中世加賀・能登地域における「町」について:歴史 地理学的アプローチ
著者 谷重 豊季
雑誌名 金沢大学文学部地理学報告
巻 5
ページ 23‑43
発行年 1989‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/2297/11521
金沢大学文学部地理学報告,N05,1989
中世加賀・能登地域における「町」について
-歴史地理学的アプローチー 谷重豊季
礎的事実の提示と若干の考察を行なう。特に,"形態''一 Iはじめに
本稿は,中世加賀・能登地j或に存在した「町」に ついての初歩的検証である。ここで言う「町」の多 くは,厳密には「都市」(この概念自侭実は噛沫で あるが)の前段階にある「市町」と言う術語で表さ れるのが内実であるかも知れない。即ち,固定店舗 商業を営む商業者が集住する町場=都市に対して,
市町は「市」同様周辺農村から分出した農村商人 力構成し,彼らは未だ農商工の分離が不明確である と言う1)。商業史_上,市町の段階は,「市と店舗が併 存して交換の場となった時期」2)である。中世都市研 究は,このような商業の発展段階を念頭に置いた``市
→市町→都市,,と言うシェーマの大枠の中て蓄積さ れてきたか3{そのように商業の発展段階を指標にす れば;本稿で取り上げる「町」は,どの段階に達し ているのかを正しく判断する事が困難な場合が殆ど である。他方,市町を「局地的商圏の中軸」4即ち"地 方的中L集落”と捉えてきた地理学に於いては,特 にこの点に固執する事無く所謂“中'Mh理論,,の下,
地域の中に市町を位置付ける作業を行なってきた5)。
本稿では,中世史料に出る「市」「町」「潮等,将 来「都市」として成長する可riiE性を持つ集落を総称
した術語として市町を広義に使用したい。
ところてう略述したような市町の中心地性の把握 については,中世商業に果した行商者の役割の大き さを思い起こせばう従来のような市町の分布から静 態的モデルを意識した結論を導く事にいくらか不安 を覚える6)。また,marketとfairとは基本的に区別 して論じるべきであろうから市場の問題は別稿に譲 り,本稿では取り合えず「町」そのものについて基
pre-urbanlandscapeと呼ぶべきもの-も描写して みたい。このような,図上復原に際しては主に地籍 図を使用する。石川県では,地租改正時に。、字を廃 止したうえ,全国に先駆けて耕地整理に着手し,現 在では小さな谷底平野にまで進捗しており,文献資 料を補うこのような方法は既に手後れの感がある。
従って,本稿は“記録”の意味も込めて冒頭で初歩 的検証と断った。
究極には時間軸と空間軸との座標系の中で形態 の変容を把握する作業が筆者の構想である域この 場合固定店舗商業への移行と言う商業史上の革命 的現象に対応しつつ,市町個々に複雑な事情が錯綜 しているであろう。当面多くの事例を咀、爵するのが 筆者の模索である。近年の中世都市研究は,松山宏 の仕事7)を初めとして当時の政治・経済的な中央都市 に対する地方都市へも目が向けられつつある。加賀 地域では,真宗の教線が及ぶに至り所謂「寺内町」
が成立したとも言わ』'し,都市研究にとって個性的な 地域であり,その空間構造についての言及も若干見
られる8)。
、「町」の分布
「IHT」という語については,『倭名類聚抄」が解説 するように,「田区」が本義的な意味であり,実際中 世史料に出る「まち」も水田に付けられた固有名詞 である事が多い。例えば;「奉永代寄進田地之事合 壱段者在菅原郷橋号柿木町右彼田地者…」9)と言 うように田地の名称として表記されている。その他,
土地関係の文書中には「そりまち」「はすのまち」「柳
-23-
町」「桜町」「井町」等々'0{耕作者・面積・課役等多くは現在にも継承された地名であるのてぅ位置比 と併記されて多出する。文脈に留意しつつ,このよ定については特に説明を要しない力:いくつかを補 うな町(まち)を除外して,固有名詞として登場す足しておきたい。
るもののみ拾っても,なお第1表を示す事ができる。
第1表中世史料に確認できる「町」の一覧
近世町村名 への継承
? 串村ヵ 小松町 宮腰町 鶴来村
1カ町j称町東jjjJ新 jjちjjj町〕宮jjj町町町町jrjjま町j町j町jj町jJjj方町j一町町ちjjjj入jjjjjうちや町のjjj町j名雌〃棚鵬町鵬町川棚馴町町町西西町1東西ま町町町町村町町町町町ろみち大郷加Ⅷ町耀荊くク小宮今金南尾津松石梅繊甑ゼゼ馴縦繊札四拙繊繩泌上妬魚肺箙剛剛勅献岸鶴道大鳳河rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr阿rrrrr 郡名 初出 典拠
『大徳寺文書」
『越後下向日記』
*『信長公記j
『天竜寺文書』
『白山宮荘厳講中記録」
『本願寺文書』
〃
『竹屋文書」
「津幡少右衛門文書』
文書番号等
『大日本』2094号 (延徳3.3.10)
(天正7.8.9)
(未見;「角川」参照)
(文明12.10.16)
I加能」1484号
『加能』1487号
「加能』2105号
「加能』2177号 能美郡
ノノ
ノノ
石Ⅱ|郡
〃
ノノ
ノノ
ノノ
河オヒ郡
年年年年年年年年6192071499977861992453455511111111 }金剛
津幡村
? 石野町村
? 子浦村 町居村カ ーノ宮村
ノノ
ノノ
子浦村
〃
鹿島路村 四町村 千代町村 領家町村 紺屋町村
? 上町村
?
羽咋郡
ノノ ノノ
ノノ
ノノ ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
鹿島郡
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
鳳至郡
〃
〃
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
『永光寺文書」
〃
「総持寺文書』
『気多神社文書』
『総持寺文書j
『桜井文書」
『気多神社文書」
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
『大宮司桜井家文書』
*「北陸七国志」
『青木文書」
「本浄寺法便法身尊像裏劃
『笠松文書』
『七尾町文書j
〃
『三輪文書』
〃
ノノ
ノノ
『諸橋稲荷社文書」
『本誓寺文書』
『志賀文書』
「道下村文書』
〃
『#遇登国古文書」
『重蔵神社文書』
年年年年年年年年年年年年年年年、〃配犯、閖那〃〃〃〃〃〃万弘記咽記別Ⅲ卵〃〃〃犯妬万配〃〃師
1111111111111111111
『加能j557号
〃
『カロ能』709号
『気多」1号
『加能j947号
『加能』1118号
『気多』5号
〃
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
『桜井』76号 (天正12.9.11)
『加能』1988号
『中島町史』所収 I加能』1378号
「加能』1941号
「加能j2065号
「加能」2119号
ノノ
ノノ
ノノ
『カロ能』1251号
『加能j1315号
『加能』1598号
『門前町史』所収
〃
「カロ能」1717号
「加能』1966号
’
新町分村大町村七尾町鶴町村 道下村 大町村 鳳至町 河井町 注1)『大日本」は「大日本古文書」の略
2)「気多」「桜井」は「気多神社文書」(1)に所収 3)*は軍記物
-24-
〈ぬきまち:「願西敷地譲状」に「ゆずりわたす加 賀国郡家南庄高坂郷の内,又成名〈ぬきまちの屋 敷の事合壱所者,…」と出るのが初見。又成名 の一部分のごく限定された小範囲を指しているの が;屋敷があったと言うので一応除外せず保留す る。なお,該当の屋敷地は,後正和2(1313)年
「藤原氏女敷地譲状」’1),及び貞和3(1347)年
「セ音田屋敷譲状」'2)によって,畠やがて田となっ た事が知られる。「〈ぬきまち」「又成」地名は遺 存せず,近世に「高坂」村があるのを参考にして も,現能美根上町のどこかと言う程度にしか絞り こめない。なお,応永13(1406)年「又成名庶子 分宛行状」’3)には「くぬきまちのかわら田」と再 出するのご水損を被るような場所であった事は 確実である。
松崎町・石町・梅町:まず,「吉見氏頼禁制」に永光 寺領「能登国羽咋郡湊保北方内,田中田屋敷,同 所松崎町田地同所松本村内田地同所惣相宮上 田地同所石町田屋敷…」が出る。他方,永徳 2(1382)年「総持寺関係田畠注文」’4)に大雄庵 領として「羽咋北方松崎」「羽咋北方石町」「羽咋 北方吉胤が出る。応永6(1399)年「総持寺寺 領目録」'5)によれば,羽咋郡内「羽咋漬松崎」「石 町」「小原田」「吉崎」「梅町」に寺領力存在した。
禁制では松崎町と記されたのに,総侍寺は単に松 崎としているので検討の余地があるが一応保留す る。なお,「梅町」も,年未詳「大雄庵田地注文」
’6)には「湊保南方内友松名内梅町」と記され,上 記の「くぬきまち」同様かなり狭められた場所を 指す力1石町や吉崎など後の藩政村レベルの集落 と同列に記されているのでこれも保留しておく。「松 崎町」「梅町」は遺称地力無く位置を限定できない 斌石町や吉崎と同様邑知潟縁辺の低温地上で あろう。
豊田西方町:「吉見統頼寄進状」に「奉寄進,富来 院豊田西方町後百苅,右在所者,…」と出る力瀧
実に比定できない。和嶋俊二は,現羽咋郡富来町 熊野と鹿島郡中島町豊田との行政境界が分水嶺と は無関係に引かれているように,中世富来院の領 域も中島町豊田地区に及んでいたと考えている'7)
のてう近世の豊田町村に継承される場所であろう か。中世富来院の推定領域内で豊田保のすぐ西,
かつ“町,,を付すのは,中世史料にも出る「町居 村」’8)辺りに取り合えず比定しておく。
かしまち・四町・千代町:『気多社年貢米銭納帳l にまとまって出る。「尾長白子田参段段別六百九十文参石 桝定かしまち六郎三郎」「宮尻田百苅同弐百冊文此内五十苅不 作四斗五升桝定四町又三郎」「いりこ田五拾苅同百五十文 弐斗桝定石町圓室」と言うように,「田地の名称 面積,課役(貫高・石高),耕作者」の順で書き上 げられ,耕作者の在所も印される。「かしまち」は 近世羽咋郡鹿島路村であろうし,他も近世の村に 継承されるので位置比定に問題はない。なお,在 所の中に「一宮町」とは別に単に「西lHIl「東町」
が出るのも,「-宮西・東町」を指すのであろう。
もる村入町:所謂太閤検地の当地での通達「前田利 家印判状」に「-,矢田村-,院内村一,し なの田村-,谷屋村一,もる村入町右大仏 殿之釘・かな物之御用として…」と出る。肋ロ能」
は,他の村々が総て羽咋郡土田荘に属するので「も ろおか町といふものは,諸岡比古神社の所在地た る二所宮村を指すもの」と解説しているので;本 稿ではこれに従う。
大石町:「畠山義綱宛行状」中に「井大石町屋敷七 ケ所宛行候」と言う文言がある。原田伴彦は宿駅 機能を持つ都市に分類している'9)が確証は無い。
七尾城下の家臣居住区を指すと思われる賊厳密 な位置比定は困難
新町:「新町地下中屋衛門」等4名の連署状に出 る「新町」も,そのまま近世の村名に無く,肋11能 古文書|は「藩政時代に阿岸郷新町分といへるも の」と解説している。また,永禄元(1558)年に
-25-
河井町:表掲より遡り,文明8(1476)年,重蔵神
、、
社の社役を書き上げた申状の7月行事に「町人之 役並参詣之者勤之」と言う文言が見えるのは22),
既に「河井町」の町場化を示すものであろう。現 輪島市街地の一部に相当する。
温井綱貞等茄本誓寺に与えた諸役免除状に「追 而新町之居屋敷之内新保分二百苅可為同前者也」
20)と出るのも同じ場所であろう。新町分村は能登 随一の有力真宗寺院本誓寺の旧地と伝承して
いる21)。
第2表中世史料に確認できる「市」の一覧
文書番号等|傭考
典 拠
名称 1「八日市」
2「十日市」
3「額田庄+日市」
4「額田十日市」
5「寺井市」
6軽海郷の「市」
7山上郷の「北市」
8「本折三日市」
9白山宮の「市場」
10「野市」
11「山崎凹市」
12平等寺付近の「市」
13「野々市」
14加賀国の「馬市」
15「布市」
16「山崎窪市」
17「野代三日市」
18萱野保の「市」
19「芝原市」
20「カホクニ日市」
21津幡の「市」
22「中市」
23「羽咋足市」
24土田荘の「いちは」
25「おきいち」
26「萩市」
27酒井保の「市」
28「金丸市」
29酒井保の「今市」
30櫛比荘の1日「市」
31「西方市」
(延徳3.3.10)
〃
(天文5.6.14)
(天文13.5.4)
(正和元.4.26)
「加能1211号
『加能』1323号 (天文22.4.9)
(建長4.6.20)
(正和元.4.26)
〃
(延文元.3.19).
『加能j556号 (文正元.7.22)
(延徳3.3.11)
(享禄4.10.-)
(天文13.4.24)
『加能」659号 (天文5.12.28)
(天文21.7.17)
『加能』2177号
『越後下向日記』
〃
『石山本願寺日高己』
〃
「三宮古:己」
『称名寺文書』
『菊大路文書』
『石山本願寺日記』
『白山宮荘厳講中記録』
『三宮古記』
〃
『白山宮荘厳講中言己録」
「得田文書』
『蔭涼軒日録』
『越後下向日記」
『白山宮荘厳講中記録』
『石山本願寺日記」
『祇園社記j
『石山本願寺日記j
〃
『津幡少右衛Pヲ文書』
江沼郡
ノノ
ノノ
ノノ
カビ美郡
ノノ
ノノ
ノノ
石111郡
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ
ノノ?
ノノ
ノノ
ノノ?
河北郡
〃?
ノノ
ノノ
年年年年年年年年年年年年年年年年年年Ⅲ〃調製皿朗船田兜⑫〃朋閃船皿、“閖調顕朋 年年年年年年年年年年年年年年年年年年Ⅲ〃調製皿朗船田兜⑫〃朋閃船皿、“閖調顕朋
2と同一
〃
10と同一
10と同一 11と同一 8と同一ヵ
「桜井』
「加能』
『加能」
『気多』
「桜井』
『曹洞』
『加能』
『曹洞』
「加能』
『加能』
i大宮司桜井家文書』
「矢駄加茂社懸仏裏書」
『賀茂別雷神社文書』
『気多社年貢米銭納帳』
『大宮司桜井家文書』
『永光寺文書』
〃
〃
『宝泉寺文書j
『石倉比古神社文書』
羽咋郡
〃
ノノ
ノノ
ノノ
鹿島郡
〃
〃
鳳至郡
〃
号号号記号号号号号号号4皿遺5430860350993121556補1
年年年年年年年年年453614571269023027j7235553335111111111
23と同一
〃
注)「曹洞」は「曹洞宗古文書」(上)の略.
-26-
近世鹿島郡には相隣接して「豊田村」「豊田町村」
があるがl後者内には「市姫観音」と呼ばれる中世 の板碑が残り30),かつて市場が存在した事を教えて くれる。この事から類推して,中世豊田保の市場を 内部に抱えた集落がり近世に豊田町村の名で継承さ れ,その部分を除いた豊田保の大部分が;豊田村に 継がれたと言える。
先述のように,石川県では明治初年に小字地名を 全廃したため,地名を手掛りとした諸調査は困難で あるカネ偶然に櫛比荘の旧「市」を比定できる現鳳 至郡門前町の八ケ川河口附近の地籍図には小字が記 載されている。第2図を見ると,河口の水溜り状の 遊水が津31)として機能し,これに面する低位氾濫原 に市場が立地したと思われるが32),このような市場 は洪水による流失を繰返したはずで;中世末期の史 料に出る「道下町」は洪水の被害を受けない段丘上 にある。やはり,村の中に市場の立った限定される 場が町と呼ばれたと`思われる。
次に史料からこのような事例を裏付けてみたい。
第1表で掲げた領家町は,天正5(1577)年に「五 百文同六月きすし五ツとき村領家町」と出る城富来村の 中に領家町と言う部分がある事を示している。なお,
近世には毎月1.6日に市場が立った33)。
また,天正14(1586)年,前田利家は越中との国 境に近い倶利迦羅村に対して,次のような命令34)を 出している。
「-,当地錯乱之時,逃散之百姓共,立婦町を 立商売可仕事。
-,往還村次之荷物当町二おゐて一切次申間 敷事。(後略)」
この記述から,逃散した百姓がもともと町の成員で あったかは不明だ斌倶利迦羅村に町と呼ばれる一 角を作るよう要求している裏町は商売を行なう場 所である事の2点が窺える。
以上のような点から推せば;村の中に商売を営む 場所が存在すれば;その部分が町と認識されていた mml」の性格
(1)「町」の系譜
史料の制約にもかかわらず抽出し得た「町」は相 当数になる。もっとも,これらのうち,「金沢後町」「南 町」「尾山町」は,小立野段丘突端に建設された“金 沢御堂,,,その後の金沢城を取囲む個々の町々であり,
「魚町」「所口町」「河原町」等々も現七尾市街地形 成の直接の契機となった城下建設による個々の町で ある。これらの町の集合は全体として“都市,,を形 成しているであろう域その他多数の町の実体はど のように把握するのが適当であろうか。
早く原田伴彦が「市場の発展は都市の濫鵤となっ た」と指摘した23)点は,一般的に承認されるであろ うから,まずこの事を確認するために中世史料に出 る市場一覧も第2表に示した。また,史料に出る「宿」
「閲「津」(初見一覧表省略),近世の交通路24),○
○町村と言う藩政村25)も合わせて分布図を作成した のが第1図である。表掲のものから“市場→町,,と いう発展図式の中で把握できそうな見通しが得られ るのは,「宮市場」「今町」(現鶴来町),「津幡四町」
26)及び「萩市」「志雄町」程度である。「山崎凹市」
のように,金沢寺内町の建設に際しては意識的に取 込まれた事例27)を除けば;中世市場の存在がそのま まスムーズに町場の発達に連続したとは必ずしも認 め難い。むしろ,呼称の重複関係28)から見れば;市 場よりも津・湊の存在の方が町との関連がありそう
に思える。また,多くの中世の町は近世になると,
行政的には「村」として位置付けられる事からして,
これら多くの町は``都市”の範11幕に含み難い。
(2)「剛と認識された空間
それでは-体どのような場所力、「町」と認識され たのであろうか。近世初期(1670年)に,加賀藩領.
で行政上「町」と呼ばれた21ケ所は,商業的J物成 役銀を負担しているという共通項が見出せるものの,
同様の負担をしている「村」もあるので29{その根 拠は必ずしも明確ではない。
-27-
○。●
中世に確認できるR限
虫a)○,。と●7l b)近世の町場1 中世に確認できる佃 付名に町が付く藩Ⅱ c)、と■が重ネ
Tl曲
□■☆▽
雁計
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◇●
腰寺Ⅲ
▽千;
lu 正11rの父]思騒(た
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第1図一a加賀地域の市町の分布
(1200~1599年という便宜的時間断面)
-28-
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MIi山道(a,b,c)のルートは,山上嘉久『櫛比の御F 北国出版.138,.参照(p93略図).b,cは迂回路.
総持寺」,1982,
蕾藺薑,l、
類戸田T村 風IBF
】
、グ
巳 ̄
図一bii償晋地域の市町‘
-29-
すると,中世の著名な特産品“能登釜”で知られる 現鳳至郡穴水町中居には,出雲との往来の寄港地で あったという伝承を持つ地名が存在している37)事に まず注目できる。また,邑知潟南縁の現羽咋市吉崎 は,建治年間(1275~78)に尾張国の陶器売りが住 みついて開かれたという伝承を残している38)ように 商工業者移動の傍証は多い。①の状況を見ればl網 野が強調する日本の中世都市の海村的性格89)という 点が首肯できる。
また,松山宏は,製塩を業とする特異な移動性集 落力Wと呼ばれた事例を紹介しているがo),定住の 農耕民が自分達の村とは異なる空間として,移動の 民である海民の集落を意識し,その場所に対して町
と言う感覚を持ったのであろうか。
ここてぅ河北潟や邑知潟のようなラクーンカ、中 世日本海海運における1つの港湾として機能した状 況一そのような場所に町が貼りつく-を少しく付言 しておきたい。河北潟では,フゴと呼ばれる袋状の 入江がかって各所に見られ,その縁辺に市町が成立 していた。それに加えて,近世石川郡玉鉾村の名は,
フゴに玉という美称を冠して,やはりフゴに因む保 古村と区別したように思われる斌玉鉾村には「此 地に市場といふ所あり。市姫宮の跡あり。」41)である
し,宮保村には市姫と言う地名がある42)。一方,潟 の北IU奥には賀茂社領金津荘が立地したがり想定荘 域内笠嶋村に市姫社が存在していた43)。日本海側に 延びる砂丘を回避し,既存の“横山フゴ,,をそのま ま利用した船着場44)と,そこに開かれた市場の存在 を物語る。このフゴの出口を巡って北英田保と相論 を起こし,正安2(1300)年に幕府が裁決した事件 45)も,金津荘にとって流通路を北英田保に包含され てしまう事を警戒したのも1因であろう。このよう なi膳場やそこに立地した市場群46)の上位に河北潟 入口に大野湊や宮腰津が存立し,より上位の日本海 海運の結節点として機能したのである。
ただ,顧みれば「町」は史料上邑知潟縁辺に多く
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↑)一一lHiiW逝跡
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第2図『石川県能登国鳳至郡道下村字限見取全図』
の部分
ようである。それは,近世鳳至郡前波村についての 記述「町といふ処に市姫塚とて石堂あり」35)と言う 感覚一村の中に町がある-である。このような町は 村と同格ではなく,村を構成する部分であった点を
まず確認しておく。
Ⅳ市町の成立契機
(1)低地の「町」と山間の「町]
先に示した町は分布という観点から見ると次のよ うな現象に注目できる。①低湿地(特に邑知潟縁辺)
への塊集,②山間(特に能登地域)にも散在,とい う点であり,この事は市町成立の背景を端的に示し ているのであろうか。
低湿地への市町塊集の背景にあるのは,言うまで もなく海上交通の発展であろう。中世日本海地域の 海運の隆盛ぶりは夙に指摘されてきたところであり,
ここで改めて繰返す必要はない。網野善彦が指摘し た日本海地域を東上したという廻船鋳物師36)を想起
-30-
て他国に売薬していた力;中世にも遡り得る,と示 唆している51)点に注目できる。また,大山喬平も,
領主制研究の1事例に取上げた越中国石黒庄の地頭 カメ庄内の修験道化した寺院を統轄しようとした事,
修験道との関連は分からない域同所に市場が開設 されており,これにもやはり関心を払っていた事を 指摘している52)。修験者は情報収集者としての役割 も大であるから,在地領主にとっては市場同様自己 の統轄下におきたいのは当然であろう。
加賀・能登地域で修験道一市場の不即不離の関係 を検証する事は難しい力、いくつかの類推が可能で ある。例えば;櫛比荘の1日「市」の存在を記録した 史料を蔵する真言宗宝泉寺は,鉄川宮の社(曽鉄111寺 を構成した1寺院であり修験道化の様相が窺知でき る53他奥能登の霊山岩蔵山の真言宗岩蔵寺も,式 内社岩蔵比古神社と習合した修験道化が想定され54),
附近に「西方市」が立地している。「富来院豊田西方 町」は場所を限定できなかった圦松尾大神社と隣 接し習合関係にあった真言宗松尾寺の附近と推定さ れ,この辺りは中世以来「熊野方」と呼ばれる55事 から,熊馴蓼験道との関連が暗示される。能登地域 では石動山修験道を中心に高爪山,宝達山も修験道 の盛んな地域であった56)。なお,石勤山の入口近世 鹿島郡二宮村についても「旧藩絵図覚書に,古絵図 に二宮町とあり。元禄十五年二月里正武部村弥左衛 門書付に,二宮村之儀昔年より二宮町と唱候儀承 伝無之」57)とある。
大小の修験道組織は「修験の道」=「山の道」を 開拓しつつ,拠点とする寺社の膝元には市場が必要 であったろう。能登地域で山間に町が散在した説明 の1つに,在地領主権力の関与とは別に,修験道の アクションも考慮に入れたい。
(3)「山の道」の意義
ここて、「山の道」と市町との関係を,中能登地域 を縦断する通称“蛾山道”を事例にして略述してお く(第1図一b参照)。蛾山道の由緒は,「峨山和尚 表れて,河北潟縁辺に出なかった。それはおそらく
前者が比較的史料に恵まれていたのであって,加賀 地域でも「〈ぬきまち」のような史料になかなか出 にくい小名レベルの「町」,即ち繰返せば村の中の商 業を行なう場を表す町は,ラグーン縁辺などに多く 存在したのではなかろうか。しかし,そのような場 は市地名として,圧倒的に加賀地域(しかも石川郡)
に集中している47)のてう本来これらは町と呼ばれな かったのかも知れず速断できない。
全国的な流通機構の発展を背景に,荘園制的支配 権力のアクションが加わり,交易の場を多く海浜に 成立させたのに対して,特に能登地域の山間に散在 するような町を成立させた要因は,どのような説明
を加える事ができるのだろうか。
(2)修験道との関連
修験道を取上げ;中世交通史に於ける訓西を行なっ た奥野中彦は,鎌倉時代以降顕著に全国的規模で組 織された各々の組織力:既成の交通ルートのみに沿 わない「修験の道」とも言うべきルートに依って全 国を縦横に経巡った,としている。また,例証した 奥州白河の八槻修験道て、従来の神事に加えて大祭 を催し市場を設けた事を指摘し,「修験化した社寺は 古来からの祭事を中心とし,また交易上のセンター として膝元に,市の発達を促し,そこに文字通り,
従来の京・鎌倉に代る拠点を作り出していった。」と 結んでいる48)。菊地利夫が景観形成に作用する「歴 史L0浬」の事例として取り上げたのは,中世末会津 地方の市立てに修験山伏出身である商人頭が関与し た事であった49)。早くから中世商業史研究を蓄積し てきた豊田武も,室町初期武蔵岩槻一帯の市場の市 祭に際して山伏が祭文を読むと言う関わり方をして いる事を指摘していた50)。
翻って北陸地域においても,既に坂井誠一賊富 山売薬の起源についての考察の中て;現婦負郡八尾 町に存在した寺院域江戸時代中期修験者を統轄し
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11時(注:永光寺)の動を仕廻ひ,惣持寺へ行き毎 朝勤めありしとて,其通ひ給ひし道というて,所々 の山中に蛾山道というあり。今に草生ぜず。此酒井 より櫛比までは十五里あり。」と記され58),近年踏査 されて確認されつつある59)。名称の由来通り峨山紹 硯が利用したかは別にして,能登丘陵の峯々を縫っ て南北に半島を縦断している点で;典型的な「修験 の道」と言える60)。
中世に遡って確認し得ないが、少なくとも能登部
(徳丸)・田鶴浜・羽坂村には市姫社力慣存する61)
事から,おそらく中世には市場が存在した。「宿」と して中世史料に出る高畠62)には字「市町」がある63)
のご著名な尾張国萱津宿のような事例64)を想起す ると,ここも市場が立った可能性がある。このよう に,迂回路を含めると峨山道に沿って,ロ能登~中 能登地域の殆ど総ての市町が連結されているのは,
現在の「能登有料道路」と重複している部分が多い 事が端的に示すように,経済的な利便性の大きさを 物語る。能登地域は,丘陵がそのまま海岸に達した 海食崖や海岸段丘がしばしば海岸沿いの道を遮断し ており,山の道は修行のための道であるとともに,
優れて現実的な経済活動の道となっていたであろう。
そして,能登地域では,古代以来中世を通じて政治・
行政の拠点は東の鹿島郡にあった城それとは関係 無く経済活動の重心は1つの港湾である邑知潟を中 心とする羽咋郡であるのは,市町の分布密度を比較 して推定できる斌山の道を通じて内陸地域と連結 されたのである。この道の起点「金丸市」がしばし ば戦場になっている65事も,この地点を確保する事 の重要性を物語っている。なお,前述の奥能登随一 の真宗寺院鳳至郡本誓寺の旧地である新町分村もこ の道に近接するのも興味深い66)。
修験道即市場の成立とは言わないが}修験者の旺 盛な諸活動に,特に能登地域の市町の存立基盤を見 出したい。このような場合は,山の道と平地の道と の境界であり,聖界と俗界との境界点でもあったと
(j言える。山の道自体線状に延びる境界領域でもあ る67)。
V、市町のプラン
本章では「町」の空間的実態,即ち主に明治期の 地籍図から中世的な様相を摘出し,若干の検討を加 えるものである。「景観」の語感としては,高さや色 彩等も視野に入れた3次元的なイメージを受けるの で;ここでは“形態,,或いは“plan(平面図),,と 言う語を用いたい。
(1)現羽咋郡押水町三日町・御館・紺屋町 これらの集落は,宝達山系の西裾部、押水低地を 緩やかに傭敵する丘陵に相近接している。
まず,御館はその名の通り中世のある時期に領主 館が営まれた事実を示している。現地は,舌状に突 出した丘陵上に集落が乗っている。集落の骨格とな るストリート68)は直線を基本として,交叉点で部分 的に筋違いの形態を彩り一応防御性を考えている。
また,そのまま中世に遡ぼらせるには無理があるか も知れない私丘陵端部(少なくとも南側)は幾分 高く土星状を呈している点,館に接して寺院の存在 を推定させる「ゴアン」(御庵ヵ)と言う地名等から,
この丘陵が1つの「領主館lm69)のような形態を呈 している。住民が慣用的に使用している町地名は,
ストリートが作る“街区,,に付けられた地名である。
集落全体としては,「表町」「背戸町の位置関係か ら,領主館から見た表一裏の関係が意識されていた のであろうか(第3図)。
この館の主については_応岡部氏が考えられる70)。
確実に岡部氏が関係したと言う館は,近接する紺屋 町(第4図)に存在していた71)。「紺屋町」は軍記物 では,天正末年に佐々成政の末森城攻めに先立って 焼払されたとある域現地でもそのように伝承して いるので事実とすれば;単に紺屋が居住していたの みならず,他の商業者も居住していたかも知れない。
畠地として利用されている正方形状の区画(「ジョウ デン」)が館跡てう集落を僅かに見降ろす位置にある。
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そのすぐ南てぅ市場集落にありがち なストリートの屈折がある事集落 の北端で本来は規則正しく分割され たような短冊型の地籍(現畠地)が 見られる事に注目できるが、集落の 屋敷割りは不規則なブロック状であ り,普通に見られるプランである。
御館の館遺構を細かく観察すると,
所々に「折り」と''平ばれる城郭建築 史上の新しい技法を採用している事 に注目できる。この手法が加賀・能 登地域ではいつ頃出現するのか管見 の限りでは知り得ない力;大和国で は16世紀半ば以降に出現すると言う 72)。また,堀も2重になり,規模が 大きい点も戦国期の様相を表してい る。おそらくこの時期,館に接して 武士が居住したであろうカネ集落全 体が「町」と呼ばれてこなかったの は,商業者がいなかったから,先述 のような意識力働いたのであり偶然 ではなかろう。
三日町の名称は三日市場に由来す るのであろう。加賀地域では明確に 日限市の分布は1郡のほぼ中央に塊 集すると言う傾向があった。とすれ ば後述の「萩市」はおそらく三日 市であったの面羽咋郡南部におい て同時に三日市が並存した可能性も 考えられる域両者は相互に5km程 度しか隔たっておらず,羽咋郡南端 と言う局地的な地域経済空間で重層 する日限市場のリング73構成には問 題点があるように思う。従って,三 日市であった萩市は志雄町として規 模を拡大して常設店舗を持つ町場化
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第4図紺屋町のプラン
し,三日市=萩市の機能か志雄町に吸収された後に,
当三日町は御館を営んだ主人公が関与した三日市場 として新たに創設されたものと理解しておきたい。
三日市村と呼ばれず三日町村と呼ばれてきた点力示 唆するように,当初から町屋の出現を伴っていたの ではなかろうか。とは言え,地籍図を読んでも多く の町屋が存在したような痕跡は見られず,近世に至っ て地域中心として機能存続するような市町集落では なかった。従って,むしろ紺屋町が大泉荘の地名由 来と言われる涌水"おんどきま,,(弘法の井)附近に 成立した荘園市場として機能し74%地頭もこれに接 して館を構えた後戦国期に現御館に館を創設した 者斌併せて新たに商業集落を設定したものと推測 しておく。ただ,紺屋町が焼かれたのは,当地域の 商品経済流通の仕組みにこの集落が関わっていたか らであり,近接して小規模な2つの市町力年子在した
事になる。
なお,耕地整理前,三日町の集落背後から御館の 集落の西北にかけて,「堀のような溝(大きな窪み)
が走っていた」と言う75)のご館と市町は近接しな がらも,境界線が意識されていたかも知れない。
(2)現羽咋郡志雄町子浦・萩市
中世史料に出た「羽咋足市」「おきいち」「萩市」,
及び「志雄町(東・西町)」は現在の羽咋郡志雄町の 中心市街地を形成している(第5図)。2つの集落は 緩やかに湾曲したメインストリートに沿い,“へ"の 字状にほぼ直交している。近世子浦村は村ながら,
実質は宿立ての在組阿であり,間口が狭く奥行の長 い短冊型の屋敷割りはそのような一般的形態を示し ている。しかし,子浦村は度重なる火災によって,
10軒を単位にして火除地が配されたと言う76)ので;
中世志雄町は少なくとも屋敷割りについては,近世
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他方、明暦2(1656)年肋ロ越能三箇国高物成帳」
(村御印)77)によれば;萩市村に課された負担は山 役・鳥役・抽役の3種で子浦村が紺屋役・鍛冶役・
室役・酒屋役などの商業的課役を負わされているの と対照的U他の村と何ら変るところはない。従っ て,近世には既に市場の機能は消滅しており,商業 を基盤にした町場の拡大もあり得ないと思われるか ら,少なからず中世的様相を止めているであろう。
萩市の前面には邑知潟南縁に広がる潟埋積低地に 向けて子浦川が形成した三角州状の沖積地が広がり 丘陵を背後に負っている。丘陵の傾斜変換線に沿っ て北上した「官道」が萩市のメインストリートにな る。これは西流する子浦川とは直交する事になり,
実際ぅ出雲神社に接して土地割に氾濫の痕跡が見出 せる。萩市のプランは緩やかに湾曲したストリート
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第6図萩市に見られる「ひだ」の部分(現況)
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第7図石井のプラン(凡例は第4図参照)
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(時国往来)
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と,集落の南端から派生して南北方向に湾曲した別 のストリートが走り,2本のストリートによって,
集落の骨格は都合楕円~凸レンズの断面のような形 態を呈している。
『能登国田数注文178)によれば;鎌倉時代当時「志 雄保」「志雄荘」があり,志雄保の地頭には得江氏が おり,史料上14世紀半ばまで存在が確認され,室町 時代に入ると飯尾氏(代官和田氏)が地頭職を獲得 している79)。現在,萩市集落の背後の丘陵頂部標高 約70mには,麓の三日市場に因むと思われる通称"三 日城,,跡がある。得江氏が営んだとすれば、この時 期の一般的傾向として,三日城から延びる2本の尾 根に挟まれた懐部に居館が存在したはずである。し かし,これは小字の喪失と開田により跡付ける事が できない。なお,付会の誇りを免れ得ない斌萩市 の集落の屋敷割りは一部で;第6図のような形態を 彩っている箇所があるのは,松山宏が備前国福岡で 紹介している「ひだ」80)と同様であるのでウ中世の ある時期に有事を意識した造作であるかも知れない。
この場合北東方向からの侵入に備えており,南東 丘陵上に三日城が位置している事と矛盾しない。
志雄町のプランの骨格はやはり2本の湾曲するス トリートである。そして,萩市とはほぼ直交し一体 のプランとなっている。萩市の中間を切っている旧 河道の痕跡は,志雄町の南辺を画し,志雄町には直 接の影響を与えていない。従って,萩市は氾濫によっ て壊滅した事と,萩市の機能拡大が企図されて,新 たに自然堤防上に萩市のプランをそのまま拡大して 志雄町力建設されたとの憶測が可能である。両者は 史料上出現時期に断絶は無いし,プラン上もこのよ
うに断絶感がない。
志雄町には16世紀前半に「中屋」「高屋」「玉屋」
81)などがあり,これらが商家であれば常設の店舗を 構えていた事が予想され,「志雄東町」「志雄西町」
と出るの石町場は少なくとも2つの部分で構成さ れていた事になる。現在,古老は'慣用的に子浦出雲
神社82)辺りを境にして,東・西(町)を用いている。
従って,16世紀前半には町場の形成がほぼ現況に近 い程に発展していた事になろう。
(3)現J鳫叺至郡柳田村石井(通称“石井の町,,)
能登半島の先端に近い山間盆地の現柳田村石井を 取り上げる。能登地域最長の河川町野111とその支流 上町川とが合流する地点に相当し,氾濫原とは約10 mの比高差を持つ段丘上に集落が乗る。石井は中世 史料に出ない斌町野荘(九条家領)の地頭町野氏 の領主館と目される83)遺構力地内に明確に残り,集 落のほぼ中央には市姫社64)も鎮座し,近郷近在では 伝統的に“石井の町,,と呼ぶ習慣がある85)。このよ うな状況証拠から中世市場が存在していたと判断し,
萩市では領主館の位置が不明であったの一己石井を 事例に市町と地頭館の位置関係を描写する(第7図)。
館は,周囲の水田よりも1~2m程度高い微高地
(畠地として利用されている部分)を中心とし,周 囲を穿ってかなり規模の大きい堀を巡らせている。
三角形状を呈するプランの1つの頂点から,南西に 延びるのが町場のメインストリートになり,南西端 に近付くと緩やかに湾曲している。これとは別に町 野川寄りに古道があったという伝承がある86)。メイ ンストリートとこの古道との両方の交点は一方力顎 主館の入口で;他方が諏訪神社附近である。鎌倉時 代に勧進されたと言う諏訪神社87)は領主館の方向(北 東)を向いている。領主の意志によって館と諏訪神 社の間の空間が町と言う有機体として意識されてい たのであろう。
“石井の町,’もメインストリートと古道とが萩市 や志雄町と同様の形態を作っている。これは,藤田 裕嗣が図示した88唆芸国沼田荘の市場比定地と同じ プランである。ただ,市姫社周辺では,直交する道
「小路」が派生して街区を作り,その部分が「高町」
「下町」等,町と通称されている点てぅプラン上「一 本街村型」から「複数街村型」へと言う経緯89)が感 じられる。萩市・志雄町・石井の事例では,緩やか
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