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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

授業課題の提示方法について ― 授業における「教 授刺激」(Impuls)概念を手がかりとして ―

著者 小野 擴男

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 25

ページ 55‑67

発行年 1989‑03‑01

その他のタイトル A Study on Presentation of Academic Tasks in Classrooms ; Some Implications of Concept of Impuls

URL http://hdl.handle.net/10105/6678

(2)

     授業課題の提示方法について

一授業における「教授刺激」(Impu1s)概念を手がかりとして一

小野擦男

要旨:教科内容は子どもに「伝達」されるのではなく・子ども自身に学び取ら れなくてはならない。教授行為はなによりも、子どもたちの能動的な学習活動 を呼び起こさなくてはならならないのである。そうした学習活動を引き起こす ためには、諸々の教授行為は「教授課題」に向けて子どもたちの学習を「駆動」

し「制御」することのできる「教授刺激」(Impu1s)として機能しなくてはな らないのであり、教授学における広義の「ゆさぶり」を子どもに与えるもので なくてはならない。

キーワード:教授課題、教授刺激、「ゆさぶり」

 はじめに

 授業というのは、いうまでもなく人類の文化遺産の基礎である教科内容を伝え、学び取らせて いく場である。授業という場を通して、人類が長年にわたって形成してきた諸科学(芸術)の基 礎を次の世代にきわめて「効率的に」伝えていくことができるのである。子どもたちが字の読み 書きができ、数の計算ができるようになるのも、子どもたちのうちにそうした国語力や計算力が 秘められていて、それが「自然」に開花してくるというのではない。そうした教科内容が大人の 世代から伝えられていくことによって、子どもたちが「読み、書き、算」の能力を獲得するので ある。授業では、どんな内容を子どもたちに伝えるのかが、最も基本的な課題となる、といわれ るゆえんである。何をこそ教えなくてはならないのかを明確にすることなしに教師は授業を展開 していくことはできない。

 さらにまた、「何を」教えるかを問題とすることは、「どのようにして」を無視するということ では決してない。いかにすぐれた内容であっても、それが自動的に子どもたちの頭の中に記銘さ れるわけではない。どんな材料(教材)を用いて、どんな手111貢で教えたならぱ、子どもたちに

「楽しく」またわかりやすく教えることができるのかが問われなくてはならないのである。内容 の確定は同時に広い意味(教材づくりをも含めた)での教授方法の問題をも内包することになる。

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 このように「何を」教えるかということがそれ自身、一定「どのようにして」という問題を内 包していたとして、そのことで方法の問題が語り尽くされるわけではない。「何を」の問題は、

また「何のために」「どのように」教えるかという問題をあらためて問いかけることになる。教 えるということは、内容を詰め込むということではない。教授課題に向かって、子どもたちの能 動的な学習活動をどう引き起こすのかということが大きな問題となってくる。授業が教授=学習 過程として規定されるのも、教科内容が教え、伝えられるその過程が同時に子どもたちの能動的 な学習活動を呼び起こすものでなくてはならないことを表わそうとしているのである。「教えた いもの」はそのまま、子どもたちにとって「学びたいもの」に転化するわけではない。教材づく り(教材解釈)をはじめとした諸々の教授方法に媒介されることによって、子どもたちの教授課 題に向けての能動性が引き起こされてくるのである。

 本小論では・「教えたいもの」(=科学的概念・法則・文学的形象の変化・発展など)を・子ど もたちにとって「学びたいもの」へと転換させる方策について、西ドイツの教授学者ザルツマン

(Chr.Salzma㎜)の「教授刺激」(Impu1s)という問題を手がかりとして考察をおこなうもので   1〕 ある。

I、「教授課題」の特質

 ザルツマンによれば「教授刺激」概念は、その下位概念として「問い」(Lehrerfrage)や「思 考刺激」(DenkanstoB)を含みもち、またそれらは教育的接触(p邑dagogischer Kontakt)とい う問題に包摂されるものとして論じられることもしばしばであった。しかし・彼によれば・「教 授刺激」の問題はなによりも「教授課題」(Die Aufgabe a1s p互dagogisches Ph餉。men)との関 連においてまず論じられなければならないという。

      2〕

 ザルツマンは教育事象における課題の特質を次の7点で要約している。

 1.課題はなによりも遂行され解かれるためにある。その意味では課題というものは主体の側 での変容(変化)を呼び起こすものである。たとえば、問題を「解く」(L㎏en)ということは、

「もつれた」事態を解くということを意味しているだけでなく、「課題を解くことができた」とい う精神的緊張感からの解放をも意味している。逆にいえば、達成感、成就感をつくり出してこそ、

課題といえるのである。

 2.課題というのは、常に事物に即した形で一定の構造をもったもの(s七rukturre1evan七)で あり、問題解決も、その構造に即して解かれることになる。学校教育の課題というのは基本的に は、その社会がすでに明らかにしているものの「再発見」であり「追体験」であり、そうした発 見や体験は、すでに解明されている事物の構造に即した形でおこなわれることになる。課題は基 本的には構造化されており、明確なものとして存在している。

 3.課題は常に、「要求」という性質をもつ。そうした要求の水準は、社会的一人格的なもの、

事物に即したもの、状況に規定されたものの三つに区別されて考えられる。社会的一人格的な

ものというのは、社会的要請を担った教師から提示されるということであり、事物からの要請と

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いうのは、上述の事物の構造に従って課題が解かれていかなくてはならないということである。

対象の構造や法則を無視して課題解決が達成さ机るものではない。さらに状況が課題の重みづけ を行う。たとえば、時事問題の取り扱いといったことは、その一つの典型例である。

 事物および状況の次元が十分考慮されていないと課題は恣意的なものとなるし、社会的一人 格的なものが欠落すれば、課題の「拘束力」が失われていくことになる。

 4.課題は状況からの規定を受けると同時に、逆に状況を規定する。つまり、課題の性質によっ て「授業形態」が規定されることにもなるということである。たとえば二対話を中心として解決 できる課題であるならば、それにふさわしい席の並び方や話し方が要請されるし、自然科学の実 験・観察が問題となる場合には、また、それにふさわしい教室やグループ編成が必要となってく

るのである。

 5.課題は、外から出現し、教師などによって外から「提出」(aufgeben)される。課題とい うのはどこからかわれわれに賦課されるという基本的性格をもち、また持ち続けている、とし.・わ れる。

 6.課題は外からの要請であったとしてもそれは子どもたちに肯定され、受け入れられ自己自 身にとっての問題とならなくてはならない。子どもにとって、よそよそしいものであり続けるこ とは許されないのである。課題のそうした「内面化」は、課題提示とともに、自動的に成立する というものではなく・そこに教師の教育的・方法論的な熟練が要請され乱その際に・重要な役 割を演ずるのが、適切な「教授刺激」の設定であるといえよう。もちろんそうだからといって、

課題の要求水準の適正を忘れてはならないであろう。高すぎる要求水準もまた逆に低すぎるそれ も、ともに、課題の「内面化」を阻害する。

 7.課題の教育学的な意味は、青少年の成熟と自己生成に対する刺激を与えて、その実現をは かっていこうとするところにある。本質的な意味をもつ課題が、見通しを広げ、青少年を自己の 狭いとらわれから解放することになるのである。こうした教育的意義の強調はもちろん課題その ものの意味をそこなうものであってはならないが、青少年の成長・発達に果たす課題の意味を教 師は認識しておく必要があるのである。何のために課題を与えているのか、という教育目標論的 間い直しを忘れてはならないということである。

■.「教授刺激」の本質的機能一「蕎醐」と「制御」一

 以上のように考えてみると、教授課題はなによりも子どもたちに受け入れられ、「自己活動」

として取り組まれなくてはならないのである。「外から」権威によって与えられた課題と向き合 わされ、論議を余儀なくされることによって、子どもたちは事物そのものとの「対話」を始める ともいえる。その際、教師はできる限り最初から子どもたちの注意を事物へと向かわせ、その

「対象(内容)」に向けての行動を引き起こすことができるようにしなくてはならない。その場合 に「教授刺激」ということがきわめて重要な意味をもつものとなる、とザルツマンはいう。

 外からの刺激(「課題」)が子どもの内なる学習意欲にどう転化することができるのか。教育に

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おける「教授刺激」がそれを解き明かす鍵となるとするザルツマンは、「教授刺激」概念のもつ        3〕 二つの基本的機能に言及する。

 「教授刺激」はまず第一に、子どもの学習を駆り立てる機能(=駆動機能)をもたなくてはな らない。「教授刺激」にはもともと「衝撃(AnstoB)」とか「駆動(An七riθb)」という意味があ り、両者をさらに区別するとすれば、前者は比較的波長の短い働きかけであるのに対して、後者 はより波長の長いものといえる。その場合、たとえば「教授刺激」における「衝撃」ということ は、その力によって子どもを「機械的」に動かすということを意味するのでは決してない。教育 において、子どもたちに外から加えられた「衝撃」は、そのまま力として作用するということは 事実ありえない。行為を展開する原動力はあくまでも行為者自身の中にあるからである。「教授 刺激」が単純な指示・命令であったとしても、それに従うという行為は、常に外からの刺激に対 する機械的反応以上のものである。

 静止していたものに動きを与えるというのが「衝撃」たとすれば・「駆動」という概念は動い ているものに対して作用して、その動きを増大したり減少させたりするという意味をもっている といってよい。「衝撃」と「駆動」とをこのように区別してとらえることは一定の意味があると しても、基本的に重要なことは「教授刺激」という概念がそうした「駆動力」をもつということ である。

 「教授刺激」の第二の機能は、制御(Steuem)機能である。つまり適切な「教授刺激」は、

拡散した子どもの注意を一定の目標や明らかにすべき事物の内容へと方向づけを行うということ。

もちろんこの場合も「教授刺激」は子どもたちを機械的に制御するものではない。「教授刺激」

によって引き起こされた学習活動が、子どもにおいて目的意識的になっていくその程度に応じて、

外からの制御活動は、子どもにおいて内的な制御活動へと転換していくことになるのである。

 このように、「教授刺激」の駆動機能と制御機能とは基本的には常に一体となって結びっいて いるものではあるが、時としてその機能の一方だけが強く表面に表われる場合もある。

 ところで、こうした「教授刺激」は「真空状態」において作用するものでは決してない。それ が作用する(できる)ところの子どもたちには、一定の構えが存在しているのである。ザルツマ

ンはそれを「基本的な緊張状態」(Grmdspamungslage)と呼ぶ。たとえば、教師が教室に入っ た時、そちらに注目したり、「郷土科」ということを聞くだけで、子どもたちが何かをそこから 期待するという内的な状況というものが存在しているのである。「教授刺激」はこうした潜在し たエネルギーを「力学的エネルギー」に変えていくものであるといってよい。

 したがって、「教授刺激」の二つの機能が十分作用しうるのは、子どもたちがすでにもってい

る知識水準、事物に対する興味・関心の度合、学習に対するレディネスといった潜在的エネルギー

を十分に教師が掌握している時であるといってよい。もちろん教師の「教授刺激」によってクラ

スの状況は変えられていくし、また、まずい「教授刺激」や課題設定によって、子どもたちの学

習意欲や興味・関心が失われ、そこなわれていくということは、十分に考慮せねぱならないもの

であるとしても、子どもやクラスの実態を無視して「教授刺激」を論ずることはできない。「教

授刺激」は子どものもっ潜在的な可能性やエネルギーに働きかけていくのである。

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 さらにまた、「教授刺激」は教授学的な意図(ねらい)を内在させながら、その機能を発揮し ていく。つまり、具体的な課題や授業の展開場面において、その課題をどの方向で、どの深さま で追究していくのか、クラスの状況、一人ひとりの認識や学習意欲の状態、既習事項や時間配当 と関連づけながら、教師は達成すべき本時の「ねらい」に基づいて、「教授刺激」の二つの機能 を駆使しながら授業を展開し、導いていくことになるのである。

皿.「教授刺激」の諸側面 一構想の視点一

 ザルツマンは、「教授刺激」の基本的性格を以上のように述べるとともに、現実の授業におけ る「教授刺激」の現象形態を以下の1Oの観点から論じているが、それは同時に、教師が子ども         〕

たちに働きかける際の基本視点を示すものとなっている。

 1.「明確化」と「関連づけ」

 「教授刺激」に対応した最も基本的なねらいというものは、いくつかの細かなねらいに分解さ れる。重要な」とはいうまでもなく、教師の一つひとつのねらいが子ともたちに理解され受け入 れられるということである。そうでなければ、新しい「教授刺激」とそれ以前の「教授刺激」が 整理されないままに子どもたちの思考を混乱させ、さまざまな思考方向が、授業を分裂させ、混 乱させてしまうことになる。

 2.「計画化」

 「教授刺激」は、原則として計画可能であり、授業を構想する際の重要な構成要素となる。

「教授刺激」の計画はとくに課題の本質構造を問題とするところにおいて示されていなければな らない。つまり、課題解決に向けて、授業のやま場(Ge1enkste11e)を構成するためにも「教授 刺激」は前もって計画されていなくてはならないのである。ザルツマンは、水の問題を取り扱っ た郷土科の授業の一場面を取り上げて、そのことを論じている。(L=教師、S=子ども)

Ll 「前の郷土科の授業のことを思い出して下さい。」

L・ 「降水物というのは、雨だけではありま世ん。」

L。 「今日はまた新しいことを勉強します。水は……より価値がある。」(板書する)

  「ここにはどんな言葉が入るでしょう。」

S  「ハイ」

L。 「ここに何を書いたらいい?」

S 「考えられているより、価値がある。」

L  「よろしい。ほかには?」

S 「土地より。」

L  「よろしい。ほかには?」

(7)

S 「金より。」

L 「(そう)、先生もそう書こうと思ってたのよ。水は金よりも価値があるって。」

S 「金は豪華だけど、なくてはならないものではない。だけど、水は絶対に必要です。」

S 「もし、…もし何日もなしに、水みたいなものがなければ、水もお茶もコーヒーも飲めな   いんだから…o」

S 「…みんな死んでしまう。」

S 「水と関係づけて…。」

Lミ 「…後ろを向いて、みんなに聞こえるように。」

S 「…石炭とも比べられる。石炭ももう暮しの一部分ではない。だから水は石炭よりも価値   がある。…エリカが言ったように、それが無かったから死んでしまうもん。」

通例の授業がそうであるように、この例もまた、教師が「教授刺激」を計画して提出している ことを示すとともに、その計画性の限界をも示している。「水はきわめて貴重なものである」と いうことを理解させるために、「金よりも」というイメージを引き出そうとするのは計画された ものである。しかし、「想像より。も」「土地よりも」「石炭よりも」といった反応は、必ずしも予 想されたものではない。もちろんそうした反応も教師の設定した「教授刺激」によって引き出さ れたものであることは確かであるが、そうした反応への対応(授業過程での「教授刺激」=タク

ト)は、前もって、完全に計画可能であるということではない。

 したがって、「教授刺激」は一般に、前もって計画されたものと授業の展開過程から「即興的」

に要請されるものとに区別される。授業を前もって事細かに規定してしまうことは授業のダイナ ミズムを失わせることにもなり、伝達主義的な授業で終わってしまいがちである。重要なことは 授業の課題の「最も中心部分」(Sch1損sse1ste11e)に対して詳細な分析を加え、限定的で決定的 な「教授刺激」を構想することである。そのことによってまた、授業過程の中での柔軟な対応が 可能となる。

 3.「波長」

 「教授刺激」には、波長(Tragweit)の長いものと短いものとがある。一つの「教授刺激」

によって、子どもたちによる長時間の授業対話が展開することもあれば、提示的な授業によくみ られるように、教師と子どもによる「一間一答的」な授業展開もみられる。そこでの「教授刺激」

は波長の短いものといえよう。「教授刺激」の長短は、ただ単に対比的に捉えるだけではなく、

その「組み合わせ」もまた問題にされなくてはならない。

子どもたちを課題の本質内容へと向かわせ、自己活動的に学習を成立させるためには、「教授 刺激」はできるだけ波長の長いものが提示されなくてはならない。それは、範例学習においては、

ヴァーゲンシャイン(M.Wagenschein)によって「のり込む」(Einstieg)という概念で示され

たものであるし、通常の「教授刺激」と対比して「中心的教授刺激(Hauptimpu1s)」と呼びう

るものである。しかし、そうした波長の長い「教授刺激」は、授業過程の中で、比較的波長の短

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い「副次的教授刺激」によって、支持され、正確にされ、また軌道修正がなされなくてはならな い。「中心的教授刺激」によって刺激された目標への緊張は全体として作用し続けなくてはなら ないが、それは適切な箇所で、「副次的教授刺激」によって強化され、修正される必要がある。一

 4.「強さ」

 「波長」の問題とならんで、「教授刺激」には「強さ」という問題がある。それは確かに客観 的な量として提示することはできないとしても、次の三つの要因と関連づけて「強さ」という問 題を考察することができる。

 第一は、課題提示の構成方法と関っている。すべてを一から事細かに説明するというのではな く「説明の中に間隙(L眈ke in der Deutu㎎)」をつくっておくということは・こうしたことに かかわるものである。それは「不完全さの生産力」とも呼ばれるものであるが、たとえば、すべ ての液体は容器から流れ出ることを知っている子どもたちが、一つしか穴の開けられていないカ ンからは、液体が流れ出ないことを知って驚く。このことは、「間隙の生産力」を物語る一つの 典型例といえよう。子どもの認識や理解にポッカリと間隙ができることで、こうした事態につい ての解明が逆に強く求められていくことになるのである。テキストの構成を「不備」にしておく

という発想などもまたこうした見地に立つものである。

 課題というものが、いわば全体を視野に入れているものであるとするならぱ、「教授刺激」は、

諸部分を通して全体の解明を迫ろうとするものである。そしてこの関係をしぱし「切り抜く」(=

「間隙」をつくる)ということが「教授刺激」となるのである。こうした意味でまた、課題の構 造が明確に「見える」ということが重要となる。複雑な現実に代わって「モデル」を提示すると いうことは、解明すべき全体構造と現在の取り組みとの関連を子どもたちに明確にするのである。

こうした問題は、授業において「直観性」や「具体性」をその課題とかかわってどう保証するの かという問題でもある。モデル、模型、絵、具体事例等々が「教授刺激」の強さを規定すること になるのである。

 第二に、「教授刺激」の強さは教師と子どもの主体的条件によって規定される。教師には・ど うしようもない個人差がないではないが、問題とされる資質としては、次のようなものがあげら れる。知的柔軟性、想像力、事実認識、事物の本質構造をつかむ力、要素化したり単純化したり する力量、事物に対する追究心と教育的タクトといったことである。

 子どもの側について言えば・社会的一文化的条件からくる差異に注目する必要がある。つま り、課題がすべての子どもに同じように引き受けられるということは決してないのである。学習 への熱意に欠く度合が大きければ大きいほど、その子どもたちをひきっける「教授刺激」は強い ものでなくてはならないのである。さらに、マスメディア等を通して過剰刺激に慣らされている 子どもたちを引きつけるには、逆にそうした「日常的現実」で子どもを引きつけ、さらにそれら を要素化することによって、複雑な事物の世界が見えるようにしてやることも必要となる。

 さらに、教師と子どもとがっくりだしているその関係の質によっても「教授刺激」の強さは規

定されることになる。高い質の関係を背景にした時、「教授刺激」は子どもの人格の奥深くに作

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周し、事物の理解と同時に、訓育的作用をもつくり出すことができるのである。

 第三は、授業の展開過程からの規定である。「教授刺激」をどこで設定するかということは、

かなり重要な問題である。時として微妙な勘に助けられることもあるが、場の「成熟度」は、

「教授刺激」の成否に大きな影響を与える。早すぎたり、タイミングを逸してしまったり、不必 要な繰り返しといったことが、「教授刺激」の本来の目的とは全く逆なものをっくり出してしま

うということも大いにありうるということであ孔

 5.「方向性」

 方向性ということを問題とする第一のレベルは、子どもたちの課題への取り組み方とその取り 組みの方向ということである。つまり多くの事象を比較するのか、事例を一般化するのか、事例

を一つにしぼっていくのか、得た知見を別の事象に適用したり応用したりするのかという「学習 方法」についての指示が、明確であると同時に、そうした「学習方法」を駆使して、ねらいとし た目標達成に向かって活動がなされているかどうかが、確認されなくてはならない。第二のレベ ルは、そうした「教授刺激」が事物内容に即して与えられているか否かということ。つまり「学 習方法」それ事態を、内容と無関係に訓練するということは、意味を成さない。また一見課題と はかけ離れた事象がもち込まれることで、内容が明確になることもあれぱ、事物に即しながら、

ねらいとは異ったことが明らかにされる場合もある。そうした場合も含めて、目標(内容)に向 けての大きな方向性の中に子どもたちの反応が位置づけられているということが重要となる。

 6.「限定性」と「活量カの幅」(=開かれていること)

 「教授刺激」が「開かれている(Offenheit)」というのは、設定された課題の解決に向けて、

子どもたちに比較的広い活動の余地が与えられているということである。決められた一つの路線 上でしか子どもたちが活動できないというのではない。その意味では、さきの波長の長い「教授 刺激」において、子どもたちの活動の自由度はより大きいといえる。「教授刺激」が問題とされ る時、この「開かれている」ということは、常に一方では方向性をもっているのである(その意 味では「限定されたもの(Enge des Impu1ses)」である)。課題設定において「開かれている」

ということは、だから何をしても自由であるということではない。そこでは、最大限、寄り道や 回り道、「誤まり」を許されながら、目標へと到っていくということを基本的には意味している のである。

 子どもの自立性の程度は、また、その課題が「開かれている」度合に対応するものである。グ ループ学習などによってあるテーマを共同で追究していくことは、確かに子どもの自立性を促す ことに貢献しうる一つの方法であるが、重要なことは、指された方向において多様に「開かれて いる」ということなのである。一つの問いに一つの「正答」しか許されないというのではなく、

「誤答」も含めて、さまざまな意見が出し合わされ論議が交されることのなかから自立性も培わ

れてくるのである。

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 7.「直接性」と「間接性」

 「直接」「間接」というのは、「教授刺激」を教師が言語活動によって行うのか、事物によって 行うかということによって基本的には区別される。

 したがって、たとえば「直接的」な「教授刺激」というのは、教師の外的な指示、要求、命令 によって子どもたちの活動を直接能動化していくことをさす。こうした直接的な「教授刺激」の もつ問題点は、たとえば子どもたちが、なんの思慮もなく言われるままに指示や規則に従って行 為する場合にある。そうした時には、子どもたちのなかになんの目的意識や目標観念を生み出す ことができず、ただ次の指示や命令を期待するという態度を育ててしまうことになる。もちろん 直接的な「教授刺激」が常にそうしたものを生み出すというのではなく、事物そのものに対する 患者を引き出す契機となることも当然考えられ孔

 「間接的」な「教授刺激」は、それに対して、事物や状況を媒介にして、子どもたちの活動を 引き出そうとするものである。事物関連が明確に表れているモデルを提示してやったり、いくつ かの事象を精選して示してやることで、子どもたちは対象と直接向き合い、比較したり、操作し たりしながら思考活動を深めるということになる。「間接的」な「教授刺激」は子どもと事物の 間に直接な理解を生じさすことにな乱

 現実の授業において、この二つの「教授刺激」は相互にからみ合っている。つまり、ある具体 物の提示は、必ず、教師の言語的な指示や命令とともにあるのだし、言語的な指示はたいていの 場合、具体的な事物を指さすことになる。二つの「教授刺激」がかみ合ってはじめて、子ともた

ちの対象との対話が成立するといえる。

 8.「媒体」の種類

 どんな「教授刺激」も、それを有効とするための媒体ないし表現形式を必腰とする。話された 言葉が「教授刺激」となりうると同時に無言の行為がまたそれになりうる。前者には、言語によ

る(書かれたものを含めて)すべての指示が含まれるのに対し、後者には、表情や身ぶりから直 観教材、さらには状況の構成というものが含みこまれる。また、媒体としては、言語、非言語と いう範ちゅうの他に、「音声」によるか「映像」によるかという区別も可能である。いずれにし ても、それらの媒体を組み合わせた形で「教授刺激」は構成される。

 9.「要求水準」

 「教授刺激」についても、課題と同様、子ども全体にとって、あるいは一部の子どもにとって

は、要求が過大である場合もあるし、逆に程度が低すぎるという場合もある。高すぎる要求をもっ

た「教授刺激」は、決して効果的なものではなく、「教授刺激」の設定は常に子どもの状況を把

握し理解したうえでなされるものである。生徒に「能力」「学力」差がある以上、すべての子ど

もに同一の達成感を与えることは不可能であったとしても、常に適切な要求水準を設定すること

が要請されている。

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 10. 「作用の範囲」

 あらゆる「教授刺激」がすべての子どもたちに等しく要求されるわけではない。クラスの中で も特定の子どもたちに「合わされて」提示されるのが普通である。その意味では「教授刺激」を 及ぼす範囲(Kontak七spa㎜e)に注意を払わなければならない。しかし、その際興味深いことは、

「全体」を問題とすることで、どの子どもの注意をも引かない場合があるのとは逆に、たった一 人の子どもに「教授刺激」を与えることで、全体の集中が生み出されることがあるということで ある。素朴には、ある一人の子どもを前に出して作業することによって、すべての子どもの共同 作業を引き出すことも可能となるのである。その意味では、「中程度に合わす」という発想こそ、

どの子どもにも合わない「教授刺激」になってしまっている場合が少なくないといえる。

lV.「教授刺激」と「思考への『ゆさぶり』」、「教師の問い」との関係

 ザルツマンにおいては、「教授刺激」という概念は、「思考への『ゆさぶり』」(DenkanstoB)

       5〕

や「教師の問い」(Lehrerfrage)を含んだ、最も広義での教授行為を意味している。したがって

「思考の『ゆさぶり』」という概念は、子どもの思考活動をうながすものであり、「教授刺激」と いうのは、それにとどまらず、操作や作業活動など子どものあらゆる学習活動を呼び起こす概念 として規定されるのである。

 「思考への『ゆさぶり』」ということと「教師の問い」の関連は、時として対立的に捉えられ る場合があった。つまり、「思考への『ゆさぶり』」という概念が子どもの思考を活性化さすのに 対して、「教師の問い」は子どもたちの思考活動を限定し、さらにはひからびたものにしてしま うという考え方である。そうしたことから「問い」を追放せよとか、「思考への『ゆさぶり』」を こそ設定せよということが言われたりもする。しかし、たとえば、「燃えているローソクにコッ プをかぷせるとどうなりますか」という「問い」は、子どもたちの好奇心を呼び起こすのに十分 である。したがって、また「問い」を媒介として事物(「事象」)に対する思考活動を呼び起こす 時には、「問い」はまた「思考への『ゆさぶり』」の機能を果していることになる。

 「指示」(Aufforderung)の問題にしても同様なことが言えるのであって、たとえば、「鉄の 玉とセルロイドの玉とを天井から落下させてごらん」という指示は、結果として、子どもたちに 大きな「思考への『ゆさぶり』」を与えることになる。ちなみに、「指示」はまた「問い」の形で 提示することも可能である。(「どちらがさきに床に落ちるでしょう」)ザルツマンによれば「問 い」にしろ「思考刺激」にしろ「指示」にしろ、重要なことは、子どもたちに事物そのものとの 出会いを豊かに多様につくり出してやるということであり、間接的な「教授刺激」を十分用意し てやるということである。

 ただ、「教師の問い」の性格についてザルツマンは、それが二重に方向づけられている点に注 意しておかねばならないという。つまり、教師からの問いに子どもが答えるということは、事物 そのものの内容を患考すると同時に、教師にその答を提出する(=教師から「調べられている」)

という側面をもっているということである。「指示」は、「教師への提出」という側面が「問い」

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ほど強くないものといえる。

 たしかにr問い」は、一方では、子どもたちを日常経験や状況から一度切り離して、正確な知 識に基づき、客観的な言明によってある事象についての思考を促す機能をもっている。(たとえ ば旅行者から「駅はどこにありますか」と問われる場合など。)しかし、子どもに客観的な知識 構造をつくり出していくことができるのは教師の問いだけでなく、「指示」によってもまたそれ

は可能であ孔(たとえば・地図上のある地点を現実のものと対比さすことによって)

 したがって、繰り返せば、問題は事物(対象)に対する思考活動を子どもたちにどう喚起きす ことができるか、対象に向けての認識活動をどうゆり動かしてい.くことができるかということで ある。ヴァーゲンシャイソによって提起された「のり込み」という問題に言及しながら、ザルツ マンは「重要なことは思考を喚起する構造(場)をつくり出す」ということであるという。子ど もたちが事物(間接的「教授刺激」)と対面し、思考活動を開始するために「問い」や「指示」

が必要となる。「問い」や「指示」それ自体に価値があるのではなく、さまざまな「教授刺激」

によって、子どもの主体的(自己活動的)行為が導き出せるかどうかということが問題の本質で あることを忘れてはならないというgであ孔

終りに一授業における「ゆさぶり」ということ一

 以上、ザルツマンの「教授刺激」概念の概略をみてきた。最後に「教授刺激」についてのザル ツマンの概念規定についての意義と問題点を検討し、授業において「課題」を子どもたちのもの にしていく方策の基本問題にっいてあらためて明らかにしておきたい。

 ザルツマンも述べているように・ドイツ教授学にあってもImpu1sの概念規定は一様ではな い。ザルツマンにおいては、上述したようにImpu1sをなによりも「課題」との関連において        o〕

位置づけている。授業における「課題」とは、一言でいえば、「教科内容」のことにほかならな い。教授活動というものは、本来子どもの外側に存在している教科内容を子どもの内側にもち込 む作業である。しかし、「もち込み」の行為は、袋に物を詰め込むように、子どもの中に知識・

技能を押し込むことはできないのである。教科内容というものは、子どもに受け入れられ、子ど ものうちに変革を生み出し、子どもの新たな可能性を切り開くものとならなくてはならない。ザ ルツマンが「課題」という概念を使用するのも、教科内容が人間(子ども)に対して果す役割を 明確にしようとしてのことである。教科内容が担っている「課題」は、また同時に、子どもが主 体者として育っていくために自らで引き受けなければならない「課題」をも意味している。

 ザルツマンのいう「教授刺激」という概念は、まさに外からの「課題」(=教科内容)を子ど

もたち自身に獲得させていく教授のメカニズム(機構)を明らかにしようとするものである。課

題は常に子どもの外にある。しかし、ただ単に課題を提示しただけではそれは子どものものとは

ならない。そこに子どもと「課題」とを切り結ぶ媒介項としての教師の教授行為が存在しなくて

はならないのである。教師の「子どもへの働きかけ」の本質は、したがって、子どもたちの内に

潜む学習意欲、探究心、知的好奇心といったものを教科内容の世界に向けて解き放っていくとい

(13)

うところにある。あるいは、子どもたちの偏見やドグマ、日常的な狭い囚われから解放していく ということなのである。

 「教授刺激」の強調は、したがって、決して子どもたちを操作するということではない。子ど もたちを無意識・無批判・無感動のうちにある対象へと向わせ、課題解決をさせるというもので はない。なによりも子どもたちを一個の人格として尊敬するが故に「教授刺激」をなげかけるの である。そのことによって対話、論議、反論が子ども相互の間に、そしてまた教師自身に対して も展開されていくということなのである。「『教授刺激』はまさに、最終的には自らを不必要なも       7)

のにしていくことを目ざして子どもたちに提示されるのである」とザルツマンはいう。

 このようにみてくるとザルツマンのいう「教授刺激」概念は、まさに日本の教育実践でいわれ る広い意味での「ゆさぶり」概念と重なり合ってくる。つまり広い意味での「ゆさぶり」概念と して次のように言われているものとである。「広く『ゆさぶり』は教授と学習の統一、つまり、

教師の教えねばならないことを子どもたちの学びたいものに転化することのドラマを意味してい る。『ゆさぶり』は、ドグマ的権威主義的に『押しっけひきまわす』(G餉gerei)という指導の 誤りと、他方、自己活動を単なる『自発的・自然発生的な経過』(Selbst1auf)ととらえる誤り、

この二つの誤りを克服して授業における教師のあるべき教育的指導のあり方を示す概念として位        o〕

置づけることができる。」

 他方、ザルツマンの「教授刺激」概念においては、狭い意味での「ゆさぶり」についての論及 はさほど明確ではない。つまり「狭い意味の『ゆさぶり』は一人ひとりの認識・表現の質的発展 を子どもどうしの集団的相互作用のなかで最も有効に成立、発展させていくための教授行為の技        o〕

術としてあきらかにされねばならない」といわれていることにっいてである。それはまた、教師 からの「否定的媒介」としての「ゆさぶり」の問題であるといってよい。子どもたちが提出して くる「つまずき」を意味づけたり、「浅い表面的な理解」をまさに否定的にゆさぷるということ についての教授学的な方略や意義についてザルツマンは余り論を展開していない。そうした問題 は、むしろ計画化できないものとして、つまり、教育的タクトの問題として簡単にふれているに すぎないのである。

 そうした問題点は残しているものの、ザルツマンの「教授刺激」概念は、広義の「ゆさぶり」

概念を整理する意味でも、また授業における課題提示のあり方を分析するうえでも有力な手がか りを与えてくれる。より具体的な授業実践に即した「教授刺激」の分析については稿をあらため て論じたい。

1) Chr.Salzmann,Impuls−Denkansto3−Lehrerfrage;Zum Prob1em der Aufgabeste11−

  mg im Unterricht19771Essen.ザルツマンのImpulsという概念をここでは「教授刺激」

  と訳しておく。ここでいう「教授刺激」とは、「教科内容」を子どもたちに学び取らせるた

  めの「教師からの子どもへの働きかけ」を表わすものである。ザルツマンの場合Impu1s

(14)

  を「課題」(=教科内容)との関連において論じているので、たとえば、子どもを集中さす   ために「ほめたり」「しかったり」する行為は含まれていない。その点では「授業刺激」と   いう言葉は広すぎる。また「教授行為」という語は、教授活動の種類(「説明」「発間」「指   示」など)をr般にはイメージさせながちである。ザルツマンのいうImpu1s概念は、む   しろ、そうした諸々の教授行為に貫かれねばならない教授の基本的性格を表現していると   いってよい。その意味では、後述するようにそれは広義の「ゆさぶり」概念に最も近い。

2) Ebenda Ss.13〜18 3) Ebenda Ss,19〜23 4)  Ebenda Ss.24〜41

5)Impu1s概念の規定は・たしかに一様ではない。たとえば西ドイツのフーバー(F.Huber)

  はLehrerfrageとImpu1sを次のように図示する。(F.Huber,A11gemeine Unterrichts−

  1ehre,1972Regensburg,S.150)

       教師の思考路線

       Lehrerfrage       ・子ともの答え

Impu1s 子どもの意見

  ここでは、Lehrerfrageは「質問」であり、Impu1sは「発間」として定義づけられている。

   また、東ドイツの教授学者L.クリンベルクは、授業対話(Unterrichsges蝉。he)を導   く最も基本的な手段として「問い」(Frage)と「刺激」(Impu1s)の二つをあげている。

  (L.クリングベルク、佐藤監訳『現代教授学への理論』明治図書1978)そこでは「問い」

  の機能を次のようにいう。①生徒たちの自己活動を促す②思考活動を操縦する③達成結   果の点検④問うに価するものをっかませ、問いの能力を育てる。それに対してr刺激」は   生徒の「思考領域」を拡大させ、まとまりある思考や発言へと導くものとされて「言語」

  「事物」「身体」による三つの「刺激」に区分される。ここでは「問い」は主として学習活   動を生起し駆動するものとして「刺激」は主として活動を制御するものとされる。

6)なおザルツマンは、「教授刺激」の設定は「課題」の特性(「自然科学」「人文科学」「社会   科学」)をふまえる必要があるとする。また「教授刺激」を問題とすることが、決してグルー   プ学習やペア学習を排除するものではないという。ただグループ学習においてはImpu1s   は助言(Berat㎜g)という概念に置き変えられていくと指摘する。(Ebenda,S.73)

7) Ebenda,Ss.71−72

8)吉本均 『ドラマとしての授業の成立』明冶図書1982,p.188

9)吉本均『同上書』p.190

参照

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