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近世在地修験と地域社会―秋田藩を事例に― 利用統計を見る

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近世在地修験と地域社会―秋田藩を事例に―

著者

松野 聡子

学位授与大学

東洋大学

取得学位

博士

学位の分野

文学

報告番号

32663乙第218号

学位授与年月日

2017-03-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008953/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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-序

近 年 、 「 東 北 学 」 の 隆 盛 に よ り 東 北 地 域 に 対 す る 歴 史 的 文 化 的 関 心 が 高 ま っ て い る 。 「 東 北 」 と い う 名 称 は 、 近 世 期 ま で 東 日 本 一 帯 を 指 す 語 と し て 用 い ら れ 、 現 在 「 東 北 」 と さ れ る 地 域 は 、 か つ て 「 道 の 奥 」 を 意 味 す る 「 み ち の く 」 と 呼 ば れ て い た 。 ま た 「 奥 羽 」 と は 、 律 令 国 家 が 誕 生 し 、 行 政 区 分 で あ る 五 畿 七 道 が 整 備 さ れ た と き に 東 山 道 の 最 北 端 に あ っ た 陸 奥 国 ・ 出 羽 国 を 合 わ せ た 地 域 の 総 称 で あ り 、 蝦 夷 と 呼 ば れ る 原 住 民 の 住 む 異 境 の 地 で あ っ た 。 律 令 制 国 家 に と っ て 蝦 夷 は 畏 怖 の 対 象 で あ っ た が 、 そ れ は 東 北 地 方 の 火 山 噴 火 と 蝦 夷 が 叛 乱 を 起 す 時 期 と が 重 な っ て い た こ と が 一 因 に あ る と さ れ て い る 一 。 や が て 中 央 集 権 国 家 は 蝦 夷 を 国 家 に 属 す る こ と を 拒 絶 す る 「 ま つ ろ わ ぬ 民 」 「 あ ら ぶ る 者 」 と し て 討 伐 の 対 象 と み な し 、 差 別 的 ・ 従 属 的 な 見 方 を す る よ う に な っ た 。 以 降 、 東 北 地 方 は 後 進 地 域 ・ 辺 境 地 域 で あ る と い う 認 識 が 定 着 化 し て い く こ と に な る 二 。 近 代 東 北 史 を 研 究 す る 河 西 英 通 は 、 東 北 地 方 の 情 報 に つ い て 差 別 的 な 表 現 が 含 ま れ る よ う に な る の は 一 八 世 紀 以 降 で あ る と し て い る 三 。 こ の こ と は 近 世 中 期 に 東 北 地 方 を 見 聞 し た 野 田 成 亮 と 古 川 古 松 軒 の 著 述 か ら も 見 て 取 れ る 。 古 川 古 松 軒 は

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2 -近 世 中 期 の 地 理 学 者 で 、 天 明 八 年 ( 一 七 八 八 ) 、 幕 府 巡 見 使 に 同 行 し 東 北 地 方 を 視 察 し た 時 の 様 子 を 『 東 遊 雑 記 』 に 記 し て い る 。 古 川 は 『 東 遊 雑 記 』 の な か で 、 由 利 郡 か ら 雄 勝 郡 西 馬 音 内 に 至 る 道 中 に つ い て 「 こ の 山 に は 、 桔 梗 ・ 苅 萱 ・ 女 郎 花 数 百 本 咲 き 乱 れ 、 そ の う つ く し き こ と 筆 に 尽 く し 難 く 」 と 山 間 部 の 村 落 風 景 を 叙 情 的 に 記 し て い る 一 方 で 、 領 民 に つ い て は 「 し か れ ど も 人 足 の 者 ど も 士 に 会 せ る こ と な き 所 に て 礼 を 知 ら ず 、 無 礼 の 体 、 夷 狄 の 風 か く や あ ら ん と 思 わ れ し な り 。 案 内 に 出 ず る も の は 庄 屋 名 主 な る に 、 こ の 辺 よ り は 無 筆 の 者 あ り て 、 郷 村 の 文 字 も 知 ら ず 、 言 語 も 解 し 難 く 、 こ ま り し こ と ま ま あ り 。 」 四 と 否 定 的 か つ 差 別 的 に 著 述 し て い る 。 ま た 文 化 九 年( 一 八 一 二) 、 醍 醐 寺 三 宝 院 の 命 で 各 地 の 末 派 修 験 の 見 聞 の た め 九 峰 ( 英 彦 山 ・ 石 鎚 山 ・ 箕 面 山 ・ 金 剛 山 ・ 大 峰 山 ・ 熊 野 山 ・ 富 士 山 ・ 羽 黒 山 ) を 行 脚 し て い た 野 田 成 亮 ( 泉 光 院 ) も 、 羽 黒 山 ・ 湯 殿 山 へ の 入 峰 と 鳥 海 山 参 詣 の た め 矢 島 藩 領 を 托 鉢 し て 廻 っ た 際 、 出 会 っ た 二 人 の 在 地 修 験 者 の 様 子 に つ い て 「 文 化 十 三 年 七 月 廿 七 日 晴 天 。 八 島 立 、 辰 の 刻 。 元 光 寺 と 云 ふ 修 験 寺 へ 行 く 、 至 っ て の 田 舎 也 。 又 小 川 村 と 云 ふ に 分 峯 寺 と 云 ふ 修 験 寺 あ り 行 く 。 世 事 に は 賢 く 法 に は 疎 し 、 直 ち に 立 つ 。 」 五 と 「 日 本 九 峰 修 行 日 記 」 に 記 し て い る 。 古 川 が 「 夷 狄 の 風 」 と 差 別 的 に 受 け と め た 難 解 な 「 言 語 」 も 、 農 民 か ら す れ ば 日 常 的 に 話 し て い る 「 言 語 」 で あ る し 、 野 田 の い う 「 世 事 に は 賢 く 法 に は 疎 し 」 と い う 評 価 も 、 本 山 醍 醐 寺 三 宝 院 で 修 法 を 学 ん だ 成 亮 と 、 日 々 農 民 を 相 手 に 祈 祷 行 為 を し て い る 在 地 修 験 と で は 立 場 が 異 な る 。 つ ま り 、 古 川 古 松 軒 や 野 田 成 亮 の 指 摘 は 、 本 来 中 央 ( 江 戸 ・ 京 都 ) と 地 方 、 立 場 や 文 化 が 異 な る と い う だ け で あ っ て 、 「 東 北 地 方 = 後 進 的 」 と は な ら な い 筈 で あ る 。 ま た 秋 田 藩 に つ い て 言 え ば 、 近 世 初 期 に は 京 都 に 遊 学 し 、 伊 藤 仁 斎 ・ 東 涯 親 子 に 学 ん だ 藩 士 が 多 か っ た 六 。 ま た 近 世 中 期 以 降 は 、 藩 校 明 徳 館 の 教 授 と し て 平 田 篤 胤 を 召 致 し 、 藩 内 に 国 学 思 想 が 隆 盛 、 藩 も 全 国 規 模 の 平 田 篤 胤 の 門 人 ネ ッ ト ワ ー ク を 利 用 し 、 各 地 の 情 報 を 収 集 し て い る 七 。 こ う し た こ と を 鑑 み て も 、 少 な く と も 支 配 層 に つ い て み れ ば 、 学 術 的 ・ 思 想 的 な 部 分 に お い て 、 そ の ほ か の 地 域 よ

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3 -り 秋 田 藩 、 ひ い て は 東 北 地 域 が 著 し く 劣 っ て い た と は 言 え な い 。 し か し 、 野 田 成 亮 や 古 川 古 松 軒 ら の 偏 見 的 な 記 述 が 、 そ の 後 も 続 く 、 東 北 地 方 に 対 す る 差 別 観 を 植 え 付 け る 一 因 と な っ た こ と は 否 定 で き な い 。 そ の 後 、 東 北 地 方 に 対 す る 後 進 的 認 識 が 決 定 的 と な る の が 戊 辰 戦 争 で あ っ た と さ れ る 八 。 周 知 の 通 り 、 会 津 藩 を は じ め と す る 東 北 諸 藩 ( 秋 田 藩 は 除 く ) は 奥 州 列 藩 同 盟 を 結 び 明 治 政 府 に 抵 抗 、 そ の 後 「 朝 敵 」 と し て 位 置 づ け ら れ た 。 当 時 の 東 北 諸 藩 の 動 向 に つ い て 田 中 秀 和 は 「 奥 羽 は 戊 辰 戦 争 の 時 に 奥 羽 列 藩 同 盟 を 結 成 し て 、 朝 廷 に 刃 向 か っ た と い う 点 に お い て 、 中 央 政 府 要 人 に と っ て 危 機 感 を 抱 か せ 、 そ れ ゆ え 『 教 化 』 『 皇 化 』 の 必 要 な 地 域 と し て 認 識 さ れ る に 至 っ た 。 」 九 、 ま た 「 奥 羽 は 『 王 化 』 の 及 ば ぬ 地 域 と し て 位 置 づ け ら れ た の で あ っ て 、 明 治 政 府 の イ デ オ ロ ギ ー 装 置 と し て 、 遅 れ た 地 域 と し て 設 定 さ れ た と も い え よ う 。 」 一 〇 と 述 べ て い る 。 言 わ ば 、 奥 羽 列 藩 同 盟 が そ れ ま で の 東 北 地 方 に 対 す る 後 進 的 認 識 に 拍 車 を か け た こ と に な る 。 明 治 新 政 府 の 、 東 北 地 方 の 領 民 に 対 す る 「 教 化 す べ き 存 在 」 と し た 偏 見 的 な 見 方 、 ま た そ の 後 の 地 域 的 不 均 等 な 発 展 に 対 す る 不 満 、 そ う し た 様 々 な 劣 等 感 が 、 東 北 地 方 の 民 衆 を 自 由 民 権 運 動 へ と 駆 り 立 て て い く こ と に な る 。 ま た 東 北 史 を 研 究 す る 菊 池 勇 夫 は 、 東 北 史 像 の 再 構 成 の 鍵 を 握 っ て い る の は 蝦 夷 と 米 で あ る と し 、 戦 前 の 東 北 歴 史 学 の 状 況 か ら 、 東 北 地 方 の 後 進 性 を 近 世 日 本 に 規 定 さ せ た 要 因 が 稲 作 に あ る こ と を 指 摘 し て い る 一 一 。 近 世 封 建 制 社 会 に お い て 稲 作 は 、 幕 藩 制 国 家 の 財 政 面 を 左 右 す る 重 要 事 項 で あ っ た 。 東 北 地 方 に 稲 作 が 伝 わ っ た の は 弥 生 時 代 で あ る 。 し か し 稲 は 元 来 、 東 南 ア ジ ア 地 域 を 原 産 と す る 植 物 で あ り 、 温 暖 期 ・ 寒 冷 期 の 差 異 は あ る が 、 日 本 に お け る 稲 作 可 能 地 域 は 北 関 東 地 域 、 福 島 県 付 近 が 北 限 と な る 。 つ ま り 東 北 地 方 は 、 稲 作 に と っ て 自 然 環 境 的 限 界 地 域 で あ る た め 収 穫 量 は 安 定 的 と は 言 え ず 、 数 年 に 一 度 は 冷 夏 や 気 象 災 害 に よ る 不 作 に 見 舞 わ れ 「 ケ カ チ 」 と 呼 ば れ る 大 飢 饉 に 陥 る 。 そ の た め 東 北 地 方 で は 長 く 狩 猟 ・ 採 集 を 並 行 す る 必 要 が あ り 、 そ の 結 果 、 弥 生 時 代 以 降 も 縄 文 時 代 さ な が ら の 生 活 様 式 が 残 る こ と に な っ た 。 近 世 期 以 降 も 、 稲 作 に 向 か な い 山 間 地 は 畑 作 に 重 点 を 置 か ざ る を 得 ず 、 そ う し た 生 活 様 式 が 東 北 地 方 を 後 進 的 地 域 で あ る と 規 定

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4 -す る 元 凶 と な っ た と 言 わ れ る 。 加 え て 戦 後 の 歴 史 学 、 と く に 村 落 史 研 究 の 主 流 で あ っ た 社 会 経 済 史 に つ い て も 「 米 中 心 史 観 」 を 助 長 す る 要 因 と な っ た と さ れ る 。 実 際 、 東 北 地 方 を 対 象 と す る 地 域 史 研 究 を み て み る と 天 保 ・ 天 明 の 大 飢 饉 に お け る 東 北 諸 藩 の 対 応 、 貧 民 救 済 活 動 に 重 点 が 置 か れ て い る も の も 多 い 。 菊 池 は 「 … 誤 解 し て な ら な い の は 、 い つ も 東 北 地 方 が 飢 饉 で 苦 し め ら れ て い た か の よ う に 描 き 出 す の は 間 違 い で あ っ て 、 大 量 に 移 出 で き る 余 剰 米 を 持 ち 、 米 に よ っ て 潤 う こ と も あ り 、 ま た 忘 れ ら れ た こ ろ に 襲 っ て き た 大 飢 饉 で あ っ た 」 一 二 と し 、 稲 作 を メ ル ク マ ー ル と し た 東 北 像 の 描 き 出 し 方 に つ い て 否 定 的 な 姿 勢 を 示 し て い る 。 近 年 、 赤 坂 憲 雄 を 中 心 に 「 東 北 学 」 が 提 唱 さ れ て い る 。 赤 坂 は こ れ ま で 稲 作 中 心 の 民 俗 ・ 歴 史 理 解 か ら の 解 放 、 「 米 中 心 史 観 」 に 養 わ れ た 西 か ら の ま な ざ し を 廃 し 、 「 も う ひ と つ の 東 北 」 を 描 こ う と し て い る 一 三 。 そ し て そ の 具 体 的 手 法 の 一 つ と し て 、 東 北 地 方 を 一 つ の 括 り と し て 見 る の で は な く 、 伝 統 文 化 や 習 俗 に よ っ て 地 域 的 な 個 性 を よ り 詳 細 に 個 別 的 に 見 る と い う も の で あ る 。 例 え ば 、 近 世 東 北 地 方 の 書 籍 流 通 と い う 部 分 に 焦 点 を 当 て て み れ ば 、 各 地 域 の 家 の 所 蔵 書 籍 の 分 析 か ら 、 山 形 県 内 陸 地 域 は 江 戸 文 化 の 影 響 を 強 く 受 け て い る の に 対 し 、 北 前 船 の 寄 港 地 で あ る 同 県 酒 田 は 上 方 文 化 に よ る 影 響 が 強 く 反 映 さ れ て い る 。 ま た 宗 教 的 に み れ ば 、 早 池 峰 山 、 出 羽 三 山 そ し て 鳥 海 山 と い っ た 霊 山 の 麓 に は 古 代 よ り 山 伏 が 居 住 し 、 そ れ ぞ れ 蝦 夷 文 化 を 遺 し な が ら も 仏 教 文 化 を 取 り 入 れ た 地 域 性 の 強 い 独 自 の 宗 教 文 化 が 形 成 さ れ 、 東 北 文 化 を 形 成 す る 様 々 な 祭 祀 や 芸 能 、 伝 統 的 習 俗 と し て 位 置 づ け ら れ て い る 。 今 日 、 東 北 地 方 は 新 た に 提 唱 さ れ た 「 東 北 学 」 を 通 じ 、 か つ て の 均 質 的 な イ メ ー ジ を 脱 却 し 、 各 地 域 の 自 律 的 か つ 固 有 的 な 歴 史 像 の 形 成 を 必 要 と し て い る と 言 え る の で あ る 。

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古 来 よ り 日 本 人 は 山 や 巨 岩 ・ 巨 石 、 滝 や 泉 を 神 の 依 代 と し て 崇 め 、 人 知 の 及 ば な い 自 然 の 万 物 に 畏 敬 や 畏 怖 の 念 を 持 っ て い た と さ れ る 。 ま た 日 本 に は 霊 魂 不 滅 の 思 想 が あ り 、 死 後 、 霊 魂 は 山 へ の ぼ り 麓 に 住 む 子 孫 を 見 守 る と 信 じ ら れ て い た 。 前 述 の 通 り 、 東 北 地 方 は 山 間 部 が 大 半 を 占 め 、 人 々 は 長 き に 渡 り 狩 猟 ・ 採 集 と い っ た 自 然 の 恩 恵 に 頼 る 生 活 を 続 け て き た 。 そ う し た 中 で 特 徴 的 な 山 岳 は 他 界 の 地 、 「 霊 山 」 と し て 信 仰 対 象 と な っ て い っ た 。 弥 生 期 、 稲 作 が 東 北 地 方 に 浸 透 す る と 、 山 岳 は 祖 霊 を 祀 る と い う 役 割 に 加 え 、 「 水 分 神 ( 田 の 神 ) 」 と し て の 要 素 を 併 せ 持 つ よ う に な り 、 山 岳 他 界 の 観 念 は さ ら に 進 ん だ 。 東 北 地 方 へ の 仏 教 伝 播 の 時 期 に つ い て は 定 か で は な い が 、 『 日 本 書 紀 』 の 持 統 天 皇 三 年 ( 六 八 九 ) 正 月 三 日 に 「 陸 奥 國 優 嗜 曇 郡 」 ( 現 在 の 山 形 県 置 賜 地 方 ) で 蝦 夷 の 者 が 出 家 し た い と 申 し 出 た と い う と い う 記 事 一 四 が 初 見 と さ れ 、 こ の 時 期 に は 律 令 国 家 に よ る 鎮 撫 と 蝦 夷 教 化 の 手 段 で あ っ た 仏 教 が 、 着 実 に 蝦 夷 の 社 会 に 浸 透 し て い た こ と が 窺 え る 。 ま た 東 北 地 方 に 最 初 に 仏 教 寺 院 が 建 立 さ れ た の は 宝 亀 一 〇 年 ( 七 七 九 ) 、 多 賀 城 の 設 置 に 伴 い 北 辺 の 経 営 と 国 家 の 護 持 を 祈 祷 す る た め に 付 設 さ れ た 官 寺 で あ っ た 。 こ う し た こ と か ら 鑑 み 、 七 世 紀 か ら 八 世 紀 頃 に は 、 東 北 地 方 に 仏 教 が 伝 播 し て い た こ と が 分 か る 。 平 安 期 、 最 澄 ・ 空 海 ら に よ っ て 山 岳 で の 籠 山 修 行 が 提 唱 さ れ る と 、 多 く の 修 行 僧 が 各 地 の 霊 山 で 籠 山 修 行 を 行 う よ う に な っ た 。 東 北 地 方 に 数 多 く 見 ら れ る 、 円 仁 や 修 験 道 の 祖 役 小 角 を 開 山 ・ 開 祖 と す る 霊 山 ・ 寺 院 は こ の 時 期 に 修 行 場 と し て 成 立 し 、 後 に 整 備 さ れ た も の で あ る と 考 え ら れ る 。 そ し て 籠 山 修 行 を 通 じ て 効 験 を 得 、 呪 術 や 加 持 祈 祷 に 秀 で た 修 行 者 は 「 山 に 臥 す 者 」 と い う 意 か ら 「 山 伏 」 と 称 さ れ 、 民 衆 よ り 崇 め ら れ る 存 在 と な っ た 。 そ し て 日 本 固 有 の 原 始 的 な 自 然 崇 拝

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6 -と 山 中 他 界 観 念 、 そ し て 神 道 と 仏 教 や 道 教 の 影 響 を 受 け 発 展 し た 山 岳 修 行 、 こ れ ら が 融 合 し て 生 み 出 さ れ た の が 修 験 道 で あ っ た 。 平 安 後 期 に な る と 末 法 思 想 の 影 響 か ら 浄 土 信 仰 が 広 が り 、 皇 族 や 権 門 貴 族 の 間 で 金 峯 山 詣 や 熊 野 詣 が 流 行 し た 。 特 に 熊 野 詣 は 隆 盛 し 、 権 門 貴 族 の 熊 野 詣 を 先 達 す る た め 山 伏 が 熊 野 や 吉 野 に 集 ま る よ う に な っ た 。 や が て 熊 野 御 師 や 熊 野 比 丘 尼 の 諸 国 行 脚 を 通 じ 熊 野 信 仰 は 東 国 に も 流 布 し 、 有 力 地 方 豪 族 は 積 極 的 に 熊 野 堂 を 勧 請 し た 。 な お 東 北 地 方 で は 当 時 、 円 仁 や 道 忠 の 高 弟 を 通 し 、 津 軽 山 王 坊 、 平 泉 中 尊 寺 、 出 羽 立 石 寺 そ し て 奥 州 松 島 寺 な ど 一 大 勢 力 圏 が 成 立 し て お り 一 五 、 こ う し た 天 台 宗 系 寺 院 の 中 に 熊 野 堂 が 勧 請 さ れ て い っ た 。 そ れ は 地 方 豪 族 に と っ て 熊 野 堂 が 信 仰 対 象 で あ る と 同 時 に 最 新 の 都 の 文 化 で あ り 、 そ の 動 向 は 都 の 文 化 の 流 入 を 図 り た い と い う 地 方 豪 族 の 心 性 の 顕 れ で も あ っ た 。 例 え ば 、 当 時 独 自 の 仏 教 世 界 を 構 築 し て い た 奥 州 藤 原 氏 も 中 尊 寺 の 境 内 に 熊 野 堂 を 勧 請 し た 。 な お 中 尊 寺 に は 衆 徒 と 呼 ば れ る 半 俗 の 僧 が 金 鶏 山 を 中 心 に 一 山 組 織 を 形 成 し た が 、 こ こ に も 熊 野 山 伏 の 影 響 が 窺 え る 。 中 尊 寺 衆 徒 は 平 時 に は 加 持 祈 祷 に 従 事 し て い た が 、 戦 時 の 際 に は 奥 州 藤 原 氏 の 軍 事 力 と し て 位 置 づ け ら れ た 。 ま た 出 羽 国 の 地 方 豪 族 小 野 寺 氏 に つ い て も 熊 野 信 仰 の 影 響 は 顕 著 で あ っ た 。 秋 田 南 部 地 域 を 支 配 し て い た 小 野 寺 氏 は 、 熊 野 御 師 米 良 実 報 院 と 結 び つ き を 持 ち 、 大 永 五 年( 一 五 二 五) に 阿 弥 陀 如 来 ・ 観 音 菩 薩 ・ 薬 師 如 来 か ら な る 熊 野 三 山 本 地 仏 の 懸 仏 を 製 作 し た 。 ま た 熊 野 早 玉 神 社 の 「 平 家 奉 加 帳 」 に も 小 野 寺 道 俊 ・ 道 成 の 名 が あ る な ど 、 小 野 寺 氏 の 熊 野 信 仰 へ の 帰 依 が 見 て 取 れ る 。 ま た 小 野 寺 氏 の 支 配 領 域 で あ る 「 稲 庭 」 に は 同 地 を 治 め た 稲 庭 氏 に よ り 勧 進 さ れ た 熊 野 三 山 が あ る な ど 熊 野 信 仰 の 浸 透 が 見 ら れ る 。 在 地 領 主 の 帰 依 を 背 景 と し 、 積 極 的 に 広 め ら れ た 熊 野 信 仰 は 民 衆 へ 伝 播 し た 。 熊 野 信 仰 は 地 域 の 鎮 守 神 と 習 合 し 、 村 落 に は 「 熊 野 権 現 」 や 「 熊 野 神 社 」 「 熊 野 堂 」 と い う 形 で 次 々 と 堂 社 が 建 立 さ れ 、 熊 野 信 仰 は 民 衆 に も 確 実 に 定 着 し て い っ た 。 熊 野 信 仰 の 伝 播 ・ 定 着 化 と い う 役 割 を 果 た し た 熊 野 山 伏 は 、 帰 依 し た 地 方 豪 族 や 在 地 領 主 の 熊 野 詣 の 先 達 を 勤 め る だ け で な く 、 村 落 に 寺 坊 を 構 え 修 行 や 祈 祷 行 為

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7 -に 従 事 し 、 次 第 に 在 地 に 定 着 化 し て い っ た 。 一 方 、 羽 黒 山 周 辺 に 原 住 す る 山 伏 も こ の 時 期 修 験 集 団 を 形 成 、 出 羽 三 山 を 信 仰 的 中 核 と す る 一 山 組 織 を 形 成 し て い く 。 そ の 後 、 戦 国 期 の 山 伏 は 在 地 領 主 の も と で 加 持 祈 祷 と 戦 時 に お け る 諜 報 ・ 軍 事 機 能 を 担 っ て 活 躍 し た が 、 慶 長 一 八 年 ( 一 六 一 三 ) の 修 験 道 法 度 発 令 以 降 、 諸 国 行 脚 を 禁 じ ら れ 、 定 住 が 原 則 化 し た 。 こ の た め 、 山 岳 で の 実 践 修 行 を 旨 と し て い た 修 験 道 は 、 宗 儀 の 形 骸 化 を 余 儀 な く さ れ た 。 以 後 、 山 伏 は 「 里 修 験 ( 在 地 修 験 ) 」 と し て 祈 祷 行 為 に 従 事 す る 傍 ら 、 近 世 初 期 の 新 田 開 発 に お け る 指 導 者 や 仏 教 思 想 や 民 衆 信 仰 の 教 導 者 と し て の 役 割 を 果 た し て い く 。 東 北 地 方 の 宗 教 的 環 境 に つ い て 長 谷 川 匡 俊 は 「 ( 東 北 地 方 は ) 非 浄 土 系 寺 院 が 圧 倒 的 多 数 を 占 め 、 し か も 修 験 道 に み ら れ る 呪 術 的 祈 祷 的 な 性 格 が 色 濃 い 地 域 」 一 六 と 定 義 し て い る 。 こ う し た 東 北 地 方 の 宗 教 的 観 念 を 形 づ く っ た の は 、 蝦 夷 の 時 代 よ り の 地 域 性 、 そ し て 自 然 崇 拝 や 山 岳 信 仰 に も と づ く 宗 教 的 風 土 に あ る 。 東 北 地 方 が 有 す る 宗 教 的 風 土 、 そ し て 厳 し い 自 然 環 境 が 当 該 地 域 を 修 験 道 優 勢 地 域 に さ せ た と 言 え る 。

次 に 本 論 の 研 究 対 象 と す る 秋 田 藩 領 の 山 伏 ( 在 地 修 験 ) に つ い て 、 そ の 様 相 を 確 認 し て お く 。 前 項 で も 述 べ た 通 り 、 平 安 期 末 の 熊 野 信 仰 の 隆 盛 が 東 北 地 方 ま で 浸 透 す る と 、 秋 田 の 在 地 豪 族 も 次 々 と 熊 野 山 伏 の 檀 那 と な り 彼 ら を 庇 護 す る よ う に な っ た 。 そ う し て 移 動 ・ 定 住 し た 熊 野 山 伏 に は 、 勧 請 さ れ た 熊 野 堂 の 別 当 と な っ て 村 落 で 宗 教 活 動 に 従 事 す る 者 と 、 霊 山 を 中 心 に 集 団 を 形 成 す る 者 と が い た 。 そ の 特 徴 的 な 山 伏 集 団 が 、 男 鹿 山 伏 と 鳥 海 山 の 山 伏 集 団 で あ り 、 彼 ら は 中 世 期 か

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8 -ら 近 世 初 頭 に か け て 独 自 の 宗 教 的 空 間 を 形 成 し た 。 男 鹿 半 島 は 三 方 を 海 に 囲 ま れ 、 本 山 ・ 真 山 と い う 霊 山 が あ る 。 な お 「 本 山 」 「 真 山 」 と い う 名 称 は 、 紀 伊 の 熊 野 本 宮 と 新 宮 に な ぞ ら え た も の と 言 わ れ て お り 、 男 鹿 の 山 伏 集 団 は 熊 野 山 伏 が そ の 元 と な っ て い る と 推 察 さ れ る 。 ま た 男 鹿 に 山 伏 集 団 が 形 成 さ れ た 背 景 に は 、 霊 山 以 外 に も 半 島 の 西 側 が 日 本 海 に 面 し 、 浄 土 信 仰 の 思 想 に 適 っ た 土 地 で あ っ た こ と も あ る 。 男 鹿 の 山 伏 集 団 は 、 主 に 永 禅 院 ・ 光 飯 寺 の 二 寺 院 を 中 心 と し た 集 団 で あ っ た 。 男 鹿 山 伏 は 土 地 柄 か ら 山 岳 だ け で な く 海 路 交 通 に も 精 通 し て い た 。 中 世 期 の 秋 田 地 域 の 様 子 に つ い て 記 さ れ た 「 奥 羽 永 慶 軍 記 」 に よ れ ば 、 天 正 一 〇 年 ( 一 五 八 二 ) 、 庄 内 武 士 団 が 羽 黒 派 山 伏 と と も に 秋 田 城 に 侵 攻 し て き た 際 、 男 鹿 山 伏 は 秋 田 城 城 主 秋 田 愛 季 と と も に こ れ を 迎 え 打 ち 、 羽 黒 若 王 寺 率 い る 水 軍 と 戦 っ た こ と が 記 さ れ て い る 一 七 。 近 世 期 に 入 る と 、 佐 竹 氏 支 配 の も と 永 禅 院 と 光 飯 寺 は 真 言 宗 へ と 転 宗 し 、 山 伏 集 団 は 解 体 さ れ た 。 し か し 男 鹿 半 島 一 七 村 に 、 そ れ ぞ れ 在 地 修 験 寺 院 が 存 立 し 、 修 験 道 優 勢 地 域 と し て の 様 相 は 近 世 を 通 じ て 変 わ る こ と は 無 か っ た 。 鳥 海 山 は 、 秋 田 藩 と 山 形 藩 の 領 境 に 位 置 す る 山 で あ る 。 鳥 海 山 は 古 代 よ り 幾 度 も 大 噴 火 を 繰 り 返 し て き た 火 山 で あ り 、 山 頂 の 大 物 忌 神 社 は そ の つ ど 朝 廷 よ り 高 位 を 与 え ら れ て い る 。 鳥 海 山 が 籠 山 修 行 の 場 と な っ た の は 円 仁 に よ る 登 拝 が 始 ま り と さ れ 、 鳥 海 山 山 麓 に も 出 羽 三 山 同 様 多 く の 山 伏 が 集 住 し た 。 し か し 出 羽 三 山 の 山 伏 が 羽 黒 山 を 中 核 と し て 一 山 組 織 を 形 成 し た の に 対 し 、 鳥 海 山 の 山 伏 は 蕨 岡 ・ 吹 浦 ( 山 形 側 ) 、 小 滝 ・ 矢 島 ・ 滝 沢 ( 秋 田 側 ) の 各 登 拝 口 に 小 集 団 を 形 成 、 各 集 団 は 鳥 海 山 の 山 上 権 を 巡 り 競 合 関 係 に あ り 、 一 山 組 織 を 形 成 す る こ と は 無 か っ た 。 近 世 期 、 鳥 海 山 の 各 修 験 集 団 は 、 当 山 派 法 頭 醍 醐 寺 三 宝 院 の 支 配 下 に 置 か れ る こ と に な っ た が 、 競 合 関 係 を 制 し 、 近 世 期 の 鳥 海 山 山 上 権 を 当 山 派 に 認 め さ せ た の が 蕨 岡 修 験 で あ っ た 。 蕨 岡 修 験 は 、 領 主 で あ っ た 最 上 氏 や 酒 井 氏 と 積 極 的 に 関 係 を 結 び 勢 力 を 拡 大 、 広 範 囲 に 渡 る 信 仰 圏 を 形 成 し た と さ れ る 一 八 。 ま た 当 山 派 内 で 、 鳥 海 山 順 峰 先 達 の 龍 頭 寺 ( 蕨 岡 ) と

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9 -逆 峰 先 達 元 弘 寺 ( 矢 島 ) に つ い て は 、 醍 醐 寺 三 宝 院 と は 別 に 、 一 山 の 修 験 に 対 し 官 位 昇 進 の 補 任 状 を 発 給 す る こ と が 許 さ れ て い た 一 九 。 集 団 に 属 せ ず 、 在 地 の 熊 野 堂 別 当 や 堂 守 と し て 領 民 を 相 手 に 宗 教 活 動 に 従 事 し て い た 在 地 修 験 は 、 慶 長 七 年( 一 六 〇 二) の 佐 竹 氏 入 部 後 、 そ の 大 半 が 当 山 派 末 の 修 験 と な り 、 「 修 験 大 頭 ― 頭 襟 頭 ― 末 派 修 験 」 と い う 藩 主 導 の 修 験 者 組 織 に 組 み 込 ま れ た 。 近 世 期 の 藩 領 内 在 地 修 験 数 に つ い て 正 確 な 数 を 示 し た も の は 無 い が 、 目 安 と し て 安 政 四 年( 一 八 五 七) に 行 わ れ た 調 査 を み て み る と 、 当 時 の 藩 領 内 の 宗 教 施 設 一 〇 七 二 寺 社 の う ち 修 験 寺 院 の 数 は 三 九 一 に も 上 り 、 こ の 数 は 他 の 仏 教 宗 派 寺 院 や 神 社 の 数 を 圧 倒 的 に 上 回 る 。 ち な み に 享 保 年 間 に 編 纂 さ れ た 「 六 郡 郡 邑 記 」 に よ れ ば 、 秋 田 藩 の 総 村 数 は 八 〇 三 村 と あ り 二 〇 、 お よ そ 二 村 に 一 軒 の 割 合 で 修 験 寺 院 が あ る と い う 計 算 に な る 。 た だ し 、 こ の 調 査 で 把 握 さ れ た の は 除 地 を 所 持 し て い る 修 験 寺 院 の み で あ り 、 無 掠 の 修 験 が 別 当 や 堂 守 を 勤 め る よ う な 小 堂 や 祠 は 含 ま れ て い な い 。 そ う し た 無 掠 の 修 験 寺 院 に 属 す る 者 た ち や 有 力 修 験 寺 院 の 弟 子 ら も 合 わ せ る と 領 内 の 在 地 修 験 は 相 当 数 で あ っ た こ と が 推 察 さ れ る 。 当 該 地 に お け る 修 験 道 の 隆 盛 が 、 こ の 土 地 特 有 の 宗 教 的 風 土 に 起 因 す る こ と は 前 項 よ り 述 べ て い る 通 り だ が 、 そ の ほ か に も 秋 田 藩 に お け る 在 地 修 験 の 繁 栄 の 背 景 に は 、 在 地 修 験 が 当 地 で 有 し て い た 社 会 的 地 位 も 関 係 し て い る と 考 え ら れ る 。 近 世 秋 田 の 在 地 修 験 の 様 相 に つ い て 、 秋 田 藩 士 石 井 忠 行 が 明 治 七 年 に 記 し た 『 伊 頭 園 茶 話 』 に は 「 修 験 峯 入 に 太 刀 佩 く な ど は 武 士 に 近 け れ ば 、 そ の 頃 ま で 二 三 男 の 厄 介 な ど 山 伏 に な り た る は 、 禅 浄 土 の 僧 に な ら ん よ り 増 な る べ し 」 二 一 と 記 さ れ て い る 。 こ う し た 修 験 者 の 「 半 僧 半 俗 」 の 風 体 は 、 の ち に 近 世 身 分 制 度 を 侵 す も の と し て 幕 府 よ り た び た び 追 及 さ れ る こ と に な る が 、 修 験 道 当 山 派 は 修 験 者 が 帯 び る 刀 は あ く ま で 悪 魔 降 伏 の た め の 法 具 で あ り 、 平 生 に も 帯 刀 す る か 否 か は 修 験 者 自 身 の 随 意 で あ る こ と 、 た だ し 修 験 道 で は 往 古 よ り 帯 刀 し て お り 、 帯 刀 を 差 し 止 め ら れ て は 諸 国 当 山 派 之 修 験 一 流 の 差 し 支 え に な る と し て 修 験 者 の 帯 刀 の 正 統 性 を 主 張 し 続 け た 二 二 。 ま た 有 力 修 験 寺 院 の 子 弟 の 中 に は 江 戸 や 京 都 に 遊 学 し 、 の

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10 -ち に そ の 知 識 を 地 域 社 会 に 還 元 す べ く 寺 子 屋 や 私 塾 を 開 い て 民 衆 ら の 指 導 に あ た る 者 も い た 。 当 該 地 に お い て 在 地 修 験 は 武 士 身 分 に 近 い な が ら も 地 域 社 会 に お け る 身 近 な 知 識 層 、 教 導 者 と し て 庶 民 の 崇 敬 を 集 め る 存 在 で あ っ た と 言 え る 。 近 世 を 通 じ 、 秋 田 藩 の 在 地 修 験 が 構 築 し た 社 会 的 地 位 、 ま た 在 地 修 験 が 携 わ っ て き た 伝 統 的 習 俗 は 、 神 仏 判 然 令 そ し て 修 験 道 廃 止 後 も 変 わ る こ と は 無 か っ た 。 そ の こ と を 示 す 一 文 が 、 英 国 人 旅 行 家 イ ザ ベ ラ ・ バ ー ド の 記 し た 『 日 本 奥 地 紀 行 』 に み ら れ る 。 明 治 一 一 年 ( 一 八 七 八 ) 六 月 か ら 九 月 に か け て 東 京 か ら 北 海 道 を 旅 し た バ ー ド は 、 同 年 七 月 二 一 日 に 仙 北 郡 神 宮 寺 村 ( 現 秋 田 県 大 仙 市 ) に 滞 在 し た お り 、 飾 り 付 け た 駕 籠 を 担 ぐ 人 々 の 後 に 、 「 僧 侶 」 (priest ) の 短 い 行 列 が 通 る の を 見 た と 記 録 し て い る 。 な お 、 そ の と き 「 僧 侶 」 は 「 袖 の な い 真 紅 の 法 衣 ( 原 文; chasubles ) と 白 い 鈴 懸 袴 ( 原 文; c a s s o c k s ) と い う 出 で 立 ち 」 で 、 「 人 の 名 前 や 人 々 が 恐 れ る 餓 鬼 の 名 を 書 い た 紙 」 を 入 れ た 「 笈 ( 原 文; ark ) 」 を 背 負 っ て お り 、 こ の 行 列 は 「 僧 侶 」 が 飾 り 付 け た 駕 籠 を 川 に 投 げ 入 れ る と い う 祭 り だ っ た と い う 二 三 。 こ の 文 章 に 表 れ る 「 僧 侶 」 の 出 で 立 ち は 修 験 者 の 装 束 を 表 わ し て お り 、 ま た 祭 事 は 時 期 的 に 施 餓 鬼 の 修 法 を 行 う 行 列 で あ る と 考 え ら れ る 。 な お 明 治 政 府 が 修 験 道 廃 止 令 を 発 布 し た の は 、 バ ー ド が 秋 田 を 訪 れ る 以 前 、 明 治 五 年 ( 一 八 七 二 ) の こ と で あ る 。 バ ー ド の 記 述 は 、 修 験 者 主 導 の 祭 礼 が 明 治 以 降 も 日 常 的 な 習 俗 と し て 続 け ら れ て い た と い う こ と だ け で な く 、 修 験 道 廃 止 後 も 秋 田 の 人 々 の 修 験 者 に 対 す る 崇 敬 が 変 わ ら な か っ た こ と を 示 し て い る と 言 え る の で は な い だ ろ う か 。 秋 田 藩 の 在 地 修 験 は 修 験 道 廃 止 後 そ の 多 く が 神 職 と な っ た が 、 そ の 地 域 社 会 に お け る 社 会 的 地 位 は 維 持 さ れ た 。 ま た 在 地 修 験 が 担 っ て き た 祭 事 も 同 地 の 伝 統 芸 能 や 伝 統 的 習 俗 と し て 根 付 き 、 今 日 に 至 っ て い る 。 秋 田 の 地 域 像 に つ い て よ り 豊 か に 描 き 出 す に は 、 地 域 社 会 の 文 化 や 信 仰 を 担 っ た 在 地 修 験 の 存 在 と そ の 動 向 に 注 目 す る こ と は 極 め て 重 要 で あ り 、 そ の こ と が 近 世 秋 田 藩 史 研 究 ま た 東 北 修 験 道 史 の 研 究 の 前 進 に も 繋 が る と 言 え る の で あ る 。

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-第

戦 後 、 近 世 宗 教 史 研 究 は 宗 教 社 会 学 ・ 歴 史 学 ・ 民 俗 学 の 各 分 野 か ら の ア プ ロ ー チ に よ っ て 進 展 し て き た 。 ま ず は そ れ ぞ れ の 分 野 に お け る 近 世 宗 教 史 の 視 角 と 研 究 の 流 れ に つ い て 整 理 し て お く 。 ① 宗 教 社 会 学 か ら の ア プ ロ ー チ 「 宗 教 と 社 会 」 と い う 視 角 を 最 初 に 見 出 し た の は 、 宗 教 社 会 学 で あ っ た 。 そ し て そ の 起 点 と な っ た の が 、 マ ッ ク ス ・ ウ ェ ー バ ー の 『 プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム の 倫 理 と 資 本 主 義 の 精 神 』 で あ っ た 。 ウ ェ ー バ ー は 同 論 の な か で 、 プ ロ テ ス タ ン ト 諸 集 団 の 世 俗 的 禁 欲 が 、 資 本 主 義 の 発 達 に 対 し 顕 著 な 役 割 を 果 た し た と 位 置 づ け た 二 四 。 こ う し た 宗 教 と 近 代 化 、 資 本 主 義 と の 関 係 に つ い て の 論 究 は 、 戦 前 の 政 府 と 国 家 神 道 の 関 係 を 切 り 離 し 、 ア メ リ カ 流 の 政 教 分 離 を 推 し 進 め る 戦 後 日 本 社 会 に 大 い に 受 け 入 れ ら れ 、 戦 後 の 人 文 学 ・ 社 会 学 に 大 き な 影 響 を 与 え た 。 日 本 に ウ ェ ー バ ー を 紹 介 し た 大 塚 久 雄 は 、 「 働 く こ と が 神 へ の 奉 仕 に な る 」 と い プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム に お け る 「 職 業 」 倫 理 が 近 代 資 本 主 義 の 精 神 を 生 み 出 し た と し 、 「 魔 術 か ら 解 放 」 さ れ 「 公 平 」 の 精 神 と 合 理 的 な 思 惟 能 力 を も っ た 勤 労 民 衆 に 近 代 人 を 特 徴 づ け る 要 素 を み て い た 二 五 。 な お 、 こ れ は 同 時 に 大 塚 が 日 本 の 近 代 化 の 上 で 求 め る 人 間 像 で も あ っ た 二 六 。 日 本 で 最 初 に ウ ェ ー バ ー の 説 く 宗 教 と 資 本 主 義 と の 関 係 に つ い て 、 日 本 宗 教 史 に 応 用 し た の は 、 一 九 四 一 年 に 発 表 さ れ

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12 -た 内 藤 莞 爾 の 『 宗 教 と 経 済 倫 理 ― 浄 土 真 宗 と 近 江 商 人 ― 』 で あ る 。 内 藤 は 強 い 「 信 仰 」 に よ っ て 浄 土 宗 か ら 分 派 ・ 独 立 し た 浄 土 真 宗 と ヨ ー ロ ッ パ の 宗 教 改 革 と の 類 似 性 や 、 真 宗 の 「 救 済 ( 往 生 ) は 信 仰 だ け に よ っ て 得 ら れ る 」 と い う 教 義 、 ま た 呪 術 ・ 祈 祷 を 禁 止 し て い る 二 七 点 な ど に プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム と の 近 似 性 を 見 出 し 、 ウ ェ ー バ ー に よ る 宗 教 社 会 学 の 中 心 テ ー マ で あ る 「 経 済 倫 理 」 に つ い て 、 近 世 期 の 近 江 商 人 が 多 く 信 仰 し て い た 浄 土 真 宗 と の 関 係 に 適 応 さ せ よ う と し た 。 内 藤 に よ る 日 本 の 近 代 化 と 浄 土 真 宗 と の 関 連 性 の 検 討 は 、 そ の 後 の 研 究 蓄 積 に よ っ て 現 在 は 消 極 的 な 見 方 を さ れ て い る が 、 日 本 の 近 代 化 と 宗 教 の 関 係 と い う 視 点 を 開 拓 し た 論 考 で あ っ た 。 そ の 後 、 内 藤 の 研 究 は 森 岡 清 美 に よ っ て 引 き 継 が れ た 。 森 岡 は 近 世 寺 院 史 料 を 活 用 し て 真 宗 教 団 内 の 本 末 関 係 や 寺 檀 関 係 を 分 析 し 、 世 襲 制 を 採 る 真 宗 教 団 の 構 造 的 特 質 を 「 家 」 制 度 か ら 明 ら か に し た 二 八 。 こ う し た 森 岡 の 「 家 」 を 社 会 の 基 盤 と 捉 え た 「 家 ・ 同 族 理 論 」 は そ の 後 歴 史 学 に 取 り 入 れ ら れ 、 森 岡 の 成 果 は 近 世 宗 教 史 、 と く に 真 宗 教 団 史 の 先 駆 的 業 績 と し て 評 価 さ れ て い る 。 ② 歴 史 学 か ら の ア プ ロ ー チ 歴 史 学 に お け る 近 世 宗 教 史 研 究 、 と く に 仏 教 史 研 究 は 「 仏 教 堕 落 論 」 の 克 服 と い う 課 題 が 起 点 と さ れ て い る 。 「 仏 教 堕 落 論 」 と い う 考 え 方 は 、 当 時 の 近 世 仏 教 史 研 究 に お い て 定 説 と し て 位 置 づ け ら れ て い た が 、 そ も そ も こ の 状 況 は 、 武 陽 隠 士 の 『 世 事 見 聞 録 』 二 九 の 記 述 か ら も 窺 え る 通 り 、 近 世 期 の 段 階 で 既 に 自 明 の も の で あ っ た 三 〇 。 し か し 辻 善 之 助 が 指 摘 す る よ う に 、 幕 藩 権 力 を 背 景 に 堕 落 状 況 に あ っ た の は あ く ま で 一 部 の 寺 僧 で あ り 、 教 義 そ の も の が 堕 落 し て い た わ け で は な か っ た 。 以 下 、 近 世 仏 教 史 研 究 の 推 移 に つ い て 、 『 岩 波 講 座 日 本 歴 史 』 の 論 文 掲 載 状 況 か ら み て い く こ と に す る 。 先 に 述 べ た 通 り 、 戦 後 の 近 世 仏 教 史 は 「 仏 教 堕 落 論 」 の 克 服 を 中 心 課 題 と し た 。 し か し 一 九 六 〇 年 代 の 近 世 宗 教 史 学 界

参照

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