退行と倒錯
著者 小谷 敏
雑誌名 人間関係学研究 : 社会学社会心理学人間福祉学 : 大妻女子大学人間関係学部紀要
巻 22
ページ 19‑33
発行年 2021‑02‑12
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00006956/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
小谷 敏
* Satoshi KOTANI<キーワード>
丸山眞男,「であることとすること」,クローニーポリティクス,忖度,上級国民,自発的隷従,明仁
<要 約>
丸山眞男の「「であること」と「すること」」というエッセイは,発表から
60年近くの時間 が過ぎた現在もなお,広く読み継がれている。丸山がこの小論の中で,政治の領域において「で ある価値・意識」が居座る状況を厳しく批判していた。近年の日本では,「である価値」の居 座りは,丸山の時代より,一層強固なものになったかにみえる。第二次安倍政権下においては,
首相の「お友だち」や「お気に入り」 「である」人たちが不当に優遇されていた。「クローニー ポリティクス」(お友だち優遇政治)の中で,公文書の改竄や廃棄等の,行政プロセスが歪め られる事態が生じていた。丸山が指摘した,プロの政治家ではない人間が政治的発言を行っ た際に,激しい指弾に晒される状況も,現在では一層過酷なものになってしまっている。丸 山が危惧した,「する価値」から守られなければならない領域への「する価値」の浸透という
「価値の倒錯」もさらに深刻化している。政治家たちが,「すること」のできない人間には生 きる価値がないと,公然と語る時代になってきた。日本政治の退行と荒廃が進む一方で,意 外な人物が,丸山の問題提起を真剣にうけとめた痕跡がある。現上皇明仁である。彼は日本 国憲法に定められた天皇の地位を,激戦地や被災地を巡り歩き,国民をだれ一人切り捨てな いという姿勢を示す「象徴的行為」(すること)を通して,確たるものとしようと奮闘してい た。
*
大妻女子大学 人間関係学科 社会学専攻 教授
「すること」から「であること」へ
―日本政治の退行と倒錯―
From ‘‘To Do” to “To Be”
― Regression and Prevention of Japanese politics ―
はじめに
丸山眞男が,戦後日本を代表する思想家の一人 であることに,異を唱える者はいないであろう。
また丸山の著作の中でもっとも広く,そして長く 読まれて来たのが,『日本の思想』に収められた
「『であること』と『すること』」という短いエッ セイであることに異論を唱える者もいないはずで ある。
「生まれ」を重視する帰属主義から,その人の 達成した仕事を重視する業績主義への,近代化が もたらした推移という社会科学的な命題を,「で あること」と「すること」という平易な日常用語 に置き換えて分かりやすく解説し,それを通して 日本社会の歪みを剔抉したこの小論は,
21世紀の 今日においてもなお,読み継がれている
(1)。現在 も高校現代国語の教科書に,このエッセイは掲載 されており,筆者の授業でこのエッセイにふれる と,「権利の上に眠る者,ですね」と応じる学生 も少なくない。
このエッセイが読み継がれている理由として,
難解な丸山の著作の中で,本作が例外的に読みや すいということがまず挙げられる。同じ丸山の代 表的な論文でも,たとえば「超国家主義の論理と 心理」を読み通すことは,高校生はおろか,現在 の学部学生には困難であろう。そして残念ながら,
次の理由を指摘せざるを得ない。半世紀も前に丸 山がこのエッセイの中で指摘した日本社会の病理 は,21 世紀の現在においてもなお,過去のものと はなっていない。ここでは,このエッセイの論旨 をたどりながら,執拗に生き続ける日本政治の病 理を考察してみたいと思う。
1.「であること」と「すること」を読む
(1)「権利の上に眠る者」
かつて東京帝大法学部の民法の授業で,末広厳 太郎が時効の概念を説明した際,「権利の上に眠 る者」ということばを遣ったことは,丸山に強い 印象を与えている。権利を行使して時効を中断し なければ,債権そのものを失ってしまう。これは
民法の法理以上の意味をもつと丸山は言う。憲法 第
12条には,「この憲法が国民に保障する自由お よび権利は,国民の不断の努力によって保持しな ければならない」(丸山
1961:
171)と記されてい る。ここには時効についての考え方と同じ精神が みられる。日々自由になろうと「する」ことによっ て,はじめて人は自由「である」ことができる。
それがこの条項の説くところだと丸山は言う。
人間関係や制度を検証する二つの極として, 「で ある」ことと「すること」があると丸山は言う。
近代は「である」論理・意識から「する」論理・
意識への重点移動が行われた時代である。「身分 社会を打破し,概念実在論を唯名論に転回させ,
あらゆるドグマを実験のふるいにかけ,政治・経 済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用 していた権威にたいして,現実的な機能と効用を
「問う」近代精神のダイナミズムは,まさに右の ような「である」論理・「である価値」から「す る論理」・「する価値」への相対的な重点の移動に よって生まれたものです」(丸山
1961:
174)。も ちろん家族や民族集団のように,「すること」の 論理に支配されてはならない領域は存在する。し かしこの二つの軸は,その国の実質的な民主化の 度合いや,制度と思考習慣とのずれをはかる指標 ともなる。「であることと」と「すること」とい う補助線を用いて社会について考えてみること は,「…たとえばある面でははなはだしく非近代 的でありながら,他の面ではまたおそろしく過近 代的でもある現代日本の問題を,反省する手掛か りにもなるのではないでしょうか」(同)。
(2)封建制度とその残滓
日本社会は
300年にわたる江戸時代の封建制度 を経験している。江戸時代には,出生,家柄,身分,
等々現実の行動で変えることのできない「である」
価値が大きな力をもっていた。江戸期においては,
武士は武士「らしく」,町人は町人「らしく」振 る舞うことが道徳の根幹をなしていたのである。
「権利のための闘争」どころか,「各人がそれぞれ
示された分に安んじることが,こうした社会の秩
序維持にとって,生命的な要求になってきます」
(丸山
1961:
176)。
徳川幕府の公定イデオロギーは儒教であった。
儒教道徳は,まさに「である」価値を具現化して いた。君臣,父子,夫婦,兄弟,朋友…。儒教が「五 倫」として示したもののなかで,水平的な関係は,
最後の朋友だけである。「五倫」はいずれも,身 内の人間関係にかかわるものであって,アカの他 人同士のモラルが,儒教道徳の中で発達すること はなかった。「アカの他人との関係を規定する規 範こそが,パブリックな道徳なのですが,異質な 人間同士の交わる機会が極めて限られていたこの 時代には,パブリックな道徳が要請されることも なかったのです(丸山
1961:176-7)。様々な機能集団による複雑な分業によって成り 立っている現代社会において,組織のリーダーの 地位は,彼が仕事をする能力に由来している。ア メリカ映画では,職場の上司と部下が,仕事を終 えると対等な友人のように振る舞い始める場面が よく描かれている。これに対して日本では,職場 の上下関係がプライベートにも浸潤してくる。こ れなどは長い封建時代を経験した日本人の中に,
機能的な関係を身分関係のようにとらえる「であ る」価値がしみついていることの証左である,と 丸山は言う。
(3)日本政治の後進性
「である」価値が頑強に居座る日本社会ではあっ ても,経済の領域においては,一番早く「する」
価値が浸透していったと丸山は言う。経済の領域 においては,達成の度合いが客観的な数値によっ て示されるからだろうか。丸山のみるところ, 「す る」価値がもっとも執拗に居座り続けているのが,
政治の世界である。
政治家の価値が,人民にどれだけ奉仕したのか で測られ,また人民の側も権力の乱用を不断に監 視するのが民主主義社会である。ところが,いま 現在何をしているのかではなく,「ただコネとか 資金の関係で,また長く支配的な地位についてい たとか,過去に功績があったとかいうことで,政 治的地位を保っている指導者が大は一国の政治家 から,小は村のボスまで,右は自民党から左は共
産党まで,どんなにうようようしていることか」
(丸山
1961:183)。政治の世界に「である」価値が居座っていることの証左としてまず丸山があげ るのは,よい仕事を「する」からではなく,有力 者で「ある」ことによって権力を保持する政治家 の多さである。
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』や歌舞伎におい ては,悪人は必ず悪をなし,善人は必ず善をなす ものとされていた。善きものからは善が,悪しき ものからは悪が流出してくる。勧善懲悪イデオロ ギーは,「である」価値が社会の隅々にまで浸透 していた時代の産物である。
しかし,こうした制度の建て前だけから物事を 判断する思考様式は,このエッセイが書かれた時 点(
1961年)においてもなお,政治的立場の如何 を問わず強く残っていた。左派は,社会主義国が 誤るはずがないと考えていたが故に,スターリン の重ねた様々な悪行に気がつかなかった。反共主 義者たちは,共産主義は悪と考えているが故に,
そのイデオロギーのもつ進歩的人道的側面を評価 することができなかったのである(丸山
1961:184-5
)。「である」価値の政治領域における居座り
の第二の証左として丸山のあげるのが,制度の建 て前だけから物事を判断するこうした思考様式で ある。
理想状態を神聖視する思考様式もまた,「であ る」価値・意識と密接な関係がある。市民による 激しい直接行動は,「日本は民主主義の国である 以上,この秩序を破壊する行動は…」等のことば によって強い非難に晒される。「民主主義」や「議 会政治」は神聖視され,それを疑問視し,異を唱 えるような言説や行動は最初から排除されてしま うのである。丸山は言う。「およそタブーによっ て民主主義を護持しようとするほどこっけいな倒 錯はありません。タブーによって秩序を維持する のは,あらゆる部族社会―「である」社会の原型
―の本質的な特徴に他ならないのです」(丸山
1961:
188)。
文化人が「政治活動」を行うと,それは強い非
難の的となる。文化人は文化に関わる事柄にのみ
専念すべきだ。こうした思考様式もまた,封建制
度のもつ「らしく」の論理の残滓である。職業政 治家だけではなく,様々な立場の人たちが政治に 関与していくのが民主主義的な社会である。しか し,残存する「らしく」の文化によって,「政治 は政界の専有物になり,それ以外の広い社会の場 で,政治家以外の人によって行われる政治活動は 本来の分限を超えた「暴力」のようにみなされる ようになる。(略)どうして学問や芸術といった それじたい非政治的な動機から発するいやいやな がらの政治的活動があってはいけないのでしょう か」(丸山
1961:
190-2)。
(4)価値の倒錯を超えて
急激な日本の近代化は,次のような歪みをもた らした。丸山は言う。「日本の近代化の宿命的混 乱は,一方では「する」価値がモーレツな勢いで 浸透しながら,他方では「である」価値が強靭に 根を張り,そのうえ「する」原理を建て前とする 組織が,しばしば「である」社会のモラルによっ てセメント化されてきたこと」(丸山
1961:
193) に由来する。「すること」の原理で貫かれている はずの機能集団の内部にも,学歴や就職年次,さ らには社内閥等々の「である」秩序が根づいてい て,それに応じた「らしく」の道徳が支配している。
しかし,それらは組織の外の世界ではおよそ通用 しない。そこで,場所柄に応じてふるまいを使い 分けることを余儀なくされている。「私たち日本 人が「である」行動様式と「する」行動様式とのごっ た返しのなかで多少ともノイローゼ状態を呈して いることは,すでに明治末年に漱石がするどく見 抜いていたところです」(丸山
1961:
194)。
先にみたように丸山は,「すること」の論理が 社会の中で全面化することを是とするものではな かった。急速な近代化のもたらしたもう一つの問 題点として丸山は,「「すること」の価値に基づく 検証が不可欠のところではそれが欠けていて,他 方さほど切実な必要のない場面,あるいは世界的 に「する」価値のとめどない侵入が反省されよう としているような場面では,かえって効用と能率 の原則がおどろくべき速度と規模で進展している という点」(丸山
1961:195)を上げている。その一つの例が,人々の余暇の過ごし方である。余暇 は「すること」からの解放を意味していたはずで ある。ところが日本人の「レジャー」は,この当 時すでに,日常の仕事以上にエネルギーを要する ものとなってしまっていた。
丸山は,一定期間にどれだけの業績を産出した かでその学者の価値を測る,アメリカ式の業績主 義にも疑念を呈している。ジークフリートという 学者の説を引きながら丸山は,教養とは「しかる べき手段,しかるべき方法を用いて果たすべき機 能が問題なのではなくて,自分について知ること,
自分と社会の関係や自然との関係について,自覚 をもつこと」であると述べている。政治や経済の 領域においては,無為は怠惰や無能の証でしかな い。しかし,音楽における休止符が象徴するよう に,文化的創造においてはむしろ無為は尊重され る。文化的創造においては,自分と向き合う時間 が不可欠なのだから。本来教養や文化的創造は,
「すること」より「であること」と深く関わる領 域なのである。
「する価値」が余暇や文化の領域にまで浸透し ている。そうした認識に立って丸山は,価値の転 倒からの脱却,もしくは価値の再転倒の必要性を 説く。「現代日本の知的世界に切実に不足し,もっ とも要求されるのは,ラディカル(根底的)な精 神的貴族主義がラディカルな民主主義に内面的に 結びつくことではないかと」(丸山
1961:
198-9)。
丸山は,「カール・マルクスがフリードリヒ・ヘル ダーリンを読むような世界」(丸山
1961:199)というトーマス・マンの印象的なことばによって,
この小稿を締めくくっている。
2.「忖度」・「自発的隷従」・「上級国民」
―「クローニー・ポリティクス」の起源と流行
(1)「老害」と「世襲」―新しい芽を摘み取るもの
「また長く支配的な地位についていたとか,過
去に功績があったとかいうことで,政治的地位を
保っている指導者が(略),どんなにうようよう
していることか」。この文章はいまもまったく古
びていない。「老害」ということばがネットスラ
ングとして,若い人たちの間にも語り継がれてい ることがその証左である。いまは何の仕事もして いないのに,過去の功績だけで,あるいは年功序 列によって高い地位に就き,周囲の足を引っ張る 存在が「老害」なのである。
もちろん「老害」はどんな世界にもいる。丸山は,
経済の領域においては,比較的早く「する」価値・
意識が浸透するといった。このエッセイが書かれ た当時の日本経済は,新進気鋭の経営者たちに率 いられた,ソニーやホンダのような新興企業が高 い創造性を発揮し,活況を呈していた。経済の先 進性と,政治の後進性ということは,高度経済成 長期には,ある種の決まり文句でもあった。しか し,バブル崩壊の後,経済の低迷の中で企業経営 者たちは多くの失敗を繰り返してきた。そのこと が,経済の低迷を長引かせる要因ともなってきた のである。
「である価値」の政治領域における居座りを端 的に物語っているのは,総理大臣の地位の「世襲」
である。
2006年に小泉首相が退陣してから,自民 党(安倍晋三,福田康夫,麻生太郎,菅偉儀)と 民主党(鳩山由紀夫,菅直人,野田佳彦)のあわ せて
7人の政治家が首相の座についている。その うちの
4人が元総理大臣の子どもか孫であった。
自民党の
4人の首相は,菅以外がそれにあたる。
将来の総理大臣の有力候補とされる小泉進次郎は,
いわずとしれた小泉純一郎元総理の次男である。
「地盤・看板・カバン」と称される経済資本と 社会関係資本,さらには政治家としての立ち居振 る舞いを幼いころから学びうる「文化資本」を継 承した
2世,
3世の政治家たちは,そうでない者 に比べて圧倒的に有利な地点から政治家としての キャリアを始めることができる。
著名な政治家の子どもに生まれなければ政治家 になれないような社会であれば,優れた政治家と しての才能をもった若者が,政治の世界に参入す る余地は小さくなるし,政治の世界は若者にとっ て魅力あるものでもなくなる。女性の世襲議員も 少数ながらいるが,この国において家督の継承者 は基本的に男子(長子)であることを思えば,政 治家が世襲の職業となることは,女性の政界進出
を阻む要因ともなりうる。女性議員の数が世界的 にみて異常に少ないのは,世襲政治も一因してい るのではないか。権力の座に就く者の資格が,よ い家の生まれ「である」ことに限られれば,政治 は保守的な方向に傾いていく。それがいまの日本 の状況である。
(2) 「忖度」―「もりかけ」疑惑で露呈したもの
(1)第二次安倍政権下の日本の政治の世界において は,「である価値の居座り」などという生易しい ものではなく,「である価値」が,丸山がこの小 論を書いた時代よりもはるかに肥大化してしまっ た印象を禁じ得ない。第二次安倍内閣を揺るがし た,二つの学校法人がらみのスキャンダルがあっ た。
ひとつは右翼的な教育方針をもつ森友学園に対 して,大阪府豊中市の国有地が,評価額の
9億
5600億円から,ごみの処分料等の名目で,約
8億 円値引きして払い下げられていた問題である。森 友学園は,教育勅語を教育方針の基軸として掲げ る学校法人であった。安倍首相の夫人,昭恵は一 時,同学園の「名誉校長」を務めていた。2013 年 当時には新しい小学校の名前は,「安倍晋三記念 小學院」が予定されていた。
2017年の
2月,朝日 新聞の報道によってこの問題が表面化した時か ら,首相夫妻が学園長夫妻と懇意であったために,
こうした優遇がなされたのではないかという疑惑 がもたれていたのである
(3)。
2017 年に
52年ぶりの新しい獣医学部の新設が,
岡山市に本部のある加計学園に対して認められ た。この時京都産業大学も,獣医学部の新設に手 を挙げていた。同大の教授陣の中には,鳥インフ ルエンザ研究の世界的権威が含まれており,家畜 や家禽の疾病の研究に対しては,高い研究と教育 の能力をもつ大学とみられていた。ところが,新 しい獣医学部の設置は,同じ地域に獣医学部が存 在しない大学にのみ認めるという規則が新たに追 加された。その結果,獣医学部の新設は,京都産 業大学ではなく,加計学園が経営する岡山理科大 学に認められたのである。加計学園の理事長は,
長年にわたる安倍首相の「腹心の友」であった。
この後付けの規則の変更は,加計学園のライバル である京都産業大学を排除するために行われたの ではないかという疑惑が生じていった。
ほぼ時を同じくして生じたこの二つのスキャン ダルは,それぞれの学校法人の名をとって,「も りかけ」疑惑とよばれている。この二つのスキャ ンダルにはいくつも共通項がある。両学校法人の トップは,いずれも安倍首相もしくは首相夫人と 昵懇の間柄であった。首相夫妻の「お友だちであ る」が故に,両学校法人は不当な厚遇を受けたと いう疑惑が,問題の発生当時からもたれていたの である。
これらの問題に関係した官僚たちは,証拠隠滅 に動いている。2017 年当時,財務省の幹部は森友 学園との交渉記録は,廃棄されて存在しないと国 会で答弁していた。メディアや議会の追及を受け て,財務省は交渉記録を国会に提示しているが,
後にそれは改竄された虚偽文書であることが発覚 している。
2018年の
3月には,文書改竄を強いら れた財務省の担当官が自殺している。加計学園の 問題では「総理のご意向等」の文言が記された,
すなわち官邸の強い関与を示唆する公文書が,担 当官たちの手によって破棄されていた。
「忖度」は「インスタ映え」と並んで,
2017年 の流行語大賞を受賞している。二つの学校法人を 特別に優遇するよう,安倍首相が直接的な指示を 行ったことを示す証拠は存在しない。これらの事 案を担当した官吏たちが,安倍首相の気持ちを推 し量り,特別な配慮をした。これが「忖度」と呼 ばれるものである。様々な証拠は「忖度」の結果 として,森友学園に対する国有地の格安の払い下 げが行われ,新しい獣医学部の設置主体として加 計学園が特別扱いをされたことを示している。
(3)自発的隷従と「クローニー・ポリティクス」
―「もりかけ」疑惑で露呈したもの
(2)森友事件において,総理大臣に「忖度」して,
公文書の改竄を行った佐川宣寿は,事件後の
2017年
7月に国税庁長官に昇進している。この事実は,
審議官以上の高級官僚の人事権を官邸に握られて しまった中で,官僚たちの昇進の条件が「するこ
と」から,総理大臣のお気に入り「であること」
に変ってしまったことを如実に物語っている。
「クローニー・キャピタリズム」ということば がある。このことばは,
1990年代末のアジア通貨 危機の時によく聞かれた。発展途上国の開発独裁 的な指導者が,仲間内で経済運営を行い,巨額の 富を手に入れている状態を言い当てている。総理 大臣の友人「である」人たちが不当な厚遇を受け,
総理の意向を忖度して虚偽文書の作成に手を染め た官僚が昇進を果たす。そこで巨大な利権が動い たわけではないから,「クローニー・キャピタリ ズム」ではなく,「クローニー・ポリティクス」
と呼ぶべきなのかもしれない。第二次安倍政権下 の日本の政治状況は,発展途上国のステージにま で先祖返りしてしまった。
2013
年第
46回総選挙での民主党の大敗によっ て,第二次安倍政権下の野党は完全に無力化して いた。安倍は首相就任直後に打ち出した「アベノ ミクス」と呼ばれる金融緩和を主軸とする経済政 策によって,財界から絶大な支持を得ていた。ア メリカとも友好的な関係を築き,世論調査の支持 率も常に高い数値を示していたのである。安倍政 権の権力基盤は盤石なものであった。
小選挙区制の下では,党の公認の有無が,候補 者の死命を制する。中選挙区制の時代のような一 国一城の主ではなくなった自民党の政治家たち は,強大な力をもつ安倍総裁の意向に従わざるを 得ない。その結果,派閥の領袖と呼ばれる,党内 の他の有力政治家の影響力は著しく減退していっ た。「三角大福中」が激烈な権力闘争を展開して いたかつての自民党の姿は,過去のものとなって しまった。こうして,「安倍一強支配」と呼ばれ る政治状況が出現していったのである。
2014
年に内閣人事局を創設した安倍政権は,人
事を通して官僚たちをコントロールしただけでは
なかった。高市総務大臣は,適正な放送を行わな
いテレビ局の「免許停止」をほのめかしている
(4)。
第二次安倍政権の発足以降,報道各社の幹部と首
相との度重なる会食が話題になった。免許停止の
脅しと会食。「飴と鞭」とによって第二次安倍政
権は,メディアコントロールを強化していった。
第二次安倍政権を語る際にしばしば言及された のが,ルネッサンス期のフランスの思想家,エティ エンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従』という 書物であった。ボエシは
16世紀の宗教戦争の時 代を生きたフランス人であり,かのモンテーニュ の盟友としても知られる人物である。優れた指導 者に服従し統治されるのでも,多数者の圧政に屈 するのでもなく,なぜ人々は簡単に自由を投げ打 ち,ただ一人の,さして屈強とも思えぬ人間の前 に,自ら進んで隷従していくのか。そうボエシは 問うている。愚かな圧政者を支えるのは,最初
4,5人の人間だとボエシは言う。その
4,5人のまわり に,この連中にくっついていれば,うまい汁を吸 えると考える
4,500人が集まり,さらにその下に
4,5000
人が集い,圧制者の体制は盤石のものとな
る。「安倍一強体制」にも,ボエシが指摘したの と類似した構造がある。「クローニー・ポリティ クス」は,自民党の政治家とジャーナリスト,そ して官僚たちの「自発的隷従」によって実現され たと,みることができる(ボエシ
2013)。
しかし,仮に安倍ではない別の政治家の下で,
「一強」的な政治状況が生じ,自発的隷従を発生 させる構造が生じたとしても,論者が「クロー ニー・ポリティクス」と呼ぶ,極端な「お友達」
優遇政治が行われたとは考えにくい。ここには安 倍の特異なパーソナリティが大きな要因をなして いると思われる。安倍の特異なパーソナリティと は,その強い幼児性である。安倍は,国会において,
野党議員に対して「日教組」等の不規則発言を繰 り返し行っている
(5)。また
2016年の都議会議員 選挙においては,自分を批判する一群の聴衆を指 さし,「こんな人たちに負けるわけにはいきませ ん」と叫んでいる
(6)。いたずらに好悪や快・不快 の感情を露わにして,自己の品位を貶めることが ないように気を配ることが,大人としての嗜みで あるとされている。そうした基準に照らした時,
元首相の一連の言動は,幼児的なものと言わざる を得ない。これは歴代の首相にはない,安倍の顕 著な特性である。自分や夫人の「お友だち」を優 遇するという,子どもじみた「わがまま」を暗に 役人たちに強い,役人たちがその意を汲んで行政
手続きを歪めたために生じたのが,第二次安倍政権 下における一連のスキャンダルではなかったのか。
(4)不透明な法の運用―「上級国民」
2019
年の
4月,東京の池袋で,
88歳の
Iが運転 する自動車が猛スピードで横断歩道に突入。
Iの 車にはねられて,母親と幼い女の子が命を落とし た。しかし,警察は
Iを逮捕することなく,在宅 で捜査を進めた。死亡事故を起こしながら
Iの身 柄を拘束しなかった理由として警察は,「証拠隠 滅の恐れがない」ことをあげている。
Iは現役時 代には,旧通産省の高級官僚で,叙勲歴もある人 物であった。このため,重大事故を起こしても
Iが逮捕されないのは,社会的地位の著しく高い,
「上級国民」だからではないかという観測が,ネッ ト上を駆け抜けていった。「上級国民」はこの年 の新語流行語大賞の候補にもなっている。
Iに対 して厳罰を求める署名は,公判開始の
11月まで に
40万筆に及んでいる
(6)。
警察が高齢で事故直後に入院をした
Iを逮捕し なかったことは,必ずしも異例のことではないの かもしれない。また逮捕の有無は,必ずしも刑罰 の軽重に影響をしないのかもしれない。しかし,
第二次安倍政権の下で,人々は「クローニー・ポ リティクス」が行われる様を目のあたりにしてき た。そのために,この国の警察や検察は,名もな い庶民には厳しく対処するが,権力の近くに身を 置く者には不当に寛大だという印象を,
Iへの処 遇が与えたのではないか。「クローニー・ポリティ クス」によって,法の下の平等が踏みにじられて いるという人々の認識が,「上級国民」というこ とばを生んだ。
2020 年
1月
30日。政府は,黒川弘務東京高検 検事長の半年間の定年延長を閣議決定している。
検察官の定年延長には前例がない。黒川検事長は,
「官邸の守護神」の異名をもつ,政権寄りと目さ
れている人物であった。この閣議決定は,黒川検
事長を次期検事総長に据えるためのものだと目さ
れていた。政府はこの直後に,検察官の定年を
65歳とする検察官法の改正案を国会に上程してい
る。この法案には,内閣や法相の判断によって,
個別の検察官の定年延長を可能にする条項が盛り 込まれている。検事は行政官ではあるが,国会議 員や閣僚までをも捜査の対象とし,逮捕起訴する 権限を有している。この法案は検察の独立性を脅 かすものであるとして,広範な批判を巻き起こし た。歴代の検察
OBがこれに異を唱え,ツイッター 上では,同法案に反対する書き込みが,
5月の上 順までに,
470万筆もよせられたとされている
(8)。 黒川検事長の定年延長の根拠は,国家公務員法 にあるというのが当初の政府の説明であった。し かし,定年延長の規定は,検察官と大学教官には 適応されないという政府見解が
1981年に示され ている。立憲民主党の山尾議員からこの指摘を受 けた人事院の担当官は,一度はそれを認めながら,
のちに「言い間違い」だったと訂正をしている
(9)。 コロナ禍の状況のもとでなぜこの法案の成立を急 ぐのかについて,政府側が明確な答弁をすること はなかった。
事態はここで意外な展開をみせる。黒川検事長 が,緊急事態宣言下の
5月,懇意の新聞記者たち と賭け麻雀をしていたという記事が「週刊文春」
に掲載された。国家公務員法では賭博行為は,戒 告以上の懲戒処分の対象となっている。しかし,
黒川検事長に下されたのは,監督処分の「戒告」
であった。また彼らが採用していた「テンピン」
(1000 点で
100円)は違法性に欠けるとして,不 起訴処分になっている。黒川検事長は辞職し,検 察官法改正案は見送りとなった
(10)。
黒川元検事長は,首相の「お気に入り」である が故に法的根拠に欠ける定年延長をしてもらえた だけではなかった。賭け麻雀をしても,重い懲戒 処分も,厳しい刑事罰も科せられることはなかっ たのである。多くの人々が黒川元検事長に「上級 国民」の実在をみたことは疑いない。
3.「分際をわきまえろ」!
―日本政治の先祖返り
(1)ものをいえば「干される」
―忌避される「政治」
丸山が述べている,「政治は政界の専有物にな
り,それ以外の広い社会の場で,政治家以外の人 によって行われる政治活動は本来の分限を超えた
「暴力」のようにみなされるようになる」という 日本社会が抱える問題も現在深刻なものになって いる。
芸能人が政治的な発言や政治的な行動を行うと 激しい非難に晒される。
3.11の福島第一原発事故 の際,人気シンガーソングライターの斎藤正義が
「ずっと嘘だったんだぜ」という自らのヒットソ ングの替え歌を歌った時にも強い非難にさらされ た。しかし,政治的発言を行う芸能人へのバッシ ングが目立つようになったのは,やはり第二次安 倍政権以降の現象である。
タレントの石田純一が,2015 年の安保法制に関 して,安保法制に反対する集会に参加し,「戦争 は文化ではありません」と発言した時
(11)。ロサ ンゼルス在住のモデルでタレントのローラが,自 らのインスタグラムに,辺野古建設反対の声をホ ワイトハウスに届けようと書き込んだ時
(12)。お 笑いタレント,ウーマンラッシュアワーの村本が,
沖縄の基地問題についての発言を行った時
(13)。
NHK大河ドラマ「韋駄天-オリムピック噺」に 出演中の古館寛治が,安倍政権への批判をツイー トした時…
(14)。もちろんこれらの発言に対しては,
批判だけではなく,とりわけネット上では支持す る声も多数みられた。注目すべきは,芸能人が政 治的発言を行った際にきまって出て来たのが,そ の発言の主がテレビから「干される」のではない かという観測であったことである。
アメリカでは芸能人の政治的発言は珍しいこと ではない。
2016年のトランプ大統領の就任式にお いては,ジョニーデップやハリソンフォードらの ハリウッドスターたちが,反トランプを公言して いる。世界的に広まったセクシャルハラスメント を告発する「ミートゥ」運動の発火点となったの も,ハリウッドの大物プロデューサーからセクハ ラ被害にあっていた俳優のアリッサ・ミラノの「セ クハラを受けたことのある女性たちが『
Me too』 と書けば,この問題の大きさをわかってもらえる のではないか」という投稿であった(樫村
2020)。アメリカのプロアスリートたちも,政治的な発
言を積極的に行っている。
2020年
8月に発生した,
アメリカウイスコシン州で生じた,警官による黒 人射殺事件において,ミルウオーキーに本拠を置 く,メジャーリーグと
NBAの選手たちは,試合 をボイコットし,強い抗議の意思表示をした。し かし,日本のアスリートたちが,政治的な意思表 示をすることは少ない。
アスリートの政治的発言,もしくは行動といえ ば大坂ナオミのそれは,印象深いものである。度 重なる警察官の黒人への射殺事件に抗議して,彼 女は全米オープンをボイコットする旨の発言をし ていた。しかし,大会当局が大坂の意を汲んで,
日程を延期したことで,大坂は大会に参加。警官 に射殺された黒人の名を刻んだ黒いマスクを着用 して試合を重ね,ついに優勝を遂げた。一連の大 坂の行動は日本国内で強いバッシングに晒されて いたが,彼女が勝ち進むにつれて,称賛の声が勝 るようになった
(15)。ダルビッシュ有や本田圭佑 も時事問題への積極的な発言を行っているが,注 目すべきは,ダルビッシュも,本田も,そして大 坂も,政治的発言を行うことを厭わないアスリー トたちは,海外に拠点を置いているということで ある。
(2)「分際をわきまえろ」!
―儒教道徳のリバイバル?
古館が政権批判をした際に,「政治のことなん か触れず,いだてんの宣伝だけしとけ」という反 響が彼のツイッターに寄せられた
(16)。「韋駄天の 宣伝だけしとけ」。つまりは役者は役者の「分」
に安んじろというわけである。それに答えた古館 の,「私一俳優ではありますが,一有権者でもあ るんで,一つの存在に閉じ込めるのはやめてくだ さい」ということばは,自分を一人の個人として 扱ってほしいという叫びのようにみえる。そして,
「どうして学問や芸術といったそれじたい非政治 的な動機から発するいやいやながらの政治的活動 があってはいけないのでしょうか」という丸山の 発言と響き合うものである。
日本における政治的発言を行う芸能人へのバッ シングには,丸山が言うような,芸能人は芸能人
の「分際」に安んじるべきであるという前近代的 な,もしくは儒教的な意識が強く働いているので はないか。しかし,ここで疑問が生じる。
21世紀 のいまも,儒教道徳が人々の政治意識を拘束して いるなどということがありうるのだろうか。四書 五経を読んだことのある者など,若者に限らずい まの日本にはほとんどいないであろう。儒教の存 在を日常生活の中で意識することはほとんどな い。しかし,徳川幕府の時代だけではなく,教育 勅語の存在が示すように,明治憲法体制下の戦前 の日本においても,儒教道徳は体制の「公定イデ オロギー」の一部をなしていたのであった。戦後 たしかに教育勅語の失効は宣言されているが,中 世ヨーロッパを支配したキリスト教神学のよう に,教育勅語の根底にある儒教思想が,徹底的に 論駁され,葬り去られたとは到底いえない。長い 歴史をかけて刷り込まれた思想の影響力は容易に 消えるものではない。その意味で儒教道徳が,日 本人の政治意識の根底に横たわっている可能性は 否定できない。
ほぼすべての日本人が,12 年間身を置く初等中 等教育の中でも,儒教道徳は強固に生き残ってい る。中学校から始まる部活動の中で,子どもたち は先輩と後輩の別を厳しく叩き込まれる。生まれ た日が数か月しか違わなくても,「先輩」には敬 語で話しかけなければならない。子どもたちの中 には,長幼の序の観念が身体化されていく。現在 でも,子どもたちの服装や頭髪を厳しく規制する 校則をもつ学校は数多く存在する。それらの校則 が子どもたちに求めているものは,中高生「らし さ」なのである。
しかし政治と関わる芸能人のすべての言動が
「政治的」として指弾されるわけではない。これ はすでに様々な方面から指摘のなされているとこ ろではあるが,安倍首相夫妻と会食した芸能人や,
新天皇の即位の式典に司会者として,あるいは奉 祝歌の歌い手として参加した芸能人たちの行動 が,「政治的」と非難されることはなかった。こ の国では
21世紀のいまも,普通の人が「分際」
や「分限」を超えて政治的な発言をすることに強
い忌避感が残っている。しかし,その場合の「政治」
とは体制(大勢)批判とほぼ同義なのである。被 治者は被治者としての「分際」にとどまるべきだ とすれば,権力者を奉祝することは許されるが,
それを批判することは許されないということか。
(3)「こうした行為は適切でしょうか?」
―高校生を恫喝する文部科学大臣
2019
年の
9月,ある高校生が,次のようなツイー トをした。「私の通う高校では前回の参院選の際 も昼食の時間に政治の話をしていたりしていたの できちんと自分で考えて投票してくれると信じて います。もちろん今の政権の問題はたくさん話し ました。笑」。このツイートに対して下山文部科 学大臣(当時)は,次のようにリプライをしている。
「こうした行為は適切でしょうか?」。この発言が
『女性自身』誌上で取り上げられると,下村大臣 に対する非難が集中した
(17)。それに対して下村 は次のように反論している。「しかし同記事は本 当に下記のようなやり取りに問題がないとの見解 だろうか?また,公選法
137条(私学を含む教員 の選挙運動)や,同法
137条の
2(未成年者の選挙運動)の誘発につながることについて一言もコ メントがないのはなぜか?」と自らのツイッター で発言している
(18)。
2016 年から選挙権の発生する年齢が,従来の
20歳から
18歳に引き下げられた。高校
3年生の 一部も有権者に加わったのである。はじめての投 票行動は生きた「主権者教育」となりうる。高校 生たちも候補者の政見をよく知った上で,誰に投 票するかを決めることが望ましい。休憩時間等に 高校生たちが,候補者や政党についてあれやこれ や議論することは,むしろ推奨されるべき行動と いえる。その意味で選挙についての議論を萎縮さ せるかのような,下山元大臣の発言は不適切なも のである。「私学を含む教員の選挙運動」や,「未 成年の選挙運動」の誘発を恐れるのであれば,な ぜ選挙権の発生する年齢を
18歳にまで下げたの だろうか。
下山は,文部科学大臣在任中に「教育勅語には 普遍性がある」と発言し,物議を醸した人物であ る
(19)。教育勅語のベースにあるのは,儒教道徳
であり,それは丸山が指摘したように「である」
価値・意識を代表するものである。教育勅語を讃 美する下山の中には,高校生は高校生「らしく」,
政治になど関心をもたずに,その「分」に安んじ て勉強していればよいという意識が根底にあり,
それが先の発言をもたらしたのではないか。
丸山の言うように,儒教道徳は同質的な人間関 係の中での主に縦の関係についての規範を提供す るものであった。「アカの他人」との水平的な関 係については何も語っていない。今日進展中のグ ローバリゼーションとは,「アカの他人」との関 係を取り結ぶことを強いられる状況に他ならな い。儒教道徳の称揚と,グローバル化の推進との 間には大きな矛盾がある。
下山の後任の萩生田文部科学大臣は,英語の民 間試験の導入が,都会の受験者に有利だという批 判に対して,「(受験生は)身の丈にあわせてがん ばればいい」と記者会見で発言したが,後に撤回 した
(20)。この発言も儒教的にあわせてがんばれ ばいいという「分限」意識の発露といえる。それ が英語の民間試験の導入というグローバル化推進 の政策とペアになっていることが興味深い。
(4)同調圧力への「自発的隷従」
海外では,高校生の政治参加は普通のことであ り,むしろ推奨されてさえいる。高校生はおろか,
ドイツでは小学生からデモの手順を教えている
(高松
2017)。
これに対して日本では,下山の発言にみられる ように,学校に政治を持ち込むことは,厳格なタ ブーとなっている。
2020年には東京の目黒区で驚 くべき事件が起きた。東京は目黒区の公立中学の 近くでビラまきをしていた高校生が,その中学校 の副校長から,「私人逮捕」されたのである。校 区内の安全のための見回りをしていた副校長をス マホで叩いて妨害した「公務執行妨害」の疑いで,
この少年は
20日間も拘留されている。西欧諸国
とは異なり,この国では青少年の政治的な直接行
動は,「犯罪」とさえみなされている
(21)。
もちろん日本でも人々の抗議行動が死に絶えて
しまったわけではない。2015 年
6月,9 割の憲法
学者が違憲とみなした,集団的自衛権を可能にす る一連の安保法制が国会に上程された際には,連 日国会議事堂周辺には,数万の抗議の声をあげる 人々が集まっていた。
Iのケースでみたように,
ハッシュタグを用いての
SNS上での抗議行動も極 めて盛んである。下山の後任の萩生田文部科学大 臣が打ち出した,大学統一入試への業者テストを 押しとどめた大きな要因となったのが,それに反 対する高校生たちのツイッターデモである
(22)。 だが,若者たちの間での激しい政治的主張やデ モのような直接行動に対する忌避感は強い。授業 の感想に,「自分の意志をあらわすことは,デモ や殺人のような形をとらなければ許されると思い ます」と述べた学生がいたのには驚いた。乱暴な 行動によって秩序を破壊し,日常生活の円滑な進 行を妨げるデモは,大きな「迷惑」行為だと若者 たちは考えているのだろう。「わがまま」な自己 主張によって,集団の和を乱し,まわりに「迷惑」
をかける政治的行動に対して,日本の若者は警戒 心を抱いている(富永
2019)。
いじめ研究で名高い内藤朝雄は,学校のクラス のような治外法権的空間において,他者から排除 され,攻撃を受ける恐れから,メンバーが強い同 調圧力にさらされる状況を,「中間集団全体主義」
と呼んだ(内藤
2001)。内藤が「中間集団全体主義」と呼ぶ状況は,ハラスメントの横行する企業社会 をはじめ,大人の世界にもおよんでいる。権力に 祀わぬ者が,少数者・異端者とみなされ,攻撃に 晒されることへの恐れが,顕名での発言や,直接 行動への忌避感をもたらし,その結果として,儒 教道徳のリバイバルとみまがう状況が生じている のではないか。
4.明仁が丸山を読む―価値の倒錯の諸相
(1)余暇と大学と―排除される無為
丸山は,本来「である」原理の下にあるべき領 域の中に「する」価値・意識が入り込んでいる端 的な事例として,レジャーをあげている。このエッ セイの書かれた
1960年代初頭は,池田内閣の所 得倍増計画の下,それなりの豊かさが実現し,そ
れまでは生活に追われていた人々の中に,余暇を 楽しむゆとりが生まれた時代でもあった。余暇,
あるいはレジャーということばが広く浸透して いった時代もである。しかし,それは欧米のバカ ンスのようにゆったりと時を過ごし,自らの存在 を享受するための時間などではなかった。「家族 サービス」の名のもとに,人々は行楽地に殺到し,
通期ラッシュを思わせる雑踏のなかで,労働の 日々そのままに,あくせくと動き回っていたので ある。
丸山の指摘から半世紀の時が経過して,日本人 が余暇を過ごすスタイルは多様化していった。
60年代初頭には,夢物語でしかなかった海外旅行も,
ごくごく普通の人たちが享受できる時代になって いる。日本人の余暇の過ごし方は,成熟したのか もしれない。しかし,各種のサービス産業が
GDPの中で大きな部分を占めるようになった現在,余 暇に人々が行う消費行動は,経済を回転させるた めの「労働」としての性格を帯びてきている。人々 は現在,多忙を極める日常の中の,断片化した余 暇の時間の大きな部分を
SNSに費やしている。オ フィスでコンピュータのディスプレイに一日中見 入っていた人たちは,帰りの電車のなかではスマ ホに見入っている。
SNSに興じる人たちは,個人 情報を垂れ流すことで,
GAFAの人工知能を充実 させるための労働を懸命に行っているようにもみ える。
丸山は,学者の業績が一定期間内に書かれた論 文の数によってはかられる,アメリカ的な業績主 義に疑問符を呈していた。アメリカ的な業績主義 は,現在の日本の大学に浸透している。査読付き の論文の数と,獲得した外部資金の額によって研 究者の能力が計られるアメリカ的業績主義には,
歓迎すべき部分もある。大学や学会における旧弊
なボス支配を過去のものとしたからである。
21世
紀日本の大学人は,研究業績産出の圧力に晒され
ているだけではない。彼彼女らが担う学務と教育
の負担は途方もないものになっている。文化的な
豊穣をもたらすと丸山が考えていた,「無為」の
時間は,大学から葬り去られてしまった。「自分
について知ること,自分と社会の関係や自然との
関係について,自覚をもつこと」のために割く時 間など,残されてはいないのである。かつて全共 闘の若者たちが,狭い学問の枠の中に閉じこもり,
社会的な視野と責任感を欠いた学者たちを,「専 門馬鹿」と謗ったが,現在の日本の大学の在り方 の中では,そうしたタイプの学者が量産されてい くことは否み難い。
学部教育においても,ジークフリートや丸山が 言うような意味での,「教養」が顧みられること はない。「しかるべき手段,しかるべき方法を用 いて果たすべき機能」に,学生も教員も,そして 大学に関わるすべての人たちが強い関心を注いで いる。社会に出てから「役に立つ」教育の必要が 声高に叫ばれている。
(2)「生産性」で測られる命の価値
2016 年
7月26 日未明。衝撃的な事件が起こった。
神奈川県相模原市にある障碍者施設「津久井山ゆ り園」に、この施設で働いていた植松聖が刃物を 持って押し入り,入所者
19人を刺殺し,入居者 と職員27 人に重軽傷を負わせたのである。植松は,
凶行におよぶ直前に,大島理森衆院議長(当時)
にあてて,犯行声明ともとれる手紙を書いている。
「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活,
及び社会的活動が極めて困難な場合,保護者の同 意を得て安楽死できる世界です。重複障害者に対 する命のあり方は未
いまだに答えが見つかっていない 所だと考えました。障害者は不幸を作ることしか できません」
(23)。「家庭での生活」や「社会活動」
を営むことのできない障碍者は,不幸でしかない から,保護者の同意の下に安楽死を認めるべきだ と植松は主張している。「する」ことのできない 人間は生きている値打ちはない。植松のことばは,
そうパラフレーズすることができる。
こうした極端な考えをもっているのは,一人植 松だけではなかった。雑誌『新潮
45』に,自民党の衆議院議員杉田水脈は,「彼ら彼女らは子ども をつくらない,つまり『生産性』がない」という 理由で,
LGBTへの行政支援をやめるよう提言し ている(杉田
2018)。この杉田の発言は広範な批判を呼び,『新潮
45』は実質的な廃刊に追い込まれている。「生産性」がない,すなわち「する」
ことのできない人間には価値がない。杉田の発言 は,植松の思想と同じ地平を共有している。
2020
年の
9月。二人の医師が,ネットで知り合っ た
ASL(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者を薬物 を用いて安楽死させる,嘱託殺人事件が起こった。
この時,令和新選組の舩後靖彦参議院議員は, 「死 ぬ権利より生きる権利を」と述べ,安楽死の合法 化を安易に推奨する議論を批判している。この船 後発言に対して,日本維新の会の馬場幹事長は,
「(安楽死や尊厳死の)議論の旗振り役になるべき 方が議論を封じている。残念だ」と述べている
(24)。 令和新選組に所属していた大西つねきは,「高 齢者を長生きさせるため若者や子どもの時間を 奪っていることが問題」だと述べている。命の選 別は不可避であり,それこそが政治の任務である。
「その選択するんであれば,えっと,もちろんその,
高齢の方から逝ってもらうしかないです」(荻上
2020)。
馬場の発言に対して,日本維新の会の松井代表 は遺憾の意を示し,大西は令和新選組を除名され ている。二人の発言は,それぞれの所属政党の見 解を代表するものではない。しかし,ここに例と してあげた政治家たちの一連の発言は,命は平等 ではなく,その「生産性」の如何によって序列化 されるべきものだという認識を持つ層が一定層い ることを想定して,なされたものではないのか。
経済が後退を続け,国家財政破綻への不安が高ま る中で,もっとも「する」原理が入り込んではな らない,「命」の領域にまでそれが浸透してきて いるという「倒錯」が,
21世紀のこの国には存在 している。
(3)明仁が丸山を読む?
―ラディカルな戦後民主主義と象徴天皇と の結合
丸山は,この国では,民主主義」や「議会政治」
が神聖視され,それを疑問視し,異を唱えるよう
な言説や行動は最初から排除されてしまう傾きが
あることを指摘していた。「民主主義」や「議会
主義」に付け加えて,とりわけ護憲派においては,
「憲法」もまた,神聖視されてきた対象に入るの ではないか。日本国憲法は,右派と左派とを分か つ,踏み絵のような役割を演じてきた。いかなる 憲法も完全ではない。また制定された当時とは,
時代状況も大きく変わってきている。憲法の基本 的な精神を肯定する者のなかにも,いまの憲法の 在り方に疑問をもつ者も少なくないのではない か。環境権も動物の権利も,この憲法の条項のな かにはない。また,外国人の権利を保障する条項 もない。そもそもなぜ憲法
9条があるのに,自衛 隊と日米安保条約が存在し,自衛隊の海外派遣や 集団的自衛権が認められるのか。しかし,護憲派 が憲法をめぐる様々な議論を歓迎してきたとは言 えない。 「タブーによって民主主義を維持するこっ けいな倒錯」を護憲派がおかしてこなかったとは いえないであろう。
作家の赤坂真理は,「憲法」の「憲」の意味が 分からず,識者に尋ね歩くのだが,「憲」とはす なわち規則のことであって,「法」と極めて意味 が近いと説明できた人は一人しかいなかったとい う印象的なエピソードを紹介している。立憲国家 でありながら,相当の知識人をも含めて国民が,
「憲法」ということばの意味すら理解していない。
こうした倒錯は,戦後アメリカから与えられた憲 法に,国民が議論を重ねることによって内実を与 え,わがものとしていく努力を怠った結果,生じ たものではないのかと赤坂は問う(赤坂
2014)。
この国の中で,一貫して憲法について深く考え,
その考察に基づいて行動した人物として,明仁現 上皇の名をあげるべきであろう。明仁は天皇の即 位式において「日本国憲法を守ります」と宣誓し ている。そして,生前退位を告げるビデオメッセー ジにおいて彼は,高齢に達したいま,「全身全霊 をもって象徴の務めを果していくことが,難しく なる」と述べている。この発言は,「であること」
と「すること」という文脈においた時,一驚に値 するものである。「象徴」といった時,イメージ されるのは,旗やロゴの類である。「象徴」が何 かを「する」とは誰も思わない。ところが明仁は,
天皇として存在する(「である」)だけでは不十分 であり,国民統合の象徴として行為「する」こと
によってはじめて,天皇はその責務を果たしうる と考えていた。象徴としての天皇を「すること」
の中に位置付けた明仁が,丸山を踏まえている可 能性が高い。
明仁は,第二次世界大戦の激戦地や大災害の被 災地,そして僻地離島への慰霊と慰問の旅を退位 の直前まで重ねてきた。戦争の犠牲となった人々 を悼み,大きな被害にあい日々困難な状況に置か れた人たちによりそう。そして彼彼女らのために 祈りを捧げることによって,誰一人として日本国 民を見捨ててはならないというメッセージを,明 仁は発し続けてきた。それが明仁の「象徴的行為」
であった。そうした明仁の姿に,排除と分断を推 し進める,平成の自民党政治のあり方への,暗黙 の批判を読み取った者も少なくはなかった。明仁 の一連の言動は,リベラルや護憲派から高く評価 されていたのである。21 世紀のこの国に出現した
「天皇明仁が丸山眞男を読むような世界」。これも また,一つの倒錯と呼べるであろう。
参考文献
1
) 本田由紀
2005『多元化する「能力」と日 本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のな かで』
NTT出版
2
) 丸山眞男 1961『日本の思想』岩波新書
3) 朝日新聞取材班
2018『権力の背信 森友・
加計学園問題』スクープの現場』
4
) エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ 西谷修監訳・
山上浩嗣訳
2013『自発的隷従』ちくま学 芸文庫
5
) 樫村愛子
2020「共感を通した支援,連帯
を示した
#MeToo運動 ツイッターで拡散し
たセクハラの告発,日本では少ない当事者 の 訴 え 」 ウ エ ッ ブ 論 座
2018年
2月
15日
h t t p s : / / w e b r o n z a . a s a h i . c o m / n a t i o n a l / articles/201801310 0005.html?page=16