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Microsoft Word - ●●●九州王朝説 基礎の基礎 H.P.用

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九州王朝説基礎の基礎 松中祐二

例会日 [その1]171001 [その2]171105 [その3]180311 [その4]180408 本稿は、古田武彦氏により提唱された九州王朝説について、4回にわたって例会で解説した際のレジュ メに若干手を加えたものです。 古田氏ほか多くの先学の御玉稿を筆者なりにまとめたものですが、文責は一切筆者にあります。 なお本来なら、先行研究者の氏名を逐一記載すべきですが、その多くを割愛していることをご容赦くだ さい。 また、各項目は箇条書き程度に簡潔に記載しています。その正否や詳細については、各自で研究・調査 をお願いします。詳しくは九州王朝関係書等の成書をご精読ください。

1.「九州古代史の会」の沿革 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

2.林健太郎の手紙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

3.九州王朝説とは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

4.一元通念とは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

5.五世紀には大和政権が日本列島を支配していたとする三大根拠 ・・・・・4

6.神武王権は傍流 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

7.近畿天皇家は二種の神器 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

8.筑紫 「チクシ」か「ツクシ」か ・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

9.続日本紀 宣命 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・10

10.『日本書紀』の書名の『書』の字について ・・・・・・・・・・・・・10

11.漢籍の「倭」関連記事 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

12. 旧唐書と新唐書 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

13. 扶桑国について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

14.「仏教伝来」とは何か ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

雑記.古代研究は原文を読むべし ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

15. 九州年号 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

16.「禁書」と「残党狩り」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28

17. 倭都「太宰府」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29

18. 国内最古の条坊制都城 「太宰府」 ・・・・・・・・・・・・・・・・32

19. 神 籠 石 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35

20.『 金 印 』は二段読み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40

21. 天孫降臨 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45

22.「天国」はどこか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48

23.「邪馬壹国」はどこかいな ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50

24.「倭の五王」っちゃどこん人? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67

25.「磐井の乱」は「継体の乱」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72

26. ほんまかいな遣隋使? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・75

27.『隋書』俀国伝 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77

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1.「九州古代史の会」の沿革

-「倭国」を徹底して研究する- 九州古代史の会 会則 第三条 本会はわが国における中心権力が古来天皇家にのみあったとする従来の通念を非とし、「倭国」 を徹底して研究することにより、わが国古代の真実を明らかにすることを目的とする。 第五条 本会の会員は第三条の目的に同意し、会費を納入することによって会員となることができる。 →「九州古代史の会」会員は一元通念を非とし、それに同意した方。→ 九州王朝説を基調とした研究会。 *参考:「市民の古代研究会」会則(1989 年) いかなる権力、権威にも盲従せず、歪曲された歴史観を排除し、市民の立場から日本の古代史の 真実の姿を公正に研究する。

九州古代史の会の沿革

1971関東 「古田武彦と古代史を研究する会」 1972関西 「古田武彦を囲む会」 → → 1983 「市民の古代研究会」 1979西日本 「古田武彦を囲む会」 1 9 8 9 . 1 0 . 2 8 「 市民の古代研究会・ 九州支部」 発足 発起人 灰塚照明、鬼塚敬二郎、荒金卓也、加茂孝子、森洸次郎、柴田洋子、柴田文子 初代役員 代表幹事 兼川晋 常任幹事 灰塚照明  広報担当 荒金卓也 会計担当 鬼塚敬二郎 庶務担当 加茂孝子 会場担当 柴田姉妹 1992 「市民の古代研究会」、全国会員、800名を超える。 1993 「東日流外三郡誌」偽書説(『季刊邪馬台国』が大特集) 原田実(古田武彦氏の助手)らが偽書説を展開 研究会幹部で偽書派が主流となる 内紛勃発 多元的古代研究会・関東 多元的古代研究会・関西 古田史学の会 古田武彦と古代史を研究する会(東京) 市民古代史の会(青森) 1997 『新・古代学』の発刊経緯に関する認識の違いから古田武彦氏と対立 古田氏より、古田という名前の使用禁止を迫られる 1998.3.15 規約改正     ―「 倭国」 を徹底して 研究する―九州古代史の会  会名変更 2010.6.20 役員候補者不足の為、総会にて解散提案 → 提案否決。会継続決定。 1994  友好 古代史 研究団体 「 多元的古代研究会・ 九州の会」 発足 19 94 .5 .21 「市民の古代研究会」 分 裂 (会報№43参照) 解散 (代表 原田実) 2002

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- 3 - *1989 年、「市民の古代研究会・九州支部」として発足 *1993 年、東日流外三郡誌事件(和田家文書)に対し、激しい偽書説による古田史学攻撃が展開され、学問を 法廷で決着を付けようともされた。 *異様な状態になる中、市民の古代役員からも造反が出て、古田武彦をワンノブゼムとしか見ない、つまり、 一元通年と同列にしか見ない、乃至は、反古田を標榜する反主流派が反古田として造反した。 *総会や懇親会ではヤジが飛び交い、役員某は「いつまで古田を講演に呼ぶのか。私のガス抜きのために Y を 呼べ」と発言するなど、学問研究の場とは思えない状態になる。 *1994 年、主流派(古田派)が退会することで、市民の古代研究会は分裂。 *それまで市民の古代研究会は機関誌「市民の古代」を 15 回発行していたが、残った反古田派による「市民 の古代」の活動は衰退し、機関誌発行も3回で終わり、2002 年、いつの間にか解散。 *しかし、Y らによる東日流外三郡誌偽書説により、古田氏と九州王朝説ともども学界から無視する口実とさ れ今に至っている。→(会報№43参照) *1994 年の市民の古代分裂後に本会は「市民の古代研究会・九州支部」から「多元的古代研究会・九州の会」 へと改称した。 *さらに、多元史観の組織が全国的に再編され、中でも「多元」連合や「古田史学の会」は、ともに機関誌(新・ 古代学)を発行することになり、その企画書は本会が作成していた。 しかし、その運営を巡って見解の相違が生じ、その結果、本会は古田氏から絶縁されることになる。 それにより、1998 年、「-倭国を徹底して研究する-九州古代史の会」と改称。規則も改正し現在に至る。

2.林健太郎の手紙

(元東京大学学長、西洋史学者)

『詐欺師たちの時代』(「季刊邪馬台国」五七号所収 1995 年) 「御高著『虚妄の九州王朝』御恵送に与り誠に有難う御座いました。初版がよく読まれ、それがこういう 改訂新版に発展したのは慶賀の至りです。古田氏はオウム真理教麻原の如く信者を持っていますから何 度もやっつける必要があります。」 (注:『虚妄の九州王朝』1995 年・安本美典著)

3.九州王朝説とは

(中小路俊逸) 「中国の歴代王朝や朝鮮諸国が日本列島地域の中心的権力とみなし、国交の相手としていたのは、7世紀 までは九州に中心を置く王権であり、その傍流の一地域王権であった大和の王権が公式に国交相手とな るのは8世紀から」 *「中国が倭国と認識していたのは大和ではなく九州である」

4.一元通念とは

(会報№44 より。中小路俊逸 元愛媛大学教養学部教授・追手門学院大学文学部教授) 「大和なる天皇家の王権は7世紀よりも前から日本列島内で卓越した唯一の中心的権力であった」とい う、おなじみの『一元通念』にはもともと疑いをいれぬ確実な根拠がなかったという、この指摘について は反論が全くなく、そんな指摘があることさえ一般には伏せられている。

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5.五世紀には大和政権が日本列島を支配していたとする三大根拠

高校日本史 B[山川出版社・2000 年]は、5世紀には大和朝廷が日本列島を支配していた証拠として次 の3つを提示した。①稲荷山鉄剣・江田船山鉄刀問題 ②巨大古墳問題 ③宋書・倭王武の上表文

A:稲荷山鉄剣・江田船山鉄刀問題

a 稲荷山鉄剣の銘文 (銘文発見 1978 年) 『乎獲居臣 世々為杖刀人首奉事来至今 獲加多支鹵大王 寺在斯 鬼宮時 吾左治天下』 「オノワケノオミは杖刀人の首として仕えてきた。そして、大王 が斯鬼宮に在る時、天下を左治した」 ◎ワカタケル=雄略か? 「獲加多支鹵大王」。 *「獲」の草冠がない。鹵」は「西」の異体字の可能性もある。 (セイ)。他に, 㔽(ヨウ),卣(ヨウ)もある。 *もしこの通りでも、呉音で「ワクケタシル」。漢音で「カクカタ シロ」。『ワカタキル』とも『ワカタシロ』とも読める。 *古田武彦氏は、『獲』は動詞で「上位の者に信任を獲る」の意味であり『カタシロ大王』とする。 *『ワカタケル』は「若君」などの普通名称。景行紀にも『若建王』がある。 *雄略の「ワカタケル」は諡号であって、臣下がこのような鉄剣に記すはずがない。 *大王=天皇か? 日本書紀では即位前のことを大王といい、即位後は大王とはいわない。古事記では大 王の記述すらない。→「ワカタケル大王」は天皇ではない証拠。 ◎記紀で「シキ宮」にいたのは崇神・垂仁天皇であって雄略(長谷朝倉宮)ではない。 *埼玉稲荷山古墳の北東 20km、栃木県藤岡町に「磯城宮」という地名が在り。古くは「シキ」と呼ばれ た地域で、当地にある大前神社は、10 世紀以前の古名は「磯城宮」だった。 古墳の近所に「磯城宮」があるなら、もし鉄剣の斯鬼宮が近畿なら「大和の磯城宮」と書くはず。 ※ 銘文の「斯鬼宮」とは、近所の「磯城宮」のことではないのか。 ◎旧唐書によると、関東は毛人国である。毛人国の者が佐治天下するものだろうか? 左治天下とは摂政と同意。雄略を代行するような人物。それなのに、なぜ毛人国にいるのか? 某学者、「関東の田舎者でただの門番だった者が、地元でホラを吹いた」。 ◎杖刀人は大和の機構名にない。 ◎致命的矛盾。 「真ん中が主室。脇のは副」(森浩一)。 鉄剣は、森氏の言う「脇」(副墓室・図左上の礫槨・6世紀初頭)に副葬されていた。佐治とは主墓室 (図の真ん中の粘土槨・5世紀末)の被葬者を佐治したと考えるべきであり、主墓室の被葬者を無視し て、雄略を左治したとだけ書くはずはない。 ●稲荷山の鉄剣は、関東には天下を治したとする大王がおり、大和は関東を支配してなかった証拠。 (→しかし通説は、なぜか中心部の粘土槨を第二主体とし「脇」の礫槨を第一主体としている)

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- 5 - b 江田船山鉄刀の銘文 ◎『治天下 □□□歯大王世奉事典曹人』 「治天下 □□□歯大王世、典曹人として奉事した」 ◎ 大王の名前のうち3文字がまったく不明。「 」mǒu(モウ)も「鹵」もはっきりしない。 ◎「 」は「蝮」(タジヒ)で、以前は反正天皇(「蝮」タジヒノミズハワケ)だろうと言われていた。 ところが、稲荷山鉄剣の銘文が発見されると、一夜にして、「 」は「獲」、「歯」は「鹵」になり、 「治天下 獲□□□鹵大王」も『ワカタケル』と読むのだろうということになった。 →「恐るべき創造」(古田武彦) ◎稲荷山鉄剣の役職名「杖刀人」も、江田船山鉄刀の役職名「典曹人」も大和の記録にはない。つまり関 東・九州・大和には各々まったく違う政治機構があったことではないか。 ●これらのように、「近畿天皇家だろうとの前提」に立って、稲荷山鉄剣を『ワカタケル』と強引に読み、 被葬者を田舎者と嘘つき呼ばわりし、近所の「磯城宮」の存在を無視し、墓室の配置を無視し、主室の埋 葬者を無視し、強引に雄略天皇にコジツケ、このコジツケでもって、読めないはずの熊本の江田船山鉄刀 の銘文をも強引に雄略天皇にコジツケ、こうして、関東から九州までの統一王朝が実現したという虚構を 成立させている。

B:巨大古墳問題

◎岡山の造山古墳(4 位)・作山古墳(9位)、群馬の天神山古墳(28位)など、同時期の天皇陵とさ れる古墳より大きかった可能性がある古墳が沢山ある。 「より大きいほうが、とりもなおず、中心の統一の王者という基準尺は成立できないのである」(森浩一) ◎薄葬令:魏・文帝の詔勅。「いにしえの堯・禹らの時代は決して広大な王陵は建設されていない。自然 の丘陵などを利用して薄葬せよ。墓は後代においてその所を知らせないようにする。金銀を蔵するは愚俗 の為すところ。古今、いまだ亡びざるの国あらず、また掘らざるの墓なきなり」。 →中国から冊封された倭国、特に魏と親交して、文帝の後に死んだ卑彌呼が巨大古墳を造らせるか? 大和政権による薄葬令は 645 年「大化の薄葬令」。『世々中国と通ず』にしてはいかにも遅すぎる。 *楽浪郡・大きくても墳長 30m。 高句麗・最大の大王塚は 63.6m。 新羅・最大の鳳凰台古墳は 110m。 朝鮮半島前方後円墳・海南長鼓山古墳・77m。 福岡・岩戸山古墳 135m。 宮崎・女狭穂塚古墳 177m。 岡山・造山古墳 360m。 大阪・大仙陵古墳 486m。 →中国より遠い田舎ほど大きい。巨大古墳が多い地域は「文化程度の遅れた地域」(内倉武久) ◎韓半島における倭の戦闘記事(三国史記・日本書紀・好太王碑など) 3世紀(11 件)208/232/233/249/253/283/287/289/292/294/295 4世紀(6 件)346/364/391/393/399/400 5世紀(17 件)404/405/407/415/431/440/444/459/462/463/476/477/479/482/486/497/500/ 戦争:戦争に明け暮れ、五世紀の倭の五王(済・興)が戦死する(倭王武の上表文)などした倭国が、 これら巨大古墳を次々に築造する時間と費用があるか? 大仙古墳の築造には 15 年8ヶ月を要したという。→大和は平和な田舎 ◎倭王が臣下に同型の墓を許すものか?

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- 6 - ◎九州にある超ド級の豪華な遺跡=海の正倉院といわれる沖ノ島。 沖ノ島の土器はほとんど全て九州の土器であり(岡崎敬・元九大教授) あまりにも豪華すぎるため、九州の支配者がこんな豪華な遺跡を作れるはずがないから近畿天皇家が 作った遺跡だろうとされているが、大和の史書に沖ノ島のことは書かれていない。 「倭王は他の豪族と同じ形の墓を造るとは思えず、倭王の墓は前方後円墳ではない」(中小路俊逸) 「沖ノ島こそ倭王の墓だ」(坂田 隆) ●巨大古墳が数多くあるからこそ、近畿は日本列島の中心権力・倭国ではなかったとも言える。

C: 倭王武の上表文(宋書)

→ 詳しくは「24.倭の五王っちゃどこん人?」参照 ◎「武」の上表文に「自ら開府儀同三司を仮称し」とある。三司の府を開くということ。三司とは中国の 官位で「太尉・司徒・司空」あるいは「太宰・太保・太傅」のこと。太宰府はどこ? ◎『宋書』。「武」は中国皇帝から「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安 東大将軍・倭王」という称号を与えられた。都督とは「天子に代わって支配領域の軍事を司る」。中国に 冊封された西域や朝鮮半島などの国王もこの称号をもらう。都督の建物は都府楼。都府楼はどこ? ◎「渡りて海北を平らぐること九十五国」。畿内からは海西。朝鮮を海北と言えるのはどこ? ◎『宋書・倭国伝』に「倭国は高驪の東南大海の中に在り、世々貢職を修む」 →邪馬壱国が九州なら倭の五王も九州。 ◎「倭の五王」と「近畿天皇家の記紀」とは、名前も違う、系譜も違う、時代も違う、記紀には武の父と 兄が戦死した等という戦争記事もない。 ●「倭の五王」が「近畿天皇家」とは考えられない。

6.神武王権は傍流

中小路俊逸『日本文学の構図』(桜楓社 S58 年)より抜粋

図1 参照

神武紀には、「年十五にして、立ちて太子と為」った太子が九州(日向)から「東征」して大和の地を 獲得し、「橿原宮に 即あまつひつぎしろしめ帝 位 」したとしるし、即位の記事の直後に「初めて、天皇、 天 基あまつひつぎを草は創じめた まふ」と、この君がわが朝の初代君主たることを明示している。 すなわちこの話は、王ならぬ太子(九州で王であったむねの記載が記紀ともにないことが古田武彦『盗 まれた神話』に指摘されている)が東征して即位して一王朝の初代王となった話しなのであり、これを王 の東遷(ないし遷都)の話と解する説(津田左右吉『日本古典の研究』)は、明らかに誤りである。 ・・・前代(ウガヤフキアエズノミコト)は王でなかったと解するほかない。 すなわちこの話は記紀ともに“九州の王家の傍流の子孫たる一人物が、大和に新領土を獲得し、別の一 王朝をおこした”話にほかならない。 ・・・記紀の本文自体に、王朝の始原・初代王の出自という“肝心かなめ”の点につき、わが王朝は九 州の王家(当然、神武東征の前後にわたって存続したことになる)の傍流に発する、と告げられている。 この記述は『盗まれた神話』にすでに説かれたところと符合するものである。

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- 7 - ●もし神武東遷が遷都だったのなら、ニニギが初代であれば神武は 4 代目になるはず。しかし神武が初 代ということは、九州にはニニギ以下の王朝が存在したままだからである。 図1 神武王権は傍流 ①通説 九州→大和遷都説 ②中小路俊逸説 三種神器 十種神器 三種神器 十種神器 本流 傍流 神武 → → → 本流 神武 → → 初代 二種神器 二種神器 ③九州滅亡→遷都 ④九州での王朝不成立 ⑤九州で二王朝並立→神武分流 三種神器 十種神器 三種神器 十種神器 三種神器 十種神器 神武 → 神武 → 神武 → → 初代 初代 初代 二種神器 二種神器 二種神器 ニギハヤヒ? 大和 大山祇? 九州 ○○王 天照大神 ニニギ(初代) 大和 神武 天孫降臨 ○○王 九州 ニギハヤヒ? ニギハヤヒ? 大和 大和 大和 九州 九州 九州 × 第4代? 天孫降臨 × 大山祇? 天羽羽矢 歩靫 神武 ニギハヤヒ? ニギハヤヒ? × 神武 天照大神 天照大神 天照大神 ニニギ(初代) ニニギ(初代) ニニギ(初代) × 文 武 文 武 天孫降臨 天孫降臨 × × × 文 武 × × × × ○○王 文 武 文 武 神武 天孫降臨 × 神武 天照大神 ニニギ(初代)

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7.近畿天皇家は二種の神器

◎日本書紀と古事記に記載された 41 代の近畿天皇に「三種の神器」が出てこない。(藤田友治) 「鏡」「剣」の二種しか書かれてなく、「勾玉」がどこにも出てこない。 ◎神武の神器は「天羽矢一隻(あまのははやひとは)」「歩靫(かちゆき)」だけ。 ◎鏡と剣の二種あるのは、第 26 代の継体・28 代宣化・41 代持統の3人だけ。しかし、勾玉はない。 ◎近畿天皇家において「三種の神器」初出は、『平家物語』安徳天皇。 →「三種の神器」とは九州の文化であって、それが近畿天皇家にも伝わったが、最初は「二種の神器」 だけだったのではないか。 →近畿天皇家は「格下」の地方の一政権に過ぎなかった。あるいは、「三種の神器」文化圏、天孫九州 とは違う勢力だった。

●三種の神器

(21.天孫降臨 23.邪馬壹国はどこかいな 参照) ◎天照大神は「三種の神器」のセットを持って現れる。 →そして孫のニニギノミコトが糸島に天孫降臨する。 ◎糸島を中心として博多湾岸には、日本で唯一の「三種の神器」が副葬された弥生時代の王墓が5カ所存 在する。(吉武高木遺跡・井原鑓溝遺跡・三雲南小路遺跡・平原遺跡・須玖岡本遺跡) ◎仲哀紀の「岡県主の熊鰐」、「伊都県主の五十迹手」。景行紀の「香春の神夏磯媛(かむなつそひめ)」 は三種の神器を所持。 ◎「三種の神器」関連記事は九州ばかり。九州から大和へ伝わったものではないか。

8.筑紫 「チクシ」か「ツクシ」か

「筑紫」・「竺紫(古事記)」・「竹斯(隋書)」 (上古音:雅言。三国・南北朝時混乱→中古音。平原のため南北差は少ない) 筑・竹:呉音漢音 チク 中古音/tIuk/ 竺 :呉音漢音チク(トク)中古音/tIuk/ 慣用音 ジク *『万葉集』:「ツクシ」と発音する歌に、明らかに作者が筑紫人の歌はない。 → 表1 参照 *現地で「つくし」という人はいない。現地人による固有名詞に「つくし」はない。 *地名に「つくし」がある。筑紫平野・筑紫山地。 ← 学界で命名。 *筑紫人が「つくし」と発音した例はあるのか?

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- 9 -        沖村由香作成(備考欄・松中祐二追記) 巻 番号 表記 作 者 備考・出身地 訓   読 3 336 筑紫 沙弥満誓 笠氏(吉備) しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ 4 556 筑紫 賀茂女王 長屋王の娘 筑紫船 いまだも来ねば あらかじめ 荒ぶる君を 見るが悲しさ  4 574 筑紫 大伴旅人 左京神別  奈良から 筑紫はどの方向? ここにありて 筑紫やいづち 白雲の たなびく山の 方にしあるらし 5 794 筑紫 山上憶良 右京皇別 (新撰姓氏録) 百済系渡来人? 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だ にも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家なら ば かたちはあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか に ほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます 5 866 都久紫 吉田宜 百済(?) 遠く筑紫の君を思う歌はろはろに 思ほゆるかも 白雲の 千重に隔てる 都久紫の国は 6 967 筑紫 大伴旅人 左京神別 大和道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも  6 971 筑紫 高橋虫麻呂 右京神別 山城国神別 河内国神別 (新撰姓氏録) 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵まもる 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したま ひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 岡辺の道 に 丹つつじの にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参ゐ出む 君が来まさば 12 3206 筑紫 未詳 筑紫からの帰りを待つ 女の歌 筑紫道の 荒礒の玉藻 刈るとかも 君が久しく 待てど来まさぬ 12 3218 筑紫 未詳 官人(都?地方?) 朝な朝な 筑紫の方を 出で見つつ 音のみぞ吾が泣く いたもすべなみ  13 3333 盡 未詳 筑紫に赴任した夫を河 内の浜で偲ぶ歌 大君の 命畏み 蜻蛉島 大和を過ぎて 大伴の 御津の浜辺ゆ 大船に 真楫し じ貫き 朝なぎに 水手の声しつつ 夕なぎに 楫の音しつつ 行きし君 いつ 来まさむと 占置きて 斎ひわたるに たはことか 人の言ひつる 我が心 盡 の山の 黄葉の 散りて過ぎぬと 君が直香を 14 3427 筑紫 東歌 東国(陸奥) 筑紫なる にほふ子ゆゑに 陸奥の 可刀利娘子の 結ひし紐解く 15 3634 筑紫 未詳 筑紫路に京に残した妹 を思う 筑紫道の 可太の大島 しましくも 見ねば恋しき 妹を置きて来ぬ 20 4331 筑紫 大伴家持 左京神別 (新撰姓氏録) 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国は 敵守る おさへの城ぞと 聞こし食す 四方の国には 人さはに 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男 は 出で向ひ かへり見せずて 勇みたる 猛き軍士と ねぎたまひ 任 けのまにまに たらちねの 母が目離れて 若草の 妻をも巻かず あら たまの 月日数みつつ 葦(あし)が散る 難波(なには)の御津に 大 船に ま櫂しじ貫き 朝なぎに 水手ととのへ 夕潮に 楫引き折り 率 ひて 漕ぎ行く君は 波の間を い行きさぐくみ ま幸くも 早く至りて 大君の 命のまにま 大夫の 心を持ちて あり廻り 事し終らば つつ まはず 帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて 白栲の 袖折り返し ぬ ばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは 20 4340 豆久志 防人 川原虫麻呂 駿河 父母え 斎ひて待たね 豆久志なる 水漬く白玉 取りて来までに 20 4359 都久之 防人 若麻続部羊 (筑紫から)いつの日か 故郷へ戻れるのでしょ うか 都久之辺に 舳向かる船の いつしかも 仕へまつりて 国に舳向かも 20 4372 都久志 防人 倭文部可良麻呂 常陸国 足柄の  み坂給はり  返り見ず  吾れは越え行く  荒し夫も  立しや はばかる  不破の関  越えて吾は行く  [馬の爪]  都久志の崎に  留 まり居て  吾れは斎はむ  諸々は  幸くと申す  帰り来までに 20 4374 都久之 防人大田部荒耳 下野 天地の 神を祈りて 猟矢貫き 都久之の島を 指して行く吾れは 20 4419 都久之 防人物部真根 武蔵国 家ろには 葦火焚けども 住みよけを 都久之に至りて 恋しけ思はも 20 4422 都久之 防人服部呰女 武蔵国 吾が背なを 都久之へ遣りて 愛しみ 帯は解かなな あやにかも寝も 20 4428 都久志 防人 4422の類歌・訛りあり 夫を筑紫へ遣って 吾が背なを 都久志は遣りて 愛しみ えひは解かなな あやにかも寝む 表1  『 万葉 集』 つく しの 例

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9.続日本紀 宣命

『九州王権と大和王権』(海鳥社・中小路俊逸)より 宣命:天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅をいう。 中でも文武~淳仁では、わが王権は高天原以来一貫し連続して今に至ったという宣言を含む宣命が出 された。 文武元年 元明 和銅元年春正月 聖武 神亀元年二月 天平元年八月 天平勝宝元年四月 孝謙 天平勝宝元年七月 天平宝字元年七月 淳仁 天平宝字二年八月 文武元年「高天原にはじまり,遠い祖先の代々から,中頃及び現在に至るまで,天皇の子が次々にお生 まれになり,大八嶋国をお治めになる順序として,天つ神の御子のまま,天においでになる神がお授けに なったとおりに,取りおこなってきた天つ日嗣の高御座の業(わざ・天皇の位にある者の任務)であると, 現 あきつ 御神み か みとして大八嶋国をお治めなされる倭根子天皇(持統)が、お授けになる大命を受けたまわり・・・・」 *高天原の神が天照大神の孫のニニギノミコトに天孫降臨させ、その子孫がわが正統の王権の王である、 と名分宣言をして、それが今に至るまで続いたと言っている。 →「初代王は神武ではなく天孫であり日本書紀とは違う」と宣命で言っている。紀では初代は神武 →わが王朝は、九州の昔の王の傍流の一子孫にはじまる、いわば傍流の一王権である。 だが、その“種”(天神との祖孫関係)と“格”(神授の唯一王権)とにおいては、かの“降臨の君” と同じであり、この“種”と“格”とは“高天原”依頼一貫して存しているのだ。 →“高天原宣言”。(文武に始まる。持統天皇以前の天皇の即位の際の詔は伝わらない) →持統・文武両朝のあいだに、それまでは九州系傍流の一地方王権であった近畿大和の王権が、九州の 王家にとってかわり、すなわち九州の王位は継受せず(遷都ではない)、ただその“格”のみ継受し て、ここに九州まで支配する“統一王権”となったので、この“格づけ”が、本来の“種”とともに 宣言される必要があったのだ。 ●日本書紀には、大和の王権が九州の王家の傍流に発するという系譜が明記されており(神武が初代だか ら)、この王権が文武天皇の即位(697)にあたってはじめて「高天原以来神授の王権が続いて今に至った」 という宣命を発したのは(続日本紀)、その前代(持統天皇)までは近畿の一豪族であったのを示してい る。

10.『日本書紀』の書名の『書』の字について

『追手門学院大学文学部紀要[22]1988 年』(中小路俊逸)より 日本書紀以前に成立した中国正史(年代順)。 『史記』(太史公書)、『漢書』、『後漢書』、『三国志(『魏書』『蜀書』『呉書』)』、『晋書』、 『宋書』、『南宋書』、『梁書』、『陳書』、『魏書(北魏書)』、『北斉書』、『周書』、『隋書』、『南 史』、『北史』

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- 11 - 「すなわち、その書名に『史』を有する史書とは、複数の王朝についてその継起順に、本紀をまず掲げ、 ついで列伝をつらねた体裁の史書なのである。 では『志』のいた史書とは何か。…同時期に鼎立した三つの王朝のそれぞれについて紀伝体で叙述した 三つの書を並列した体裁の史書である。つまり、たがいに並立した複数の王朝のなかの一王朝ごとに叙述 した紀伝体史書を、全部並べて収めたのが『志』なのである。 かくして、つまるところ、『なになに書』という史書は、何か。 継起し、ときには並立しつつ興亡・交替した複数の王朝のうちの一つについて叙述した紀伝体史書。こ れが『なになに書』なのである」 *『日本書紀』が奏上されたのは文武天皇の次の元明天皇のさらに次の元正天皇の養老 4 年(720)である。 それなのになぜ『日本書紀』は前代の元明朝末までが記されず、持統朝で筆を止められたのか。 →「持統朝から文武朝への受け渡しには、わが朝の歴史を二分するほどの、何か、重大な意味を持つ変化 が伴っていたからだ。… そして、その“変化”とは、以後の史書には書名に『書』の字を用いる理由をなくさせる性質のものな のであった。 「端的に言おう。持統朝の末期にあたる時期において、それまで列島上の一地方王権であった大和の王 権が、九州まで ――― そしておそらく間もおかず、東国まで ――― 統一的支配下におく、列島上唯一 の代表的王権としての実態をそなえるにいたっていた。そして、…この王権は列島上に唯一の、卓越した 王権としての名と形式とを具備するにいたった。…」 *実は本居宣長も、日本書紀の「書」の字が気になっていた。そこで『古事記伝』の序論のところで、『日 本書紀』の悪口を言っている。わが国には王朝の交替はなく、古来一王朝しかないのに、継起した複数王 朝のうちの一つについて述べる「書」の字をつけたのは心得ぬ、と言っている。 (中小路俊逸「古田史学と日本文学」『市民の古代・第10集』所収より) *『紀』:紀伝体史書の本紀。帝王に関する事柄を記述した歴史書。 『日本書紀』は『日本書』の本紀(帝紀)。 8世紀は日本だけとなったから『続日本紀』。

●以上、一連の中小路俊逸説のまとめ

続日本紀の冒頭にある名分宣言は次のことを告白していることになる。 ①九州には、神武以来の近畿天皇家にとって本家筋にあたる別の王権が存在し、存続していた。 そして九州の王権は、続日本紀冒頭の文武天皇への皇位継承のときまでは存続していた。 ②日本書紀は大和にある傍流王権の歴史を書いたものだった。 しかし、大和以外に九州にも王権があるため、「書」の字をつけ「日本書紀」とした。 ③持統まで大和の王権は分流の格だったが、九州の王権は滅亡し、文武天皇にいたってはじめて、本流の 名分と格とを継承するにいたり、「宣命」が出された。 ④文武天皇にいたって、大和が唯一の王権となったため、以降の正史から「書」の字を省き「続日本紀」 等とした。

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11.漢籍の「倭」関連記事 →表2 参照

①論衡:倭の初出。江南の倭か? ②山海経:燕は遼東半島付近、その南に蓋国、その南に倭があり、倭は燕に属す。 三国志韓伝:南は倭と接する。 ③倭の場所について 漢書:樂浪海中100余国。 後漢書:韓東南大海中100余国。のち30国→漢書の倭と同じ 三国志・晋書:帶方東南大海之中100余国。のち30国→後漢書の倭と同じ 宋書:高驪東南大海中,世修貢職→後漢書の倭と同じ 南斉書:在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王→魏志倭人伝と同じ 梁書:去帶方萬二千餘里→魏志倭人伝と同じ 北史:漢光武時、遣使入朝→後漢書の倭と同じ 隋書:在百済新羅東南・・魏時譯通中國三十餘國・・都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也(邪靡堆(ヤ ビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤマタイ)である)・・古云去樂 浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東→魏志倭人伝と同じ 漢光武時遣使入朝→後漢書と同じ 俀王、姓は阿毎→新唐書と同じ 旧唐書:在新羅東南大海中→後漢書の倭と同じ 新唐書:其の王の姓、阿毎氏→隋書と同じ 居筑紫城→九州 ● 漢書から旧唐書まで、倭の位置に変化はない。 ④翰苑:倭国は、山をよりどころとし、海に接したところにある→大和に海はない。 邪(ななめ)に伊都に届き、傍ら斯馬に連なる。←[対句] →大和の位置説明に伊都や斯馬(糸島)との関係で示すか? ⑤後漢書:「極南界」→晋書 「使駅伝うる所、此に極まる」 ⑥魏志倭人伝:「その北岸」の「その」は邪馬台国を指す。狗邪韓国とは金海・今の釜山付近。 邪馬台国の北に釜山があると書いている。釜山を北と言える地域はどの辺りか。 ⑦隋書:7世紀の倭国の地理を説明するのに「阿蘇山」のことしか書かれていない。 もし倭国の中心が近畿にあったとしたら琵琶湖・大和三山・瀬戸内海など名所は沢山あるのに、 阿蘇山を倭国の代表的名所としているのは何故か。 其王姓阿每氏。

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- 13 - ⑨旧唐書 倭国伝:倭国者、古倭奴国也。→後漢書金印と同名国。 倭国王の名前は阿毎氏である。→隋書と同じ。 一大率を置きて諸国を検察す。→魏志倭人伝と同じ。 四面に小島がある。→九州。 日本国伝:日本國は倭國の別種なり。→倭国と日本国は別の国。 南西端は海である。東北端は大山があってそこを限りとし、山外は毛人国。 →日本アルプス地方以南の日本列島。 冒頭の「また云うには」→自分たちは知らないが人から聞いた話ということ。 →倭国なら昔からの交流があり知っているはず。⑩にも関連する↓ ⑩新唐書・日本国伝: 其王姓阿毎氏、・・・・居筑紫城。 『その国の人(日本人)で入朝する者は、多く自ら矜大(ほこる)で、実を以て対(こた)えない、 故に中国はこれを疑う』 →「倭国を併合した日本人は、誇り高ぶっていて、本当のことを言わない。つまり嘘つきだ。 だから中国人は日本人を疑っている」という意味。 →中国人が日本人を疑うのは事実を知っていたから。 ↓ ●張政・裴世清・郭務悰が各々の時代に倭国の情報を中国にもたらしている。 [張政の軍事報告] 方角を間違えるか? [裴世清の報告] 倭王が男か女か間違えるか? [郭務悰の戦後処理] 列島に一国あったか二国あったか間違えるか? [張政]は、卑弥呼の邪馬台国に魏から軍事顧問として派遣され20年間?も邪馬台国に滞在した人物。 張政はそれを軍事報告したはず。陳寿は西晋の史官で、張政や卑弥呼と同時代の人。 当時は既に磁石もあり、また軍事報告だから日程や距離・方角は正確なはず。 当時の魏・西晋は戦乱の中にいて倭国を軍事的に重要な国と考えていた。軍事的にも、最も重要な地理 に関して彼らは必死に正確な情報を収集しようとしていたはず。だから邪馬台国について細かくその道 程を記している。 [裴世清]は隋から派遣された官吏。倭国で倭国王に直接会っている。この人が倭国の地理を間違えるこ とがあるだろうか。彼は、倭国王は男だと言っている。 [郭務悰]は663年の白村江の戦いで負けた倭国に唐から派遣された官吏。計4回も派遣される。彼 が、日本列島に国が一つあるのか二つあるのか間違えるものか。 このように中国は日本列島の事情を意外と詳しく知っていた。この中国人が日本人(大和人)は嘘をつ くと言っているのである。 日本列島に国が二つあると書いた旧唐書について、東洋史学者・石原道博は岩波文庫(青 402-1)で「倭 国と日本国を併記するような不体裁なこと」と倭国と日本が別の国であるはずがないと評している。 これは日本の多くの歴史学者による根拠なき評価の代表例である。

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- 14 - 周時天下太平 倭人來獻鬯草 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず *西周(前1046頃-前771年) *暢草:酒に漬ける香草。産地は 江南から南。 成王時(前1021-前1002)越裳獻雉 倭人貢鬯 成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず 周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯 草 不能除凶 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白 雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず 山海経 地理書 前4世紀 - 3世紀 蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。 ●漢書 _地理志 班固 1世紀 末 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云 楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来た りて献見すと云ふ。 倭在韓東南大海中、依山島爲居、凡百餘國。自武 帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國。國皆稱王、世 世傳統。其大倭王居邪馬臺國。【案:今名邪摩惟、 音之訛也。】樂浪郡徼去其國萬二千里、 倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百 余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより(前108年)使訳漢に通ずる者 三十許国なり。国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪 馬臺国に居る(今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり)[唐:李賢 (~684)注]。楽浪郡徼はその国を去る万二千里 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國 之極南界也 光武賜以印綬 建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大 夫と称す。倭国の南界を極めるや、光武賜うに印綬を以てす 自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國 使驛所傳極 於此矣 侏儒国より東南、船行一年にして裸国、黒歯国に至る。使駅伝 うる所、此に極まる。 ●三国志 _魏書 _韓伝 韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。 倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘 國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國 倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。 旧百余国。漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北 岸狗邪韓國 七千餘里 郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、たちま ち南し、たちまち東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。 始度一海 千餘里 至對海國・・・方可四百餘里・・・ 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國・・・方可 三百里・・・又渡一海 千餘里 至末盧國 始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。・・・四百余里四 方。・・・又、南、一海を渡る千余里。名は瀚海と曰う。一大国に 至る。・・・方三百里ばかり。・・・又、一海を渡る。千余里。末盧 国に至る。 東南陸行 五百里 到伊都國・・・東南至奴国 百 里・・・東行至不彌國 百里・・・南至投馬國 水行二 十日 東南に陸行し五百里で伊都国に到る。・・・東南は奴国に至る。 百里。・・・東に行き不弥国に至る。百里。・・・南は投馬国に至 る。水行二十日。 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一 月・・・・・・自郡至女王國 萬二千餘里。 南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一 月。・・・郡より女王国に至るまで万二千余里。 魏略 逸文 魚豢 三世紀 中頃? 其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀 その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す 倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、 無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三 十國通好 倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。 土地は山林が多く、良田はない。海産物を食べている。昔は百 余の小国がたがいに接していた。魏の時に至って、三十の国が あり、親しく交流した。 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後 貢聘不絶 宣帝の公孫氏を平ぐるや、其の女王は遣使し帯方に至らしめ朝 見す。其の後、貢聘の絶えることなし。 ●宋書 _倭国伝 沈約 488年 倭國在高驪東南大海中,世修貢職 倭国は高驪の東南、大海の中にあり、世々貢職を修む。 ●南齊書 _東南夷 蕭子顕 六世紀 初 倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王 倭国は、帯方郡の東南大海中に在り、漢末の時代以来女王を 立てた。 ●梁書 _諸夷伝 _倭国 姚思廉 636年 倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘 里、大抵在會稽之東、相去絶遠。 倭は、自ら太伯の後裔だという。その風俗では皆、体に入れ墨 する。帯方郡を去ること万二千余里、おおよそ会稽郡の東に在 るが、とてつもなく遠く離れている。 ●北史 李延寿 659年 漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。・・・安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國 後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称す る。・・・安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを 倭奴国という 1世紀 末 5世紀 280年 代 648年 表2    漢籍 主な「倭」関連記事 論衡 ●後漢書 _倭伝 魏書烏丸 鮮卑東夷 伝倭人条 (魏志倭 人伝) ●晋書 _四夷伝 _東夷条 _倭人 王充 范曄 陳寿 房玄齢

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- 15 - 憑山負海鎮馬臺以建都 倭国は、山をよりどころとし、海に接したところに、国の鎮めを置 き、そこを「馬臺(またい)」と称して都を建てている。 邪届伊都傍連斯馬 邪(ななめ)に伊都に届き、傍ら斯馬に連なる。 俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山 島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王・・・古 云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東 與儋耳相近 倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山 の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流し たのは三十余国で、みな自ら王を称していた。・・・古には、楽浪 郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東に あり、儋耳に近いと言われていた。 漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂 之俀奴国 漢の光武帝の時、使者を派遣し入朝し、大夫を自称した。安帝 の時また遣使して朝貢した。これをこれを俀奴国といった。 開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌 遣使詣闕 開皇二十年(600年) 俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩 雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。 有阿蘇山其石無故火起接天者 阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望 聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又 至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲 疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於俀 (608年)、(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせ た。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、ツシマ国を経 て、はるかな大海の中にある。また東はイキ国へ至り、またチク シ国へ至る。また東は秦王国に至る。その人は中国人と同じ で、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余 国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属してい る。 倭国者、古倭奴国也。 倭国は古の倭奴国なり。 去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而 居。東西五月行、南北三月行。世與中国通。 京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島 に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世ヽ中国と通 ず。 四面小島五十余國,皆附屬焉。其王姓阿每氏,置 一大率,檢察諸國 四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。 其の王、姓 は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察す 日本国者倭国之別種也。 日本國は倭國の別種なり。 以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其 名不雅、改為日本。 其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。或は曰 う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲 すと。 或云、日本舊小国、併倭国之地。 或は云う。日本はもと小國にして倭國の地を併せたりと。 其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。 其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以っ て對(こた)えず。故に中國、焉れを疑う。 又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大 海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。 また云う。其の國の界、東西南北各數千里。西の界・南の界は 咸(み)な大海に至り、東の界・北の界は大山有りて限りと爲 し、山外は即ち毛人の國なりと。 長安三年、其大臣朝臣真人、来貢方物。 長安三年(703)、其の大臣朝臣眞人、來りて方物を貢ず。 日本、古倭奴也 日本は古の倭奴国なり 去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東 西五月行、南北三月行。 京師を去る万四千里。新羅の東南に直る。海中に在りて島にし て居す。東西五月行、南北三月行。 其王姓阿毎氏、・・・・居筑紫城。 其の王の姓、阿毎氏。・・・・筑紫城に居す。 後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日 所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其 號 後にやや夏音を習い、倭の名を悪み、更えて日本と号す。使者 自ら言うには、「国、日の出る所に近し。以て名と為す」。或は云 わく「日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す」 と。 使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、 西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。 使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千 里だと妄(みだ)りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が 限界となり、その外は、すなわち毛人という。 660年 以前 629年 魏徴 ●隋書 _俀国伝 翰苑 張楚金 ●新唐書 _日本伝 欧陽脩 宋祁 1060年 日本国伝 ●旧唐書 _倭国伝 劉昫 945年

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12. 旧唐書と新唐書

→図2 および 15.九州年号 近江朝年号「果安」「中元」参照

旧唐書:『日本はもと小国だったが、倭国の地を併せた』 新唐書:『日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す』

●旧唐書と新唐書の矛盾を解明する。

 

 

1 7 1 1 0 5   松 中 祐 二 [九 州 年 号 ] 白 雉 6 6 1 白     鳳 6 9 5 大 化 7 0 4 大 長 7 1 2 6 6 3 年 白 村 江 6 7 2 年 壬 申 の 乱 6 7 2 ~ 6 7 8 年 ← 対   立   ? ←   二 重 権 力   敵 対 → 首 都 7 0 1 年 6 6 8 年 天 智 即 位 不 改 常 典 改 元 6 7 0 年 副 都 6 6 8 6 7 2 果 安 [大 和 朝 年 号 ] 7 0 1 大 宝 7 0 4 慶 雲 → 旧 唐 書 「 倭 国 伝 」 「 日 本 国 伝 」 新 唐 書 「 日 本 伝 」 6 8 4 朱 雀 6 8 6 朱 鳥 6 6 7 年 薩 夜 麻 帰 国 二 重 権 力 構 造 ? → → → → → → → → → → → → → → → → → → → → → → → → ・ × 6 8 6 年 天 武 没 6 9 7 年 文 武 宣 命           [近 江 朝 年 号 ] 中 元 ④日 本 → → ・ × ⑤ 倭 国 ⑥ 倭 国 ⑦ 日 本 6 8 9 年 浄 御 原 令 (日 本 )   ⑧ 日 本 Ⅰ 期 Ⅱ 期 倭 国 伝 = ① 日 本 国 伝 = ⑧ 「 倭 国 伝 」 倭 国 は 古 の 倭 奴 国 な り 「 日 本 国 伝 」 倭 国 自 ら そ の 名 の 雅 な ら ざ る を 悪 (に く )み 、 改 め て 日 本 と な す 。 = ③ → ④ 「 日 本 国 伝 」 日 本 は 旧 (も と )小 国 、 倭 国 の 地 を 併 せ た り 。 ⑧ は 旧 小 国 ( ④ ) 、 ① ⑥ の 地 を 併 せ た り Ⅱ 期 視 点 日 本 伝 = ⑧ 日 本 は 古 の 倭 奴 国 な り 倭 の 名 を 悪 み 、 更 え て 日 本 と 号 す = ③ → ④ あ る い は 云 う 日 本 は 乃 ち 小 国 、 倭 の 併 す る 所 と 為 る 。 故 、 其 の 号 を 冒 す 。 = ④ → ⑤ → ⑦ 日 本 は 乃 ( す な わ ) ち 小 国 、 倭 の 併 す る 所 と 為 る 。 ④ は 乃 小 国 、 ① の 併 す る 所 と 為 る       ④ → ⑤ 故 、 其 の 号 を 冒 す       ⑤ → ⑦ Ⅰ 期 視 点 九 州 大 和 倭 奴 国 ① 倭 国 ③ 倭 国 ② 山 跡 ( 山 常 e tc ) 倭 王 空 位 ) ( 副 都 ? )   (対 立 ? )

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13. 扶桑国について

*梁書に扶桑国あり。 関西説:いき一郎 関東説:荻生徂徠 九州説:中小路俊逸 日本説:大和岩雄 *西安・祢軍(でいぐん)墓誌(678 年)『于時日本余噍据扶桑以逋誅』→現存最古の「日本」 「時に(663 年?)、日本の余噍は、誅罰を逃れて扶桑に立てこもっている」 →日本と扶桑の場所は別のように見える。 ●『九州王権と大和王権』(海鳥社・中小路俊逸)より *王維(721) 送晁監(仲麻呂)帰日本 秘書晁監(仲麻呂)の日本国に還るを送る 郷樹扶桑外 郷樹 扶桑の外 “あなた(仲麻呂)の故郷の樹木は「扶桑」よりもソト(中国から見て『扶桑』よりも東)にある” 主人孤島中 主人 孤島の中 *劉長卿(709~780?) 同崔載華贈日本聘使 崔載華と同(とも)に日本の聘使に贈る 遙指來從初日外 遙かに指す 來ること初日の外よりと “朝日の出る ところよりも更に東側から来た” 始知更有扶桑東 始めて知る 更に 扶桑の東 有るを (さしのぼる朝日の外側から来たと遣唐使が言ったので、扶桑より更に東に地が有ることを初 めて知った) *徐凝(792?-853?) 送日本使還 絶国将無外 絶国 将に外無からんとするに 扶桑更有東 扶桑 更に東有り ( 日本は絶国、ハテの国で、そこより東はもうないかと思っていたが、かの扶桑には、まだ東 に土地があって、あなたはそこへ還るのだ) *韋莊(836~910) 送日本國僧敬龍歸 日本國の僧 敬龍の歸るを送る 扶桑已在渺茫中 扶桑は 已に 渺茫たる中に 在り (*渺茫:はるかに遠い) 家在扶桑東更東 家は 扶桑の東の 更に東に 在り *「唐代に詩人が日本人に送った詩の中によると、日本の地にはその最西端部に『扶桑』と呼ばれる地域 があり、その東に『扶桑の東』または『扶桑の外』と呼ばれる地域があって、その地域内に都(詩の年代 より、それは平城京・平安京)が位置しており、唐末にはさらにそれよりも東に『扶桑の東の更に東』と 呼ばれる地域がつけ加わっている」(『九州王権と大和王権』海鳥社・中小路俊逸) 扶 桑 :「日出づる処の天子」の都していた地。九州。 扶桑東(扶桑外): 畿内の地。『旧唐書』の「大山」より西、九州より東。 扶桑東 更東 :「大山」より東の地。

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14. 「仏教伝来」とは何か

仏教伝来とは、仏法僧の三宝を供養する行為が、その地の文化に組み入れられることである。そのため には、まず僧が来ることを要する。僧なくして、何が仏法の伝来であろう。 朝鮮半島三国の仏教伝来は、高句麗は 375 年、百済は 384 年、新羅は 528 年。これらも僧が仏法を伝え 王権が仏法を行なうことを指して「仏教の初め」とする。日本へのキリスト教伝来も、信徒のポルトガル 人船員らの渡来ではなく宣教師ザビエルの渡来をもって日本への伝来と見なされるはずです。 (古田武彦『古代は輝いていたⅢ』・中小路俊逸『市民の古代第 8・10 集』所収より) *552年説 『日本書紀』欽明天皇13年(552 年) 「聖明王が仏像・経典を献上。天皇は喜ぶ。蘇我稲目は歓迎するが、物部尾輿・中臣鎌子は否定する。蘇 我稲目に仏像が与えられ、信奉するが、疫病が起き、仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼かれた。」 →欽明13年記事の内容は、仏教文物贈与事件であって僧は来ておらず、仏法の公伝でも秘伝でもない。 それどころか、仏教は受け入れないことにしたという事件。 *584年→大和への仏教伝来記事 『日本書紀』敏達天皇13年(584 年) 「播磨国に於いて、僧の還俗せる者を得・・・仏法の初め、茲よりして作れり」 →敏達13年。播磨国には僧が来ており、播磨から仏教が伝来したことになる。 これを「仏法の初め」と称しているのは、「大和の王権が、いまだ播磨をも領しない一地方権力であっ たことの、正直な告白でなくて何でしょう」。 ●大和は一地方政権であり、その大和への仏教伝来は 584 年であると書いてある! *538年説 (通説) 『上宮聖徳法王帝説』 「志癸嶋の天皇の御世(欽明)に、戊午の年の十月十二日に、百済国の主、明王、始めて仏の像、経教、 並びに僧等を度し奉る」 『元興寺伽藍縁起并流資材帳』 「大倭国の仏法は、斯帰嶋宮に天下を治めた天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の世、蘇我大臣稲目宿禰が 仕えていた時、治天下七年戊午(538年)十二月に伝わった」 しかし、紀584年の初伝の記事に最も重要な僧名も事績も記されてない。また、538年説の欽明朝 にも敏達朝にも戊午の年はない。それなのに、なぜ日本書紀に合わせなかったのか。 この列島に仏教が伝わったのは「戊午」の年だったという事実が、頑固に伝わっていた。しかし大和は 詳しく知らなかったからではないか。 *418年説 a:『隋書・俀国伝』「仏法を敬い、百済に於いて仏経を求得し、始めて文字あり」 b:戊午の年 478 年倭王武上表の年(宋書) 418 年 百済の腆支王(14 年)、倭に遣使し白錦を送る。

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- 19 - c:『三国史記・百済本紀』 「枕流王元年(384 年)、王、僧を迎え、仏法始まる」 倭王武は宋朝への上表で既に立派な漢文を使用。478 年仏教伝来文字習得では遅すぎる。 腆支王は若い頃、倭の人質であったが、王になるため帰りたいと言ったら、倭王が護衛を付けて送り返 した。倭とは仲が良く、その王の14年、384 年に百済へ仏教が伝来して34年、戊午の年に倭に仏教が 伝来した蓋然性は高い。 d:九州には早くから仏教伝来していた。 *『筥埼宮記』: 平安時代の近畿天皇家の官僚・大江匡房が福岡市の筥崎宮について書いた文書。 『我朝で始めて文字を書き、結縄の政に代えること、即ち此の廟に於てはじまる』 大江は筥崎宮を仲哀天皇の廟と考えていた。仲哀天皇は 400 年前後の天皇と考えられ、『筥崎宮記』が 示すところは、4世紀末から5世紀初頭にかけて、福岡市の筥崎から漢字の公用が始まったということに なる。 *雷山千如寺 糸島の雷山千如寺『雷山縁起』、初代住職はインド僧の清賀上人。成務天皇四十八年来朝となっている。 これは西暦 178 年のことになるが、天皇の平均在位年数を考えると清賀上人は 400 年前後の人物であ ろう。 (※なお、ガイドブック等では、九州への仏教伝来は大和より遅いという通念と、成務と発音が似てい ることから8世紀の聖武天皇の間違いだろうとしているが、これは根拠のないこと) 成務天皇四十八年がこれも「戊午」の年。 国語学の重鎮・大野晋氏は、日本語の起源はインド南部のタミール語だとし、東南アジア各地に南イン ド人の痕跡があることから、タミール人は日本に来たと断言している。もしそうなら、初代住職がインド 僧だった雷山千如寺の 178 年という年代記事も無下に無視できない。 *中小路氏は、「仏教が、大和ではなく、大和よりも百済に近いところ、ズバリ言えば九州、そこに伝来 した事実を、欽明朝にくっつけた、その結果、矛盾が生じたもの、そのように考えられます」という。 つまり大和の僧は仏教伝来について戊午の年だったこと以外詳しくは知らなかった、だから紀では僧 名も事績もない、いい加減な記事しか書けなかったのではないかということ。 *九州は仏教先進地 ①用明紀。用明天皇が仏法に帰依するために豊国法師を宮中に招いた記事あり。豊国法師とは豊国(豊 前・豊後)の僧と考えられ、九州の豊国が仏教先進地であったことが窺われる。 ②英彦山の縁起『彦山流記』には、当山の開基を教到元年(531 年)とする記事あり。 ③豊前下毛郡檜原山正平寺は、仁賢帝の御宇(488~498 年)百済の僧・正覚の開山とされる。 ④太宰府・観世音寺と京都・妙心寺の鐘は日本最古の梵鐘。両者とも福岡県で鋳造されている。 ⑤日本最古の寺院の瓦も大野城市から出土している。 ⑥対馬の梅林寺に4世紀の仏像があり、わが国仏教の初めと伝えられている。 ⑦5世紀初頭の糸島の丸隈山古墳から仏像が出土している。 ⑧九州年号には②の「教到」のほか「僧聴・法清・和僧・僧要」など仏教との関係をうかがわせる年号が 多数ある。 ●418年戊午の年・仏教は北部九州に伝来した、か。

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雑記:古代研究は原文を読むべし

*日本書紀・敏達天皇13年(584 年)『佛法之初、自茲而作』(仏法の初め、これよりして作れり) 日本書紀の入門書としてよく読まれる「日本書紀・全現代語訳」(宇治谷孟・講談社学術文庫)では、こ こを「仏法の広まりはここから始まった」と改竄して訳している。 この訳によると、僧がいた播磨を無視して、584 年に大和に仏教が伝来し、そこから日本列島全体に広 まったと解釈できる。 *日本書紀・継体天皇21年(527 年)『果定疆埸』(果たして疆埸を定む) また宇治谷孟は、「磐井の乱」の後に「国境を定めた」という極めて重要な記事を削除し、「反乱を完 全に鎮圧した」と改竄し、いかにも大和朝廷が九州を制圧したように訳している。こんなことは何処にも 書かれておらず、意図的で悪質な改竄である。 文献を研究するときは、原文を見ることが肝要!

15. 九州年号 →表3参照

*「白鳳」とは 「天武天皇の年代」(日本考古学用語辞典)、「孝徳天皇の代の年号白雉の後世の美称」(大辞林)、 「孝徳天皇の白雉という年号の別称」(小学館日本大百科全書) 通説では「白鳳」の定義が曖昧。 *変な日本の年号 (桓武天皇)詔曰「王朝においてその君主がどういう経緯で後継者になったとしても必ず年号は絶やさぬ のみか、新君主たるものは必ず改元するものである」(続日本紀・延暦元年八月己巳条) *建元と改元 建元:元号を創始する。 改元:元号を改める。 日本書紀最初の元号「大化」は建元、それ以外は改元のはず。ところが、建元と改元がバラバラ。 大化 皇極天皇四年を改め大化元年とす。 白雉 白雉に改元す。 朱鳥 朱鳥に改元す。 大宝 建元し大宝元年と為す。 慶雲 改元し慶雲元年と為す。→ 以降、改元 『701年、文武が立って大宝と改元した』 「新唐書」 『701年、大長四年を大宝元年と改元』 「海東諸国記」(李氏朝鮮の奉勅史書) 『522年、始めて年号を建てた』 ←九州年号のこと。 「海東諸国記」 (・現在、学界では、大化・白雉・朱鳥年号は使用されなかったとの説が有力視されだした) 大宝→以降連続 孝徳即位 長門国の国司が 白雉を献上 孝徳崩御 天武15年崩御 [中断] [中断] 645 650 654 686 701 大化(5年) 白雉(5年) 朱鳥(1年)

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- 21 - *九州年号 ・「(大長)九州年号ここに終わる。今本文に引所は、九州年号と題したる古写本による」 (襲国偽僭考・鶴峯戊申) ・平安期の「二中歴」、江戸期以前の「麗気記私鈔」、李氏朝鮮15世紀の史書の「海東諸国記」、 江戸期の「如是院年代記」「茅窓漫録」「襲国偽僭考」「和漢年契」等。 ・全国青森~鹿児島 858件の記録発見(林伸禧氏による)→ Web「九州年号総覧」 *金石文 →図参照 所功は、九州年号には金石文がなく鎌倉時代の僧による創作である、としているが、下記の金石文が存 在している。 ◎「鬼室集斯墓碑(朱鳥三年・688年)」 1805 年、滋賀県蒲生郡日野町小野で発見。高さ 48.8cm、八角柱状、下部水平断面一辺8~9cm。 石質は小野の雲母花崗岩。 日本書紀に存在しない朱鳥3年陰刻銘。 正面「鬼室集斯墓」、左「庶孫美成造」、右「朱鳥三年戊子十一月八日」。 筆跡「室」から古代文字だとされる。 →紀に朱鳥三年はない。元年のみ。九州年号にはある。 ◎「大化五子年土器(658年)」→699年 茨城県岩井市。高さ 30cm の土師器。 「大化五子年二月十日」線刻銘。 →「子」の文字が削除されている。大化に子年がないため不審に思われたからか? 土師器専門家による鑑定。「七世紀後半~八世紀前。 *日本書紀「大化五年(649 年)」=己酉年。 *二中歴 「大化五年(699 年)」=己亥年→一年のずれで「子」年と思われる。 二中歴とは干支が一年ずれ(先取り)があるが、豊前国戸籍(大宝2年)に一年ズレの痕跡あり。 二年が寅年なのに、元年(丑年)生まれに「刀良(とら)」「刀良売」等の人名、二年生まれに 「宇(う)麻呂・・」等の人名が多い。 ◎「(白雉)元壬子年木簡(652年)」 芦屋市三条九ノ坪遺跡出土木簡。 「子卯丑□何(以下欠) 三壬子年□(以下欠)」(「木簡研究」第19号 1997 年による) →「三」ではなく「元」壬子年だったと判明 壬子年=652 年=九州年号「白雉元年」=日本書紀「白雉三年」 *三壬子年=652 年なら大和朝年号。元年なら九州年号。 *古田武彦・古賀達也氏、兵庫県埋蔵文化財調査事務所で木簡を実見して判明。 ●「三」のハネ。「三」の左下は、年輪溝に付いた墨により、右から左に筆使いだった事が判明。 →これにより「三」は「元」だったことが判明。

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- 22 - *続日本紀・・近畿天皇家の公文書 神亀元年条(724年)、聖武天皇詔報 『白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し』 ←紀にない年号が存在する。 「(724年)治部省(外事・戸籍(姓名関係)・儀礼全般・僧尼、仏事を監督)からお伺いをたててき た、それに対し聖武天皇は『白鳳以来、朱雀以前とか(訴えが上申されてくるが)、それらの年代ははる かに遠いことであり、尋ね問うてみてもハッキリさせにくい』」。 これは治部省からの問い合わせに答えたもので、養老4年(720)に近畿天皇家として初めて僧尼に 公験(証明書、登録のようなもの)を発行を始めたが、戸籍から漏れていたり、記載されている容貌と異 なっている僧尼が千百二十二人もいて、どうしたものかと天皇の裁可をあおいだ。 *「類従三代格・太政官符謹奏」天平九年三月十日(737)・・近畿天皇家の公文書 『始興之本 従白鳳年 迄干淡海天朝』 「元興寺」の僧から「講説」を受けていたということが書かれており、その講説が「白鳳に始まり近江朝 に終わる」ということ。

参照

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