英国の作家オルダス・ハックスレが一九三二年に著わした書物一素晴らしし新世界﹂には地下工場の人工 ︵1︶ 照化センタで、次々と人間が生産される情景が描かれている。約五十年前に書かれた未来小説であったが、一九 |はじめに
生命と倫理
I脳妬と臓器移植を中心として 四宗教界の反応五まとめ
二いのちとは何か 一に昨醍︶めに 脳死の問題山野井克典
11?七八年に、イギリスで世界で初めて作試験管ベビ〃が誕生し世界中に大きな波紋を投げかけると共に夢物語 が小説の世界に一歩近づいた感を呈した。 近代医学の進歩は目覚ましいものがあり、病に悩む人々に福音を与えた一方、人類はついに人間の﹁生﹂までも 操作する時代を迎え、単なる空想小説の話題でなく、現実のものとして、医療上・倫理上さまざまな問題を提起し たのである。今日までに試験管ベビはすでに千人を超えたという報告を聞けば、その思いは一層深まってくる。 人間の﹁いのち﹂は神仏の領域、つまり聖域とされてきただけに、こうした事実を見ると人類は今、新しい時代を 人間の一しのち﹂は神仏の屋 迎えたということができる。 科学技術の進歩の中でも、医学の進歩は著しい。この医学の進歩が高齢化社会をもたらし、そして一生と死﹂を 考える機会の増大ともなっている。今日、新聞紙上には連日のように、遺伝子治療、体外受精、臓器移植、脳死、 植物人間、末期医療などの言葉が掲載され、いのちとは何かを考えざるを得ない時代となってきたようである。。 生と死に直接、間接に関わりをもつ宗教家こそ、今日積極的に医学の進歩に目を向けることが必要ではなかろう か。いのちに関するさまざまな話題の中で、生命倫理をどう考えるのか、脳死と臓器移植を中心に考えてみた。 今世紀に入って科学技術は急速な発展をとげ、人類社会に多くの分野で貢献を示した。しかしその反面大量 殺裁の危険性、環境破壊の危機など、人類の生存をも脅やかす危倶をもたらせたことも事実である。こうした現実 を見る時、科学者のみならず、多くの各層の人々が協力して、人間如何に生きるべきかを模索しなければならない を見る時科学者︷ ことが痛感される。 1 1 U l l O
生 命 と 倫 理 ﹁死﹂といえば、いままで一般的には単純に心臓が停止することだと考えられてきた。しかし、医学の進歩によ り、脳が死んでも機械によって心臓は動いている状態、つまり﹁脳死﹂の問題が脚光を浴びるようになり、死の定 義をどう考えることが適切なのか、大きな議論の的となった。 脳死論議が高まる中で、厚生省の﹁脳死に関する研究班﹂は昨年︵昭和六十年︶十二月、脳死に関する判断基準 ︵2︶ を発表した。この発表によれば、脳死を直ちに死とは認めていないが、二つの意味で注目を集めるものとなった。 一つは医療の現場を扱う医師にとって混乱が防止されること。二つには国民の間に臓器移植の認識が深まることで ある。脳死と臓器移植を考える前に、﹁いのち﹂とは何かを、最近の話題の中から二つの例について考えてみたい。 一つは、交通事故で重傷を負った我が子の輸血を、その両親が信仰上の理由から拒否したために、その子供は死 亡してしまったというものである。いわゆる﹁川崎事件﹂といわれるものである。昭和六十年六月六日、川崎市で ダンプカにはねられた小学校五年の少年が、同市の聖マリァンナ医科大学病院に運ばれ、手術をしようとした時、 両親が病院に駆け込み、﹁輸血は絶対にしないように﹂と申し入れた。そのため少年は五時間後に死亡したのである。 両親はエホ標︿の証人の信者であったために、輸血することは聖書の教えに反するという理由から、輸血を拒否し たものであった。この事件は、手術をすれば必ず助かるという怪我であったこと、また少年は﹁生きたい﹂と洩ら していたことを考えると、一般的心情としては誠にいたましい事件であった。 この事件は医の倫理と信教の自由をめぐって大きな議論を呼んだものであった。即ち、①医師の立場から見れば、 人命を救うべきか、信仰上の理由に従うべきなのか、②子供は生きたいと願っていたにも拘らず、親の意志で死亡 ||いのちとは何か Q︺ 11入 証IL
させても良いものなのか、など誠に深刻な問題といわざるを得ない。 因みに、聖マリァンナ医科大学では、このことがあった直後、当面の措置として﹁患者が輸血を拒否した場合で も、人命尊重の立場から輸血を強行する﹂と発表し、なお今後検討するとしている。 二つ目の話題は、海の向うのアメリカの話である。先の川崎事件のあった直後の一九八五年︵昭和六十年︶六月 十一日、あの﹁カレン嬢の死﹂が伝えられた。アン・カレン・クインランさん︵当時二十一歳︶は一九七五年四月 十日、友人の誕生パティでアルコル飲料と鎮静剤を同時に飲んだために昏睡状態に陥り、そのまま意識を失っ てしまった。いわゆる植物状態となってしまったのである。回復の見込みのないことを知った両親は、このまふ生 き長らえるより、安楽死︵尊厳死︶させたいと願い、呼吸器の装置を取りはずすよう裁判所に提訴したのである。 この訴に対し、ニュジャシ州の最高裁は生命維持装置である人工呼吸器を取りはずしても良いとの判断を 下した。この判決は従来の医の倫理である﹁医者は患者の生命を一分一秒でも長く保つよう努力すべきである﹂と いう考え方を覆したものとして注目された判決であった。 この判決に従い、人工呼吸器が取りはずされたが、不思議なことにカレンさんは自力で呼吸を始めたのである。 そして死に至るまでの九年一か月という長い間眠り続けた。カレンさんが自力で呼吸を始めたとぎ、両親は神の意 のままにと判断した結果であったが、この件も﹁いのちとは何か﹂を考えさせられる話題として注目を集めた。。 アメリカでは、このカレンさんの問題のあと、一九七六年十月カリフォルニア州で﹁死ぬ権利法﹂が成立、その 後各州に波及し現在二二の州で同様の法が成立しているという。 日本の川崎の場合は、両親が子供の生死を決め、カレンさんの場合は、両親が神の意のままにと判断したが意識 が一戻ることもなく九年以上生きたことになる。死の問題は、誰がそしてどの時点で決めるのが適切なのか、今後も 120
生 命 と 倫 理 ここで、医学的立場から死の問題をもう少し掘り下げてみたい。従来死の判定は①呼吸停止②心臓停止③ 瞳孔散大の三点をもって死の判定としていた。今まではこれで問題はなかったが、近年医療技術が進歩するにつれ、 延命状態が増大した。つまり、脳について言えば大脳と脳幹部が破壊しても、人工呼吸法によって心臓は機械的に 動いている状態、即ち﹁脳死﹂という概念が生じたのである。 脳死であっても心臓は動いているので、従来の﹁死﹂の定義にはあてはまらない。呼吸をし、体温もあり、まさ に眠っている状態の患者を〃死者″と断じてしまうことには、いささかためらいがあるということになる。 昭和五十九年二月、脳死を宣告された女性から赤ちゃんが生まれた。赤ん坊が生まれたとなると、その女性は死 んだといえるのかという疑問がでてくる。しかし、脳死に至れば、二∼三日間で、長い人でも一週間位で心臓が停 止するという。脳死を宣告された人で生き返った人はいない。あのフランク永井さんの場合は、﹁切迫脳死﹂と呼ば れるものである。聞き慣れない言葉であるが脳死に近い状態であるという。 脳死が絶対に生き返えらない状態であるなら、死と認めても良いのではないかということになるが、日本人の現 在の感覚ではまだ抵抗があることも事実だ。ふとしたことから脳死患者の取材をして廻った女優の藤村志保さんは、 ︵4︶ 実際に脳死患者に接して、外見から見る限りこの人は本当に死んだのだろうかという疑問が生ずると報じている。 脳死が医学界に登場したのは、一九○二年ソ連においてであるというが、一九六七年にアメリカの、ハナド博 士が心臓移植を行ってから話題となったものである。この後、ハ。ハド大学に特別委員会が結成され、﹁脳が永久 ますます深刻な問題となりそうである” |||脳死の問題 ワ] 1ユ
二々人工透析を受けてしる慢性腎不全患者は昭和五十八年末で五万三千人。腎臓は身体の老廃物を尿として排 世したり、血液を調整する大事な役目を果す器官である。この機能が失われれば、身体中に毒素が溢れ死に至って この時以来職日本では心臓移植はタブとされ、長い間ストップするに至った。このことも、日本の臓器移植を 大きく遅らせることになったのかもしれない。日本人は遺体を大切にする国民だといわれる。死体を単なる物体と 見る諸国の人々にとっては、日本人の考え方は理解できないらしい。 昨年八月十二日、群馬県山中に墜落した日航機の事故で、連日肉親の遺体を探す家族の様子を見たあるヨロッ パ人は、不思議な現象だといった。遺体といえども簡単に見捨てることができないのが日本人の死生感なのだ。 このような状況は、臓器移植を進めるうえで大きな問題点を残している。第一に、臓器の提供を受ける側にとっ て、日本の場合、その機会が極端に少ないということである。我が国で腎臓移植を希望している人は三万人。心臓 や肝臓については二万七千人、合計で約六万人近い人が移植手術を待っている。日本での脳死者は年間の死亡者の そのうち約千例がアメリカで行われており、今やアメリカでは日常的になりつつあるという。 リア、イタリア、デンマク等一五か国が次々と脳死判定基準を示した。今日まで海外での心臓移植は約千五百例、 に機能を喪失した状態をいう﹂との判定基準が示された。この基準が示されたあとスイス、西ドイツ、オスト 日本での状況はどうなっているのだろうか。昭和四十三年、札幌医大の和田寿郎教授が、心臓移植を初めて行い 話題を集めた。脳死患者の心臓を一八歳の少年に移植したものであるが、手術後八三日間生存したのち死亡してし まった。このあと、心臓を摘出した患者は本当に死亡したのかどうか疑わしいとして、和田教授は殺人罪で告発さ れてしま︽︾た” この時以来、 一%富約一千人だという。 1ワr〕 L ム ム
生 命 と 倫 理 しまう。そこで機械に頼って血液をきれいにすることになるのであるが、一回の透析で約五時間、これを一日おき に実行しなければならない苦痛は、透析を受けた人でないとわからないという。 腎臓移植が成功し社会復帰をしたある患者は、尿がでる、汗がでるということはこんなに素晴しいことなのかと、 普通の健康の人には想像もつかない感激の気持を表わしている。 移植の機会の少ない日本では臓器の提供を海外に頼らざるを得ない。このことも問題となっている。昭和五十九 年五月、牧野太平さん︵四三︶は米国のスタンフォド大学で心臓移植の手術を受けた。牧野さんは手術が成功し て帰国したが、渡米費用、滞在費用、手術費用など合計すると直接費用だけでも三千万円にもなる。こうなると誰 でも海外でということは難かしいのではなかろうか。また、角膜なども殆どは東南ア認シァからの輸入に頼っている が、近年は自分の国のことは自国でまかなえという声も出ており、いずれ臓器輸入ストッ・フということにもなりか ねない。そうなると、臓器移植はますます困難になってしまう。 しかし、何といっても臓器移植を最も遅らせている理由は、日本では脳死が個体死と認められていないことにあ 和田心臓移植が告発されたことは前述したが、昭和六十年二月、臓器移植をめぐって再び告発問題が起った﹄筑 波大学の岩崎洋治教授が行った腎臓と牌臓の移植について、東大の若手医師グル・フが告発した。﹁臓器を提供した 女性に対しては殺人罪を、移植を受けた男性がその後死亡したのは傷害致死にあたる﹂というものであるが、現在 東京地検で慎重に事実審査が行われている。 脳死による臓器移植が、殺人罪になると︲いうことになれば、医師としては慎重にならざるを得ないのではないか。 その意味では、昨年十二月の厚生省による﹁脳死判定基準﹂は一歩前進であろう。 ねない琴そ畠兵 しかし、何 るようである。 1 ワ ・ 入 合 』
このような医療の進歩に対し、宗教関係者はどう考えているのであろうか。キリスト教徒でもあり、精神科の医 師でもある村田忠良教授は、現代の分子生物学、遺伝子工学の発展を宗教との関連で見るとき、極めて現代的な特 色があるとしている。ルタやカルヴィンの宗教改革を第一次とすれば、キルケゴル、ニチェからサルトルに 和田心臓移植が行われた昭和四十三年の翌年十二月、この問題を契機に臓器移植に関する懇談会﹂︵座長古畑種 基︶が厚相の諮問機関として発足。更に、日本脳波学会が﹁脳波と脳死に関する委員会﹂を結成し、昭和四九年に 脳死判定基準をまとめるなど、医学関係者による検討のための機関が次々と誕生した。近年は、医療関係者のみな らず、心理学者、宗教関係者など精神的な立場から研究が進められている。法曹界においては、法的な立場からの 取り組み、また大学においても、全国八十の大学医学部・医科大学のうち、心臓移植に向けて何らかの取り組みを している大学は四十にのぼっている。︵昭和六十年十二月末現在︶この傾向は今後更に進むものと見られている。 更には、国会においても超党派で﹁生命倫理研究議員連盟﹂が結成され、昭和六十年三月から第一回の勉強会が 始まり、各分野の専門家を囲み、熱心な研究が進められている。 こうした研究が進む中で、昭和六十年十二月、厚生省は﹁脳死の判定指針および判定基準﹂を示したが、その内 容は次の如くである。①深昏睡、②無呼吸、③瞳孔散大、④脳波平担化、⑤脳幹反射消失、⑥①から⑤の状態が六 時間続くことという六つの判断基準を示した。厚生省はこの基準が直ちに脳死を認めたわけではないと慎重である が、これを契機に、大阪千里の国立循環器病センタでは、心臓移植のマニュアルが完成するなど、いくつかの病 院では心臓移植再開へ向けての動きが始まっているという。 四宗教界の反応 124
生 命 と 倫 理 ︽|﹃︾﹄ 至る実存哲学を第二次宗教改革、そして現代を第三次の宗教改革と呼んでいる。つまり、生命の創造は専ら神の仕 事であったものが、生命を操作することによって、人間は神と同格化したと考えるなら、それは〃神々を殺した〃 ことにならないか、これは大変な意味をもつもので、第三次の宗教改革といえるものだとしている。しかし、最終 的には教授は、人間という存在は本能として宗教行為に向かわしめる宗教的・心的エネルギをもっているもので あり、﹁科学と宗教の相補性﹂を保ちながら進むであろうとしている。 そもそも、近代科学は十七世紀にヨロッパのキリスト教社会で生まれ、その後はキリスト教と科学との対立或 いは共存といった繰り返しの連続の中から発展してきたといえる。しかし今日、生命の操作という宗教の本質とも いえる議論を進めるにあたって、科学者は神秘性・宗教性を求め、宗教者は科学的知識を求めるという相補性はま すます強められてくるのではなかろうか。 かつて、、ハチカンは一九八○年に生命の尊厳さに関し、特に﹁安楽死﹂について宣言を発表、人間の生命は神に 属すること、個人の生命は神の創造物であり、自由に授けられた賜物であること、そして生命の絶対的支配権は神 ︵6︶ のみに属することを強調した。しかし、近年では絶対に助からない人に対し、一定の条件の下で延命装置を取りは ずすことを認めているようであり、神の絶対的支配権も条件付きで緩やかに解釈されているのかもしれない。 WCCでは一九七九年に、アメリカのMITで開かれた会議において、生命科学の問題についてコンセンサスづ くりに積極的に取り組むこと提案した。 日本でも、昭和五十九年に日本聖公会の企画で、シンポジウム﹁いのちと生命科学﹂が開催され、翌年の昭和六 十年には立教大学キリスト教学科の教授が中心となり、﹁生命倫理研究会﹂が発足。生命倫理の研究に本腰を入れ、 いずれ脳死に関する見解も発表されよう。 貝J 、/] TIL
一方、仏教側の対応はどうか。体外授精や臓器移植といった最先端の医療について、積極的に発言してきたとい うことは聞かない。ただ昭和四十六年九月、全日本仏教会の主催でシンポジウム﹁生命科学と仏教﹂が開催された が、当時としては比較的早い対応といえよう。第一線で活躍している科学者・仏教者など二○人が出席して討議さ れたが、宗教者への動機づけになったのではなかろうか。当時はまだ脳死とか臓器移植について、今日ほど一般的 議論の遡上に登っておらず、明確な見解は出されてないが、いずれ仏教界の議論が示されよう。 仏典には基本的戒律として、不殺生つまり生命を大切にすることが随所に説かれているほか、﹁仏弟子たるものは 病人を見たら仏に供養すると同じく病人を養護せよ﹂︵大正大蔵経二四巻︶と説かれている。また法華経の薬王菩薩 本事品第二三には、自分の身に火をつけて燃やし、その光によって世界中を明るく照らしたという。即ち自己犠牲 の尊いこと、そしてその自己犠牲が真に自分を生かすものであるという説明からすれば、臓器移植は肯定的に考え 生命と倫理に関する懇談会での意見では宗教の違いが生命倫理の問題に直接に影響を与えているとは思われな いとする見方が多い。このことについて、民法学者の加藤一郎博士は、生命倫理についての考え方は、宗教よりも 個人の考え方に左右されるのではないかとしている。 同じ東洋でも、タイ・インド。韓国などでは脳死を認めており、日本人の死生感を東洋的死生感と同一視するこ とはできないとし、結局のところ、個人的観念によるということになろうかと説明している。 日本人は臓器移植について少なからず抵抗感があるが、このことに関し生命と倫理に関する懇談会の委員でもあ る中根千枝教授は、次のように述べている。日本人は見知らぬ不特定多数の人々に自分を役立てるという考え方が 日本の社会構造になじみ難いこと、そして強制的な力によって個人が左右されることに対し、危倶を抱いているた ても良いのではないかと思う。 の草書いことそしてその自己棒 1 , j 土 乙 、
生命と倫理 めではないかという。だからこの問題も個人が納得すれば徐々に協力者もふえてくるだろうとしてしる 臓器移植をすることに抵抗があるとすれば、死体を火葬にすることはもっと抵抗があってもいいのではなかろう か。また、臨終近い人の生命を一分一秒でも延命に努力する人々が、一方ではいとも簡単に堕胎を行っている。火 葬にする習慣はすでに奈良時代から行われているし、間引きも古くから習慣的に行われていたとすると、誠に習慣 とは恐しいものだし、日本人の死生感は不思議なものだと思う。 私自身、臓器移植についてどうかと問われれば、今のところ明確に断定できる回答がないといわざるを得ない。 脳死患者の死に行く生命と、移植によって新しい生命ができるのとどちらが大切かを問われて、何を基準に判断す べきかはなはだ困難である。しかし、感情的には、厳格なる脳死判定基準のもとで、臓器移植を認めても良いので はないかと思う。エホやハの一証人のように、明確に輸血を拒否するという宗教上の理由がある場合は例外として、殆 どの宗教は臓器移植について定義づけを行ってはいない。生命尊重という基本的な命題があって、そこから具体的 諸問題を判定せざるを得ないことになろう。 私は、この原稿の執筆にあたり、多くの書物に目を通したが、正直に言えば﹁いのちとは何か﹂の定義づけがま すます混乱してきたようである。人間のいのちが神の創造物であるとすれば、死ぬ時も神のおぼしめしに従うべき で、臓器移植︵人工臓器︶に依存することは適切ではないのだろうか。 今後ますます医療技術が進み、人工臓器も格段に進歩しよう。勿論、人工心臓についても同様だ。脳が死んで心 臓が生きている状態を脳死とすれば、人工心臓による患者はどう判断するのだろうか。そればかりでなく、身体の 中は人工臓器だらけの人間が生存することになる。まさにロボット人間が町を闇歩することになろう。更に驚いた ことに、今では脳の移植まで研究されているというが、脳が移植されるということになれば、その人の人格はどう 弓 、/︺ 11︽
こうした近年の進歩を考えると科学の急速なる発展は人間をはたして幸福にしたのかとしう疑問さえ生じてく る。例えとしては適当でないかもしれないが、ある評論家の言を借りるならば、最近の母親は家庭の仕事をするに 際し、殆どが機械の世話になっている。朝はスイッチ一つでごはんができ、洗濯にしても掃除にしてもすべて機械 がしてくれる。これに比べると、昔は薪でごはんを焚き、洗濯にしても掃除にしても手作業だから時間がかかる。 だから母親という存在はいつも働いている人だという印象が子供にはあるというのである。だからその母親の姿を 見ている子供は早く楽をさせてあげたいと考えたものだというが、最近は時間がたっぷりあるから、母親を楽にさ せたいという子供はいない。むしろ干渉し過ぎて子供にとってはうるさい存在としか写らない。 この機械化が全てではないことは勿論であるが、生活が便利になった代りに親子の関係という紳が薄くなったと なると、科学の一面だけを求めて生きることが全てではないということになろう。 だからといって、今の生活を逆に一戻せというのではなく、現代は科学の時代なのだから、こうした時代に合った 生き方が必要なのではないかということである。つまり、人間の生き方を今までは、心理学・生物学・医学・法律 学といった個々バラバラの学問でなく、生命に関するあらゆる分野を総合した﹁人間学﹂といったものが研究され 機械化が如何に進歩しようとロボットの発達によって社会が動かされようともそれを操作するのはやはり人 間であり、人間の智恵であるのだ。﹁人間学﹂提唱の所以である。 ても良いのではないかと思う“ 判断するのだろうかますます混乱してくる@
五まとめ
壷ロ ハ〃ム ィ11生 命 と 倫 理 更にもう二一考えなければならないのは、人問如何に生きるかということは求められても、如何に死ぬかとい うことに関しては、意外と考慮されてないのではなかろうか。両者は相通ずるものがあるのかもしれないが、如何 に死ぬかについては宗教者がもっと研究しても良いと思う。特に仏教者は問題提起をしても良いのではないか。 仏教とは死んでからの係りが深いし、勿論成仏を願って弔うことは必要なのであるが、臨終近い人との交流はもっ と必要になってくるのではないかと思う。この係りを積極的に進める努力が望まれる。 人間は誰でも健康でありたい、元気で生命を永らえたいと思うのは自然のことである。この要望に応えて医療が 進歩し、人間の寿命が伸びてきた。しかし、医療の進歩するなかで、人生の生き方や死の問題は、価値観や倫理感 とも関わって、さまざまな問題を含んでいることも事実である。 今まで私達は、こうしたいのちの問題、特に生と死について殆ど関心をもたないままに今日まで来たように思う。 しかしながら、近年脳死論議が高まると共に、マスコミでも連日のように﹁死﹂の問題が取り上げられ、徐々にで はあるが関心が示されるようになった。それが一証拠には、伊丹十三氏が演出した映画の﹁葬式﹂が多くの観客を集 め、テレビの﹁脳死をこえて﹂の視聴率が高いということがあげられよう。 読売新聞社が昨年十一月十六日に、全国の成人三千人を対象に行った世論調査によれば、脳死については全体の 四二・一%の人が認め、心臓移植については六三・一%の人が進めた方が良いと答えている。この数字は四∼五年 前と比べると倍近い比率を示しているという。それも、昨年十二月の厚生省の脳死判定基準が発表される以前だか ら、今日ではその数字はもっと高い比率を示すのかもしれない。 いずれにしても、脳死論議が高まることにより、死の判定の時期をいつにするかという単なる死の定義を決める だけに終らず、全体として人間の生命の尊重という気風が醸成される社会を築きたいものだと思う。 129
註 ︵1︶オルダス・ハックスレ︵一八九四一九六三︶は、一九三二年﹁素晴らしい新世界﹂︵即画くのz①言乏○邑︶とい うSF未来小説を発表。当時英国で知性的作家として人気を集めた。 ︵2︶脳死判定基準昭和六十年十二月六日発表。厚生省科学研究費、特別研究事業。 ︵3︶昭和五十八年二月十二日、新潟市の新潟大学附属病院で、脳死状態の母親︵当時二十六歳︶が自然分娩で出産。脳死 と判定されてから六時間後のことであった。母に代って育つようにと育代と名付けられ、現在元気に育っているとい 参考文献 ︵6︶ ︵EJ︶ ︵岳“|︶ ﹁生命と倫理について考える﹂生命と倫理に関する懇談報告、厚生省医学書院 ﹃生命の尊厳を求めて﹄時実利彦著、みすず書房 ﹃人間の生命について考える﹄医学研究振興財団編、講談社 ﹃生命を考える﹂近藤宗平著、岩波現代選害 ﹃遺伝子操作の幕あけ﹂M・ロジャス著、渡辺格、中村桂子訳、紀伊国屋書店 ﹁生命科学と宗教﹂︵I.Ⅱ.Ⅲ︶庭野平和財団シンポジゥム佼成出版社 星命の最前線生病老死のゆくえ﹂増永俊一著、春秋社 ﹁医学と倫理﹄定金博編著、大分医科大学倫理学研究室 藤村志保著一脳死をこえて﹄読売新聞社刊 ﹃生命科学と宗教﹂I、村田忠良共著、佼成出版社刊︵庭野平和財団が行ったシンポ雷シゥムをまとめたもの・︶ ﹁安楽死に関するカトリック信者への指針﹂松本信愛、グー王ルロ・ロワリィ共著 13