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40 周 年 に 思 う 事 橋 本 弘 子 27 奈 良 県 障 害 者 運 転 者 協 会 に 入 会 して 南 埜 淳 子 28 奈 良 運 転 者 協 会 40 周 年 を 迎 えて 木 村 有 美 子 28 私 と 運 転 免 許 とカーライフ 自 動 車 生 活 を 振 り 返 って 磯

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Academic year: 2021

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目    次

40 周年記念誌発刊を祝して

発刊のことば ……… 奈良県障害者運転者協会会長 楢原 泰彦… 1 祝  辞 ……… 奈良県議会議員 新谷 綋一… 2 祝  辞 ……… 奈良県健康福祉部障害福祉課 課長… 3 40 周年に寄せて… ……… 奈良県立平城高等学校 校長 町田 健一… 4 奈良県障害者運転者協会の 40 周年を祝して    ……… 奈良大学附属高等学校 前校長 武田 博利… 5 奈良県障害者運転者協会発足 40 周年をお祝いして   ………( 学 ) 青丹学園 関西学研医療福祉学院 学院長 樫葉 周三… 6 祝  辞……… 奈良県身体障害者福祉協会連合会 会長 坂下美恵子… 7 生き生きと暮らせる「共生社会」の実現を……… 顧問 橋本 和信… 8 奈障運設立 40 周年に寄せて… ………… 東京都身障運転者協会 会長 中島 浩司… 9 奈障運創設 40 周年を迎えて… ……… 元会員 万歳 敏夫… 10 時代の変遷と障害者運転者団体の役割 …………  立命館大学 教授 樋口 宜男… 11 障害者ドライバーの先駆者たち ………  大阪 吉本  昭… 12 私と電卓 ………  パソコン教室 講師 柳沼 寿徳… 15 皆さんと一緒に歩んだパソコン教室 …………  パソコン教室 講師 金井 洋子… 17

40 周年を迎えて

40 年間を思い出すままに … ………  元副会長 中出 邦子… 19 ボランティア部の活動を振り返って ………  副会長 灰藤 節子… 20 40 周年を迎えて ・………  副会長 西村佳代子… 21 安全・安心な「ノーマライゼーション社会」の実現に向けて    ………  平成 15・16 年度事務局長 清水 煌三… 22 奈障運に入会して ………  平成 17・18 年度事務局長 高森 敏夫… 24 「奈良県障害者運転者協会」創立 40 周年にあたって…… ………事務局長 汐碇 昭義… 25 奈障運と私 ………  山田 悦子… 26

(2)

40 周年に思う事 … ………  橋本 弘子… 27 奈良県障害者運転者協会に入会して ………  南埜 淳子… 28 奈良運転者協会 40 周年を迎えて … ………  木村有美子… 28

私と運転免許とカーライフ

自動車生活を振り返って ………  磯田 恵三… 29 私と自動車運転免許証の取得 ………  保井とし子… 31 安全運転フェスティバルに参加して ………  中村 重信… 33 語り継ぐ心 ………  野本美代子… 34

パソコン教室 ~ 新年会 ~ 日帰りレク

パソコン教室のアシスタントとして ………  山本 信義… 35 私とパソコン ………  中川 公子… 35 私とパソコン ………  奥田  秀… 36 奈障運の仲間に入れていただいて ………  宝田 鈴子… 37 パソコンとの出会い ………  澤田 孝夫… 37 平成23年の新年会盛大に行われる ………  副会長 齋藤 恵彦… 38 淡路島への日帰り旅行 ………  丸田 富子… 39 日本の身障者ドライバーの先駆者達(ブログより) … ………  野本美代子… 40 ご寄附および協賛広告のお礼、功労者・団体の表彰 ……… … 43 役員名簿 ……… … 44

奈障運 40 年間の歩み

 ①総会開催 ……… … 45  ②安全運転競技会 ~ 安全運転フェスティバル ……… … 46  ③パソコン教室 ……… … 48  ④人権学習(車椅子体験学習) … ……… … 49  ⑤奈良県障害者運転者協会と関連の歩み ……… … 50 編集後記……… … 67

(3)

発刊のことば

奈良県障害者運転者協会 会長

楢 原 泰 彦

平成7年に岡本章会長から大役を引継ぎ、皆様のご協力を得て会長を務めさせて頂いており ます。障害者は、自動車がなければ行動範囲が制約され社会参加ができないため、免許取得や 自動車の購入及び障害者専用の駐車場の設置などを社会に訴える活動をしてきました。これら の活動成果が着実に根付いているものと思われます。障害者に対する社会の目も大きく変わり ました。一般の人と共存する中で障害者も社会活動していくことが創立当初からの自立更生と の理念であります。 しかし、会員本人が外出すら出来ず、さらに、寝たきりの親兄弟を障害者が介護していて我々 が年老いて動けなくなれば、どうなるのでしょうかとの相談を受け、心を痛めています。また、 一人暮らしの高齢者が誰にも看取られることなく往生される報道がありますが、我々も高齢者 の域に達し障害者に何ができるのか。また、どのような事を若い世代に残すことができるのか を考えた時に、それは、最近希薄になった「人と人の交流であり、絆」ではないかと思われま す。我々40年の歴史の中で団結とボランティアを行ってきたこの精神の優しさではないかと 言えます。 行政が特別養護老人ホームを準備していますが、入居するのに数年待たなければなりません。 民間では、有料養護老人ホームや高齢者用賃貸マンションが急増していますが、高額な負担で あり誰でも入れるものではありません。 少子高齢化の難題に対して、障害者自らができることを実行したいのです。一人ぼっちの老 後を迎えることがないような仕組みを考えました。自分が介護される側に立った優しい介護を 提供して頂きたいのです。家族を含め複数の仲間が共同で順番に介護していくのですが、決し て、「高齢者を一人にしない!」寂しい老後を迎えさせない障害者を孤立させない施設を作る ことを考えました。 自分達が余暇の一部を提供することで、老後の生活に役立つことになります。今まで、自分 や家族のために生きてきましたが、これからは一人寂しい高齢者のために私たちが持っている 知識と経験を活用したいのです。障害者が高齢者の介護をし、高齢者が視覚障害者の目になる、 足の不自由な人の車いすを押す、耳の不自由な方の耳になる。このような障害者と高齢者の共 同介護は、自分の存在が人に役立つことを自覚させ、自分の生きがいを見つけることもできる と思います。まさに一石二鳥ではありませんか。 廃校やその他の施設などの再活用などにより安心して暮らせる施設があることは、私たちが 生きていく励みにもなります。皆様が本主旨をご理解頂き、協力頂きますれば、安心して暮ら せる老後環境を実現する飛躍の年としたいものです。皆様が日本に生まれたこと、奈良に住ん でいることが「よかった!」と感じられる住まいづくりを立ち上げて行く決意を、40周年記 念の挨拶とさせて頂きます。皆様のご協力をお願い申し上げます。

(4)

祝 辞

奈良県議会議員 奈良県障害者運転者協会顧問

新 谷 綋 一

奈良県障害者運転者協会創立40周年を心よりお祝い申上げます。 今日まで楢原会長さんを中心に役員、会員皆様方が絆を大切にされ、信頼と団結、一致 協力のもと積極的な活動は障害者福祉の充実、並びに奈良県福祉の向上、県政発展に多大 の貢献しておられる所であり、そのご功績に敬意を表し、感謝致します。 協会を結成された昭和40年代より、我が国は車社会に突入、障害者の運転免許習得も増 加、行動も広くなり、車は便利で豊かな日常生活のパートナーとして無くてはならない存 在であります。一方、痛ましい交通事故は後を断ちません。その様な状況の中で皆様方に は交通安全、事故防止のために県警察の協力を得て「奈良県安全運転フェスティバル」を 始め、交通マナーや、更なる運転技術の向上に講習会や研修会、高校生ボランティアの育 成、交流会を開催される等、障害者がたくましく生きる力、自立心を養い、社会連帯意識 を高め努力しておられる姿に頭が下がります。 障害者に対する国や地方行政は、措置費制度から支援費制度に、そして自立支援法にと、 ここ10年は机上による制度改正が行われ、余りにも現実離れの改正に関係団体あげて訴え 成果をおさめられた所であります。 昨年の平城遷都1300年の節目のように、法治国家、福祉、文化国家として、事の起こり、 始まり、原点に返り、みんなが助け合う明るい社会創りに頑張りたいものであります。 エネルギーが変わっても車社会は続きます。安全運転を基本に、一層のご活躍と県障害 者運転者協会が40周年を機に、ますます発展されます様に、会員皆様方のご幸福を心より お祈り申し上げ、あいさつと致します。

(5)

祝 辞

奈良県健康福祉部障害福祉課長 「奈良県障害者運転者協会」が結成40周年を迎えられたことをお慶び申し上げます。 貴協会は結成以来、幅広い活動を展開され、奈良県の障害者の福祉の向上に大きく貢献して こられました。 運転免許を取得する障害者が皆無に等しい時代から、障害者の運転免許取得のために尽力さ れてきたことにより、現在では多数の障害者の運転免許取得が進み、活動の場が大きく広がり ました。また、交通安全・交通事故防止の指導のための事業をはじめ、各種研修会や交流会の 開催、学生ボランティアの育成や啓発活動の実施などにより障害者の自立と社会参加の促進に 大きく貢献されてきたことに、深く敬意を表する次第です。 この40年間で障害者をとりまく状況は大きく変化し、県においては平成17年度に策定し た「奈良県障害者長期計画2005∼ともに生きる」の後期計画と平成18年度に策定した「奈良 県障害福祉計画」の第2期計画を一体とした「奈良県障害者計画」を平成22年3月に策定し ました。 計画では、「障害のある人が誇りをもって人生を歩むことができる地域社会の実現」と「誰 もが社会の一員として包み込まれお互いに支え合う地域社会の実現」を新たな基本理念として、 福祉、教育、雇用、保健、医療、まちづくりなど、生活全般を通じた幅広い分野での施策の方 向と、障害種別ごとの取り組みや各種の数値目標について定めています。 この計画にもとづき、障害福祉の取り組みを確実に進めていくためには、行政だけではなく、 皆様方のご理解とご協力が必要不可欠であると考えておりますので、より一層のご理解・ご協 力を賜りますようよろしくお願いいたします。 最後に、奈良県障害者運転者協会のますますの発展を祈念申し上げて、お祝いの言葉とさせ ていただきます。

(6)

40周年に寄せて

奈良県立平城高等学校 校長

町 田 健 一

奈良県障害者運転者協会発足40周年おめでとうございます。 平城高校はこれより8年遅れて創立、ことし32年目を迎えます。「人に優しくなれるため にどうすればよいのか?」視野の広がり、思考の深まり、そして身体的成長を通じ、子どもか ら大人へと大きく変貌する高校3年間に、この問いに対し答を教えるのではなく、さまざまな 経験を通して自ら何かを感じてほしいと思っています。 平成12年、貴協会の平本様を皮切りに、清水様、高森様、汐碇様にご来校、講演をいただい ております。「障害者から見たバリアフリー」「ノーマライゼーションの確立」等、今の個人や 社会に必須の課題への生徒たちの理解にたいへん役立ちました。併行して、アドバイスをいた だきながらの生徒自身の車椅子介助体験学習が定着してまいりました。これらを通じ「ともに 生きる」意識が生徒、職員の心の中に、体の中に組み込まれていっているはずです。ご支援に 感謝いたします。 私ごとですが、1月に橿原の運転免許センターで免許更新を行いました。30年間東京に暮 らし(もちろんそれだけが理由ではないですが)完全なペーパードライバーになってしまって います。免許証は身分証明書に過ぎないという情けない状態です。先日、貴協会の方から「運 転は楽しいですよ、世界が広がりますよ」と励まされました。 会員の皆様、今後ともあらゆる機会に社会へのメッセージを発信し、また健康に留意され、 楽しい日々、豊かな人生をお送りいただきたいと願っております。

(7)

奈良県障害者運転者協会の40周年を祝して

奈良大学附属高等学校 前校長

武 田 博 利

奈良県障害者運転者協会が40周年を迎えられましたことを心からお慶び申し上げます。 本校の生徒達が、貴協会の行事に参加させていただきまして、早や10年の歳月が経ったか と思います。この間、生徒会役員を中心とした多数の生徒達が貴協会の行事に参加させていた だき、自ら進んで社会参加していく大切さを実感するとともに、今後、社会と自己との関わり 方について、どのように受け止め実践していくかを考える良き機会になっていると思います。 以前、本校の生徒が、何回か障害者の外出支援を目的とした花の博覧会や美術館での見学等、 各種イベントに参加したことがありましたが、その折、帰校してから、「車椅子を押しての行 動は、初めての経験で、少し緊張したけれど、すごく楽しく一日を過ごすことができました。 いろいろ心遣いをしなければならないのは自分達なのに、逆に車椅子の方に、自分達がやりや すいようにずいぶん心遣いをしていただいたと思います。」と言っていたのを思い出します。 また、橿原市の県運転免許センターでの、安全運転競技会では、受付や開会式、閉会式の手 伝いや自動車の誘導等での仕事をさせていただき、参加されて障害者の方々の元気な姿から、 自分たちも多くのパワーを得たようでした。 ある土曜日の昼下がり、校長室で校務をしていますと、友人の奈良市会議員のH氏から、「今、 焼肉パーティーのボランティアで、奈良大附高の生徒が頑張っているよ。」との電話がかかり ました。電話を替わっていただき、生徒と会話しましたが、生き生きとした話声で、和やかな 雰囲気で楽しく交流をしてくれ、多くのものを体得していることを感じました。 このように、奈良県障害者運転者協会での様々な体験は、生徒達の意識を高め、成長してい くための大きな助力になっていると考えられます。これからも県障害者運転者協会をはじめ、 他のボランティア活動や体験学習に参加することを広げ、多くのものを学ばせたいと思ってい ます。 最後に、奈良県障害者運転者協会の益々の発展を祈念いたします。

(8)

奈良県障害者運転者協会発足40周年をお祝いして

(学)青丹学園 関西学研医療福祉学院 学院長

樫 葉 周 三

このたびは奈良県障害者運転者協会発足40周年を迎えられましたこと心よりお慶び申し 上げます。 一口に40年、発足から今まで多くの苦難の道のりではなかったかと存じます。障害をお持 ちになった皆様方にとり生活の拡大や社会への参加を行うことのハードルは私どもに計り知 れないものであったかと思います。 昨今バリアフリー化が叫ばれ、近代社会では徐々に生活しやすい環境になってまいりました。 しかし一歩中に入ってみるとまだまだ多くの問題を抱えております。又現在の社会にとり生活 手段として車は必要不可欠な存在になってまいりました。そのような社会状況の中まだまだ環 境面で改善してゆかねばならないかと思います。 今後様々なハードルをクリアする上で皆様方の積極的な社会への参加がその引き金になる のではないでしょうか。 より暮らしやすい街づくりを目指し大いに社会進出をしていただきたいと思います。私ども (学)青丹学園 関西学研医療福祉学院では医療福祉の分野で現在皆様方の生活支援に携わる 人材育成をおこなっております。まだまだ若い人材で至らぬことが多々ありますが、皆様方の 生活支援ができるよう日夜勉学に励んでいる次第です。今後皆様方とともに手を携え合い将来 の医療福祉の支援者として皆様方の生活を支えたいと思います。 最後に協会ならびに会員皆様方のご健康と益々のご発展をお祈り申し上げますと共に今後 50周年さらに数十周年を重ねていかれますことを願い、お祝いの言葉に代えさせていただき ます。

祝 辞

奈良県身体障害者福祉協会連合会 会長

坂 下 美恵子

ここに希望にあふれた40周年をむかえられますことは、非常におめでたいことと思い一言 お祝いの言葉を述べさせていただきます。 私は昭和55年に運転免許を習得いたしました。もう30年も経過したと思いますもののそ れよりも10年も前にこの協会ができ皆様方が安全運転を基本に今日まで過ごしてこられま したことに対して心から感謝申上げたい気持ちいっぱいでございます。 1年に1度の安全運転フェスティバルに毎年参加させていただき安全運転の基礎をもう一 度確認の意味も含めた上の参加でございます。昨年もどうにか賞を頂くことができました。私 は年齢も高齢でもあるしできるかぎり車には乗らないようにしたいと思いますけれど、どうし ても役員をしております関係で毎日ほとんど乗車することは多くなり、また遠方にも出ていか なければならないことも多々ございます。そのような時いつも当協会を思い出し絶対に安全運 転でと心の手綱を引き締めて運転をいたしております。車は私たちの足でもありなくてはなら ない物であります。 車に乗ってこそ一人前の仕事になると思います。非常な高齢ではありますがあと少し乗せて いただきたい、そして頑張りたい、と考えています。これからもいろいろとお世話になります がこの協会に入れてもらっている限り安全運転であると信じている私です。 これからもお世話になりますがよろしくお願いを申しあげ、お祝いの言葉に換えさせていた だきます。

(9)

祝 辞

奈良県身体障害者福祉協会連合会 会長

坂 下 美恵子

ここに希望にあふれた40周年をむかえられますことは、非常におめでたいことと思い一言 お祝いの言葉を述べさせていただきます。 私は昭和55年に運転免許を習得いたしました。もう30年も経過したと思いますもののそ れよりも10年も前にこの協会ができ皆様方が安全運転を基本に今日まで過ごしてこられま したことに対して心から感謝申上げたい気持ちいっぱいでございます。 1年に1度の安全運転フェスティバルに毎年参加させていただき安全運転の基礎をもう一 度確認の意味も含めた上の参加でございます。昨年もどうにか賞を頂くことができました。私 は年齢も高齢でもあるしできるかぎり車には乗らないようにしたいと思いますけれど、どうし ても役員をしております関係で毎日ほとんど乗車することは多くなり、また遠方にも出ていか なければならないことも多々ございます。そのような時いつも当協会を思い出し絶対に安全運 転でと心の手綱を引き締めて運転をいたしております。車は私たちの足でもありなくてはなら ない物であります。 車に乗ってこそ一人前の仕事になると思います。非常な高齢ではありますがあと少し乗せて いただきたい、そして頑張りたい、と考えています。これからもいろいろとお世話になります がこの協会に入れてもらっている限り安全運転であると信じている私です。 これからもお世話になりますがよろしくお願いを申しあげ、お祝いの言葉に換えさせていた だきます。

(10)

生き生きと暮らせる「共生社会」の実現を

奈良県障害者運転者協会 顧問

橋 本 和 信

奈良県障害者運転者協会が40周年の記念すべき年を迎えられことに心よりお祝い申し上 げます。設立以来毎年、奈良県安全運転フェスティバルを開催され、障がい者の安全運転技術 の向上を図ると共に各種事業を通じて社会参加を容易にし、自立更生を図られてきたことに敬 意を表する次第です。 さて、40年前の昭和46年当時は、障がいを持つ方々は家から外出したがらず、いわゆる 閉じこもりの家庭が多かった時代でありました。外出しようにも障がい者用の車も普及してお らず、自身が運転免許証を取得するにもそのために整備された自動車学校もなく、障がい者の ための教習所の先生を東京からお迎えし、広場に白線を引いて運転の練習をされ、苦労して運 転免許証を取得しても今日のようにバリアフリーの環境整備も整っていない中での車での外 出は、駐車場やトイレなどで不便を強いられていました。 もとより、障害者の自立、社会参加の支援は障害者基本法に則り国、地方公共団体が担うべ きものとされていますが、協会に於いては120余名の会員とボランティアが一体となって安 全運転フェティバルや車椅子体験学習、ボランティア交流会などの独自事業を行い、積極的に 障がい者の社会参加を図られてきました。 また、ノーマライゼーションの理念のもとに、国や県、市に対して障がい者用の駐車場やガ ソリンスタンドにトイレの整備、高速道路の障がい者割引、宿泊施設の改良などの陳情活動に よるバリアフリー化は、障がい者にとって意義のあるものとなっています。 そして、数々のご苦労を積み重ねられて迎えられた40周年の今年は「辛卯(このとう)」 のうさぎ年で跳ねる飛躍の年ともいわれます。 来るべき次に迎える50周年に向けて会員の皆様が一体となり、共に生きがいのある生き生 きと暮らせる「共生社会」の実現を求めて大きく飛躍されることをご期待申し上げお祝いのご あいさつといたします。

(11)

奈障運設立40周年に寄せて

東京都身障運転者協会 会長

中 島 浩 司

奈障運設立40周年おめでとうございます。 私は貴会の30周年大会に参加させて戴いた時の事を思い出しました。会場は国会議員、 県・市・町・村の多くの議員さんのご参列の外、高校生達が礼儀正しく、きびきびしたボラン ティアの姿に感動を覚えたものでした。その身障者に対する若々しい感性に接して今の若者は 掴みどころが無く頼りないと独りよがりを嘆いていた自分を恥ずかしく思ったものでした。 奈障運は色々な事業を実施されておられて、その中で特に印象深い想いでの一つとして桜井 市の自動車教習所での安全運転競技会に参加させて貰ったことです。その事業は40周年を迎 えられた現在も継続されていて、実にすばらしい事と敬服しております。また貴会報掲載に有 りますように平城高校、香芝東中学校等沢山の学生たちに車椅子体験の事業を実施されている 事業のあり方に改めて敬意を表する所です。これ等数々の活動を通して身障者も同じ人間とし て生きている事を多くの人々に体感して貰える人権学習に力点を置かれて居るのも奈障運の 優れた特色だと感じています。私達、都障運も何らかの行動をおこさなければと啓発されてい る今日です。 思えば、昭和34年2月に「身障運転免許獲得運動」が産経新聞に取り上げられ、昭和35 年12月20日に身障者運転免許取得制度が実施されました。昭和39年11月1日に「駐車 禁止除外指定車」標章が警視庁より発行、現在全国で身障者用駐車場の整備が進みました。し かし一般者が我物顔に堂々と駐車して居るのが実態です。 必要な時必要な人が利用出来ない此の現実を解決するには欧米等の罰金制度も視野に入る 事も考えられますが、その前に日本人の身障者への思いやりを高める方法の一つとして、佐賀 県が積極的に推進しているパーキング・パーミット制度を導入することも重要ではないでしょ うか。都障運ではこの佐賀県方式を東京都でも採用して戴くように現在都議会に働きかけてお ります。 貴県に置かれては此のパーキング・パーミット制度をご検討戴き、貴会と共に推進して実現 出来る事を願っております。 奈障運40周年記念大会の盛大なご成功とご発展を祈願して、ご挨拶を申し上げます。

(12)

奈障運創設40周年を迎えて

元会員

万 歳 敏 夫

奈良県障害者運転者協会創立40周年、おめでとうございます。この会の創設のお手伝いを した一員として今日の姿をみて感無量なものがあります。故岡本章元会長が発起され、仕事が 終わった夜分お手伝いを頼まれた者数人が、私宅に集まって相談したことが思い出されます。 そうして昭和40年頃から具体案を計画、まず脚下の奈良市の障害者で車の免許をもち運転 されている方、運転免許を取りたい人などの調査をし、順次、他の市・町・村へと呼びかける という手順で出発しました。現在の楢原会長さん方々も、この頃から参画して下さったと思い ます。 やっぱり運転免許を取りたいと言う希望が多くありましたので、第一段階として、運転免許 取得の講習会を京都府に近い青山町の空き地を借りて、車3台?指導員3名?で始めました。 ところが、改造した車や専門の指導者もおりませんでしたので、普通車で取れる方を中心に 進めました。それから数か月後、場所を木津川沿いの空き地に移り、東京から障害者専門の指 導者と改造車3台を持って来て下さり、改造車で受講できるようになりました。それは昭和46 年だったと思います。 この年に免許証を取られた方や、既得者の方が中核となられ、奈良県障害者運転者協会が設 立され、ヨチヨチながら障害者自立の援け、会員の親睦と絆を拡め、堅くする第一歩を踏み出 しました。 それから40年会長を中心に各役員、会員の方々の御盡力、支援下さった関係機関の方々の お蔭で今日の様な充実した内容と実践する会に育てて戴いたことを心から敬意と驚きの眼で 拝見致しております。 どうぞ、皆様、この会員は、ずっと無事故、無違反、安全運転のオーソリティであられると 共に、障害者の睦ましい集いと研修の場として、社会に貢献して下さいますようお祈り申し上 げます。

(13)

時代の変遷と障害者運転者団体の役割

立命館大学 教授

樋 口 宜 男

日本身体障害者団体連合会自動車協会理事 (日本身障運転者協会顧問) 奈良県障害者運転者協会創立40年、誠におめでとうございます。一口に40年と言いますが、 大変な努力だったことと思います。あらためて深く敬意を表したいと思います。 この40年の間に、時代は大きく変わりました。財団法人自動車検査登録情報協会のデータに よれば、協会が創立された昭和47年には1,092万台だった乗用車は、平成22年現在で5,790万台 に増えています。自動車を欲しい人は誰でも自動車が持てる時代になったばかりか、若者たち の自動車に対する憧れがなくなりつつあるという40年前では想像もできない状況になってい ます。 自動車は下肢障害者にとっては「最もありがたい福祉用具」ですが、自動車が当たり前に持 てる時代になって、障害者が自動車を運転できることに対する感謝の気持ちが薄れてしまって いるのではないでしょうか? 障害者が自動車を運転するということが最初から許されたわ けではありません。昭和20年代の後半から、小山力太朗さん、原徳明さん、藤森善一さんなど の多くの先達たちが、自分たちで自作の自動車を作り、正式な運転免許がもらえない状態なが ら、警察と押し問答を繰り返して運転を続け、自動車が自分たちの生活を支えてくれることを 身を以って示し、障害者用の条件付きの運転免許を勝ち取って来られました。当時のことを知 る人たちが徐々に少なくなっている中で、先達たちが「最もありがたい福祉用具」を私たちに 残してくれたことに心から感謝し、それらの先達たちの足跡をしっかり記憶し、さらにその記 録を後世に残していく努力が必要だと思います。 藤森善一さんの足跡はフジオートのホームページ内のhttp://www.fujicon.co.jp/company/ 05root.htmlでご覧頂けますから、ご興味のある方は是非ご覧下さい。 時代の変遷という観点から見ると、高齢者が激増している状況も無視することはできません。 少子高齢化が進むと、30年後、50年後には年寄りばかりの社会になってしまいます。車いすの 走りやすい歩道の整備や、「買い物弱者」と呼ばれる高齢者の買い物対策、お出掛け支援など は一人高齢者だけの問題ではなく、障害者にも共通する問題です。 障害者の運転者の会は単に「運転者の会」に留まらず、広く「交通」という切り口から高齢 者や障害者を取り巻く社会の状況を分析し、社会と共生する道を見出していかなければならな いのではないでしょうか。40年という節目を迎えた奈良県障害者運転者協会がまた新たな課題 に直面しているのかも知れません。会の益々のご発展をお祈りすると共に、奈良県障害者運転 者協会が新たな課題に向かって果敢に挑戦され、道を拓かれることを切に希望致します。

(14)

障害者ドライバーの先駆者たち

大阪

吉 本 昭

奈障運40周年ですが障害者自動車運転免許取得が認められたのは、51年前、昭和35年12月20 日施行の新道路交通法によってです。戦後10年を経て昭和30年代に入り高度経済成長下のモー タリーゼーション(自動車の大衆化・自動車が生活に欠かせなくなった社会状況)には、戦前 からの道路交通取締法では対応できず障害者運転には視聴覚障害者の運転資格がなく、下肢障 害者は明確に規定されず、新道路交通法の成立が待たれました。原動機付自転車が普及して、 下肢障害者も手動三輪自転車に同じ原動機を取付けても殆んどの府県で認められない侭、自立 のため止むを得ず走行していたのが「障害者ドライバーの先駆者」と呼ぶべき人たちで、私も その一員でした。 新法の施行で原付免許として漸く認められ、明記された障害者自動車運転免許への挑戦が始 まりましたが、歩行不能・困難故に日常生活(商用・通勤・通学・通院・旅行等)に必要不可 欠の自家用車の運転免許取得は、手動運転装置付AT車を用意して府県警本部で運転が見込め るかの適性判定を受け自動車学校に持込み練習。公安委員会の厳しい試験に臨まねばならない のが、手動運転装置は製品が無く、AT車種は僅かで高価。故障勝ちとの困難に直面していま した。 その中で新法と同年発売の軽乗用車マツダクーペのAT車に一本のレバーを引けばアクセ ル、押せばブレーキの手動運転装置取付車を購入。自動車学校へ持込み、練習を重ね免許を取 得する例が出始めました。価格は30万円代でした。残念ながら私は、家業で竹材を積むために クーペには乗れず、普通貨物車に乗ろうにもAT車はなく両下肢マヒでクラッチを踏めないの が、軽貨物車なら右足よりマヒの軽い左足で何とか踏めるので、当時キャブオール型(鼻ぺち ゃで後部座席が長い)は富士重工の「スバルサンバー」東急くろがね工業の「くろがねベビー」 の二車種しかないのを荷台の広い「くろがねベビー」を選んだのが、同社初の手動運転装置の 製作取付に手間取り、自動車学校へ持込み教習を受けられたのは同年末で、翌37年3月27日に 運転試験合格。28歳の誕生日でした。下肢障害者の軽貨物車の運転免許第1号でした。 大阪の下肢障害者の普通乗用車免許第1号は36年3月の吹田市の福村周次氏(当時41歳)で、 戦傷で両大腿部切断の義足となり、苦学して有名病院の薬剤師となられ、原付手動三輪車を経 ての自家用普通免許は夫人(健常者)が先ず取得して協力。ダットサン中古車を改造、クラッ チは義足で踏んで合格。全国の下肢障害者運転免許でも第1号とされ、夫妻で何度もテレビに 出演。その苦労と喜びを話されました。同じ頃、驚いたことに下肢障害者が自分用の自動車を 知人に頼んで製作。陸運局の車両認定を受け運転免許を取得されたのが新聞に載りました。阿 倍野区の佐々木稔氏(当時51歳)で、車は大型の三輪オートバイに似ていました。同氏の勇気 に感動して連絡をとりましたが、同氏や福村氏や私のような例が東京・大阪始め全国に生まれ るのには、運輸省の諮問に応え新法の障害者運転免許規定の明記に尽力されたのが東京の下肢 障害者渡辺聖火氏(当時56歳)でした。同氏は新法成立10年も前から「下肢障害者の自立更生 には車両運転が必要」と厚生車両人団を設立、機関紙「足」を発行。運輸省始め関連官庁に訴え 続けられ、私は同紙上で免許取得直後の福村氏の苦心談を読むのですが、毎号のように「免許 取得を早めるにはどうすれば!!」と叫ばれていたのが東京の小山力太朗氏でした。 昭和38年正月、佐々木氏から福村氏の要望される厚生車両人団関西支部結成の相談で集まる との通知があり、両氏と大阪市内の下肢障害の中村光氏(当時39歳)村上徳正氏(33歳〉と私 の5名が運転免許取得者で、免許取得に挑戦中の下肢障害者が5名の集まりとなり、福村氏を 支部長として同支部が結成されるのですが、「厚生車両人団」との名称が堅苦しいので「大阪 身障者自動車クラブ」とも呼ぶことに決定。席上、福村氏の「苦心して免許を得たが、駐車禁 止地点が増えて行先から離れて駐車せねばならず意味がない。救急車・医師の往診車並みの駐 車制限緩和を要望したい」との発言に共感。これが下肢障害者車両の駐車禁止除外(駐車可の ステッカー交付)運動の始まりで、翌年の東京パラリンピックに呼応しての第1回大阪市身障 者体育大会時の選手移動の運転奉仕を行い、パラリンピック終了後来阪予定の外国選手への運 転奉仕を大阪善意銀行に預託しました。同年8月、私は初めて上京。渡辺氏を訪ねると初対面 の私を泊め積年の苦労と当面の課題「駐車可のステッカー交付」の要望を続けていることを熱 く話されました。 翌39年、私は新型コロナAT車で普通免許取得。新型ブルバードAT車に乗り代えた佐々木 氏と日野コンテッサAT車の中村光氏とで東京オリンピック後のパラリンピック見学に開会 前日上京。翌日会場で待ち合わせた渡辺聖火氏と小山力太朗氏とで見学したのですが、初対面 の小山氏は43歳。両下肢マヒでも長足・長身で眼鏡とハンチングの似合うダンデイでした。オ リンピックと同時に東京では駐車可のステッカーが交付。大阪ではパラリンピック終了直後外 国選手の来阪に合わせて交付されました。 翌40年9月、福村氏が急逝され、厚生車両人団は同41年社団法人厚生車両協会として認可さ れますが、同44年、小山氏主導の東京都障害者運転協会の設立時に渡辺氏が病没され、同氏を 障害者運転の父と仰ぐ小山氏等は日本障害者運転協会の設立を目指されるのが、奈障運は、そ の過程の昭和46年に生まれたことになります。当時、東京都身障運転者協会と山梨県身障運転 者協会があるのみで、後年㈱ニッシン自動車工業関西となる広陵町の山本敏喜氏の手動運転装 置取扱の創業間もなく、利用者の増加と結束を期して奈障運設立を早められたようでした。 私は同年末購入の日産プリンス・スカイラインの手動運転装置取付を同氏に注文。以後22年 間に乗り代えた4台の内3台を同氏に1台は外国車(フオルクスワーゲン)のため埼玉のニッ シン本社(亀田藤雄氏)の取付でしたが、下肢障害ドライバーとしての両氏は最高の手動運転装 置を製作普及されました。奈障運会長の奈良市の印刷業岡本章氏(当時50歳位)も柔和な人柄

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倍野区の佐々木稔氏(当時51歳)で、車は大型の三輪オートバイに似ていました。同氏の勇気 に感動して連絡をとりましたが、同氏や福村氏や私のような例が東京・大阪始め全国に生まれ るのには、運輸省の諮問に応え新法の障害者運転免許規定の明記に尽力されたのが東京の下肢 障害者渡辺聖火氏(当時56歳)でした。同氏は新法成立10年も前から「下肢障害者の自立更生 には車両運転が必要」と厚生車両人団を設立、機関紙「足」を発行。運輸省始め関連官庁に訴え 続けられ、私は同紙上で免許取得直後の福村氏の苦心談を読むのですが、毎号のように「免許 取得を早めるにはどうすれば!!」と叫ばれていたのが東京の小山力太朗氏でした。 昭和38年正月、佐々木氏から福村氏の要望される厚生車両人団関西支部結成の相談で集まる との通知があり、両氏と大阪市内の下肢障害の中村光氏(当時39歳)村上徳正氏(33歳〉と私 の5名が運転免許取得者で、免許取得に挑戦中の下肢障害者が5名の集まりとなり、福村氏を 支部長として同支部が結成されるのですが、「厚生車両人団」との名称が堅苦しいので「大阪 身障者自動車クラブ」とも呼ぶことに決定。席上、福村氏の「苦心して免許を得たが、駐車禁 止地点が増えて行先から離れて駐車せねばならず意味がない。救急車・医師の往診車並みの駐 車制限緩和を要望したい」との発言に共感。これが下肢障害者車両の駐車禁止除外(駐車可の ステッカー交付)運動の始まりで、翌年の東京パラリンピックに呼応しての第1回大阪市身障 者体育大会時の選手移動の運転奉仕を行い、パラリンピック終了後来阪予定の外国選手への運 転奉仕を大阪善意銀行に預託しました。同年8月、私は初めて上京。渡辺氏を訪ねると初対面 の私を泊め積年の苦労と当面の課題「駐車可のステッカー交付」の要望を続けていることを熱 く話されました。 翌39年、私は新型コロナAT車で普通免許取得。新型ブルバードAT車に乗り代えた佐々木 氏と日野コンテッサAT車の中村光氏とで東京オリンピック後のパラリンピック見学に開会 前日上京。翌日会場で待ち合わせた渡辺聖火氏と小山力太朗氏とで見学したのですが、初対面 の小山氏は43歳。両下肢マヒでも長足・長身で眼鏡とハンチングの似合うダンデイでした。オ リンピックと同時に東京では駐車可のステッカーが交付。大阪ではパラリンピック終了直後外 国選手の来阪に合わせて交付されました。 翌40年9月、福村氏が急逝され、厚生車両人団は同41年社団法人厚生車両協会として認可さ れますが、同44年、小山氏主導の東京都障害者運転協会の設立時に渡辺氏が病没され、同氏を 障害者運転の父と仰ぐ小山氏等は日本障害者運転協会の設立を目指されるのが、奈障運は、そ の過程の昭和46年に生まれたことになります。当時、東京都身障運転者協会と山梨県身障運転 者協会があるのみで、後年㈱ニッシン自動車工業関西となる広陵町の山本敏喜氏の手動運転装 置取扱の創業間もなく、利用者の増加と結束を期して奈障運設立を早められたようでした。 私は同年末購入の日産プリンス・スカイラインの手動運転装置取付を同氏に注文。以後22年 間に乗り代えた4台の内3台を同氏に1台は外国車(フオルクスワーゲン)のため埼玉のニッ シン本社(亀田藤雄氏)の取付でしたが、下肢障害ドライバーとしての両氏は最高の手動運転装 置を製作普及されました。奈障運会長の奈良市の印刷業岡本章氏(当時50歳位)も柔和な人柄

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で親しくなり奈障運の吉野への一泊ドライブや総理大臣杯の出る障害者運転競技大会にも参 加致しました。 昭和48年、日本身障者運転者協会が正式発足。会長は山梨県障運の原徳明氏(当時53歳)で 小山氏は事務局長に就任。副会長は複数制で佐々木氏の他、都障運の畑中良三氏(当時34歳) 宮城県の平田健治氏等で、厚生車両協会関西支部は日障運関西支部として移行。佐々木氏が支 部長就任。同年秋、石油シヨックによるガソリンの高騰と供給不安に障害者ドライバーも動揺 するが翌年沈静。各地に増える有料道路の無料化が課題となり関西支部も道路公団に要望する が、5年後の昭和54年に漸く全国で半額割引が実現。日障運は全国大会を毎年開催。社団法人 全国脊損連合会も各県に支部を設け積極的に運動を展開した結果でしたが、日障運役員が全国 脊損連合会の役員を兼ねての活動もありました。 以上、私の出会った障害者ドライバーの先駆者たちの運転免許取得後20年。奈障運発足10年 頃までの思い出を述べましたが、山本敏喜氏、亀田藤雄氏以外の方は私より年長。免許取得時、 既に中年であられて全て逝去され、山本氏も昨年逝去され、亀田氏のみ健在です。ネットで「ら くだぞうblog 日本の障がい者・自動車運転50年のあゆみ」を検索されれば、渡辺聖火氏、 小山力太朗氏、原徳明氏、畑中伸三氏、平田健治氏、亀田藤雄氏についての記述があります。 是非お読み下さい。何事も先駆者は民間人で早くから憂い、公(マスコミ・国会議員・官庁等) に訴え続け、漸く事が成就しても短かく楽しみ、つまり「先憂後楽」して先立たれた姿を奈障 運設立40周年を祝われる皆様に改めて知って頂ければ幸甚です。 尚、私は大阪在住ですが父祖三代奈良県出身で、親族・知己・友人が奈良県に多く、生駒に も住居があり、自家用車で往来する生活を続けています。岡本章氏、山本敏喜氏とのご縁で昭 和時代の奈障運の行事に参加させて頂きました。旧知の本誌編集部長 高森敏夫氏からの依頼 で拙文を寄稿致しました。御判読を感謝致します。

私 と 電 卓

パソコン教室 講師

柳 沼 寿 徳

奈良県障害者運転者協会40周年おめでとうございます。この節目の記念号に寄稿出来ました 事、大変嬉しく、又、自分の40年を振り返る機会が出来た事嬉しく思います。当奈障運に私が パソコン講師として入会したのが平成15年。清水運営委員の下、楽しくパソコン教室が開始さ れ、1年後の平成16年奈障運だより第8号に「パソコン教室1年間を省みて」と題して寄稿さ せて頂きました。それから8年メンバーは余り代わらず、故に、皆さんのパソコンの腕も上が ってきたようで嬉しいです。さて私の40年、何と言っても生涯の仕事となった『電卓』の開発 で、その思い出を2回目の寄稿として、この40周年記念号に述べさせて頂きます。 気がつくともう古希(七十歳)。小さい頃から機械いじりが好きで、小学5年生で鉱石ラジ オを総て手作りで作製。担任の中野先生が理科がお得意で友達3人誘ってその担任にお願いし 「ラジオの作り方」の課外授業をして頂いたりしていた。小6で4球ラジオ、中2で5級スー パーラジオ等作って遊んでいた。 高校生活はただ受験勉強のみって感じ。大学は工学部、通信関係(昭和30年代にはまだコン ピュータは無くラジオやステレオ等は通信の分野)でした。丁度2年生の終わり頃、卒論テー マを探していた時、後にノーベル賞を受けた江崎玲於奈博士の江崎ダイオードの論文を読んで 面白いと思いテーマに選んだのでした。この江崎ダイオードとは普通、素子に電気を流すと、 電圧を増やすと電流も増えるのですが、ある物質ではある領域で逆転し、電圧を高くしてゆく と電流が少なくなって行く、と云うものです。自然界ではありえない現象が確かに起きる。こ んなことが起きるのはこの領域ではエネルギーが考えもしない所に保存されており、このエネ ルギーを使って振動(発振)するはず、と思い装置を作ると案の定、発振が起こった。後で就 職しコンピュータ開発の仕事をするのに役に立った。何故ならコンピュータは発振器で創られ るパルス信号を基準として動作しているからです。 昭和40年大学を卒業、シャープ(当時早川電機工業)に就職。希望した訳ではないが計算機 事業部に配属、当時まだ世の中にコンピュータは一般的でなくIBMや日立が大型コンピュー タを作っていた。上司が社長に呼ばれ、時代に乗り遅れないために新規コンピュータの開発命 令が出されたが大型コンピュータは我社の体質に合わない。小型の目新しい『電子そろばん』 で開発GOサインが出てスタートした。これが世界の電卓の始まりであった。 その1号機は昭和40年に完成したものの大きさは現在のスーパーのレジ並み、価格は50万円、 およそ「そろばん」とは縁遠いものであった。それからもう40数年、開発機種は650種を超え ている、開発の喜び、産みの苦しみを多く味わった。奈障運と同じこの思い出深い40年間を少 し、掻い摘んで紹介し「電卓の歴史」談としてみたい。

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私 と 電 卓

パソコン教室 講師

柳 沼 寿 徳

奈良県障害者運転者協会40周年おめでとうございます。この節目の記念号に寄稿出来ました 事、大変嬉しく、又、自分の40年を振り返る機会が出来た事嬉しく思います。当奈障運に私が パソコン講師として入会したのが平成15年。清水運営委員の下、楽しくパソコン教室が開始さ れ、1年後の平成16年奈障運だより第8号に「パソコン教室1年間を省みて」と題して寄稿さ せて頂きました。それから8年メンバーは余り代わらず、故に、皆さんのパソコンの腕も上が ってきたようで嬉しいです。さて私の40年、何と言っても生涯の仕事となった『電卓』の開発 で、その思い出を2回目の寄稿として、この40周年記念号に述べさせて頂きます。 気がつくともう古希(七十歳)。小さい頃から機械いじりが好きで、小学5年生で鉱石ラジ オを総て手作りで作製。担任の中野先生が理科がお得意で友達3人誘ってその担任にお願いし 「ラジオの作り方」の課外授業をして頂いたりしていた。小6で4球ラジオ、中2で5級スー パーラジオ等作って遊んでいた。 高校生活はただ受験勉強のみって感じ。大学は工学部、通信関係(昭和30年代にはまだコン ピュータは無くラジオやステレオ等は通信の分野)でした。丁度2年生の終わり頃、卒論テー マを探していた時、後にノーベル賞を受けた江崎玲於奈博士の江崎ダイオードの論文を読んで 面白いと思いテーマに選んだのでした。この江崎ダイオードとは普通、素子に電気を流すと、 電圧を増やすと電流も増えるのですが、ある物質ではある領域で逆転し、電圧を高くしてゆく と電流が少なくなって行く、と云うものです。自然界ではありえない現象が確かに起きる。こ んなことが起きるのはこの領域ではエネルギーが考えもしない所に保存されており、このエネ ルギーを使って振動(発振)するはず、と思い装置を作ると案の定、発振が起こった。後で就 職しコンピュータ開発の仕事をするのに役に立った。何故ならコンピュータは発振器で創られ るパルス信号を基準として動作しているからです。 昭和40年大学を卒業、シャープ(当時早川電機工業)に就職。希望した訳ではないが計算機 事業部に配属、当時まだ世の中にコンピュータは一般的でなくIBMや日立が大型コンピュー タを作っていた。上司が社長に呼ばれ、時代に乗り遅れないために新規コンピュータの開発命 令が出されたが大型コンピュータは我社の体質に合わない。小型の目新しい『電子そろばん』 で開発GOサインが出てスタートした。これが世界の電卓の始まりであった。 その1号機は昭和40年に完成したものの大きさは現在のスーパーのレジ並み、価格は50万円、 およそ「そろばん」とは縁遠いものであった。それからもう40数年、開発機種は650種を超え ている、開発の喜び、産みの苦しみを多く味わった。奈障運と同じこの思い出深い40年間を少 し、掻い摘んで紹介し「電卓の歴史」談としてみたい。

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まず1号機それは苦労の連続、大型コンピュータの小型化に欠かせないのが回路の小型化で あるが、当時の回路は真空管がやっとトタンジスタに変わったばかり。その回路の殆どにトラ ンジスタを使ったが、それでも、部品点数は3千点、大きさ、価格は、上述の通りである。 小さくするためには部品点数の削減が最優先で、まず導入したのが、米国でシフトレジスタ ー方式が発明され早速取り入れた。これは、例えば13と入力したとき、まず“1”を入力、次 の“3”を入力したと同時に前の“1”は自動的に10と位を一つずらすだけで回路は10桁の場 合10分の1に削減されたのである。次にトランジスタの複合化で数個のトランジスタを小さな 缶(シャープペンお尻の芯入れキャップ程度の大きさ)の中に数10個入れ、集積回路と呼ん でいた。(最近の技術は1mm²に数億個のトランジスタ入れてしまう)そしてIC化電卓CS− 16Aとして完成。 次に734プロジェクト、1973年4月目標に世界最小最軽量の電卓作りを目指した。100名程で、 各技術部から人選され1つの部を作り任に当たった。NHK番組プロジェクトXでも取り上げ られたが、これは表示に液晶を使いこの液晶のガラスを大きくしその上にIC化された回路及 びキーも全て一枚のガラス上に載せ初めてポケッタブル電卓(上着のポケットに入るサイズの 電卓)として3万円を切って世の中に出したのである。 このプロジェクトから定年(2000年)までひたすら電卓の開発に携わり開発機種は650機種 を超えている。思い出深い新製品を何機種か挙げて見よう。盲人向けの音声電卓、ゲームウォ ッチの流行った頃ゲーム付き電卓(6機種)太陽電池を付けた万年電卓、薄さを追求した超薄 型電卓(厚み1.6mm)これは世界一であったので、未だに大英博物館に飾られている。ど れも思い出深い製品であった。 これらは新製品開発を技術部として取り組んだものだが、電卓は売れ行きがよく、作っても 作っても売れる時代が昭和48年頃到来。ロボット25台を使って2秒に1台出来る製造ラインを 作製したものの24時間運転では4万3千台出来る計算になるが、そうはゆかないどうしても部 品にはバラツキがあり、個人的に取り組んだ仕事として、製造ラインが止まる対策にエクセル で推定計算をして部品は不良率10万分の10以下を要求。不良率を改善、『実験計画法による工 程設計』と題して論文(自社技術誌)に発表した。 そして定年後2005年に江崎先生が1991年に受けたと同じIEEE賞(電子工業製品開発に関 する世界的な賞)を会社として受賞する事が出来た。過ぎてしまうとアッと云う間の40年間で あったが振り返ってみると日々充実した楽しい仕事であった。 電子式卓上計算機〈コンペットCS−16A〉

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皆さんと一緒に歩んだパソコン教室

パソコン教室 講師

金 井 洋 子

全然パソコンを触ったことがない初めての人のために、パソコンの使い方を1から教えてほ しいと頼まれました。 「何を教えたらいいですか?」 「それはわかりません。とにかくパソコンの使い方を教えて下さい。」 大変な事を引き受けてしまったと思いました。主人と私は色々と相談しました。 「何を教えたらいいかなぁ…」 「何をしたいか聞いたらいいじゃないか?」 でも、その時の皆さんはパソコンで何をしたいかと聞いても返事は帰ってきませんでした。 いろいろと考えた末に、第一回目のパソコン教室ではスーパーのチラシをエクセルで作って もらうことにしました。「先生、チ・ラ・シですか?」皆さん驚きの目できょとんとしておら れました。私は黒板に大きく『特売、牛乳158円』と書きました。 「今日はこれをメインで売っていきますよ!」 「そしたら牛乳は大きい字にせんとあかんわ」 そこで皆さんにフォントサイズを大きくする方法を説明しました。 「なんか変わった文字にしたいなあ」 色々なフォントがあることを説明しました。それから次から次へと要望が出てきました。白 黒やったら安っぽいからカラーにしたいとか牛乳の文字の周りを星形に光らせたいとかスー パーの地図を入れたいとか…。 皆さんの希望をひとつひとつ実現していくと皆さんもコンピュータってこんなことができ るのかということがわかってこられたようで、何だか私もうれしくなりました。 町中のコンピュータスクールのような専門用語をできるだけ使わないようにということも 心がけました。ツールバーのBはぶっとい(太い)のBですよとか、ドラッグしてほしいとき にはずりずりしてくださいとか…。ちゃんとしたコンピュータスクールの先生が聞いたらびっ くりするような説明だったと思います。 私は皆さんのおかげでここまでこられたと思います。最初のコンピュータ講習からずっと参 加して下さっている生徒さんは、講習会の前に事前に集まって勉強会をされたり、今も大変熱 心にがんばっておられます。皆さんから寄せられる質問のひとつひとつにお答えすることによ って自分自身も技能を高めていくことができると思います。

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パソコン教室活動内容(平成22年4月∼平成23年3月)

開 講 日 講 義 内 容 4月11日(日) 外字について(3月に引き続き外字の登録を勉強します) 5月16日(日) エクセル又はワードを使ってチラシを作成する。 6月20日(日) ワードを使ってチラシを作成する。(5月に引き続き実施) 7月18日(日) ワードでチラシを作成 8月は休講 9月26日(日) 名刺の作成 10月24日(日) 年賀状作成(ワードを使って年賀状を作成) 11月21日(日) 年賀状作成(年賀状を作成していて困ったこと等質問を受けます) 12月19日(日) エクセルで家計簿を作成する。 1月16日(日) エクセルで家計簿を作成する。 2月20日(日) エクセル(1月の続きを行ないますので先月の資料をご持参下さい) 3月20日(日) 平成22年度の講座内容で解らない点を質問を受けて回答します。

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40年間を思い出すままに

元副会長

中 出 邦 子

奈良県身体障害者運転者協会40周年おめでとうございます。はじめに、会長、役員、会員 の方々、そして既に故人となられた方々に感謝いたします。 思い起こせば40年前、障害者が運転免許を取得するのは容易な事ではありません。本当に 自分が健常者に混じり運転できるのかと、一抹の不安も禁じ得ませんでした。特に下肢に障害 のある人は、車の乗り降りやパンク、故障など乗る前から不安は尽きません。しかし、車を運 転する自分の姿を思い、ハンドルを握る限り健常者と対等な立場に立てると考え、悪条件の中、 真剣に練習に励みました。やっとの思いで、車を持ち込んでの試験に、1回目が駄目でも、2 回目、3回目とみんなが諦めずに頑張りました。 免許取得者も増えた頃、岡本さんの呼びかけで、障害者が運転しやすい環境を作ろうと、仲 間達が集まりました。しかし、話し合うにも場所もなく、困った揚句、私の家で時々話し合い を行いました。其の後、協会が設立され、県の田原本センターを拠点に様々の活動が始まりま した。車を使い旅行に行く事も多くなりました。これは運転技術向上と親睦の為でした。私の 家が集合場所で、そこで車の台数を減らし運転の確かな方に相乗りさせて貰いました。多いと きには車10台を連ねるという事もありました。当時は、今日ほど車も多く走っていませんで した。高速道路もほとんどありませんでした。暫くして山梨県まで会議を兼ねて行きました。 帰りは開通したばかりの中央道を通り恵那山トンネルに入ったら、中は明るく綺麗でびっくり、 そしてサービスエリアの素敵なこと、トイレも整備され多くの先人達の運動が実を結んだ事を 目の当たりに見ることが出来ました。 全国大会となった第10回安全運転競技会は、当時開催されていた神戸博覧会に行きました。 その時に私はパンダを初めて見ました。その日は交流のため私たちも奈良の旅館に分散して泊 まりましたが、翌日は橿原の安全運転競技会準備におおわらわでした。 その日の奈良新聞の記事には、県下に障害者のドライバー700人がいると記されています。 その後、第14回日本身障運転協会定期総会が京都で開催されました。私達は舞妓さんの踊り の歓迎を受けました。誰もが初めてのことで大感激でした。翌日は保津川下りです。こんな機 会はめったに無いからと怖がる人達もみんなで手伝って船に乗ることができました。今思い出 しても楽しい思い出です。 安全運転フェスティバルでは、大半が男性ドライバーで女性は中々入賞できません。いつも 上位に入っている方に職業を聞いたらバスの運転をしていたと言われ、なるほどと納得しまし た。その後、私は主人の介護の為、13年余り会の活動は十分出来ませんでしたが、奈障運の 旅行には誘って頂き、主人共々3度泊りがけで皆さんにお世話になりました。障害を持ちなが らも40年前に免許を取得したおかげで、傘寿を過ぎた今も、行きたい時に自分の思うままに 出かけることが出来る幸せを感じています。もうしばらくは、安全にこの楽しみを味わいたい と思っています。

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ボランティア部の活動を振り返って

副会長

灰 藤 節 子

奈障運設立40周年を迎えるにあたり、設立から現在まで会を育み発展に寄与されました先 輩たちに感謝し心からお礼を申し上げます。 私と奈障運との出会いは13年前にさかのぼります。私は、変形性両股関節症のための痛み に悩んでいましたが平成8年に人工関節置換術を受けてから不便さは残りましたが痛みから 解放されました。入院するにあたり仕事を辞め3回の入院中に歩んできた自分の生き方を振り 返る機会を持ちました。そして今日までいろいろな人たちの支えがあって生きてこれたことを 痛感し今後は「社会の片隅を照らす存在」でありたいと強く思いました。折しも奈障運でボラ ンティア部設立の動きがあることを知り入会させていただくことにしました。奈障運で考えて おられたボランティアは「運転技術を生かして移動ボランティアを」という計画でした。当時、 私は運転免許は持っていましたが買い物など地理的に知っている近辺を運転する程度でした。 未知の場所へ行くことは不得手でしたので奈障運のこの計画には少なからず不安がありまし た。しかし、身の回りで病院や買い物に行くのに困っている障害者や高齢者が多数おられるこ とを知り安全運転に努めやってみようと決心しました。 平成11年から本格的にボランティア部が動き出してからは新聞で取り上げられたり、毎日 放送の「諸口あきらイブニングレーダー」で活動状況を放送されたりで、多方面から励ましの 言葉をいただき部員一同助け合って活動しました。 介護保険制度が普及するようになってからは会員から二種免許を持たない我々が、無償ボラ ンティアとはいえ事故を伴うこの事業を善意だけで続けることに疑問の声が上がり、依頼者も 減少したのを機に取りやめることになりました。5年間ほどの活動でしたが事故もなく終えら れたことは何よりでした。その上ボランティアは人様のためにするのではなく自分の心を磨く ことだということを心に刻めたことは大きな収穫でした。 この移動ボランティアをするにあたり会員同士の連絡にインターネットを使ってメールで 連絡することになりボランティア部を中心に平成12年からパソコン教室が始まりました。当 時、国も施策の中で「IT立国」を掲げていましたし、奈障運パソコン教室開設を高く評価し ていただいた電気通信普及財団及び丸紅基金から助成を受け、またよきボランティア講師の先 生に恵まれ10年以上もパソコン教室を続けることが出来ました。今では役員会の招集、議案 書・議事録の送受信はパソコンで、またいろいろな連絡、文書作成、表計算、難しい事柄の検 索という具合に高齢者は不得手だといわれるパソコンを使える立派な団体に成長したと自負 しています。 今後は次の世代の若い人たちに奈障運の精神と事業を引き渡すことが私たちの大きな役目 だと考えています。新しいアイディアを出し合ってさらに発展してもらいたいと切に願ってい ます。

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40周年を迎えて…

副会長

西 村 佳代子

今から、40年前に奈良県において障がい者で運転免許を取得している方は皆無に等しく、 東京の「東園(あずまえん)」より、教習車2台を持って来ていただいての出張教習が奈良坂の 「ドリームランド」近くの空き地において、白線を引いてのにわかごしらえの教習所が始まり でした。「障がいがあっても運転免許を取って自由に行動がしたい」「自立のために運転免許が ほしい」「障がいがあっても車に乗れば健常者と同じ」と、健常者が免許を取得したいと思う 気持ちの何倍もの重みをもって、遠くは上北山村をはじめ奈良県各地から免許取得のために集 まりました。 奈良坂の空き地は、雨が降ると大きな水溜りができて、白線も消えて練習が出来なくなり教 習所といえるものではなく、木津の上狛に自動車教習所の跡地が見つかり、そこを使っての教 習となりました。私も、御所から橿原神宮と西大寺で乗り換え、近鉄奈良駅からバスで上狛へ と学校へ行きながら通いました。今思うと若かったのと、免許を取りたいと思う気持ちが強か ったのかよく通ったと思います。 県の運転免許センターへ「東園」の教習車で試験を受けに行った時も、試験官の方が障がい 者用に改造された車を持ち込んでの運転取得になれておられずに、一回で合格させて頂いて免 許を貰ったのはよいのですが、路上運転をした事がなく皆に相当恐れられた運転でした。今で は足以上に仕事に、遊びにと車が体の一部となっており、運転できる事が私の人生におきまし て、大きな助けとなっております。自動車は、一歩間違えば危険な道具となりますが、私達障 がい者にとっては原動力となります。 時代の変遷と共に福祉制度もかわりますが、私たち障がいを持ったからできること、また伝 えなければならない事があると思います。 ここに、初心に返り40年の歩みと共に、更なる安全運転を誓うものであります。

(24)

安全・安心な「ノーマライゼーション社会」の実現に向けて

平成15・16年度事務局長

清 水 煌 三

防災・減災問題に関心を持つ障がい当事者として、平成16年秋期∼17年春期に放映されたN HK朝の連続テレビ小説「わかば」は、色々な意味から新鮮で、また登場人物それぞれの淡々 とした日々の生活態度を、好感を持って観ることができました。 阪神淡路大震災の発生から7年目をスタートとした神戸、そして建築家であった父親を震災 で亡くした主人公「わかば」(主演・原田真希)が身を寄せた九州宮崎、二つの土地を舞台に 脇役達が主人公の成長を暖かく見守るストーリーでした。 「人生、生きているだけで丸儲け」、これは、今は亡き女優・南田洋子が演じる母方の祖母「村 上のぶ」が随所で言うセリフで、お世話になった親族・知人等との別れも多い昨今、いささか 不謹慎とは思いつつ、私(重度障害者)個人の胸の内(捨てゼリフ)でもあります。 生活の基盤を造り始めたばかりの30歳目前の昭和44年12月末、建設省(当時)の工事、測量 中に飛来(クレーンで旋回中のシートパイルの落下・下敷き)事故で脊髄損傷を負い、車いす が離せない身体になってしまった。当時では感染症などへの対応も十分ではなく、「余命10 年・・・云々」と医者から告げられたことが昨日のことのように甦る。しかし、先輩・後輩・友 人達、そして脚代わりになってくれた女房のおかげで何とかここまで生き延びることができた。 そこで、「人生、生きているだけで丸儲け」となる。とはいえ、「自分には何かやるべきこと が残されているから、生かされている」という思いもあった。 受傷した40数年前と比べて「車いす」での移動は格段に容易になった。主に手動式の改造自 家用車で移動するが、車いすでの単独での行動となると、ハード・ソフトに加えてハート(こ ころ)のバリアに随所で遭遇するのも事実で、例えば、写真‐1は不法駐車された雨中のバス 利用の状況である。インフラ整備の一端に関わってきた者として、責任を感じる部分も多く、 技術者・障害当事者の視点から少しでも役に立ちたいという思いを持ち続けてきました。 麻痺した下半身の褥瘡(床ずれ)や疼痛などがひどく、特に排泄の面から健常者との活動は 大変でしたが、土木学会土木計画学研究委員会、日本技術士会建設部会、NPO法人都市災害 に備える技術者の会、そして本協会をはじめとする障害者団体の活動を通して、理念「ノーマ ライゼーション(共生化)」の実現、さらには少子高齢化社会の活性化を目標に、「車いすの視 点からのまちづくり」に関わってきました。 ちなみに、阪神淡路大震災の発生から10年目を機に、平成17年1月18日から5日間、神戸国 際会議場・国際展示場をメイン会場として開催された国連防災世界会議・第9回震災対策技術 展においては、本協会にも呼びかけて、いわゆる「災害時要援護者(災害弱者)」の立場から パネリストとしてシンポジウムに参加し、迫り来る東海・南海・東南海地震や直下型地震、多 発する自然災害などへの取組みをアピールしました。

参照

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