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林羅山の『大学』解釈をめぐって

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林羅山の『大学』解釈をめぐって ─ 『大學諺解』と『大學和字抄』の比較検討を通して見た林羅山の朱子学 ─ 武田   祐樹

  はじめに

  一 七 世 紀 初 頭 に お け る 朱 子 学 の 盛 行 と、 こ れ に 対 す る 林 羅 山 の 寄 与 と い う 問 題 を、 正 面 か ら 論 じ た 研 究 は 稀 で あ る。 ま た、論じるとしてもそれは儒学史や漢文学史における一ページとして、伊藤仁斎や荻生徂徠の前史的に扱うに過ぎず、具体 的な検討や跡づけに欠けるものが大半である。

  たとえば西村天囚は、林羅山が一旦は建仁寺を出奔しつつも、後に剃髪して徳川家康に仕えたことを儒教による仏教から の独立として評価し、また林羅山が朱子学を奉ずる立場を取ったことを根拠にして一七世紀における朱子学の盛行・官学化 というストーリを描 く

  し か し、 こ う し た 語 り 方 を 批 判 す る 者 も い た。 例 え ば、 津 田 左 右 吉 で あ る。 津 田 は、 「 儒 教 が 多 少 の 感 化 を 所 謂 学 問 を し た諸大名の民政に及ぼした」ことは認めている。しかし、朱子学はそもそも外来思想であって、その盛行はあくまでも上級 武士にのみ見られる現象に過ぎず、社会全般に広く行き渡っていたわけではないと主張し た

  丸山真男は津田の批判を承知しつつも、林羅山や彼の朱子学が幕藩体制を肯定するイデオロギーとしての意味を持ったこ

(2)

とを論じ た

。しかし、丸山の論が尾藤正英により批判さ れ

、寛政異学の禁の教育制度史上の意義が注目される中で、一七世 紀における朱子学の盛行や林羅山の寄与といった問題は等閑視されるに至っ た

  しかし、津田や尾藤の批判を認めた上でも、まだ残る問題がある。それは一七世紀において、徳川将軍家とそれを取り巻 く諸大名が学者を雇い、古典の講義や注釈、あるいは各種編纂物の作成を行わせたという事実を、歴史的にどう位置づける かという問題である。

  本稿では、幕藩体制維持のためのイデオロギーであるとか、広く社会全般に行き渡ったかどうかという問題は一端棚上げ する。むしろ、最もラディカルな批判者である津田も認めた儒教の為政者への感化という問題について、古典注釈という側 面から考えたい。

  本 稿 は、 林 羅 山 の 朱 子 学 が 備 え る 学 術 上 の 特 色 を、 『 大 学 』 解 釈 と い う 点 か ら 論 じ、 こ れ を 通 じ て 一 七 世 紀 の 前 半 に お い て、朱子学が為政者にとって意味を持つ学術であったことを明らかにすることを目的とする。この目的を達成するため、林 羅山の著述である『大學諺解』と『大學和字抄』に着目し、両書の成立経緯に配慮しつつ比較検討するという方法をとる。

瞭な同書を扱うことを避けたい。 る、羅山点への遡及を試みたのが村上氏の論考である。村上は『四書集注抄』を用いたが、本稿では出版に至る経緯の不明 諺 解 』 の 訓 点 を 比 較 検 討 し た。 こ れ に よ り 所 謂 道 春 点 か ら、 林 羅 山 自 身 の 意 向 が よ り 明 確 に 示 さ れ て い る も の と 期 待 さ れ   『 大 學 諺 解 』 に 関 し て は、 村 上 雅 孝 の 論 考 が 存 在 す る。 村 上 は、 国 語 学 の 立 場 か ら、 慶 安 三 年 版『 四 書 集 注 抄 』 と『 大 學

  こ の 後 に 現 れ た の が 大 島 晃 の 論 考

で あ る。 大 島 は『 大 學 諺 解 』 を 単 独 で 扱 う。 大 島 は、 『 大 學 諺 解 』 の 分 析 を 通 し て、 林 羅山が舶載される書物をいかに咀嚼し、自身の理解をいかに示したのかを論じた。大島は、無秩序に舶載される書物をふん だんに用いた林羅山の朱子学理解が示される『大學諺解』に、林羅山の博学ぶりやその読書の有する自由さを見て取る。

  明治以来の林羅山研究の通弊は、林羅山がその学識を利用して何を成したのかに対する具体的な検討を欠くことにある。

(3)

それは為政者に奉仕することである。多くの者が認める通り、林羅山は御用学者であるに違いない。しかし、問題はまさに その為政者へ奉仕するための学問の内実に対する具体的な研究を欠くことにある。

  前 稿

では林羅山の学術が備える特質を、清原家への強烈な意識のもとに形成された、四書を新注によって読むという態度 に あ る と 指 摘 し た。 本 稿 で は、 右 の 理 解 の 下、 さ ら に 林 羅 山 の 学 術 に 対 す る 考 察 を 進 め た い。 そ の た め に、 『 大 學 諺 解 』 と 『 大 學 和 字 抄 』 が 備 え る 性 格 の 違 い を、 両 書 の 成 立 経 緯 や 成 立 時 に お け る 林 羅 山 の 状 況 へ の 理 解 の 下 に、 明 ら か に し た い。 さらに、両書の性格の違いを生んだ林羅山という人物の『大学』解釈が持つ二面性について論じる。最後に、林羅山の朱子 学が備える学術上の特色を明らかにする。以上を通じて、一七世紀の前半において、朱子学が為政者にとって意味を持つ存 在であったことを論じる。

  『大學諺解』と『大學和字抄』

  本節では、 『大學諺解』と『大學和字抄』の書誌情報を紹介する。

下 冊 末 尾 に は 跋 が 附 さ れ る。 こ の 跋 は『 羅 山 文 集 』 巻 第 五 五 に「 大 學 解 跋 」 と し て 収 録 さ れ る。 「 編 著 書 目 」 に は「 大 學 解     下冊「大学 朱熹章句」末尾に「大学章句解 終」とある。なお、序題「大学章句序」の下には「林羅山道春解」とある。 朱熹の「大学章句序」及び「大学章句」に対する林羅山の解説が附された注釈書であることがわかる。表題は「大學諺解」 、   を除き上冊が八一丁、中冊が七七丁、下冊が八八丁、毎半葉一〇行。 「大学章句序」 「大学 朱熹章句」によって構成され、   『 大 學 諺 解 』 は 三 冊 か ら 成 り、 漢 字 カ タ カ ナ 交 じ り 文 で 記 さ れ た 写 本 で あ る。 国 立 公 文 書 館 内 閣 文 庫 に 所 蔵 さ れ る 。 表 紙

  二 巻 」 の 名 が、 「 論 語 解   四 巻 」「 中 庸 解   三 巻 」 と 共 に 見 え る。 後 に 林 鵞 峯 が 著 し た『 大 學 或 問 私 考 』 に お い て は、 「 諺 解 」「 文 敏 先 生 諺 解 」 と し て し ば し ば 引 用 さ れ る。 ま た「 大 學 或 問 私 考 序 」 に は「 章 句 諺 解 」 の 名 が 見 え る。 本 稿 で は、 便

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宜的に『大學諺解』という呼称を用いる。

情を全く異にする。 や徳川幕府高官ないしは各大名へ献上するために書かれたものがほとんどであるが、この『大學諺解』はそれらとは成立事   『 大 學 諺 解 』 は、 林 羅 山 の 著 述 の 中 で も、 特 徴 的 な 成 立 経 緯 を 持 つ。 後 述 す る 通 り、 林 羅 山 の 著 作 は 基 本 的 に 徳 川 将 軍 家

  以下、 『大學諺解』の跋をたよりとしつつ、その成立の経緯を窺いたい。

予長子叔勝、幼讀書、粗暁字義、且捜事跡。況又慕聖賢之道乎。去夏俄物故。吁天喪我者歟。哀慟不止。纔未至於喪明 而已。 予 が 長 子 叔 勝、 幼 に し て 書 を 讀 み、 粗 ぼ 字 義 を 暁 り、 且 つ 事 蹟 を 捜 る。 況 ん や 又 聖 賢 の 道 を 慕 ふ を や。 去 夏 俄 に 物 故 す。吁、天は我を喪ぼす者か。哀慟止まず。纔かに未だ明を喪ふに至らざるのみ。 (『大學諺解 』

((1

跋 (

あ る 林 左 門 の 将 来 に 期 待 を 寄 せ て い た   『 大 學 諺 解 』 の 成 立 は、 林 羅 山 の 長 子 林 左 門 の 死 を 契 機 と す る。 林 羅 山 に は 四 人 の 息 子 が お り、 林 羅 山 は と り わ け 長 子 で

(((

。 と こ ろ が、 こ の 林 左 門 が 夭 折 し た。 林 羅 山 は 激 し い 悲 し み を 経 験 す る。 「 喪 明 」 と は、孔子の弟子の子夏が息子を亡くして悲しみの余り失明した故事を踏まえ る

((1

  これに先だち慶長一二年に西笑承兌が没した。同一七年には三要元佶、同一九年には清原秀賢が相次いで没する。青年期 のライバルは次々と姿を消し、残すは吉田梵舜と以心崇伝のみであった。

  寛永元年、林羅山は徳川家光という若い君主に近侍することとなる。この徳川家光の下で、林羅山は多くの規模の大きな 仕事を達成して行く。林羅山の前途は開けつつあった。このような状況において、林左門が没したのである。

  林 左 門 の 没 後、 林 羅 山 は 京 都 に 留 ま る。 半 年 ほ ど の 滞 在 期 間 中 に 林 羅 山 が 林 鵞 峯・ 林 讀 耕 斎 の 兄 弟 へ 行 っ た 激 励 に つ い

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て、林鵞峯は様々な形で書き残してい る

((1

。林羅山は新たな後継者を育てなければならなかったのである。

   若使叔勝在、則無由作大學解。叔勝既會得了也。今作之者、它日爲授幼子也。 若し叔勝を使て在らしむれば、則ち大學解を作るに由無し。叔勝既に會し得了るなれば、今之を作るは、它日幼子に授 けんが爲なり。 (『大學諺解』跋 (

  林鵞峯の学習階梯を「自叙譜 略

((1

」から窺うと、寛永六年を境に大きく様子が変わったことがわかる。一三歳になるまで林 羅山と林左門の講義に陪席する程度であったが、その後は次々に古典籍を読み進め、八年後の寛永一五年には『三体詩』を 講じるまでに至る。つまり、長子林左門の死を承け、従前は熱心に教育を施されていなかった三男林鵞峯の育成が、林羅山 の急務となったのである。

  鵞 峯 の 学 習 階 梯 の な か で、 い つ『 大 學 諺 解 』 は 読 ま れ た の で あ ろ う か。 寛 永 九 年、 林 鵞 峯 は 四 書 五 経 を 始 め と し て、 『 聯 珠 詩 格 』『 瀛 奎 律 髓 』『 唐 詩 選 』『 古 文 真 宝 』 な ど の 漢 籍 を 読 破 す る。 こ の 時 の こ と を、 後 に 林 鵞 峯 は「 見 先 考 所 作 大 學 諺 解、而讀論孟中庸大 全

((1

」と述べる。林鵞峯は、 『大学』以外の四書については『四書大全』を用いたが、 『大学』だけは『大 學 諺 解 』 を 用 い る。 林 鵞 峯 は『 四 書 大 全 』 の『 大 学 』 の 箇 所 を『 大 學 諺 解 』 で 補 い、 他 の 四 書 に 先 駆 け て 読 ん だ の で あ る 『大學諺解』の『大学』理解は、林鵞峯の『大学』以下の四書の読み方を左右したに違いない。

此諺解、本章句并或問、尊程朱也。考以鄭註孔疏陸音、尋舊也。輔翼以大全通考通義   大成蒙引、釋章句也。參之以知 新日録林子四書標摘管志道釋文楊李四書眼評、備異記也。其間加己意而述其義、非敢擬議之。 此 の 諺 解、 章 句 并 び に 或 問 に 本 づ く は、 程 朱 を 尊 べ ば な り。 考 す る に 鄭 註・ 孔 疏・ 陸 音 を 以 て す る は、 舊 を 尋 ぬ る な

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り。輔翼するに大全・通考・通義大成・蒙引を以てするは、章句を釋するなり。之に參ふるに知新日録・林子が四書標 摘・管志道が釋文・楊李が四書眼評を以てするは、異記に備ふるなり。其の間己が意を加へて其の義を述ぶは、敢えて 之を擬議するに非ず。 (『大學諺解』跋 (

  一七世紀初頭という時期において、清原家では、学庸は新注で読み、論孟は古注で読んでいた。また、藤原惺窩は『逐鹿 評』において『礼記』所収の「大学」篇の本文を用いて『大学』を解説する。彼らは皆、新たな学術界の動向に対応しよう としていた。彼らは宋代から明代にかけての中国の学術を整理し、従来の知識の中に位置付け、理解しようとした。

日本ニテ清原外記頼業、始テ大學中庸ヲ抜出シテヨメリ。時代ヲ考ユレハ、朱子ノ時ニ當レリト、彼家ニ云ヒノヽシル ハ、尤イフカシキ事也。朱子ノ註本、渡リテ後、五山文字ノ僧、ヤウくスコシキヨミテ、其後彼家ニモ、ヲノレカ眼力 ノ及所ヲ抄出シ、近註ト號シテ、常忠宣賢カ徒、ヲロソカニ見侍リヌ。全文ヲハエヨマス予弱冠時、京師家塾ニテ、四 書集註章句ヲ講ス。笈ヲ負テ、耳ヲ傾ル者、多群集ス。人皆古註ヲヨミテ、程朱ノ名ヲサヘ不知之。今三十年後、闔國 悉ク予カ家風ヲ称ストナン。 (『大学諺解』 (

  林 羅 山 は 清 原 家 に 学 び つ つ も、 自 分 な り の 四 書 に 対 す る 接 し 方 を 導 き 出 し た。 そ れ を 子 孫 へ 伝 え よ う と し て、 『 大 學 諺 解』は著されたのである。

  次に、 『大学和字抄』の紹介を行う。なお、紹介するにあたり、福井保氏の業績を参考にす る

((1

庫 に 伝 わ る 写 本 の み で あ り、 他 の 伝 本 の 存 在 は 確 認 さ れ て い な い。 表 紙 を 除 き 五 三 丁、 毎 半 葉 一 一 行。 表 題 が「 大 學 和 字   『 大 學 和 字 抄 』 は 一 冊 の 写 本 で あ り、 漢 字 ひ ら が な 交 じ り 文 に よ っ て 記 さ れ る。 テ キ ス ト と し て は 肥 前 島 原 図 書 館 松 平 文

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抄」である。内題として「大學」の二字が掲げられ、 「子程子曰」に始まる朱熹の小引、 「大学之道在明明徳」に始まる経、 「 康 誥 曰 」 に 始 ま る 伝 と 続 き、 そ れ ぞ れ に つ い て 林 羅 山 の 解 説 が 附 さ れ る。 本 文 の 作 り と 全 体 の 構 成 か ら、 基 本 的 に『 大 学 章句』に依拠した注釈書であることが窺える。第五〇丁には林羅山と林鵞峯の跋が附されており、林羅山による跋は「大學 倭字解跋」として『羅山文集』巻第五五に収録されている。

  両者の跋から『大學和字抄』成立の経緯を窺いたい。

正保二年二月十五日、奉   鈞命撰大學倭字抄。至同廿四日抄之了、別清書之、三月十五日献之。羅山子道春 正保二年二月十五日、鈞命を奉り、大學倭字抄を撰す。同廿四日に至り、之を抄し了り、別に之を清書し、三月十五日 之を献る。羅山子道春

此一冊、以正保二年三月十五日、所献   幕下之藳繕寫之、塞阿部豊牧之請也。即是所遣豊牧之草本也。   慶安四年辛卯 七月下旬   向陽子 此一冊、正保二年三月十五日、幕下に献ずる所の藳を以て之を繕寫し、阿部豊牧の請を塞ぐ。即ち是れ豊牧に遣す所の 草本なり。   慶安四年辛卯七月下旬   向陽子( 『大學和字 抄

((1

』(

  右の跋と「羅山年譜」

および「羅山行状」

から、

『大學和字抄』は三度にわたって徳川将軍家に献上されたことがわかる。 寛永三年に『孫子諺解』や『三略諺解』とともに献上されたもの、正保二年に『老子抄』とともに献上されたもの、慶安四 年に『貞観政要諺解』とともに献上されたものである。肥前島原図書館松平文庫所蔵の『大學和字抄』は、三度目に献上さ れた『大學和字抄』の草稿を写したものであろう。

(8)

は、オーソドックスな為政者向けの著述のように見える。しかし、実はそうではない。   『 大 學 諺 解 』 が 後 継 者 の 養 成 と い う 特 異 な 事 情 か ら 著 さ れ た に 対 し て、 『 大 學 和 字 抄 』 は、 林 羅 山 の 著 し た 注 釈 書 と し て

  そもそも、林羅山が著した注釈書のうち、漢字ひらがな交じり文のくずし字で記された物は稀である。また、ある一つの 古典について、三度も同じタイトルで注釈を附して献上されることは異例である。さらに、時期としても林羅山が徳川家光 に近侍することになってまもない頃(寛永三年 (、徳川家綱が元服する直前(正保二年 (、同じく徳川家綱が征夷大将軍に任 ぜ ら れ る 直 前( 慶 安 四 年 ( に 献 上 さ れ て い る

((1

。 こ れ は、 『 大 學 和 字 抄 』 が 林 羅 山 と 徳 川 幕 府 の 双 方 に と っ て 重 要 な 意 義 を 持っていたことを示す。

ために漢字カタカナ交じり文で記された『大學諺解』と、好対照をなす。   『 大 學 和 字 抄 』 は、 徳 川 将 軍 家 の 披 閲 に 供 す る た め に 漢 字 ひ ら が な 交 じ り 文 で 記 さ れ て い る。 こ の 点 も、 自 身 の 後 継 者 の

  林 羅 山 の 社 会 的 な 立 場 と い う 点 か ら 観 て も、 『 大 學 和 字 抄 』 は『 大 學 諺 解 』 と 対 照 的 で あ る。 寛 永 七 年 の 段 階 で は、 林 羅 山 は 吉 田 梵 舜 や 以 心 崇 伝 と い っ た 往 年 の ラ イ バ ル が 周 囲 に お り、 自 身 は 後 継 者 問 題 を 抱 え て い た。 ま た、 当 時 の 林 羅 山 は 『 寛 永 諸 家 系 図 伝 』 や『 本 朝 神 社 考 』 な ど の 規 模 の 大 き な 編 纂 物 を ま だ 著 し て い な か っ た。 し か し、 正 保・ 慶 安 年 間 と も な ると、第三子林鵞峯は成長して林羅山をサポートするに至る。三度目の『大學和字抄』献上の際、阿部忠秋が仕事を林鵞峯 へ 依 頼 し た こ と も 偶 然 で は あ る ま い。 林 羅 山 は、 慶 安 元 年 版 の『 延 喜 式 』 出 版 に 際 し て 中 原 家 や 清 原 家 か ら 協 力 を 要 請 さ れ

((1

、元号の制定にも関わることとな る

(11

  このように『大學和字抄』は、著作時の林羅山の社会的地位という点でも、 『大學諺解』とは事情を異にするのである。

(9)

  伝と章句の掲出法

  本 節 か ら は、 『 大 學 和 字 抄 』 と『 大 學 諺 解 』 に 見 え る 注 釈 態 度 の 比 較 検 討 を 行 い、 林 羅 山 が い か な る 材 料 に 拠 っ て『 大 学』を解釈するのかを窺う。本節と次節では、朱熹『大学章句』伝三章第一節に対応する箇所に着目したい。

  『大学章句』伝三章では、三綱領の一つである「止至善」が問題となる。第一節では、

『詩経』商頌「玄鳥」篇から詩句が 引用され、人には止まるべきところがあることを説 く

(1(

。この第一節を承け、人は止まるところを知らなければならないと説 く第二 節

(11

と、何に如何にして止まるのかを説く第三節が続く。引用される詩句と『大学』における詩句の利用法に対する理 解の双方が問われる箇所である。

  まずは、本文の掲げ方を見る。

   詩云、邦‐畿千‐里、 惟

  レ

  ノ

  ナリ

  ル

    詩

  ハ

商頌玄 鳥

  ノ

之篇。邦‐ 畿

  ハ

、王‐ 者

  ノ

之 都

  ナリ

也。 止

  ハ

、 居

  ナリ

也。 言

  ハ

  く

各 有

  リ

  ノ

  ニ

  ル

之處

也( 『大学諺解』 (

   詩云邦畿千里惟民所止( 『大學和字抄』 (

加えられている。これに対して、 『大學和字抄』は伝の本文のみを全くの白文で掲げている。   「 ‐ 」 は 音 号 符 を 表 す。 『 大 學 諺 解 』 は、 『 大 学 』 の 伝 と と も に、 朱 熹 に よ る 章 句 を も 掲 げ て い る。 ま た、 句 読 点 と 訓 点 も

  『大學諺解』の伝と章句を共に掲げて加点する姿勢と、

『大學和字抄』の伝のみを示して全く加点しない姿勢は、いずれも 林羅山が著した注釈書のなかでも特徴的である。

(10)

解』における『論語』本文は加点されているが、朱熹による注が示されることはな い   『 大 學 諺 解 』 と 同 様 に、 自 ら の 子 孫 へ 向 け た 著 作 で あ る『 論 語 諺 解 』 で さ え、 『 論 語 』 本 文 を 掲 げ る の み で あ る。 『 論 語 諺

(11

  一 方、 『 大 學 和 字 抄 』 と 同 様 に、 徳 川 将 軍 家 へ 献 上 さ れ た 注 釈 書 と し て は『 三 略 諺 解 』 が あ る。 こ の『 三 略 諺 解 』 も、 参 考にした『七書講義』の注を掲げこそしないが、 『三略』本文は加点されてい る

(11

による解説を読めば、無点で記された漢文の内容を理解できたことになる。 み を 無 点 で 掲 げ る の は、 読 者 に 伝 や 章 句 を 直 に 読 む こ と を 要 求 し な い か ら で あ る。 『 大 學 和 字 抄 』 に お い て、 読 者 は 林 羅 山 は、 読 者 に『 大 学 』 を、 朱 熹 に よ る 章 句 も 含 め て、 丁 寧 に 読 む こ と を 要 求 す る か ら で あ る。 一 方 で、 『 大 學 和 字 抄 』 の 伝 の   『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 は、 伝 と 章 句 の 掲 げ 方 に 限 っ て も、 異 な る 態 度 を 示 す。 『 大 學 諺 解 』 が 加 点 さ れ て い る の

  明代の諸書をも含めた新注に拠る解釈

  次に、林羅山による注釈部分の検討に移る。前節同様に、伝三章第一節を扱う。 「止」字の解釈に着目する。

止ハ、居也トハ、居住ノ義也。都ハ、皇居ニテ、天下ノマン中ナレハ、四方ノ人アツマリ向テ、コヽニ止ラント欲スル ヿヲ、至善ノ地ニ止ラントスルニタトフル也。一切ノ物、各止ルヘキ處アルコトヲ云也。章句ノ物ノ字、廣ク兼タリ。 君臣父子ヨリ、人ノ言行ニ至ルマテ、イツレモ、皆止ルヘキ理リアリ。其カンヨウヲイハヽ、明德新民也   蒙引曰、 維

  レ

  ノ

  ノ

止之 止

  ハ

、止‐ 居

  ノ

之 止

  ナリ

也。物 各

  く

  リ

  ニ

  マル

之 止

  ハ

、 止

  ルノ

至‐ 善

  ニ

一之 止

  ナリ

也。 借

  テ

  ノ

之 詞

  ヲ

、 寓

  ス

  ノ

之 意

  ヲ

(『大学諺解』 (

都は王のある所なれは諸人あつまり來りて居住せんとねかふを至善にとゝまるにたとふ( 『大學和字抄』 (

(11)

学章句』の説明を補 足 熹の「邦畿、王者之都也。止、居也。言物各有所當止之處也」を基調とした解説である。朱熹は『大学或問』において『大   『 大 學 諺 解 』 の「 都 ハ、 皇 居 ニ テ 」 よ り「 ニ タ ト フ ル 也 」 に 至 る 箇 所 は『 大 學 和 字 抄 』 の 解 説 と ほ ぼ 一 致 す る。 こ こ は 朱

(11

し、後に『四書大全』及び『四書蒙引』が朱熹の解釈を敷 衍

(11

した。

  伝三章第一節は「止」字の説明を展開する上での導入部分であり、この伝三章第一節における「止」字は、あくまでも、 譬え話の中で用いられたものである。 『四書蒙引』は朱熹の意を汲み、 「借彼之詞、寓此之意」と明確にその旨を述べ た

(11

中で用いるのみであり、直接的には引用を行わない。   『 大 學 諺 解 』 は 説 明 の 中 で 用 い る の み な ら ず、 『 四 書 蒙 引 』 を 直 接 に 引 く。 逆 に、 『 大 學 和 字 抄 』 は『 四 書 蒙 引 』 を 説 明 の

  しかし、このような態度の違いを持つにもかかわらず、簡潔な解説の中でも、林羅山が朱熹の解釈と朱熹の解釈に対する 明 代 の 理 解 を 踏 ま え、 こ れ ら を 用 い る こ と に 注 目 し た い。 『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 は 新 注 を 用 い て『 大 学 』 解 釈 を 展 開する。ただし、この新注とは明代の『大学』解釈をも含む。この点で両者は共通する。取り扱う注釈の範囲という点で、 素人向けに著された『大學和字抄』が専門家向けに著された『大學諺解』に劣るとは一概には言えない。

  古注の検討

  本節では、 『大學諺解』と『大學和字抄』の『大学』伝三章第二節に対応する箇所を比較検討する。 『大学』伝三章の第二 節では、 『詩経』小雅「緜蠻」篇から詩句が引用される。 「子曰」以下では孔子による詩句の解説が引用され、三綱領の一つ である「止至善」の理解が促される。この第二節は、人には止まるべきところがあることを説く第一節と、何に如何にして 止まるのかを説く第三節の中間に位置し、人は止まるところを知らなければならないことを説く箇所である。

(12)

緡蠻ヲ、詩ニハ、綿蠻トナス。凡禮記ニ引タ處ノ詩書、其字異同多シ。緡蠻ノミニカキラス。綿蠻ハ、鳥ノ声也。蒙引 云、 緡 ‐ 蠻

  ノ

二 字、 義 無

  シ

取。 只

  テ

  テ

  ノ

二 ‐ 字

  ヲ

、 状

カタトル

黄 ‐ 鳥

  ノ

之 聲

  ニ

。 如

  シ

  ノ

  ヿ

喈 ‐ 喈、 鵞

  ニ

  フ

鶃 ‐ 鶃

之 類

  ノ

○ 毛 萇 詩 傳 云、 綿 ‐ 蠻

  ハ

、 小 ‐ 鳥

  ノ

貌。 正 義 曰、 緜 ‐ 蠻 ‐ 然

  ト乄

而 小

  ナル

  ハ

、 是

  レ

黄 ‐ 鳥

  ナリ

也。 又 云、 緜 ‐ 蠻

  ハ

、 文 連

  ナル

黄 ‐ 鳥

  ニ

。 黄 ‐ 鳥

  ハ

、 小 ‐ 鳥

  ナリ

。 故

  ニ

  ル

緜 ‐ 蠻

  ハ

  ナル

。 章 句 ニ ハ、 綿 蠻 ハ、 鳥 ノ 声 ナ リ ト 云。 傳 ニ ハ、 小 鳥 ノ 貌 ナ リ ト 云、 禮 記 疏 ニ モ、 微 小 ノ 貌 ト アリ、是両説也。綿蠻黄鳥ト、句ノ首ニアルユヘニ、篇ノ名トスルナリ( 『大学諺解』 (

緡蠻は黄鳥の聲也( 『大學和字抄』 (

  右 は、 『 大 学 』 伝 三 章 第 二 節 の「 詩 云、 緡 蠻 黄 鳥 」 及 び『 大 学 章 句 』 の「 緡、 詩 作 綿 ○ 詩、 小 雅 綿 蠻 之 篇。 緡 蠻、 鳥 聲 」 に対する注釈部分からの引用である。

  章句は文字の異同に関する問題をまず取り上げる。 『大學諺解』はこれに従うが、 『大學和字抄』はこの問題を取り扱わな い。 『 大 學 諺 解 』 の「 緡 蠻 ヲ 」 よ り「 緡 蠻 ノ ミ ニ カ キ ラ ス 」 へ 至 る 箇 所 は、 章 句 の「 緡、 詩 作 綿 」 を 承 け る。 こ れ は『 詩 経 』 所 収 の 詩 句

(11

と『 礼 記 』 大 学 篇 所 収 の 詩 句

(11

と の 間 に、 文 字 の 異 同 が あ る こ と を 指 摘 し て い る の で あ る。 『 詩 経 』 で は「 綿 蠻」に作り、 『礼記』では「緡蠻」に作る。朱熹もまた『詩集伝』では「綿蠻」に作 る

(11

が、 『大学章句』においては「緡蠻」 と作 る

(1(

。林羅山はこれを承け、 『大學諺解』と『大學和字抄』において「緡蠻」と作る。

熹は「綿蠻」の二字に「鳥聲」という注を加え る 「鳥聲」とする。朱熹は、鳥の鳴き声を音で表現すると「緡蠻」になるものと理解したのである。 『詩集伝』においても、朱   『 大 學 諺 解 』 の「 綿 蠻 ハ 」 以 下 と『 大 學 和 字 抄 』 の「 緡 蠻 は 」 以 下 は 語 義 の 問 題 を 取 り 扱 う。 『 大 学 章 句 』 は「 緡 蠻 」 を

(11

。林羅山はこれに従い、 『大學諺解』では「綿蠻ハ、鳥ノ声也」とし、 『大 學和字抄』では「緡蠻は黄鳥の聲也」とする。

(13)

  『大學諺解』はさらに『四書蒙引』からの引用を行う。

『四書蒙引』の当該箇所は「緡蠻」の二字を「状黄鳥之聲」と説明 す る。 『 四 書 蒙 引 』 は 章 句 を 踏 ま え、 意 味 で は な く 音 が 問 題 で あ る と、 補 足 す る。 林 羅 山 は こ れ を、 朱 熹 の 解 釈 を 理 解 す る 上で助けになると判断したために、引用しているのである。

作綿○詩、小雅綿蠻之篇。緡蠻、鳥聲」への、基本的な理解を示した。   『 大 學 諺 解 』 は『 四 書 蒙 引 』 か ら の 引 用 の 後 に 圏 を 置 く。 林 羅 山 は 圏 内 に、 伝 の「 詩 云、 緡 蠻 黄 鳥 」 及 び 章 句 の「 緡、 詩

  林 羅 山 の 解 釈 が 朱 熹 の 理 解 を 基 調 と し つ つ も、 明 代 の 書 物 を も 利 用 す る 点 は 前 節 で 指 摘 し た。 問 題 は、 『 大 學 諺 解 』 が 古 注をも視野に入れて比較検討の対象とする点である。

  自らの基本的な理解を提示した後、林羅山は『大學諺解』において古注の検討に移る。まず、林羅山は毛伝から「緜蠻、 小 鳥 貌 」 と 引 き、 詩 に お け る 新 注 に 対 す る 古 注 の 理 解 を 示 す。 毛 伝 は「 緜 蠻 」 の 二 字 を 鳥 の 容 貌 を 表 す 言 葉 と し て 理 解 す る。さらに、林羅山は孔頴達の疏を重ねて引 用

(11

して、 「緜蠻」の意味合いを限定しようと試みる。これにより、 『大學諺解』 を読む者は、詩で扱われる「黄鳥」の姿がただの小さな鳥から文采ある美しい鳥へと変わる過程を追うことが出来る。この 上 に な お、 林 羅 山 は『 礼 記 』 所 収 の 大 学 篇 を も 俎 上 へ 載 せ る。 孔 頴 達 の 疏 に は、 「 詩 云、 緡 蠻 黄 鳥、 止 于 丘 隅 者、 此 詩、 小 雅緡蠻之篇、剌幽王之詩。言緡蠻然微小之黄鳥、止在於岑蔚丘隅之處、得其所止、以言微小之臣、依託大臣、亦得其所也」 とある。林羅山はこれを踏まえ、 「禮記疏ニモ、微小ノ貌トアリ」と言及する。

  古注を検討した上で、林羅山は「是両説也」と言う。林羅山は、まず「緡蠻」の二字を鳥の鳴き声と取る章句を掲げ、こ れを『四書蒙引』によって補足した。次に、林羅山は圏外において古注を重ねて引用し、字義を限定し理解を具体的にして 行く過程を示した。

  最終的に新注に拠る点では、 『大學諺解』も『大學和字抄』も同様である。ただ、 『大學諺解』が古注を検討しているに対 し、 『大學和字抄』はこれを行わない。

(14)

  解説の繁簡

  『大學諺解』は結論に至る過程を示し、

『大學和字抄』は結論のみを述べる。次に、この差異がより明確に現われるケース を検討したい。 『大學諺解』と『大學和字抄』の『大学』伝十章第十六節に対応する箇所を比較検討する。

  テ

  ヲ

而不

クルヿ

、 擧

  テ

而 不

  ルハ

  ハ

ンスルヿ

、 命

ヲコタルナリ 

也 。 見

  テ

不‐ 善

  ヲ

而不

  ハ

退

クルヿ

、 退

  テ

而 不

  ルハ

  ハ

サクルヿ

、 過

  チナリ

也 命

  ヲ

鄭 氏

  カ

云、 當

  ニ

  ニ

。 程 子

  ノ

云、 當

  ニ

  ニ

。 未

  タ

  カ

  ヿヲ

。 遠、 去 聲 ○ 若

  キ

  ノ

モノハ

、 知

  ヲ

愛 ‐ 悪

  スル

矣。 而

  モ

  タ

  ヿ

愛 ‐ 悪

  ノ

之 道

  ヲ

。 蓋

  シ

君‐ 子

  ニ乄

而 未

  タ

  ナラ

  ナリ

也( 『大学諺解』 (

見賢而不能挙々而不能先命也見不善而不能退々而不能遠過也( 『大學和字抄』 (

伝 十 章 第 十 六 節 に は 字 義 の 説 明 に 関 す る 問 題 が あ る。 こ の 問 題 に つ い て、 『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 の 対 応 の 違 い を 窺 いたい。

或 問 云、 命

  ○ノ

之 為

タル

、 與

  ノ

タル

也、 孰

  レカ

  タル

。 曰

  ク

、 大

  ソ

疑 ‐ 義

  ハ

、 所

以 決

  スル

  ヲ

、 不

  ル

  キ

乎 義 ‐ 理、 文 ‐ 勢、 事 ‐ 證

  ノ

  ノ

  ニ

  ノ

。 今 此

  ノ

二 ‐ 字、 欲

スルトキハ

  テ

義 ‐ 理 文 勢

  ヲ

  セント

  ヲ

、 則

 

  ス

、 欲

  スルトキハ

  テ

事 證

  ヲ

  セント

  ヲ

、 則

 

  シ

  フルヿ

、 蓋

  シ

  ラ

  テ

  ク

  ム

矣、云云 命

ト 慢

ト、音相近キ故ニ、アヤマレリ。慢ハ、ヲコタルトヨメリ。カロンシユルカセニスル義ナリ。程子ハ、怠ノ字ト ナスヘシト云リ。此モタユミヲコタルナリ。二字ノウチ、何レニテモ、一决スヘキヲ、章句ニ未詳孰是ト云ヘルハ、意

(15)

ナキニアラス。ホシヒマヽニアラタメサルハ、闕疑ノ法ナリ。兩字ノウチ、イツレニテモ、クルシカラサル故ニ、兩説 ヲ 存 セ リ。 凡 ソ 朱 子 ノ 章 句 集 註 ノ ウ チ ニ、 未 詳 孰 是 ト ア ル ト コ ロ、 ヲ ロ ソ カ ニ 見 ル ヘ カ ラ ス。 皆 イ ハ レ ア ル コ ト ナ リ (『大学諺解』 (

命は慢の字のあやまり也おこたるとよめり( 『大學和字抄』 (

  この箇所には「命」字を「慢」字に取る説と「怠」字に取る説があり、いずれも「命」字に作ることを誤りとする。この 誤りの原因を、前者は字音の問題に帰し、後者は字面の問題に帰す。朱熹は『大学章句』において両者を挙げつつも態度を 保留し、 『大学或問』で再び言 及

(11

する。

  朱 熹 は こ の 問 題 を「 義 理 」「 文 勢 」「 事 證 」 の 三 点 か ら 論 じ る が、 さ ら な る 追 求 を 不 可 能 と す る。 『 大 學 諺 解 』 所 引『 大 学 或 問 』 の「 今 此 二 字 」 以 下 に あ る 通 り、 「 慢 」 字 と「 怠 」 字 の い ず れ を 取 ろ う と も 差 し 支 え は な い が、 根 拠 を 欠 く。 だ か ら こ そ、 朱 熹 は 強 引 に 結 論 を 導 こ う と は し な い。 『 大 学 或 問 』 に お い て、 朱 熹 は『 大 学 章 句 』 で「 未 詳 孰 是 」 と し た 理 由 を 丁 寧に説明したことになる。

んでみせる。 で、 林 羅 山 は「 皆 イ ハ レ ア ル コ ト ナ リ 」 と す る。 『 大 學 諺 解 』 に お い て、 林 羅 山 は 朱 熹 の 慎 重 な 態 度 を 尊 重 し、 そ の 意 を 汲 リ 」 と い う 添 え 仮 名 を 付 す。 『 大 学 或 問 』 を 用 い て 朱 熹 が『 大 学 章 句 』 に お い て「 未 詳 孰 是 」 と し た 理 由 を 述 べ、 そ の 上 「 慢 」 字 と「 怠 」 字 の 両 者 に「 ヲ コ タ ル 」 と い う 和 訓 を 当 て る。 伝 の 本 文 に つ い て も、 林 羅 山 は「 命 」 字 に「 ヲ コ タ ル ナ   『 大 學 諺 解 』 に お い て、 林 羅 山 は 朱 熹 の 態 度 を「 闕 疑 ノ 法 」 と 評 価 す る。 鄭 玄 の 説 と 程 子 の 説 を 紹 介 し た 上 で、 林 羅 山 は

  これに対して、 『大學和字抄』は「命は慢の字のあやまり也」とする。 『大學和字抄』は全く鄭玄の説に拠り、必ずしも細

(16)

か く 専 門 的 な 議 論 に わ た ら な い 解 説 を 行 う。 『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 は、 基 本 的 に は、 共 に 新 注 に 拠 る も の で あ っ た。しかし、 『大學諺解』は古注を検討の俎上に載せた。また、 『大學和字抄』は、朱熹が鄭玄の説と程子の説のいずれを取 るか明言しなかった箇所において、鄭玄の説を取った。林羅山は古注を全く捨て去りはしなかった。また、これを用いるこ ともあったのである。ただここで最も重要なのは、諺解の詳繁・和字抄の簡、という解説の差異である。学問上の態度にま で詳細に言及する諺解と結論のみを簡便に提示する和字抄の違いは、この例から十分に見てとれるであろう。

  人倫を説く

  前項の例から分かる通り、林羅山も古注を用いた。ただ『大學諺解』と『大學和字抄』では、古注への態度に関して、差 異が存在する。本説では、この差異がさらに明確な形で観察し得るケースを求め、比較検討を続けたい。

詩 云

  ニ

、 桃

  ノ

之 夭

ヨウ

‐ 夭

  タル

、 其

  ノ

葉蓁‐ 蓁

  タリ

。 之

コノ

コヽニ

トツク

、 宜

  シ

  ノ

家‐ 人

  ニ

。 宜

  フ乄

  ノ

家‐ 人

  ニ

  乄

  ニ

  シ

  テ

  フ

タミヲ

夭、 平 聲。 蓁 音 臻 ○ 詩

  ハ

周 南 桃 ‐ 夭 之 篇。 夭 ‐ 夭

  ハ

、 少

ワカク

好 貌。 蓁 ‐ 々

  ハ

、 美 ‐ 盛

  ノ

貌。 興

  ナリ

也。 之

  ノ

  ハ

、 猶

  カ

是 子

  ト

。 此

  ハ

  テ

女‐子之 嫁

  ク

  ヲ

而 言

  フ

也。婦人 謂

  テ

  ヲ

  ト

。 宜

  ハ

  ノ

也( 『大学諺解』 (

詩云桃之夭々其葉蓁々之子于歸宜其家人宜冝其家人而后可以教国人( 『大學和字抄』 (

  右は、 『大學諺解』及び『大學和字抄』の『大学章句』伝九章第六節に対応する箇所からの引用である。 『大学章句』伝九 章は斉家治国を説く箇所であり、第六節では『詩経』国風周南の「桃夭」篇を引く。

(17)

夭夭ハ、ワカヤカニウツクシキ貌ナリ、桃樹ヲサスナリ。花ヲサシテイフハ非ナリ。此詩ノ上ノ章ニ、 桃

  ノ

之夭‐ 夭

  タル

、灼 ‐ 灼

  タル

  ノ

華 ト ア レ ハ、 夭 夭 ハ、 桃 身 ヲ 指 テ 云、 花 ヲ イ フ ニ 非 ス ○ 婦 人 謂

  ヲ

  ヲ

曰 帰

  ト

ハ、 春 秋 傳 ノ 語 ナ リ。 詩 傳 ニ モ、 コ レ ヲ 引ナリ。婦人ハ夫ノ家ヲ家トスルユヘニ、夫ニユクヲ帰トイフナリ。コノ詩、六義ニオイテ、興ノ詩ナリ 此段、詩ヲ引テ云、桃ノ夭夭トワカヤカナル、ソノ葉ノ蓁蓁トサカンナルヲミレハ、男女嫁娶ノ時節ナリト興シテ、コ ノ女子コヽニトツク、必ソノ家人ニヨロシカルヘシ、ソノ家人ニ、ヨロシフシテ、以テ国人ヲ教フヘシ。コヽニ宜其家 人トカサ子テ云、上ノ宜其家人ハ、女子ヲ指シテ云、下ノ宜其家人ハ、國ヲ治ル人ヲ指シテ云ナリ。家トヽノホリテ後 ニ、國治ル義ナリ( 『大学諺解』 (

夭々はわかくかほよきかたち也蓁々はうるはしくさかんなるかたちなり桃のうつくしきを見て興して爰に女子の嫁する あり夫の家に行て妻となりて其家に冝しかるへしと云詩の意也夫婦の道冝き時は其家治る( 『大學和字抄』 (

この旨を「夭夭ハ、桃身ヲ指テ云」と簡潔に述べる。これは『四書蒙引』に拠 る   『 大 學 諺 解 』 は 先 に 語 義 の 解 説 を 行 う。 桃 夭 篇 の 夭 夭 と は 桃 の 樹 全 体 を 指 し て 言 い、 桃 の 花 を 指 す 訳 で は な い。 林 羅 山 は

(11

  続いて、 『大學諺解』には圏が置かれ、 「歸」字の訓詁が問題となる。林羅山が「婦人謂嫁曰帰ハ、春秋傳ノ語ナリ。詩傳 ニ モ、 コ レ ヲ 引 ナ リ 」 と 指 摘 す る 通 り、 「 婦 人 謂 嫁 曰 帰 」 は『 詩 集 伝 』 の 桃 夭 篇 に 見 え

(11

、 古 く は『 春 秋 公 羊 伝 』 や『 春 秋 穀 梁伝』の隠公二年に記述が見え る

(11

  こ の 後 に、 『 大 學 諺 解 』 は 段 落 を 変 え て 第 六 節 を 訳 し て み せ る。 併 せ て「 宜 其 家 」 と い う 表 現 が 二 回 続 く 点 に 触 れ る。 こ れによれば、最初の「宜其家」は主語が「女子」であり、二度目の主語は「國ヲ治ル人」である。

  この第六節では、 『大學諺解』は古注と新注を比較しないが、細かな問題についての注意点を述べる。

(18)

  一 方、 『 大 學 和 字 抄 』 は「 夭 々 は わ か く か ほ よ き か た ち 也 」 や「 爰 に 女 子 の 嫁 す る あ り 」 と す る。 こ れ も「 夭 夭、 少 好 貌」や「婦人謂嫁曰帰」という朱熹章句を踏まえる。

○ 人 倫 ノ 内、 貴 キ ハ 君 父 也 ト イ ヘ ト モ〈 男 女 ア リ テ 後、 父 子 ア リ、 君 臣 ア レ ハ、 男 女 ヲ 人 倫 ノ 本 ト ス。 〉 ソ ノ ウ ヘ 室 家 閨門ノ内、心安ク思テ、ユタンスル時ハ、政乱テ家トヽノホラス。愛ニオホレテ、妾ヲ以テ妻トシ、嫡子ヲステヽ、庶 子 ヲ 立 テ、 或 ハ 婦 姑 勃 磎 シ、 或 ハ 夫 妻 仄

ソハム

  ヲ

、 如 何 ソ 家 ヲ ト ヽ ノ ヘ ン ヤ。 故 ニ、 易 ハ、 乾 坤 ニ 始 リ、 詩 ハ 関 雎 ニ 始 リ、 礼 ハ 昏 義 ヲ シ ル シ、 書 ハ 釐 降 ヲ 載 ス。 皆 コ ノ 教 ヘ ヲ 示 セ リ。 毛 傳 曰、 夫 婦 有

ルトキハ

別、 則 父 ‐ 子 親

  ム

。 父 ‐ 子 親

  ムトキハ

則 君 ‐ 臣 敬。君臣 敬

スルトキハ

則朝廷 正

タヽシ

。朝廷 正

シトキハ

則王‐化成ルトアリ、是関雎ノ義ナリ( 『大学諺解』 (

夫 婦 あ り て 父 子 あ り 故 に 男 女 は 人 倫 の 本 也 此 道 正 し け れ は 一 国 の 夫 婦 の 法 の 教 と な り て 乱 る ゝ 事 な し 君 主 に つ ひ て い はゝ夫婦正しけれは父子したしむ父子したしけれは君臣に礼あり君臣に礼あれは朝廷正し朝廷正しけれは国も天下も治 るなり( 『大學和字抄』 (

  山 括 弧 内 に 示 し た の は 行 間 の 書 き 込 み で あ る。 『 大 學 諺 解 』 は 圏 を 置 き、 そ の 後 に『 易 経 』 序 卦 伝 の 下 篇

(11

を 踏 ま え、 あ る べき社会秩序を説く。この社会秩序において、林羅山は君臣関係と父子関係を最も重要なものとして位置付ける一方、男女 ( 夫 婦 ( 関 係 を 君 臣 関 係 と 父 子 関 係 を 乱 す 原 因 と み な す。 『 易 経 』 か ら の 引 用 の 後、 『 荘 子 』 な ど か ら 引 用

(11

を 行 い つ つ、 警 戒 すべき事例を挙げる。さらに、林羅山は経書を根拠にして、自らの主張を正当化する。 「易」が乾卦と坤卦を首とし、 「詩」 が関雎の詩より始まり、 「礼」は昏儀を記 し

(11

、「書」は堯典の末に娥皇と女英が舜へ嫁した逸話を載せる。林羅山は夫婦関係 を人倫の基本とした経書を列挙し、最後に「関雎」篇第一章第一句に附された毛伝で締めくく る

(1(

(19)

である。ただ藤原惺窩のみが、 『大学』の当該箇所において、 『大學諺解』とよく似た論調で人倫について論じ る 学 或 問 』 あ る い は、 『 大 學 諺 解 』 で 用 い ら れ る 明 代 の 諸 書 で は 行 わ れ な い。 一 条 兼 良 や 清 原 宣 賢 の『 大 学 』 注 釈 書 で も 同 様   『 大 學 諺 解 』 の 当 該 箇 所 に お い て、 林 羅 山 は 古 注 を 用 い て 人 倫 の 問 題 に 言 及 す る。 こ の よ う な 議 論 は『 大 学 章 句 』 や『 大

(11

  すでに検討した伝三章においては、林羅山は新注に拠ることを前提とした上で古注をも参照するという方針を採った。し かし、ここでは古注に重点を置いて議論が展開する。

とは言えまい。 も「 大 学 」 を 読 む 上 で 心 得 て お く べ き 予 備 知 識 と し て 言 及 さ れ た も の と 理 解 出 来 る。 し か し、 『 大 學 和 字 抄 』 の 場 合 は そ う   『 大 學 諺 解 』 は 圏 を 置 い た 上 で こ の 問 題 に つ い て 論 じ て い る。 大 学 八 条 目 に お け る「 斉 家 」 理 解 の 基 本 と し て、 こ の 議 論

  『大學和字抄』の「夫婦ありて父子あり」より「乱るゝ事なし」に至る箇所は序卦伝に拠る。また、

「夫婦正しけれは」よ り「天下も治るなり」に至る箇所は、字句を改変している部分もあるが、毛伝を踏襲している。 『大學和字抄』には、 『大學 諺解』の人倫に関する議論が省略して記されている。

  この議論が「夫婦の道冝き時は其家治る」という伝九章第六節の内容を総括した句から途切れずに続くのである。この点 に「君主につひていはゝ」という文言と徳川将軍家へ献上するために著された『大學和字抄』の性格を加味すると、この部 分 も 本 文 の 一 部 と 見 な さ ね ば な ら な い。 つ ま り、 『 大 學 諺 解 』 の 場 合 の よ う な 専 門 家 が 踏 ま え て お く べ き 予 備 知 識 と し て で はなく、 『大學和字抄』は『大学章句』の解説の一部分として古注を用いるのである。

  比 較 検 討 の 結 果、 『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 は 共 に 古 注 を 利 用 し て お り、 特 に『 大 學 和 字 抄 』 は 章 句 の 解 説 内 容 に 直 結する形で古注を利用して人倫の問題に言及していることが明らかとなった。他にもこのような事例は存在するのであろう か。最後に、 「大学」経の止至善に関する箇所を材料として比較検討を行う。

(20)

大 學

  ノ

之 道

  ハ

、 在

  リ

ニスルニ

明‐ 德

  ヲ

、 在

  リ

アラタニスルニ

  ヲ

、 在

  リ

  ルニ

於至 善

  ニ

(『大学諺解』 (

大学之道在明明徳在親民在止於至善( 『大學和字抄』 (

  右 は『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 の「 大 学 」 経 本 文 で あ る。 繰 り 返 し 述 べ た 通 り、 『 大 學 諺 解 』 は 本 文 が 加 点 さ れ て お り、また、朱熹章句が附される。

  トハ

者、 必 至

  テ

於 是

  ニ

  乄

遷 之 意。 至 ‐ 善

  ハ

、 則 事 理 當

  ル

之 極 也。 言

  ハ

  ニシ

明 德

  ヲ

、 新

  スル

  ヲ

、 皆 當

  ニ

  テ

於 至 ‐ 善 之 地

  ニ

而 不

  ル

  ラ

。 蓋

  シ

  レ

  テ

以 盡

  ヿ

カノ

天‐ 理

  ノ

之 極

  ヲ

、而 無

  シ

一‐毫人‐ 欲

  ノ

之 私

  シ

也。 此

  ノ

  ノ

  ハ

、大‐ 學

  ノ

之綱‐ 領

  ナリ

也( 『大学諺解』 (

  右は『大學諺解』に附された朱熹章句である。当該箇所の章句は長く、それに対応して『大學諺解』と『大學和字抄』の 解説も長大となる。したがって、本稿では論旨に関わる箇所のみを引用するに留める。

止トハ、コヽニ至テ、ウツラサルノ意ナリ。至善ハ、事物ノコトハリノヲノツカラシカルベキトコロノ至極ナリ。総ノ 理ハ善ナリ。毛从ハカリモ悪ナシ。故ニ理ヲ名ツケテ、至善トス。善ノ至ハ、即理ノ極所也。オノレカ明德ヲ明カニス ルモ、民ヲアラタニスルモ、皆至善ノ極所ニ止テ、ウツルヘカラス。德ヲ明カニスルモ、十分ノ道理ヲ盡スヲ、至善ニ 止ルト云ナリ。コヽニ至テ、オノツカラ過不及ノタカヒナシ。カクノコトクナレハ、必ス天理ノ至極ヲ盡乄、一毫人欲 ノ私ナキナリ。此至善ハ、即チ中庸ノ中ナリ。呉季子曰、至‐精至‐當、 盡

  シ

善 盡

  スノ

美之域、毫‐ 髪

  モ

  ル

  カラ

  テ

而 加

  フ

  ノ

、 聖‐門 无

  シ

  テ

形‐

スルヿ

  ヲ

。 姑

シハラク

シイテ

  テ

  フ

至‐ 善

  ト

(『大学諺解』 (

(21)

明徳を明にするも民を新にするもおのつからさたまれる道理あるを至善と云也およそ理と云ものは至極の善にてけのは しはかりもあしき事なしゝかるかゆへに理の異名を至善と云也義理の微妙にはなはたふかききはめは名つけていひかた き事なるほとにしはらく至善と云名を立て人にしめすなり君としては仁にとゝまり臣としては敬にとゝまり王としては 孝にとゝまり父としては慈にとゝまり朋友としては信にとゝまり兄弟としては友情にとゝまり夫婦としては和順にとゝ まるかなとやうのたくひを至善にとゝまるとは云也止と云はこゝにいたりてうつらさる義也( 『大學和字抄』 (

  右 は 当 該 箇 所 に 対 す る『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 の 解 説 で あ る。 『 大 學 諺 解 』 と『 大 學 和 字 抄 』 が 朱 熹 の 章 句 に 拠 り つ つ も、 『 四 書 大 全 』 を 利 用 し て い る 点 は 共 通 す る。 し か し、 『 大 學 和 字 抄 』 が 人 倫 の 問 題 に 言 及 す る 点 は、 『 大 學 諺 解 』 と 異 な る。 『 大 學 和 字 抄 』 に お い て、 林 羅 山 は 経 と 伝 の 関 係 を 踏 ま え、 伝 の 内 容 と 関 連 付 け て 解 説 を 行 う。 林 羅 山 が こ こ で 人 倫 の 問 題 に 言 及 す る の は、 「 止 至 善 」 を 扱 う 伝 三 章 と 経 を 関 連 付 け る た め で あ る。 右 で 引 用 し た『 大 學 和 字 抄 』 の 解 説 と 関 係があるのは、伝三章第三節である。

  また『大学』伝三章第三節では、 『詩経』大雅「文王」篇から詩句が引用される。 「為人君止於仁」以下では、引用した詩 句の解説という体で、三綱領の一つである「止至善」の「止」字の内容が説かれる。この第三節は、人には止まるべきとこ ろがあることを説く第一節、人は止まるところを知らなければならないことを説く第二節を承け、何に如何にして止まるの かを説く箇所である。ここでは便宜上『大學和字抄』を先に引用する。

文王の政は民飢寒の憂なし是君として仁に止なり殷の紂につかへて礼をうしなはす是臣として敬に止る也文王の父を王 季と云それにつかへて能やしなふこれ子として孝に止る也武王周公は文王の子也是をよくなしへて父子兄弟皆聖人也是 父として慈に止る也文王国をおさめ位にありし時太公望伯夷叔斎等來りしたかひ虞芮の訴もやむ是国人と交る時信に止

(22)

る也人倫におゐては君臣父子国人これその大なるものなり事におひて仁敬孝慈信是その大なるもの也其至徳にいたるを 止ると云なり( 『大學和字抄』 (

引此而言、聖人之止、無非至善トハ、文王ノ詩ヲ引テ云、聖人ノ止ルトコロ、コトくク至善ニ乄、ヨク知リ、ヨク得ル ナリ。オノツカラヨク止ルユヘニ、安所止ト云ナリ。文王ハ聖人ナリ、故ニ章句ニ、聖人之止ト云テ、文王之止トイハ ス○五者、乃其目之大者也トハ、止仁止、敬止、孝止、慈、止信、合テ五ツナリ。人倫ニオイテハ、君、臣、父、子、 國人、コレソノ大ナルモノナリ。事ニオイテハ、仁、敬、孝、慈、信、コレソノ大ナルモノナリ。目ハ、條件ナリ、事 物ノ條目ヲ云ナリ。皆是其止ル所ノ大ナルモノナリ 究 其 精 微 之 蘊 ト ハ、 眞 西 山 曰、 理

  ノ

之 淺 ‐ 近

  ナル

  ロハ

、 易

  シ

見、 而

  乄

精 ‐ 微

  ノ

  ハ

  シ

知、 若

  シ

只 得

  ハ

  ノ

皮 ‐ 膚

  ヲ

、 便

  チ

  テ

ルヲ  

  ナラ

、 為

  シ

  テニ

  ナリト

、 須

  シ  

窮 究 至

  メ  テ  ル

‐ 微 處 。 東 陽 許 氏 曰、 精 是 明 ‐ 白 之 至 ‐ 理、 指 五 ‐ 事 而 言 、 微 是 五 事 中

  ノ  ニ  ハ  レ  ノ  乄  ヲ  フ  ハ  レ  ノ  チノ

セン

シツ

  ノ

  ト

、 及

  ヒ

  ノ

事 之 間

  タ

、 曲‐折隱‐ 微

  ノ

  ナリ

。イフ意ハ、 仁ヲシ、 敬ヲヲストモ、 一二分ノ者アリ、 三四分、 五六分ノモノアリ、 コレヲハ、 タヽ仁ト云ヘシ、敬ト云ヘシ。仁ニ止リ、敬ニ止ルト云ヘカラス。十分ノ仁ヲシ、十分ノ敬ヲスルヲ、仁ニ止リ、敬ニ 止 ル ト 云 ヘ シ、 コ レ 至 善 ノ 仁 敬 ナ リ。 若 シ カ ス ン ハ、 善 ト ハ 云 ヘ シ、 至 善 ト ハ イ ヒ カ タ シ。 孝、 慈、 信、 モ、 又 シ カ リ。又仁ハ、人ヲ愛ストハカリシリ、敬ハ人ヲウヤマフトハカリシルハ、精微ニアラス。人ヲ愛スルウチニモ、人ヲ敬 ス ル ウ チ ニ モ、 淺 深 ア リ、 厚 薄 ア リ、 精 粗 ア リ。 人 人 タ レ モ シ ヤ ス キ ハ、 浅 シ、 ア ラ シ、 其 深 ク ク ワ シ ク 微 妙 ノ 蘊 奥 ハ、人人ノシリカタキトコロナリ。學者コヽニオイテ、其深キ蘊奥ヲ窮メヨト云ナリ、又類ヲ推テ、其餘ヲ盡ストハ、 コ ヽ ニ、 君 仁、 臣 敬、 子 孝、 父 慈、 國 人 信 ト ア リ。 此 例 ヲ 以 テ イ ハ ヽ、 其 餘 ニ、 夫 婦 兄 弟 ア リ。 夫

  ハ

  リ

於 義

  ニ

、 婦

  ハ

  リ

於 順

  ニ

、 兄

  ハ

  リ

於 友

  ニ

、 弟

  ハ

  ル

於 恭

  ニ

ト イ フ ヘ キ 類 ヒ ナ リ。 又 天 下 ノ 萬 物 萬 事 ヲ、 推 テ 見 レ ハ、 各 至 善 ノ 在 ト コ ロ ア リ、 コ レ ヲ シ リ テ、 止 ル ト キ ハ、 何 ノ ウ タ カ ヒ カ ア ラ ン ヤ ○ 新 安 陳 氏 曰、 學 ‐ 者 於

  ト云

  ニ

以 ‐ 下

  ハ

、 乃

朱 子 推

  シ

‐ 廣

  ム

傳 ‐ 文 言 ‐ 外

  ノ

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