ま え が き
大気の運動,河川・海洋の流れなどの流体現象は,我々の日常生活に身近な自 然現象の一つである.それゆえに流体現象の自然科学的手法による研究の歴史 も古く,またその研究成果も数多くある.例えば大気運動の理解は,日々の天気 予報に使われているだけでなく,台風,洪水,津波現象などの自然災害から我々 の生活を守ることにもつながりうる重要な研究テーマである.さらに,こうした 流体現象の原理的な理解を通して,航空機や船舶,自動車といったものが開発さ れ,これらは現代の文明社会の基礎技術の一つとなっている. このように,ありとあらゆるところに存在する流体現象ではあるが,その理解 は現代科学をもってしても未だ完全なものではない.例えば流体現象の一つに 「乱流」として知られる複雑な現象があるが,乱流現象の完全な理論的解明は未 だなされておらず,乱流理論は古典力学に残された最後の難問と言われている. しかし,観測も予測が難しい乱流のような現象がある一方で,例えば衛星写真に 写る台風の運動を見ていると,それがどう運動しているかを容易に観測するこ とはできるし,不十分とはいえある程度の予測もできるようになっている.これ が何によって可能になっているかを考えたとき,その原因の一つとして,台風の ような流れは典型的な「渦」構造をしており,それが特徴的な構造として我々の 目に見えることが挙げられよう.このような事実からもわかるように,流れ中の 渦構造に注目することによって複雑な流体現象を記述しようという考えは自然 である.実際,この考え方は非常に古くからあり,例えばレオナルド・ダ・ビン チの水路のデッサンなどでも見られる視点である.その後,渦に注目して流体運 動を理解するということを,数学によって定式化した数理科学者の一人が,ヘル ムホルツ(Helmholtz)である.彼は流れから渦を定量的に抜き出すために「渦度」と呼ばれる量を導入し,その時間変化を扱う数学的枠組みを提案した.その 最初とされている論文が出たのは1858年であり,いまから約150年前のことだ が,この後,渦を通した流体現象の理解が活発に行われるようになり,現在もな お有効な流体現象の研究手法を提供している.本書はこのような流体運動の中に 特徴的に現れる「渦」の運動に注目し,それをどのように数学を使って解析する かをできるだけわかりやすく述べたものである. 本書はこれまでに筆者が行ってきた研究と,これらの内容を理解するのに必要 な数学的基礎を付け加えたものから構成されており,研究モノグラフ的側面の 強い本であることを最初に断っておく.流体力学の数学的研究は非常に多岐にわ たり,本書で取り上げる「渦力学」だけを考えても,既に良書[125, 144]が存在 している.また,渦力学に関する研究は,現在でも数多くの論文が公表されてお り,非常に活発な研究分野である.そのため,これらすべてを網羅的に扱おうと するとたいへんな分量になるであろうことは想像に難くない.またたとえ,十分 なページが許されたとしても,これらの研究成果のすべてをまとめるのは筆者の 能力を超えるので,本来であればこういった渦力学に関する専門書を出版するこ とは非常にハードルの高いものである.しかし,本書が「連携する数学」と銘打 ったシリーズの中の一冊として,数学や流体数理を専門としない読者,あるいは これからこういった分野を学ぼうとする読者に向けて,流体の数理解析がどのよ うに行われているかを紹介するということに主眼をおいていることから,テーマ を二次元の渦運動で,しかも筆者が近年行ってきた球面や多重連結領域における 渦運動の数学解析と数値解析の結果に焦点を絞り解説をするだけでも,その目的 を実現することは可能であろうと大胆にも考え,本書を執筆した次第である.こ れらの数学的な結果の中にも渦運動が示す様々な理論的様相が多く含まれてお り,本書を通じて数理流体力学の面白さが読者に十分に伝われば幸いである. 本書の構成は以下の通りである.まず,第1章において二次元非粘性・非圧 縮流れの時間発展を記述する運動方程式(オイラー方程式)の導出を行う.二次 元流れ場に対して渦度を定義した後,この渦度分布に特殊な構造を仮定すること により,点渦・渦層・渦斑といった様々な渦構造の時間発展方程式を与える.さ らに第2章から第7章で扱っている球面渦運動の方程式も導出する. 第2章から第6章では,筆者の研究成果に基づいて球面渦運動の数学解析・
数値解析について解説する.点渦は渦度が空間内の一点に集中している分布に対 応しており,N個の点渦があったときに,それらが従う運動方程式はハミルト ン力学系(N点渦力学)として記述される.そこで第2章では,N点渦系の可 積分性とその数理解析,さらに有限時間で複数の点渦が有限時間で一点に衝突す るような特異解の構成などを行う.第3章では,力学系理論によるN点渦力学 の解析の基本となる点渦の定常配置の問題を考える. 第4章では,球面渦層の数理解析と数値解析を解説する.渦層とは渦度があ る曲線の上に線分布している状況をいい,ちょうど速度場が不連続になる面に 対応している.この渦層の時間発展はバーコフ・ロット方程式と呼ばれる微分積 分方程式で記述されるが,この方程式の解析を通じて,渦層にはその曲線の曲率 (二階微分)が有限時間で発散するという特異点の形成が示されると同時に,渦 層の長時間発展の数値計算の結果から,渦層がいくつかの大きな局在化した渦構 造を作りだすメカニズムになっていることなども指摘される. 第5章では,第4章の数値結果で示された渦層解の長時間発展を考える.そ の数理モデルとして,N点渦環と呼ばれる特殊な点渦配置の挙動を考え,ハミ ルトン力学系の一般理論(サドル・センター型不動点まわりのメルニコフ解析) の枠組みを用いて,その運動がカオス的になることを示す. 第6章では,地球流体への応用を念頭において,地球の自転の効果を取り込 んでN点渦環がどのように時間発展するかを調べる.自転の効果を取り込むと, これまでの章で考えてきたようなハミルトン力学系の枠組みに基づく数学解析を 行うことが困難になるので,数値計算を用いてその挙動を調べている.球面の回 転によって生じる定常渦度分布を自転の効果を表現する背景渦構造として取り込 み,それを区分的な定数関数(渦斑)で近似して点渦の運動との相互作用を調べ る. 第7章以後では,各章が一つ一つ渦運動にまつわる話題を独立に与えている. 第7章では,球面の渦度場を非常に多くの点渦で近似して,その相互作用とし て球面流体の運動を調べる数値計算手法(渦法)を用いるとき,N点渦の相互 作用を計算する必要があるが,このときに発生するO(N2)の多体問題の計算量 をO(N log N)に低減する高速tree-codeアルゴリズムを解説する.
で見られた現象の違いを,組みひも群と二次元円板上の同相写像の Thurston-Nielsenの分類理論を用いて解説する.この混合の理解は「位相カオス」という 概念の導入へとつながる. 第9章は,近年理論が整備されつつある二次元多重連結領域における点渦力 学とその応用について解説する.流体領域に複数の障害物がある場合,そのよう な流れは多重連結領域となり,生命流体や環境流体の数理的基礎として重要であ るが,こうした領域上の渦力学の理論が構築されてからまだ10年も経っていな い.この理論の日本語による本格的な解説は本書が最初のものであろう. これまで渦力学の勉強をしたことがない読者は,まず第1章を読んでほしい. この章は微分積分学,線形代数学,ベクトル解析,函数論などの(数学系に限ら ず)理工系の大学であれば広く教えられている知識があれば理解できる.また, 学生が自主ゼミなどでも読めるように配慮したので,これに続く章を読む上での 必要最低限の流体数理の知識は得られるであろう.第2章から第6章は,各章 とも独立に読めるようになっているが,続けて読むと渦力学の数学的・数値的解 析がどのように進められるかが実感できるし,渦力学を語る上で多くの必要な数 学的概念とその重要性が総合的に理解できるようになるであろう.第7章から 第9章は各章独立であるので,興味ある話題に沿って読んでもらえるとよいと 思う.特に第9章は,多重連結領域の点渦力学という,これから多くの数理モ デルとして使えるテーマに関する数学的基礎を紹介しているので,この章も学生 のセミナーのテキストとして使えるように書いた. 北海道大学大学院理学研究院 泉屋周一教授には,私のような若い研究者に本 書の執筆の機会を与えていただいたことを感謝いたします.本書のような新し い試みである数学書を発行する数学連携研究センターの活動が,今後とも発展す ることを祈っています.また,本書の内容は多くの方との共同研究に基づいたも のを含んでおり,これらの内容を本書に掲載することを快く承諾していただいた 広島大学の矢ヶ崎一幸教授,大阪大学の金英子准教授,南カリフォルニア大学の Paul Newton教授にも感謝いたします.本書を書くにあたり図版の版権の問題 を根気強く解決していただき,また本書の編集作業にも携わってくれた北海道大 学の高木由紀さんにも感謝したいと思います.共立出版の赤城圭さんには,原稿 の校正で大変お世話になりました.この場を借りてお礼を申し上げます.最後に
筆者が渦運動の研究に進むきっかけを与えてくださった京都大学数理解析研究所 岡本久教授に,この場を借りて心より感謝いたします.
平成25年2月