ムーアの哲学 における理想 と常識
The Ideal and Common Sense in Moore's Philosophy
石 井
潔
Kiyoshi lsHⅡ
(平成 6年10月 11日受理)
Abstract
There seerrls to be an unbridgeable discrepancy between two images of G.Eo Moore。
One is̀̀a champion of Conllnon Sense"who brings extraordinary ideas of philosophers back to the right track,and the other is an ldealist"who advocated the unworldly life and aroused enthusiasm among the Cambridge elites of his age。
The first image is in favor Of the philosophers of{Э
rdinary Language School.They
believe that philosophical errors lnainly come from incorrect use of ordinary languageo So if Moore's Common Sense could be interpreted as ordinary language use,Moore would be their predecessor on this line.But Moore's real face is in other place.He begins his philosophical career as an English Neo―Kantiano Neo―
Kantian generally emphasized the independence of the sphere of
ObieCtiVe validity from our psychological process.He has much in common with them in that he also stresses that good and beauty as wen as material obiectS exist independently of our nlind.That is the lneaning of Common Sense for hiFn.Common Sense shows us obiectiVe reality which could not be reduced to the psycholog‐
ical associations of our impressions or feelings such as sense or pleasureo So Common Sense in this sense and the ldeal do not contradict each other. But this complete reJection of psychologism tends to lead to the denial of epistemological or practical subiectS".It is for this reason that Moore's philosophy is sometilnes criticized for its lack of social action。
1。
「常識の擁護者」か「理想家」か
ケンブリッジ大学に入学 して 2年 目のある日、ムーアは 2年 年長のラッセルに連れられて、
当時 まだ 20代 後半の若 きフェローであったマクタガー トー彼はやがてブラッドレーと並んで
英国におけるヘーグル主義的な観念論を代表する人物 と目されることになるのだが一の部屋を
訪ねた。その場 の会話の中でマクタガー トは「時間は実在 しない」 とい う彼の哲学的テーゼの 一つを披露 してムーアを驚かせた。 そのような主張 はまった く常軌 を逸 した とて も受 け入れが たい ものに思われたので、彼 は最善 をつ くして反論 した。 そしてその反論 を聞いてラッセルは もともと古典研究 を志 していたムーアの内に哲学的素質 を見出 し、彼 に哲学への道 を選ぶ よう に勧 めた(1)。
ムーア晩年の『自伝』に見 られるこのエ ピソー ドは、「常識 (conlmon sense)の擁護者」 とい うムーア像 を好 む人々によって しばしば引用 される②。私 は昼食の「後で」散歩 をし、「今」こ こでお茶 を飲んでいる。 こんな単純 な経験的事実 を無視 して「時間は実在 しない」な どという 形面上学的な主張 をして恥 じない観念論者 に対 して「常識」とい う健全な立場 を守 って闘 うムー ア とい うイメージには、確かにこのエ ピソー ドはぴった りであ り、 また次のような彼の文章 と も呼応 している。
「宇宙 の本質 についての今 日ではほ とん どすべての人々によって承認 されているある種の見解 が存在 しているように私 には思われ る。そしてそのような見解 はあまりにも普遍的に共有 され ているので、正当にも常識的な見解 と呼ばれている。(中略)多くの哲学者たちの見解の非常 に 信 じがた くまた面 白 くもある点 は、彼 らが このような常識的見解 を越 えるようなあるいは積極 的 にそれに矛盾するような見解 を抱いているということであるように私 には思われる●ヽ」
さらに『自伝』のムーアは言 う。
「私が世界や諸科学か ら哲学的な問題 を提示 された ことは一度 もない。私 に哲学的な問題 を提 示す るのはもっばら他の哲学者たちが世界や諸科学 について述べてきた ことである●ヽ」
他 の哲学者たちは誤 って、世界や諸科学の内には常識では とらえることので きない哲学的な 問題が存在すると信 じている。 しか し実際には世界や諸科学 自体の うちには常識 に反す る何事 も存在 しないのであって、哲学的問題 なるものは哲学者 というこの奇妙 な職業の人々によって 作 り出された ものに過 ぎない。従 って哲学的な問題 の解決 とは哲学者たちが これ まで述べて き た ことの意味 を明確 にし、それが常識 と照 らし合わせて真理 と見 なすのに足 る十分 な理 由を もっているか否かを検討す ることである0。 この ように述べ るムーアを「常識の擁護者」と呼ぶ ことには一見何の困難 もないように思われ る。
しか しこのようなムーア像 は彼の最 も有名 な著書『倫理学原理』が、彼 もその一員であった 一般 にブルームズベ リーグループ と呼 ばれ るケ ンブ リッジ大学出身のエ リー トたちのサークル に属する人々に与 えた衝撃 についての様々な証言 と容易 には一致 しない。例 えばこのグループ の代表的なメンバーであったス トンイチーは、ムーアにあてた書簡の中で、彼が この著書で採 用 した方法 は、「理性的な推論 に初 めて周到に適用 された科学的方法である」 と述べ、「真理 は 疑 いな く今や現実 に歩みはじめたのです。
1903年
10月 (『倫理学原理』の出版<筆者注>)をもって理性の時代が幕 を開けたのです0」とい う熱烈な賛辞 を送 っている。広 く共有 されている 常識 に依拠 しているはずのムーアが このように理性の時代の幕開 けを告 げた人 と呼 ばれ るのは 奇妙 な ことのように思われる。
またブルームズベ リーグループの人々を最 も感激 させたのは、「人間同士の交わ りの楽 しみ と 美 しい対象 を享受す ること」が最高の善であると主張す る「理想(The ldeal)」 と題 された章で あったが、若 き日にやは リグループの一人 としてその同 じ感激 に心 を震わせたケインズは、 こ の章 におけるムーアが現実の生活や我々の行為の諸帰結 を一切捨象 した純粋 な善 について語 っ ていることを強調す る。ムーアはここではいわば「永遠の悦惚(timeless ecstasy)」 の中に生 き
ているのであって、「 ムーアの<理想
>に
関す る章 の超世俗性 に比べ ると、新約聖書 は政治家向 きのハ ン ドブ ックの ような ものである」とまでケインズは言 う。ヽ「永遠の洸惚」の中に生 きる「常識の擁護者」、 これ もまた一種の形容矛盾であるように思われ る。
このような二つのムーア像の間のずれを彼の哲学的立場の時間的な変化 に帰す ることはで き ない。文字通 り「常識の擁護」と題 された論文
0は
彼の中期の仕事 に属す るとはいえ、理想 の重 要性 を説 く初期の著作 『倫理学原理』の扉 にはすでにバ トラーの「すべてはあるが ままであっ て、ほかの何物で もない」 とい う常識の立場 を明白に示す引用が使われているのであ り、 さら に本文 において も常識 は信頼すべ き判断基準 として高 く評価 されている0。 また レヴィの よう なムーアのブルームズベ リーグループに対す る影響 は もっぱら人格的な ものであって彼の哲学 の内容 によるものではない という解釈(10も受 け入れがたい。 ラッセルの「当時彼 はあたか も霊 感 を風貌 にただ よわせた ような、美 しい容貌 と華奢 な肉体 をもち、スピノザのように深 く情熱 的な知性 をもった男だった」。つという回想やケインズが紹介 している絶 えず「それは正確 には 何 を意味 しているのか」と問い続 けるムーアの真摯 な姿勢(1幼に見 られ るように、彼の人格や哲 学のスタイルがグループの中で大 きな影響力 を もっていた ことはまちがいない し、ス トレイ チーが賞賛する「科学的方法」が意味の正確 な分析 というムーアの方法 を指 していることも確 かである。 しか しこれか ら見て行 くように「理想」や「分析的方法」 は彼の哲学の不可欠な一 部であ り、決 して単 なる表面的な特徴ではない。ムーアに とっての「常識」 は「分析的方法」によってのみ到達することので きるある非常 に限定 された意味 をもつ「常識」なのであ り、そ の限 りにおいて「理想」 とまった く同 じものである。「常識」 と「理想」 と「分析的方法」はい わば二位一体 の関係 にあるのであって、 どれか一つを切 り離 して「人格的影響」 といった伝記 的事実 に還元することは不可能 なのである。
2.日常的 な言語使 用 と常識
ムーアの「理想」がブルームズベ リーグループの人々に衝撃 を与 えた とすれば、その「常識」
の立場 と「分析的方法」 に多 くの学ぶべ き点 を見出 したのが、 ライル、オースティン、ヴィ ト ゲ ンシュタインらに代表 される一般 に日常言語学派 と呼ばれる哲学者たちであった。彼 らの主 張 を理解す るためには、その対極の立場 に立つラッセルの見解 を見ておかなければな らない。
言語の意味の分析 を哲学の中心課題 として取 り上 げたのは ドイツの論理学者 フレーゲであった が、その仕事 を英語圏に紹介 しさらにそれを一つの極端 な方向に発展 させ ることによって とり わ け
1950年
代以降英国 とアメ リカで圧倒的な影響力 をもつ ことになった「分析哲学」の確立 に 貢献 したのがムーアの友人 ラッセルであった。ラッセルは我々の 日常的な言語表現 に含 まれている曖昧な部分があ らゆる哲学的誤診の源泉 であると考 える。そしてそのような曖昧 さを取 り除 き明確な意味 を与 えるためには、それぞれ の国語 に特有の文法形式 をもつ文 を記号論理学 によって定式化 された論理形式 をもつ文 に翻訳 し、その真理値で文の意味 を定義すべ きであると主張す る。例 えば「現在のフランス国王 はは げ頭である」 という文 は日常的な言語表現 としては有意味であ り、我々 はこの文の意味 を理解 す ることがで きる。従 って実際には「現在のフランス国王」なるものは存在 しないにもかかわ らず、我々 は何 らかの身分でその ような対象が存在す るかのように想定 して しまう。 しか しこ の「Cは性質 φ をもつ」という文 は、「 ただ一つの項が性質
F(こ
の場合 フランス国王)を もち、かつそれは性質 φ(はげ頭
)を
もつ」とい う論理的に形式化 された文 に翻訳す ることがで きる。そ して実際 には性質Fをもつ ような項 は存在 しないのであるか ら、この文 は無意味であるとい うことになる(10。 ラッセルは基本的 にはすべての 日常的な言語表現 を論理的 に形式化 された
「論理的な完全言語」に書 き換 えることが可能であ り、かつその ような形式化 された言語 は最 終的には「 これは赤である」 とい うような経験的に確認す ることので きる単純 な「原子事実」
を記述す る文 に還元することがで きると考 えている。すなわちラッセルの主張の核心 は、 日常 的な言語表現の曖昧 さによって我々の目に隠 されている客観的な事実 を正 しく反映することの で きる理想的な言語 として「論理的な完全言語」を提示するところにあ り、その意味で彼 に とっ ての言語 はあ くまで客観的事実 とい う存在論的前提 を確証す るための手段 にすぎない(10。
日常的な言語表現の曖昧 さは客観的な事実か ら我々の目をそらす とい うこのような主張 に対 して、言語の意味 はそれが 日常的にどのように使用 されているか とい う事実 によってのみ与 え られるという正反対 の立場 をとるのが 日常言語学派である。 そしてムーアの哲学の内に日常言 語学派の原型 を見出そうとす る人々は、彼 の「常識」 を「 日常的な言語使用」 に置 き換 えて解 釈 しようとする。 このような解釈の試み典型 として しばしば引 き合いに出され るのがムーアの 生前 に発表 されたマルコムの論文である。
マル コムはこの論文の冒頭で「時間は存在 しない」「我々は世界が
5分
前 に創造 されたのでは ない とい うことを確実 には知 らない」といった「常識」に反す る12の
テーゼを列挙 し、 この よ うな「哲学者」的テーゼに対す るムーアの側か らの予想 され る反論 を対置する。そしてマル コ ムはこれ らのテーゼが 日常的な言語使用に反 していることを示す とい うや り方がムーア的な反 論 の本質であると主張す る(10。 例 えばラッセルの著書か ら採 られた「我々が物 に目を向けると きに我々が見ているものはすべて我々の脳の一部である」 というテーゼに対す るムーア的な反 論 は「私たち二人が今見ているこの机 は確実 に私の脳の一部ではない。そして実際私 は私の脳 の一部 な ど一度 も見た ことがない」である(10。 このような反論の仕方は、我々の認識対象の像 はどこにあるのか という哲学的問題 を提示 しているラッセルに対 して常識的主張 を断言的に対 置す ることによってその ような問題 を回避 しているだけであるように見 える(1つ。しか しムーア のやろうとしていることは決 して単なる問題回避ではない とマル コムは言 う。 ラッセル とムー アの ここでの対立の本質 は正 しい言語使用 とは何か という問題 についての両者の立場の相違 な のだ と彼 は考 える。ラッセル といえどももちろん日常的な場面で常 に「私 はこの机 を見ている」 と言 う代わ りに
「私 は私の脳 の一部 を見ている」 と言 っているわけではない。 しか しラッセルはあ くまで後者 の方が より正 しい言語使用であると考 えている。 これに対 してムーアは逆 に前者 こそが正 しい 言語使用であ り後者の方が誤 った言語使用であるという立場 に立 っている。 これがマル コムの 解釈である(181。 ェィャーか ら採 られたテーゼ「物質 についての言明が真理であることを我々は 確実 には知 らない」 に対するムーア的反論 は「 この部屋 にい くつかの椅子があることはあなた も私 も確実に知 っている」であるが、 この場合 も問題 は言語使用の適切 さであるとされ る。例 えば言葉 を習つている子供が、椅子 に座 っている我々の所 に来て、「 ここに椅子があるとい う事 実 には高い確実性がある (が絶対 に確実ではない)」 というエイヤー的な発言 をした とすれば、
我々 はやさし く微笑んで、そういう時 は「 ここに椅子があ ります」 と言 うんだ よと彼 の言語使 用 を正 してや らなければな らない とマル コムは言 うのである(19)。
このような日常的言語使用擁護論 に対 しては、 日常的な言語が誤 っている場合が きわめて多
い とい う「哲学者」の側か らの反論が予想 され る。 この点 についてマルコムは、例 えばある時 代の人々がすべて「地球 は平 らだ」 と言 っていたのは事実であるか ら、 日常的な言語が「事実 について誤 る」場合があることを認 める。 しか し「哲学者」の言 う誤 りはこのような誤 りでは ない。エイヤーの例 に即 して言 えば、我々 は椅子の感覚与件 を認識するのみで椅子その ものを 認識するわけではないか ら椅子の存在 について確実ではあ りえない とい うのが「哲学者」の主 張であって、「 この部屋 には確実 に椅子が存在す る」という認識 は経験的 に誤 っている(例えば 椅子だ と思 った ものが実は机だった)のではな くア
,プ
リオ リに誤 っている (どの ような経験 的事実によって も実証 されない)と
され るのである。 このような「哲学者」の言語使用 はち ょうどすべての人々が どのような経験的基準(例えばDNAの配列)によって狐 と狼が区別 され る かについては完全 に一致 しているに もかかわ らず、なお狐 を狼だ と言い張 る人の言語使用に似 ているとマル コムは言 う。従 って経験的な事実 についての認識 を深 めることによって除去する ことので きる日常的な言語使用の「事実 についての誤 り」 よりもむしろ「哲学者」の「不適切 な」言語使用の方が よ り根が深い とい うことになるのである●
0。
ムーアに関する論文集の一部であるこのマル コム論文 に対 してムーアは他の論文に対するの と同様 に短い回答 を寄せているが、そこでは「常識」 を「 日常的な言語使用」 と読み換 えると い う解釈 の妥当性 その ものには残念 なが ら直接 には触れていない。1ヽ しか し彼 の回答 の内 に は、後 にマル コム自身 も認 めることになる両者の立場 の相違がすでにはっきりと表われている。
ムーアはマル コムに対 して「物質 は存在 しない」 というテーゼ と「何 らかの物質が存在するこ とを確実に知 っている人 はいない」 とい うテーゼを明確 に区別するべ きであると主張する。そ して前者 に対 しては片手 をあげて見せなが ら「 この手 は物質である。従 って少な くとも一つの 物質が存在する」 と言明することによってそれが誤 りであることを「証明」す ることがで きる が、後者 にについてはそのような単純 なや り方でその誤 りを「証明」することはできない と言 う。幼。従 ってムーアは、彼が「 この部屋 にはい くつかの椅子がある」事 を示す ことによって後 者のテーゼの誤 りを「証明」した とす るマル コムの解釈 を受 け入れない。「観念論論駁」と題す る『倫理学原理』と同 じ年 に発表 された論文で、ムーアは「存在」と「知覚」を同一視するバー クレー的な観念論 を批判 し、例 えばテーブルの知覚か ら独立 したテーブルの存在 を主張 した。つ が、 このような認識 の確実性 とい う認識論的な議論 とは区別 された一種の存在論 はムーアの一 貫 したテーマであ り、そもそも物質一般の存在 を問 うこと自体が不適切 な言語使用であると考 えるマル コム とは大 き く立場 を異 にしている。マル コムに とってはまった く重要でない客観的 対象の存在「証明」と認識の確実性の「証明」の区別 にムーアが こだわったのはこの為である。
また別の論文への回答のなかで もムーアは、 自らの分析の対象があ くまで観念や命題であって
「言語表現(verbal expression)」 ではない とい う言い方で、 日常言語学派 との距離 を明確 にし ている。4)。
先 にも述べたように、マル コム自身、ムーアの死後発表 した回顧的な論文では、ムーアの言 う常識 は実 は一般的な意味での常識 とはかな りかけ離れた ものである ことを指摘す ることに よって自らの立場 とムーアの違 いを強調 している。例 えばムーアが常識の例 として挙 げている
「宇宙 には動物や植物や無生物 か らなる多 くの物質的対象が存在す る」 とい う文 は「奇妙 な (queer)」文であ り、哲学者で もない限 り我々が 日常的な言語使用の中で このような発言 をす る ことはあ りえない。常識 とは、歌の先生 に自分の娘が可愛い声ね とほめられただけでニューヨー クに出て有名 な声楽学校 に娘 を入れ さえすれば彼女 は確実 に金の稼 げる歌手 になると信 じ込ん
み、 今の仕事をやめていっしょにニューヨークに行 こうと夫を説得 しようとする妻について 「彼 女には常識がない」 と言 うような場合に使われるべき言葉であって、ムーアのような宇宙論的 発言に使われるべき言葉ではないとマルコムは主張する。
5、また「私は人間だ」という文についても、ムーアはこの文が「明白な事実
(obvious fact)」を 指 し示す常識的発言であると考えているが、そのような文が具体的な文脈の中でどのように使 用されているかを見ることなしに、その意味を確定することは不可能だ とマルコムは言う。例 えば人間 と同じ様に話をすることのできる熊がいるような場所で、隣の部屋からしゃべってい る私に向かって誰かが「あなたは熊か
?」と聞いた時に「私は人間だ」 と答えるような場合、
子供に「人間って何
?」と聞かれて、「あれは猫だが私は人間だしあなたも人間だ」と答えるよ うな場合、私はもう死んでしまったと思い込んでいる友人が私に「あなたは幽霊か
?」と尋ね た時に「私は人間だ」 と答えるような場合のそれぞれで問題 となっている文はまった く異なっ た意味を持っているのであって、ムーアが考えているような一つの常識的な事実を指 している わけではないとマルコムは主張するのである。 0。 そしてかつてムーアの常識 と日常的な言語使 用は同じものであるとした自分の解釈は誤っていたことをはっきり確認する。つ。
このようなマルコムのムーアとの決別は、例 えば「私は人間だ」 という文がムーアにとって はいかなる意味で「常識」なのかを非常に明白に示している。それは日常的な言語使用 という 条件を満たしているから「常識」なのではな く、ラッセルにおける「原子事実」を記述する文 と同様に、客観的事実を指 し示しているが故に「常識」なのである。ラッセルにとっての理想 言語である「論理的な完全言語」が日常的な言語使用を越える客観的真理を表 しているのと同 じく、ムーアの「常識」 も彼の分析的方法によって曖昧さが取 り除かれた後にようや く到達す ることのできる一種の「理想」なのである。マルコムにならってムーアを日常言語学派の先駆 者 として位置づけようとするワーノックも、ムーアの「方法」には日常言語学派 と共通するも のがあったと主張 しながらも、その「理論」は終始一貫 して実在全体についての普遍的真理を 獲得 しようとするものであり、日常言語を擁護 しようとするものではなかったことを率直に認 めている
(28)。3.心
理主義批判 としてのムーア哲学
少 しぐらい声がかわいらしいぐらいでは金を稼 ぐことのできる歌手になることはできないの
が「常識」であると言う場合 と同じ意味での「常識」にムーアが依拠 しているとすれば、その
ようなムーアと「理想」によってもたらされた「永遠の悦惚」の中で生 きる哲学者ムーアを統
一的に解釈することは不可能である。 しかしムーアの「常識」が我々に普遍的真理を示す一種
の「理想」であるとすれば「常識の擁護者」 と「理想家」の間には何の矛盾 もない。マルコム
やワーノックのムーア解釈に典型的に見 られるように、 このようなムーアの「理想家」的側面
は、経験に基盤を持たない形而上学的な大陸哲学 と完全に手を切った英国の経験論的伝統を引
き継 ぐ分析哲学 という自己認識の上に立っていた 1950年代の英国の哲学者たちの にとっては
都合の悪いものであった。ダメットが指摘 しているように、 ドイツ語で書いていたヴィトゲン
シュタインは言うに及ばず、ライルの ドイツ哲学への深い造詣や分析哲学の成立過程における
フレーゲの決定的影響などこの時期の英国哲学 と「 ドイツとのコネクション」はきわめて明白
であった。のにもかかわらず、ドイツ語圏の哲学特有の合理主義的側面が分析哲学にもたらした
ものがいかに大 きかったかは正当に評価 されていなかったのである。
ムーアの場合 にも少な くともその出発点 においては彼が当時国境 を越 えて きわめて大 きな影 響力 をもっていた新 カン ト派の問題意識 を共有 していた ことは確かである。
1897年
にフェロー の資格 を得 るために書 いた彼の事実上の処女論文 の中心的 テーマ はカ ン トの 自由論 であった が、そこでのムーアのカン ト批判 はその心理主義的側面 に集中 している。カン トが言 うように 道徳法則が現象 を越 える客観的実在性 をもっているのであれば、それが人間によって現 に意志 されているか否かは道徳法貝Uその ものにとってはどうで もよい ことのはずである。 ところがカ ン トは本来客観的真理 を指 し示すはずの理性 を「判断 した り推理 した りする心理的能力」 と混 同 しているために「道徳法貝Jその もの」 と「道徳法則 に関する思考」 とを区別す ることがで き ず前者 を後者のような心理学的事実 に還元 して しまっているとムーアは批判す る。つ。道徳法則 はそれ 自体で客観的妥当性 をそなえているのであ り、「 この ような客観的妥当性 を く意志〉か ら導出 しようとす ることは、言い換 えれば く私やあな たやあるいは世界中の人がそれ を意志 し、意志することがで き、意志するに違いない〉 とい う ことか ら くそれが意志 されるべ きである〉とい うことを導出 しようとするのは、く世界中の人が それを信 じている〉 ということか ら くそれが真理である〉 ということを証明 しようとす るの と 同 じや り方である。●幼」
真理や善 を認識主体や実践主体か ら完全 に切 り離 し、知覚や表象か ら独立 した論理的な妥当 性の領域 に属す るもの として位置づけるこのようなムーアの議論の組み立て方 と新カン ト派の 源流 とで も言 うべ きロッツェとの類似 は明 らかである。 ロッツェは認識主体 とそれに付随す る 知覚や表象 を前提 とする認識論 と純粋 な妥当性 の領域である論理学 を明確 に区別 し、 コーヘ ン や リッケル トが前者 を心理主義的残滓 としてカン ト哲学か ら追放 す るのに道 を開いた。 また
1870年
代 には、ロッツェは英国で もアメ リカで もカン トやヘーゲル と並ぶ ドイツが生んだ偉大 な哲学者 と見なされてお り、その主要著作 は英訳 され大学の授業で も好 んで取 り上 げられてい た。つ。さらにムーア自身 は ドイツ語 にも堪能であ り、彼がケンブ リッジで大 きな影響 を受 けた 教師の一人 として名 を挙 げているウォー ドはロッツェの哲学 を高 く評価 し、ムーア と共 に彼の『形面上学』を授業で読んでいる。り。ムーアの哲学が英国版新 カン ト派であるという解釈 は決 して不当ではないのである。
確か に後年のムーアはこの論文 について否定的な見解 を示 してはいるカメ3り、まった く同様 の カン ト批判 は彼のその後の哲学 に理論的骨格 を与 えた
6年
後の作品『倫理学原理』の中にも見 出す ことがで きる。 ここで もムーアはカン トが認識、意欲、感情 を「実在 に対す る心の根本的 に異なった二つの態度」であるという心理主義的な前提か ら出発 していることに批判 を集中す る。 もちろん我々が真理や善や美 について知覚的経験 を持 った り、それを意志 した り感 じた り す るのは事実だが、だか らといって真善美 をそのような「心理学的事実(psychological fact)」に還元することはで きない とムーアは主張する●
0
「た とえあるもの を善い と考 えることとそれ を選ぶ ことが同 じことであるとして も、そこで考 えられているあるものの善 さは、(中略)明らかにそれを選ぶ ことと同一の ことではない。ある 考 えを持 っているか どうか とい う問題 とその考 えが真であるか どうか という問題 はまった く別 の問題であ り、前者の問題 に対する答 は後者の問題 とはなんの関係 もないのである。●つ」
そしてさらに彼の鉾先 は認識論的な理論全体 に向けられる。次の ような文章 はまさに新 カン ト派的なカン ト批判 の典型であると言ってよい。
「<真であること
>は
ある仕方で考 えられていることを意味するというのは (中略)確実 に誤 りである。 しか しなが らこのような主張はカン トによる哲学の<コ
ペルニクス的転回>に
おい て最 も本質的な役割 を果た してお り、そのような転 回が生み出 した認識論 と呼ばれ る近代的な 研究全体 を無価値 な ものにして しまっている。0めJ注 目すべ きことは、 このようなカン トの心理主義 に対す る批判が『倫理学原理』 において決 して副次的な位置 に甘ん じてはいない ということである。周知の ように『倫理学原理』の主要 な目的は「善 とは何か」 という問題 に関す る「 自然主義的誤診」 を退 けることであるが、その 際ムーアが特 に強調するのは、「善い ものに関す る命題 はすべて総合的であって、決 して分析的 ではない
Jと
いうことである●0。
例 えばムーアが無条件的な善の例 としてあげている「人間同 士の交わ りの楽 しみ(pleasures)●0」
が我々に「快(pleasure)」 をもた らすのは事実であるし、我々が「人間同士の交わ り」を欲求す る原因がその ような「快」であることもムーアは認 める。
しか しその ことか らただちに我々 を特定の意図や行為へ と導 く「快」が善の定義であるとい う 結論 を導 き出そ うとするところか ら「 自然主義的誤診」が生 じるとムーアは考 える。「快」は確 かに「人間同士の交わ りの楽 しみ」の中に分析的な要素 として含 まれているが、後者が善 と呼 ばれ うるのは、例 えば友人たちの機知や学識、声や表情、談話 を楽 しむ部屋の調度や壁 にかかっ た絵 な どの様々な諸要素 と「快」が結びついて「有機的全体(organic whole)
1」
をな している 限 りにおいての ことであって、「快」が我々実践主体 を刺激 し、我々がそれ らの対象 を欲求 して いることが善 なのではない とムーアは主張する。そして この ように「快」 によって善 を定義す ることがで きないのは一定の波長の光が我々の目を刺激 し我々が黄色 を見ているとい う事実 に よって黄色 という色 その ものを定義す ることはで きないの とまった く同 じであるとい う有名 な 善の定義 と色の定義の類比(423を通 じてムーアが明 らかにしようとしていることは、まさに彼 の 言 う「 自然主義的誤診」の本質が実践主体が何かを意志 した り認識主体が何か を知覚 した りし ているとい う心理学的事実に依拠す る心理主義 に他 ならない とい うことなのである。ムーアに とって、真や善や美 は、知覚や「快」が我々の心 を刺激す ることによって生 じる心 理学的な事実 とはまった く独立 に、個々の要素 に分割す ることのできない「有機的全体」 とし て客観的に実在 している。ムーアの関心 はあ くまでそのような客観的実在 その ものに向けられ てお り、それがいかなる言語 によって表現 されているのか とい う問題 は彼 にはどうで もいい こ
とである。 日常言語学派的な解釈 も次のようにはっきりと否定 される。
「私の仕事 は、慣習 によって確立 されたその語の正 しい用法 とは関係がない。(中略)私の仕事 はただ、その語が一般 に用い られているとき表す と、正 しくまたは誤 って私がみなす (それが 正 しいか誤 つているかは単 に便宜的なことであって重要ではない一筆者注
)と
ころの、対象あ るいは観念 にかかわるのみである。私が知 りたい と思 うのはそういう対象あるいは観念の本性 であって、 これについて私 はぜひ とも見解の一致 に達 したい と思っているのである●0。
」ムーアが「常識」 と呼んでいるのは、個々の心理学的事実 にも日常的な言語使用 にも還元す ることので きない客観的に実在す る対象や観念である。彼 に とっては例 えば机が個々の知覚的 要素の寄せ集めではない客観的実在性 を持つ ことと、善が「快」のような心理学的要素 を越 え た客観的実在性 を持つ こととの間には何の違い もないのである。次のようなケインズの回想 は
このようなムーア像 を裏書 きす るものである。
「ムーアはかつて、命題 と机 との区別がで きな くなるとい う悪夢 にうなされた ことがあるが、
目覚 めている時で も、彼 は愛 と美 と真実 を家具 と区別で きなかったのである。 それ らは外見上
家具 と同じ定義をもち、そして常識的な現実性 (common―
sense reality)をもっていたのであ る。
(44)」4。
「理想」 としての「常識」あるいは「主体」の消去
ムーアの反心理主義は「常識」を認識主体からも実践主体からも独立 した実在性をもつ一種 の「理想」 として我々に呈示 した。ムーアの哲学においては「常識」 と「理想」 という言葉の 日常的な使用法から予想されるような矛盾は両者の間にはない。 このような反心理主義の起源 の一つが新カン ト派的な問題意識であることはこれまで見てきたとおりだが、ムーアの立場を 思想史的な文脈の中に位置づけるためには、バ トラーや リー ドらの英国常識学派 とムーアの共 通性に注目する必要がある。そして両者の関係を考察する上でスティーブンの『18世 紀イギリ ス思想史』は重要な意味をもっている。スティーブンは、ブルームズベ リーグループの中心的 なメンバーであったヴァージニア・ ウルフの父であ り、その不可知論 と無信仰、個人的自由の 尊重 という基本的な思想的姿勢において、また とりわけその伝記的な著作を通 じてブルームズ ベ リーグループに強い影響を与えた。家族的価値への高い評価や道徳の美に対する優位 といっ た点では、彼 らはスティーブンの主張を文字通 りに受け入れはしなかったが、彼の孫にあたる クウェンティン
0ベルが「ある意味ではブルームズベ リーの父」 と呼んだ彼の思想史的著作が、
ムーアにとってもその基本的教養 となっていたことに疑間の余地はない り。
この本の中でスティーブンは、ロックによる本有観念の否定を徹底化し、あらゆる認識は我々 の様々な知覚の間の偶然的な結合に過 ぎないとしたヒュームが 18世 紀の英国思想史において もつ重要性 を強調する● 0。 このようにすべてを知覚相互の連想に還元する心理主義者 ヒューム に真正面か ら反対 し、そのような知覚の寄せ集めに還元することのできない究極的な実在が 我々の「常識」によって直接的に把握されうるとしたのが リー ドであった つ。スティーブンは リー ドについては、その主張はヒューム的懐疑論に対する単なる保守的な反動に過ぎないとし てあまり高い評価は与えない。 しかし、同様な立場から知覚的な世界が秩序なきカオスではな く一定の調和を保っているのは、有機的な調和の担い手である神が存在 しているからであり、
我々は「良心」によってそのような神の存在 を把握することができると主張するバ トラーに対 しては、とりわけその深い道徳性に関してきわめて高い評価を与えている●
8、バ トラーにとっ ての「良心」は世界の秩序や善を個々の知覚や「快」のような心理学的諸要素に分割すること な く「有機的全体」 として受け入れる能力に他ならないのであり、その点でムーアの言う「常 識」にきわめて近い。「すべてはあるがままであって、ほかの何物で もない」というバ トラーの 言葉が『倫理学原理』の冒頭を飾ることになったのも、 このような文脈の下でのことであった。
一方にヒューム的な連想心理学や「快」の計算可能性を説 く功利主義を置き、その対極に常
識学派やシャフツベ リ、ハチソンらの道徳感情論を置 くというのがスティーブンの基本図式で
あり、この図式に関する限 りではムーアは後者の立場の忠実な継承者であると言ってよい。 し
かしそのことは同時に、伝統的な宗教や世界観や道徳を知覚や「快」 といった諸要素へ と一旦
分解 し、それらを再構成することによって新たな方向性を切 り開いて行 こうとするような懐疑
主義的な「主体」や功利主義的な「主体」を否定することでもある。新カント派の場合 と同じ
く、心理主義を否定することは認識「主体」や実践「主体」を消し去ることでもあるのだ。 も
ちろんムーアも新カン ト派 も単純な伝統的保守主義者ではなかった。ムーアとブルームズベ
リーグループに とっての「理想」 はスティーブン的な道徳主義 を取 り払 った「美的な もの」で あ り、伝統的な価値観 に対 してはむ しろ否定的な作用 を及ぼす ものであった。 しか しそのよう な「理想」 と例 えば我々の「主体」的実践の関係 を説得的に展開するとい う点でムーアや新カ ン ト派の哲学が限界 をもっているの も事実である。ケインズが彼 らの「理想」 には社会的行為 とい う視点が欠 けていた という反省 を述べているの も
"、 また『倫理学 ノー ト』の清水がムー
アによる行為の帰結的側面の軽視や新 カン ト派的な価値中立性 に対す る苛立ちを隠 さず、ベ ン タム的な功利主義 を擁護 しているの も●
0、
彼 らが この ような理論的限界 に気づいているか らに 他 な らない。ある日、「外界の証明」と題するその 日の講演の内容 にもう一つ自身が もてないまま出かけよ うとす るムーアに、彼の妻 は「大丈夫 よ、 きっ とみんなあなたの話が気 に入 るわ」 というはげ ましの言葉 をかけた。それに対 してムーアは、「 もしそうな ら、彼 らの方が まちが っている とい うことになるのさ」と答 えた。1ヽ この逸話 は、真理の客観性 を強調する彼の立場 をよ く表 して いる。 しか し彼 は一人の「主体」 として講演 に集 まった聴衆たちになにごとかを語 らなければ な らない。超俗的な哲学者 としてではな く「主体」としての彼が我々に何 を語 ろうとす るのか。
よ く耳 をす まして聞 くことにしよう。
Moore,Go E" An Autobiography",in 7物 ι彫
;:osのリ グ α
E Zθο tt Schilpp,P.A.
(ed.),Cambridge Uo P.,1968(first edition 1942),pp.13‑4。 (以
下
PGEMと略記し
,頁数の みを記す
.)Wamock,G.J。
,Eななλ′物グ ′ θ
Sψ″
S物 1900,Oxford Uo P。,1969(first edition 1958).(邦
訳『現代のイギリス哲学』勁草書房
,1983年,26頁.以下『現』と略記し
,訳書の頁 数のみを記す
.)Moore,Go E.,Saπ ι』 物れ
Praιルタ 体 a/f物 ′ ′ θ
S″り Allen&Unwin,1953,p.2.
PGEM 14.
ibid.
Rosenb劉
田 ,S.P。,磁σわ滋%Bわ銘閤ι″η,Macmillan,1987,p.219。 (以‐下VBと略記 し,頁数 の み を記 す.)
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″グ 引 ″′ ″η
sゲエ ZK″ πら
V01,X,Macmillan,1972,pp.443‑4。
(以下
MEBと略記し
,頁数のみを記す
.邦訳「若き日の信 条」宮崎義一他編『ケインズ・ハロッド』中央公論社 1980年 所収
,120‑2頁.)Moore,G.E。
,
A Defence of Common Sense",in Cο %″夕 ″ο πη
B″法力」 彫グ ′ ο
s″″
,Allen&Unwin,1925。
(邦訳「常識の擁護」 『観念論の論駁』勁草書房
,1960年所収。
)Moore,G.E。
,Iレづ πσ ″
"b EJZ′
6ら Cambridge Uo P"1959(first edition 1903),pp.94‑5。 (以
下 PEと 略記し
,頁数のみを記す
.邦訳『倫理学原理』三和書房
,1973年,122‑3頁 .ただし以下の引用では訳文に適宣手を加えた。
)VB 216。
Russel,B.,P物法 /raπ Z"ωη απグ ο
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″島曙九 Allen&Urlwin,1956,p.68。 (邦訳『 自伝 的回想』 みすず書房,1970年,79頁.)
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(8)
0)
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O MEB440。 (訳118。)
a31 Russel,B., On Denoting",in L鍔
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"厖
砲物 Allen&Unwin,1956.(邦 訳「指示 について」坂本百大編『現代哲学基本論文集
I』勁草書房
,1986年所収
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,岩波書店
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,参照
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α つ
PGEM 348.00 PGEM 350。
α 9 PGEM 351‑5.
00 PGEM 356‑8.
00
ムーア自身のマルコム的解釈への反応についてはい くつかの相矛盾する証言があるが
,確定的なものはない.cf.Baldwin,T。
,GE〃あ雀 Routledge,1990,p.282‑3.(以 下
BMと略記 し
,頁数のみを記す
.)1221 PGEM 668‑9.
1231 Moore,Go M。 , The Refutation of ldealism",in″
物
4n.s。,vol.12,1903。 (邦訳「観念 論の論駁」『観念論の論駁』勁草書房
,1960年所収
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1251 Malcom,N" George Edward Moore",in a E〃 。 。 ″ rJ‰ ぃ 物
Rι′ ω ι θ あ Ambrose, A.&Lazerowitz,M。
(eds。),Allen&Unwin,1970,pp.39‑41.(以 下
ERと略記 し
,ペー
ジ数のみを記す
.) 1261 ER 41‑3.1271 ER 50。
1281『
現』
36‑7,44‑5。1291 cfo RCe,J., English Philisophy in the Fifties",in Rα ttca′
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sの″ 65,Autumn 1993.
00 Durnlnett,M.,0役 多餐 げ
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Haward Uo P。,1994,pp.破 ―
x.130 BM 7.
1321 BM 8.
1331 Rose,G.,脳
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SaaοJ鮨腸 Athlone,1981,pp.5‑13.
130 PGEM 17.
1351 PGEM 21.
00 PE 129‑131。 (訳
169‑171)
1371 PE 132.(訳 172)00 PE 133. ∈沢
174)09 PE7.(訳
9)
1401 PE 188。 (訳 245)
〕
PE 35‑6, G尺
46) 1421 PE 10。 (訳13) 1431 PE 6.(訳8)
140 MEB 444。 (訳 122)D VB35‑57.
1461 Stephen,s.L。
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Cι″滋鶴
2vols,Peter Smith, 1949(firSt edition 1876),vol.I,pp.43‑5。 (以下
ETと略記 し
,巻数 と頁数のみを記す
.邦訳
F十八世紀イギリス思想史
J筑摩書房
.1969‑70年 (三分冊
),上50‑1頁。
)1471 ET,I,61‑2。 (訳,上70‑1)
1481 ET,I,278‑308。 (訳,上
303‑336)
191 MEB 445。 (訳 123)
lml 清水 幾太郎 『倫理学 ノー トJ岩波書店91972年.