• 検索結果がありません。

駒澤大学佛教学部論集 46 007吉村 誠「玄奘の年次問題について」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "駒澤大学佛教学部論集 46 007吉村 誠「玄奘の年次問題について」"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

駒澤大學佛教學部論集   第四十六號   平成二十七年十月 一八三 一 、 序 言   玄 奘 は 唐 代 の み な ら ず 中 国 の 仏 教 を 代 表 す る 人 物 で あ る 。 西 天 取 経 の 大 旅 行 を 敢 行 し 、 大 量 の 仏 典 を 翻 訳 し て 、 唯 識 の 教 義 体 系 を 伝 播 し た こ と で 知 ら れ て い る 。 し か し 、 そ の 生 卒 年 次 や 出 発 年 次 に つ い て は 、 伝 記 の 記 述 に 異 同 が あ る こ と か ら 、 数 々 の 異 説 が 存 在 す る (( ( 。 一 般 に 流 布 し て い る 生 卒 年 次 ( 六 〇 二 ― 六 六 四 ( で さ え 、 そ の 論 拠 を 明 示 す る こ と は 容 易 で は な い 。   従 来 の 研 究 で は 、 伝 記 を 他 の 史 料 と 対 照 し 、 ど の 説 が 適 切 で あ る か を 考 察 し て き た 。 そ れ で も な お 年 次 問 題 が 完 全 に 解 決 し な い の は 、 伝 記 の 成 立 に 複 雑 な 問 題 が あ る か ら で あ る 。 玄 奘 の 伝 記 の う ち 基 本 と な る も の は 、『 続 高 僧 伝 』 巻 四 玄 奘 伝 ( 以 下 、「 玄 奘 伝 」 と 略 称 す る ( と 、 慧 立 ・ 彦 悰 『 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 』 十 巻 ( 以 下 、『 慈 恩 伝 』 と 略 称 す る ( と 、 冥 詳 『 大 唐 故 三 蔵 玄 奘 法 師 行 状 』 一 巻 ( 以 下 、『 行 状 』 と 略 称 す る ( の 三 つ で あ る 。     道 宣         『 続 高 僧 伝 』 巻 四 玄 奘 伝         ( 玄 奘 伝 」(     慧 立 ・ 彦 悰 『 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 』 十 巻 (『 慈 恩 伝 』(     冥 詳         『 大 唐 故 三 蔵 玄 奘 法 師 行 状 』 一 巻   (『 行 状 』(   こ の う ち 、「 玄 奘 伝 」 は 、 道 宣 が 貞 観 二 十 三 年 ( 六 四 九 ( ま で に 一 旦 完 成 し た も の ( 日 本 古 写 経 に 現 存 。 興 聖 寺 本 な ど ( を 、 本 人 が 乾 封 二 年 ( 六 六 七 ( 年 ま で に 増 補 ・ 改 訂 し 、 さ ら に 後 人 が 総 章 二 年 ( 六 六 九 ( 以 後 に 加 筆 し て 現 行 の も の ( 高 麗 本 な ど ( に な っ た (( ( 。 ま た 、『 慈 恩 伝 』 は 、 慧 立 が 貞 観 二 十 三 年 ( 六 四 九 ( ま で に 五 巻 本 ( 現 存 せ ず ( を 著 し 、 そ れ を 彦 悰 が 垂 拱 四 年 ( 六 八 八 ( に 増 補 し た も の が 現 行 の 十 巻 本 で あ る 。『 行 状 』 は 、 前 半 が 貞 観 年 間 に 成 立 し た 「 玄 奘 伝 」 や 『 慈 恩 伝 』 の 記 事 を 抄 出 ・ 補 訂 し た も の で 、 後 半 は 以 後 の 事

玄奘の年次問題について

  

     

   

(2)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一八四 蹟 を 晩 年 ま で 記 し た 最 初 の 通 伝 で あ る 。 な お 、「 玄 奘 伝 」 の 補 訂 に は 『 行 状 』 が 参 照 さ れ 、『 慈 恩 伝 』 の 増 補 に は 『 行 状 』 と 「 玄 奘 伝 」 が 参 照 さ れ て い る 。 こ の よ う に 、 玄 奘 の 主 要 な 伝 記 は 、 そ れ ぞ れ 影 響 を 及 ぼ し 合 い な が ら 複 雑 な 過 程 で 成 立 し た (( ( 。 そ れ ぞ れ の 成 立 年 次 を 整 理 す る と 、 次 の よ う に な る だ ろ う 。   ① 道 宣   『   続 高 僧 伝 』 玄 奘 伝 ・ 興 聖 寺 本 (「 玄 奘 伝 」 興 本 (           六 四 九 年 以 前 成 立   ② 慧 立   『 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 』 五 巻 (『 慈 恩 伝 』 五 巻 本 (           六 四 九 年 以 前 成 立   ③ 冥 詳   『 大 唐 故 三 蔵 玄 奘 法 師 行 状 』 一 巻 (『 行 状 』(           六 六 四 年 以 後 成 立   ④ 道 宣   『 続 高 僧 伝 』 玄 奘 伝 ・ 高 麗 本 (「 玄 奘 伝 」 麗 本 (           六 六 九 年 以 後 成 立   ⑤ 慧 立 ・ 彦 悰   『 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 』 十 巻 (『 慈 恩 伝 』 十 巻 本 (           六 八 八 年 成 立   小 稿 で は 、 伝 記 の 成 立 過 程 を 踏 ま え て 玄 奘 の 年 次 問 題 を 検 証 し 、 他 の 史 料 も 併 用 し て 、 生 卒 年 次 、 出 発 年 次 、 到 着 年 次 を 推 定 す る 。「 玄 奘 伝 」 は ① 興 聖 寺 本 ( 以 下 、 興 本 と 略 称 す る ( と ④ 高 麗 本 ( 以 下 、 麗 本 と 略 称 す る ( と を 区 別 し 、『 慈 恩 伝 』 は ② 慧 立 の 五 巻 本 と ⑤ 彦 悰 の 十 巻 本 と を 区 別 す る 。 こ れ ら の 区 別 が な い 場 合 は 、 い ず れ も 後 者 を 指 す も の と す る 。 二 、 生 卒 年 次   1   卒 年 の 年 齢   玄 奘 の 卒 年 は 、 い ずれ の 伝 記 も麟 徳 元 年 ( 六 六 四 ( で あ り 、 異 同 は な い 。 生 年 は こ こ か ら 卒 年 の 年 齢 を 減 算 す る こ と で 算 出 で き る 。 し か し 、 卒 年 の 年 齢 に つ い て は 、『 行 状 』 は 六 十 三 歳 、『 続 高 僧 伝 』( 麗 本 ( は 六 十 五 歳 、『 慈 恩 伝 』( 十 巻 本 ( は 六 十 六 歳 で あ り 、 異 同 が あ る 。   先 ず 、『 行 状 』 の 記 事 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ う で あ る 。       麟 徳 元 年 正 月 一 日 、 玉 花 寺 衆 及 僧 等 、 請 翻 大 宝 積 経 。 法 師 辞 曰 。「 知 此 経 於 漢 土 未 有 縁 。 縱 翻 亦 不 了 」。 固 請 不 免 。 法 師 曰 。「 翻 必 不 満 五 行 」。 遂 訳 四 行 止 。 謂 弟 子 及 翻 経 僧 等 。「 有 為 之 法 、 必 帰 磨 滅 。 泡 幻 之 質 、 何 得 久 停 。 今 麟 徳 元 年 、 吾 行 年 六 十 有 三 。 必 卒 玉 花 。 若 於 経 論 有 疑 、 宜 即 速 問 。 勿 為 後 悔 」。 (( (       麟 徳 元 年 正 月 一 日 、 玉 花 寺 の 衆 及 び 僧 等 、『 大 宝 積 経 』 を 翻 ぜ ん こ と を 請 ふ 。 法 師 辞 し て 曰 く 。「 此 の 経 は 漢 土 に 於 て 未 だ 縁 有 ら ざ る を 知 る 。 縱 ひ 翻 ず る も 亦 た 了 ぜ ざ ら ん 」 と 。 固 く 請 は る る に 免 れ ず 。 法 師 曰 く 。「 翻 ず る

(3)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一八五 も 必 ず や 五 行 を 満 た さ ざ ら ん 」 と 。 遂 に 四 行 を 訳 し て 止 む 。 弟 子 及 び 翻 経 僧 等 に 謂 ふ 。「 有 為 の 法 は 、 必 ず 磨 滅 に 帰 す 。 泡 幻 の 質 、 何 ぞ 久 し く 停 む る こ と を 得 ん 。 今 麟 徳 元 年 、 吾 が 行 年 は 六 十 有 三 な り 。 必 ず や 玉 花 に 卒 せ ん 。 若 し 経 論 に 於 て 疑 有 ら ば 、 宜 く 即 ち 速 か に 問 ふ べ し 。 後 悔 を 為 す こ と 勿 れ 」 と 。   こ れ は 、 玄 奘 が 『 大 般 若 経 』 を 訳 了 し た 翌 年 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 ( 正 月 一 日 に 、 衆 僧 か ら 『 大 宝 積 経 』 の 翻 訳 を 請 わ れ る も 四 行 で 筆 を 止 め 、 命 終 が 迫 っ て い る こ と を 語 る 場 面 で あ る 。 こ れ に 従 う な ら ば 、 玄 奘 は 卒 年 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 三 歳 で あ り 、 こ こ か ら 逆 算 す る と 生 年 は 仁 寿 二 年 ( 六 〇 二 ( に な る 。   次 に 、「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( の 記 事 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ う で あ る 。       麟 徳 元 年 、 告 翻 経 僧 及 門 人 曰 、「 有 為 之 法 、 必 帰 磨 滅 。 泡 幻 形 質 、 何 得 久 停 。 行 年 六 十 五 矣 。 必 卒 玉 華 。 於 経 論 有 疑 者 、 可 速 問 」。 (((       麟 徳 元 年 、 翻 経 僧 及 び 門 人 に 告 げ て 曰 く 、「 有 為 の 法 は 、 必 ず 磨 滅 に 帰 す 。 泡 幻 形 質 、 何 ぞ 久 し く 停 む る こ と を 得 ん 。 行 年 六 十 五 な り 。 必 ず や 玉 華 に 卒 せ ん 。 経 論 に 於 て 疑 有 る 者 は 、 速 か に 問 ふ べ し 」 と 。   こ の 文 章 は 『 行 状 』 に き わ め て 類 似 す る た め 、『 行 状 』 の 記 事 を 引 用 な い し 改 変 し て 作 ら れ た も の と 推 察 さ れ る 。 た だ し 、 年 齢 は 「 六 十 有 三 」 か ら 「 六 十 五 」 に 引 き 上 げ ら れ て い る 。 こ れ に 従 う な ら ば 、 玄 奘 は 卒 年 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 五 歳 で あ り 、 逆 算 す る と 生 年 は 開 皇 二 十 年 ( 六 〇 〇 ( に な る 。   次 に 、『 慈 恩 伝 』( 十 巻 本 ( の 記 事 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ う で あ る 。       然 法 師 翻 此 経 、 時 汲 汲 然 、 恒 慮 無 常 、 謂 諸 僧 曰 。「 玄 奘 今 年 六 十 有 五 。 必 当 卒 命 於 此 伽 藍 。 経 部 甚 大 、 毎 懼 不 終 。 努 力 人 加 勤 懇 、 勿 辞 労 苦 」。 至 龍 朔 三 年 冬 十 月 二 十 三 日 、 功 畢 絶 筆 。 (( (       然 も 法 師 此 の 経 を 翻 ず る に 、 時 に 汲 汲 然 と し て 、 恒 に 無 常 を 慮 り 、 諸 僧 に 謂 ひ て 曰 く 。「 玄 奘 今 年 六 十 有 五 な り 。 必 ず 当 に 命 を 此 の 伽 藍 に 卒 を ふ べ し 。 経 部 甚 だ 大 な れ ば 、 毎 に 終 ら ざ ら ん こ と を 懼 おそ る 。 努 力 し て 人 ご と に 勤 懇 を 加 へ 、 労 苦 を 辞 す る こ と 勿 れ 」 と 。 龍 朔 三 年 冬 十 月 二 十 三 日 に 至 り 、 功 畢 り 筆 を 絶 つ 。   『 慈 恩 伝 』( 十 巻 本 ( で は 玄 奘 の 年 齢 を 「 六 十 有 五 」 と し て い る 。 こ れ は 「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( を 参 照 し た こ と を 示 唆 す る も の で あ る 。 し か も 、 こ れ は 『 大 般 若 経 』 を 翻 訳 す る 際 に 衆 僧 に 精 勤 を う な が す 場 面 で あ る か ら 、 少 な く と も 龍 朔 三 年 ( 六 六 三 ( 以 前 の 話 で あ る と 解 さ ざ る を 得 な い 。 こ れ に 従 う

(4)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一八六 な ら ば 、 玄 奘 は 卒 年 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 六 歳 以 上 で な け れ ば な ら ず 、 逆 算 す る と 生 年 は 開 皇 十 九 年 ( 五 九 九 ( 以 前 に な る 。   こ の よ う に 三 者 を 比 較 す る と 、 臨 終 時 の 記 事 に つ い て は 『 行 状 』 が 最 も 古 く 、 こ れ を 参 照 し て 「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( が 作 ら れ 、 前 二 者 を 参 照 し て 『 慈 恩 伝 』( 十 巻 本 ( が 作 ら れ た こ と が 推 知 さ れ る 。 反 対 に 、『 慈 恩 伝 』 の 臨 終 の 記 事 か ら 、「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( や 『 行 状 』 の 記 事 が 作 ら れ た と い う 推 測 は 、 前 二 者 の 成 立 年 代 と 、 後 二 者 の 記 事 の 内 容 か ら み て 、 成 立 し な い で あ ろ う 。 こ の こ と か ら 、 玄 奘 の 卒 年 の 年 齢 は 、『 行 状 』 の 六 十 三 歳 か ら 、「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( の 六 十 五 歳 、『 慈 恩 伝 』 ( 十 巻 本 ( の 六 十 六 歳 へ と 加 上 さ れ た と 見 る べ き で あ る (( ( 。   2   受 具 の 年 齢   卒 年 の 年 齢 が 六 十 三 歳 で あ る こ と の 傍 証 と な る の が 、 玄 奘 が 具 足 戒 を 受 け た 時 の 年 齢 で あ る 。『 慈 恩 伝 』 と 『 行 状 』 に よ れ ば 、 受 具 の 年 次 は 武 徳 五 年 ( 六 二 二 (、 年 齢 は 二 十 一 歳 で あ り 、 両 者 に 異 同 は な い 。   先 ず 、『 慈 恩 伝 』 の 記 事 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ う で あ る 。       法 師 年 満 二 十 、 即 以 武 徳 五 年 、 於 成 都 受 具 、 坐 夏 学 律 。 五 篇 七 聚 之 宗 、 一 遍 斯 得 。 益 部 経 論 研 綜 既 窮 、 更 思 入 京 詢 問 殊 旨 。 (((       法 師 年 満 二 十 、 即ち 武 徳 五 年 を 以 て 、 成都 に 於 て 受 具 し 、 坐 夏 し て律 を 学 ぶ 。 五 篇 七 聚 の 宗 、 一 遍 に し て 斯 に 得 す 。 益 部 の 経 論 は 研 綜 既 に 窮 ま り 、 更 に 京 に 入 り て 殊 旨 を 詢 問 せ ん と 思 ふ 。   『 慈 恩 伝 』 で は 、 玄 奘 は 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( に 「 満 二 十 」 で 受 具 し た と い う 。 満 二 十 歳 と い う こ と は 、 数 え で 二 十 一 歳 と い う こ と で あ る 。 こ の 記 事 は 巻 一 に あ る こ と か ら 慧 立 の 五 巻 本 に あ っ た も の で あ る 。 こ れ に 従 う な ら ば 、 玄 奘 は 卒 年 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に は 六 十 三 歳 と な り 、『 行 状 』 の 卒 年 の 年 齢 に 一 致 す る 。 し か し 、 こ れ は 『 慈 恩 伝 』( 十 巻 本 ( の 卒 年 の 年 齢 ( 六 十 六 歳 ( と は 矛 盾 す る こ と に な る 。   次 に 、『 行 状 』 の 記 事 を あ げ れ ば 、 次 の よ う で あ る 。       法 師 年 二 十 有 一 、 以 武 徳 五 年 、 於 成 都 受 具 、 坐 夏 学 律 。 五 篇 七 聚 之 宗 、 亦 一 遍 斯 得 。 益 部 経 論 研 綜 既 窮 、 更 思 入 京 詢 問 殊 旨 。 (( (       法 師 年 二 十 有 一 、 武 徳 五 年 を 以 て 、 成 都 に 於 て 受 具 し 、 坐 夏 し て 律 を 学 ぶ 。 五 篇 七 聚 の 宗 、 亦 た 一 遍 に し て 斯 に 得 す 。 益 部 の 経 論 は 研 綜 既 に 窮 ま り 、 更 に 京 に 入 り て 殊 旨 を 詢 問 せ ん と 思 ふ 。   こ の 文 章 は 『 慈 恩 伝 』 の も の と ほ と ん ど 変 わ ら な い 。 受 具 の 記 事 に つ い て は 『 行 状 』 が 『 慈 恩 伝 』( 五 巻 本 ( を 参 照 し た の で あ ろ う 。 年 齢 は 「 満 二 十 」 か ら 数 え の 「 二 十 有 一 」 に

(5)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一八七 変 更 さ れ て い る が 、 意 味 は 同 じ で あ る 。 し た が っ て 、『 行 状 』 に よ れ ば 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( に 二 十 一 歳 で 受 具 し 、 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 三 歳 で 卒 し た こ と に な り 、 両 者 は 完 全 に 一 致 す る 。   「 玄 奘 伝 」 に は 受 具 の 記 事 が な い が 、「 武 徳 五 年 、 二 十 有 一 」 ((( ( と あ り 、 こ の 点 は 『 慈 恩 伝 』 や 『 行 状 』 と 一 致 す る 。 し か し 、 こ れ は 「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( の 卒 年 の 年 齢 ( 六 十 五 歳 ( と は 矛 盾 す る こ と に な る 。   『 行 状 』 の 著 者 は 、『 慈 恩 伝 』( 五 巻 本 ( と 「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( を 参 照 し て 、 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( に 二 十 一 歳 で 受 具 し た と い う 記 事 を 書 い て い る 。 卒 年 の 年 齢 は 、 そ こ か ら 計 算 さ れ た も の か 、 あ る い は 玄 奘 か ら 直 接 聞 い た も の で あ ろ う 。 い ず れ に せ よ 、 卒 年 の 年 齢 に つ い て は 『 行 状 』 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( 六 十 三 歳 と い う の が 最 も 古 い 記 録 で あ る 。 そ れ が 諸 伝 一 致 す る 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( 二 十 一 歳 と 矛 盾 し な い と い う こ と は 、 こ の 記 録 が 最 も 理 に か な っ て い る こ と を 証 明 し て い る と 言 え る だ ろ う 。   こ の こ と か ら 、 玄 奘 は 卒 年 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 三 歳 で あ り 、 そ こ か ら 逆 算 す る と 生 年 は 仁 寿 二 年 ( 六 〇 二 ( で あ る と 推 定 さ れ る 。 三 、 出 発 年 次   1   伝 記 の 所 伝   玄 奘 の 出 発 年 次 は 、 い ず れ の 伝 記 も 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( で あ り 、 異 同 は な い 。 し か し 、 出 発 時 の 年 齢 に つ い て は 、『 慈 恩 伝 』 が 二 十 六 歳 、「 玄 奘 伝 」 と 『 行 状 』 が 二 十 九 歳 で あ り 、 異 同 が あ る 。   先 ず 、「 玄 奘 伝 」 の 記 事 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ う で あ る 。       乃 又 惟 曰 。「 余 周 流 呉 蜀 、 爰 逮 趙 魏 、 末 及 周 秦 、 預 有 講 筵 、 率 皆 登 踐 。 已 布 之 言 令 、 雖 蘊 胸 襟 、 未 吐 之 詞 宗 、 解 籤 無 地 。 若 不 軽 生 殉 命 、 誓 往 華 胥 、 何 能 具 覿 成 言 、 用 通 神 解 。 一 覩 明 法 了 義 眞 文 、 要 返 東 華 傳 揚 聖 化 、 則 先 賢 高 勝 、 豈 決 疑 於 彌 勒 、 後 進 鋒 穎 、 寧 輟 想 於 瑜 伽 耶 」。 時 年 二 十 九 也 。 遂 厲 然 独 挙 、 詣 闕 陳 表 、 有 司 不 為 通 引 。 頓 迹 京 皐 、 広 就 諸 蕃 、 遍 学 書 語 。 行 坐 尋 授 、 数 日 便 通 。 側 席 面 西 、 思 聞 機 候 。 会 貞 観 三 年 、 時 遭 霜 倹 、 下 勅 道 俗 、 逐 豊 四 出 。 幸 因 斯 際 、 径 往 姑 臧 、 漸 至 燉 煌 。 ((( (       乃 ち 又 た 惟 おも い て 曰 く 、「 余 呉 ・ 蜀 を 周 流 し 、 爰 ここ に 趙 ・ 魏 に 逮 およ び 、 末 に 周 ・ 秦 に 及 び 、 講 筵 有 る に 預 か り 、 率 おほむ ね 皆 な 登 践 す 。 已 に 之 を 言 令 に 布 し き 、 胸 襟 に 蘊 あつ む と 雖 も 、 未 だ 之 を 詞 宗 に 吐 か ず 、 解 籤 す る に 地 無 し 。 若 し 生 を 軽 ん

(6)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一八八 じ て 命 に 殉 したが ひ 、 誓 ひ て 華 か 胥 しょ に 往 か ざ れ ば 、 何 ぞ 能 く 具 さ に 成 言 を 覿 み 、 用 て 神 解 に 通 ぜ ん や 。 一 た び 明 法 ・ 了 義 の 真 文 を 覩 み 、 要 かなら ず 東 華 に 返 り て 聖 化 を 伝 揚 す れ ば 、 則 ち 先 賢 の 高 勝 、 豈 に 疑 を 弥 勒 に 決 せ ん と し 、 後 進 の 鋒 ほう 穎 えい 、 寧 ん ぞ 想 を 『 瑜 伽 』 に 輟 とど め ん と す る や 」 と 。 時 に 年 二 十 九 な り 。 遂 に 厲 れい 然 ぜん と し て 独 挙 し 、 闕 けつ に 詣 いた り て 表 を 陳 ぶ る も 、 有 司 通 引 を 為 さ ず 。 迹 を 京 きょうこう 皐 に 頓 とど め 、 広 く 諸 蕃 に 就 き て 、 遍 く 書 語 を 学 ぶ 。 行 坐 尋 授 し て 、 数 日 に し て 便 ち 通 ず 。 席 を 側 そばだ て 西 に 面 し 、 機 候 を 聞 か ん こ と を 思 う 。 会 たま た ま 貞 観 三 年 、 時 に 霜 そう 倹 けん に 遭 ひ 、 勅 を 道 俗 に 下 し 、 豊 を 逐 ひ て 四 出 せ し む 。 幸 ひ に 斯 の 際 に 因 り て 、 径 ただ ち に 姑 臧 に 往 き 、 漸 く 敦 煌 に 至 る 。   す な わ ち 、 玄 奘 は 中 国 各 地 に 諸 師 を 歴 訪 し た が 疑 問 を 解 く こ と が で き ず 、 つ い に イ ン ド を 往 還 し て 弥 勒 の 『 瑜 伽 師 地 論 』 を 将 来 し よ う と 決 意 す る 。 こ の 時 、 二 十 九 歳 で あ っ た 。 出 国 の 許 可 を 得 よ う と し て 上 表 し た が 取 り 次 い で も ら え ず 、 長 安 で 諸 国 の 言 語 を 学 び な が ら 出 発 の 機 会 を う か が っ て い た 。 た ま た ま 「 貞 観 三 年 」 に 霜 害 で 飢 饉 と な り 、 食 料 を 求 め て 移 動 し て よ い と い う 勅 が 下 っ た た め 、 こ の 機 に 乗 じ て 姑 臧 を 経 て 敦 煌 に 至 っ た 、 と い う 。「 玄 奘 伝 」( 麗 本 ( は 玄 奘 が 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 五 歳 で 卒 し た と す る た め 、 か り に 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( に 三 十 歳 で あ っ た と す る な ら ば 両 者 は 一 致 す る 。 し か し 、 受 具 の 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( に 二 十 一 歳 で あ っ た と い う 記 事 と は 一 致 し な い 。   次 に 、『 慈 恩 伝 』 の 記 事 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ う で あ る 。       貞 観 三 年 秋 八 月 、 将 欲 首 塗 。 又 求 祥 瑞 、 乃 夜 夢 見 、 大 海 中 有 蘇 迷 盧 山 。 四 宝 所 成 、 極 為 厳 麗 。 意 欲 登 山 、 而 洪 濤 洶 湧 、 又 無 船 筏 。 不 以 為 懼 、 乃 決 意 而 入 、 忽 見 石 蓮 華 、 涌 乎 波 外 、 応 足 而 生 。 却 而 観 之 、 随 足 而 滅 。 須 臾 至 山 下 、 又 峻 峭 不 可 上 。 試 踊 身 自 騰 、 有 搏 飇 颯 至 、 扶 而 上 昇 。 到 山 頂 、 四 望 廓 然 、 無 復 擁 礙 、 喜 而 寤 焉 。 遂 即 行 矣 。 時 年 二 十 六 也 。 ((( (       貞 観 三 年 秋 八 月 、 将 に 首 塗 せ ん と 欲 す 。 又 た 祥 瑞 を 求 む る に 、 乃 ち 夜 夢 に 、 大 海 の 中 に 蘇 迷 盧 山 有 る を 見 る 。 四 宝 の 所 成 に し て 、 極 め て 厳 麗 な り 。 意 に 山 に 登 ら ん と 欲 す る も 、 而 も 洪 こうとうきょうよう 濤 洶 湧 し 、 又 た 船 せ ん ば つ 筏 も 無 し 。 以 て 懼 おそ れ と 為 さ ず 、 乃 ち 意 を 決 し て 入 る に 、 忽 ち 石 の 蓮 華 、 波 外 に 涌 き て 、 足 に 応 じ て 生 ず る を 見 る 。 却 り て 之 を 観 る に 、 足 に 随 ひ て 滅 す 。 須 臾 に し て 山 下 に 至 る も 、 又 た 峻 峭 に し て 上 る べ か ら ず 。 試 み に 身 を 踊 ら せ て 自 ら 騰 あ が る に 、 搏 はくひょう 飇 の 颯 さっ 至 し す る 有 り て 、 扶 たす け ら れ て 上 昇 す 。 山 頂 に 到 る に 、 四 望 廓 然 と し て 、 復 た 擁 礙 す る も の 無 く 、 喜 び て 寤 さ む 。 遂 に 即 ち 行 く 。 時 に 年 二 十 六 な り 。   す な わ ち 、「 貞 観 三 年 秋 八 月 ((( ( 」、 出 発 に あ た り 吉 兆 を 求 め る

(7)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一八九 と 、 夢 に 大 海 に そ び え る ス メ ー ル 山 ( 須 弥 山 ( を 見 た 。 波 か ら 涌 き 出 た 蓮 華 を 踏 ん で 山 麓 に 着 き 、 風 に 身 を 踊 ら せ て 飛 び 上 が り 山 頂 ま で 昇 っ た 。 四 方 の 眺 め は 広 く 、 妨 げ る も の は 何 も な い 。 喜 ん で 夢 か ら 覚 め 、 つ い に 出 発 す る こ と に し た 。 こ の 時 、 二 十 六 歳 で あ っ た 、 と い う 。 し か し 、 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( に 二 十 六 歳 で あ っ た と す る の は 、『 慈 恩 伝 』( 五 巻 本 ( の 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( に 二 十 一 歳 で 受 具 し た と い う 記 事 と も 、 『 慈 恩 伝 』( 十 巻 本 ( の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 六 歳 以 上 で 卒 し た と い う 計 算 と も 一 致 し な い 。   次 に 、『 行 状 』 の 記 事 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ う で あ る 。       貞 観 三 年 、 将 欲 首 塗 。 又 求 祥 応 、 乃 夜 夢 見 、 大 海 中 有 蘇 迷 盧 山 。 極 為 麗 厳 。 意 欲 登 山 、 而 洪 濤 洶 湧 。 不 以 爲 懼 、 乃 決 意 而 入 、 忽 見 蓮 花 、 波 外 涌 乎 、 應 足 而 生 。 須 臾 至 山 、 又 峻 峭 不 可 上 。 踊 身 自 騰 、 有 搏 飇 、 扶 而 上 昇 。 至 頂 、 四 望 廓 然 、 無 復 擁 礙 、 喜 而 寤 焉 。 遂 即 行 矣 。 時 年 二 十 九 也 。 ((( (       貞 観 三 年 、 将 に 首 塗 せ ん と 欲 す 。 又 た 祥 応 を 求 む る に 、 乃 ち 夜 夢 に 、 大 海 の 中 に 蘇 迷 盧 山 有 る を 見 る 。 極 め て 麗 厳 な り 。 意 に 山 に 登 ら ん と 欲 す る も 、 而 も 洪 こうとうきょうよう 濤 洶 湧 す 。 以 て 懼 おそ れ と 為 さ ず 、 乃 ち 意 を 決 し て 入 る に 、 忽 ち 蓮 花 、 波 外 に 涌 き て 、 足 に 応 じ て 生 ず 。 須 臾 に し て 山 に 至 る も 、 又 た 峻 峭 に し て 上 る べ か ら ず 。 身 を 踊 ら せ て 自 ら 騰 あ が る に 、 搏 はくひょう 飇 有 り て 、 扶 たす け ら れ て 上 昇 す 。 頂 き に 至 る に 、 四 望 廓 然 と し て 、 復 た 擁 礙 す る も の 無 く 、 喜 び て 寤 さ む 。 遂 に 即 ち 行 く 。 時 に 年 二 十 九 な り 。   こ れ は 『 慈 恩 伝 』 の 記 事 を 抄 出 し た も の で あ る 。 出 発 年 次 を 「 貞 観 三 年 」 と す る の も 、『 慈 恩 伝 』 に 倣 っ た た め で あ ろ う 。 た だ し 、 年 齢 は 二 十 九 歳 に 引 き 上 げ ら れ て い る 。『 行 状 』 の 著 者 は 、 下 敷 き に し た 『 慈 恩 伝 』( 五 巻 本 ( の 受 具 と 出 発 の 年 齢 が 合 わ な い た め 、「 玄 奘 伝 」( 興 本 ( を 参 照 し て 出 発 の 年 齢 を 改 め た と い う こ と も 考 え ら れ る 。 し か し 、 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( に 二 十 九 歳 で あ っ た と し て も 、『 行 状 』 の 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( 二 十 一 歳 と い う 記 事 や 、 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( 六 十 三 歳 と い う 記 事 と は 一 致 し な い 。 こ れ ら の 記 事 と 完 全 に 一 致 す る た め に は 、 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( に は 二 十 八 歳 で な け れ ば な ら な い 。   こ の よ う に 、 伝 記 諸 本 の 出 発 年 次 は 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( で 一 致 す る が 、 出 発 時 の 年 齢 は 二 十 六 歳 と 二 十 九 歳 に 分 か れ 、 そ れ ぞ れ の 伝 記 で 他 の 記 事 と 矛 盾 を 生 じ て い る 。   そ こ で 反 対 に 、 年 齢 を 基 準 と し て 前 項 で 推 定 し た 生 卒 年 次 ( 六 〇 二 ― 六 六 四 ( を 当 て は め て み る と 、 二 十 六 歳 で あ れ ば 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( の 出 発 、 二 十 九 歳 で あ れ ば 貞 観 四 年 ( 六 三 〇 ( の 出 発 と い う こ と に な る 。 後 者 は 旅 行 期 間 ( 後 述 ( と 矛 盾 す る た め 検 討 に 値 し な い が 、 前 者 は 玄 奘 の 上 表 文 に 例 が

(8)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九〇 あ る 。 次 に こ の 上 表 文 に つ い て 検 討 す る こ と に し た い 。   2   上 表 文 の 所 伝   道 宣 の 『 広 弘 明 集 』 に 、 玄 奘 が 太 宗 に 経 序 を 請 う 上 表 文 「 請 御 製 経 序 表 」 が 収 録 さ れ て い る 。 そ の 冒 頭 は 、 以 下 の よ う で あ る 。       沙 門 玄 奘 言 。 奘 以 貞 観 元 年 、 往 遊 西 域 、 求 如 来 之 秘 蔵 、 尋 釈 迦 之 遺 旨 。 総 獲 六 百 五 十 七 部 、 並 以 載 於 白 馬 、 以 貞 観 十 八 年 、 方 還 京 邑 。 ((( (       沙 門 玄 奘 言 く 。 奘 貞 観 元 年 を 以 て 、 往 き て 西 域 に 遊 び 、 如 来 の 秘 蔵 を 求 め 、 釈 迦 の 遺 旨 を 尋 ぬ 。 総 じ て 六 百 五 十 七 部 を 獲 、 並 な 以 て 白 馬 に 載 せ 、 貞 観 十 八 年 を 以 て 、 方 に 京 邑 に 還 る 。   す な わ ち 、 玄 奘 は 「 貞 観 元 年 」 に 西 域 に 行 き 、「 貞 観 十 八 年 」 に 長 安 に 帰 還 し た と い う 。 玄 奘 が 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 年 ( に 六 十 三 歳 で あ れ ば 、 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( に は 二 十 六 歳 で あ る 。 こ れ は 『 慈 恩 伝 』 の 出 発 時 の 年 齢 と 一 致 す る 。 玄 奘 が 長 安 に 到 着 し た の は 貞 観 十 九 年 ( 六 四 五 ( 正 月 二 十 四 日 で あ る か ら 、 貞 観 十 八 年 ( 六 四 四 ( と は 合 わ な い が 、 同 年 の う ち に 京 畿 に 入 っ た と い う 意 味 に 解 す る こ と も で き る 。 重 要 な こ と は 、 玄 奘 自 身 が 上 表 文 の 中 で 「 貞 観 元 年 」 に 出 発 し 、「 貞 観 十 八 年 」 に 帰 還 し た と 述 べ て い る こ と で あ る 。   他 に も 、 道 宣 の 『 集 古 今 仏 道 論 衡 』 に あ る 玄 奘 の 小 伝 に は 、 次 の よ う に あ る 。       以 貞 観 初 入 関 、 住 荘 厳 寺 。 学 梵 書 語 、 不 久 並 通 。 上 表 西 行 、 有 司 不 許 。 因 遂 間 行 、 遠 詣 天 竺 。 三 年 方 達 。 ((( (       貞 観 の 初 め を 以 て 関 に 入 り 、 荘 厳 寺 に 住 す 。 梵 の 書 語 を 学 び 、 久 し か ら ず し て 並 な 通 ず 。 西 行 を 上 表 す る も 、 有 司 許 さ ず 。 因 り て 遂 に 間 行 し 、 遠 く 天 竺 に 詣 る 。 三 年 に し て 方 に 達 す 。   す な わ ち 、 玄 奘 は 「 貞 観 初 」 に 長 安 の 大 荘 厳 寺 に 住 し 、 梵 語 を 学 ん で 西 行 を 上 表 し た が 、 許 可 が 下 り な か っ た た め 、 秘 か に イ ン ド へ 行 き 、「 三 年 」 に し て 到 達 し た 、 と い う 。 ま た 、『 旧 唐 書 』 の 玄 奘 伝 に は 、「 貞 観 初 、 随 商 人 、 往 遊 西 域 ( 貞 観 の 初 め 、 商 人 に 随 ひ 、 往 き て 西 域 に 遊 ぶ (」 (((( と あ る 。 こ れ ら の 「 貞 観 初 」 は 、 必 ず し も 貞 観 初 年 を 意 味 し て い る と は 限 ら な い が 、 貞 観 元 年 と い う 意 味 で 読 む こ と が あ る た め 、 注 意 し て よ い 事 例 で あ る 。   そ れ で は 、 伝 記 の 著 者 た ち が 、 玄 奘 が 「 貞 観 三 年 」 に 出 発 し た と す る 根 拠 は ど こ に あ る の だ ろ う か 。 そ れ は 、 玄 奘 が 于 闐 ( ホ ー タ ン ( で 製 し た 、 太 宗 に 帰 国 の 勅 許 を 請 う 上 表 文 に 由 来 す る も の と 思 わ れ る 。       沙 門 玄 奘 言 。 … 中 略 … 玄 奘 往 以 、 仏 興 西 域 、 遺 教 東 伝 、 然 則 勝 典 雖 来 、 而 円 宗 尚 闕 、 常 思 訪 学 、 無 顧 身 命 。 遂 以

(9)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九一 貞 観 三 年 四 月 、 冒 越 憲 章 、 私 往 天 竺 。 践 流 沙 之 漫 漫 、 陟 雪 嶺 之 巍 巍 、 鉄 門 巉 嶮 之 塗 、 熱 海 波 濤 之 路 、 始 自 長 安 神 邑 、 終 于 王 舎 新 城 。 中 間 所 経 五 万 余 里 、 雖 風 俗 千 別 艱 危 万 重 、 而 憑 恃 天 威 所 至 無 鯁 。 仍 蒙 厚 礼 、 身 不 辛 苦 、 心 願 獲 従 、 遂 得 観 耆 闍 崛 山 、 礼 菩 提 之 樹 。 見 不 見 迹 、 聞 未 聞 経 、 窮 宇 宙 之 霊 奇 、 尽 陰 陽 之 化 育 、 宣 皇 風 之 徳 沢 、 発 殊 俗 之 欽 思 。 歴 覧 周 遊 一 十 七 載 。 今 已 従 鉢 羅 耶 伽 国 、 経 迦 畢 試 境 、 越 葱 嶺 、 渡 波 謎 羅 川 、 帰 還 達 於 于 闐 。 ((((       沙 門 玄 奘 言 く 。 … 中 略 … 玄 奘 往 さ き に 、 仏 の 西 域 に 興 り 、 遺 教 東 伝 し 、 然 し て 則 ち 勝 典 来 る と 雖 も 、 而 も 円 宗 尚 ほ 闕 く る を 以 て 、 常 に 訪 学 思 ひ 、 身 命 を 顧 る 無 し 。 遂 に 貞 観 三 年 四 月 を 以 て 、 憲 章 を 冒 越 し 、 私 か に 天 竺 に 往 く 。 流 沙 の 漫 漫 た る を 践 ふ み 、 雪 嶺 の 巍 巍 た る を 陟 わた り 、 鉄 門 巉 ざん 嶮 けん の 塗 、 熱 海 波 濤 の 路 、 長 安 の 神 邑 よ り 始 め て 、 王 舎 の 新 城 に 終 わ る 。 中 間 に 経 る 所 の 五 万 余 里 、 風 俗 千 別 に し て 艱 危 万 重 な り と 雖 も 、 而 も 天 威 に 憑 恃 し て 至 る 所 鯁 ふさ が る 無 し 。 仍 よ り て 厚 礼 を 蒙 り 、 身 に 辛 苦 せ ず 、 心 に 願 の 従 ふ を 獲 、 遂 に 耆 ぎ 闍 じゃ 崛 くっ 山 せん を 観 、 菩 提 の 樹 に 礼 す る を 得 。 不 見 の 迹 を 見 、 未 聞 の 経 を 聞 き 、 宇 宙 の 霊 奇 を 窮 め 、 陰 陽 の 化 育 を 尽 し 、 皇 風 の 徳 沢 を 宣 べ 、 殊 俗 の 欽 思 を 発 す 。 歴 覧 周 遊 す る こ と 一 十 七 載 。 今 已 に 鉢 羅 耶 伽 国 よ り 、 迦 畢 試 の 境 を 経 、 葱 嶺 を 越 え 、 波 謎 羅 川 を 渡 り 、 帰 還 し て 于 闐 に 達 す 。   す な わ ち 、 玄 奘 は 「 貞 観 三 年 四 月 」 に 秘 か に イ ン ド へ 行 き 、 仏 跡 を 巡 礼 し て 、 諸 国 を 周 遊 す る こ と 「 一 十 七 載 」 に し て 于 闐 に 達 し た 、 と い う 。 こ れ が 「 貞 観 三 年 」 に 出 発 し た と す る 最 初 の 資 料 で あ り 、 伝 記 の 著 者 た ち が 根 拠 に し た も の と 思 わ れ る 。 と こ ろ で 、 こ の 上 表 文 は 、 貞 観 十 九 年 ( 六 四 五 ( 年 正 月 の 長 安 到 着 か ら 逆 算 す る と 、 貞 観 十 八 年 ( 六 四 四 ( の 春 に は 出 し て い な け れ ば な ら な い 。 し か し 、「 貞 観 三 年 四 月 」 か ら 貞 観 十 八 年 の 春 ま で は 十 五 年 し か な く 、「 一 十 七 載 」 と い う 旅 行 期 間 と 一 致 し な い 。 旅 行 期 間 が 十 七 年 間 で あ る と す れ ば 、 出 発 は 貞 観 元 年 で な け れ ば な ら な い 。   玄 奘 の 旅 行 期 間 が 十 七 年 間 で あ る と い う こ と は 、『 広 弘 明 集 』 の 上 表 文 の 旅 行 期 間 と も 一 致 す る た め 、 こ れ を 否 定 す る こ と は 難 し い ((( ( 。 そ れ で は 、「 貞 観 三 年 四 月 」 と い う 年 月 の 方 は ど う で あ ろ う か 。 改 め て 上 表 文 を 見 て み る と 、 先 ず 「 遂 に 貞 観 三 年 四 月 を 以 て 、 憲 章 を 冒 越 し 、 私 か に 天 竺 に 往 く 」 と 述 べ 、 次 に 長 安 か ら 新 王 舎 城 ま で の 旅 に 苦 難 は あ っ た が 、 太 宗 の 威 光 に よ り 無 事 に 到 着 す る こ と が で き た 、 と 述 べ て い る 。 す な わ ち 、「 貞 観 三 年 四 月 」 は 、 長 安 を 出 発 し た 時 期 で あ る の か 、 イ ン ド に 到 着 し た 時 期 で あ る の か が 明 確 で は な く 、 ど ち ら に も 読 む こ と の で き る 文 章 で あ る 。   玄 奘 は ど う し て こ の よ う に 曖 昧 な 文 章 を 書 い た の で あ ろ う

(10)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九二 か 。 先 ず 、 長 安 を 出 発 し た 年 月 を 明 記 す る と 、 国 禁 を 犯 し て 出 国 し た 過 去 が 調 査 さ れ 、 処 罰 さ れ る 可 能 性 が あ っ た と い う こ と が 考 え ら れ る 。 ま た 、 出 発 時 と 帰 国 時 と で は 西 域 の 情 勢 が 大 き く 変 わ り 、 唐 の 範 囲 を 判 断 す る こ と が 難 し か っ た か ら で あ る と も 考 え ら れ よ う 。 こ の よ う な 理 由 か ら 、 玄 奘 は 長 安 や 唐 を 出 た 年 月 を 明 示 せ ず 、 イ ン ド に 着 い た 年 月 の み を 記 し た の で は な か ろ う か ((( ( 。「 貞 観 三 年 四 月 」 は 旅 程 や 地 勢 か ら 見 て 、 大 雪 山 ( ヒ ン ド ゥ ー ク シ ュ 山 脈 ( を 越 え る 時 点 で あ っ た と 思 わ れ る 。 し か し 、 帰 国 後 に こ の 上 表 文 が 知 ら れ る よ う に な る と 、 玄 奘 の 意 図 と は 別 に 「 貞 観 三 年 」 が 出 発 年 次 と み な さ れ 、「 一 十 七 載 」 と い う 旅 行 期 間 と と も に 普 及 し て し ま っ た の で は な か ろ う か 。   こ の よ う に 、 玄 奘 の 上 表 文 に は 出 発 年 次 を 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( と す る も の と 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( と す る も の と が あ る が 、 旅 行 期 間 と の 関 係 を 考 え る な ら ば 、 前 者 の 方 が 蓋 然 性 が 高 い と 言 え る だ ろ う 。 も し 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( に 長 安 を 出 発 し た と す る な ら ば 、『 慈 恩 伝 』 が 伝 え る 出 発 時 の 年 齢 と 一 致 す る 。 ま た 、 前 項 で 推 定 し た 生 卒 年 次 ( 六 〇 二 ― 六 六 四 ( と も 一 致 す る こ と に な る 。   こ の こ と か ら 、 玄 奘 が 長 安 を 出 発 し た の は 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( 秋 八 月 で あ り 、 そ の 時 の 年 齢 は 二 十 六 歳 で あ る と 推 定 さ れ る ((( ( 。 四 、 到 着 年 次   1   修 学 期 間 に よ る 算 出   玄 奘 が 目 的 地 で あ る 摩 掲 陀 国 ( マ ガ ダ ( の 那 爛 陀 ( ナ ー ラ ン ダ ( に 到 着 し た 年 次 に つ い て は 、 い ず れ の 伝 記 も 明 記 し な い 。 し か し 、 も し 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( 秋 八 月 に 長 安 を 出 発 し た と す る な ら ば 、 貞 観 二 年 ( 六 二 八 ( の 春 に は 高 昌 国 ( ト ル フ ァ ン ( の 麹 文 泰 か ら 供 養 を 受 け 、 夏 に は 凌 山 ( ペ ダ ル 峠 ( を 越 え て 突 厥 の 葉 護 可 汗 ( ヤ グ ブ ・ カ ー ン ( に 面 会 し た こ と に な る 。 ま た 、 貞 観 三 年   ( 六 二 九 ( 夏 に は 大 雪 山 ( ヒ ン ド ゥ ー ク シ ュ 山 脈 ( を 越 え 、 迦 畢 試 国 ( カ ピ シ ー ( で 「 夏 坐 」 ((( ( し た こ と に な る だ ろ う 。 迦 畢 試 国 を 出 る と 北 イ ン ド に 入 る 。 し た が っ て 、 前 項 で 検 討 し た 玄 奘 の 上 表 文 に 「 貞 観 三 年 四 月 」 と あ る の は 、 こ の 大 雪 山 を 越 え て イ ン ド に 入 っ た 年 月 を 指 す も の と 考 え ら れ る 。   伝 記 に よ れ ば 、 玄 奘 は 北 イ ン ド か ら 中 イ ン ド の ナ ー ラ ン ダ に 至 る ま で 、 各 地 に 滞 在 し て 修 学 を 重 ね て い る 。 修 学 状 況 に 詳 し い 『 慈 恩 伝 』 の 記 事 に よ れ ば 、 各 地 の 滞 在 期 間 は 以 下 の よ う で あ る 。     迦 湿 弥 羅 国 ( カ シ ュ ミ ー ル (        二 年 ((( (

(11)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九三     磔 迦 国        ( ッ カ (              一 月 ((( (     至 那 僕 底 国 ( チ ー ナ グ プ テ ィ (    十 四 月 ((( (     闍 爛 達 羅 国 ( ジ ャ ー ラ ン ダ ラ (      四 月 ((( (     窣 禄 勤 那 国 ( ス ル グ ナ (        一 冬 半 春 ((( (     秣 底 補 羅 国 ( マ テ ィ プ ラ (      半 春 一 夏 ((( (     羯 若 鞠 闍 国 ( カ ー ニ ャ ク ブ ジ ャ (    三 月 ((( (   各 地 の 滞 在 期 間 の 合 計 は 、 四 年 七 ヵ 月 に な る 。 玄 奘 が 北 イ ン ド に 入 っ た の が 貞 観 三 年   ( 六 二 九 ( 夏 四 月 で あ る と す れ ば 、 ナ ー ラ ン ダ に 到 着 し た の は 貞 観 八 年 ( 六 三 四 ( 頃 に な る で あ ろ う 。 長 安 を 出 発 し た 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( 秋 八 月 か ら 数 え る な ら ば 、 ナ ー ラ ン ダ ま で の 旅 行 期 間 は 六 、 七 年 で あ っ た こ と に な る 。   2   旅 行 期 間 に よ る 算 出   し か し 、 玄 奘 の 伝 記 に は 、 ナ ー ラ ン ダ ま で の 旅 行 期 間 が 三 、 四 年 で あ っ た こ と を 示 唆 す る 話 が あ る 。       〔正 法 蔵 戒 賢 〕 問 法 師 。「 従 何 処 来 」。 報 曰 。「 従 支 那 国 来 。 欲 依 師 学 『 瑜 伽 論 』」 。 聞 已 啼 泣 。… 中 略 … 法 蔵 語 曰 。 「 汝 可 為 衆 説 、 我 三 年 前 病 悩 因 縁 」。 覚 賢 聞 已 、 啼 泣 捫 涙 、 而 説 昔 縁 云 。「 和 上 、 昔 患 風 病 。 毎 発 手 足 拘 急 、 如 火 焼 刀 刺 之 痛 。 乍 発 乍 息 、 凡 二 十 余 載 。 去 三 年 前 、 苦 痛 尤 甚 。 厭 悪 此 身 、 欲 不 食 取 尽 。 於 夜 中 夢 三 天 人 。 … 中 略 … 金 色 者 自 言 。『 我 是 曼 殊 室 利 菩 薩 。 我 等 見 汝 空 欲 捨 身 不 為 利 益 、 故 来 勧 汝 。 当 依 我 語 、 顕 揚 正 法 『 瑜 伽 論 』 等 、 遍 及 未 聞 。 汝 身 即 漸 安 隠 。 勿 憂 不 差 。 有 支 那 国 僧 。 楽 通 大 法 、 欲 就 汝 学 。 汝 可 待 教 之 』。 法 蔵 聞 已 、 礼 拝 報 曰 。『 敬 依 尊 教 』。 言 已 不 見 。 自 爾 已 来 、 和 上 所 苦 瘳 除 」。 僧 衆 聞 者 、 莫 不 称 歎 希 有 。 … 中 略 … 法 蔵 又 問 。「 法 師 、 汝 在 路 幾 年 」。 答 。「 三 年 」。 既 与 昔 夢 符 同 。 種 種 誨 喩 、 令 法 師 歓 喜 。 以 申 師 弟 之 情 、 言 訖 辞 出 。 ((( (       〔正 法 蔵 戒 賢 〕 法 師 に 問 ふ 。「 何 れ の 処 よ り 来 る や 」 と 。 報 へ て 曰 く 。「 支 那 国 よ り 来 る 。 師 に 依 り て 『 瑜 伽 論 』 を 学 ば ん と 欲 す 」 と 。 聞 き 已 り て 啼 泣 す 。 … 中 略 … 法 蔵 語 り て 曰 く 。「 汝 衆 の 為 に 、 我 が 三 年 前 の 病 悩 の 因 縁 を 説 く べ し 」 と 。 覚 賢 聞 き 已 る や 、 啼 泣 し て 涙 を 捫 な で 、 昔 の 縁 を 説 き て 云 く 。「 和 上 、 昔 風 病 を 患 ふ 。 発 す る 毎 に 手 足 拘 急 し 、 火 焼 刀 刺 の 痛 み の 如 し 。 乍 たちま ち 発 し 乍 ち 息 む こ と 、 凡 そ 二 十 余 載 な り 。 去 る こ と 三 年 前 、 苦 痛 尤 も 甚 し 。 此 の 身 を 厭 悪 し 、 食 せ ず し て 尽 を 取 ら ん と 欲 す 。 夜 中 に 於 て 三 天 人 を 夢 み る 。 … 中 略 … 金 色 の 者 自 ら 言 く 。 『 我 は 是 れ 曼 殊 室 利 菩 薩 な り 。 我 等 汝 の 空 し く 身 を 捨 て ん と 欲 し 利 益 を 為 さ ざ る を 見 て 、 故 ことさ ら に 来 り て 汝 に 勧 む 。 当 に 我 が 語 に 依 り て 、 正 法 『 瑜 伽 論 』 等 を 顕 揚 し 、

(12)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九四 遍 く 未 聞 に 及 ぼ す べ し 。 汝 の 身 は 即 ち 漸 く 安 隠 た ら ん 。 差 い え ざ る を 憂 ふ る こ と 勿 れ 。 支 那 国 の 僧 有 り 。 大 法 を 通 ぜ ん こ と を 楽 ねが ひ 、 汝 に 就 き て 学 ば ん と 欲 す 。 汝 待 ち て 之 れ に 教 ふ べ し』 と 。法 蔵 聞 き已 り 、 礼 拝し て 報 へ て 曰 く 。 『 敬 つつし み て 尊 教 に 依 ら ん 』 と 。 言 ひ 已 り て 見 え ず 。 爾 れ よ り 已 来 、 和 上 の 苦 し む 所 は 瘳 ちゅうじょ 除 す 」 と 。 僧 衆 の 聞 く 者 、 希 有 な り と 称 歎 せ ざ る も の 莫 し 。… 中 略 … 法 蔵 又 た 問 ふ 。 「 法 師 、 汝 路 に 在 り て 幾 年 な る や 」 と 。 答 ふ 。「 三 年 な り 」 と 。 既 に 昔 の 夢 と 符 同 す 。 種 種 誨 喩 し て 、 法 師 を し て 歓 喜 せ し む 。 以 て 師 弟 の 情 を 申 べ 、 言 訖 り て 辞 出 す 。 ((((   す な わ ち 、 ナ ー ラ ン ダ の 正 法 蔵 戒 賢 ( シ ー ラ バ ド ラ 。 五 二 六 ― 六 四 五 ( は 、 玄 奘 が 中 国 か ら 『 瑜 伽 師 地 論 』 を 学 ぶ た め に 来 た こ と を 知 る と 涙 を 流 し 、 弟 子 の 覚 賢 に 三 年 前 の 因 縁 を 語 ら せ た 。 そ れ に よ れ ば 、 戒 賢 が 三 年 前 に 病 苦 を 厭 っ て 滅 を 取 ろ う と し た と こ ろ 、 夢 に 現 れ た 文 殊 菩 薩 か ら 、 や が て 来 る 中 国 僧 に 『 瑜 伽 師 地 論 』 を 教 え る よ う に 告 げ ら れ 、 以 後 病 苦 が な く な っ た と い う 。 戒 賢 が 「 旅 に 出 て 何 年 に な り ま す か 」 と 問 う と 、 玄 奘 は 「 三 年 に な り ま す 」 と 答 え た 。 か つ て の 夢 告 と 符 合 し 、 師 弟 は そ の 因 縁 を 喜 ん だ 、 と い う 。 こ の 話 に よ れ ば 、 玄 奘 の ナ ー ラ ン ダ ま で の 旅 行 期 間 は 「 三 年 」 と い う こ と に な る 。   「 玄 奘 伝 」 の 同 じ 記 事 で も 「 出 三 年 矣 ( 出 づ る こ と 三 年 な り (」 (((( と し 、『 行 状 』 で は 「 過 三 年 向 欲 四 年 ( 三 年 を 過 ぎ て 向 ふ と こ ろ 四 年 に な ら ん と 欲 す (」 ((( ( と し て い る 。 こ の 三 、 四 年 と い う 旅 行 期 間 は 、 旅 程 に 照 ら し て 妥 当 な も の と 言 え る で あ ろ う か 。   玄 奘 が 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( 秋 に 長 安 を 出 発 し た と す れ ば 、 三 年 目 の 貞 観 四 年 ( 六 三 〇 ( に は カ シ ュ ミ ー ル で ア ビ ダ ル マ を 学 ん で い る は ず で あ る 。 カ シ ュ ミ ー ル で の 修 学 は 、 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( 後 半 か ら 貞 観 五 年 ( 六 三 一 ( 前 半 に か け て の 二 年 間 で あ っ た だ ろ う 。 こ の カ シ ュ ミ ー ル で の 修 学 を 、 ナ ー ラ ン ダ 以 後 の 出 来 事 と 見 る の は 難 し い 。『 慈 恩 伝 』 に 次 の よ う に あ る か ら で あ る 。       其 『 倶 舍 』『 婆 沙 』『 六 足 阿 毘 曇 』 等 、 以 曽 於 迦 湿 弥 羅 諸 国 聴 訖 、 至 此 尋 読 決 疑 而 已 。 ((((       其 の 『 倶 舍 』『 婆 沙 』『 六 足 阿 毘 曇 』 等 は 、 曽 て 迦 湿 弥 羅 諸 国 に 於 て 聴 き 訖 る を 以 て 、 此 に 至 り て は 尋 読 し て 疑 を 決 す る の み 。   す な わ ち 、 玄 奘 は か つ て カ シ ュ ミ ー ル で 唯 識 の 基 礎 と な る ア ビ ダ ル マ を 学 ん で い た の で 、 ナ ー ラ ン ダ で は 疑 義 を た だ す の み で あ っ た 、 と い う の で あ る 。 し た が っ て 、 カ シ ュ ミ ー ル に 二 年 滞 在 し て い る 以 上 、「 三 年 」 で ナ ー ラ ン ダ に 着 く こ と は 不 可 能 で あ る 。   し か し 、 も し カ シ ュ ミ ー ル 以 外 で の 修 学 が ナ ー ラ ン ダ 以 後

(13)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九五 の 出 来 事 で あ り 、 玄 奘 が カ シ ュ ミ ー ル か ら ナ ー ラ ン ダ へ 直 行 し た と す る な ら ば 、 ど う で あ ろ う か 。 滞 在 期 間 の 四 年 七 ヵ 月 か ら カ シ ュ ミ ー ル の 二 年 を 除 く 二 年 七 ヵ 月 が 減 算 さ れ る た め 、 貞 観 五 年 ( 六 五 一 ( の う ち に ナ ー ラ ン ダ に 着 く こ と も 可 能 と な る で あ ろ う 。 こ れ な ら ば 、「 三 年 」 に は 収 ま ら な い と し て も 、『 行 状 』 の 「 過 三 年 向 欲 四 年 」 と い う 期 間 に は 収 ま る こ と に な る 。   そ れ で は 、 往 路 で の 修 学 を ナ ー ラ ン ダ 以 後 の 出 来 事 で あ る と す る 証 拠 は あ る の だ ろ う か 。 第 一 に 、「 玄 奘 伝 」( 興 本 ( で は 、 こ の 間 の 修 学 は ほ と ん ど 記 さ れ て お ら ず 、 カ シ ュ ミ ー ル ( 滞 在 期 間 不 明 ( と カ ー ニ ャ ク ブ ジ ャ ( 三 月 ( で の 修 学 に 言 及 す る の み で あ る ((( ( 。 こ れ に 従 う な ら ば 、 玄 奘 は カ シ ュ ミ ー ル か ら ナ ー ラ ン ダ ま で ほ ぼ 直 行 し た こ と に な る で あ ろ う 。 第 二 に 、 玄 奘 は 長 安 で プ ラ バ ー カ ラ ミ ト ラ に 会 い 、 ナ ー ラ ン ダ で 長 老 の 戒 賢 が 『 瑜 伽 師 地 論 』 を 講 じ て い る こ と を 知 っ て い た 可 能 性 が あ る ((( ( 。 そ の 場 合 、 カ シ ュ ミ ー ル 以 後 の 各 地 に あ え て 長 く 滞 在 し 、 ナ ー ラ ン ダ で の 修 学 を 遅 ら せ る と い う こ と は 考 え に く い 。 こ の こ と か ら 、『 慈 恩 伝 』 の 往 路 で の 修 学 に は 、 ナ ー ラ ン ダ 以 後 の 出 来 事 が 誤 っ て 挿 入 さ れ て い る 可 能 性 が 指 摘 で き る ((( ( 。   た だ し 、 三 、 四 年 と い う 旅 行 期 間 を 確 定 す る た め に は 、 戒 賢 と 玄 奘 の 因 縁 譚 の み で は な く 、 そ れ と は 別 の 証 拠 も 必 要 で あ ろ う 。 こ こ で は 、 玄 奘 が ナ ー ラ ン ダ に 到 着 し た 時 期 は 、 『 慈 恩 伝 』 の よ う に 各 地 で 修 学 し た と す る な ら ば 貞 観 八 年 ( 六 三 四 ( 頃 で あ り 、「 玄 奘 伝 」( 興 本 ( の よ う に カ シ ュ ミ ー ル か ら 直 行 し た と す る な ら ば 貞 観 五 年 ( 六 三 一 ( 頃 の 到 着 で あ る と 推 定 し た い 。 五 、 結 語   以 上 、 玄 奘 の 伝 記と 上 表 文 を 検証 し 、 生 卒 年 次 、 出 発 年 次 、 到 着 年 次 を 、 そ れ ぞ れ 推 定 し た 。 考 察 の 要 点 は 、 以 下 の よ う で あ る 。   生 卒 年 次 に つ い て は 、『 行 状 』 の 麟 徳 元 年 ( 六 六 四 ( に 六 十 三 歳 に 卒 し た と い う 記 事 が 、 卒 年 を 記 録 し た 最 初 の も の で あ る 。 こ れ は 、 伝 記 諸 本 に 共 通 す る 武 徳 五 年 ( 六 二 二 ( に 二 十 一 歳 で 受 具 し た と い う 年 次 と 一 致 す る 。 こ れ を 卒 年 と し て 生 年 を 逆 算 す る な ら ば 、 玄 奘 は 仁 寿 二 年 ( 六 〇 二 ( に 生 ま れ た こ と に な る 。   長 安 を 出 発 し た 年 次 に つ い て は 、 伝 記 諸 本 は 共 通 し て 貞 観 三 年 ( 六 二 九 ( に 長 安 を 出 発 し た と す る が 、 そ れ ぞ れ の 卒 年 と 出 発 時 の 年 齢 と が 矛 盾 す る 。 ま た 、 そ れ ら の 典 拠 と み ら れ る 玄 奘 の 上 表 文 で は 、 貞 観 三 年 に 長 安 を 出 発 し た と は 明 記 せ ず 、 旅 行 期 間 と も 矛 盾 し て い る 。 他 方 、 別 の 上 表 文 で は 貞 観

(14)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九六 元 年 ( 六 二 七 ( に 長 安 を 出 発 し た と す る も の が あ り 、 こ れ が 『 慈 恩 伝 』 の 出 発 時 の 年 齢 や 、 旅 行 期 間 と 一 致 す る 。 こ の こ と か ら 、 出 発 年 次 は 貞 観 元 年 で あ る と 推 定 さ れ る 。   ナ ー ラ ン ダ に 到 着 し た 年 次 に つ い て は 、 玄 奘 が 長 安 を 出 発 し た 貞 観 元 年 ( 六 二 七 ( に 、『 慈 恩 伝 』 が 伝 え る 往 路 の 修 学 期 間 を 加 算 す る と 、 貞 観 八 年 ( 六 三 四 ( 頃 に な る 。 し か し 、 「 玄 奘 伝 」( 興 本 ( が 伝 え る よ う に 、 カ シ ュ ミ ー ル か ら ナ ー ラ ン ダ ま で 直 行 し た と す る な ら ば 、 到 着 は 貞 観 五 年 ( 六 三 一 ( 頃 に な る 。   考 察 の 結 果 を 表 に す れ ば 、 以 下 の よ う に な る だ ろ う 。     仁 寿 二 年      ( 〇 二 ( 一 歳       洛 陽 に 生 ま れ る 。     武 徳 五 年      ( 二 二 ( 二 十 一 歳   成 都 で 具 足 戒 を 受 け る 。     貞 観 元 年      ( 二 七 (   二 十 六 歳   秋 八 月 一 日 、 長 安 を 出 発 。     貞 観 三 年      ( 二 九 (   二 十 八 歳   春 四 月 、 ヒ ン ド ゥ ー ク シ ュ 山 脈 を 越 え 、北 イ ン ド に 到 着 。     貞 観 五 年      ( 三 一 (   三 十 歳     ナ ー ラ ン ダ に 到 着 ( カ シ ュ ミ ー ル か ら 直 行 し た 場 合 (。     貞 観 八 年      ( 三 四 (   三 十 三 歳   ナ ー ラ ン ダ に 到 着( 北 ・ 中 イ ン ド 各 地 で 修 学 し た 場 合 (。     貞 観 十 八 年 ( 六 四 四 ( 四 十 三 歳   春 、 コ ー タ ン か ら 上 表 。     貞 観 十 九 年 ( 六 五 四 (   四 十 四 歳   春 正 月 二 十 四 日 、 長 安 に 帰 還 。     麟 徳 元 年      ( 六 六 四 (   六 十 三 歳   春 二 月 五 日 、 玉 華 寺 に て 卒 す 。   こ れ に よ れ ば 、 長 安 を 起 点 ・ 終 点 と し た 旅 行 期 間 は 約 十 七 年 六 ヵ 月 と な る 。   小 稿 で は 伝 記 と 上 表 文 を 根 拠 と し て 玄 奘 の 年 次 問 題 を 考 察 し た が 、 こ の 結 果 を 他 の 史 料 と 比 較 考 量 す る な ら ば 、 さ ら に 正 確 な 年 次 を 推 定 す る こ と が で き る で あ ろ う 。 付 録 と し て こ こ で の 考 察 結 果 を 反 映 し た 玄 奘 の 略 年 譜 を あ げ て お く 。 た だ し 、 出 発 以 前 や イ ン ド 滞 在 中 の 年 次 に つ い て は 検 討 を 要 す る 箇 所 が少 なく な い 。 こ れ ら の 問 題 に つ い て は 後 考 を期し た い 。 註 (1 (  玄 奘 の 年 次 問 題 に 関 す る 主 な 先 行 研 究 に は、 梁 啓 超『 中 国 歴 史 研 究 法 』( 一 九 二 二 年 ( 一 二 五 頁 以 下、 松 本 文 三 郎「 玄 奘 の 研 究 」( 『 東 洋 文 化 の 研 究 』 岩 波 書 店、 一 九 二 六 年 (、 劉 汝 霖「 唐 玄 奘 法 師 年 譜 」( 『 北 京 女 師 大 学 術 季 刊 』 一 ― 三、 一 九 三 〇 年。 二 ― 一、 一 九 三 一 年 (、 高 田 修「 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 解 題 」 (『 国 訳 一 切 経   和 漢 撰 述 部   史 伝 部 一 一 』 大 東 出 版 社、 一 九 四 〇 年 (、 「 玄 奘 三 蔵 入 竺 行 程 の 検 討 」( 『 宗 教 研 究 』 一 〇 五、 一 九

(15)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九七 四 〇 年 (、 水 谷 真 成「 『 大 唐 西 域 記 』 解 説 」( 『 中 国 古 典 文 学 大 系 二 二   大 唐 西 域 記 』 平 凡 社、 一 九 七 一 年。 後 に 東 洋 文 庫、 一 九 九 九 年 (、 長 澤 和 俊「 解 題 玄 奘 三 蔵 略 伝 」( 『 玄 奘 三 蔵 ― 西 域・ イ ン ド 紀 行 ―』 桃 源 社、 一 九 七 八 年 (、 桑 山 正 進「 玄 奘 三 蔵 の 形 而 下 」( 『 人 物 中 国 の 仏 教   玄 奘 』 大 蔵 出 版、 一 九 八 一 年 (、 「 イ ン ド へ の 道 ― 玄 奘 と プ ラ バ ー カ ラ ミ ト ラ ―」 (『 東 方 学 報 』 五 五、 一 九八三 ( などがある。     水 谷 氏 は 玄 奘 の 年 次 に つ い て は 数 種 の 説 が あ る が、 問 題 に つ いては大別すると三説あると言う。     第 一 は、 諸 伝 一 致 す る 武 徳 五 年( 六 二 二 ( に 受 具 し た こ と を 根 拠 と し て 生 卒 年 次 を 六 〇 二 ― 六 六 四 年 と し、 や は り 諸 伝 一 致 する貞観三年(六二九 ( に長安を出発したとする説。      仁寿二年      (六〇二 ( 一歳     生誕      貞観三年      (六二九 ( 二十八歳   出発      貞観十九年(六四五 ( 四十四歳   帰国      麟徳元年      (六六四 ( 六十三歳   遷化     第 二 は、 『 続 高 僧 伝 』 に「 麒 徳 元 年 … 中 略 … 行 年 六 十 五 」( 大 正 五 〇、 四 五 八 a ( と あ る の を 根 拠 と し て 生 卒 年 次 を 六 〇 〇 ― 六六四年とする説。      開皇二十年(六〇〇 ( 一歳     生誕      貞観三年      (六二九 ( 三十歳    出発      貞観十九年(六四五 ( 四十六歳   帰国      麟徳元年      (六六四 ( 六十五歳   遷化     第 三 は、 『 慈 恩 伝 』 に 長 安 を 出 発 し た 時 に「 年 二 十 六 也 」( 大 正 五 〇、 二 二 二 c ( と あ る の を 根 拠 と し て 貞 観 元 年( 六 二 七 ( に出発したとする説。      仁寿二年      (六〇二 ( 一歳     生誕      貞観元年      (六二七 ( 二十六歳   出発      貞観十九年(六四五 ( 四十四歳   帰国      麟徳元年      (六六四 ( 六十三歳   遷化     第 一 は 松 本 氏 に 代 表 さ れ る 説 で あ り、 水 谷 氏 や 長 澤 氏 が 支 持 し て い る。 第 三 は 梁 氏 や 劉 氏 に 代 表 さ れ る 説 で あ り、 桑 山 氏 も 別 の 根 拠 か ら 貞 観 元 年 な い し 二 年 に 出 発 し た と す る( 註 ((参照 (。 高田氏は第一から第三に改めている。 (2 (  貞 観 年 間 に 成 立 し た『 続 高 僧 伝 』 は 日 本 古 写 経 に 現 存 し、 興 聖 寺 本・ 金 剛 寺 本・ 七 寺 本 な ど 複 数 の 種 類 が あ る。 そ れ ぞ れ 保 存 状 況 に つ い て は、 国 際 仏 教 学 大 学 院 大 学 の 日 本 古 写 経 デ ー タ ベースで公表されている。     『 続 高 僧 伝 』 巻 四 に つ い て は、 写 経 諸 本 と 現 行 諸 本 と の 間 に 顕 著 な 違 い が あ る。 現 行 諸 本 は 玄 奘 伝・ 那 提 伝・ 論( 訳 経 篇 ( で 構 成 さ れ て い る が、 古 写 経 諸 本 に は 那 提 伝 が な い。 ま た、 玄 奘 伝 も 貞 観 二 十 三 年 の 記 事 で 終 了 し、 記 事 の 配 列 や 内 容 が 現 行 本 と 異 な る と こ ろ が あ る。 刊 本 お よ び 写 本 の 諸 本 の 比 較 研 究 に つ い て は、 藤 善 眞 澄「 『 続 高 僧 伝 』 玄 奘 伝 の 成 立 ― 新 発 見 の 興 聖 寺

(16)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九八 本 を め ぐ っ て ―」 (『 鷹 陵 史 学 』 五、 一 九 七 九 (、 伊 吹 敦「 『 続 高 僧 伝 』 の 増 広 に 関 す る 研 究 」( 『 東 洋 の 思 想 と 宗 教 』 七、 一 九 九 〇 年 (、 藤 善 眞 澄「 『 続 高 僧 伝 』 管 見 ― 興 聖 寺 本 を 中 心 に ―」 (『 道 宣 伝 の 研 究 』 京 都 大 学 学 術 出 版 会、 二 〇 〇 二 年 (、 Saitô Tatuya 「 Features of the Kongō-ji version of the Further Biographies of Em ine nt M on ks: W ith a Fo cu s o n t he B iog rap hy o f X ua nz an g i n t he Fourth Fascicle 」( 『 国 際 仏 教 学 大 学 院 大 学 研 究 紀 要 』 一 六、 二 〇 一 二 年 ( 池 麗 梅「 『 続 高 僧 伝 』 研 究 序 説 ― 刊 本 大 蔵 経 本 を 中 心 と し て ―」 (『 鶴 見 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 』 一 八、 二 〇 一 三 (、 『 日 本 古 写 経 善 本 叢 刊 第 八 輯   高 僧 伝・ 続 高 僧 伝 』( 国 際 仏 教 学 大学院大学日本古写経研究所、二〇一四年 ( 参照。     『 続 高 僧 伝 』 巻 四 は、 興 聖 寺 本 が 翻 刻 さ れ て い る。 藤 善 前 掲 論 文 お よ び 前 掲 書、 吉 村 誠「 興 聖 寺 本『 続 高 僧 伝 』 巻 四 玄 奘 伝 ― 翻 刻 と 校 訂 ―」 (『 駒 澤 大 学 仏 教 学 部 論 集 』 四 四、 二 〇 一 三 年 ( 参 照。 Saitô 前 掲 論 文 は 興 聖 寺 本 よ り も 金 剛 寺 本 の ほ う が 古 い 形 態 で あ る こ と を 指 摘 す る が、 写 経 諸 本 の 異 同 は 年 次 問 題 の 考 察 に 影 響 し な い た め、 小 稿 で は 全 文 が 翻 刻 さ れ て い る 興 聖 寺 本 を 使用する。 (3 ( 『 続 高 僧 伝 』 巻 四 玄 奘 伝、 『 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 』、 『 大 唐 故 三 蔵 玄 奘 法 師 行 状 』 の 三 者 が そ れ ぞ れ 影 響 を 及 ぼ し 合 い な が ら 成 立 し た 過 程 に つ い て は、 吉 村 誠「 『 大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝』の成立について」 (『仏教学』三七、一九九五年 ( 参照。 (4 ( 『 行 状 』 大 正 五 〇、 二 一 九 a。 「 縁 」、 原 本 は「 緑 」。 文 義 に よ り改める。 (5 ( 『続高僧伝』巻四、大正五〇、四五八a。 (6 ( 『慈恩伝』巻十、大正五〇、二四六b。 (7 (  玄 奘 自 身 も、 顕 慶 四 年( 六 五 九 年 ( の 上 表 文 で「 行 年 六 十 」 ( 大 正 五 二、 八 二 六 b ( と い い な が ら、 龍 朔 三 年( 六 六 三 ( の 上 表 文 で は「 年 垂 七 十 」( 同 上 ( と い い、 年 齢 を 多 く 見 積 も っ て い る。 (8 ( 『慈恩伝』巻一、大正五〇、二二二b。 (9 ( 『 行 状 』 大 正 五 〇、 二 一 四 b。 「 成 」、 原 本 は「 城 」。 文 義 に よ り改める。 (⓾ ( 『続高僧伝』巻四、大正五〇、四四七a。 (⓫ ( 『続高僧伝』巻四、大正五〇、四四七b。 (⓬ ( 『 慈 恩 伝 』 巻 一、 大 正 五 〇、 二 二 二 c。 「 搏 飇 」、 原 本 は「 摶 飈」に作る。 『行状』により改める。 (⓭ ( 『 慈 恩 伝 』 が 出 発 の 時 期 を「 秋 八 月 」 と す る の は、 『 大 唐 西 域 記 』 の 弁 機 の 讃 に あ る「 仲 秋 朔 旦 」( 大 正 五 一、 九 四 六 b ( を 参 照 し た も の と 思 わ れ る が、 「 玄 奘 伝 」 の「 霜 倹 」( 大 正 五 〇、 四 四 七 b ( の 時 期 と も 矛 盾 し な い。 「 秋 八 月 」 に 出 発 し た と い う の は、玄奘周辺の共通認識であったのだろう。 (⓮ ( 『 行 状 』 大 正 五 〇、 二 一 四 b。 「 洶 」、 原 文 は「 汹 」 に 作 る。 『 慈 恩 伝 』 に よ り 改 め る。 「 涌 」、 原 本 は「 踊 」 に 作 る。 文 義 に よ

(17)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 一九九 り改める。 (⓯ ( 『広弘明集』巻二二、大正五二、二五八a。 (⓰ ( 『集古今佛道論衡』巻丙、大正五二、三八七b。 (⓱ ( 『旧唐書』巻一九一、玄奘伝。 (⓲ ( 『 慈 恩 伝 』 巻 五、 大 正 五 〇、 二 五 一 c。 「 謎 」、 原 文 は「 」 に 作る。文義により改める。 (⓳ (  太 宗「 聖 教 序 」 や 高 宗「 述 聖 記 」 に も「 十 有 七 」( 大 正 五 〇、 二 五 六 a。 二 五 七 b ( と あ り、 『 慈 恩 伝 』 の 彦 悰 序 に も「 一 十 七 年」 (大正五〇、二二一a ( と記されている。 (⓴ (  桑 山 氏 は 前 掲 論 文「 玄 奘 三 蔵 の 形 而 下 」 で、 玄 奘 の 二 つ の 上 表 文 の 違 い に つ い て、 「 こ の 二 文 は 貞 観 元 年 を 長 安 に 実 際 に 出 発 し た 年 次、 貞 観 三 年 を イ ン ド に 到 達 し た 年 次 と 考 え れ ば ち っ と も 矛 盾 は な い 」( 八 一 頁 ( と 述 べ て い る。 ま た、 同 氏 は 貞 観 元 年 か ら 二 年 ま で の 事 情 を 明 示 し な い 理 由 に つ い て、 「 彼 が ひ そ か に 出 国 し た 事 情 も さ る こ と な が ら、 帰 国 時 点 に お け る 太 宗 の 西 域 経 営 の 積 極 性 と こ れ に 対 す る 玄 奘 の 遠 慮 が あ っ た か ら で あ る 」 (八二頁 ( と述べている。 (㉑ (  出 発 年 次 に 関 す る 諸 説 に つ い て は、 桑 山 氏 の 前 掲 論 文「 玄 奘 三 蔵 の 形 而 下 」 五 八 ― 八 二 頁 に 詳 説 さ れ て い る。 な か で も 玄 奘 が 面 会 し た 突 厥 の 葉 護 可 汗 が 貞 観 二 年( 六 二 八 ( 九 月 ま で に 没 し て い る と い う 事 実 は 重 要 で あ る。 旅 程 を 逆 算 す る と、 玄 奘 は 貞 観 元 年 か ら 貞 観 二 年 の 年 初 ま で に 長 安 を 出 発 し な け れ ば、 八 月 末 ま で に 葉 護 可 汗 と 会 う こ と は で き な い。 こ の こ と か ら、 桑 山 氏 は 長 安 を 出 発 し た の は 貞 観 元 年 か 二 年 初 め に 長 安 を 出 発 し た可能性が高いとする。 (㉒ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二二九a (㉓ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二三一c。 (㉔ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二三二a。 (㉕ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二三二a。 (㉖ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二三二b。 (㉗ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二三二c。 (㉘ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二三三a。 (㉙ ( 『慈恩伝』巻二、大正五〇、二三三b。 (㉚ ( 『慈恩伝』巻三、大正五〇、二三六c―二三七a (㉛ ( 『続高僧伝』巻四、大正五〇、四五二a。 (㉜ ( 『行状』大正五〇、二一六b。 (㉝ ( 『慈恩伝』巻三、大正五〇、二三九a。 (㉞ (  吉 村 前 掲 論 文「 興 聖 寺 本『 続 高 僧 伝 』 巻 四 玄 奘 伝 ― 翻 刻 と 校 訂―」一九六―一九七頁参照。 (㉟ (  玄 奘 と プ ラ バ ー カ ラ ミ ト ラ が 会 っ て い た 可 能 性 に つ い て は、 前 掲 桑 山 論 文「 玄 奘 三 蔵 の 形 而 下 」、 「 イ ン ド へ の 道 ― 玄 奘 と プ ラバーカラミトラ―」参照。 (㊱ (  長 澤 和 俊『 新 考 玄 奘 三 蔵 の 旅 』( 佼 成 出 版、 一 九 八 七 年 ( 八 九 ― 九 二 頁 で は、 「『 慈 恩 伝 』 は 玄 奘 の 旅 日 記 を 参 照 し つ つ も、 概

(18)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 二〇〇 ね〔 相 対 位 置 的 に 整 理 し て あ る 〕『 西 域 記 』 の 国 順 を 踏 襲 し た の で、 実 際 の 旅 行 と は 異 な っ て い る 」 と み て、 北 イ ン ド か ら 中 イ ン ド ま で を『 行 状 』 の よ う に 直 行 し、 長 安 か ら 三 年 な い し 四 年 で 摩 掲 陀 国 に 到 着 し た の で は な い か と 推 測 す る。 長 澤 氏 は 玄 奘 の 長 安 出 発 を 貞 観 三 年( 六 二 九 ( と み る た め、 摩 掲 陀 国 に 到 着 し た の は 貞 観 七 年( 六 三 三 ( 暮 ま で と み る。 し か し、 『 行 状 』 の 前 半 部 分 は『 慈 恩 伝 』 か ら 抄 出 し た も の で あ り、 修 学 内 容 も 『 慈 恩 伝 』 と ほ と ん ど 同 じ で あ る。 し た が っ て『 行 状 』 は 旅 程 を 推 測 す る 根 拠 に は な り え な い。 た だ し、 玄 奘 が 北 イ ン ド か ら 中 インドまで直行したとする説は、検討に値するように思われる。

(19)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 二〇一 【付録】玄奘三蔵略年譜 隋・仁寿    二年(六〇二 (     一歳   洛陽南郊の陳留に生まれる。俗名は陳褘。    大業    八年(六一二 (    十一歳   このころ出家して、洛陽の浄土寺に住む。    大業    十年(六一四 (    十三歳   このころ得度する。 『涅槃経』 『摂大乗論』を学ぶ。 唐・武徳    元年(六一八 (    十七歳     隋 末 の 戦 乱 を 避 け 、 長 安 を 経 て 、 成 都 に 到 着 。 道 基 等 に 『 摂 大 乗 論 』『 阿 毘 曇 論 』 を 学 ぶ 。 後に空慧寺に住する。    武徳    五年(六二二 (  二十一歳   成都で具足戒を受ける。荊州で『摂大乗論』 『阿毘曇論』を講じる。    武徳    六年(六二三 (  二十二歳   中国各地で修学する。   相州で慧休に『雑心論』等を八ヵ月学ぶ。   趙州で道深に『成実論』を十ヵ月学ぶ。   長安で道岳に『倶舎論』を学ぶ。    武徳    七年(六二四 (  二十三歳     こ の こ ろ 長 安 で 修 学 す る 。 道 岳 に 『 倶 舎 論 』 を 学 ぶ 。 蕭 瑀 の 上 奏 に よ り 荘 厳 寺 に 住 す る 。 西天取経を上奏するも許されず。    貞観    元年(六二七 (  二十六歳     八 月 、『 瑜 伽 師 地 論 』 を 求 め て イ ン ド へ 旅 立 つ 。 タ ク ラ マ カ ン 砂 漠 を 渡 り 、 高 昌 国 ( ト ルファン ( に到着。麹文泰の供養を受ける。    貞観    二年(六二八 (  二十七歳   突厥のヤグブ・カーンの供養を受け、 『仁王経』を講じる。    貞観    三年(六二九 (  二十八歳     バ ル フ で プ ラ ジ ュ ー ニ ャ ー カ ラ に 『 毘 婆 沙 論 』 を 一 ヵ 月 学 ぶ 。 ヒ ン ド ゥ ー ク シ ュ 山 脈 を 越 え、 カ ピ シ ー を 経 て、 カ シ ュ ミ ー ル に 到 着。 説 一 切 有 部 の 僧 称 に『 倶 舎 論 』『 順 正 理 論』を学び、二年滞在する。    貞観    五年(六三一 (    三十歳   北・南インドの各地で修学する(ナーランダ以後に修学した可能性もある (。   タッカでバラモンに『百論』 『広百論』を一ヵ月学ぶ。

(20)

玄奘の年次問題について(吉村 ( 二〇二   チーナブクティで調伏光に『対法論』 『顕宗論』 『理門論』を十四ヵ月学ぶ。   ジャーランダラで月冑に説一切有部の『衆事分毘婆沙論』を四ヵ月学ぶ。   シュルグナでジャヤグプタに経量部の『毘婆沙論』を四、五ヵ月学ぶ。   マティプラでミトラセーナに説一切有部の『弁真論』を四、五ヵ月学ぶ。     カ ー ニ ャ グ プ ジ ャ で ヴ ィ ー ル ヤ セ ー ナ に 日 冑 の『 毘 婆 沙 論 』 と 仏 使 の『 毘 婆 沙 論 』 を 三ヵ月学ぶ。    貞観    八年(六三四 (  三十三歳     ナ ー ラ ン ダ に 到 着 ( カ シ ュ ミ ー ル か ら 直 行 し て 六 三 一 年 頃 に 到 着 し た 可 能 性 も あ る (。 瑜伽行派の戒賢に『瑜伽師地論』を学ぶ。また『順正理論』 『顕揚聖教論』 『大乗阿毘達 摩集論』 『中論』 『百論』 『集量論』等を学び、五年滞在する。    貞観   十三年(六三九 (  三十八歳   このころ東・南・西インドの各地で修学する。     イ ー リ ナ パ ル ヴ ァ タ で 如 来 密・ 獅 子 忍 に 説 一 切 有 部 の『 毘 婆 沙 論 』『 順 正 理 論 』 を 一 年 学ぶ。   ダクシナコーサラでバラモンに『集量論』を一ヵ月学ぶ。   ダーニャカタカでスブーティ・スールヤに大衆部の『根本阿毘達磨論』を数ヵ月学ぶ。     パルヴァタで二、三の大徳に正量部の『根本阿毘達磨論』 『弁正法論』 『教実論』を二年 学ぶ。    貞観   十五年(六四一 (    四十歳     こ の こ ろ ナ ー ラ ン ダ に 戻 り 、 マ ガ ダ 各 地 で 修 学 す る 。 ナ ー ラ ン ダ で 『 摂 大 乗 論 』『 唯 識 決択論』を講じる。 『会宗論』三千頌、 『破悪見論』一千六百頌を著す。   プラジュニャーバドラに説一切有部の三蔵を二ヵ月学ぶ。   勝軍に『唯識決択論』 『荘厳経論』等を二年学ぶ。    貞観   十七年(六四三 (  四十二歳     カ ー マ ル ー パ で ク マ ー ラ 王 に 供 養 さ れ る 。『 三 身 論 』 三 百 頌 を 著 す 。 カ ー ニ ャ ク ブ ジ ャ で ハ ル シ ャ 王 が 開 催 し た 大 法 会 で 論 主 と な り、 小 乗・ 外 道 と の 論 争 に 勝 利 す る。 プ ラ

参照

関連したドキュメント

鈴木 則宏 慶應義塾大学医学部内科(神経) 教授 祖父江 元 名古屋大学大学院神経内科学 教授 高橋 良輔 京都大学大学院臨床神経学 教授 辻 省次 東京大学大学院神経内科学

1991 年 10 月  桃山学院大学経営学部専任講師 1997 年  4 月  桃山学院大学経営学部助教授 2003 年  4 月  桃山学院大学経営学部教授(〜現在) 2008 年  4

本研修会では、上記クリーニング&加工作業の 詳細は扱いません。午後のPower BIレポート

ハンブルク大学の Harunaga Isaacson 教授も,ポスドク研究員としてオックスフォード

では、シェイク奏法(手首を細やかに動かす)を音

1年次 2年次 3年次 3年次 4年次. A学部入学

私は昨年まで、中学校の体育教諭でバレーボール部の顧問を務めていま

市民社会セクターの可能性 110年ぶりの大改革の成果と課題 岡本仁宏法学部教授共編著 関西学院大学出版会