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マルケサス諸島民の性関係

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マルケサス諸島民の性関係

著者 石川 榮吉

雑誌名 国立民族学博物館調査報告

巻 59

ページ 81‑82

発行年 2006‑02‑24

URL http://doi.org/10.15021/00001609

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石川 クック時代のポリネシアー民族学的研究一

8マルケサス諸島民の性関係

 親族名称と婚姻慣習との関係については,モルガン以来多くの議論を呼んできた。周 知のようにモルガンは,彼のいわゆるマレー式,ッラノ・ガノワニア式親族名称体系を,

集団婚の結果から形成されたものと考えた。リヴァーズなどは,時に,この見解に同調 的であった。しかしながら,このような考え方は,その後ウェスターマークやサピアー,

ロウィーなどによって批判され,とくにッラノ・ガノワニァ式親族名称体系(ダコタ型 またはbifurcate merging型またはイロクオイ型)に関しては,これがレヴィレートある いはソロレート慣行から起こったであろうことを指摘された。これによれば,ツラノ・

ガノワニア式体系は現実の集団婚の中からではなく,実際の婚姻の有無にかかわりない 理論上の可能性だけで生ずるというのである。つまり,何時の日かその男(女)の配偶 者となりうる可能性から,そうした親族名称体系が生ずるというのであった。

 ところが,この仮説は,これもまた周知のように,マードックによって否定された。

そのマードックは,他方で,レヴィレート,ソロレート慣行が前提となって婚姻外性交 が許容される例の極めて多いことを統計的に実証している。

 さて,そこで私が問題としたいのは,ロウィー,ウェスターマークにせよ,マードッ クにせよ,なぜ逆に考えることはできないのか,ということである。すなわち,マード ックに関して言えば,婚姻外性交が許容される前提としてレヴィレートやソロレートが 存在するのではなく,婚姻外性交が許容される間柄だからこそレヴィレートやソロレー

トがおこなわれるのではないかということ。また,ロウィーやウェスターマークに即し て言えば,妻とその姉妹,夫とその兄弟をそれぞれ同一名称で呼ぶような分類的体系が おこなわれているからこそレヴィレートやソロレートがおこなわれるのではないか。そ して,同一名称で呼ぶということは,婚姻外性交を許容しているということではないの

か, ということ。

 これは私の仮説である。しかし,これは早くすでにブリフォールトによって主張され,

さらにさきごろ江守五夫教授によって支持された見解  私はこれをブリフォールト・

江守説と呼びたい  に一致するものと思われる。ブリフォールト・江守説によれば,

「妻」または「夫」という語のエッセンスは「性的接近の権利(right of sexual access)

という点にある。この意味なしに「妻」とか「夫」の語が用いられることはない,とい う。これを前記したレヴィレートやソロレートにおける「配偶者となりうる可能性」と 混同してはならない。後者は将来起こるかもしれないが起こらないかも知れぬ可能性だ が,前者は歯すぐに行使してよい権利,つまり集団婚的  あるいは共有的性関係 状況なのだ。

 1962年に私のマルケサス調査からえた資料によると,マルケサスでは夫は妻の妹と,

妻は夫の弟と性関係をもつことができる。そしてまた,ソロレートおよびレヴィレート 慣行も存在する。こうした事実は,実は私の調査をまつまでもなく,早くから民族学者

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のあいだに知られていたことであった。しかし私の1962年の調査から次の事実が明らか になったのである。それは島民が,たとえば妻の妹と性関係をもちうる理由として,「妻 の妹は妻と同じくvθ伽6と呼ばれるから」と説明し,またアニヨメに接しうるも「彼女 は妻と同じくvε配紹と呼ばれるからだ」と説明していることである。vθ伽θと呼ばれる女 性に対しては,実の妻ならずとも等しく性的接近の権利をもつのである。このことは,

性的に接近してよい人びとに対して「妻」とか「夫」とかいう一括名称を与え,そのよ うな人びととは現実に共有的な性関係をもち,それなればこそ,場合によってはレヴィ レートやソロレートをおこなう,という上述の私見を支持する一つの証拠となりえぬで あろうか。

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