小林多喜二の小樽高商卒業
倉 田 袷
も く じ は じめに
1 大正11 年 の情勢 2 高商 2 年 の作 品 3 姉 の結婚 4 弁論大会 5 高商 3 年 にな って 6 南亮三郎 7 志賀直哉 との文通 8 近代劇研究会 9 関東大震災 と平沢計七
1 0 外語劇 1 1 大正 1 2 年の情勢
1 2 はぎと られた クロボ トキ ン 1 3 卒業論文
1 4 小樽 のアナキズム 1 5 宇野長作
16 多喜二 の文学 17 高商 3 年 の作品 1 8 就職 と卒業
〔1〕
は じめに
これは,小林多喜二伝 ( 9 )にあたる。
1 大正 11 年の情勢
大正1 1 年の情勢は, こうである。高商に大西文庫が設置された。軍縮が実行 された。陸海軍の人員整理であり, これが後の小樽高商軍教事件 と関連す る。
この年,1 922 年 8 月 1 日に,小樽 は区制か ら代わ って,市制が施行 された。
この二年前に第一回国勢調査が行われ,小樽の人口は1 0 万 8 千人であった。市 制を しいた この年は,人 口11 7953 人,22909 世帯であった。ただ し現在の小樽 市よりも地域 は狭い。
全国的な情勢でいえば, 2月に日本農民総同盟が, 3月に全国水平社が, 4 月に 日本農民組合が創立大会を開いた。 日本農民総同盟 はその後 自然消滅 し た。 日本農民組合は,賀川豊彦 と杉山元治郎によって作 られた。
1 9 20 年 に 日本社会主義同盟がで きた。その時,創立大会で3000 人がいた。
全体 としてはサ ンディカ リス トが多か った。1 921 年 5 月にこれは解散 した。1 9 21 年 に友愛会 ( 1 91 2 年創立)は, 日本労働総同盟 と名称を変えた。そこで も アナル コ ・サ ンディカ リズムが強か った。1 9 20 年か ら 22 年 まで は,労働運動 でサ ンディカリズム全盛の時代であった。
ロシア革命まで, 日本の社会主義者たちは, レ‑ニ ンやポルシェヴィキの活 動や理論をほとんど知 らなかった。彼 らはロシア革命で レーニ ン理論に関心を もった 。1 920 年か らは日本でポル シェヴィキ理解が前進 した。1 91 9 年 にコ ミ ンテル ンがあまり準備な しで創立 したが, 日本人は参加 しなか った。翌年の第 2 回大会 ( 1 9 20 年)にも参加 しなかった。
コ ミンテル ンに接触 した初めは,大杉栄だ った 。1 9 20 年に, コ ミンテル ン
主宰の極東社会主義大会 に大杉だけが参加 した。大杉 はアナーキス トであっ
た。1 921 年前半 にアナーキス ト・ポル シェヴィキの協力時代が終 った。1 921
年にコミンテル ン日本支部準備会が数人によって作 られた。ついでコ ミンテル
小林多喜二の小樽高商卒業
ンに接触 したのは,近藤栄蔵だった。彼は上海の極東 ビューローに行 ったが, 個人的失敗で,帰 りに捕まった。
第 3 回 コ ミンテル ン大会 ( 1 921 年)に,アメ リカか ら2 人の 日本人が出た。
日本人代表は出ていなか った。だが大会 は, 日本の準備会の結成を確認 してい る 。1 9 21 年 にイル クーツクで,極東民族会議予備会議があ り,色 々な団体の 日本人代表1 1 人が行 き,1 922 年のモスクワの極東民族会議へ も出席 した。
さて, 日本共産党創立大会が非合法 に開かれた。それは,1 922 ( 大正 11 ) 年 7 月 1 5 日,場所は渋谷伊達町の高瀬清の間借 りしていた 2 階の 6 畳問,参加 者 は, 堺利彦,山川均, 近藤栄蔵,吉川守囲,椙浦時雄,浦田武雄,渡辺満三, 高瀬清の 8 人であ る
1)。 ここで決定 されたの は, コ ミンテル ン規約,21 ヵ 条の加盟条件, などで ある。ただ し天皇制 問題 は,恐 ろ しくて, なかなか 話せ なか った。暫定 的に執行委員 に,堺,山川,近藤,吉川,橋浦,荒畑 寒村 高津正道の 7 人が選 ばれ,堺が代表者 にな った。 コ ミンテル ン第 4 回大会 に派遣す る代表が選ばれ,結局,川 内唯彦 と高瀬が 9 月 に 日本を出 発 し ,11 月の大会 に出席 した。 日本共産党 の創立 は,大 きな歴史 的意義が あると云われ る。 しか しこれ は各派社会主義者の寄 り集 ま りであ って , 「 未 熟児」であ った。 なお この頃, またはその直後,第 1次共産党 に加 わ った 者 は,上記以外 に,徳 田環‑ 野坂参三 赤松克麿 山本懸蔵 河 田賢治 杉浦啓一 辻井民之助 中村善 明 渡辺政之輔 葉 山嘉樹 佐野学 市 川正一 佐野文夫 青野季吉 猪股津南雄 鈴木茂三郎 などである。
1 1 月にコ ミンテル ン第 4 回大会が開かれ,62 カ国か ら 340 人の代表がモスク ワに集まった。大会は, 日本共産党を正式に日本支部 として確立 した。また日 本共産党綱領委員会が大会の前 にで き, ブ‑‑ リンと片山潜 らが委員 とな っ て,大会後,綱領ができあが った。これを,派遣された川内,高瀬が もちかえっ
た 。
ここで " 第一次" 日本共産党 とい うのは,大正1 3 年 ( 1 924 年) 2 月 に,同 1)大丸義一 『 第一次日本共産党の研究』青木書 店 1 9 9 3 年,1 8 3 ページ。これは,同
氏 『日本共産党の成立』の増補版である。
覚が解散 したか らである。第一次共産党はだか ら,一年半 しか活動 しなかった ことになる。 これが再建されるのは1 9 26 年1 2 月である。
また学生社会科学連合会 もできた。 この年は , 「 枯れすすき
」2)の歌が流行 っ ていた。童謡 「 雀の学校 」 「 篭の鳥 」 「 馬賊の唄」がひろ く歌われた
3) 。作家有 島武郎が有島農場の解放を した。
2 高商 2 年の作品
小林多喜二 は高商二年生の時,小説 「 龍介 と乞食」を発表 した。監獄部屋か ら追われた人々が乞食にな り,それを自分の見聞をまぜなが ら描 き,ある乞食 に出会い,彼に編 される話である。 これは,文章がク ドイが,掌編小説 として 成 り立 っている。
多喜二 は同 じく高商二年生の時,小説 「 兄
」4)を発表 した。それは 『 文章倶 楽部』( 新潮社)1 9 22 年1 2 月号 に掲載 された。懸賞当選作で,入選である。 こ れは遅 くて も 1 0 月までには脱稿 していた。多喜二の小説 「 兄」のモデルは,嶋 田正策 とその弟正克 ( まさかつ)である
5) 。正策の弟 は正克 とい う。彼 は高 等小学校を出た。そ して師範学校へ入 りたかったが,年齢の関係で入れず,秩 道講習所に入 った。そこには普通科,専門部,高等部があった。その専門部を 出てか ら,彼は高等部へ行 こうとしたが,高等部がつぶれて しまい,専門部で 終 った。また彼は大学へ行 きたいと言 ったが,行けなか った。 というのはこう である。彼か ら正策に , 「 大学に行 きたいか ら月 1 0 円 くらい貸 して もらいたい」
と申 し入れがあった。だが当時,正策は父母兄弟 と離れて生活 していた結果, 家族 という実感が薄れていたため,拒否 して しまった。 こうして弟は大学を断 念 した。そ して鉄道技師 とな り,土木を担当する。小樽築港の貯炭場の高架を 作 ったのは彼である。終戦時,急性肺炎で亡 くなった。
2 )正確には船頭小唄。俗称,枯れすすき。野口雨情作詞,中山晋平作曲。大正 1 0 年に 作られた。
3 )土井大助 『 小林多喜二』汐文社 1 9 7 9 年。
4) 『 小林多喜二全集』( 節)新日本出版社 ( 以下 『 全集』と略)第 6 巻 1 9 8 2 年,所収。
5 )島田正策氏の言明による。
小 林多喜 二 の小樽 高商卒 業
さてこの小説 は,主に三人の登場人物か らなる。兄 ・賢吉は嶋田,弟 ・久二 は正克 ,T は多喜二である。 もちろんフィクションが入 っている。多喜二は 「 俺 は何で も小説に して しまう。 ・・」 と言 っていたが, とうとう島田もネタにさ れて しまった
6)。島田が何か喋 ったことを多喜二が小説化 したのであろう。
その小説にはその弟が出ている。弟は特待生であり,勉強を しない兄はそれ にこだわ りがある。 しゃくなことに,特待生の弟に三人の女性か らか らラブレ ターが きている, というものである。 この小説のどこが現実 と重なっているか は分か らない。また文章は しっか り書けているが,小説 としては筋がつまらな い。
多喜二 は,1 9 2 3 年 1 月 に 「 健」を 『 新興文学』にのせた。1 9 2 2 年1 0 月筆で ある 7) 。 これは,彼の実の兄を主人公に見立てた作品で,かな りよい。
多喜二は,小説 「 継祖母のこと
」8)を小樽高商の時代に書いた。1 9 2 3 年 3 月, 高商 「 校友会誌」にのった。二月筆である。つまり秋田時代の ことを書いてい る。 この好短編は,なかなか味わいがある。そ して これはほとんどフィクショ ンである。
この小説の ヒロイ ンお仙 は,健 ( ‑主人公)の祖父 と,若 くして結婚 した。
健 もお仙になっ き,彼女 は家族 ともうまくいっていた。 さて, この継祖母は男 の子を生んだ。そのため,自分の子 と義理の子 との,愛情 と義理に挟まれる。
さて,健の弟が池にはまって死ぬ。そ して健の叔母が気が違 う。その二つがす べてこの継祖母のせいにさせ られ,彼女は井戸に身を投げる,という話である。
この小説の舞台は,本州の農村である。多喜二には,実際に継祖母ツネ ( 1 8 2 6
‑1 90 4 )がいた。その人 は彼が生 まれて‑年後 に亡 くな ったので,多喜二 は ほとんど知 っていない。また彼女が亡 くなったのは,七七歳 ころだか ら,小説 のように若 く美 しいうちに自殺 したというのは,フィクションである。
実際では多喜二の兄は病死 し,弟‑多喜二は生 きた。だが小説では,兄が生 6) 「 私の 『自画像』を書 いた頃」( 『 民主文学
』)7
)『 全集』第 1 巻所収。
8) 『 全集』第 1 巻所収。
き,弟が死ぬ, という設定である。
このように筋はフィクションであるが,多喜二が秋田の農村時代について母 か ら聞いた事を,小説の道具だての中に入れているのであろう。また多喜二は 四歳で秋田を去 り,小樽に来ているが,ほとんど秋田のことははっきり記憶に はないであろう。 もっとも,おぼろげには残 っているか もしれない。
さて この小説で人を魅 き付けるのは, この継祖母が周囲の状況の中で,つま り義理の子供がいる中で,我が子を愛 してゆかねばな らない心理状態の描写で ある。そ して,筆者‑多喜二 はそれに対 して同情 している。例えば,健 と彼女 の子 とが喧嘩をする。 この時,かの女は,我が子の方を殴りつけるのであった。
だが後で,人知れず我が子を抱 きしめて泣 くのである。
この話は,彼の他の小説で も出て来 る。多喜二お気に入 りの筋である。
3 姉の結婚
1922 年 ( 大正1 1 年) ,多喜二が高商 2 年の時 , 7 月 17 日に姉のチマが,泰北 銀行に勤めていた朝里の佐藤藤吉 と結婚 した 9) 。佐藤氏 は,泰北銀行の上の 役かまたは支店長である。その店 は,今の拓銀の下の国民金融公庫の下にあっ た。泰北銀行は,一説によると地元資本である。大正末期にできた。藤山要吉 が作 った。彼は海運業者で,藤山汽船をもっていて,樺太貿易をやった。彼は, 大正天皇を泊めるために,公会堂が作 った。泰北銀行は,包内支店その他,い くつかあった 1 0 )。他の説 によると,道外銀行の道内進出ブームの中で,茨城 県か ら, この泰北銀行が小樽へ大正1 3 年に本店を移 してきた 1 1 )。泰北銀行は, 小 さか った。佐藤氏は後に鉱山に手を出 して失敗する。養女を迎えている。
こんな話が残 っている
12)。チマは結婚式の後,定山渓へ新婚旅行へ行 った。
帰 りに,結婚指輪を紛失 したことに気が付いた。彼女は実家に行 き,申し訳な 9 )手塚英孝 『 小林多喜二』新 日本新書 ,上。
1 0 )琴坂。
l l )「 小樽の史跡」 ,商大小栂経済史研究会,1 979 年。
1 2 ) 古沢氏から,間接的に。
小林多喜二 の小樽高商卒業
くて婚家には戻れないと,言 った。そこで母 と一緒にもう一度定山渓温泉に行 き, とうとう指輪を捜 し出 した。二人 とも律儀であることが分かる。
大変妙な話がある。 この結婚式の日,ちょうど三浦環 ( たまき)の音楽会が, 花園町の公園館で催された。友人島田正策が多喜二の家に誘いに行 って,二人 は西へ,姉 は東へ と別れていった。 こうして多喜二は,姉の結婚式に出ないで しまったのである
13)。彼はそれほど音楽が好 きであったということもできる。
だが三浦
14)は推測 しているが,姉の花嫁姿が見 られないほど,多喜二 は辛 か った。弟の三吾 さん も,チマさんの結婚式 には出ていない
15)。つまり小樽 にいなかった。 こうして弟 2 人は,姉の結婚式にでていないのである。チマさ んは,後に語 る。多喜二が家に帰 ってきて,どんなに淋 しかったか,誰 もいな い し,「ちょうど葬式のあとのようだな」 と, しみ じみ母に言 った
。 16)多喜二は 「島田正策 『自画像』によせて」で,姉チマについて語 っている。
1 9 2 2 年 8 月 2 2 日とあるか ら,姉の結婚直後である。 「自分の姉 は秋 田の生 ま れだ。四,五歳の とき小樽へ来た。小学校に入 った,卒業 して,す ぐ高等女学 校に入 った。自分 はその時の姉 はきっと, 何か希望を望んでいた と思 った。 が, 結婚 して しまった。 ・・・そ して, もう平凡なワイフになって しまったのだ。
『 女 って,結婚すると,ホ ッとするものだ』
と,ある時自分にそう云 った。それは何を語 っているか。 ・・・
」 17)多喜二 は,音楽が大好 きであった。特にクラシック音楽である。彼の音楽鑑 賞能力は,かな り高か った
。 18)多喜二 は例えば,嶋田と,ベー トーベ ンの第 9 交響曲に肉声を入れている点を取 り上げて,その特殊性を論 じた りした。彼 自 身 もいろいろな曲を歌 っていた。音符 も読めた。当時北海道では,せいぜい レ コー ド・コンサー トが催 される くらいだ ったが,ほとん ど欠か さずに聴 きに
) 手塚英孝 ,76 ページ。
) 『 母』新潮社。
) 三吾さんインタビューより。
)『 北方文芸』1968 年 3 月。
) 『 全集』第 6 巻 567 ページ。
)島田。
行 った。 こうして彼の音楽鑑賞は,ほとんどレコー ドによるものであった。蓄 音機はまだ持 っていなか った。
藤橋 ( ‑勝見茂)によれば,多喜二 は 「た しかに声 はよか った ・・ 。 」1 9) そ して口笛はよ く吹いて歩いていた。多喜二の 1 年後輩で直島一郎が入学 し,普 楽部を作 り,第 1回の音楽会を した。多喜二が 2 年の時 らしい。特別出演 した デーゲ ン先生がベー トーヴェンの月光をひいた。
4 弁論大会
高商では毎年弁論大会があった。 これは多喜二が 1 年か 2 年の時の情景であ る。安宅文夫は言 う。
弁論大会で金井健四郎が演説 していた。それを聞いている多喜二が , 「 改造 ! 改造 !」 と野次 っている。
安宅は,弁論大会なのに変だな,野次るとは? 多喜二はそんな人ではない のに,と思って, しか し聞いていた。だが後で分かった。金井は,雑誌 『 改造』
の中の,ある箇所をそのまま喋 っていたのだ。それを多喜二が , 『 改造』の引 き写 しという意味で,野次 っていたのである 。2 0 )
当時,『 改造』
21 )が どれ ほど読 まれていたかの証拠であ り,また多喜二 もよ くこれを読んでいたことがわかる。
5 高商 3 年 になって
福田勇一郎は,オールバ ックの髪に縁な し眼鏡 という当時 としては酒落 しゃ れた男,いっ も大熊先生は授業の前後に福田と心安 くいろいろ質疑応答 してい た。
多喜二,乗富,福田 , 3 人の卒業寸前の写真がある。 これは,多喜二の家に 遊びに行 った時の写真である。( 越崎) この写真ができてか らのある日,多喜 1 9 )『 北方文芸』1 9 68 年 3 月号。
2 0 ) 安宅先生の小生あて手紙。
21 )実業家山本実彦が大正 8 年に発刊した。
小林多喜二の小樽高商卒業
二は 「 昨夜,おばあちゃんに見せた ら, この三人 ともロクな死にかたは しない と言 った」と笑 っていた。おばあちゃん というのは,母のことである。
何 ということもな しに, この 3 人は親 しくなり,学校の帰 りによく誘い合わ して地獄坂を下 りた。ある時,多喜二が 「マルクスってどんな顔 ?」 と言い出 したので坂の途中か ら図書館に引き返 し,河上の 「 貧乏物語」を借 りて,その 写真を見せたことがあった。
福田は,築港駅近 くの多喜二の家に遊びに行 ったことがある。書棚にゲーテ 全集が光 って並んでいた。大学 ノー トに小 さくぎっしり書 き込んだ彼の小説原 稿を繰 りなが ら 「 志賀 ( 直哉)先生か ら返事をもらった」と嬉 しそうに話 した。
後年の彼の片鱗だに見出す ことができなかった。
乗富は当時か ら先鋭的であったようだ。 〔 宿田は , 〕彼か ら借 りた当時発禁の 書 『 共産党宣言』英訳本を徹宵 して読み興奮 した 。2 2 )
1 9 2 3 年 7 月に,多喜二の小説 「 薮入」が,『 新興文学』にの った。四月筆で ある 。1 0 月 に 「ロクの恋物語」が 『 高商校友会誌』 にの った。同月 の筆で ある 。2 3 )
嶋田は,多喜二が高商時代の夏休みに,多喜二を訪ねて行 った事がある。い つかは分か らないが,多喜二が 2年か 3年の時ではないだろうか。当時彼は家 の近 くの海で,防波堤の工事があり,潜水夫に空気を送 るポンプ押 しのアルバ イ トを していたが,その 日身体の具合いが悪 く床に入 っていた。その側に小型 の原稿用紙が三十セ ンチ位積んであった。それは 『 小樽新聞』に投稿 したが没 になったものだ と言 っていた。嶋田は読まなか ったので内容は分か らない。幻 の作品である, と嶋田は言 う2 4 )。 これは しか し,現在我 々が見 ることがで き る作品であるか もしれない。
2 2 ) 『 縁丘 』4 2 。
2 3 ) ともに 『 全集』第 1巻。
2 4 ) 嶋田,小林多喜二全集月報 2, 1 1 ページ。
6 南亮三郎
南亮三郎 2 5 'は,東京商科大学 に進み,左右田の弟子 とな り,大正 1 2 年 に卒 業 した。彼はクリスチャンになっていた。南は了都落ち 」( 本人の言葉) して, あるいは大西を尊敬 していた し,昔は地方に出ることにあまり抵抗がなか った か ら,小樽高商の専任講師となった。南は,大正 1 2 年 4 月小樽に赴任 した。そ の時の 3年生は小林多喜二たちの組であり, 2年生には伊藤整がいた。その秋 か ら経済原論を担当 し,高学年向けに社会政策をうけもった。 この大正 1 2 年 1 0 月 ころ,南は人 口論に傾斜 した。南の若い時の講義は,ほとんど 『資本論』そ のままだ った, とい う学生がいる2 6 ㌦ 大正 1 3 年 2 月,大西教授没後 2 年の追 悼演説会が行われ,南は人口論を論 じた。同年11 月に教授になった。昭和 3 年 3 月か ら5 年 9 月まで,留学 した。後,昭和23 年 7 月に,教授不適格で南は小 樽高商を去 った
。 27 '戦時中,『 皇国経済学』を書いたため,マ ッカーサーの教 職追放令を受けたとされる。昭和 6 0 年亡 くなった。
概 して,第 2 次大戦中は,共産主義者や社会主義者はもちろんのこと,自由 主義者 ・民主主義者 さえ,教壇には立てず,天皇制政府によって辞職 させ られ た。この時代に教壇にあった人は,だか ら,まともな人はもういなかったのだ。
例外 として,何 も書かず何 も公に発言 しない人だけが残れないわけではなか っ
た 。
さて南は赴任 した この初年度に第 3 学年で,キャナ ン2 8 )の " Weal t h" を講 読 した。 この 3 年生に多喜二がいた 。 2・3 クラスの合併だったので個々の学 生 と知 り合 うという機会は比較的少なかった。 この年,南は校友会編纂部の部 長になった。小林は編纂部の学生理事 として校友会雑誌の編纂を していた。
小林 と南が初めて知 り合 ったのは,次の号の編纂の方針について多喜二が相 5 ) 小樽高商卒業までは,かつて書いた。
6 ) 浜林正夫談。
7 ) 大野純一とライヴァルだったので,それが原因とも言われる。( 浜林)
8 ) アダム ・スミス研究家,イギリスの経済学者,ロンドン大学教授だった。
小林 多喜二 の小樽高 商卒業 l l
談に来た時であった。
内容については南 は何 もいわなか った。ただ , 「この雑誌 は在学生の間ばか りでな く,卒業生 との連絡の機能 も果 しているので,雑誌の末尾に同窓会関係 の記事をのせるスペースをとり,その部分をはっきりした体裁であ らわすよう に本文 との間に,赤い挿 し紙で も一枚いれてはどうか」 , といった。
小林は 「それは大 した問題ではない」 と言 ったようだった。
南は思 った。いわれてみれば本当に大 した問題で もないことを提案 した もの だが,小林の返答 もまたかな りとげとげ しい ものを含んでいた。 この男 は変 わっているわい, と南は思 った。
やがて出た校友会雑誌には赤い挿 し紙は入 っていなか った。2 9 ) 7 志賀直哉 との文通
多喜二は,中央文壇で活躍 していた菊池寛,里見 弾,武者小路実篤等の作 品をよく読んでいた。嶋田が買 った菊池寛の 『 文芸往来』の中で,志賀直哉の
「 城の崎にて」について,作者が流れに臨んで,石の上で鳴いている河鹿に小 石を投げると,その小石が当たって しまうという描写を挙げて,巧まざるうま さと誉めていた。嶋田は,多喜二 もそれを読んで,志賀の ものを読み始め,熱 中するようになったのではないか と思 う, と書 く3 0 )。
志賀 は,は じめて多喜二か ら手紙が来た頃の ことを , 「 何で もその頃に北海 道の無名の文学青年か ら,文学 について大へんな気焔をあげた手紙が しょっ ちゅう来る。 ・・・・それが小林多喜二君だった。 」と述べる
。31)8 近代劇研究会
多喜二 は,乗富道夫 ( 1 9 0 3‑1 9 3 4 ) と共 に近代劇研究会 に入 っていた。乗 富は,福岡県大牟田市に生まれた。樺太の豊原中学か ら小樽高商に入学 した。
2 9 ) 『 縁丘』4 2
03 0 ) 嶋田,小林多喜二全集月報 2
31 )F 文学案内 』1 9 3 5 年 11 月号。
多喜二 と同期生であった。卒業論文に 「 共産党宣言」を翻訳 した。卒業後,安 田銀行函館支店に勤め,労働農民党員 とな り,産業労働調査所支所長で,北洋 漁業の研究者であった 。1 9 3 0 年検挙 され,安 田銀行を解雇 されて,上京 し, 1 9 3 4 年 9 月,病没 した。
姉チマさんは言 う。「 高商の ころは演劇をや ってま したか ら,演劇の本,た くさんあったんですよ 。 」3 2 )
多喜二が 3 年の時,多分 4 月の終 りに , 1 年D 組の教室に入 ってきて, こう 呼びかけた。「 高商に入 ったか らといって,簿記やソロバ ンばか り勉強す るの が能 じゃあない。たまには文学や劇の勉強 もした方がいい。 」 この組に中野清 一がいた。彼は嬉 しくなって,廊下まで追いかけていった。多喜二は,近代劇 研究会 というのがあり,毎週 1 回か 2 回,いまはス トリン ドベルクの翻訳 もの を読み合わせ していること,その場所 はどこどこで,時間は ・・・と,親切に 教えた。
中野 はス トリン ドベルクの読書会に 7・8回出席 した。多喜二 は,ス トリン ドベルクと発音す るのが正 しいと教えた。場所は,第 2寮の福田勇一郎の部屋 だったようだ。多喜二の同期の桜井長徳 も常連の 1 人だったようだ。多喜二が 中心 となって, 7・8人でス トリン ドベルクの 「 債鬼」を読み合 った。
この読書会で多喜二 は言 った。「イプセ ンの 『 人形の家』は甘い,ス トリン ドベルクの作品は芸術品かどうか分か らんが,グングン人を引っ張っていく。 」
「どんな種類の本で も,本物かどうかは,見せかけで決まりは しない,流行 できまるので もない,お金をどっさり稼 ぐために書 きな ぐる奴がゴロゴロして いる。読んで,いや読みなが ら,思わず立ち止まって考え こませ る本が一番い い本なんだ。」3 3 )
9 関東大震災 と平沢計七
1 9 2 3 ( 大正 1 2 ) 年九月一 日正午,関東大震災が起 きた。マグニチ ュー ドは 3 2 ) 『 北方文芸 』1 9 6 8 年 3 月号。
3 3 ) 中野清一 の稿,『 縁丘 』4 2 。
小林多喜二 の小樽高商卒業 1 3 7・9 であった。昼 ごほんの支度で火を使 っている家が多 く,木造屋 も多か っ たので,東京 ・横浜で大火災が起 きた。地震 と火事による死者 9 万 1 千余,行 方不明 4 万 3 千余,をだ した。あるいは関東地方全体で 1 0 万人の死者 と 7 万人 の負傷者を出 したともされる。
9 月 2 日か ら4日にかけて,政府は戒厳令を しいた 。 2 日ころか ら,朝鮮人 が暴動を起 こす らしい,朝鮮人が井戸に毒を入れて歩いているという噂が流れ た。 これは警察が流 した。軍隊 と警察 は,朝鮮人を検挙 し,虐殺 し始めた。 自 警団 も虐殺を始めた。京浜地方で少な くて も 6 千人の在 日朝鮮人が殺 された。
軍隊は,それだけでな く社会主義者を虐殺 した。救援活動を していた東京南葛 の社会主義者 1 0 人,河合義虎,平沢計七 らを,亀戸警察で ,3 日夜,殺 した。
なお,無政府主義者大杉栄 ( 1 8 8 5‑1 9 2 3 ) ,そ してその妻伊藤野枝,大杉の小 さな甥 も,憲兵隊の甘粕によって虐殺 された。
多喜二は, この大震災の際に殺された平沢計七の追悼会に弔文を送 った3 3
a) 。平沢は,『 新興文学』に , 「 二人の中尉 」 「 大衆の力」を載せていた。
平沢計七 は ,1 8 8 9 年 7 月 1 4 日生 まれで,新潟県 出身である。高等小学校卒 業後 ,1 9 0 3 年 ( 明治 3 6 年)か ら 3 年間, 日本鉄道大宮工場の職工見習教養場 で近代的な労働者養成教育を受け,卒業後,大宮工場を振 り出 しに近代的な工 場労働者 として働いた。鍛冶工である 。1 9 1 4 年 ( 大正 3 年) 9 月または 1 0 月, 友愛会に入会する 。1 9 1 5 年に上京 し , 「 友愛会」本部常任,同,城東連合会長, として活躍 した。彼は, ロシア革命に感激 して友愛会の 『 労働及産業 』( 1 9 1 8 年)に 「 生 きる光明を与えたり」の筆名で投 じた。友愛会の役員が機関誌に投
じているので,今で云えばヤラセである。それはともか く,それは,よく教科 書で出て来 るものであ り , 「 オイ小僧 ども,心配するな,おまえたちで も天下
はとれるのだ !」の一文である。
平沢が生前に出 した唯一の作品集は,『 創作 ・労働問題 』 ( 1 9 1 9 年 6 月)で ある。労働者たちを自覚 させる見地か ら,数多 くの作品 ( 小説,戯曲等)を, 3 3 a) といっても,手紙である 。1 9 2 3 年 1 2 月 1 5 日だから,随分おそい。『 全集』第 7 巻,
3 2 9 ‑3 3 0 ページ。
友愛会機関誌 『 労働及産業』等に発表 していった。労働運動の指導者だった。
その後 「 友愛会」が右傾 したので,後 1 9 2 0 年 1 0 月 に脱会す る,ただちに 1 9 20 年に 「 純労働者組合」を結成する。その後 この組合 は,戦闘的になった。大島 町の付近で消費組合「 共働社」を創設 した。わが国初の 「 労働劇団」を組織 し, 自分 も俳優 と して立 った。 プ ロ レタ リア文学 と劇 団の活動 をす る。彼 は, 1 9 23 年 9 月 3 日に殺 された 。3 4 才だ った。大正労働文学を最 もよ く体現 した 文学者であった。作品に ;
石炭焚 『 労働及産業 』1 91 6・9 月 死 同 1 91 7・3 月 赤毛の子 『 社会改良』 1 91 8・5 月 孝行 同 1 91 8・9 月 御主人様 同 1 91 8・1 0 月 金貨の音 同 1 91 8・1 2 月 二人の中尉 『 新興文学 』1 9 23・6 月 暴風雨の前 ?
があり,以上の 8 つが , 『日本プロレタ リア文学集』に所収 されている。
『 平沢計七集』 ,遺著 ・創作集 『 一つの先駆 』( 1 9 2 4 年)があり,主要作品は, ( 平沢紫魂 ペ ン ・ネーム)戯曲 「 工場法」,「 牢か ら出た男」 , 「 大衆の力」 , 小説 「 死」 , 「 二人の中尉」 , 「 赤毛の子」だとされる
。大震災後 4 カ月 ,1 9 2 4 年 1 月 , 『 種蒔 き雑記』第 1冊がでた。 これは震災で の殉難,被災の事実を伝えた もので,金子洋文の編集 ・発行である。 しか し第
1冊で終わった。
1 9 24 年 6 月 , 『 種蒔 く人』の後身 として 『 文芸戦線』が出された。 これはや
はり小牧近江が軸にな り,前田河広一郎,金子洋文,柳瀬正夢,山田活三郎,
佐々木孝丸,今野賢三 らが中心で,青野季吉が理論的指導者であった 。 8 号 ま
で金子が編集 し,休刊 となった。やがて,葉山嘉樹,黒島伝治,村山知義,壁
村欣三,林房雄,蔵原惟人 らが集まって くるようになる。後に多喜二 もここに
載せ る 。1 9 2 5 年 6 月号か ら再刊 され,山田が編集 した。
小林多喜二の小 樽高 商卒業 IS
1 0 外語劇
小樽高商の大 きな年中行事の 1つは , 3 年生を中心に催 される外国語大会で あった。外語劇大会に,女人禁制の校舎にも若い女性の姿がおおっぴ らに見 ら れた 3 4 ㌦ 外語大会は毎秋行われ,劇ばか りでな く,スピーチ ( 外国語による)
もあった。高商では 1 9 1 3 年以来,学生の外語劇が行われ,小樽で人気のある 行事になっていた。 この年 は関東大震災義指 として ,1 1 月 1 7 ,1 8 日の,土曜 ・
日曜に行われた。多喜二の出たフランス語劇 は 「 青い烏」であった。高橋益美 先生の指導だったというが,デーゲ ン先生が演出 したともされる。学生 ・寿原 も加わった。第 2 外国語 としてフランス語を学んだ人たちは,メーテル リンク の 「 青い鳥」を上演することに した。その 「 森の場」であった。
伊藤整は書 く。 「このフランス語劇 は,その学校で毎年開かれる英仏独支露 各国語の学生劇の一つであった。そ してこの写真 [ 整はその時の写真を掲げる]
の場面は,私が二年生で小林や高浜が三年生の時に行われたので,二年生 とし て参加 したのは私一人で あ った。/文学好 きな生徒 はフラ ンス語 に集 ま っ
た