研究ノート
アリストテレスにおける閑暇の概念について
斉 藤 和 也
労働と余暇という対語は,経済成長時代において,近い将来の生活の余裕を期待す る言説において意味のある対語として使用されていた。長時間労働の中でわずかばか りの余暇をどのように過ごすのかが重要な課題ではあったが,休息にせよ,気晴らし にせよ,結局は,労働の疲れを癒す役割を与えられていたにすぎなかった。しかし,
経済成長の時代が終わり,人々の仕事や労働に対する態度が変化してきている現代に おいて,余暇を労働の疲れを癒す休息の役割に矮小化することは,社会や文化の発展 にとって大きな障害になってきていると思われる。
日本においては,かつてのような会社への忠誠は失われているが,いまだに残業が 多い。会社人間や仕事人間は消滅しつつあるにしても,仕事を持つことに,社会的な ステータスや安心感を求める心性は失われていない。一方で,レジャーやレクリエー ションの誘いが増加し,それを実現するために時間とお金をやりくりする人々は,消 費の歯車に絶えず急き立てられている。また,労働年齢層における長時間労働と,そ れと対照的な,教育年限の長期化や年金生活の高齢者の増加という形での,余暇時間 のいびつな社会的配分が依然として続いている。労働年齢層における労働と余暇のバ ランスが求められるが,そのための制度化を行うには,何よりも労働と余暇に関する 社会的な意識の変化が必要である。仕事や労働に対する意識の高さに比べて,まだま だ余暇と人生の価値に関する社会的意識が弱すぎるのである。このことは,日本のア カデミズムにも責任の一端があるだろう。日本の余暇学を牽引してきた先学による と,「諸外国と比べると日本の余暇研究はまことに貧弱で,研究の蓄積も不十分だし,
第 巻 第 号 年 月 −
制度化もされていない⑴」という。経済成長期においては,余暇時間がレジャー的消費 として,生産と消費のサイクルに組み込まれることは避けがたい。しかし,すでに成 長期を終え成熟社会を迎えた今日,余暇が人生の価値を決める重要な要素となること を社会的なコンセンサスにする時期に来ているのではないだろうか。
余暇論が最終的にめざしているのは,労働を機軸としている現在の社会構造の根本 的な転換であり,近代を牽引してきた資本主義的な経済倫理に代わる新しい社会的倫 理の提示であろう。労働時間の短縮による自由時間の増大がその基礎として不可欠で あるが,同時に,労働に代わる社会的な価値として余暇の価値が認められなければな らない。それが支配的な社会的価値として通用するときには,もはや,心身の疲労を 回復するための休息や気晴らしとしてではなく,自己実現のための自由な時間とし て,積極的な意味が余暇に付与されることになろう。その場合,この自由な時間は,
労働をしなくてもよい余った遊びの時間ではなく,心身を耕すための時間に変容する であろう。余暇ではなく閑暇という呼び名がそれにはふさわしい。
必要な労働から解放された人間が心身を耕すために自由に使える時間としての閑暇 の概念は,古代ギリシアのスコレー概念にさかのぼるが,その思想的な意味を改めて 考察することは,現代社会を支配している労働の倫理に一定の修正を迫るためにも必 要な作業である。
どの文献を見ても,余暇の原点はギリシアのスコレーにあり,それを明確に概念と して提示したのはアリストテレスであるとされる。だが,「スコレーの過ごし方」に ついて,つまり,「スコレー」における活動の内容如何については,いくつかの解釈 が可能であり,そのいずれもが現代の状況の中で一定の役割を果たすことができると 考えられる。閑暇という,今後の人類が直面する時間性について,できる限り懐の深 い概念化を行うことが必要であり,それに対してアリストテレスのスコレー概念がど れほどの寄与ができるのかを考察することが本稿の目的である。
( ) 薗田碩哉『余暇という希望』(叢文社) 頁.
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「数学的な諸技術がエジプトにおいて最初に成立した。なぜなら,そこでは,神 官階層は閑暇な生活を営むこと(スコラゼイン)を許容されたからである⑵。」『形而上学』におけるこの有名な文章によって,アリストテレスの唱えるスコレー は,労働の強制から解放された階層が学問研究を行うことができるようになった時間 として理解されている。労働の強制から自由になるということがスコレーの生まれる 条件であるが,それはいわば,それがなくてはスコレーが成立しない必須の条件で あって,労働から自由であれば直ちにスコレーを持つことになると言えるわけではな い。もちろん,これはアリストテレスの理想とするスコレーのことであって,労働か ら自由であれば,時間が空いたという意味で,ぶらぶらすること(スコラゼイン)は 奴隷についてさえ言えることではある。しかし,アリストテレスが問題にしているス コレーとは,このような単なる物理的に空いた時間のことではなく,そこにおいて何 をなすべきかが問題となる時間である。
何をなすべきかが問題となるということは,一面において,人間に対して義務的な 強制が働くということを意味する。しかし,それは,たとえばカントの語る義務が理 性の定言的な命令に基づくものであるように,肉体を持ち欲望を持つ身には強制では あるが,理性を持つ存在にとっては自律という意味において自由であるような義務で ある。それは理想国の支配者が,思慮ある自由人として自らに課す生き方である。こ の義務的な生は,同時に自然自身が求める規範的な生でもある。「自然自身が単に忙 事⑶を正しくこなすばかりではなく,立派に閑暇の生を過ごすことができるように求め る⑷」のである。人間は自然によってポリス的動物であると規定されているように,ア リストテレスにおいて自然とはそれぞれの本性を全うせしめる力である。人間として のあり方を全うすることは,人間に与えられた諸能力を働かせて諸活動を行うことで あり,とりわけその中でも最高の活動を行うことである。これは,人間として獲得で きる最高の能力を発揮させることであり,それを実現することは人間的自然の完成を 意味している。そして,可能な限りにおいて,各人に与えられた最高の能力を発揮す
( ) Met. I, , b − .
( ) アスコリアー:ゆとりの時間のないことを意味する。ギリシア語では閑暇(スコレー)
の否定形が使われている。
( ) Pol. VIII, , b − .
ることは,アリストテレスにおいては幸福を意味する。「自然に即した」最高の活動 を行うには,生活の必要性や有用性から解放された自由なゆとりの時間が必要であ り,そこで何を行うかは各人に委ねられていることから,閑暇において何を行うかは 規範性を帯びることになる。別言すれば,幸福は閑暇において実現される最高の活動 であるが,その閑暇における活動は,遊びではなく,人間にとって真剣な営みである ことを意味している。
このように,アリストテレスの閑暇論はその幸福論と密接に関連していることか ら,アリストテレスのスコレー概念を考察するには,幸福概念との係わりを示す必要 がある。スコレーについて本格的に論じられるのは,『政治学』第 巻の理想国論に おいてである。『政治学』では直接的に幸福の定義を論じてはおらず,『ニコマコス倫 理学』において定義された幸福概念を適用している。『政治学』と『ニコマコス倫理 学』はひとまとまりの論考であることは,後者の冒頭において述べられているから,
幸福を可能にする時間としてのスコレーについて考察するにあたっても両書の関連を 踏まえる必要がある。そこで,まず,幸福と閑暇のつながりが明白な典型的なテキス トを見ておくことにする。
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『ニコマコス倫理学』第 巻第 章〜 章において,アリストテレスは,人間の 幸福に関する彼自身の最終的な見解を述べている。幸福とは,魂の最善の性状(徳性)に基づく活動であり,この性状が理性能力であることから,幸福は理性の活動である ことになるが,その中でも特に,理論的理性の活動である哲学的観想が完全な幸福で あるとされる。この活動はもっとも快く,もっとも持続的で倦み疲れることがない。
またもっとも自足的である⑸。アリストテレスは,哲学的観想のほかに,実践的理性
(思慮)と良い性格が相伴うことによって生まれる倫理的によい行為も幸福の要素と 考えているが,正しい行為や勇敢な行為が客観的な対象や他の人々との関係を必要と するのに対して,哲学的観想は一人だけでも可能であるとする。観想する人も正しい 行為を行う人も生活を維持するための外的な条件は同じ程度に必要であるが,それぞ
( ) EN, X, , b − . 自足性は幸福の重要な特徴である。幸福は最高善であるか
ら,それだけで人の生を満たし全うさせるものである。
れの人の持つ魂の優れた性状を発揮させるのに,大きな差異がある。正しい人は正し い行為をする相手や一緒に正しい行為を行う仲間や借りを残さないために金銭が必要 になる。これに対して,哲学的観想はひとりだけでも行うことができるのである。こ のような意味において哲学的観想はもっとも自足的である⑹。
また,目的性という観点から見ても,哲学的観想は倫理的行為よりも優れていると 言える。人々が戦争の行為を行うのは,勝利という目的を目指しているのであり,ま た政治的行為を行う時には,彼らは,それらの行為自身を目指すと共に,それとは別 のものとして権力や名誉が生じることを予想しており,また一般に,自分自身の幸福 や他の市民たちの幸福を考えて,かれらは政治的な行為を行っている。つまり,それ らの行為をある意味で手段として位置づけているのである⑺。一方で,これら戦争の行 為や政治的行為は倫理性を伴い,勇敢な行為ないし卑怯な行為として,また正しい行 為ないし不正な行為として評価される。勇敢な行為や正しい行為は,美しさを目指 す,それ自身のために行われる行為であるが,手段性を含むという点で,観想に比べ て劣っている。哲学的観想は,人間の魂の最善の能力に基づく活動としてそれ自身が 求められるものであって,その活動からそれとは別の何かが生じることはない。
これら三者(戦争行為,政治的行為,哲学的観想)を閑暇と忙事の観点から見ると,
次のような階梯をなす。幸福は閑暇(スコレー)において実現するが,閑暇を確保す るために忙事があり,また平和のために戦争をする。戦争行為は完全に忙事である。
というのは,これにはほとんど自己目的性が存在せず,勝利とこのことから得られる 利得を目的としているからである。これに対して,政治的行為は戦争行為に比べると 自己目的性を持つ側面があるが,それが権力や名声を手に入れるために行われるとい う側面においては忙事に属する。もちろん,上述のように,政治的行為や戦争行為が 倫理性を帯びることは否めない。多くの局面においてこれらの行為には倫理性が伴 う。倫理性が伴う限りにおいて,これらの行為は自己目的性を有し,その限りでは幸 福の部分に含まれる。しかし,これらの行為は,それを行う人の目論見として,それ ぞれの立場で,自分自身と他の人々の幸福を目的としている。その内容がどのような
( ) EN, X, , a − .
( ) EN, X, , b − .
ものかは人によって異なる。ある人は,そこから得る名声を幸福と考え,ある人は権 力行使を幸福と考えている。そして,ある人は政治的行為を閑暇と哲学的観想を保障 するための活動として捉えるのである。
理性の活動としての哲学的観想は閑暇の中で行われるものである。観想はまた,
もっとも快いものであるから,疲れることを知らない。このような活動は,厳密に言 えば,人間の次元を越えた神的な活動に近いが,人間であるからといって人間のこと だけを考えていればよいのではなく,たとえ少ない時間であっても,力と価値におい てはるかに大きいこの活動を可能な限り続けることが望ましい⑻。だが,理性の活動と しての観想が完全なる幸福であるとしても,だからといって,アリストテレスは倫理 的・政治的行為を幸福の要素ではないとしたわけではない。人間である限りは,ポリ ス的動物として共同体の中で生きる自然的な本性を与えられているから,その本性の 発現として政治的な行為や戦争行為を遂行することは当然のことであり,またその倫 理性も問われて然るべきなのである。そして,これらの行為が倫理的に承認されれば,
それらも哲学的観想に次いで幸福を構成することになる⑼。
これまで検討してきた箇所だけを見ると,アリストテレスの倫理学の体系では,こ うした倫理的行為は,哲学的観想に比べると小さな価値しかないように見えるが,
アリストテレスは決してこれを軽視しているのではない。そのことは倫理学書におい て大きな部分を占める徳論の全体によって示されている。ただ,幸福を成立させる 重要な第一の要素が哲学的観想にあり,この活動は戦争行為や政治行為から解放され た自由なゆとりの時間になされるということがアリストテレスの主張したい点なので ある。このことについては,最善の活動(幸福)に関する論争を紹介し問題点を解明 した『政治学』第 巻第 章〜 章においても念頭に置かれていると考えられる。そ こにおいて,アリストテレスは,人間のなしうる最善の活動について,一方で,隣国 の奴隷的支配を正当化する政治を批判し,他方で,ポリスの共同の活動に全く関与し ようとしない哲学者の引きこもりを否定した上で,実践的であることが幸福の要諦で あることを明らかにする。一見,哲学的観想が否定され,ポリスにおける政治的行為
( ) EN, X, , b − a .
( ) EN, X, , a − .
こそが幸福の最大要素であるかのような議論が展開されるが,最終的に,外的な行為 を伴わない思考である哲学的観想が倫理的行為より一層実践的であるという主張を展 開し,哲学的観想が最善の活動であるという自説を暗に示している⑽。
.上述の『倫理学』のテキストでは,「スコレー」という語は,哲学的観想に限定
して用いられているが,そうではないテキストも存在する。たとえば,『政治学』第 巻第 章では,カルケドーンの貴族制が,徳と並んで富裕を役職者の選出条件と していることを批判して,彼らがそのような制度にしているのは,貧困者には役職を 立派に遂行するゆとりがないためであるとしている。そして,生活を支える仕事から 解放された市民が役職を遂行するための経済的条件を「スコレーのための富」と表現 している⑾。ここでは,スコレーは最良の市民が遂行する政治的行為のためのスコレー である。
また,『政治学』第 巻における各種民主制の検討の中で,財産が少ないために余 暇を持てない者,働いて生計を立てているので余暇を持つことができない農民や中産 者,民会手当てを支給されて余暇を持つことができる無産者について言及されてい る⑿。『政治学』第 巻における寡頭制の保全策を論じる箇所では,大衆は自分の仕事 のために時間がある(スコラゼイン)ことを喜ぶと指摘する⒀。ここでは,私的な仕事 のための時間について「スコラゼイン」という動詞形が使用されている。また,僭主 制の保全策を論じる箇所では,僭主は,共同食事や親睦会や教育など,市民の間に相 互信頼と誇りを生むものは禁止するべきであるとされる。さらに,これに類するスコ レーにおける集まりが禁止の対象とされる⒁。ここではスコレーの内容は学問や文化を 教え学ぶ場と考えられる。また,『政治学』第 巻では,農民や手職人が理想国の政
( ) cf.拙稿「最善の国制における最善の生活 アリストテレス『政治学』第 巻序論」,
香川大学経済学論叢第 巻第 号, 年, − 頁.
( ) Pol. II, , a , a , b .
( ) Pol. IV, , b , Pol.IV. , a −, Pol.IV, , b − . cf. Kullman, W., Aristote et le loisir, in J. -M. Andre et al.(edd.), Les loisirs et l’heritage de la culture classique, Collection Latomus ,(Brussels, ), pp. − .
( ) Pol. V, , b − .
( ) Pol. V, , a −b .
治に関与できないことの理由として,彼らが肉体労働をしなければならず,そのため 徳と政治的行為のためのスコレーを持てないという点を挙げている⒂。ここでは,スコ レーは,労働から解放されて政治的行為を行うことができる自由な時間を意味してい る。
このように,『政治学』では,政治的行為が明確に忙事(アスコリアー)であると 断言されている箇所はない。むしろ,閑暇(スコレー)は政治的行為と徳の涵養のた めに必要であるとされている。また,哲学的観想について,『政治学』の訳者解説で は,『政治学』においてスコレーが「国家に参与する実践から解放された生に使われ ることはない」とされている。しかし,アリストテレスは,理想国の支配構造を述べ る第 巻第 〜 章において,市民が携わるポリスの機能として軍事と政事を挙げ,
軍事は忙事であり,また平和と閑暇のためにあるとしているが,閑暇において政事の みを行うとは語っていない。軍事が忙事であることは明確であるが,閑暇における活 動は政事に限定されず,むしろ,哲学(ピロソピア)が閑暇において必要な固有の徳 であるとされているのである。また,理想国での話ではなく,現実のポリスにおける 行動として記述されている事例として,『政治学』第 巻第 章の奴隷論の箇所を挙 げることができる。そこでは,一々の家事について奴隷に対して主人として命令する ことに煩わされないだけの資産を持つ人は,執事としての奴隷にその他の奴隷たちの 管理を任せて,「自分は政治的行為や哲学を行う」とされている⒃。つまり,戦争のな い平和な閑暇においては,政治的行為や哲学が行われるのである。
このように,『倫理学』第 巻の閑暇論と『政治学』の閑暇論とは矛盾しているわ けではない。政治的行為の位置づけが異なるのは,その行為に関する記述上の重点の 違いによるとみなすべきであろう。
.このように述べる必要があるのは,一部に,アリストテレスのスコレー論や幸福
論について,ポリスにおける公的な活動こそがスコレーにおける活動であるとする解 釈があるからである。Heminngwayは,公的な場面において言論と行為によって自己( ) Pol. VII, , b − a .
( ) Pol. I. , b − .
自身を人々に開示していくことがギリシア人の生きがいであるとしたアーレントなど のアリストテレス解釈に依拠して,アリストテレスのスコレー概念においては,実践 と共同性が第一義的であるとする見解を提出した⒄。
Heminngway
の考えでは,哲学者の観想活動は現実の共同社会からの引きこもりでしかない。彼は,「ピーパーが雄弁に論じているように,観想はアリストテレスの閑暇 において中心的な要素ではあるが,我々はあまりに狭い意味で観想を理解する誤りに 陥ってはならない」と述べ⒅,閑暇における市民的徳に基づく実践的活動が第一義的に 幸福の実体をなすとする。この解釈は,人間は自然によってポリス的動物であるとす るアリストテレスの規定の範囲内に人間の幸福を限定するものであると言ってよい。
社会学的な余暇論においては,このような立論には意味があると思われる。たとえば,
余暇学のかつての代表的論者である
J.
デュマズディエは,余暇の三機能として,休 息,気晴らし,自己開発を挙げ,フランス社会の余暇に関する意識を社会学的に分析 することによって,将来の余暇文明のあり方を構想した⒆。将来の余暇活動には三つの 要素が含まれるが,増大する余暇時間をどのように過ごすべきかという問題に対し て,社会的文化的活動への最適な参加を通じて,人間の潜在性の十全なる開花を可能 にするような能動的な態度が必要であるとし,そのためには,社会的活動や文化的活 動への意識的かつ自発的参加を通じて人間性を発展させ,自由時間における緊張発散 の娯楽的活動と継続的調和的な人格養成への努力との均衡を図ることが重要であると 述べる⒇。そして,将来の余暇は,人間の生活様式を探求し実現するための中心軸にな ることによって,労働の現場に代わって最大の社会的意義を有することになると予想 する。社会学者らしく,社会への能動的な参加によって人間性の涵養のために余暇を 活用していくことをめざしている。社会参加による自己開発のための余暇という概念を余暇論の一理論として確立す ることは社会学的には重要であるが,アリストテレスの余暇論をそのような理論の
( ) Hemingway, J. L., Leisure and Civility : Reflections on a Greek Ideal,Leisure Sciences
vol. , , pp. − .
( ) op. cit., p. .
( ) J.デュマズディエ『余暇文明へ向かって』(東京創元社,翻訳 年,原著 年)
( ) 同上, 頁.
先駆とすることはできない。むしろ,彼は社会的活動を第二義的な位置に置いたので ある。
社会から距離をとった余暇活動として観想活動を取り挙げたのは,ピーパーであ る。彼は,現代における労働人(worker)の支配を批判し,知的活動でさえ,intellectual
work
と呼ばれるようになっている現状に警告を発し,完全なる受動的な態度におい て精神的真理を受け取る宗教的観想こそ,労働から離れた時間における活動であるべ きだとトマス主義の立場から主張する。このような活動は,黙想において得られ,宗 教的な祈りの祝祭において表現されるものであって,行為的な活動よりは高次の活動 であるとする。ピーパーの立場は,アリストテレス的−トマス的な観想の系譜をひい たものである。この立場は宗教的な世界への引きこもりと評価される可能性もある が,これを人間関係における不可欠の一契機を明らかにしたものとして捉え,個とし ての人間が世間的な考慮を離れて他の個としての人間と実存的な出会いを準備する「孤独」の自覚として黙想を理解するなら,非宗教的な立場からも接近可能である。
.さて,『政治学』において,スコレーは,理想国における支配者たちの理想的な
生き方を可能にするための自由な時間であり,またそこにおいてなされるべき規範的 な活動を保障するものであったが,その活動の内容はどのようなものであるのだろう か。
アリストテレスが『政治学』においてスコレー論を語る上で,まず以て否定される べきものとしているのは,スパルタ的な生き方であり,それを賞賛する人々の考え方 である。これは『政治学』の第 巻第 章において論じられ否定された立場であるが,
この点は,第 巻におけるスパルタ国制の分析においても,また第 巻の他の箇所に おいても一貫している。アリストテレスは,国家による教育を行った点ではスパルタ 人を評価するが,教育内容が戦争を目的とした点が致命的であったと考える。戦争に 明け暮れている時には優れているように見えた彼らが,平和になってゆとりの生活を
( ) Pieper, J.,Leisure The Basis of Culture,(Original edition , English translation , Ignatius Press edition ).
( ) op. cit., pp. − .
( ) op. cit., pp. − .
してみると,欲望に振り回される心性しか持っていないことが明らかになったからで ある。戦争によって獲得した富を彼らは平和でゆとりのあるときに立派な仕方で使う 方法を知らなかったのである。スパルタ人についても「スコラゼイン」や「スコレー」
という言葉が使われているが,これは,もっぱら「必須の仕事から解放された自由な ゆとりある時間」という意味で使われている。スパルタ人が,この時間を優れた市民 が持つべき徳の涵養のために,そしてそうした徳に基づく行為のために使おうとしな かったのは,スパルタの伝説的な立法家リュクルゴスの責任であるとされる。このよ うなスパルタ人批判から考えると,政治的な行為の徳を涵養すること,及びその徳に 基づいた行為をすることが理想国の要件となるように見える。そのためには,正義や 節制などの倫理的な徳と思慮の徳があれば十分である。しかし,アリストテレスは,
平和でゆとりある閑暇の時に必要な徳は哲学であり,このほかに節制や正義が必要で あるとする。これら二つの徳は,戦争の時にも必要な徳であるが,物質的な富に溢 れ,生活にゆとりができた時代の方がむしろ必要になるという。戦争の時には外的な 状況が節度ある生活を要求するし,不正を働くひまもないということであろう。
さらに,アリストテレスは,国家がこれらの徳を若者に教育する必要があるとし て,ムーシケー教育について論じ,様々に流行している音楽の中で,どのような音楽 が若者の性格を教育する上で効用があるかを検討する。ムーシケーは,古代ギリシア においては,音楽を伴う詩歌であるが,『政治学』第 巻では,主に音楽の面に焦点 が当てられ,それが倫理的な性格の形成にどのような影響を与えるかについて論じら れている。その中で,笛の演奏は言葉を使えないのでよくないとか,ムーシケーは閑 暇の時間を過ごすためにも,あるいは理性にも効用があると語っているように,ムー シケー教育が,魂の情的な部分に係わるばかりではなく,言葉を通して魂の理性的な 部分に係わっているということを示唆している。また,音楽のほかにどのような学科
(マテーシス)があるかを問題にしているように,子供に教育するべき学科はムーシ ケーに限られてはいない。特に,「読み書きによって他の多くの学科の学習が可能に
( ) cf.拙稿「アリストテレスの理想国論における教育の意義」,香川大学経済学論叢第 巻第 ・ 号, 年, − 頁.
( ) Pol. VIII, , a , b − .
( ) Pol. VIII, , a − .
なる」ことを指摘している箇所では,数学を初めとした学問のことがアリストテレス の念頭にあったと推定される。
このように,将来のポリスを担う若者のための教育プログラムから見ても,スコレ ーにおいて為すべきことには,ポリスの政事を立派に審議し実行することばかりでは なく,これに加えて,理論的な活動を行うことも含まれていることがわかる。では,
なぜスコレーにおいて為すべきことの中に,理論的な活動が含まれるのであろうか。
その根本的な理由は,アリストテレスの世界観にあると考えられる。神に対する宗教 儀礼を行うために理想国には神官が必要とされているが,アリストテレスにおいて神 は理性そのものであり,常に思考活動を行うことによって天体の周期的運動を可能に している宇宙の第一原理である。この神の活動に似る生活を送ることが理想的な生き 方であるが,人間である限りは,その持続性に限界がある。また人間はポリス共同体 において人々と共に生きることが自然によって定められている。このような人間の条 件の下でできる限り優れた活動を行うことを自然が規範として求めているのである。
しかし,人間は人間としての完全な生き方から逸脱することが多々ある。この逸脱を できる限り回避し,自然の規範へと戻していくことがアリストテレスの政治学の目的 である。理想国を実現するためには,ポリスの構造を改革することが不可欠だが,そ れと平行して,一人ひとりの人間としてのあり方を改善することが重要である。この ような理想的人間像へ接近するために哲学的観想をはじめとした理論活動が推奨され ているのである。また,哲学的観想は「美しく神聖なもの」に係わる限り,それが実 践的な知性をはぐくむことに寄与すると考えられる。行為に関わる思案において知性 は個別的で可変的な事象に係わり,理論認識における知性は普遍的で不変な事象に係 わるが,どちらも知性の働きという点では共通しており,これらが無縁なものである とは言えない。厳密な意味における哲学的観想ではなくとも,様々な理論的活動や探 究活動も「哲学する」と呼ばれていることを考慮すると,アリストテレスがスパルタ
( ) Pol. VIII, , a − , cf. a .
( ) EN, X, , a .
( ) EN, VI, , b −.
( ) Pol. VII, , b , Pol. VII, , a , Pol. VII, , a , Pol. VIII, , b ,Pol. VIII, , b , Pol. VIII, , a − .
的な堕落を防ぐべく,平時において倫理的に正しく行為できる能力を養うために,広 く教養的な活動を推奨していたと考えることができる。
.このように,哲学的観想がポリスの政事から離れた引きこもりであるとの非難を
退け,ポリスの軍事・政事の重要性を認めながら,平和時における政事の堕落を防 ぎ,肉体的な欲望に支配されない精神を作り上げるために,アリストテレスが推奨し たのは哲学をはじめと理論活動である。理論的理性を働かせることのできる人は,人 間として最も高い活動を達成することができるのであるから,もっとも完全な幸福を 実現できる。しかし,このような能力に恵まれている人は少ない。それでは,理想国 の市民の多くはもっぱら政事に専念するのであろうか。おそらくそうではあるまい。
音楽が平和な閑暇の時を過ごすために享受されるとされていることから考えると,ア リストテレスは,一般の市民については,音楽の享受と批評を観想活動に代わるもの として位置づけていたことが窺える。音楽ばかりではなく,さまざまな学問について も言及がある以上,それらをも含めた,哲学,音楽,科学の複合的な教養世界という ものを構想していたと思われる。また,哲学的観想が身体を最小限に維持するだけで 達成できる自足的な活動であると語るのは,肉体的欲望に隷属せず,精神的に優れた 活動に従事することによって,スパルタ的な堕落から免れるという意図もあったのだ と考えられる。しかし,ポリスの危急のときには,哲学から離れ政事に専念する必要 があるとも考えていたはずである。哲学者は世事に疎いという相場はギリシアにも あったが,アリストテレスは,むしろ,真の哲学者は政事にも精通すると考えていた と思われる。
最後に,以上のようなアリストテレスの閑暇論は,現代においてどのような意味を 持つのか簡単に考察する。
経済のグローバル化による世界的規模の経済競争が不断の労働強化を強いるなか,
人々は人生の意味を体験する時間を失いつつある。一方で,情報化の飛躍的な発展に
( ) Pol. VIII, , a − .
( ) cf. Kraut, R.,Aristotle Political Philosophy,(Oxford, ), pp. − .
より,情報や知識の伝達速度が一層高まり,メディアから流される情報に即座に対応 する能力が求められる時代になった。その結果,コミュニケーション力は情報の発信 と情報への反応のレベルにおける有能さを意味するようになった。社会的コミュニケ ーションとは,人々の間で言葉と行為を通じて自分を表現し,また他者の表現意図を 汲み取ることによって,人々の間で生きるための作法と意味を学んでいくプロセスで ある。このようなコミュニケーションを通じて,我々は社会の中で成長し,自己実現 を遂げていく。デュマズディエの言うように,社会的文化的活動への意識的かつ自発 的参加を通じて人間性を発展させることが重要であるが,そのためには自由時間にお ける緊張発散の娯楽的活動と継続的調和的な人格養成が求められる。人間関係のスト レスを解消しつつ社会的に適応できる人格を養うためには,それにふさわしい時間の テンポが必要であるが,現在進行していることは,そのような時間性の破壊である。
しかし,これは,我々自身がそのようなコミュニケーションに関与することによっ て,自ら進んでこのような破壊に巻き込まれているということでもある。社会的なコ ミュニケーションを通じてはじめて,人格が形成され人生の価値が見出されるとする 立場では,現在進行している時間性の破壊に対して十分に対抗することはできない。
日々の社会的コミュニケーションを自分の中で反芻し,その意味を考えて次の日のコ ミュニケーションに臨むというサイクルを身につけることが若者には必要である。そ のためには,自ら考えるという能力が不可欠である。自ら考えるとは自分の中でもう 一人の自分と対話することであり,そうした能力は自己内対話を遂行する「精神の生 活」の中で培われる。ピーパーはこれを黙想の生活と考えたが,自身との対話にして も,黙想にしても,共に,他の人間からいったん離れた場において思考の活動を行う ことである。これは,アリストテレスでは,哲学的観想に相当する。アリストテレス の閑暇論が現代において意味を持つとすれば,思考活動が人間にとって最重要な生活 であることを明らかにしたことによって,社会的な活動や社会的コミュニケーション と同等の,あるいは,それ以上の,生きる場があるということを我々に教えてくれた という点にあるだろう。
【アリストテレスのテキスト】
EN : Bywater, I., Aristotelis Ethica Nicomachea, Oxford, . Susemihl, F., Aristotelis Ethica Nicomachea, Leipzig, . Met.: Ross, W. D., Aristotelis Politica, Oxford, .
Pol. : Ross, W. D., Aristotelis Politica, Oxford, .
【翻 訳】
アリストテレス『政治学』(西洋古典叢書)牛田徳子訳,京都大学出版会, .