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一九四五年以降の北東アジアと教会 : 日本国憲法との関わ りからAuthor(s)
松本, 周Citation
聖学院大学総合研究所紀要, No.55 別冊, 2013.3 : 65-84URL
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一 九 四 五 年 以 降 の 北 東 ア ジ ア と 教 会 ︱ ︱ 日 本 国 憲 法 と の 関 わ り か ら
松 本 周
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.はじめに︱︱視座と目的 本共同研究は︑二〇一〇年の﹁併合一〇〇年﹂を期して開始され︑研究時期を区分した三カ年の研究として計画された︒研究内容としては︑二〇一〇年が先行研究の確認および一九一〇年以前の日韓キリスト教会について︑二〇一一年は﹁三・一独立運動と民族自決主義﹂を主題として一九一〇年代の韓日教会についての研究発表がなされた︒そして二〇一二年度﹁一九四五年以降両国のデモクラシー憲法とキリスト教会﹂を主題とし︑第二次世界大戦以降の現代史を取り扱って︑本研究プロジェクトは終結する︒二〇一一年︑長老会神学大学校での本共同研究シンポジウムの講演においては︑Lib er al D em oc ra cy
を鍵語とし︑一九一〇年代の世界動向と日韓両国教会を分析した︒それは以下のような︑本共同研究の提案趣旨が念頭にあったからである︒﹁日韓のキリスト教史を一九一〇年を起点に︑日韓関係の未来に向けて前向きに捉えなおす︒北朝鮮︑中国を視野に入れ︑北東アジアのキリスト教会の交流と協力の基礎を築く︒また研究の基礎に第二次世界大戦後に制定された日韓両国の憲法研究を置く﹂︒そこで︑両国憲法が共有するLib er al D em oc ra cy
の理念が︑いかなる歴史的動向を通して一九四五年以後の両国の基礎構造︵
C on sti tu tio n
︶に採用されたのか︒D em oc ra tiz ati on
の歴史動向との関係から︑一九一〇年代を捉えた︒そして本稿では︑時代的に一九四五年以降を対象とし︑憲法とキリスト教会との関係を︑神学的観点から扱うこととする︒一九四五年八月一五日は北東アジアの歴史にとって︑決定的な日となった︒それは天皇の﹁玉音放送﹂による日本の無条件降伏の日である︒同時に韓国にとって︑また日本の帝国支配を受けた諸国にとっての﹁光復﹂の日であった︒﹁ここから︑そしてこの日から︑世界史の新たな時代が始まるが一九四五年八月一五日以前と以後における日本の基礎構造の変化である か︑﹁日本︵国︶﹂である︒この呼称変更の根拠は憲法の相違にある︒﹁大日本帝国憲法﹂から﹁日本国憲法﹂へ︑それ この日以前の日本はしばしば﹁帝国日本﹂﹁日帝﹂と称される︒では一九四五年八月一五日以降は何と呼ばれるべき まった︒ なる意味で︑一九四五年八月一五日が北東アジアの歴史におけるそれ以前とそれ以後を決定的に分け︑新しい歴史が始
Jo ha nn W olf ga ng v on G oe th e
﹂︵︶︑ゲーテの理解とは異 1社会と教会を理解するにあたり︑日本国憲法に着眼して分析を進めることになる︒ ︒したがって本稿では一九四五年以降の日本 2
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.一九四五年八月一五日以後の社会状況﹁問題は基本的には神学的なもの﹂であると︑日本の降伏文書調印式に際し︑連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは演説した︒彼は何を神学的問題として捉えたのか︑発言内容を以下に記してみたい︒
人類は創世記以来︑常に平和を求めてきた︒国家間の紛争を防止し︑解決するための国際的機構を作ろうという試みが︑各時代を通じていろいろな形で行われてきた︒そもそものはじめから︑市民各個人の間ではそういった有効な手段が作り出されたが︑もっと大きい国際的な規模での機構はまだ一度も成功したことがない︒軍事同盟も︑勢力均衡も︑国際的な連盟組織もすべて失敗に終り︑結果はにがい戦争の試練によるほかはなかった︒この戦争は︑そのような試練に訴える最後の機会だった︒いまわれわれが何かもっと大きい︑もっと公正な制度を見出さなければ︑アルマゲドン︵世界最後の決戦︶に踏み込んでしまうだろう︒この問題は基本的には神学的なものであって︑われわれがおさめてきた科学︑芸術︑文学のほとんど比類のない進歩︑さらには過去二千年のあらゆる物質的︑文化的進歩と並行して︑精神の再復興と人類の性格改善が行われなければならない
︒ 3
この表現から明白に読み取れるのは︑世界平和達成の制度化こそが︑マッカーサーの﹁神学的﹂問題意識であったことである︒その意味では︑本稿もまた神学的問題意識をもって貫かれている︒一九四五年以降の北東アジアの問題を考察する場合︑三度目そして核兵器による世界大戦を招来しないための﹁世界平和﹂の希求と︑憲法の根本理念である﹁デモクラシー﹂の深化への実践がふまえられねばならない︒そしてこの問題に取り組むことは︑本稿全体で述べるように︑﹁神学的﹂な考察を要請するのである︒一九四五年以降の日本を理解するにあたり﹁平和﹂と﹁民主主義﹂の二つの鍵語に注目すべきことについては︑日本現代史の研究者ジョン・
W
・ダワー富んでいることは明らかである も︑﹁歴史としての戦後日本を振り返る場合には︑この二つの言葉が非常に示唆に 4
﹂と指摘する︒民主主義と平和主義︑この両者はいずれも日本国憲法の制定によって日 5
本にもたらされた︒導入の歴史的経緯において共通する両者であるが︑この先の論述で確認するように︑日本国憲法と教会の関係において︑しばしば両者は複雑に絡み合った様相を呈することとなった︒次節以下で具体的に︑民主主義と平和主義との関係を考察するにあたり︑当時の日本社会における精神状況を考慮に入れる必要がある︒その点で︑注目すべき二つの思想潮流が存在したことを確認しておきたい︒一つは当時の共産党への好意的な評価であり︑それによるマルクシズムの伸張である︒﹁敗戦直後においては︑この﹃獄中非転向﹄という事実が︑現在からは想像できないほどの尊敬を勝ちえていた︒なぜなら︑為政者や知識人のほとんどが戦中戦後に転向をくりかえし︑多くの人びとが戦中の自分に悔恨を感じていた状況下で︑これら共産党幹部だけが戦争反対をつらぬ
れた国際基督教大学へ客員教授として迎えられたスイスの神学者エーミル・ブルンナーは次のように述べた︒ 心とした占領国の宗教︑自由と民主主義をもたらす宗教として歓迎された︒このことについて︑敗戦後の日本に創設さ もう一つ︑戦争直後の日本社会において︑社会的注目を受けた集団はキリスト教会であった︒こちらはアメリカを中 ﹂いたことが背景となって︑共産主義思想が︑心情的に一定の評価を受けていた︒ 6
米国憲法は﹃全ての人は平等かつ自由なものとして創られている﹄という文章で始まっています︒すなわち平等かつ自由というこの二つの言葉が見られるのであります︒このアメリカ憲法こそ最初の近代的︑民主主義的憲法であった﹂︑﹁歴史の流れを振り返ってみるとき︑私どもは民主主義への推進力というものがカルヴァン派新教運動︵プロテスタンティズム︶から由来しているといえる﹂︑﹁歴史家として﹃日本にはどのようにして民主主義が存在するようになったか﹄を尋ねるとき︑私どもは民主主義は西洋から輸入されたと告白せねばならないのであります︒そしてこのことは特に現在皆さんがお持ちの民主的な日本国憲法について当っているのであります︒皆さんすべてがご承知のようにこの新しい民主的な憲法は占領しておりましたア
メリカの影響の下に作られた
︒ 7
ブルンナーは近代デモクラシー形成の歴史的経緯と一九四五年以後日本の関係を憲法の線で明示した︒敗戦後の日本にあって︑キリスト教は︑欧米文化の精神的基盤と解され︑民衆から好意を寄せられ︑それに伴い﹁キリスト教ブーム﹂が生起した︒キリスト教とマルクス主義︑この二つが一九四五年以後に人心を捉えた︑新しい精神的潮流であった︒そして双方を折衷して受容しようとする試みもなされ︑もっとも代表的なものは一九四九年の﹁赤岩栄の日本共産党入党決意表明問題
いいではないか だ︑科学的な真理と福音の真理とは次元が違う︑だから次元の違う真理に対しては︑二つとも真理として受け取ったら 信仰︑信仰に促された社会的な実践は社会的な実践︑社会的な実践を考える場合に︑コンミュニズムこそ科学的な真理 カール・バルト︑片方はカール・マルクスをとって自分のものとし︑二つのものの両立を主張したわけです⁝⁝信仰は ﹂として現れた︒こうした言動に至った赤岩の内的論理について︑クリスチャン社会科学者の隅谷三喜男は﹁一方は 8
見出されるものである︒この点は︑後に考察するように︑日本人キリスト者の憲法理解にも影響を及ぼしている︒ はキリスト教に依拠しつつ︑社会実践はマルクシズムを援用する姿勢は︑赤岩個人にとどまらず︑多くのキリスト者に ﹂と考えたのだと解説している︒このような信仰と社会倫理の二元論的思考法︑すなわち内面的信仰心 9
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.デモクラシー憲法と日本国憲法九条まず︑本節の議論に関係する主な歴史事項について︑年代順に記載する︒
一九四六年一一月三日日本国憲法公布一九四七年五月三日日本国憲法施行一九四八年ソ連によるベルリン封鎖︑ベルリンの壁設置一九五〇年六月朝鮮戦争︵六・二五動乱︶勃発アメリカによる日本再軍備への政策転換始まる一九五一年警察予備隊が発足一九五一年九月八日サンフランシスコ講和会議︵
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による日本占領が終了︶世界情勢下にあって冷戦対立構造の影響を避けることはできず︑自由主義諸国のみとの平和条約調
印となった︒なおキリスト教との関連では︑東京大学総長で無教会信者であった南原繁がソ連はじ
め共産主義諸国をも含む全面講和を主張し︑当時の首相吉田茂から﹁南原東大総長がアメリカで全
面講和を叫んだが︑これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒で学者の空論に過ぎない
﹂と激しく批判 10
された︒サンフランシスコ講和会議では平和条約と共に日米安全保障条約が締結され︑それに基づ
いて米軍駐留及び日本による基地提供等が占領終結後も継続されることとなった︒この条約は冷戦
構造において自由主義陣営の安全保障圏内に日本が自己を位置づけることと解された︒一九五四年︵警察予備隊︑保安隊を経て︶自衛隊改組発足一九六〇年日米安保条約改定反対運動国会周辺のデモ参加者と警官隊との衝突により死亡者一九六二年日本基督教団﹁憲法擁護に関する声明﹂発表