井上円了と福澤諭吉の目指したグローバル人材像と
は 新学科GINOSのTravel, Play, Dialogue教育でそ
のDNAを蘇らせる(平成29年6月6日学祖祭(第99
回忌)講話をもとに)
著者
今村 肇
著者別名
Imamura Hazime
雑誌名
井上円了センタ一年報
巻
26
ページ
3(362)-39(326)
発行年
2017
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009554/
1.「旅する創立者」井上円了が3度の世界旅行を通して目指した日本人への提言 東洋大学の創立者井上円了はその生涯において三度世界を巡り、福澤 諭吉の実学と同様に社会教育への哲学の応用を説き、1890 年から 1919 年までの 27 年間(海外渡航期間を除く)、日本中を講演して歩いた日本 のシティズンシップ教育のパイオニアである。それから実に 127 年あま り経ったいま、その DNA が現代に蘇ることとなった。これから、2017 年4月より開設された東洋大学国際学部グローバル・イノベーション学 科(GINOS)は、その 127 年前の本学設立の精神をいまに受け継いでい るものであり、なにより、Travel(旅して)、Play(演じて)、Dialogue(対 話する)の標語と「ひとと地球と対話する「哲学」の精神に、水平志向 のグローバルな才能を育成する」という方針に円了の精神が反映されて おり、まさに GINOS において明治期に創立者井上円了がめざしたグ ローバル人材像が実現されつつあるということをお伝えしたいと思う。 言い換えると、100 年以上前に井上円了が目指したグローバル人材像が、 現代においても決して古いものでなく、むしろ変化・流動化する現代に おいて必要とされる新しいグローバル人材像であることを、資料を基に 示していきたい。また、井上円了と同じく世界を訪ねて日本を外から見
井上円了と福澤諭吉の目指した
グローバル人材像とは
新学科 GINOS の
Travel, Play, Dialogue 教育でその DNA を蘇らせる
(平成 29 年6月6日学祖祭(第 99 回忌)講話をもとに)
今村 肇
た経験を通し、新しい日本の改革を説いた福澤諭吉と、両者の人材像の 共通点が多いことを資料をもとに比較し論じてみたい。 新学科を立ち上げる過程では、創立者の設立意図から学科のアイデン ティティ、レジティマシーを模索することはごく自然に行われることで あるが、そのなかで我々は、井上円了が明治の日本で目指した人材像と 新学科の目指す人材像の共通性をあらためて確認したのである。先ずそ れは明治 22 年7月第1回外遊帰国後に提示された「哲学館改良の目的 に関して意見 館主井上円了講演」の中で以下のように語られている。 「余今度欧米各国の大勢に接し哲学の進歩実況を熟視し哲学館の事業 について大に改良振起せんことを経画する所あり因て余今後の目的は全 力を此事業振起に尽さんと欲するなり」として、以下のような3つの点 をあげている。 第一に感じたる点は各国皆其国従来の学問芸術即ち其国の言語学、 文章学、歴史学、宗教学を講究して怠けたる事なく益々是を振起せん とすること切なり是れ大に其国の独立に関係あることにして一国を諸 強国の間に維持して独立を全うせんと欲せば必ずその国の言語、文章、 歴史、宗教を保護せざるべからず(後略) 第二に感じたる点は西洋諸国其国の学問芸術を十分に考究する外に 猶ほ余力ありて東洋学を研究すること亦盛んなり其学科中には印度学 あり、支那学あり、日本学あり、而して我邦にては自国従来伝ふる所 の諸学即ち印度学、支那学、日本学を専攻すること次第に衰え巳に今 日にありては其目的を以て立てたる学校なく其業を以て専門とする学 生らしき学生も無き程なり(後略) 第三に感じたる点は欧米各国の教育法は唯人の学力を養成するに止 まらず人物人品人徳をも併せて養成するなり、然るに我邦の教育法は 学校は学力のみを養成する処の様に考え人物人品人徳の教育は更に問
わざるが如し亦教育法の欠典なり(後略) すなわち、自国の独立に関わる従来の芸術、言語、歴史などの学問、 さらに余力をもって、東洋学、印度学といった今で言うグローバルな教 育、そして最後に欧米各国のように単なる学力の養成でなく、人物人品 人徳などを養成するべきであるとしている。これは現代的に言えばまさ に実学的グローバル・シティズンシップ教育である。 それはさらに、その後スタートした修身教会で目指したものとヨー ロッパのシティズンシップ教育との関連性が強いことに如実に表れてい る。修身教会の設立趣旨には次のような記述がある。「今後の教育と云 ふものは家庭と並びに社會教育だけは是れは寺或いは會堂で引き受ける と云ふ方針を執って學校教育だけで之で教育は濟んだと云ふ考でなし に」とあり、まさにいずれもそのベースには実学的シティズンシップ教 育・コミュニティ開発の考え方が見て取れる。さらに、『円了講話集』の 中の次の記述を読めば、井上円了が修身教会にかける思いが、三度の世 界旅行で触れた西洋のシティズンシップ教育に触発されたものであるこ とがわかる。 「わが日本も西洋の文明を入れてきたから、だんだん文物が進んだよ うだが、まだどうも全てのことが規模が狭い。それを大きくするとい うのには金がない。金のないのは、今日その辛抱と勉強というものが ないからである。それくらいな理屈はだれでもわかっておる。それは どこで教えるかというと、尋常小学でも教える。三年か四年かかって 卒業する。修身道徳の道も教えられ、教育のお勅語も授けられてはあ るけども、この卒業してしまうと、道徳の道の字もないようになる。 それが西洋人はどうかというと、学校を卒業すればその後は寺があっ て、倫理道徳の道を説き、それが一遍や二遍でない。毎週毎週に教え
るのである。・・・」 2.井上円了と福沢諭吉の共通性:学の実践 新学科の人材像模索の過程で遭遇した井上円了のグローバル人材像 そこで我々が発見したことは、井上円了と同時期に西洋に渡って様々 に見聞きしたものから日本人の改革を提言した福澤諭吉との共通性であ る。井上円了というと高邁な哲学の徒で、その主張も我々の手の届かぬ 所かと思いがちであるが、そうではなく実は福澤諭吉と同様に井上円了 も哲学の社会的応用、すなわち実学における哲学の実践を説いたのであ る。「哲学館同窓会報」にある以下の記述をみればそれは明らかである。 「本館教育の主義は先に一言せるが如く獨り哲學の理論を際ムルのみ ならず、哲學の応用を講ずるにあり、而して其應用は教育宗教の如き 直接の應用に限らず、間接に社會萬般の上に應用することを奨励し来 たれり、故に本館出身者中或は法律家となりしものあり、或は商法家 となりしものあり、或は工業家、或は美術家、或は軍人、或は醫士等 となりて、種々の方面に於いて活躍せるものあるを見る、余を以て之 を観れば、是れ皆哲學の應用なりと信ず。」 それは福澤諭吉の最も著名な著作である『学問のすすめ』の以下の記述 と比較すると、その根底に流れる実学実践の精神が共通であることがわ かり、同時にその文章の書きぶりにこの2人の創立者の社会へのはたら きかけ方のスタンスの違いもわかって大変興味深い。 「わが邦の『古事記』は暗唱すれども、今日の米の相場を知らざる者は、 これを世帯の学問に暗き男といふべし。経書・史類の奥義には達した れども、商売の法を心得て正しく取引をなすことあたわざる者は、こ
れを帳合いの学問に拙き人というべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執 行金を費やして、洋学は成業したけれども、なほも一個独立の活計を なし得ざる者は、時勢の学問に疎き人なり・・・その功能は飯を食う 字引に異ならず。」 なるほど福澤諭吉の軽妙かつ皮肉をこめて大衆に呼びかけるプレゼン テーションの術には、ひたむきに自らの思いを誠実に訴えようとする井 上円了と比べると一日の長があるかもしれないが、西欧を見聞して我が 邦のいかんともしがたい遅れに気づきつつ、それに怯むことなく立ち向 かおうとした気概には遜色なく、いまいちど評価されるべきではないだ ろうか。少し乱暴かもしれないが、以下に示す福澤諭吉の有名な「一身 独立一国独立」のくだりにみるような、大衆むけコミュニケーションの 手法に長けた福澤諭吉のアプローチと、全国を行脚して講演をすること でコミュニティの一人一人心に直接働きかけてその改良を促そうとする 井上円了のアプローチとの違いはあるものの、彼らのもつ当時の日本社 会に向けたメッセージの共通性にはあらためて驚かされるものがある。 「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。もとより国の政(ま つりごと)をなす者は政府にて、その支配を受くる者は人民なれども、 こはただ便利のために双方の持ち場を分かちたるのみ。一国全体の面 目にかかわることに至りては、人民の職分として政府のみに国を預け 置き傍らよりこれを見物するの理あらんや。」 続いて福澤は以下の記述において、日本(今川義元)とフランス(ナ ポレオン)の士民比較を展開し、独立の気力があってこそ国が支えられ るのだということを説く。
「昔戦国の時、駿河の今川義元、数万の兵を率いて織田信長を攻めんと せしとき、信長の策にて桶狭間に伏勢を設け、今川の本陣に迫りて義 元の首を取りしかば、駿河の軍勢は蜘蛛の子を散らすがごとく、戦い もせずして逃げ走り、当時名高き駿河の今川政府も一朝に亡びてその 痕なし。近く両三年以前、フランスとプロイセンとの戦いに、両国接 戦のはじめ、フランス帝ナポレオンはプロイセンに生け捕られたれど も、仏人はこれによりて望みを失わざるのみならず、ますます憤発し て防ぎ戦い、骨をさらし血を流し、数月籠城ののち和睦に及びたれど も、フランスは依然として旧のフランスに異ならず。かの今川の始末 に比ぶれば日を同じゅうして語るべからず。そのゆえはなんぞや。駿 河の人民はただ義元一人によりすがり、その身は客分のつもりにて、 駿河の国をわが本国と思う者なく、フランスには報国の士民多くして 国の難を銘々の身に引き受け、人の勧めを待たずしてみずから本国の ために戦う者あるゆえ、かかる相違もできしことなり。これによりて 考うれば、外国へ対して自国を守るに当たり、その国人に独立の気力 ある者は国を思うこと深切にして、独立の気力なき者は不深切なるこ と推して知るべきなり。」 一身の独立と実学の精神こそ国民が国を支え発展させる礎となる ここで福澤のいう「国を思う気持ちの深切さ」が、なにより「一身の 独立」と共存・補完的であるというところは、個人の修身教育を改良・ 再興し、哲学の社会的応用による職業実践を促して独立の気力を養おう とする井上円了の発想と実は全く軌を一にするものであり、この両者の 「国を思う気持ち」の文字通り「深切さ」が伝わってくるところである。 ただし、そこから先のメッセージの表現方法には二人の間にはかなりの 違いがある。それが端的にみられるのは、やはり一身独立一国独立のと ころで引き続き書かれている次の様なくだりである。
「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐 る、人を恐るる者は必ず人に諛うものなり。常に人を恐れ人に諛う者 はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを 恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。い わゆる「習い、性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に 改め難きものなり。譬えば今、日本にて平民に苗字・乗馬を許し、裁 判所の風も改まりて、表向きはまず士族と同等のようなれども、その 習慣にわかに変ぜず、平民の根性は依然として旧の平民に異ならず、 言語も賤しく応接も賤しく、目上の人に逢えば一言半句の理屈を述ぶ ること能わず、立てと言えば立ち、舞えと言えば舞い、その柔順なる こと家に飼いたる痩せ犬のごとし。実に無気無力の鉄面皮と言うべ し。」 当時一世を風靡していた西洋化の時流に、中身(すなわち哲学)が変 わらぬまま、うわべだけ乗る人たちを「鉄面皮」として酷評する福澤の レトリックは、明治期における最大の「コミュニケーション・デザイナー」 としての面目躍如たるものだが、実はこの福澤が指摘した日本社会にお ける巨大な精神的な「闇」に、個人からのボトムアップで光を当てよう としたのが井上円了の修身教会をはじめ全国行脚を通じて行ったもので あることは、上述の修身教会設立の趣旨の記述を見ても明らかである。 このように、井上円了と福澤諭吉の共通性は、福澤の「一身独立一国 独立」に対して井上円了が「独立自活」を説くというところにまさに象 徴されるのであるが、さらにそれに加えて「実学」の精神の重要性にも 触れている箇所が井上円了の記述にある。それは、奇しくも大学部の開 設を決め大学経営を学ぶために欧米視察旅行を敢行した間に「哲学館事 件」が起きた、その帰国直後「廣く同窓諸子に告ぐ」として同窓会報に
記載された以下の箇所である。 「・・・余此処に於て英國が如何にし斯る大國となりしかを知らんと欲 し、其原因は英國民の氣風性質の上にありと信じ、欧米中特に英國に 足を停むるに至れり、此滞在中視察する所によるに、英國民は實に獨 立自活の精神に富めるを知り、此精神によりて、世界第一の國人とな りしを知る、而して日本國民は最も此精神に乏しきが如し、故に余は 今後の教育に就きては此精神を養成せんと欲するなり、又英國民は實 用的國民にして一方に高尚の理論を究むると同時に他方に實際を忘れ ざる國民なり、是亦其大國をなせる一原因たるに相違なし、然るに我 國民は最も空想に走りて實際に疎き國民なり、故に余は今後特に實用 的方針を以て教育せんと欲す・・」 こうして、哲学館事件直後の困難な時期にも怯まず、井上円了は大学 部の開設に向けてスタートを切ったのである。このように、井上円了と 福澤諭吉とは、西欧への渡航を契機にわが国経済社会の改良すべき点に 気づき、実践を通じてそのことを訴えたということ、その思いの強さと いう点では両者は勝るとも劣らないといえよう。 井上円了のめざしたコミュニティとの対話によるシティズンシップ教育 いままであまりこういう文脈では語られなかったことだが、ここで私 が申し上げたいのは、井上円了が福澤諭吉と違って独自な点は、西欧の 市民によるボトムアップのシティズンシップ教育に気づいたところでは ないかということである。まさに修身教会の設立に奔走して全国講演を 行脚したというところは、以下に述べるとおり西欧的な「対話の精神」 「コミュニティ開発」の視点と合致しているのだ。 なぜそういうことに気づいたのかを説明するために、ここでもう一度
現在に戻り、新学科設立の方針を振り返ってみよう。新学科のキーワー ドは3つ、Travel(旅して)、Play(演じて)、Dialogue(対話する)であ る。また、設置構想の時点からキャッチコピーとして用いたのが「ひと と地球と対話する「哲学」の精神に、水平志向のグローバルな才能を育 成する」である。まさに「旅する創立者」井上円了を十分に意識した作 業ではあったが、その後さらに井上円了が現在の東洋大学に至る大学部 開設にあたって描いていた思いを探って行くにつれて、ここまで創立者 の理念とシンクロナイズしているとはまったくの望外の展開であった。 実は新学科のキャッチコピーを検討する段階で、どうしても入れた かったが全体の字数の関係で落とさざるを得なかった言葉がある。それ は「まち」であり、当初は「ひととまちと対話する哲学の精神に」とい うのが第一案であった。しかしグローバル・イノベーション学科という タイトルからしても、どうしても「地球」という言葉を入れる必要に迫 られて、「ひとと地球と対話する哲学の精神に」という現在のものに落ち 着いたという経緯がある。実は、広く「地球」をコミュニティとして捉 えて頂ければ「まち」というニュアンスも「地球」の中に入ってくれる のではという思いもあった。 これもまた多くの方にはなじみのない説明かと思われるので、ここは 簡単に井上円了の講演活動との関連性を指摘して詳細はまた稿を改めて ということで、井上円了の「修身教会」という考えと、フランスなどに 特有の地域発展の概念ÙDéveloppement Territorialßとの類似性に触れさ せて頂きたいと思う。このフランス語は英語に直訳すればÙTerritorial Developmentßだし、日本語に直訳すれば「地域開発」「地域発展」とい うことになる。しかし、どのフランス人に聞いても英語のそれとフラン ス語のÙDéveloppement Territorialßは決して同じものではないというの である。彼らのほとんどは日本語を解さないので後者の質問については まだ一度も聞いてない。まさに、これは安易に言葉を翻訳することの危
険性を示すと同時に、それぞれの言語の中に埋め込まれている各国・各 民族の社会・文化制度の価値はその言語の中でなければ正確に理解でき ないということの象徴的事例である。すなわちフランスにおいて ÙDéveloppement territorialßと呼ぶのは、単なる地理的な領域だけでな く地域に生活・活動する者たちの社会的関係も含めたフランス語圏独特 の「地域開発」「地域発展」の考え方なのである。それは、地域のステー クホルダーを意思決定と行動の枠組みに巻きこんで地域の競争力を拡大 するための自発的な参加によるフランス独特のプロセスなのである。 10 年後の東洋大学のあるべき姿に「旅する創立者」のグローバル人材像 を開花させるには さて、もういちど本学でグローバル人材をどう育成するかに戻りたい。 以下の図は東洋大学のスーパー・グローバル大学構想の目玉となってい る「東洋グローバル・ダイアモンド」の図を、その後学部・学科の設置
申請にあたって変更された学部・学科名を入れた形で修正されたもので ある。 まさに、このグローバル・ダイアモンドの「ボトムアップ」のところ が、井上円了の「修身教会」が目指したところではないだろうか。SGU (スーパー・グローバル大学)申請の際にはかならずしも明確ではなかっ たかもしれないが、井上円了の目指したのはボトムアップのコミュニ ティを通じたシティズンシップ教育による、日本の社会経済の全体的な 底上げの概念であり、それがほぼここに象徴されているのではないだろ うか。まさにこれは、福澤諭吉の『学問のすすめ』、井上円了の全国行脚 による「修身教会」の展開の両方が目指した共通の方向性ではないかと 思う。ただし、上の図で一つだけ違和感があるのは、ピラビッドの底辺 とダイヤモンドの最下点が同じというのはどうなのかということであ る。やはりダイヤモンドの最下点もまた「底上げ」されるべきと思うが、 それはまた東洋大学の SGU 推進の現実的な課題でもあり引き続き検討 しなければならない。 3.井上円了が西欧渡航で感知した世界のイノベーションとは そこで我々は、明治期に井上円了が目指したグローバル人材像は、は たして現代に蘇らせるとしたらどのような人材になるのかを考えてみる ことにした。まずは現在グローバル・イノベーション学科が考えている 人材像を簡単に整理してみよう。 ・グローバルな世界に飛び込んでイノベーションを起こす力 ・グローバルな世界を見とおして日本に居ながらイノベーションを実行 する力 ・自らの自立した生き方のためにも自分自身にイノベーションを起こす 力
・自宅の台所から地球規模までコミュニティの至る所にイノベーション を起こす力 それを一つにまとめたのが、「ひとと地球と対話する「哲学」の精神に、 水平志向のグローバルな才能を育成する」ということになる。いまこそ 総合的な知識と経験と問題解決能力を持った、グローバル人材が必要で あり、「旅する創立者」井上円了の目指したグローバル人材像を現代の文 脈に蘇らせた新学科における教育は、まさに時宜をえた井上円了教育の 現代への復活といえるのではないだろうか。以下にその根拠となる井上 円了が海外渡航で見たり感じたりした「イノベーション」のありさまを 整理してみよう。 世界旅行を通して円了が見た世界のイノベーションと日本 まずなにより申し上げたいのは、東洋大学の「旅する創立者」井上円 了の三度の渡航記録には、円了自身が各地で垣間見たイノベーションの 具体像が描かれており、哲学者としての井上円了が哲学の世界に留まら ず、広く哲学の社会・経済活動へ視点を持っていたということである。 井上円了は世界を三度巡るのと並行して、明治期のまだ私立大学設置 は厳しい環境のなか哲学館大学を創生し、当時として可能なあらゆるメ ディアを通じて、社会教育への哲学の応用を説いた。その最も中心と なったのが、日本全国を講演して行脚したことである。そのスタートは 第一回目の渡航から帰国して直後の 1890 年から、第三回目の渡航から 帰国した後も継続された。実に 1919 年までの 27 年間(渡航期間を除く) 日本中を巡って講演をし、その講演領域は日本のおよそ 60%にも達した とのことである。その講演旅行のなかで目指したことの中心には、三度 の渡航から発想したコミュニティとシティズンシップ教育の「修身教会」 であることはすでに述べたとおりである。
第一回目渡航(1888‐89)
America, England, France, Germany, Austria, Italy, Egypt, Yemen, and China
第二回目渡航(1902‐03)
India, England, Wales, Scotland, Ireland, France, Belgium, the Netherlands, Germany, Switzerland, America, and Canada
第三回目渡航(1911‐12)
Australia, South Africa, England, Norway, Sweden, Denmark, Germany, Switzerland, France, Spain, Portugal, Brazil, Argentina, Uruguay, Chile, Peru, and Mexico.
以下では『円了講話集』ほか円了の著作の中から、いかに井上円了が 西欧の渡航を通じて「イノベーション」を強く意識するようになったか、 それがよくうかがえるものを井上円了の著作から拾ってみることにす る。ま た、東 洋 大 学ÙBeyond 2020ßの 4 つ の 目 標ÙGlobalizationß、 ÙInnovationß、ÙCreativityß、ÙHuman Valueßや、それに従って現在展開 している GINOS のÙTravelßÙPlayßÙDialogueß教育はまさに井上円了 が渡航を通じて学び・感じた西欧のイノベーションから学びつつ日本独 自に展開しようとしたことと驚くほど符合することも合わせて示すこと にする。 冒頭にも述べたとおり、若干お恥ずかしいことではあるが、当初から 新学科の精神を考えるにあたり井上円了の目指したグローバル人材像を 詳細に理解し、明確に意識して作業をしたのではない。むしろ、新学科 設立作業の過程でグローバル人材像を独自に研究しつつ、三度の世界旅 行をした井上円了がどのような言及をしているかその著作を紐解いてみ たら、我々の目指していたものとの驚くべき一致と、彼の著作が与えて くれる様々なインスピレーションに、「旅する創立者」井上円了の 130 年
近くも前の言明が少しも古びておらず、それどころかその先見性と慧眼 とそしてなにより情熱は現代から未来において十分な影響力を持ってい ることにあらためて驚愕を覚えたというのが正直な経緯である。 再訪したロンドンの拡大ぶりに驚く 井上円了が西欧のイノベーションを観察した手法は、経済学でいえば 「二時点間比較」である。とりわけ彼は英国には三回の渡航を通じて必 ず訪れている。その間 10 年ないし 15 年ほどの間隔が開いているが、逆 にそれが以下にあるような産業革命を契機にしたロンドンの驚くべき変 貌振りを詳細に記述して感想を述べるなど、経済学者としても十分な観 察力を示した記述をしている。とりわけ『円了講話集』の 35「欧州所感」 に収められているロンドン市街地の拡大ぶりを、福澤諭吉の「西洋事情」 と同様、庶民の実感に訴えるような軽妙な記述をしているところが大変 興味深い。推察ではあるがおそらく井上円了も西欧のイノベーションの 進展の早さを目の当たりにして大きな感動を覚えたことが伝わる記述で ある。 「私は昨年十一月から、インドをはじめとして、欧米各国を巡回いたし ました、本年七月中にこちらへ帰りました。その巡回の日数は、八ヶ 月半ばかりになります。しかしその巡回した国々は、九カ国ほどでご ざいますが、一カ国としてはだいたいの日数はおよそ半月ないし一ヶ 月くらいなもので、そういう短歳月の間の巡回でございましたら、も とより十分の視察を遂げるわけには参りません。しかしながら今より 十六年前に、欧米各国を巡遊したことがございますから、今度は先年 の復習同様なわけで、歳月の短いわりには、いくらかみることができ たであろうとおもう。そこで、本日お話しするというのは、はじめ私 が漫遊しました十五、六年前と今日がどれだけ違っておるか、私の目
に触れたところの違いめだけを話して、それから進んで、その原因い ずれにあるというところまで話そうと思う。(中略)西洋各国は、すで に今日まで十分進んでおるから、このうえさらに進むということは難 しいように考えましたが、実際行ってみると、この近い十五、六年間 の変わり様は著しいように思う。」 「ロンドンは先年私が参りましたときも、世界一の都会であったが、今 度いってみますると今一層盛んなもので、人口の上で申しますると、 先年は四百万ということであったが、ただ今の人口は七百万というこ とであります。この東京は百五十万の人口とすると、ざっとその五倍 である。そうして市街の大きくなったところは、この前に市街の外と いわれておったところが、今では市街のうちになっておる。ただいま じゃロンドンの市街にはてがないということであります。・・・ロン ドンはあまり大きくなったので、日曜など散歩に出かけても、市街の 外へ出て見ることができない。あちらには人力がないから、馬車を 雇って遊びに出ずるに、市街の外まで行くことができない。市街の外 へ行くまでに馬が疲れてしまう。」 そのほか、スコットランドにかかっている立派な鉄橋をみての以下の様 な記述は、まさに全国を講演して歩いた井上円了の面目躍如たるもので ある。 「このスコットランドの北の方へ参りますと、海に鉄橋の架かった所 があります。これはなかなか大きいもので、世界第一の鉄橋だそうで す。その建設費が三千万円かかったということである。その鉄橋が田 舎であるが、田舎の鉄橋でさえそれくらいお金をかけてあるところを もっても、金がたくさんあるということがわかる。その金のたくさん
あるというについて、我々は一つ考えておかにゃならんことがある。 どうして、そうお金が多くなったかということに、西欧各国どこにいっ ても一目してわかるが、その金がどうしてできるかということは、わ れわれの研究すべきことであると思う。」 西欧に質素倹約の大切さを学ぶ 井上円了はこうした西欧と日本との距離に驚き、西欧で進んでいる経 済活動のイノベーションを日本にも起こすためには、経済活動を活性化 する投資と人材育成が必要であると説く。これはまさに経済的な投資促 進のため貯蓄を奨励し、さらに優秀な人材育成獲得のための人的投資を 促すという、まさに経済学の基本的なロジックを展開するのである。 「それはとにかく、そういう例から考えてみると、西洋各国がいかに金 に富んでおるかということがわかる。それについて、私はどうしてそ ういうふうに、金がたくさんになったかということを考えてみにゃな るまいと思う。それには種々ある。一とおりや二とおりではない。 第一、西洋各国の人種は質素倹約の国民である。その中でもドイツ人 が一番倹約である。ドイツ人の倹約は実に想像外である。」 「ドイツ人などはそういうふうに倹約しておるが、日本人ではそうは ゆかん。また、フランス人なんというと、こちらから考えると非常に 贅沢なように思うが、その実非常な倹約をしておる。フランスで金を 使うのは外国人で、土地の人は決しておごらん。人民の質素倹約とい うことは、到底日本人などの及ぶところではない。これが金の出来る 原因で、もう一つは忍耐力である。」 そうして、井上円了がたどりついた日本経済の投資を活性化することの
鍵は「質素倹約と人材育成とりわけ「忍耐力」の育成という結論であっ た。まさに貯蓄から投資へという経済学的発展である。 「人民の質素倹約ということは、到底日本人などの及ぶところではな い。これが金の出来る原因で、もう一つは忍耐力である。なにをやっ てもあちらの人は辛抱が強い。ことにイギリスなどは、世界各国に領 分や植民地を持っておる。そうしてわずか数十年の間に立派な国を開 いて暑くてもかまわず、寒くてもかまわず、赤道直下であろうが、北 極近いところであろうがかまわずして、勉強と忍耐とをもって国を富 ますというのが、西欧各国人の性質であります。」 ロンドンの手荷物預かりにみるイギリス人の正直さに学ぶ しかし井上円了はただやみくもにイギリスの資本主義に学んで、その 市場中心の経済発展による経済的なÙInnovationßの真似をすべきと主 張したのではない。同時にÙHuman Valueßの面もしっかりと観察して いるところが井上円了の面目躍如たると思われる。それはその後に続 く、ロンドンの手荷物預かりの、これも「二時点間比較」に基づく観察 からのものである。 「もう一つは、人間が正直であろうか不正直であろうかというに、人間 が正直で信用がある。一例をあげると、先年私が参りました際は、い ずれの汽車でも手荷物の合い札を渡したのであるが、今度行ってみま すると、先年より人口が多くなって繁盛になったから、もっと厳重に するかと思ったらそうでない。手荷物の合い札なんぞは廃してしまっ た。どこへ行ってもかまわん、着いたところで荷物を並べる。どれで も自分のものはお取りなさいと言う。それでも間違いはないというの である。この合い札をやめてから何年にもなるが、いまだ一遍も間違
いのあったことはないそうである。日本でそういうことでもしたら、 もう、すぐ取られてしまう。(中略)そういう金でなくて、自分の労力 で自分が勉強してもうけた金が、真実の金だというので、正直にはた らくということが、西洋人の特色である」 イギリスをはじめヨーロッパで拡大しつつあったキリスト教、とりわけ プロテスタンティズムに基づく資本主義精神の発達に気づくところは、 さすがに井上円了の慧眼である。 日本に金がないのは今日(きょう)の辛抱と勉強がないから そしてその分析のメスが日本に向かったとき、大変厳しいものとなる。 ただし批判するだけでなく、井上円了はその後の修身教会の構想に向け た、日本国民のシティズンシップ教育、あるいは西欧流の起業家精神の 涵養の必要性を説き始めるのである。すでに冒頭で引用している部分を 含めて以下の記述を参照されたい。 「また、妻を迎えると言っても、日本人のようにあてどもないようなこ とはしない。妻を迎えると自然子供ができる。子供があればどうした らよろしいといういことはわかっておる。多少の貯蓄をした後に、妻 を迎えるということだ。日本のはそうじゃない。妻があろうが子があ ろうがかまわんであるから、あちらでは貯蓄ということは非常に盛ん に行われておる。」 「わが日本も西洋の文明を入れてきたから、だんだん文物が進んだよ うだが、まだどうも全てのことが規模が狭い。それを大きくするとい うのには金がない。金のないのは、今日その辛抱と勉強というものが ないからである。それくらいな理屈はだれでもわかっておる。それは
どこで教えるかというと、尋常小学でも教える。三年か四年かかって 卒業する。修身道徳の道も教えられ、教育のお勅語も授けられてはあ るけども、この卒業してしまうと、道徳の道の字もないようになる。 それが西洋人はどうかというと、学校を卒業すればその後は寺があっ て、倫理道徳の道を説き、それが一遍や二遍でない。毎週毎週に教え るのである。・・・わが国では幸いに昔から仏教の上には、いかなる 片田舎でもそれぞれ寺がある。・・・これからわが国の将来は寺院を 教育にあてて、学校卒業の後は、毎週日曜にでも、互いに誘い合わせ て寺院に集まり、そうして今日われわれ人間としての心得べき道徳上 の訓戒を授ける。」 4.井上円了の漢詩にこめられた「学問」「イノベーション」「グローバリゼーション」 井上円了が折に触れて漢詩にみずからの思いを託したことはよく知ら れていることだが、ここではその中から、これまで議論した流れを象徴 するような「学問」、「イノベーション」、「グローバリゼーション」への 思いがうかがわれる漢詩を3つ以下に挙げさせて頂きたい。 (甫水井上円了漢詩集より) 「学問」について 題学問勧之文 坐臥書斎春日永 巻舒学問勧之文 説明人間同等事 貴賤賢愚在惰勤 (甫水井上円了漢詩集より) 学問の勧めの文に題す
書斎に坐臥すれば春日永し 巻は舒(の)ぶ 学問の勧めの文 説き明かす 人間同等の事 貴賤賢愚は惰と勤とに在りと 「イノベーション」について 試見文明世 ¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯ 日新又日新 水行依汽船 ¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯ 陸運用車輪 四海皆兄弟 ¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯ 天涯是比隣 昔時他界者 ¯¯¯¯¯¯¯¯¯¯ 今日一村人 (井上円了漢詩集:雑詠) 試みに文明の世を見るに 日々新たにして又日々新たなり 水行は汽船により 陸運は車輪を用う 四海は皆兄弟 天涯は是れ比隣 昔時は他界者なるも 今日は一村の人 「グローバリゼーション」について 欧州を一巡し、今日の盛況を見て賦したる一律あり 文運駸駸振古希 百工万学究精緻 波頭無軌車能走 雲上有船人自飛 開拓鬼神幽裏道 発明造化秘中機 喜我跋渉欧州野 満手拾振知識帰 (南半球五万里) 学問文化は急速に進むことはかつてない。各種の職人やあらゆる学問 は精緻をきわめ、波の上をレールもなく汽船にのせて汽車はゆき、雲
の上に船らしきもの(飛行機)があって人はみずから飛ぶ。神秘の奥 深いところに道をきり開き、造物主の秘中の機械を発明した。かくの ごときことどもを喜びつつ私は欧州の野を歩きまわり、両手一杯に新 知識を手にして帰ろうと思う。 5.井上円了が修身教会で目指した源泉としてのヨーロッパのシティズンシップ教育 井上円了が三度の渡航から受けた感銘は、その先見性と慧眼とそして なにより情熱によって大きな力となり、まずは哲学館の改良に、そして 地方への講演行脚とそれと並行しての「修身教会」の設立に向けた動き となっていくのである。 まずは哲学館の改良の宣言時はどのようなことを目指したかをもう一 度整理しておこう。 「余今度欧米各国の大勢に接し哲学の進歩実況を熟視し哲学館の事業 について大に改良振起せんことを経画する所あり・・・ 第一に感じたる点は各国皆其国従来の学問芸術即ち其国の言語学、文 章学、歴史学、宗教学を講究して怠けたる事なく益々是を振起せんと すること切なり 第二に感じたる点は西洋諸国其国の学問芸術を十分に考究する外に猶 ほ余力ありて東洋学を研究すること亦盛んなり 第三に感じたる点は欧米各国の教育法は唯人の学力を養成するに止ま らず人物人品人徳をも併せて養成するなり」 この志はその後井上円了が哲学館を去った後の全国行脚を通じて、シ ティズンシップ教育あるいは社会教育へとその中心が移っていく。以下 は、「家庭教育と社会教育は寺或いは會堂を利用せんといかんと思ふ」と 題された、「地方教育上の観察」(『円了講話集』)からの引用である。す
でに記したとおり、井上円了は西欧の日曜学校に注目をし、教会で市民 が集まってさまざまな教育を、学校卒業後も受けていることに大変強い 関心を示している。日本ではその教会に代わるものとして寺に注目した のは自然の流れであろう。 「今日のやうな學校の教師と云ふ者は學校の校内だけに於いて精力が あり、學校の門の外へ踏出すと勢力がないと云ふ有様では是では素よ り聯絡は出来ない。學校教師と云ふ者は其學校の中に居る生徒に對し てはそれは素より權力があるけれども、その學校を出てはと云ふと極 めて勢力のないものだ。是れでは素より家庭の教育だの社會教育だの に携わる譯に参らぬ。之を直さねばならぬと云ふに就ては唯學校の教 師ばかりを責める譯にはいかない。必ず學校の教師とそれから其の一 町一村の人民、此の双方から一つ改良していかなくてはならぬ。」 「是非とも今後の教育と云ふものは家庭と並びに社會教育だけは是れ は寺或いは會堂で引き受けると云ふ方針を執って學校教育だけで之で 教育は濟んだと云ふ考でなしに先づ家庭にあって父兄が子供を教育を 教育する上には、唯自分の家の汚い無規律の處で教育の出来るもので ないから、五日とか或いは一週間に一遍とか云ふものは、子供を連れ て寺へ行く會堂へ行くと云ふ習慣をつける、それから小学校を卒業し た中年以上の者は互ひに集るにも料理屋へ集ると云ふことをせずに寺 へ集り、或は會堂へ集るやうにして、さうやつて段々この學校以外の 教育の改良方針を執ったならば、随分地方の風俗習慣などを矯正する ことは容易い事だらうと思ふ、西洋などで見ますると云ふと、學校以 外の教育と云へば寺に引き受けてある。(以下日曜学校の記述中略) 此の寺には青年協會だの婦人協會だのと云ふものがあって、是が家庭 教育社會教育を引受けて居る證據である。」
これだけでは少々文章が難解で井上円了が意図したシティズンシップ 教育の内容が伝わらないと思うので、以下に東洋大学ホームページにあ る「社会教育への挑戦「全国巡講」の旅へ」の箇所が、大変わかりやす くしっかりと史実に基づいて構成されているので、それを引用させて頂 く。 「「私立東洋大学」に名称変更した明治 39 年(1906)、井上円了が設立 した学校は、大学・中学・幼稚園と発展していましたが、突然すべて の学校から一切身を引いてしまいます。そして3度目の全国巡回講演 の旅に出ます。「哲学館」創立から 19 年、井上円了 48 歳の時でした。 この「全国巡講」は、2回目の海外視察で訪れたイギリス各地の大学 教育、社会教育に触発され、「言論の自由」「人格の尊重」「社会道徳」 を軸に組み立てられたもので、社会教育や生涯学習の広範な普及を目 指したものでした。 この巡講では、午前中に移動、午後に講演、そして夜は揮毫と過酷な 毎日で、講演会は仏教関係者や行政・教育関係者が主催し、寺院や小 学校で行われました。 明治の官尊民卑の時代に、日本人の精神の向上を目指し、無位無官で 人々に哲学を説く学問のあり方を、井上円了は自ら「田学」と称して います。生活の中での学問「田学」があらゆる人々が好む「田楽」に 通じることを一般民衆に説くこの旅は、大連(旧満州)で客死するま で続きます。 演題は 40 題におよび、勅語、修身、哲学、宗教、教育、実業、迷信、 妖怪、西洋の実情、海外移民の近況など多岐にわたり、全国 5291 回の 講演で 130 万人以上の人々が井上円了の哲学を基礎に置いた「ものの 見方・考え方」に触れています。」
またその後、大連(旧満州)で講演中に倒れて、61 歳で井上円了が没し た際には、 「その訃報が米国の AP 通信によって世界に配信され、ニューヨーク タイムズは井上円了の逝去を悼む記事を掲載しています。そこには 「井上円了博士 著名な日本の心理学者 満州(大連)に死す」とあり、 「仏教哲学者である円了は、東京の哲学館の創立者」として紹介されて います。この記事は井上円了が生涯をかけて訴えたものに世界も注目 していたことを教えてくれています。」 とある。まさにグローバルな「旅する創立者」井上円了の生涯であった ことが象徴される事実である。 6.何が日本に足りないか?井上円了の実現したかったもの。現代の文脈で説き明かす 日本を変えるために井上円了が注目し、生涯をかけてとりくんだシ ティズンシップ教育、とりわけそこから展開される討議力・対話力・社 交力といったグローバル人材としての基本的な能力の養成は、現代の日 本においてもいまだ実現に至っておらず、むしろその緊急度は当時より もさらに高くなっており、まさに喫緊の課題といえよう。 これまでの日本社会や経済において最優先とされてこなかった、欧米 的なÙCitizenshipß(以下「シティズンシップ」とする)の文脈を源流と する「討議力」「対話力」「社交力」といった要素を日本の社会・経済組 織、とりわけ本来はそういった点は「自家薬籠中」と自負するはずのサー ドセクターと呼ばれる、NPO・社会的企業・協同組合などから、広く営 利企業や政府・地方自治体まで展開して、井上円了の志したシティズン シップ教育・グローバル人材教育の必要性が高まっていることを、以下 では考えてみたい。
欧米的な、市民によるボトムアップの「公共」的感覚による絆のスキ ルを考える上でもっとも障害になるのは、日本人の「公共」に対する考 え方の違いである。 福澤諭吉(1871)、ベストセラー『学問のすすめ』には、日本人の公共 の感覚に対して「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」として、 以下のような注意喚起がなされている。 「もとより国の政(まつりごと)をなす者は政府にて、その支配を受く る者は人民なれども、こはただ便利のために双方の持ち場を分かちた るのみ。一国全体の面目にかかわることに至りては、人民の職分とし て政府のみに国を預け置き傍らよりこれを見物するの理あらんや」 福澤の例をあげるまでもなく、日本の言語体系の中には、欧米と違う 「公共」の感覚が埋め込まれている。すなわち、英和辞典でÙPublicßを 引けば通常「公」「公共」は最上位の訳語として登場する。しかし、この ÙPublicßと「公共」をそれぞれの国の言語体系に引き戻してその意味を 探るとまったく異なっていることがわかる。 Longman contemporary では、
Public (n.) Ordinary people who do not work for the government or have any special position in society
Public (adj.) Relating ordinary people who do not work for the government or do not have important jobs; Relating to the government and the services it provides for people
とあり、名詞でも形容詞でもごく普通の人々という意味が前面に登場す る。しかし、広辞苑などで日本語の「公」の意味を引くと、
①おおやけ。朝廷。官府。国家。 ②社会。世間または衆人。おもてむき。 ③主君。諸侯。貴人。 等と出てきて、ここではかろうじて②の意味は英語に近いものの、主と して国家や主君と言った普通の人々という意味とはかけ離れた存在を意 味することが多い。 それでは、日本において西欧的な一般的市民によるボトムアップの「公 共」を目指さなかったかというと、しばらく前に政府主導で目指したこ ともあったのである。それが、鳩山由紀夫内閣による「新しい公共」の 提唱であった。2009 年 10 月 26 日鳩山首相所信表明演説での「新しい公 共」とは以下のようなものとして提唱された。 「人と人が支え合い、役に立ち合う「新しい公共」の概念 「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人た ちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医 療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加し ていただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観で す。 新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政 治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するという ものでもありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念を育み 発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り 戻すことができるのです。」 これはまさに、人口減少・高齢社会において、これからの「社会的サー ビス供給の質と量」と「サービスを供給する人の生きがい・働きがい」
の両立は、福沢諭吉の指摘以来の、日本人「ひとりひとり」と「公」と の関係を変えることなくしては実現されないという、西欧的な市民社会 を一つの理想とするものであった。まさにそこには、ボトムアップから 社会的サービスを作り出すという、市民からのイニシアティブによる子 育て・介護などの社会的サービスの供給体制の整備と、その前提となる 協働のための「対話力」「討議力」「社交力」を育てることを目指したも のであった。ただし、残念ながら民主党の政権内でもその後「新しい公 共」の体制づくりは次第に減衰し、民主党政権の崩壊とともに多くの国 民の記憶から忘れ去られようとしている。はたしてこの西欧的ボトム アップの市民社会型公共概念がいまだに十分理解されないのは、政権の 崩壊によるものだけなのだろうか。以下においては、それが日本の経 済・社会の発展がたどってきた「経路」(path)によるものであるという ことを示して、日本において、市民社会組織からのボトムアップによる 西欧型の水平的連帯からの絆の形成には課題と限界が見えてくる。 国際比較すると顕著となる日本の労働意欲の高さと起業家精神の欠如の 不均衡 強力な人材育成装置としての内部労働市場を持つ日本企業を基軸とし て経済成長を実現してきた日本社会において、その「特徴」ゆえにボト ムアップの自律的起業家精神の育成装置としては極めて不十分なもので あったと言わざるを得ない。 アメリカ合衆国やヨーロッパの NPO・社会的企業で働く人たちのよ うな起業家精神と高度な国際的専門性を持った人材が、日本における同 様の組織(NPO・非営利組織、民間営利企業、金融機関、政府組織など) に十分に存在することが期待できるのか。もちろん個々の事例を見れば 意欲が高く、能力を十分に持った人材がいることは間違いないが、国全 体で見た時の比較とその連携の点では現時点では悲観的にならざるを得
ないデータが少なくない。 例えば、スイスの IMD 世界競争力センター(WCC)の世界競争力ラ ンキングにおける日本の順位は、2014 年の数字で先進 60 カ国中以下の とおりである。ビジネス効率 17 位、労働生産性 26 位、サービス生産 性 21 位と、経済・ビジネス活動の効率性についてはほぼ中位の数字を 示しており、これらはバブル崩壊前の 1980 年代にはトップクラスにあっ たものが、ここまで評価を下げている。 さらに、労働の意識面に関しては、労使関係 2位、勤労意欲 6位、 リーダーの社会的責任 3位と依然として高い位置にある。しかし、目 を転じて組織に依存しない個人の自発的意思決定、国際的な経験・能力 となると、管理職の起業家精神 55 位、国際経験 59 位と比較対象国中 ほぼ最下位に落ち込んでしまう。 ヨーロッパの文脈では、社会的企業の制度化による地域・領域の開発 は公共政策の中に位置づけられている。その事例は、昨年のフランスに おける社会連帯経済法による NPO・社会的企業・協同組合を公共政策の フレーミング(枠組み化)の中にしっかりと位置づけたことをあげなけ ればならない。 なぜヨーロッパには存在して日本にはまだ足りないのか。井上円了の目 指したもの すでにあげたフランスにおける、Développement territorial(デベロッ プモン・テリトリアル)と呼ぶ、単なる地理的な領域だけでなく地域に 生活・活動する者たちの社会的関係も含めたフランス語圏独特の「地域 開発」「地域発展」の考え方は、少し具体的すぎるかもしれないが、自治 会に入った方がいいのか会費が高いので辞めようかと思うという悩みに 終始する日本の地域社会への意識とは対照的な概念として紹介しなけれ ばならない。これこそはまさに井上円了が展開しようとした、修身教会
による地域コミュニティへの自発的参加を醸成するシティズンシップそ のものである。 これは、ある意味で「企業社会」と呼ばれる、日本の大企業中心に依 然として支配的な「メンバーシップ型社会」(濱口敬一郎(2013))の中 では、それに対して欧米中心に行われている「ジョブ型社会」に比べる と、仮に労働意欲は高くても、個々人の自律的な意思決定や、特定のス キルや経験に特化したキャリア意識は育ちにくい危険がある。 また、Estévez-Abe(2003)も指摘しているように、社会福祉サービス の供給システム自体が官庁によって縦割りになった「トップダウンで制 度化された」システムであるために、市民レベルからボトムアップで立 ち上がった NPO・社会的企業を積極的に生かして取り込むという「法制 度のフレーミング(フランス語では Encadrement、元々は額縁に入れて 絵などを飾り引き立てること、転じて市民の自発的な組織活動を公共 サービスの供給の法制度の中に取り入れて強化すること)」とは違った 成立過程をたどっていることなどが関連する。 本来であれば、ヨーロッパのような討論的民主主義のもとで、自然な 帰結としてコミュニティの連携が成り立つのが理想であるが、ヨーロッ パにおいては長い歴史と時間をかけて、シティズンシップ教育や対話志 向の教育システムが構築・維持されている点が決定的に日本と違う点で ある。別の言い方をすれば、有識者階級ともいうべき人材が日本のよう な企業社会における人材とは独立に厳然と存在することが、市民による 「コ・プロダクション」を考える上では決定的である。その要素は、1. 人間関係、2.コミュニケーション、3.無形労働、4.知的資本などであ る。 また、Laville(2007)(日本語訳は 2012)がいうような、近隣公共空間 の明確な意識化とその醸成は、これもまた日本にとっては得意とすると ころではないように見える。その中身は、1.社会経済的なステークホ
ルダーが向き合い交渉する場所、2.連帯的サービスを構築する際の一 つの方法、3.部門間の調節の場、経済論理の複数性を承認する場、など であるが、これは公共空間のネットワーク化が多元的に進行するために 不可欠な要素でもある。すなわち、代表が必ずしも一人の人間で具象化 されないことと、ある活動の実現のために各ステークホルダーが動員す る人間関係に応じて複数の人によって具象化されること、また、集団へ の加入は必ずしも会費納入を前提としないといった形で実現されつつあ る。 一方で、日本における仕事に関するパーソナル・ネットワークの貢献 は、これまで労働経済学でいうところの分厚い「内部労働市場」の存在 によって確保されてきたところである。こうした石田光規(2009)の 「キャリアの成功と社会関係資本」の主張や、沼上幹ほか(2007)の「組 織の重さ」の研究などは、営利企業組織とサードセクター組織の連携を 考える上できわめて重要である。とりわけ、沼上は「組織の劣化度」の 検証を行っているが、その際劣化度の指標として、1.過剰な「和」志向、 2.経済合理性から離れた内向きの合意形成、3.フリーライダー問題、 4.経営リテラシー不足の4つをあげている。いますぐにサードセク ター組織の「重さ」に応用できる枠組みではないにしても、同様の文化 的制度的要素を持つ日本のサードセクター組織が、なぜ水平的な「連帯」 を実現しないのかを解くには欠かせない視点である。 一方で、これまで日本人が培ってきた「協力」あるいは「チームワー ク」といった、必ずしも経済的な結果のみによらないより精神的な満足 の要素に着目しているのが、Benkler(2011)(日本語訳は 2013)である。 彼の協力による連帯感と社会的アイデンティティの要素は、1.人間化、 2.共感、3.共通アイデンティティ、4.ウィキペディアのような非報酬 型貢献評価、といったものである。
7.トップダウン型「企業社会」とは異なる市民の自発的意思によるイノベーション 忘れてはならないのはこれまで日本人が社会とのつながりを維持する 上で重要な役割を担った企業というコミュニティが果たしていた役割の 重要さである。もういちど井上円了が海外渡航から帰国したときの志を 振り返ってみると、そもそも「質素倹約」「忍耐」といった西欧的資本主 義の基本に学ぶべきと言っているものの、同時に英国人の正直さなどの 人間的・社会的価値にも同時に重きをおいているのが井上円了の特徴と いえる。まさに、東洋大学の掲げている Beyond 2020 のÙGlobalizationß、 ÙInnovationß、ÙCreativityß、ÙHuman Valueßの全てを網羅した、経済と 社会のバランスの取れたイノベーションを目指していたと考えられるの である。 つまり、「企業社会」というのはすでに述べたとおり高度成長期の日本 においてそれまで日本社会の中心を占めていた農村における地域とのつ ながりを持った「互助社会」から、多くの労働力を都会の企業に吸引を してそれにかわるコミュニティを、居住地におけるコミュニティとは切 り離した形で形成したものである。したがって、最近に至って4割を越 えようとしている非正規労働者が雇用の内訳を占めるに至っては、それ まで社会との紐帯として機能していた企業から切り離されて人々が孤立 する「無縁社会・孤立社会」が拡大しつつあるということであり、それ を依然として「企業社会」に求めることは不可能なのは明らかである。 これまでの企業社会に代わる、個人が社会とつながりをもつための空 間、あるいはコミュニティについては、フランスやカナダのケベック州 において地域的紐帯の形成におけるコア概念としてのÙDéveloppement territorialßは重要な参考となるだろう。これは言い換えればラヴィル (2012)の言う「近隣公共空間」であり、これまで日本が企業社会に移行 する過程で遺棄してきた地域における対話を通じた市民の参加による公 共的広がりのことである。これは、人間が交通手段を使って随時移動で
きる程度の中小の都市が複数程度の領域で、人々が自発的に自らの住む 地域を維持・発展するために、協調的な方法で多くのステークホルダー との対話を実現しつつ様々な経済活動・社会活動を行うもので、ここで はその紹介にとどめておく。 まさに企業活動が我々の日常生活にしっかりと埋め込まれていること が、あえてここで自分たちが世の中を変えるために具体的に行動をする という、これまでも言い古されてきたことをここで繰り返す理由である。 フレイレ(2011)には、「被抑圧者が抑圧者は抑圧者なのだとはっきり発 見し、自らの解放のための闘いに従事しようとするときにのみ、抑圧的 な体制との「共生関係」を克服することができ、自らへの信頼もつくら れるようになる。」という記述がある。これを、これまでの日本における 企業を中心とした雇用制度に置き換えれば、長い間慣れ親しんだ制度と いう相手の見えない抑圧との「共生関係」を自らの意思で変えようと「闘 い」を挑まない限り「解放」はあり得ないということになる。 またフレイレ(2011)では、「だからこそ私たちは被抑圧者に心からの 信頼を置くことが大切なのだ。このような信頼が欠けていると、対話や 省察や言葉を分かち合う本当の意味でのコミュニケーションという理想 をあきらめざるをえず、つまらないスローガンや一方的な伝達や、知識 の注入や、指図ばかりを行うことになってしまう。人間の自由、開放に 中途半端なかかわりを持つことの危険はこのあたりにあるといえよう。」 と、信頼をベースにした対等なコミュニケーションの必要性を説いてい る。ただし、日本における企業での終身雇用を前提とした「タテ社会」 (中根千枝(1967))的な縦割りのコミュニケーションが主体の社会では、 フレイレのいうような同じ問題を抱える者たちが、企業や組織という境 界を越えて、信頼のあるコミュニケーションを築くことは依然として簡 単ではない。 複合的なスキルと経験の両方を持った人材が、NPO・社会的企業、政
府・地方自治体、営利企業のそれぞれにプロジェクト推進に十分なだけ 調達・養成しなければならない。ただし、現状ではこういったよりマク ロ的な視点をもった人材を日本の雇用制度・労働市場で得るのはきわめ て難しいかもしれない。それがまさに井上円了の目指した「グローバル 人材像」、さらにはコミュニティとの対話を通じたシティズンシップ教 育をしっかりと現代、そして未来に受け継いでく中核としての東洋大学 の役目ではないだろうか。とりわけ SGU を機会に大きく展開された各 学部、就中「国際学部グローバル・イノベーション学科」、そしてそれに 呼応するシンクタンクとしての「グローバル・イノベーション学研究セ ンター」が井上円了の目指した人材像を継承して現代に蘇らせ大きく展 開していくという役割への期待を強く感じるところである。 8.井上円了を通じて明治のイノベーションの心意気を現代に蘇らせる ここまで、グローバル・イノベーション学科設立準備をきっかけに井 上円了のめざすグローバル人材像に着目し、奇しくもそれが学科の基本 方針として描いていた人材像との共通性を多く持つことに驚き、もうい ちど「旅する創立者」のめざした人材像に立ち戻って考えたことを資料 を整理しながら論じてきた。 思えば井上円了の生きた時代は、明治の中でももっとも多くの人材を 輩出した、壮大な日本におけるイノベーションの黄金期であり、そういっ た同時代人と交わりつつ、あるいは支えられつつ東洋大学の前身哲学館 大学を創立し、また全国の協力者の助けを得て講演行脚をしたというこ と、そうした同時代人すべての心意気を忘れてはならないのではないか。 色川大吉(1995)によれば、井上円了は「明治青年の第二世代」の中 核の一人であり、誕生日の近いものをあげただけでも、同世代にこれだ けの人材が列挙される。 (宗教)1858 年、植村正久・井上円了、1861 年、内村鑑三、1862 年、新
渡戸稲造、1870 年、鈴木大拙 (文学・演劇)1859 年、坪内逍遙、1862 年、森鴎外、1864 年、川上音二 郎、二葉亭四迷、1867 年、夏目漱石、尾崎紅葉、正岡子規、幸田露伴・・・ (美術)1862 年、岡倉天心、1853 年、原田直次郎、1864 年、竹内栖鳳、 1866 年、黒田清輝、1868 年、横山大観・・・(後略)。 こういった蒼々たる同時代人の中で、井上円了が息づき、羽ばたいて いたことに我々はもう一度しっかりと思いを寄せ、経済だけでなく社 会・文化の一大発展期であった明治時代中期、まさに東洋大学が生まれ 育っていった時期の活力をいまいちど現代に蘇らせる、新学科のグロー バル・イノベーション学科、それのシンクタンク・パートナーとしての グローバル・イノベーション学研究センターが一つの触媒となって、見 違えるような東洋大学の 10 年後を迎えられたらと思う次第である。 最後に、本文の一つの柱となっている福澤諭吉と井上円了の関係につ いて、慶應義塾の側からも強力な裏付けを頂いた記録を発見したので、 それを掲載させていただき本稿を閉じさせて頂くことにする。東洋大学 が 2008 年 10 月 18 日に「井上円了生誕 150 周年記念講演会『井上円了と 福澤諭吉』」と題する講演会を開催した際、慶應義塾福澤研究センター所 長、小室正紀氏より頂いたメッセージ中の一部である。 「(前略)井上博士と慶應義塾の創設者福澤諭吉は、日本の近代に立ち 向かったという点で、深いところで強い共通性をもっているからです。 東洋哲学に日本の近代化の基礎を求めた井上博士と欧米文明を模範と した福澤諭吉とは、正反対の思想家であると考える方も多いと思いま す。しかし、それは皮相的な見方です。 井上博士は、なによりも個々人の哲学を、近代の基礎と考えられま したが、拝金宗の教祖のように言われる福澤も、実は、主著『文明論 之概略』で論じているように、真の近代化の鍵を「精神」に置いてい
ました。慶應義塾での講義に関しても、福澤は明治の初期に、経済学 の講義は高弟小幡篤次郎に任せ、それ以降は、本人は主にウェーラン ドの『修身論』を講義したと言います。また、福澤が唱えた「実学」 は、往々にして、実務学と誤解されがちですが、これは誤りです。「実 学」は、「虚」の学に対する「実」の学を意味します。権威ある古典的 教説を盲信する虚学に対して、実証的学問を「実学」して唱道したの です。このことは福澤が「実学」にサイエンスと振り仮名を付けてい ることからも明らかです。 このように考えてみると、井上博士はサイエンス(近代の科学的学 問)の方法で東洋哲学を深く考察し、福澤は、同じくサイエンスによ り欧米文明を考察したわけです。そして、この明治の二人の巨人は、 ともに我々の社会を支える「精神」を求めていました。 しかも、このように井上博士と福澤が同じ前線で戦った背後には、 さまざまな共通性があります。両人がともに、官職、位階を求めず、 無位無冠の思想家として生涯を通したことは、われわれが銘記すべき 共通性でしょう。」 また、同氏は井上円了の出身地である長岡藩からは、藩の大参事として 維新後の長岡を指導した三島億二郎が福澤の思想に共鳴し交流が密で あったことなどにより、多くの人材が慶應義塾に集ったことをあげてい る。長岡からの入学者の中には、後に慶應義塾で塾長を務めた藤野善蔵 や蘆野巻蔵がおり、慶應義塾と長岡とのつながりの深さに言及している。 さらには、井上円了の学問の出発点である長岡洋学校は、三島億二郎 たちが福澤諭吉の指導を受けて開設したものであり、その創立二年後に 井上円了が入学した頃であることに触れ、 「井上博士が入学したのは、創立二年後の明治七年のことですが、この