末をつける方法で、 いわば店は本家に対して立替平した形になる。しかし、本家が送金することになっていないときは、どうするか。前駆第 二段階又は第一段階での処理法では、財産計算による正味財産の増加分はそれだけ少額となる。すなわち、利益が小さく 表現される。ところがこの件は損益計算に計上する金額ではない。そこで決算報告書には﹁外に贈答品本家送り幾何あ り﹂という注書となる次第である。ところが.取引牙虫原則が作用する第二段階では、このような簿外処理は許されない。 店の損益ではないから、交際費勘定も不適である。中井家での処理法は、出資金の引出しという方法である。津の南方一 ヨ 身田香良州の太田屋は中井家の支店︵酒造業︶であるが、その大福帳の﹁御本家借薄口﹂戌八月廿八日の記事、 わかりもうすべく 二 富江附替 かつおふし九百目代かし 右ハ魚新より献言ふしなり 回附参り砿節分仁平池心 尤暴露より来品書 付より八掛又は七掛位に直段善本家出二可致也、損毛相律軸承当店之損二三可申金事﹂ 本家に幾分の遠慮はしながら、正当な処理を主張している。この例は﹁御本家借貸口﹂すなわち今日でいう本店勘定を 相手勘定として、店の損費としないという処理法の例である。そのほかに、正当な損益勘定を設けた例は大福帳の個別記
入されている勘定の中にいくらも見出せる。 取引複記原則が普遍的に支配すると複式決算構造の決算が成立するのであるが、外形約には二類型ある。本項では異形 となすべき鴻池帳合を引用しよう。 鴻池家の創業は古い︵一六〇〇︶が、酒造から海運へと手をひろげ、明暦二年︵一六五六︶両替業を開き、やがてこれに 専念、末子五郎兵衛を天王寺屋五兵衛へ見習に出した。この人寛文九年︵一六六九︶修業中に十九才で死去したが、鴻池家 ヨ の算用帳が寛文九年九月に開始されている。天王寺屋の帳合法の影響があったとする説がある。その後間もなく十人両替 の一に加えられた。 現存する算用帳は、寛文十年︵一六七〇︶から延享二年目一七四五︶、安永二年︵一七七三︶から文化十四年︵一八一七︶、天 保八年︵一八三七︶から嘉永六年︵一八五三︶、明治二年、同九年のものである。算用帳記載の年度の前年十二月末までの決 算を累記した決算簿である。基礎帳簿は現存していない。 ユ 寛文十年の算用帳は次の構造になっている。見出を﹁酉極月廿九日預ケ銀有銀器﹂として、貸付先別に例黒し、平銀・ 小判と計上して、 ﹁合三百弐拾七貫六百八拾七匁六分一厘﹂と資産合計を求め、次に﹁内おい方﹂として初代宗信老︵陰 居︶以下預り分を列挙して﹁〆百弐拾三貫弐百九拾九匁九分六厘﹂と借銀︵負債︶合計を出し、翫﹁残テ弐百四貫三百八拾七 匁六分五りん 有銀﹂と期末正味財産が算出される。 これが前半で、公式㈲の前項に相当するが、分離すれぽ公式のの一式である。 続いて、 コ百九拾六貫三百珊四匁三分七厘六九月賦銀﹂は開始の時点の正味財産で、 一般には期首正味財産である。 これに﹁浜家賃﹂ ﹁盲打銀﹂と収益を並べ、収益の合計を求めることなく、いきなり﹁三口〆弐百拾貫八百三拾五匁六分 弐厘﹂と、期首正味財産に加算してしまうQ ﹁内払方﹂として費用が並び、 ﹁五口〆六貫四百四拾七匁九分七厘 払﹂が 和式帳合法発達段階の実証 一九
和式帳合法発達段階の実証 二〇 費用合計、前者からこれを引いて﹁指引残テ弐百四貫三百八拾七匁六分則りん 有銀﹂と前半と同じ期末正味財産が算出 される。 ︵5︶ 安岡教授はこれを貸借対照表と損益計算書に分解できるとしているが、︵貞享元年の決算の分析︶複式決算構造であること の証明としては不当ではないが、原本で当期純益を算出していないのであるから、洋式の損益計算書でこれを補うばかり でなく、貸借対照表でも︵純資産︶を分解して期首正味財産と当期純益の二本建てにしなければならない。すなわち、原本 にない計算を挿入してはじめて典型的な形となる。ということは、鴻池帳合における決算構造は独特のもので、一般形式 からは相当離れた異形であるということである。鴻池帳合の解明のためには、そのありのままの理解が大切であると思 うQ 公式㈲をさらに補足して次のようにするQ 濫掛矯鰍ゆ摯−避掛油蕪ゆ型一濫辮矧果潭鰍・:︵ご ︵盗畔剛昇母鰍+濫醒意餅ゆ理︶一濫聾隠油φ理11濫闘鶏県母鰍⋮︵ふつ︶ ・:﹀::⋮⋮:⋮⋮ ・・::じu ・⋮ すなわち期末正味財産の二重計算になっている。しかも、盗一塁晃潭鰍+︵濫醒罪質砂卑−盗醒野獣ゆ理︶でなくて、 >iゆであることの意味に留意したい。期間収益マイナス期間費用を計算しておれば損益計算が組込まれた変型と解釈し ても不当ではないが、収益と費用の対応計算を考えていないのである。この計算形式を解釈する限り、収益は正味財産 ︵資本︶の増、損費は資本の減であって、収益・損費とも資本勘定の下属勘定︵評価勘定︶と考えていると解せざるをえな い。計算実体に立入って解釈する必要もあるが、史料不足で不可能であるから、計算形式を解釈する限りでは、損益計算 書を分析し出すことは無理である。かくて、鴻池帳合における決算構造は著しい異形であって、期末正味財産を具体的資
産・負債の面から確定し、他方で、期首正味財産を基本に抽象的増減計算をおこなって確定するという複構造をなしてい るのである。 ひコ 同質の異形複決算構造をなすものに矢野久左衛門家の﹁店則雛型﹂がある。矢野家は創業そのものが天明年間で十九世 紀に近いが、明治十六年︵一八八三︶に制定した店則中に示されている﹁店勘定雛型﹂で、これは総資本を具体面と抽象計 算で求める二重決算になっている。別稿で分析してあるので、ここでは省略したい。 本項で扱った﹁異形﹂と次項の﹁典型﹂との前後を断定することはひかえたい。 一方から他方へと変化してゆく実例は 存しないからである。全面帳簿記録にもとつく複式決算構造、すなわち、取引複号原則で貫かれているという点で、双方 とも第二段階にあるとしたのである。 ところで、鴻池家の決算構造にしたがって勘定体系を組み上げると次のようになる。
覇鰍邸
卿鵬誌舗聚
顛勘定1 期首正 味財産 収 益当期
利益
損費
資産勘定
すなわち貸借対照表系統一本で構成された勘定理論である。この考え方は古い時代に静的貸借対照表論の中にあった が、その会計理論が静的か動的かは計算形式で決まるものではない、わが国固有の帳合法に盛り込まれた会計理論がどの ような性格のものであるかは、さらに深い研究をもってせねば解明できないが、少なくとも次のことが言える。 和式帳合法発達段階の実証 二一和式帳合法発達段階の実証 二二 簿記の目的を期末正味財産の確定にありとし、損益項目を正味財産のプラス・マイナス項目と考えるということは、資 本主中心の考え方である。当時の企業観がこのようであったという推論は合理的である。資本主たる本家に対して提供す べき決算情報は、資本主の取前︵持分︶を意味するところの期末正味財産額である。したがって、これを資産と負債の現状 によって算定した上で、別途、収益・費用の年累計を加減する計算をして同額になることを証明するという二重計算をな したものである。 この決算報告に関する限りでは、損益計算は正味財産の計算の過程に落ち込んでしまって、収益費用の対応計算などま ったく存しないようである。すなわち、損益計算は著しく軽視されている。もっとも内部会計として損益計算を重視して いるが、決算報告書の上では軽視されているということもありうる。たとえぽ前項の前駆第二段階に属せしめた日野商人 ︵7︶ 正野玄三家の場合、内輪には売上帳・仕入帳があって売買損益計算はできるようになっている。しかし、決算書ではまっ たくところをえていない。鴻池家の場合も損益計算をやればできる情況にあって、決算報告にのみ損益計算が影をひそめ るということになる確率もあるから、帳簿史料を研究して記録・計算過程が解明されるまでは断定をはばかるけれども、 決算構造の解釈にみる限りでは、この方向−路線から高度の会計処理原則へ展開することはむつかしいと思う。 ︵1︶ ︾﹂O い澤江Φ8昌、.︾80口三ぽゆq国くO貯餓O昌叶OH㊤OO二 ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ 拙著 前掲書 一二三頁緬 安岡重明著 前掲書 二一頁。 同右 二四頁。 同右 二七頁など。 宮本又次﹁江戸時代の帳簿と帳合﹂大阪大学経済学 六の三・四 一〇八頁。 西川嘉男遺稿﹁元禄・享保期における前期的資本の動向﹂史林 一九五九年 第五号 一=ハ頁。
六 第こ段階と決算構造の典型 アプローチがちがうと、結果は大差を生じる。商家一般は損益計算を重視したが、それは報告会計としてではなく、経 営を計数的に管理するための管理会計としてであった。江戸期の帳合法は管理会計として理解すべき点を多々有してい る。特に大商人の場合はその必要度高く、種々の管理方法が帳合法の中に組込まれていた。 管理会計の観点からすれば、損益計算書系統が管理目的に合わせてすこぶる緻密となる。その諸勘定は、売上帳・仕入 帳・経費帳・給金帳など多くの帳簿に分けられ、それぞれの現場で記入される。貸借対照表系統の諸勘定は、特定の帳簿 を当てがわれることも、大福帳の中に勘定口座が開かれることもあるが、とにかく必要な全勘定が完備している。その記 入の多くは店の帳場でなされることが多い。夕刻になってすべての勘定・帳簿が集められて突合せをなし、照合印を押捺 する。すべての記入は照合印を押捺されるはつである。 かくて取引複記原則が貫徹され、複式決算構造に集められるのである。この構造は一側を損益計算書、すなわち、盗藍 薫財一濫藍躍謡一日遅諮熾財⋮︾沸釜 と、貸借対照表、すなわち︵濫冊蹄煕か聖−溢滞油貯砂卑︶1醤琳臣乳母隠一脹 濫謙髄財⋮励外2 が他の一側となって、当期純損益を二様に計算する構造をなす。筆者は、損益計算的成果計算と資本 計算的成果計算と呼んでいる。 中井家は初代良佑の努力が実って、関東に支店を構えるにいたる。最初はすべて本家に集中して単一会計組織の中に包 摂していたが、遠隔地の支店に権限を割譲して、巧妙な分権管理制度を実施した。中井詞章合法はこのような必要に促さ ユ れて、経営管理のための本支店会計方式として成立した。 ︵通常の簿記組織に準じて、また、中井家の企業集団を本支店として理 解することが一般であるので、本支店会計と呼んできた。中井家の出店・露店の企業形態−法的性格が、中井本家または元方から相当額 和式帳合法発達段階の実証 工費
和式帳合法発達段階の実証 二四 の出資を受けて独立営業する単一企業とみるべきものかも知れない。商号も近江屋、日野屋、十一歴など多様である。その場合には、中 井家帳合は連結決算と言うべきであるが、本支店勘定−連結勘定に相当する﹁差引残りかり・かし﹂という勘定の用法からすると、本支 店会計と考えた方がよい︶ この管理会計の仕組みはすこぶる巧妙精緻で、右の両成果計算の双方にわたって工夫されているが、特に、損益計算が よく工夫されていて、収益・費用の期間限定の基準や、支店間の成果分割の方法が実に合理的に設定されている。その詳 細は本稿の目的とするところではないので、比類なき精緻さであったことを指摘するにとどめよう。そこで筆者は、この 年代を定着期−会計制度確立の時期としたが、中井計帳合法はこの期に﹁第二段階﹂に到達するにいたったと考えてい る。 中井家の決算書たる﹁店卸目録﹂は毎年本家に送られたので、現存するものすこぶる多く、またほとんど連続している ので歴史研究に有用であるが、その記載内容はそれぞれの元方に﹁店卸帳﹂として累加記録された。これが決算簿であ る。その実際と構造の分析は紙幅の都合で省略するが、店卸目録の前半はまさに貸借対照表、後半は損益計算書そのもの で、特に損益計算は、売上収益、売上原価、諸経費を必要に応じて営業区分別に集計しつつ、最後に﹁徳用集めの部﹂ ﹁損之部﹂にわけて集計・対応せしめ、その差として当期純損益を算出するという附属明細書を組込んだ損益計算書にな っているQ 三井家の﹁大元方勘定目録﹂は中井家よりも二十数年早い。大元方創設の宝永七年︵一七一〇︶から明治二十五年までは 現存している。この段階に達するまでに、中井家同様に発達段階のそれぞれを順に辿ったかどうかはわかっていないが、 その間は八十数年の長きにわたる。鴻池家が第二段階に達するのが一六七〇年であるから、三井家より四十年も早いが、 それは異形複式決算構造であった。長谷川家が店算用目録・利帳差引覚︵大黒︶の複決算構造を完成し第二段階に到達す
るのが、宝永五年︵一七〇八︶であるから同時とみてよい。 き 三井家の大元方勘定目録の構造は基本的には中井家の店卸目録と同じである。 ﹁金銀預り方﹂に開元目録︵開始時の%︶ の正味財産、すなわち期首正味財産と、預り、すなわち、同系の負債を計上して、資本+負債﹁二口合六千六百三拾弐貫 ⋮﹂を算出、次に﹁金銀貸方﹂に、各店への出資︵建という︶債権、穴蔵銀、現金在高を合算し﹁二口合六千四百五拾七貫 七百九拾六匁⋮﹂と資産合計を出して、︵資本+負債︶∼資産一純損益と計算して、﹁銀百七拾五貫百拾弐匁⋮此高詠過﹂ と純損失が算出されるまでが貸借対照表に相当し、次いで、﹁入方覚﹂で各店からの功納、その他収益を掲げて、﹁二口合 三井大之方勘定目録宝永七年の構造略解 六百六拾九貫⋮⋮﹂が収益合計で、 ﹁払方覚﹂に費用が掲げられ、その合 貫 匁 5,109.455.965 .lm,523.45−t.692 6, 632. 908. 567 6,457.796.327 175.112.24 金銀預り方 期首正味財産(寅正月元建)
負債合計3口
合計,資本・負債 金銀貸し方 資 産 合 計 15口 差 引 損 失 5, 109. 455. 96 or 175.112.24 4, 934. 343. 725 元建差引 期首正味財産(寅正三元建)当期純三
期未正味財産(寅七月正有銀) 以 下 略 和式帳合法発達段階の実証 計﹁二口合八百四拾四貫⋮⋮﹂であるから、収益−費用一損益で﹁銀百七 拾五貫百拾弐匁⋮ 払過﹂すなわち前の計算と同じく純損を算出して、両 成果計算は一致している。 三井家の決算には附属があるQ右のあとに﹁元建差引﹂の部があって、 期首正味財産の﹁寅正論証建﹂︵開之目録の正味財産︶﹁内⋮⋮正月より七月迄 入方払方差引〆出過﹂︵今期の純損︶を引いて﹁銀四千九百三拾四貫⋮⋮寅 七月十四日正有銀﹂を算出している。これが期末正味財産で翌年に繰越さ れる。典型的公式囚でなくて、異形公式目との折衷形であるが、この点は 中井家でも、多くの場合この形になっている。したがって公式困囚に相当 するものとした。 コ兀建差引﹂は附属計算で、期末正味財産、すなわち、 翌年の勘定目録で冒頭に出る元建金である。さらに計算は続けられ、固定 二五和式帳合法発達段階の実証 二六 資産らしきものを掲げて期末正味財産に加算し、 ﹁都合九、〇七二貫余﹂を求めさらに﹁敵産之預り﹂七店分が差引かれ るがその額は二〇八貫で大した金額ではないけれども、準備金らしいという説明ではわからない項目である。これを差引 いているから、簿外負債であるとは思うが、長期負債が簿外になっているのなら、これも三井家独特の処理法である。か くて、 ﹁宝永七年寅七月十五日有物也﹂で終る。 詳細に検討すると﹁出シ切ロニ委細目録有﹂などとあって、 ﹁口﹂勘定科目が基礎にあるように思う。大元方の決算で あるから、各店の決算が集められているはつで、各店の決算と帳簿が現存しておれば、さらに確実なことも言えようが、 記帳・計算の方法は別として、決算についてみる限り、複式決算構造の典型的なものと言える。 江州高島の商人小野組は歴史は三井家と同じ程古いが、決算書﹁勘定帳﹂は本家別家まちまちに残っていて享保頃から のようであるけれども、実体のわかっている井筒屋彦兵衛の﹁勘定目録﹂天保九年︵一八三八︶も、典型的な複式決算構造 をなしている。宮本博士の大名著があるので、ここでは引用を避けたい。 このように、貸借対照表と損益計算書に二分された形となったことは、その後に損益計算の発達に大きく寄与したと思 われる。資産負債の諸勘定・諸帳簿よりもさらに多くの帳簿に分割されて損益計算が詳細になったばかりでなく、醸造業 にあっては製造部門、内部計算が挿入され、原価計算らしきものがおこなわれた形跡もある。期間的損益計算の原則も高 度に発達したし、支店間の費用の振替の事実もある。これらを、整序すれば、発達段階第二段階以降に進む会計制度の発 達、会計基準・原則の発達の段階別もありうるが、当面の史料では、決算構造の発達段階にとめなくてはならない。 ︵1︶ 拙著 前掲書、拙稿﹁経営管理と中井家帳合法﹂社会経済史学三一の六。 ︵2︶ 拙著 前掲書 三九頁。 ︵3︶ 安岡重明著﹁財閥形成史の研究﹂二二一二頁。河原一夫著﹁江戸時代の帳合法﹂二七七頁。 ︵4︶ 宮本又次著﹁小野組の研究﹂全巻、特に第二巻を参照。