『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 : 翻刻・斎
藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』
著者
膽吹 覚
雑誌名
福井大学教育地域科学部紀要
巻
6
ページ
1-21
発行年
2016-01-14
URL
http://hdl.handle.net/10098/9539
はじめに 『 玉勝 間 』 は 江 戸 中 期 の 国 学 者 、 本 居 宣 長 の 随 筆 集 で あ る 。 村 岡 典 嗣 氏 は 岩 波 文 庫 版 『 玉 勝 間 』( 昭 和 九 年 刊 ) の 解 説 にお い て 、『 玉 勝 間 』 に 収 録 さ れた随 筆 を 、 そ の 内 容 から 見 て 、 ① 古 語 古 文 の 訓 詁 釈 義 、 ② 地 理 歴 史 の 考 証 、 ③ 古 書 記 録 類 から の 抄 出 、 ④ 当 時 の 人 々 の 聞 書 き 、 ⑤ 自 己 の 就 学 の 履 歴 、 ⑥ 儒 仏 に 対 す る 論 議 、 ⑦ 学 問 に 対 す る 見 解 、 ⑧ 宗 教 的 信 仰 を 説 い た も の 、 ⑨ 趣 味 を 説 い た も の 、 ⑩ 教 訓 談 、 の 十 種 類 に 分 類 し て い る 。 勿 論 、 ③ 古 書 記 録 類 か ら の 抄 出 の 後 に ① 古 語 古 文 の 訓 詁 釈 義 を 述 べ た 章 段 も あ り 、『 玉 勝 間 』 に 掲 載 さ れ た 随 筆 を す べ て 、① ~ ⑩ の カ テ ゴ リー に 重 複 な し に 分 類 す る こ と は 不 可 能 で あ る が 、 村 岡 氏 の 分 類 は 『 玉 勝 間 』 の 全 体 像 を 把 握 す る に は 有 効 で あ ろ う 。 そ こ で 、 本 稿 では そ の 中 か ら 、 ④ 当 時 の 人 々 の 聞 書 き ( 以 下 、 聞 書 き 章 段 と 記 す ) に 焦 点 を 当 て て 考 察 す る 。 1 聞書き章段とは 村岡氏は『玉勝間』に掲載された随筆を、その内容から前掲の十 種類に分類したが、彼はどの章段がどのカテゴリーに属するかを具 体的に明示しておらず
―
これは前述の通り二つ以上のカテゴリー に跨る随筆もあるためと考えられる。―
、本稿で考察する聞書き 章段についても、具体的にどの章段を指しているのかは不明である。 し か し、 『 玉 勝 間 』 を 一 読 す れ ば、 そ こ に 宣 長 が 他 人 か ら 伝 え 聞 い た情報を編集して紹介し、時にそこに自らの所見を添えた形式の随 筆 が 散 見 さ れ る。 そ の 一 例 と し て「 に ふ な ひ と い ふ 雀 」( 巻 三 ) を 掲出する。 にふなひといふ雀〔一三〇〕 尾 張 ノ 国 人 の い は く、 尾 張 美 濃 な ど に、 秋 の こ ろ、 田 タ ノ モ 面 へ、 廿 三十ばかりづゝ、いくむれもむれ来つゝ、稲をはむ、にふなひ * 福井大学国際交流センター『玉勝間』の聞書き章段に関する研究
―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』―
*膽
吹
覚
といふ小鳥あり、すゞめの一くさにて、よのつねの雀よりは、 すこしちひさくて、嘴 ハシ の下に、いさゝか白き毛あり、百姓はこ れをいたくにくみて、又にふなひめが来つるはとて、見つくれ ば、おひやる也、此すゞめ、春夏のほどは、あし原に在て、よ しはらすゞめともいふといへり、宣長これを聞て思ふに、入 ニフナイ 内 雀 スズメ といふ名、実方 ノ 中将のふる事にいへる、中昔の書に見えたり、 されどそれは附 ヒキヨセゴト 会説にて、にふなひは、新 ニヒナヘ 嘗といふことなるべ し、新 ニヒシネ 稲を、人より先 キ に、まづはむをもて、しか名づけたるな るべし、万葉の東歌にも、新嘗をにふなみといへり、又おもふ に、稲 イナオホセ 負鳥 トリ といふも、もし此にふなひの事にあらざるにや、古 き歌どもによめる、いなおほせ鳥のやう、よくこれにかなひて 聞ゆること多し、雀はかしかましく鳴 ク 物也、座たゝきは、かな へりとも聞えず、 宣長は「尾張国 ノ 人」から「にふなひ」という雀の一種について、 次 の よ う な 話 を 聞 い た。 「 に ふ な ひ 」 は 一 般 的 な 雀 よ り や や 小 さ く て、嘴の下に白い毛がある。農民はこの小鳥をとても憎み、見つけ 次第追い払うという。この鳥は春夏の間は葦原にいるので、葦原雀 とも呼ばれている。この話を聞いた宣長は、入内雀という呼称につ いては、藤原実方が左遷された陸奥で逝去したため、その怨念が雀 と化けて京都へ飛んできたと言われているが、これは付会の説であ る。 「 に ふ な ひ 」 は 新 嘗 に 由 来 し、 新 稲 を 人 よ り 先 に 啄 む の で こ の ような名がついたのであろうと述べている。 宣 長 に「 に ふ な ひ 」 の 話 を 伝 え た 人 物 に つ い て、 『 玉 勝 間 』 に は「尾張国 ノ 人」とのみ記されており、また、この話を聞いた時期も、 そして、どのような方法で宣長に伝えられたかも
―
直接に会って 聞いたのか、あるいは宣長宛の書状に書かれていたのかなど―
明 記されていない。この「にひなひ」については、しかし幸いにも、 宣長の『万葉集問答』二十(天明二年七月上旬)に、次のように記 さ れ て い る。 『 万 葉 集 問 答 』 は 宣 長 と 鈴 屋 門 人 の 田 中 道 麿 と の 間 で 交わされた『万葉集』に関する問答を収録したものである。 ○道丸昔美濃にありしとき、年々秋ことに、三十羽五十羽ほと つつむれたる雀を見し事あり、この雀いくむれも来て、秀たる 稲をはむ、里人おのが田〳〵に心かけて、この雀おひやらふ、 田面の稲をのみはむにあらで、刈て木の枝又はハサ 8 8 と云物にか けて干す稲にもむれ来てはむを、里人ども曰、コトシモ又ニウ 8 8 ナイ 8 8 ノ多クワタシ秋ヨとうれへいふ、その雀の名をニウナヒ 0 0 0 0 と ぞ云なる、 △この六月十五日に当国の下 シモ ノ一 イ シ キ 色村と云村に、太郎兵衛と云 あるもとへ、道丸行て一宿せし、ふとこの雀の事に及べり、太 郎兵衛曰、ソノ雀ハコノ里ニモ、トナリノ村々ニモ毎秋来テ、 里人ニニクマル、常ノ雀ヨリモスコシチヒサク、アゴノトコロ ニ少シ白キ毛アリ、春夏ハ蘆原ノ中ニアリテ、ヨシハラスヾメ トモ云、冬ハイヅコニアリヤシラズ、 (中略) 入内雀ハ、昔、藤原 ノ 実方 ノ 朝臣ノ霊ノ、雀ニナリテ、禁中ヘ 来リ、台盤所ノ食ヲハミケル事、中古ノ書ニ見ユ、ソノ書 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 二ハワスレタリ、入内ハ内裡ヘ入ル意也、サレド此説、附会 ナルヘシ、 宣長按ニ、ニフナヒ新 ニフナミ 嘗ノ転誤歟、稲ヲ人ヨリサキニマヅ ハジメテハムヲ、新 ニヒナベ 嘗ニトリナシテ此名を負セタルニヤ、 ニヒナベヲ、十四巻ノ東歌ニハ、ニフナミ〔三四六〇〕ト ヨメリ、 右 の 文 章 か ら は、 ま ず『 玉 勝 間 』 巻 三「 に ふ な ひ と い ふ 雀 」 に 登 場 す る「 尾 張 国 ノ 人 」 が 道 麿 で あ る こ と が 確 認 で き る。 そ し て、 道 麿 が 宣 長 に 伝 え た「 に ふ な ひ 」 の 話 は、 そ も そ も 天 明 二 年 ( 一 七 八 二 ) 六 月 十 五 日 に、 道 麿 が 美 濃 国 下 一 色 村 の 太 郎 兵 衛 宅 に 一宿した折に、そこで道麿が太郎兵衛から直接に聞いた話であるこ とが記されている。その後、同年七月上旬、道麿は『万葉集』に関 する質問を記した宣長宛書状に、太郎兵衛から聞いた「にふなひ」 の話を挿入した。そして、道麿からの書状によって「にふなひ」の 話 を 知 っ た 宣 長 は、 そ の 後、 『 宣 長 随 筆 』 第 十 三 巻 に、 次 の よ う に 書き留めている。 尾張人のいはく、尾張美濃などにて、秋田の面へ、二十羽卅羽 つゝ、いくむれもむれ来て、稲をはむ、一種の雀あり、刈置た る稲をも、来りてはむ也、此雀、よのつねの雀よりは、すこし ちひさくて、嘴の下に、いさゝか白き毛あり、これをにふなひ といひて、百姓にくむ也、此秋もにふなひの多く来てなどいひ て、ひたものおひやる也、此雀、春夏は蘆原に在て、よしはら すゝめ共いふといへり、宣長云、入 ニフナイ 内雀といふ名、実方中将の 故事にいへる事、中昔の書に見えたり、されとそれは附会の説 にて、にふなひは、新 ニヒナベ 嘗なるべし、新稲を、人よりさきに、ま づはむをもて、新嘗の名をおふせたるなるへし、万葉東歌にも、 新 ニヒナベ 嘗をにふなみとよめり、 右 の 文 章 に 若 干 の 筆 を 加 え れ ば、 『 玉 勝 間 』 の「 に ふ な ひ と い ふ 雀 」 と 成 る こ と が 知 ら れ る で あ ろ う。 す な わ ち、 「 に ふ な ひ 」 の 話 は、 太 郎 兵 衛( 談 話 ) → 道 麿( 書 状 ) → 宣 長( 『 宣 長 随 筆 』 →『 玉 勝間』 )、という経路で伝達されて『玉勝間』に収録されたことが確 認できるのである。 『玉勝間』からもう一例、 「木 ユ フ 綿の布」 (巻十二)を見てみよう。 木 ユ フ 綿の布〔七九六〕 いにしへ木 ユ フ 綿といひし物は、穀 カ ヂ の木の皮にて、そを布に織たり し事、古 ヘ はあまねく常の事なりしを、中むかしよりこなたには、 紙にのみ造りて、布におることは、絶たりとおぼえたりしに、 今の世にも、阿波 ノ 国に、太 タ 布 フ といひて、穀の木の皮を糸にして 織れる布有 リ 、色白くいとつよし、洗ひても、のりをつくること なく、洗ふたびごとに、いよ〳〵白くきよらになるとぞ、此事、 出雲 ノ 国の千家 ノ 清主のもとより、ちかきほど、書 フミ のついでに、い ひおこせて、かの国より得たりとて、そのちひさきさいでを、 見せおこせられたるを見るに、げにいとかたく、色しろくきよ らなる布にぞ有ける、こはかの阿波 ノ 国人に、なほよく尋ねあき 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 三
らめまほしきこと也、又これを思へば、他 ホカ の国々にも、あると ころ有べきを、ひろくたづねしらまほしきわざなりかし、 出雲国の千家俊信(清主、鈴屋門人)から宣長に送られた書状に、 上代の「木 ユ フ 綿」は穀の樹皮を材料として織ったもので、古くは一般 的に行われていたが、現在では見られなくなったようであるが、阿 波 国 で は 現 在 で も 穀 カ ヂ の 樹 皮 か ら「 太 タ 布 フ 」 と い う 布 が 織 ら れ て い る ことが記され、また、そこに小さな「太 タ 布 フ 」が同封されていた。宣 長はその「太 タ 布 フ 」を手にとって見て、詳しく阿波国の人に訊いてみ たく、また他国にも同じような物があるかもしれないので、広く訊 ね て み た い と 記 し て い る。 こ の 一 篇 に「 此 事、 出 雲 ノ 国 の 千 家 ノ 清 主 のもとより、ちかきほど、書 フミ のついでに、いひおこせて」とある通 り、本件は寛政十一年(一七九九)五月二十一日付の宣長の千家俊 信 宛 書 状 に あ る、 「 古 ヘ ノ 木 綿 之 事、 布 ニ 織 候 義、 当 今 モ 阿 州 ニ 而 太 タ 布 フ ト申候而有之候由ニ而、右之太布ノ切御見せ被下、忝奉存候、 右ハ扨々珍敷物ニ御座候、ゆふノ布只今も有之候事、始而承り見申 候、返々めつらしく忝奉存候、被仰下候趣を玉かつまへ記可申と奉 存候」という記事に対応するものである。 「 木 ユ フ 綿 の 布 」 や「 に ふ な ひ と い ふ 雀 」 の よ う に、 『 玉 勝 間 』 に は 宣長が彼の門人知人からの書状を通じて得た情報を紹介した章段が 多 い よ う で あ る。 こ の 他 に も、 例 え ば「 対 馬 の 式 社 」( 巻 九 ) に は 「 此 対 馬 の 式 社 の 事 も、 小 篠 ノ 御 野 が、 彼 ノ 嶋 に あ ひ し れ る 人 の あ る が 許に、とひやりしに、書 キ つけておこせしとて、こゝにも書 キ つけて見 せにおこせたりしを、しるせる也」とあり、また「讃岐 ノ 国人女をよ ば ふ に 藁 を 結 び て お く る 事 」( 巻 十 三 ) に は「 か の 国 の 山 田 六 郎 高 村が許よりいひおこせたり」と記されている。 『玉勝間』にはまた、情報提供者が特定できず、かつその情報の 伝達方法も判然としないが、宣長が何らかの手段で入手した聞書き 情報を記載した章段もある。その一例として「信濃国の或村々の神 事にうたふ歌」 (巻十三)を挙げる。 信濃国の或村々の神事にうたふ歌〔八六五〕 ある人のいはく、しなのの国の、天龍寺の河上なる、川村和田 きさはなどいふ里々の神事に、湯釜に湯をわかしたぎらせて、 そのめぐりに、幣を立おきて、夜ふけて、その釜のほとりに、 里人男女、老たる少 ワカ き、うちまじりつどひて、その幣をとり持 て、うたふ歌、 お ゆ め す と き の な 、 お み か げ こ ぐ そ く 、 や く も だ の ぼ れ 〳 〵 、 この一篇には、信濃国遠山郷正八幡宮の例祭、霜月祭の様子と、 その神事で歌われる歌が紹介されているが、宣長がこの情報を誰か らどのようにして得たのかは、本文に記されておらず、また宣長関 係の資料からも窺い知ることはできない。この他にも、情報提供者 が特定できず、かつその情報の伝達方法も判然としないが、宣長が 何 ら か の 手 段 で 入 手 し た 情 報 に 基 づ い て 記 載 し た 章 段 に は、 「 こ し 塚」 (巻三)や「みちのくの田うゑ歌」 (巻九)などがある。 以上の考察によって、村岡氏がいうところの聞書き章段が、具体 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 四
的にどのような形式・内容の随筆を指すか把握できたかと思う。す なわち、聞書き章段とは、宣長が他人から伝え聞いた情報を編集し て紹介し、時にそこに自らの所見を添えた形式の随筆であると定義 できるであろう。なお、本稿では、情報提供者が特定できず、かつ その情報の伝達方法も判然としない章段であっても、宣長が他者か ら聞いた情報を紹介する形式・内容であれば、聞書き章段と看做す。 2 「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」考 本 章 で は、 『 玉 勝 間 』 の 聞 書 き 章 段 の 中 か ら「 出 雲 国 な る 黄 ヨ ミ 泉 の 穴」 (巻十)を取り上げる。 「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」は、鈴屋門人で ある斎藤秀満から送られた『雲州黄泉穴一見之覚』という書留(報 告 書 ) に 基 づ い て 書 か れ た 随 筆 で あ る。 『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 は 現在、本居宣長記念館に所蔵されており、そのおかげで宣長が秀満 から得た情報をどのように編集して「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」という 聞書き章段を成したのか、具体的に検証することが可能である。ま ずは「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」の精読から始めたい。 出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴〔六二一〕 小篠ノ御野、いにしへ寛政六年三月のころ、出雲の大社にまう でたりしをり、鰐淵山近きわたりの山に、黄泉の穴といふがあ るよし、はやく聞るは、いかなるにかと、とひわたりしに、此 わたりにも、行見たる人はなきよし、杵築の人のいふを聞て、 せ ち に ゆ き て 見 ま ほ し く 思 ひ け れ ど、 年 老 た れ ば、 足 よ わ く て、みづからはえ物せで、弟子に斎藤ノ秀満といふを、ゐて物 せしに、さらばいまし行てみてこといひつけて、やりける、此 秀まろは、御野が同じ石見ノ国の三隅といふ所の人にて、もと より山道を、つねにかよひならへる人にし有ければ、くるしと も思ひたらで、よろこびながら、ゆきて見てかへりて、其間の 事、 く は し く 書 し る し た り け る を、 こ こ に も 見 せ お こ せ た り ける、そのあるやう、まづ杵築より東、鰐淵山をこえて、東北 の方、海ちかき所、川下村といふを過て、奥岡村といふに至る、 かの黄泉の穴は、此村の山に有ル也、海べより十八町のぼると ころ也、かくて山はいとしも高からねど、道いといはしく、石 まじりに草たかくおひしげり、荊おほくて、いといとのぼりが たし、かの穴は、山のはらに、草深き中にありて、わづかに見 えたり、口はすこしせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、 三尺ばかりも有べし、丸く井のさまにて、底見えず、めぐりは 口より下皆、つみ上たるごとくなる石にて、その石みなかど有 て、 す べ て わ れ め お ほ く、 色 は 白 く、 又 黄 ば み た る も ま じ れ り、さるを南の方一かたは、広さ二尺ばかりにて、長さは一丈 五六尺がほど板などを立たらむやうなる、一つの大石にて、此 石の下ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり、すべて口 近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方は、いたくかわき て、 潤 な く 見 ゆ、 此 穴、 里 人 は 冥 途 の 穴 と い へ り、 そ の わ た りの者も、おほくはしらず、この奥岡村のものを、導にゐて行 たる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、此穴来て見たる 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 五
者は、いとまれ也、年わかきは、里の者だに、かつてしらずと ぞかたりける、はじめ鰐淵寺にて、かたらひきつるしるべの翁 は、年六十ばかりなりけるを、わかかりしほどに、来て見たる ことは有しかど、ここらの年へにければ、のぼる道も、よくも おぼえずとて、又この奥岡のおきなをば、それがかたらひ来た るにぞ有ける、又かの翁がいひけるは、此穴より、毒気ののぼ ることあるに、ふれぬれば、たちまちに息絶る也と、いひつた へたり、といふをきくに、しばしのぞきて見るほども、いとけ おそらしけれど、よく見てかへらずは、ふりはへて見にこしか ひなからむと、いみしく思ひねんじて、猶よく見つる也、おき な又かたりけるは、むかしは、此穴の内へ、石を落しいるるに、 そのいしくだりもてゆくままに、つぎつぎめぐりの石にふれゆ く音の、しばしがほど、とほく聞えこしを、四十年ばかりあな たに、あるものの、大きなる石一つを、おとしやりつる事の有 し、そののちは、石をおとせども、音久しくは聞えずなりぬる はかの大石の、なかばにとどこほりて、それにせかるる故なめ り、とぞかたりける、又むかし鰐淵寺をはじめ給へりし、智證 上人と申す、此穴に入定し給ひぬるよし、かの寺の縁起にも見 えたり、と聞りなども語る、さて此山のすべての名は、奥岡の 山といひて、その中に、此穴のあるちかきあたりをば、ぞうが 谷といふ、此山のうしろは、鰐淵山につづきてとほからずとぞ しるしたりける、なほゆきかひの道のほどの事どもまで、こま かにしるしたるを、見るになほさだかならずおぼえて、ここは いかにと、なほとひきかまほしきところも多かれど、しばらく 本にしたがひて、その趣をとりて、事をつづめて、よきほどに ここにはしるせる也、さて此奥岡村よみの穴あたりを、神門ノ 郡ならむとしるしたれど、かならず出雲ノ郡なるべし、さて又 風土記に、宇賀ノ郷のところに、黄泉之穴といふところの見え たるは、同郡の内にはあれども、磯べにて、窟の内にあるよし なれば、ことところなるべし、 寛政六年(一七九四)三月、石見国浜田藩儒臣、小篠敏(御野) は彼の弟子である斎藤秀満に、出雲国にあるという〈黄泉の穴〉の 現地踏査を命じた。敏は儒学者であったが、彼はまた国学にも関心 を持ち、安永九年(一七七六)に鈴屋に入門している。敏の指示を 受けた秀満は石見国三隅の医師で、敏の門人であったが、秀満もま た天明三年(一七八三)に鈴屋に入門している。つまり、敏と秀満 は師弟関係にあったが、ともに宣長の門人でもあったのである。因 みに、寛政六年(一七九四)は、宣長は六十五歳、敏は六十七歳、 秀満の年齢は不明であるが、敏より大分若かったであろう、と推測 される。 敏 が 秀 満 に 踏 査 を 命 じ た〈 黄 泉 の 穴 〉 は、 『 出 雲 国 風 土 記 』 出 雲 郡宇賀郷に、次のように記載されている。 宇賀郷、郡家正北一十七里二十五歩、所造天下大神命、譲坐神 魂命御子綾門日女命、爾時女神不肖逃隠之、時大神伺求給所、 此即郷、故云宇加、即北海濱有磯、名脳磯、高一丈許、上生松 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 六
菜、至磯里人之朝夕知往来、又木枝人之如攀引、自磯西方有窟 戸、高廣各六尺許、窟内在、穴人不得入、又不知深浅也、多至 此磯窟之辺者必死、故俗人自古至今、号土黄泉之坂、黄泉之穴 也 ① 、 右 の 文 章 に 従 う な ら ば、 〈 黄 泉 の 穴 〉 は 出 雲 郡 宇 賀 郷 の 脳 の 磯 の 西 方 に あ り、 そ の 窟 戸 は 縦 横 約 一 ・ 八 メ ー ト ル の 大 き さ で、 奥 行 き は不明、岩窟の中には穴があるが、人が入ることはできないという。 ま た、 こ の 岩 窟 の 辺 り に 行 く と 必 ず 死 ぬ と 言 わ れ、 古 来、 黄 泉 の 坂・黄泉の穴と呼ばれている。 宣長の「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」に「鰐淵山近きわたりの山に、黄 泉の穴といふがあるよし、はやく聞るは、いかなるにかと、とひわ たりしに」とあるので、敏と秀満は、寛政六年の〈黄泉の穴〉の踏 査 に 際 し て、 〈 黄 泉 の 穴 〉 が 鰐 淵 山 近 く の 山 中 に あ る と い う 情 報 を 得ていたことが知られる。一般論として、踏査に際して、その目的 地 の 見 当 を 付 け ず に 踏 査 に 向 か う こ と は な い。 そ れ で は〈 黄 泉 の 穴〉が「鰐淵山近きわたりの山に」あるという情報を、敏と秀満は どこから得たのであろうか。 江戸時代中期の出雲地方の地誌書である、黒沢長尚撰『雲陽誌』 巻 九「 楯 縫 郡 奥 宇 賀 」( 享 保 二 年( 一 七 一 七 ) 序 ) に は、 「 窟 和 多 灘 よ り 十 五 町 南 の 山 に あ り、 『 風 土 記 』 に 宇 賀 郷 に 窟 戸 高 さ 各 六 尺はかり深浅しれす、此窟の辺にいたる者必死すといふ、故に今に 黄 泉 の 穴 と 号 す、 俗 人 古 よ り 冥 途 黄 泉 の 穴 と い ふ ② 」 と 記 さ れ て い る。 『 雲 陽 誌 』 が 記 す〈 黄 泉 の 穴( 冥 土 の 穴 )〉 の 位 置 は、 「 出 雲 国 なる黄 ヨ ミ 泉の穴」に記された「杵築より東、鰐淵山をこえて、東北の 方、海ちかき所、川下村といふを過て、奥岡村といふに至る、黄泉 の穴は、此村の山に有ル也、海べより十八町のぼるところ也」とほ ぼ 一 致 す る と い っ て よ い。 つ ま り、 『 雲 陽 誌 』 に 記 さ れ た〈 黄 泉 の 穴〉に関する情報に基づいて、秀満は〈黄泉の穴〉踏査に向かった 可能性が考えられるのである。 宣 長 の「 出 雲 国 な る 黄 ヨ ミ 泉 の 穴 」 に 拠 る と、 秀 満 が 実 地 踏 査 し た 〈 黄 泉 の 穴 〉 は 奥 岡 村 の 山 中 に あ り、 そ こ は 海 辺 か ら 約 二 キ ロ メ ー トル登ったところであった。山はさほど高くないが、道はたいへん 嶮しく、石雑じりで草が高く生い茂り、荊が多く、たいへん登りに く い と こ ろ で あ っ た と い う。 〈 黄 泉 の 穴 〉 は 山 腹 の 草 深 い と こ ろ に あって、外からは僅かに見える程度であった。穴の入り口は少し狭 く、下の方は幅約七十五センチメートル、或いは九十センチメート ル。穴の形状は丸くて井戸のような形をしており、底は見えなかっ たという。その穴の周囲は入り口より下はすべて、積み上げたよう な石で、その石はすべて角があり、割れ目が多く、色は白色、或い は黄ばんだ色のものも交っていた。しかし、南の方には幅約六十セ ンチメートル、高さ四メートル五十~八十センチメートルほどの板 を立てたような一枚の大岩があり、この大岩の下の穴は北の方へ曲 がっているように見えたという。また、穴の入り口付近は石に苔な どが生じているが、その下の方は乾燥していて、水気はないように 見えた、と秀満は報告している。秀満を案内した老人はしかし、こ 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 七
の穴を〈黄泉の穴〉ではなく、 〈冥途の穴〉と呼んでいた。 〈冥土の 穴〉という呼称は、秀満が今回の踏査に際して参照したと推定され る『雲陽誌』に「俗人古より冥途黄泉の穴といふ」とあり、秀満か ら見れば、この呼称の相違は想定の範囲内であったのであろう。ま た、案内役を務めた老人の話では、この里の古い言い伝えとして、 〈 冥 土 の 穴 〉 か ら 毒 気 が 立 ち 上 る こ と が あ り、 そ れ に 触 れ る と、 た ちまちに息絶えるという。こうした言い伝えも『出雲国風土記』の 「 多 至 此 磯 窟 之 辺 者 必 死 」 や『 雲 陽 誌 』 の「 此 窟 の 辺 に い た る 者 必 死すといふ」との記事と一致する。 秀 満 は『 出 雲 国 風 土 記 』 に 記 載 さ れ た〈 黄 泉 の 穴 〉 に つ い て、 『雲陽誌』の情報に基づいて鰐淵山近くの山中を踏査し、 「奥岡山」 (奥宇賀山)の「ぞうが谷」 (雑ケ谷)でその穴を確認し、その形状 や周囲の環境などを詳しく調査した。そして、今回の踏査の案内役 を勤めた地元の老人からは、この穴が地元では〈冥土の穴〉と呼ば れていること、そして、この穴から立ち上がる毒気に当たると忽ち 死に至るという口碑などを聞き取った。これらの聞き取り調査結果 は『出雲国風土記』並びに『雲陽誌』の記事と一致するものであっ た。 こ う し た 経 緯 が あ っ て、 秀 満 は こ の〈 冥 土 の 穴 〉 が、 『 出 雲 国 風土記』に記載された〈黄泉の穴〉であるとの確信を得たのであろ う。そうであるからこそ、秀満はこの調査結果をまとめた報告書、 『雲州黄泉穴一見之覚』を宣長に送ったのである。 しかし、宣長は「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」の末尾で、秀満が踏査し た〈黄泉の穴〉は『出雲国風土記』に記された〈黄泉の穴〉ではな い、との見解を示している。彼はその理由を、秀満が踏査した〈黄 泉の穴(冥土の穴) 〉は奥岡山(奥宇賀山)の山腹にあるが、 『出雲 国 風 土 記 』 に は、 〈 黄 泉 の 穴 〉 は 海 岸 の 岩 窟 の 中 に あ る と 記 さ れ て い る か ら、 と 述 べ て い る。 た だ し、 〈 黄 泉 の 穴 〉 の 位 置 に 関 す る 宣 長自身の見解は「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」には明記されていない。 『出雲国風土記』に記された〈黄泉の穴〉の位置については、現 在 の 古 代 史 学 で は 定 説 を 見 る に は 至 っ て い な い よ う で あ る が、 後 藤 蔵 四 郎『 出 雲 国 風 土 記 考 証 』( 大 岡 山 書 店、 大 正 十 五 年 刊 ) を は じめ、加藤義成『出雲国風土記参究』 (原書房、昭和三十二年刊) 、 『歴史地名事典』 (平凡社)などでは、島根県出雲市猪目町にある猪 目洞窟遺跡がそれではないかと推定されている。猪目洞窟遺跡は日 本海岸に面した洞窟遺跡であり、その点では『出雲国風土記』の記 述にも合致する。一方、秀満が踏査した奥岡山(奥宇賀山)の雑ケ 谷にある〈冥土の穴〉が『出雲国風土記』に記された〈黄泉の穴〉 であると積極的に推定する研究者は、現在のところ知られていない よ う で あ る。 秀 満 が 踏 査 し た 奥 岡 山( 奥 宇 賀 山 ) の 雑 ケ 谷 に あ る 〈 冥 土 の 穴 〉 は、 島 根 県 平 田 市 奥 宇 賀 町 雑 ケ 谷 に 現 存 し、 現 在 で は 「 黄 泉 の 穴 」 と 記 さ れ た 碑 が 建 て ら れ、 地 元 の 人 々 か ら は「 め い ど さん」と呼ばれ、毎年九月一日には例祭が執り行われているという ③ 。 ところで、宣長は「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」において、上述の通り、 秀満からの報告について否定的な見解を添えている。否定的である ならば、そもそもその情報を『玉勝間』に掲載しなければよいので はないかとも思われるが、宣長のこうした態度は『玉勝間』の他の 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 八
聞 書 き 章 段 で も 見 ら れ る。 例 え ば「 こ し 塚 」( 巻 三 ) で は、 次 の よ うに記されている。 大和 ノ 国人のいはく、城上 ノ 郡外 ト 山 ビ 村に、輿 コシ 塚 ヅカ といふ有 リ 、うへは円 マロ にて、内なる石 イハ がまへ、少しあらはれて見ゆる、そのいたゞき へは、人ののぼることなし、さて南の方へ、さし出たる尾あり て、御陵のさまなりといへり、思ふに、これもしは饒 ニギハヤ 速日 ヒノ 命の 御墓にはあらじか、されど大和 ノ 国には、さるさましたる塚、い ずこにも多かれば、いかならん、おほつかなし、外 ト ビ 山といふと ころは、いにしへの鳥 ト ミ 見也、 宣 長 は 大 和 国 の 人 か ら 得 た 輿 塚 に 関 す る 情 報 を 紹 介 し た 後、 「 さ れど大和 ノ 国には、さるさましたる塚、いずこにも多かれば、いかな ら ん、 お ほ つ か な し 」 と コ メ ン ト し て い る。 ま た、 「 石 見 国 な る し づ の 岩 屋 」( 巻 九 ) で は、 宣 長 は『 万 葉 集 』 に 詠 ま れ た「 志 都 の 石 室」は、敏が示した石見国岩屋村の〈しづの岩屋〉ではないかと思 う が、 い さ さ か 不 審 で も あ る と 述 べ て い る。 彼 は そ の 理 由 に つ い て、 「 志 都 の 石 室 」 の 歌 を 詠 ん だ 生 石 村 主 真 人 が 石 見 国 の 官 吏 で も ない限り、石見国は他国の人が行くことは稀で、しかもこの岩屋は 山深いところにあるので、世間の人がこの地を知っていて詠んだと は考え難い、としるしている。その一方で彼は、石見国の〈しづの 岩屋〉は「後の世の人の、つくりていふべきところともおぼえねば、 かならずふるきよしありて、たゞならぬところとはきこえたり」と の 所 見 も 併 記 し て い る ④ 。 さ ら に 挙 げ る な ら ば、 「 同 社 金 輪 の 造 営 の 図」 (巻十三)でも、次のように記されている 同社金輪の造営の図〔八六三〕 出雲大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり、中古には十六 丈あり、今の世のは八丈也、古 ヘ ヘの時の図を、金輪の造営の図 といひて、今も国造の家に伝へもたり、其図、左にしるすが如 し、 (図は省略) 此図、千家国造の家なるを、写し取れり、心得ぬことのみ多か れど、皆たゞ本のまゝ也、今 ノ 世の御殿も、大かたの御構 ヘ ヘは、 此図のごとくなりとぞ、 宣長が『玉勝間』に載録した「金輪造営之図」は、出雲大社の平 面図である。宣長の寛政七年二月二十日付千家俊信宛書簡に「金輪 造営之図御認被下、千万辱拝見仕候」とあり、この図は俊信が写し て、宣長に送ったことがわかる。宣長はこの図について「心得ぬこ と の み 多 か れ ど、 皆 た ゞ 本 の ま ゝ 也 」 と 疑 念 を 抱 き な が ら も、 『 玉 勝間』に収録している。宣長が『玉勝間』に出雲大社の「金輪造営 之図」を掲載してから約二百年後の平成十二年四月、出雲大社拝殿 北側から巨大な三本一組の柱根が発見された ⑤ 。この柱根の存在は、 宣長が『玉勝間』に掲載した「金輪造営之図」に既に記されていた ことから、考古学者の視線が再び『玉勝間』に注がれたのである。 『玉勝間』の「同社金輪の造営の図」 (巻十三)は、宣長の見識が後 世の研究者に寄与した好例といえるだろう。 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 九
このように宣長は門人知人から寄せられた情報について、彼自身 は聊か否定的・懐疑的であったとしても、そこに何らの学術的な価 値が含まれると判断した場合は、自らの所見を添えて『玉勝間』に 収録し、その情報を発信している。 さて、宣長が「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」に「此秀まろは、御野が同 じ石見ノ国の三隅といふ所の人にて、もとより山道を、つねにかよ ひならへる人にし有ければ、くるしとも思ひたらで、よろこびなが ら、ゆきて見てかへりて、其間の事、くはしく書しるしたりけるを、 ここにも見せおこせたりける、そのあるやう」と記している通り、 「 出 雲 国 な る 黄 ヨ ミ 泉 の 穴 」 の「 そ の あ る や う 」 以 下 の 文 章 は、 秀 満 か ら宣長に送られた『雲州黄泉穴一見之覚』に基づいて書かれている。 『雲州黄泉穴一見之覚』は、写本の一冊本である。その書誌を記 すと、共表紙、袋綴、縦二四 ・ 六センチメートル、横十七 ・ 五センチ メートル、半丁七行、本文十四丁、外題は表紙中央部に『雲州黄泉 穴一見之覚』と墨書されており、その右脇に「石州三隅/斎藤秀満 上 」 と あ る。 内 題 は な い。 識 語 は「 卯 九 月 」。 本 文 は 漢 字 平 仮 名 交 じりの和文である。印記は第一丁表に「須受能/屋蔵書」の朱印が あ る。 『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 の 全 文 を 翻 刻 し た も の を、 本 稿 末 尾 に参考として掲載したのでご覧いただきたい。なお、秀満には江戸 後 期 の 奇 談 怪 談 を 蒐 集 し た『 奇 談 雑 記 』( 国 会 図 書 館 所 蔵 ) が あ り、 秀 満 に 奇 談 怪 談 を 蒐 集 す る 志 向 が あ っ た こ と が 知 ら れ る が、 『 雲 州 黄泉穴一見之覚』はあくまでも学術的な報告書である。 『玉勝間』巻十(第四編)が刊行されたのは、宣長没後の享和二 年(一八〇二)頃と推定されている ⑥ 。しかし、宣長の『著述書上木 之覚』によると、その板下の完成は、生前の寛政九年(一七九七) 三 月 十 七 日 で あ る。 一 方、 『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 に よ る と、 寛 政 六 年( 一 七 九 四 ) 三 月 上 旬 に、 秀 満 は〈 黄 泉 の 穴 〉 の 現 地 踏 査 を 実 施 し て い る。 そ し て、 『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 の 末 尾( 第 十 四 丁 表)の識語に「卯九月」とあるので、寛政七年(一七九五)九月に、 彼 は こ の 覚 書 を 完 成 さ せ た こ と が 知 ら れ る。 す な わ ち、 こ の 間 の 流れを整理すると、秀満は寛政六年三月上旬に、出雲国で〈黄泉の 穴〉の現地調査を行ない、その約一年半後の同七年九月に、その報 告書を書き上げる。そして、更にその一年半後の同九年三月十七日 に、宣長は『玉勝間』巻十の板下を完成させたということになる。 『雲州黄泉穴一見之覚』と「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」とを字数の観 点から比較すると、前者が約五千二百字で、後者は約千六百字であ るから、単純に比較すると、前者を三分の一の字数に縮小したもの が後者である、ということになる。それでは宣長は『雲州黄泉穴一 見之覚』をどのように編集して「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」を書いたの であろうか。 秀満の『雲州黄泉穴一見之覚』に拠ると、寛政六年三月上旬某日 の午前八時ごろ、秀満は大田在住の医師、原有慶(伝未詳)と連れ 立って杵築を出発し、鰐淵寺を経由して、奥岡山山中の〈黄泉の穴 ( 冥 土 の 穴 )〉 を 調 査 し、 午 後 六 時 前 に 杵 築 に 帰 着 し て い る。 『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 と「 出 雲 国 な る 黄 ヨ ミ 泉 の 穴 」 と を 比 べ る と、 「 出 雲 国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」では、秀満に同行者があったこと、鰐淵山までの 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 一 〇
往路の風景や鰐淵寺の様子、更に〈黄泉の穴〉から杵築までの帰路 の 出 来 事 な ど が 省 略 さ れ て い る。 『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 に 記 さ れ た鰐淵寺までの往路の風景や鰐淵寺の様子を描いた部分の字数は約 千 五 百 字 で あ り、 ま た、 〈 黄 泉 の 穴 〉 か ら 杵 築 ま で の 帰 路 の こ と を 描いた部分の字数は約一千字で、この二箇所で計約二千五百字分が、 宣長の「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」に反映されていない。このように往 路復路の景観や鰐淵寺の記述を省略したことについて、宣長は「出 雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」に「なほゆきかひの道のほどの事どもまで、こ まかにしるしたるを、見るになほさだかならずおぼえて、ここはい かにと、なほとひきかまほしきところも多かれど、しばらく本にし た が ひ て、 そ の 趣 を と り て、 事 を つ づ め て、 よ き ほ ど に こ こ に は し る せ る 也 」 と 記 し て い る。 な お、 『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 に 記 述 さ れ た〈 黄 泉 の 穴 〉 ま で の 往 路 の 経 路 に つ い て、 宣 長 は「 朝 五 つ 時、杵築を出て、遥に南 (東) に向ひ行事半時、又東 (北) の方に向ひ、坂をの ほる事半時斗、峠に辻堂ありて、鰐淵山参詣の人、休なり」と、二 箇所に朱筆を入れている。地図で確認すると、これは秀満の誤認で あ り、 宣 長 の 朱 筆 が 正 し い こ と が わ か る。 「 出 雲 国 な る 黄 ヨ ミ 泉 の 穴 」 では、この部分は「まづ杵築より東、鰐淵山をこえて」となってい る。宣長はその後の道程も「鰐淵山をこえて、東北の方、海ちかき 所、川下村といふを過て、奥岡村といふに至る」と簡略な記述に止 め、一気に「黄泉の穴」がある奥岡村(奥宇賀)へと話を進めてい る。 次 に 宣 長 が『 雲 州 黄 泉 穴 一 見 之 覚 』 の 文 章 を ど の よ う に 編 集 し て「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」の文章を成したか、具体的に見てみたい。 まずは〈黄泉の穴〉の外観や形状に関する両書の記述を比較してみ よう。なお、傍線に付した番号は両者の対応関係を示す。 ○『雲州黄泉穴一見之覚』 則爰也といふに、草 a 猶繁りたる中に穴あり【草靡きて穴 b ハ纔ニ 見ゆ。此草ハ棘などハなく、すゝき、よもき、其外のも多ク小 筋に長く繁りたり、土肥たる故か】口ハ草も年々朽、又、外ニ 土も流れて寄しにや、ち c とちさく見ゆれと、中ハ図のことく弐 尺四五寸位ニ三尺も長丸に、穴の底ハ直ぐに揬ぬけたる躰井の かたち也、穴の中のくるり、南 d の方ハ一枚石と見えて板なすを 削り立たるかことし、長サ壱丈五六尺も其餘も幅弐尺斗、底ハ 此石、北の方へ少し靡きて見ゆる(割注略)其 e 外のくるりハ、 石にて常の井を積揚たるごとく、出め入めハ多ク、石ハ角立て 都 合 の 穴 の か た ち ハ 丸 く 見 え 候、 其 石 皆 油 石 青 石 の 類 に あ ら ず、磨石などの類にてあらめよ、色 f ハ白く又黄ばみたる所も有 て、角有われ目多きが自然に割れたると見ゆるも在りたると見 ゆるも、所々ハ土も付て石のかたちみえぬ所も有かとミゆれと、 大概自然にわれたる様子也(割注略)上 g へ近き所ハ苔もつきて 見ゆれど、底の方ハかはきて一向に水気なし、 ○「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」 か の 穴 は、 山 の は ら に、 草 a 深 き 中 に あ り て、 わ b づ か に 見 え た り、口 c はすこしせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、三尺 ばかりも有べし、丸く井のさまにて、底見えず、め e ぐりは口よ 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 一一
り下皆、つみ上たるごとくなる石にて、そ f の石みなかど有て、 すべてわれめおほく、色は白く、又黄ばみたるもまじれり、さ るを南 d の方一かたは、広さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺 がほど板などを立たらむやうなる、一つの大石にて、此石の下 ざま、穴いささか北の方へまがりて見えたり、す g べて口近き所 は、石に苔などもむしたるを、下の方は、いたくかわきて、潤 なく見ゆ、 も う 一 例、 秀 満 が 地 元 の 案 内 者 か ら 聞 い た、 〈 黄 泉 の 穴 〉 に 関 す る言い伝えの部分を見てみよう。こちらも傍線に付した番号は両者 の対応関係を示す。 ○『雲州黄泉穴一見之覚』 此 h 辺のかたり伝に、此穴よりのぼる毒気にあたれば、忽に息終 るよし聞ば、恐敷て永くハ見る事も成がたけれど、正く見たれ ば し る し も な き 事 な れ と、 ふ た ゝ ひ 臨 む、 右 の 通 の か た ち 也 ( 割 注 略 ) 案 内 両 人 共 ニ か た る、 先 年、 か の 鰐 淵 山 開 基 智 證 上 人、此穴へ定入せられたるよし語る(割注略)又 i 、此穴へ先年 ハ石を投込時ハ、凡多はに二銀ものむ間ほども石に当てとよむ 音聞えしが、四十年ばかり以前、ある若き者、大石を一つ転バ し込たるに、其後ハ石を落しても音永くせず、此大石、穴の中 にかゝりて、それに又かゝる故かとかたる、 ○「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」 又 h かの翁がいひけるは、此穴より、毒気ののぼることあるに、 ふれぬれば、たちまちに息絶る也と、いひつたへたり、といふ を き く に、 し ば し の ぞ き て 見 る ほ ど も、 い と け お そ ら し け れ ど、 よ く 見 て か へ ら ず は、 ふ り は へ て 見 に こ し か ひ な か ら む と、いみしく思ひねんじて、猶よく見つる也、お i きな又かたり けるは、むかしは、此穴の内へ、石を落しいるるに、そのいし くだりもてゆくままに、つぎつぎめぐりの石にふれゆく音の、 しばしがほど、とほく聞えこしを、四十年ばかりあなたに、あ るものの、大きなる石一つを、おとしやりつる事の有し、その のちは、石をおとせども、音久しくは聞えずなりぬるはかの大 石の、なかばにとどこほりて、それにせかるる故なめり、とぞ かたりける、 右の二例から、宣長が「出雲国なる黄 ヨ ミ 泉の穴」の執筆に際して、 秀満の『雲州黄泉穴一見之覚』に記された〈黄泉の穴〉の寸法や状 態、その穴を調査した時の秀満の心情などの記述に従いつつも、そ こに平明達意を心がけた推敲を加えて、秀満の文章とはまったく別 の、宣長の文章に仕上げていったことが知られるのである。 3 『玉勝間』の聞書き章段 〈表1〉は『玉勝間』聞書き章段を一覧表にしたものである。管 見に従えば、聞書き章段は計三十八段で、これは『玉勝間』に掲載 さ れ た 全 随 筆 一 〇 〇 五 段 の 約 四 % に 過 ぎ な い。 ま た、 〈 表 1〉 に 示 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 一 二
〈表1〉『玉勝間』の聞書き章段 № 巻 タイトル 情報提供者 国 内容 1 2 五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事 小篠敏 長崎 言語・物名 2 3 こし塚 未詳 大和 考古 3 3 飛鳥の宮々 未詳 大和 考古 4 3 にふなひといふ雀 田中道麿 尾張 言語・物名 5 3 むろの木 田中道麿 尾張 言語・物名 6 3 みちのくには五月五日にかつみをふくといふ事 未詳 陸奥 風俗・風習 7 7 石見の海なる高嶋 小篠敏 石見 地誌 8 7 朝鮮の人のことば 小篠敏 石見 言語・物名 9 7 さはぼくり 未詳 土佐 風俗・風習 10 7 土佐国に火葬なし 未詳 土佐 風俗・風習 11 7 ほやのいずし 未詳 豊後 言語・物名 12 7 ふぐし くぐつ 未詳 豊後 言語・物名 13 7 石ぶしといふ魚 渡辺直麿 未詳 言語・物名 14 8 ふるき物またそのかたをいつはり作る事 萩原元克 甲斐 考古 15 9 みちのくの田うゑ歌 未詳 陸奥 風俗・風習 16 9 紫の名高の浦 未詳 紀州 地誌 17 9 石見国なるしづの岩屋 小篠敏 石見 考古 18 9 対馬の式社 小篠敏 対馬 神社・神事 19 9 桧垣媼が事 長瀬真幸 肥後 考古 20 10 出雲国なる黄泉の穴 斎藤秀満 出雲 考古 21 11 肥後国の神楽歌 長瀬真幸 肥後 神社・神事 22 11 肥後国阿蘇神社 長瀬真幸 肥後 神社・神事 23 11 春日の若宮社の神楽舞の歌 未詳 大和 神社・神事 24 11 口あみ もろもち 金原清方 遠江 言語・物名 25 12 われから はまゆふ 芝原春房 伊勢 言語・物名 26 12 木綿の布 千家俊信 阿波 考古 27 13 ふくさといふ言 田中道麿 近江・尾張・美濃 言語・物名 28 13 まるすげといふ草 田中道麿 美濃・三河 言語・物名 29 13 とねりこの木 田中道麿 美濃 言語・物名 30 13 鴨の類くさぐさの名 田中道麿 未詳 言語・物名 31 13 遠江国より大神宮に神御衣を織て奉る事 内山真龍 遠江 神社・神事 32 13 出雲国意宇郡神魂神社 秋上大祐 出雲 神社・神事 33 13 出雲の大社の御事 千家俊信 出雲 神社・神事 34 13 同社金輪の造営の図 千家俊信 出雲 神社・神事 35 13 讃岐国人女をよばふに藁を結びておくる事 山田高村 讃岐 風俗・風習 36 13 信濃国の或村々の神事にうたふ歌 未詳 信濃 神社・神事 37 13 常陸国なる大洗磯前神 未詳 常陸 神社・神事 38 13 しちすつの濁音の事 未詳 土佐 言語・物名 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 一三
し た 通 り、 『 宣 長 随 筆 』 に 一 旦 収 録 さ れ、 そ の 後『 玉 勝 間 』 に 掲 載 された随筆が二十六段あり、聞書き章段全体の六十八%
―
その中 でも『宣長随筆』巻十三に載録された章段が十八段あり、聞書き章 段全体の約半分、四十七%である。―
を占めている。 聞書き章段が収録された巻を見ると、巻十三が十二段と最も多く、 次 い で 巻 七 が 七 段、 巻 三 と 巻 九 が そ れ ぞ れ 五 段 で、 巻 一、 四、 五、 六、 十四の各巻に聞書き章段は見られない。つまり、宣長は『玉勝間』 を編集する際に、聞書き章段を各巻に必ず収録するといった編集方 針を立てていなかったようである。 次に、情報提供者の観点から『玉勝間』の聞書き章段を見ると、 宣長に情報を提供した人の氏名が判明している章段は二十五段で、 聞書き章段全体の六十六%である。氏名が判明している情報提供者 はすべて鈴屋門人、或いは宣長の知人である。詳しく見ると、田中 道麿が六段と最も多く、次いで小篠敏が五段、千家俊信と長瀬真幸 が 三 段 ず つ で あ る。 ま た、 〈 表 1〉 に 示 し た と お り『 玉 勝 間 』 の 聞 書き章段には、宣長がいつ、誰から、どのような手段で、その情報 を入手したのかという、聞書きに関する基本的情報を欠く章段もあ る。今日の民俗学のフィールドワークにおいて、聞書きの情報提供 者に関する情報は極めて重要であるが、当時の宣長にはそうした意 識は少なかったようである。 地域別に見ると、 〈表1〉に示した通り、東海道(尾張国〔二〕 、 遠江国〔二〕 、伊勢国〔一〕 、三河国〔一〕 、常陸国〔一〕 )と西海道 ( 肥 後 国〔 三 〕、 豊 後 国〔 二 〕、 肥 前 国〔 一 〕、 対 馬 国〔 一 〕) が 七 段 ずつあり。次に山陰道(出雲国〔三〕 、石見国〔三〕 )と東山道(美 濃国〔三〕 、信濃国〔二〕 、近江国〔一〕 )と、南海道(土佐国〔三〕 、 讃 岐 国〔 一 〕、 阿 波 国〔 一 〕、 紀 伊 国〔 一 〕) が 六 段 ず つ、 畿 内( 大 和 国〔 三 〕) が 三 段、 陸 奥 と 未 詳 が 二 段 ず つ、 と い う 分 布 で あ る。 こ う し た 分 布 を 見 る と、 『 玉 勝 間 』 の 聞 書 き 章 段 は、 宣 長 が 居 住 す る松坂に隣接する東海道を中心に、山陰道、西海道、南海道といっ た西日本に集中していることが知られる。そして、その一方で、い わゆる三都(江戸・京・大坂)の情報が皆無であることも注目され る。中村一基氏の研究によると、鈴屋門人を地域別に見た場合、宣 長が居住する伊勢国が最も多く、尾張国がそれに次ぎ、東海道、特 に 遠 江 国 か ら の 入 門 者 が 多 く、 三 都 の 門 人 は 少 な い と い う ⑦ 。『 玉 勝 間』の聞書き章段の多くが鈴屋門人或いは宣長の知人から寄せられ た 情 報 に よ る も の で あ る こ と を 考 え る と、 〈 表 1〉 に 見 ら れ る 地 域 の偏りが鈴屋門人の分布の偏りと重なることは、寧ろ当然の結果と 言ってよいかもしれない。 聞書き章段を内容的に見ると、言語・物名が十四段、神社・神事 が十段、考古が七段、風俗・風習が五段、地誌が二段である。 ま ず、 言 語・ 物 名 に は『 万 葉 集 』 に 見 え る「 室 の 木 」 の 特 徴 と 現 在 の 呼 称 に つ い て 記 し た「 む ろ の 木 」( 巻 三 ) を は じ め、 石 見 国 に 漂 着 し た 朝 鮮 人 の 話 す 朝 鮮 語 に 関 す る 聞 書 き を 記 し た「 朝 鮮 の 人のことば」 (巻七) 、肥前国佐伯の海に生息する「ほや」に関する 情 報 を も と に、 『 土 左 日 記 』 に 登 場 す る「 ほ や の い ず し 」 に つ い て 推考した「ほやのいずし」 (巻七) 、近江美濃尾張の方言に物の柔ら 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 一 四か な 状 態 を「 ふ く さ 」 と い う こ と を 記 し た「 ふ く さ と い ふ 言 」( 巻 十三)など、上代中古文学に見られる物名に関する事柄や、外国語 ( オ ラ ン ダ 語 や 朝 鮮 語 ) の 発 音、 日 本 各 地 の 方 言 に 関 す る 聞 書 き が など記されている。 神社・神事では、対馬国の式内社について記した「対馬の式社」 (巻九)をはじめ、 「肥後国の神楽歌」 (巻十一) 、遠江国浜名郡岡本 村では毎年四月と九月に神御衣を織って、伊勢内宮に奉納すること を 記 し た「 遠 江 国 よ り 大 神 宮 に 神 御 衣 を 織 て 奉 る 事 」( 巻 十 三 ) な ど が あ る。 考 古 で は 大 和 国 の 輿 塚 に 関 す る 聞 書 き を 記 し た「 こ し 塚 」( 巻 三 ) を は じ め、 石 見 国 の 志 津 の 岩 屋 に 関 す る 報 告 を 記 し た 「石見国なるしづの岩屋」 (巻九)などがある。 風俗・風習では、土佐国では農作業に沢木履という履物を使うこ と を 記 し た「 さ は ぼ く り 」( 巻 七 ) を は じ め、 「 み ち の く の 田 う ゑ 歌」 (巻九) 、讃岐国の婚姻風習を記した「讃岐国人女をよばふに藁 を結びておくる事」などがある。これらは現在の民俗学に連なる事 項といえよう。 最 後 に 地 誌 に は、 石 見 国 浜 田 の 沖 合 に あ る 高 嶋 と い う 島 に 関 す る 報 告 を 記 し た「 石 見 の 海 な る 高 嶋 」( 巻 七 ) と 紀 伊 国 名 高 の 里 を な が れ る む ら さ き 川 に 関 す る 聞 書 き を 記 し た「 紫 の 名 高 の 浦 」( 巻 九)がある。 このように『玉勝間』の聞書き章段の内容は、いずれも学問的な ものばかりであり、幽霊狐狸妖怪等の怪談奇談、火事窃盗心中等の 災害事件の風聞、当時流行した歌舞音曲芝居等の風俗、といった当 代の巷談は一切記載されていない。宣長の住む松坂は三井家や小津 家といった松坂商人の町であるから、そこにはビジネスの情報とと もに三都は勿論、日本各地のさまざまな巷談風聞が齎されていたは ずであり、おそらく宣長の耳にもそうした情報は少なからず届いて いたであろう。しかし、宣長は『玉勝間』にはそうした巷説風聞の 類は一切収録しなかった。宣長は彼のもとに日々寄せられた多くの 情報の中から、彼が興味関心を抱いた学術的なニュースに限って掲 載 し た の で あ る。 こ こ で い う 学 術 的 と は、 『 玉 勝 間 』 の 聞 書 き 章 段 の内容から見て、それは国学の学問領域に属すると言い換えること ができるだろう。 『玉勝間』の聞書き章段の内容が国学の学問領域に限定されてい ることは、しかし、当時の宣長の興味関心が国学にしか向いていな かったということではない。寛政から享和にかけての宣長の日記を 一瞥すれば、そこには不順な天候、それに伴って高下する米価、そ し て 不 穏 な 社 会 の 動 向 が 記 録 さ れ て い る。 彼 は 当 時 の 社 会 の 情 勢 に 寧 ろ 強 い 関 心 を 抱 い て い た。 し か し、 そ う し た 当 時 の 社 会 情 勢 に 関 す る 聞 書 き は、 『 玉 勝 間 』 に は 収 録 さ れ な か っ た の で あ る。 ま た、 宣 長 は 医 業 を 生 業 と し た 人 で あ る が、 『 玉 勝 間 』 の 聞 書 き 章 段 には、日本各地の医療事情、或いは民間療法などに関する聞書きは ま っ た く 載 録 さ れ て い な い。 彼 が 医 師 と し て、 こ う し た 情 報 に 無 関心であったとは考えにくい。つまり、宣長は『玉勝間』の編集に 際 し て、 ま ず〈 学 問 的 随 筆 集( 国 学 的 随 筆 集 )〉 と い う 大 枠 を 設 定 し、その枠内で聞書き章段を編集したと考えるべきであろう。宣長 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 一五
が『玉勝間』の読者に、主として国学を学ぶ人たちを想定していた こ と は、 『 玉 勝 間 』 の 跋 文 に も 記 さ れ て お り、 ま た『 玉 勝 間 』 の 巻 頭言からも、それは看取されるところである ⑧ 。 〈注〉 ① 本居宣長記念館蔵宣長手沢本『出雲国風土記』第二十八丁表裏 より引用。この『出雲国風土記』の奥書には「右出雲国風土記 一巻以谷川氏本書写畢、明和八年辛卯十月四日、伊勢人本居宣 長」と記されている。 ② 蘆田伊人編・大日本地誌大系『雲陽誌』二六一ページ、雄山閣、 昭和五年刊。 ③ 西 田 郷 土 誌 編 纂 委 員 会 編『 西 田 郷 土 誌 』、 西 田 公 民 館、 平 成 八 年刊、四十二ページ並びに八五~八六ページ。 ④ 拙 論「 『 玉 勝 間 』 巻 九「 石 見 国 な る し づ の 岩 屋 」 に つ い て 」、 『 国 文 学 論 叢 』 第 五 十 九 輯、 龍 谷 大 学 国 文 学 会、 平 成 二 十 六 年 刊。 ⑤ 『朝日新聞』平成十二年四月二十九日朝刊。 ⑥ 本 居 宣 長 記 念 館 編『 本 居 宣 長 事 典 』、 東 京 堂 出 版、 平 成 十 三 年 刊、五十ページ参照。 ⑦ 岡中正行・鈴木淳・中村一基『本居宣長と鈴屋社中』収録、中 村一基「鈴門の形成と展開」 、錦正社、昭和五十九年刊。 ⑧ 拙論「 『玉勝間』の巻頭言に関する考察(後編) 」、 『福井大学教 育地域科学部紀要』第四号、平成二十六年刊。 (参考)翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』 〈凡例〉 ① 本居宣長記念館所蔵、斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』を底本 とする。 ② 本文は漢字・仮名の別、仮名づかい、清濁、振り仮名はすべて 底本の表記に従った。仮名の「ミ・ハ」もそのままとした。 ③ 底本に句点は付されていないが、読み易さを考慮して筆者が適 当と思われる箇所に付した。 ④ 本文中の二行書の割註は【 】内に、宣長による朱書きは本文 右側に( )で記した。 〈翻刻〉 石州 三隅 斎藤秀満上 雲州黄泉穴一見之覚 寛政六寅のとし三月上旬、杵築に於ひて、小篠先生のたまふハ、鰐 淵山より程近き所に、かの黄泉穴あるよし、かねて聞及ふに、此地 の 社 家 中 町 屋 の 人 も い ま た 見 た る 咄 も な し と 清 主 公 よ り も 物 語 あ り、其方ゆきて見正し帰れかし、此事ハ千家御氏にも見て来らん人 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 一 六
もかなと思はるゝ也と伝あれば、本より山坂に馴たる秀満か足なれ は、苦しくも思はす、此頃日も永く、花もさかりなれは、幸に鰐淵 山をも一見、かの穴委細に見正し帰可申とて、銀山太田の医師、原 有慶両人、朝五つ時、杵築を出て、遥に南 (東) に向ひ行事半時、又東 (北) の 方 に 向 ひ、 坂 を の ほ る 事 半 時 斗、 峠 に 辻 堂 あ り て、 鰐 淵 山 参 詣 の 人、休なり、夫ゟ山を下るに、田畑人家一向になく、左右皆深山に て、流ハ追々谷川となり、松杉椎樫なと冬葉持の類多く、其中には 桜もそこかしこ咲交たり、此山ハ木はみたりに伐とる事を禁むと見 え て、 其 切 た る 株 も 見 苦 し か ら す、 切 屑 木 の は も 皆 拾 ひ て 掃 た る ことく枯葉枯枝一つも見えす、上は繁り合たる梢より稀に日ハもり て、木の根岩かと皆青苔美しくむして、川中の石まで深ミとりに流 るゝ、水の綺麗なる事、よそにてハ見さる躰也【鰐淵山辺は皆丁寧 に掃除すると見ゆる】一里といふをくたれは鰐淵山なり、川より西 の方ハ寺也、東の方にのほれは、山王権現本社両殿あり、爰より又 三四丁のほれは奥の院のよし、庵室あり、僧衆此所にて心をすまし て修学する所のよし也【此頃ハ誰も居らす】此所より少し斜にのほ れは瀧壺あり【此所を鰐淵といふよしなり、かたり伝に、此山開基 智證上人、神酒を此淵に備られしに、此器沈ミて見えす、遥に日の 御崎江【四五里もあるへし】器を鰐くはへて上りたるよしにて、其 所をは鰐の口といひ、此淵を鰐淵といふよし也】其険敷所也、其登 一面の石山を見やるに【石細工なとに切て拵る類の石なり】左右皆 尾 崎 指 出 て、 其 形 中 く ほ に て、 い は ゝ 竹 を 割 て 立 な ひ け た る こ と し、行かゝりの所少し平らにて、凡弐間もさし渡の有へく見ゆる丸 き池あり、其上ニ又四間も有て、平らにて少しハほそく同し形の池 又あり、池の深さ水の色、青光るほと也、さて下の池のあたりより ハ十弐三間も上に、家にてひさしのことく弐間程も揬出たる岩はな 有、是より凡七八間も水ハ空にかのちさき池中に落る【水ハ東の山 上より落る、此頃天気にて少し雨ふりなとにて多かるへし、此頃男 子の帯ほと也】此揬出たる岩の下に蔵王権現の社、横へ広く竪短に 三社かまへのことくのほこら、岩の中へ押込たる体也【是ハ掘返た る物と見ゆる、池も底深く掘たると見ゆる也、打見たる所をさハ思 ひけれと、日ノ御崎迄も抜通と聞は自然躰なるへし】参詣も皆下の 池あたりより拝す、権現の社までも道ハ付きたれど猶のほる事なり かたし【此所皆巌屈にて草木はなく、こゝのけしきはかりよそハ見 えす】西の方へ渡りて観音堂、是を鰐淵寺といふ【此山を今ハすへ てわにふち山とはよばす、皆がくえんしといふ】凡七間四面位、仏 像も古く惣て物ふりて奇麗也、外に僧坊十弐坊の内四ケ寺は焼失、 寺号のミにて八ケ寺あり【寺皆山の半に高くひきくむらくに建たり、 いつれも奇麗也、古へハ四十弐坊有しよし也、宗旨天台、寺領三百 石の内五拾石ハ山王権現へ付し由、其残りハ八ケ寺、土地に而支配 なるよし、案内物かたり、そら覚にて御座候】山ハ双方古木多く繁 り、桜ハ此頃嶺にも麓にも寺々の庵にも咲ミちたり、此寺の内に清 主公懇意の僧有りて、黄泉の穴見に参候事を頼たる書状持参す【慥 ニ恵門院と覚候得共、拾弐坊の書付も有しニ見失申候】寺を尋て状 を出せしに、主僧病気相対返事もなし、伴僧出て挨拶、黄泉穴の事 ハ聞及たるのミにて不存とて、此寺に年来居候、庄兵衛といふ六十 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 一七
歳はかりなる者、川下村出生のよし、案内せよとて出されたり、此 鰐淵山杵築辺より越るハ裏にて、正面ハ川下村より登る方にて、二 王門を出て、道の端、岩のうへニ高サ三尺斗も可有、唐金の不動、 覆ひもなく立たり【細工至よろし】是よりは谷もちと広く、稀にハ 民家左右田畑あり、山林も寺よりかミとはかはり、心まかせに伐る と見えて松山多し【惣て来りし峠の辻堂の辺より川下村まて弐里の 間ハ皆谷合、左右ハ嶺也】又、一里といふをくたれは川下村也【此 川下村と鰐淵山頂境も案内をなしか忘申候】是ハ鰐淵山より出る川 も又、杵築弥山より流るゝ川も一所になりて海ニ入る也【弥山より 流るゝ川ハ、此所にて歩行渡なりかたく、橋をかけたり、鰐淵山よ り出るハ、其半分程の水也】三四丁も下りてハ、此地、海はたなれ ど、漁者ハなく、皆農人也、遥るか向には浦も見え、家も並び、白 壁なとも見ゆれと貧家多し【向に見ゆるといふは、此所皆入海なれ は、東ノ方、池のまわりの形のことくの所に浦町なとも見ゆ】爰ハ 皆入海にて、本海ハ遥に沖に見ゆる、川下村も奥岡村も海はたより 並て、境ハ山まて見通しのよし也、大概図ニ川下村と有あたりより 西ハ皆川下村、家二軒あるあたりゟ東の方皆奥岡村にして、黄泉穴 ハ勿論奥岡也【郡ハ神門郡と答申候】川下村ゟ奥岡江来るハ、浜路 四五丁皆真子小餅位の石也、夫より図ニ十八丁といふ道にかゝる也、 此辺人家あちこち多ク、田畑にて小川を伝ひ登る【奥岡山より出る 流れ也、水もよつと出る、又、此辺土地ハ不定】十弐三丁も来りて、 彼図ニしるせし上ノ家ニ尋ぬ、此家四間ニ弐間ほどニてちさけれと、 畳なと敷て立具も相応ニ取繕奇麗也、家内の人皆田畑へ出て、年比 廿四五はかりの尼一人留守をしたり、庄兵衛尋けるハ、此あたりの 山に冥途の穴といふ穴あり、若き時ハ見し事もあれと、年久しくな りて不覚、是より何ほとかいつれの道より行くやらんととふに、か の尼不審げに、わたしハ此家の子なれとも、はや十年余も寺やあち こちして不存、子どもの時もさやうの咄ハ聞し事もなしと答ふ、庄 兵衛しハらく思案し、何方へか行帰りて申けるハ、私も見たるハ年 久しく相成たる事なれは、尋歩行とも分りかね可申、よりて能案内 をやとひ出し候といふうち、農人壱人歳七十斗と見えたる【其名忘 申候】が来りて、其冥途の穴の事、只今にてハ、ちかくても若き者 ハ決して存不申、私案内可申といひて、家より田ノ畔を少し通りて、 追々登り、山にかゝれは、甚嶮岨なり、それに又、転ひ石、草木の 中にかゝりて、踏は石ともに落へき所も有、又、大石もあらはれて 重り合てあふなき中をさま〳〵たどり登る【図に石を書たるあたり 也】此山ふとき木ハ、皆此里の薪に伐たるよし、松ばかり稀ニ立て 外ハ野山の草木にて、すゝきかちなるに、萩棘、ほていぎ、卯ツ木、 栗、真木【かしはのことくにて葉の疎ニ早ク落るを、此辺にてまき といふ、皆ほだそまきなどノ類度く苅取故小木ニ成候】稀にハ猿匐 いぎなと繁合たり【薪をとるにケ様に棘多キ所ハとり帰りても焚に も難儀なれば、そこにてハとらず、其所ハいよ〳〵盛長して通りが たし】笠を着せず、各ぬきて木の枝、石の上に置けど、着物にかゝ て甚くるしむ、されと秀満ハ馴たる事なれハ、踏つけくゝり、かな たこなたへ行曲り登るに、有慶ハ若くても足ふるひ、色を失ひての ほることあたはす、案内、今、五六間なるそといふに、力を得て三 福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国学編) 、六、二〇一五 一 八
人跡につゝひてのほるに【此山海手より見あぐる所ハ、さまで高く も嶮くも見えぬに、登るハ甚くるし、下ハ石多ク、穴近ク成てハ棘 多キ草木繁りし故也】さまてけはしき山に、たとへば、家にて縁な どのごとく、横ハ長く、幅ハ四五尺も有へく見えて少しろくなる所 あり、則爰也といふに、草猶繁りたる中に穴あり【草靡きて穴ハ纔 ニ見ゆ。此草ハ棘などハなく、すゝき、よもき、其外のも多ク小筋 に長く繁りたり、土肥たる故か】口ハ草も年々朽、又、外ニ土も流 れて寄しにや、ちとちさく見ゆれと、中ハ図のことく弐尺四五寸位 ニ三尺も長丸に、穴の底ハ直ぐに揬ぬけたる躰井のかたち也、穴の 中のくるり、南の方ハ一枚石と見えて板なすを削り立たるかことし、 長サ壱丈五六尺も其餘も幅弐尺斗、底ハ此石、北の方へ少し靡きて 見ゆる【此石幅ハ広き所も有へけれと、井のかたちに双方より又石 こみたれはミえす、上より見下したる躰也、又、靡きて見ゆるも纔 にても直グに見下す故ならん、穴ハ全体ゆがみたるに非す、靡きた る、底も穴ハせまくも見えす】其外のくるりハ、石にて常の井を積 揚たるごとく、出め入めハ多ク、石ハ角立て都合の穴のかたちハ丸 く見え候、其石皆油石青石の類にあらず、磨石などの類にてあらめ よ、色ハ白く又黄ばみたる所も有て、角有われ目多きが自然に割れ たると見ゆるも在りたると見ゆるも、所々ハ土も付て石のかたちみ えぬ所も有かとミゆれと、大概自然にわれたる様子也【其わかれた るかたち、ふときハ弐尺、こまかなるハ七八寸とも見えて、三角四 角 ひ ら め に も 竪 長 な る も、 さ ま 〳〵 有。 】 上 へ 近 き 所 ハ 苔 も つ き て 見ゆれど、底の方ハかはきて一向に水気なし【井のかたちながら急 度さしあけたるごとくニもあらず、内のぐるりハ、そこかしこ入込 たる所も有ど、穴の見通シさし出たる石ハ決してなし】此辺のかた り伝に、此穴よりのぼる毒気にあたれば、忽に息終るよし聞ば、恐 敷て永くハ見る事も成がたけれど、正く見たればしるしもなき事な れと、ふたゝひ臨む、右の通のかたち也【追々大社辺よりも見に行 人も多くて、其見たるさまハたかふ事も有べけれど、随分と秀満も こまかに心をつけ覚申候】案内両人共ニかたる、先年、かの鰐淵山 開 基 智 證 上 人、 此 穴 へ 定 入 せ ら れ た る よ し 語 る【 鰐 淵 山 縁 起 に も 有よし也、此穴へ這入る事ハ誠恐敷事ニ候、此突抜たる事何程なら ん】又、此穴へ先年ハ石を投込時ハ、凡多はに二銀ものむ間ほども 石に当てとよむ音聞えしが、四十年ばかり以前、ある若き者、大石 を一つ転バし込たるに、其後ハ石を落しても音永くせず、此大石、 穴の中にかゝりて、それに又かゝる故かとかたる、さて、此山の名 を問ふに、嶺は只奥岡の山といひて、山の名はなし、此所をすべて ぞうが谷とよふ、木こり草かり皆今而ハぞうが谷へ行ん、又ぞうが 谷 ニ ハ よ い の が あ る な ど 聞 に、 皆 谷 と い ふ よ し 也【 谷 と い へ ど 弐 つ立たる山にして、是も又中ハくぼみ有りて嶺ハ三つも四つも有】 中に溝川ありて、水音聞ゆ程に流れ出たる、此穴ハ岡のごとく東の 方の嶺弐三歩通ニ有、真中の南也。嶺ハ至て高く、西の方の嶺の後 は直に鰐淵山のよし也【案内左衛門、此穴のあたりよりは見渡しな れとも遠く見ゆる】さればかの瀧壺のあたりよりハほとちかけれと、 嶮しき山なれは、越る道なく、一里川下村へ下り、又、濱路四五丁 も通り登れは一里半余、山の内曲り〳〵のほるハ、二里の苦ミとも 膽吹: 『玉勝間』の聞書き章段に関する研究 ―翻刻・斎藤秀満『雲州黄泉穴一見之覚』― 一九