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実質的価値倫理学と心情倫理学

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実質的価値倫理学と心情倫理学

三 輪  健  司

Die Material−wertethik und Die Gesinnungsethik

Kenji Miwa        Der Auszug   Es ist das unsterbliche und h6chste Verdienst der Kantischen Ethik, dass Kant das Moralittitsprinzip nicht in der Erfahrung, sondern in der praktischen Vernunft selbst suchte. Doch erscheint皿ir unrichtig, dass er alles Materiales mit dem Empirisches gleichsetzt und auch zugreich nur das Formale als das Apriori ansieht. Dies ist nach Schelers Meinung das Grundirrtum des Kantischen Formalismus.   Die vorliegende Abhandlung zeigt die Folge, die von dem Standpunkt der Schelers Materiale−wertethik aus Uber Kantischen Formalismus untersucht und kritisiert wurde. 一 心宿の哲学としてのカント倫理学  シェーラーによれば,カントの倫理学は”凡ての実 質的倫理学は必然的に結果倫理学(Erfolgsethik)であ って,形式倫理学(Formalethik)のみが善悪の価値の 根源的担持者として,心情(Gesinnung)又は心・情に充 ちた意欲(Gesinnungsvolle Wollen)を要求すること が出来る。”(1}という前提の上に立つものとされるQ 此処で結果とは,行動(Handeln)のt「現実の世界に於 ける影響「t(Wirken in der realen Welt)〔2)を意幽す る。若しも行為(Handlung)の善悪がか様の結果によ るものならば,そのためには先ず第一に結果自身の善 悪が問われなければならないだろう。そして又若しも 此の場合,人が道徳的価値自身からではなく,行為の 社会的称讃,非難から出発するならば,結局は社会的 に称讃されるものを善,社会的に非難されるものを悪 とみる社会的通用道徳(sozial ge互tende mora1)(3)セこ 帰着しなければならないだろう。カントも”実践哲学 ほどに同義反復を含んだ命題に満ちている学問は他に はない。”(4)といっているが,此の場合,社会的に通用 している道徳自身の道徳的価値が更に問われなければ ならないだろう。ともあれ,結果についての社会的称 讃非難の前には,人格,心情,意欲,行為等の本来的 な道徳的価値:は全く省みられない。か様の杜会的称讃 非難が問題となるところに於ては,人は理性よりも経 験に頼る力が遙かに賢明であるQ臨機応変その時その 場に要当する有効適切な行為をするためには,確に豊 富な経験を必要とするものである。か様の世界は正に        コ 経験のものをいう世界である。此処では最早や心情の 如何について問われる余地もない。か様の社会的称讃 非難の実質(Gehalt)が行為の結果に外ならないので あるから,実質的倫理学(Materiale Ethik)は”必然 的に経験的帰納的であって,後天的安当性のみを有す る”k5)ものとなり,それ故にまた結果倫理学でなけれ ばならない。此の意昧に於て先験的立場に立つカント がその倫理学を法律学から峻別し,行為をその外的強 制的視点からではなく,その内的性質の視点から,即 ち自由の視点から老察する”心情の哲学”(6)とするこ とは,正当のことであるといわなければならない。      ニ カント倫理学に於ける心楕  それではカントに於て心情とは如何なるものだろ5 か。カントによれば”心情はわれわれの行為の基本 原理であり,行為とその動因とを統合するものであ (1)Max Scheler,Der Formalismus in Der Ethik und Die materiale Wertethik 1927. S.3以下F.と   略記する。       (2)ibid, s.109 (3)ibid. S.179       (4)小倉訳:カント倫理学S・11 (5) F,S.3       (6) iS、倉・訳:ib. id, S,

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る。”(7)ところで動困(Bowegungsgrund)は欲望の主 観的根拠としての動機(Triebfeder)から区BtJされて, 意欲の客観的根拠で,”意志とは或る法則の表象に従っ て自己を規定して行為に赴かしめる能力である♂⑧ カントによれば,行為に先立って道徳性の原理として の道徳的判定(Dijudikation)の原理cg)が確立されなけ ればならない。”ある行為を実現するためには主観的 根拠として動機が必要であるけれども,何か道徳的に 善であるかを判定するときの根拠は客観的でなけねば ならない♂間それ故に動因はまた道徳性判定の客観 的原理である。カントは道徳性の原理究明に際して特 に次のように注意している○即ち責務の判定の原理と 責務の実行の原理(執行の原理)とを区別することが大 切のことであって”悟性による善悪の判定に適つた生 活をするように私を動かすものが実行の原理である。 悟性が私に》汝はそれを為すべきである《と告げるも のを実行するように私を衝き動かすものは動機であ る。あらゆる道徳的判定の最高原理は悟性の内に,実 行の道徳的衝動の最高原理は心胸の内にある一Mo・ tivu血subjecte movonsとしての動機は行為の主観 的根拠であり,Motivum objecte movensとしての 動因は行為の客観的規定根拠である♂㈹それではか 様の動因とは如何なるものか。カントは意欲の原理と しての義務の動機について述べ,”義務からの行為は… …意志にとっては,客観的には法則主観的にはこの 実践的法則に対する純粋なる尊敬,即ち自分のあらゆ る傾向を破却するとも,かかる法則に随順すべしとい う格率の外に意志を規定し得る4ものとしては何も残ら ない♂㈹それ故に動因とは意欲の客観的規定根拠と しての実践的法則であるQ”客観的な実践的な必然性 を表現する法式は動因と呼ばれる。従ってあらゆる命 法は動因である。St(13)  カントの倫理学は法則至上主義といわれるのである が,それは善悪という価値から行為の道徳法則を演繹 しようとするのではなくて,逆に道徳法則から初iP一て 行為の善悪を規定しようとするからである。それ故に カントに於ては行為が何を実現するかという行為の内 容(Inhalt)が問題となるのではなく,行為が如何に実 現せらるべきかというその実現の仕方が問題とされる (7) ibid. S. 37 (8)岩波カント著作集Bd.7道徳暫学原論S.85 (9) fJ、倉霞尺:ibid. S.7 (10) ibid. S.9 (11) ibid. S.15−16 (12)岩波カント著作集Bd.7道徳哲学原論S29 (13)小倉訳=カント倫理学S.14 (14)岩波文庸カント実践理性批判S.101 のであるQ即ち行為の善悪は行為の内容に於てではな く,行為め形式によるのである「Q”対象としての善の概 念が道徳的法則を規定し,可能にするのではなく,逆 に先ず第一に道徳的法則が善の概念一それが絶対的 に善の名に値する限り一を規定し可能にするのであ る。”{凶それ故に行為が善たらんがためには,その動 因と動機とが一致しなければならない。此の一致のた めに義務の概念が唯一の道徳的動機として持ち來らさ れる。㈲”義務からの行為はその道徳的価値を,その行 為によって達せらるべき目的に点てではなく,其行為 がよって以て決定せらるところの格率に於て有する。 即ちかかる行為は行為の対象が現実に存するというこ とに依存しないで,欲求能力の対象に頓着なく行為を 生ぜしめる意欲の原理にのみ依存する。t’J6)かくて「’義 務は法則に対する尊敬よりする行為の必然性。”㈲と される。  か様に考察すれば義務心情に於ける行為と動因との 統合ということは,行為からその一切の後天的動機を 除去し,それ故に先天的原理としての義務をその動機 たらしめることである。従ってまたか様の動因を行為 の動機たらしめる義務の心情は無内容の形式でなけね ばならないだろう。此処では最早や行為の対象は問題 とならず,問題となる.のは,如何に行為すべきかとい う形式のみである⊃  シェ H一ラーによれば,カントが心情と意図(Absicht) とを区別したことは正当である。意図は一方では願望 (Wunsch)と区別されると共に,他方に於ては純粋意 欲(reine Wollen)からも区別される。”意図とは,何1こ か一定のものをなさんとする意志’⑱である。それ故       の       コ       に意図は本来何かを為さんとする意図としてしかあり 得ない。それ故に何かを為さんとする意図と,実現さ れた意図としての結果とは瞭然と区別されなければな らない。然し意図は本来実質的であるリカントによれ ばか様の実質的意図は善悪の価値の根源的担持者たる ことは出来ない、,それ故に行為の基本原理として道徳 性の中核である心情⑲は何等の実質をも.持ち得ないだ ろうQ人格の凡ゆる価値の第一条件であるところの, 凡ての道徳法則をよろこんで為し得る境地としての心 情,”法則に服従する心情”⑳”道徳法則と一致する心 (15) ibid. S.133 (16)岩波カント著作葉Bd.7道徳哲学療論S.26−

  27

(17) ibid. S.27 (18) F. S. 137 (19)小倉訳:カント倫理学S.33 (20)岩波文庫カント実践理性批判S.131

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情”(21)はそれ故に”意図定立の単なる形式”(22)であ るとされるだろう。更にまたカントは明らかに次めよ うにいう。即ち”道徳性の中核は純粋な心情である。 しかしひとは他人の心情を洞察しえない。……従って 心情の知覚者としての神の信仰がなければあらゆる道 徳的指図は無力になってしもう”(23)と。それ故にまた カントに於ては心情は意図定立の単なる形式として, 経験しえないもの(unerfahrbar)となるだろう。 三 シエーラー倫埋学に於ける旧債  然らばか様のカント的心情概念に対して,シェーラ ーの主張する心情概念とは如何なるものであろうか。 シェーラーによれば心情は何か遺伝的素質としての恒 常的傾向ではない。か様のものは説明の補助概念とし て,帰納的経験からの推論の仮定物にしかすぎない。 例えば吾々がある人に対する場合,彼に対して何を為 すかという意図を持つ前に既に此の人に対して一定の 対し方を体験する。此の体験の相異の根拠は,彼に対 する心情の相異である。か早め体験の相異は,決して 彼との種々なる生活交渉の経験から推論される結果に よるものではなく,直接体験の事実として,彼との生 活交渉の経験に於て端的に体験せられる。それ故にか 様の”心情の持続性と変化する生活経験からの独立性 とは,多種多様の生活契機と共に意識されている。”(24) カントのように,心情を人格に於ける根源的なものと みながらも他方これを意図定立の単なる形式とみれ ば,確に心情は帰納的経験の事実ではない。それにも かかわらず心情はか様の経験とは本質的に異なる現象 学的経験の事実であるといわなければならない。若し もカントがいうが如く,尊勝の心情が洞察し得ないも のであるならば,相互依頼に基づく心情協同体(Gesin・ nungsgemeinschaft)は存し選べくもなく,また契約 理論は本来自己矛盾であるといわなければならないだ ろう。それ故にシェーラーによれば心清は”意志作用 の形成に於て示し得る事実tt(25)であり,爾経験可能の 事実である。同様にまた心情は意図定立の単なる形式 であることも出来ない。若しも心情がか様の単なる形 式であるとすれば,心情にも合法則的心情と反法則的 心情とがあるわけである。ところが既述の如くカント に於ては心情は,動機と動因との結合としての先天的 形式であるから,反法則的心情は存し得ないことにな り,従って善き意欲はまた心情に充ちた意欲というこ (21) ibid. S.114 (22) F. S.110 (23)小倉訳:カント倫理学S.33−34 (24) F. S. 111 (25) ibid. S. IQ9 とになるだろう。然しながら心情にも色々の心情のあ ることは吾々の経験に於ける明瞭なる事実である。合 法則的心情と共ンこ反法則的心情があるのみではなく, 善き心情,悪しき心情があり,更にまた善悪の心情も それぞれの性質の相異に従って,例えば親切の心情, 愛に充ちた心情,信頼し得る心惰等があり,またその 反対に,不親切の心情,冷酷の心騎,信頼の出来ない 心情等千種万様の質的に異なる心清がある。それ故に 心情の本質をか様の合法則的心情にのみ認め,人格の 根源的作用としての多様の心情相異を認めないカント の心情倫理学は,その形式主義の必然的帰結である。 心情事実に関するか様の誤れる前提の上にのみ,形式 倫理学のみが心情を善悪の価値の根源的担持者たらし めることが出来るという結論に到達することが出来た のである。然しながらシェーラーが詳論しているよう に(26)か様の誤れる前提は,究極的には所与一般に対 するカント的偏見による構成主義に帰せられるであろ う。  カソFが義務を唯一の道徳的動機とし,これによっ てのみ行為の道徳性(Sittlichkeit)と適法性(Legalit註t) とを区別したことは,確にカントの心情倫理学の不滅 の功蜜といわなければならない。然しながらそれ故に 人格(27)の他の諸作用の有するそれぞれの固有’の道徳 的価値を認めないことは,同様にカント倫理学に於け る形式主義の根本的誤謬といわなければならない。シ ェーラーによれば道徳的価値の園田者は,(28)第一に は人格と人格の存在自身であり,第二には理想的当為 (ideales Sollen)の実現の道徳能力の方向(Richtungen des sittlichen K6nnens)としての徳(悪徳)であり,第; 三に初めて人格の個別的具体的諸作用があげられる。 心情もまた人格の諸作用中の一つであるQシ=一ラー によれば吾々は同一の意図を持ちながらも筒必ずしも 同じように決心しないように,同一の事柄に関して同 様なる心情を持ちながらもそれに関する意図は色々と 変化するということ,そしてまた意図はある程度心情 に制約せられるということは体験の事実である。この ことは”心情が確に意図よりもより深層に位する”(29) ものなることを示しているとともに,心情のより包 括的なことを意黙している。即ち心情は”単に意欲 (Wo11en)を包含するのみならず,また凡ての倫理的価 値認識を,換言すれば各々の意欲及び選択作用(Wa− hlen)を基礎づけ(fundieren)ているところの価値優 (26) ibid. S. 63−M (27) ibid. S. 385 (28) ibid. S.23−24 (29) ibid. S.110

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劣判定の作用(Vorziehen),愛憎の作用をも包含する もの”(30)なのである。然しながらそれ故に心情価値 によって,意志過程に於けるそれぞれの作用の特殊の 道徳的価値は,その価値固有性を失うものではないの である。ただそれらは基礎づけ関係(Fundierung)の 一定の段階秩序:を有するのみである。即ち心情,意図, 決心,決意,遂行(Ausfli hrUng),行為(Handlung)は 意志過程よりすれば,それぞれ前者が後者よりも入座 構造に於てより深層に位し,価値的見地よりすれば之 等諸作用の間には,前者が後者よりもそれぞれより高 い価値を担うているという関係がある。(31)それ故に 確に”心情の道徳的価値は行為の道徳的価値に対して 基礎づけの関係にある”(32}といい得る。か様のこと は例えば,よい心情からではなくてはよい行為も出て 来ないという吾々の経験がこれを最もよく示してくれ る。吾には悪しき心情からよい行為の為される場合は 考え得ても,善き心情から悪しき行為の為され得る場 合は考え得ない。然しながら道徳的心情さえ同一なら ば行為によるその心情の実現の如きは敢えて問うとこ ろではないとするならば,それは行為の事実に目を蔽 うカント的形式主義の誤謬に陥っているといわなけれ ばならない。心情が行為に於て実現されることによっ て未だ心情には含まれていなかったところの道徳的価 値の新しい担持者が現われる。シェーラーはこれを ”心情の実質的特殊化tt(Materiale Spezifikation der Gesinnung)(33)といっているが,勿論これは行為の絃 果が入山に及ぼすところの反応影響とは本質的には何 等の関係もない行為老に於ける充実体験の直接的事実 である。若しもカントが考えるが如く心情が意図定立 の単なる形式として,意図の内容(lnhalt)を何等実質 的に規定しないで,単に形式的にのみ規定するものに すぎないものとすれば,即ち意図の内容が定立される ところの合法則性(又は反法則性)の意識にすぎないな らば,任意の意図の実質,従ってまたそれの実現のた めの決心,決意,行為は,最早や心情に基礎づけちれ ることは出来ないだろう。此処では心情とこれ等の意 志過程との聞には何等の本質必然的連関性をも存しな いだろう。此の本質必然的連関性の確保のために,カ ントは義務概念を演繹し来たのではあるが,シェーラ ーによれば義務概念がか様の重荷に耐え得るや否やは 甚だ疑問である。(34>なんとなれば義務意識は実践的 (30) ibid. S.604 (31) ibid. S.100 (32) ibid. S.112 〈33) ibid・ Sr 112 (34) ibid. S.193−197 強制として本来道徳的洞察の欠如を意味し,道徳的洞 察のあるところには何等義務意識は存しないからQ両 者は単に両立しないもののみならず本来相反する概念 である。此の問題については此処ではこれ以上の論議 は必要ではないだろうQ兎に角,心情と行為とのか様 の本質必然的な連関性の欠如によって,カントによれ ば行為は全く傾向に委ねられることになり,従ってま た恣意的経験一経験の結果一に,そして結局は快 一不快の感覚的感情状態に帰せられることになるであ ろう。か様の行為の道徳的でないことはカントの言を まつまでもなく生の堕落現象(Dekadenzerscheinung des Lebens)である。”純粋に快楽に向けられる生活 態度は,一滴までも惜しむところの老飲酒家や,恋愛に 於ける類似の現象が証明するが如く,個入生活並びに 民族生活の顕著なる老令現象を示すものである。”)35) か様の行為自身は最早やその固有の道徳的価値の担持 者たることは出来ない。心情と行為との本質必然的連 関性の欠如によって,両者の関係は恰も意志とその影 響領野の彼方の因果的自然現象との関係の如く,道徳 的には本質的に全く無関係のものとなるであろう。そ れ故に彼の行為や意図からその人の心情価値を評価す ることは出来ないのみならず不合理であるといわなけ ればならないQ所謂善人といわれる人も実は悪い心情 の人であるかも知れないし,又逆に,犯罪人といえど も筒善き心情の人でもあり得るであろう。心情の交通 の絶えた社会は正にホッブスの言の如く”凡ての人聞 に対する凡ての人聞の戦争”(36)であり,そしてか様の 戦争状態に於ては”とりわけて不幸なことは残虐な死 に対する不断の恐怖や危険に晒され,孤独,貧困,淫侠, 殺伐なそして短い生涯を過さなければならない”(37) ということである。》神のみが人間をその心の中まで 見抜き給う》という古き命題は,人間の経率な道徳的 評価に対して成る程教育的には正当な理由のあること ではあろうが一これはカント的偏見の必然的帰結 である一本質的には実践的倫理的懐疑主義(Skepti・ zismUS)に外ならない。然しながら人間の本質を人格 とみ,入格の本質中核を神の理念の光の下に点て,神 への不断の自己超越の精神作用(38)とみるシェーラー に於ては,人間は神の遍愛(alle Liebe)に媒介せられ て神の王国(39)の一員として愛の協同体の形成者であ る。入が人を裁くことは,それ自身既に罪であり,裁 (36)戸鞠訳:ホッ・ブスリゾィアサンS.146 (37) ibid. S. 147 (38) ibid. S.299 (39) ibid・ Se 298 (35) Scheler: Die Stellung Das Menschen irn Kosmos. 1930. S.38

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きは終極的には神のみのなし給うところであるにもせ よ,神の眼を以て裁く人は爾ゆるされるだろうし,シ ェーラーの倫理学の究極の根拠も此処に求められるで あろう。然し此処ではこれ以上論ずることを差し控え なければならない。  シ=一ラー・一によれば心情はカントに於けるが如き意 図定立の単なる形式ではなくて,第一に意欲の価値方 向の規定者であり,そして第二にはそれ自身の独自の 価値実質を持っているものである。(40)従って心情の 実質を行為の結果や更には.経験に依存せしめること は,全くカント的偏見による誤謬であるといわなけれ ばならない。心情はいわば意欲を枠付けしている。此 の意味に別て心情は意欲を一i義的には規定しないけれ ども,その価値色合を以て意欲を滲透しているもの であり,意欲の実質的先天的活動の余地(Materiale apriorische Spielraum)である○かくてシェーラーに よれば心情は,第一には凡ての意志過程の規定者であ り,第二にはその原固有性に絶て,意志過程の変化か ら独立に尚独自の恒常性を持っている今回的者であ り,第三には凡ての意志過稗の段階に於てそれらと共 に尚直観可能の経験的事実である。(41)  第一に心情が凡ての意志過程の規定者であるという ことは,それ故に行為は固有の自己価値(Selbstwert) を持たなくて,心情に対する単なる象徴価値(Symbo! wert)(12)しか持ち得ないということを意味するもの ではない。行為は心情の枠内にあるが,このことは心 情が行為を一義的に規定するものではないことを意昧 する。行為は心情の価値方向に於て而も行為として自 己の固有の価値(Eigenwert)を持っている。例えばあ る人が溺死せんとしているのを目撃する場合,救助の 能力を全く欠く蹟行者とか様の能力を持っているとこ ろの健康人とに於て,救助せんとする心情に於ては, 両者には何等異るところがないとしても,尚その意欲 に於ては決して同じではあり得ない。なんとなれば前 者はその心情を行為に於て実現することが:本質的に不 可能であるのに,後者はこれを本質的には実現し得る からである。救助能力のないところに救助の意欲は 存し學べくもない。吾々は不可能のことを願望する (wUnschen)ことは出来ても,一これを意欲すること は出来ない。意欲はその意欲内容の実現の可能を前提 する。蹟行者に救助の意志のないことは,彼には現実 的に救助の意欲が存し得ないとい5明白な体験事実に よる。彼は溺死せんとする人を救助したいという願 C40) ibid. S.113 (41) ibide S・114 (42) ibid. S.102 (43) ibid. S.118 望,より正確には,救助行為をなし得る能力者であり たいという強い願望は,これを持ち得ようが,然しそ の無能力の故にか様の行為自身を意欲することは出来 ない。それ故に此の場合に於ける版行者と救助行為と の関係は,か様の場合に居合さずして単にその話をき いて救助め心情を持つ人と:本質的には何等異るところ もないQ此の事実の本質的相異を見落すところの心情 倫理学は無能力者(Nichtk6nnende)の反情(Ressenti− ment)である。‘43)行為は心情から独立にその独自の 固有の価値を有するにもせよ,それは筒純正心情の価 値方向に於てのことである。行為と心情との本質必然 的規定関係は一種独特の実践的充実体験に於てのみ確 証される関係である。それ故に此の独特の体験的確証 関係は,行為の結果によるものでもなく,又行為を心 情に対する単なる相識根拠とするが如き理論的関係で もない。  第二に心情が意図形成の規定者であり,それ故に意 図の変化に於て筒持続的であるということは,心情自 身の特異の変化を否定するものではない。(44〕本来人 格の実体論的把握を排除してその作用性に於てのみ人 格を把握せんとする(45)シェーラーに於ては,若しも 心情の恒常性がその持続性ではなく不変固定性を意秘 するものであるならば,自己矛盾も甚しいといわなけ ればならないっそれは”人格の恒常性(ldentitiit)は人 格が全く他となること自身の質的方向に於てのみ存す る”(46>という意昧に於てである。換言すれば心情を, 新しい意図形成の結果や,その実現としての行為の結 果に帰することは,体験事実としての心情を見落した 結果倫理学の根本的誤謬である。例えば道徳的宗教的 回心現象に於てみられるが如く,心情の変化は入格を 一変し,その全生活に全く新しい価値方向を与え,そ して此の価値方向は意図形成や行為に対して一次的に して根源的な役割を演ずる。此の心情の変化は,根源 的変化としての心情転換であり,それは最:早や如何な る命令(Befeh1),如何なる教育的指示(erziehelische Weisung)によるも,また如何なる,宙、告(Rat)や如何 なる勧告(Beratung)を以てするも不可能であり,そ れはただ根源的には具体的模範(Vorbild)の愛との相 互愛に於てのみ可能であるoC47)此の意味に於て心情 転換はむしろ斜格的覚醒ともいわるべきである。カ ントもまた教授や教訓による教育的影響の人格形成に 対する無力を認め,人格形成は一次的には道徳的字配 にまつ外はないとし,’聖徳的教化は教化ではなくて (44) ibid. S.604 (45) ibid. S. 385 (46) ibid. S.400 (47) ibid. S.604−5

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徳化である”(48)とする。ヘルバルトの教育学説は,カ ントの心情概念を意志の持続的傾向に置換することに よって,輩固なる道徳的品性(Charaktersttirke der Sitt!ichkeit)の陶治を主張せるものに過ぎないQか様 の輩固なる道徳的品性は,教授によって方向付けられ, 訓練によってその強さを与えられ得ても,カントがい えるが如く心情転換は,か様の教授や訓練によっては         惹起せられない。何を意欲し,何を実現するかという ことは,筒教育によって可能であり得ても,それらの 根源者としての心情自身の変化は終極的には,ただ心 情の覚醍にまつより外には術もない。  第三に心情は意図や行為に対して筒持続的憧常性を 持っているものではあるが,それ自身は筒変化するっ それ故に心情のか様の持続性は,時間的持続とは全く 異なる瞬間の持続としての持続であり,不連続の連続 ともいうべきものである。従って心癖は遺伝的素質と しての恒常的傾向(konstante Disposition)とは何等 の聞係もない。か様の素質概念は,現象を説明するた めの仮定としての単なる補助概念にしかすぎない。心 情は現実の直観的所与性(49)に於ける体験事実として, か様の素質や傾向とは本質的に異なる。心管はショペ ンハウエルに於ける入間の生得的な道徳的基礎性格と もまた何等の関係もない。若しも心慮が種族や個人の 行為の単なる沈澱物であるならば,行為が教育の対象 たり得る限り,心情もまた教育可能となろう。か様の 見解は意志過程の構造に於ける段階秩序の顛倒であ るQ吾々は心中深く良心の苛責に懊悩しつつも爾一時 的には表面に於ては微笑の面を以てこれを隠蔽し得よ うとも,遂には懊悩は暴露せざるを得ないだろう。行 為は心情を隠蔽し切れない。心情は決して行為の沈澱 物の集積ではなく,逆に行為に浸潤し,これを滲透し, これを貫通する。それ故にこそ吾々は行為に於て心情 をも直観し得る。吾々は行為によって心情をではな く,よく了解した心情に於ては,此の心情によって行 為を再評価さえする。此の事実は心情が行為から独立 に且深層に位するものなることを示すと同時に,それ が帰納的推理の事柄でない直観の事実であることを示 すものであり,而もその明証性は帰納的確実性(in− duktive Gewissheit)ではなく,真実の洞察(wahre Einsicht)による確実性である。既の真実の洞察によ ってのみまた吾々は,病入に於ける彼の道徳的性格と その病的性格とを区別することが出来るし,従って 仮令実際にはそれが如何に困難であるにもせよ病気 (48)岩波カント著作集Bd. IZ教育学其他S.119 (49) F. S.116 (50) F. S. 120 (Krank)と道徳的悪(sittlich schlecht),健康(Gesund) と善(gut)とを判然と区別し得るのである。 四 意志過程と行為  心情に於ける一一・Pt独得の実践的充実体験としての行 為は,一体如何なる事実を指すのだろうか。狭義に於 ける行為は”意欲の内容の体験された実現一遂行 一である”(50)が更に厳密には,”意欲内容の行為に 於ける実現の体験”(51)と規定せられる。それは遂行 に先行する充実の体験的統一である。行為意欲の此の 体験的統一に於ける行為が,現実的に行為として身体 を通して遂行せられる。行為と行為の客観的因果過程 とを判然区別するものは此の充実体験で,此の体験に よってまた行為と行為の結果とも判然区別せられる。 此の意昧に於ける行為の遂行に於て意欲の内容が行為 の結果として初めて現実的に実現せられる。”結果は 此の遂行の充実としての客観的出来事(objektive Ge・ schehen)”(52)である。主体的行為と客観的因果系列の 単なる現象とを区別する此の充実体験の故に,行為は 独自の体験統一として,その固有の自己価値を有する のである。そして此の充実又は非充実(Nichterfitllung) は単なる意欲の遂行に於けるものではなく,行動意欲 に於ける体験である。此の両者に於ける相異は,道具 (Werkzeuge)と道具の使用に必要な手段(Mitte1)の相 異に類似している○  意志過程に於て最も重要な問題の一つは,意志内容 と行動の遂行内容とが如何なる関係を持っているかと いうことであり,今一つは意志内容と行為の対象, 即ち理論的経験の対象との区別に建て,実践的対象 (Praktische Gegenstand)と呼ばれるものとが,如何 なる関係を持っているかということであるQ  さて此の最初の問題をカント的に表現すれば,第一・ に各々の意志内容は結果によって規定せられるもので あり,それ故に実質的倫理学は,必然的に結果倫理学 とならざるを得ないということとなり,そして第二に, 此の結果の中で行為の内容となるものは,行為者に於 て生ずる快楽苦痛の感覚的感情状態であるということ になろう。(53)か様のカント的思惟の生じ来る根本的 根拠は,カントが無批判に英国流の連想心理学を前提 し,その批判の上に彼の先験的倫理学を打ち樹てよう としたからに外ならないQそれ故に彼の先天的倫理学 がまた必然的に形式主義とならざるを得ない結果とな ったのである。然しながらか様のカント的前提こそ, (51) ibid. S.127 (52) ibid. S.121 (53) ibid. S.122

(7)

正にシェーラ∼が極力拒否するものに外ならない。な んとなれば厳密な意昧に於ける意志内容は,結果内容 たることは出来ないし,叉行動意欲に於けるその遂行 内容は,行為の結果としての快楽苦痛の状態感胃の再 生産とは全く関係がないからである○意欲が一:方では 単なる努力(Aufstreben)から,他方に於ては願望から 区別される所以のものは,それが正に実現されるべき もの(Ein zu realisierender)としてあるということで ある。それが現実に実現される.ためには行動意欲を要 する。既の行動意欲(Tunwollen)は行動の意欲(Wol− 1en des Tuus)として意欲一般から区別せられる。そ して更に此の行動の意欲の実現のためには行動能力 (Tunk6nnen)を前提する。此の行動能力の領域に於 ける種々なる経験に制約せられて意志内容は現実的に 実現せられる。・カントは”或事をなすべしということ を意識するが故にそれをなし得る”(54)として,所謂当 為(Sollen)から能力(K6nnen)が演繹されるとするが, 能力を前提としない当為が如何に無意味であるかとい うことは,既述の如き蹟行者に救助行為を要求するこ とと同様である。此の行動能力の領域に於ける経験に 制約せられることによって,行動意欲は増進せられる        の よりも遙かにより以上阻害せられるQかくて吾々はか 様の経験的制約によって,行動能力よりも行動の無能 力を体験するQそれ故に行動能力は意志内容に対して 選択的であり,願望と意欲とを判然区別するものであ り,同時に行動能力は意志の発達に対する重要なる徴 標でもあるQ”凡ての心的発達成熟を示すところの一 次的現象は,行動領域に於げる意欲の制限である。成 人は子供や青年の想像的な夢一彼等にとっては決 して夢ではない一一を放棄する。そして意志の狂信 (Willensfanatismus抽こ替って,その要協(KomPro− mioses)が不断に高揚してくる。”(55)かくて”人は年 をとるに従って漸次慣習の奴隷となる”(56)のである。 ”経験は根源的意志目標の創造の積極的な源泉ではな くて,それに対する賢明な諦めの学徒である。”(57)  意志過程に於ける重要なる第二の問題は,意志内容 と行為の対象(実践的対象)とが如何なる関係を有する かという問題である。行為の対象は一般には,行為の 対象的関係項として,当の意志内容の実現せられるも のであり,此の意昧に側て意志作用の実現の規定者で ある。ところで此の意志作用の対象的関係項(実践的 対象)をカント的に表現すれば,それは”感覚的感情  (54)岩波文庫:カント実践理性批判S。51  〈55)F.S.125  (56)Scheller;Die Stellung des Menschen im     Kosmos.1930 S.34  (57)F.S.126 に於て体験される吾々へのその影響(Wirksamkeit)に よって,凡ての意志実質:(Willensrnaterie)を規定す るものであり,叉はそれによつそ惹起される感覚的感 情状態の再生産によって,凡ての意志実質を規定する ところのものである。”(58)か様のカント的見解に対し てシェーラーは実践的対象は第一には価値対象一般に よって,第二には行動意欲の,心情の価値実質によっ て基礎づけられていることを主張する。シェーラーに よれば,実践的対象は一次的には知覚や表象の対象で はなくて価値,叉は貨財として価値感得(WertfUhlen) に於て与えられる。(59)なんとなればそれぞれの力 帯(60)は皆野感得とその内容に基礎づけられるが,感 覚,知覚,表象の対象たる客観的形象内容(objektive Bildinhalt)にはi基礎づけられないから。それ故に雌の 理由から,何にかの意欲は,此の何にか価値の感得を 前提するということ,従って次には価値は決して此の 意欲の結果ではあり得ないということが明らかにせら れる。吾々の意欲を動かすものは,状態感情による反 作明ではなくて,感得に於ける価値実質である。人は 山開あるもののみを意欲する。それ故に意欲の変化 は,対象に於ける価値の感得の変化に依存するっ価値 物と価値態度との統一(61)に於て対象一般は,意欲の 実践的対象として実現せらるべきものとなるのであ る。実現せらるべき実践的対象は意欲に於ける抵抗体 験(Widerstandserlebnis)に於てのみ与えられる。そ れ故に慣用に従って,若しも対象という言葉に於て対 象の形象成素(Bildmoment)のみが意味せられて,そ の価値成素(Wertmoment)が意直せられないならば, シェーラーはむしろ存在一般に於ける存在の二つの併 列的所与として,対象(Gegenstande)と抵抗(Wider− stande)とを区別する。(62)此の抵抗体験は一種の充実 体験である。それ故に吾々が前に充実体験について述 べたことは同様にまた此の抵抗体験にも平野する。先 に述べた願望と努力とから意欲を区別するのは此の体 験である。抵抗体験は意欲に於ける行動能力に於て初 めて与えられる特殊の充実体験なのである。実践的対 象は,その価値実在性に於て此の意欲に茂て与えられ ている。それ故に意欲が実践的対象を構成する抵抗の 現象は意欲の方向に反するところの傾向である。そし て此の傾向の体験的出発点は,実践的対象を基礎づけ る価値対象である。 行動意欲の源泉はカントに於けるが如き吾々の経験 (58]) ibid. S.133 (59) ibid. S.34 〈60) ibid. S.26 (61) ibid. S.134 (62) ibid. S.135

(8)

に依存する感情状態ではなくて,価値心情に規定せら れる意欲が,一定の価値事態を実現せんとする際に体 験せられる抵抗である。それ故に行動意欲の内容を規 定するものは,意欲された価値事態とそれの抵抗の性 質とに依存する。此の行動意欲の主体としての意志が 即ち意図であるが故に,意図は願望の中にも,また純 粋意欲の中にも存しない。カントはか様の意図の内容 を帰納的経験に帰着せしめ,そしてか様の経験を更に 対象による影響としての吾々主観に於ける感覚的感情 状態に帰着せしめることによって,既に心情に於ける aprioriの価値方向を見落している。然し人間はカン トに於けるが如き単なる受動的存在たるにはっきない 存在である。むしろカントに於けるが如き感情状態 は,吾々の積極的意欲に於ける抵抗に依存するといわ なければならないQ単なる受動的存在はか様の感情状 態はこれを持ち得ようとも,これを意欲の対象とする ことは出来ないだろう。それ故に感覚的感清状態の強 度はまた,積極的意欲の此の抵抗体験の強度に依存し, 両者の間の関係は一種の力動的関係である。行動意欲 の意図内容を規定するものは純粋意欲に於ける此の抵 抗体験であって,行動の結果としての感覚的感情状態 ではない。  純粋意欲に於ける此の抵抗体験と行動意欲に対する 抵抗,即ち意図の遂行に於ける抵抗とは根源的に区別 されなければならない。事物の実在性は此の行動意欲 に於ける抵抗体験に於て初めて与えられる。端的に吾 々は,事物の実在性とは此の抵抗体験であるといえ得 よう。そして此の事物の抵抗体験に於て吾々は,熟憲 し決心し決意し,行為として身体運動を遂行するQ感 覚的感情状態は,既の身体運動によって惹起せられた 結某にしかすぎない。それ故にカントが既の結果とし ての感覚的感情状態を,既に意志過程に於ける意図形 成め段階に,更には心情の段階に於て求めたというこ とは,全くの誤りといわなければならない。  一体カントに於て意志の内容の規定者として拒否さ れる感覚的感情状態を惹起せしめるものとは如何なる ものだろうか。此のことについては改めて研究するこ とにして此処ではこれ以上論ずることは出来ない。        (1954. 9. 30)

参照

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