哲学と「哲学の言葉」
飯田 隆
1998
年 10 月
哲学に興味を抱くきっかけはさまざまでしょうし、また、それ以後の道筋 もひとによって大きくちがうでしょう。だが、それでも、どんなことでもよ いのですが、なにかが哲学的問題としてそのひとに現れるということがなく ては、本当の意味で哲学に導かれたとは言えないと私は思います。哲学につ いて多くの知識をもっていながら、また、えらい哲学者とされている人の本 をたくさん、しかも丹念に読んでいながら、哲学の問題が「他人の問題」だ としか感じられないひとがいます。こうしたひとにとって、哲学の本に書か れていることは、鑑賞の対象です。そして、優秀な鑑賞者であればあるほど、 本という形で固定された他人の思考の成果を、わざわざ、かき乱そうなどと はしないでしょう。だが、まさにその点で、哲学の鑑賞者は、哲学の外にと どまらざるをえないのです。哲学という領分のなかに入り込むには、何も特 別の知識が必要なわけではありません。入り込もうなどとは思いもしなかっ たのに、いつのまにか入り込んでしまっていたということだって、よくあり ます。他方、(なぜそう思うのかはわかりませんが)入り込みたいと切に思っ ているにもかかわらず、どうしても哲学の鑑賞者以外にはなれないというこ ともあります。このへんは、結局のところ、どうしようもない部分が多いの で、これ以上は述べません。むしろここでは、なにかが哲学的問題として現 れてきたとき、最初の一歩をどう踏み出せばよいかということについて、い くらか述べてみたいと思います。 私の考えでは、哲学の問題の多くは、概念にかかわる問題です。したがっ て、自分たちがもっている概念がどのようなものであるかを、明瞭な仕方で 把握することがぜひとも必要です。しかし、概念そのものは、目に見えるも のでも、耳に聞こえるものでもないように思われます。いったい、そんな種類 のものを明瞭に把握することなど、可能なのでしょうか。ここで詰まってし まっては、このあと一歩も先に進めません。しかし、さいわいなことに、ここ から脱け出す道はすでにつけられています。そして、こうした道をつけた功 績は、分析哲学と呼ばれる哲学の流派あるいはスタイルに帰すべきです。分 析哲学の基本的な考え方によれば、ある概念をもっているということは、あ る一連の言葉を正しく使えることにほかなりません(これはまだひどく抽象 的ですが、この後すぐ例を挙げますから、もうちょっと我慢してください)。したがって、概念を明瞭な仕方で把握するためには、その概念にかかわる言 語表現を、自分たちがどのように使っているのか、より正確には、どのよう な使い方が正しいと自分たちがみなしているのかが、明瞭にされればよいと いうことになります。「分析哲学」という名称に含まれている「分析」の対象 は、ふつう、言語であると考えられています。そして、そう考えることは誤 りではないのですが、言語の分析を通じて目指されているのが概念の分析で あることは、見落とされてはならないでしょう。 さて、例です。あるとき、こんな議論を思いつきました。その結論は、「ひ とが、なにかを忘れようとしても、そうすることによって実際にそのなにか を忘れるということは不可能である」というものです。そして、その根拠は こうです。—いやなことを忘れようとして、「このことは忘れよう」と常に心 がけている人間は、いつも「このこと」を自分の「心がけ」の一部として意識 するのであるから、そうすることは、いつも「このこと」を念頭に浮かべて いることになる。したがって、ひとは、何かを意識的に忘れようとして、そ れに成功することはできない。 この議論に、たいした哲学的深みはないかもしれません。いや、きっと、な いでしょう。しかし、これが、心理学とか生理学とかでなく、哲学に属する 議論であることはたしかだと思えます。何人ものひとを被験者として、意識 的になにかを忘れることを試みてもらい、その成功率を統計処理するといっ たことが、ここで目指されているわけではありません。ここにあるのはあく までも議論だけで、しかも、その議論を成り立たせているのは、「忘れる」と か「意識する」といった言葉によって指される概念のあいだに成り立つと考 えられる関係です。それゆえ、この議論は、それ自体としてはつまらないも のかもしれませんが、いくつかの重要な概念のあいだの関係を探索するきっ かけにはなりうるはずです。 どのようにしてそうした探索に取りかかるべきでしょうか。ひとつの可能 な道は、こうです(ただひとつの道があるわけではなく、ここで述べる以外 のやり方もたくさんあるはずです)。「忘れる」ということが問題となってい るのですから、それと対をなす「覚える」を、比較のために持ち出してみた らどうでしょうか。まずだれでも気がつくのは、「覚える」に関して、同じよ うな議論はできそうにないということでしょう。「ひとがなにかを意識的に覚 えようとしても、そうすることは決してできない」という主張は、明らかに ばかげています。もちろん、もとの議論の結論にも、ひっかかる点がないわ けではありません。もしもこうした結論が正しいとすれば、忘れようとする ことは、まさにそれが目指す事態の実現をさまたげるという、自家撞着的な ものでしかありえないということになります。しかし、ひとの振る舞いや態 度を記述するのに「忘れようとしている」といった表現を用いても、その振 る舞いや態度が不合理だといった含みは、この表現にはないと思えます。た
とえば、「ぼくが旅に出るのは、つらいことを忘れるためだ」という説明を 受けたからといって、相手の行動が不合理だと決めつけるひとは、まず、い ないでしょう。それでもなお、「ひとがなにかを意識的に忘れようとしても、 そうすることは決してできない」という主張が誤っていると即座に断言する ことには、ためらいが残ります。ためらいがなぜ残るのかといえば、それは、 「意識的に忘れようとする」という句に、まだ何か釈然としない感じをもつか らではないかと思います。 ふだんの生活で私たちは、この句に関して何の問題も感じません。だが、 ひとによっては、いったん、「意識的に」と「忘れる」とがこの句のなかで直 接結合されているということに気付くと、なぜそのようなことが可能なのか と思いわずらうということが起こりえます。一方には、忘れるということが、 意識的になされることでないだけでなく、意識的にできることでもないとい う考えがあり、他方には、「意識的に忘れようとする」という句が実際に流通 しているのだから、なにかを意識的に忘れることはやはり可能なのだという 考えがあります。この両方から引っ張られて身動きが取れなくなったりすれ ば、これはもう、立派に哲学的問題の渦中にいるということになります。と いっても、この哲学的窮境から脱け出すのは、それほどむずかしくはありま せん—この問題が「哲学的に深く」はないと言ったのは、そのせいです。 わざわざそうしようと思ったり、そうしようと努力したりすることなしに、 ひとの身に生じる出来事というものがあります。たとえば、眠ることがそう です。そして、忘れることもまた、この部類に属します。他方、そうしよう と思い、それなりの努力をしなければ生じない出来事も、たくさんあります。 たとえば、ピアノを弾くこと、外国語で書かれた本を読むことなどは、こち らの部類に属するでしょう。さらに、これら二つの部類のどちらに属するか が、場合によって異なるものもあります。なにかを覚えるということが、そ の例です。精一杯の努力をしてなにかを覚える場合もあれば、何の努力もせ ず、また、覚えようとも考えていなかったのに、なにかを覚えてしまったと いう場合もあります。(ついでですが、「してしまった」という表現が使える かどうかが、ある出来事が、第一の部類に属するか、それとも第二の部類に 属するかのテストとして使えそうです。) 第二の部類に属する出来事を取り上げましょう。たとえば、ショパンのあ る曲を弾くという出来事です。この出来事を実現させるためには、実際にピ アノにさわって、ショパンのその曲を追ってみることが必要です。どんなにへ たであっても、その曲を弾いてみなければ、それを弾けるようにはならない からです。一般に、第二の部類に属する出来事を実現させるためには、その 出来事そのものではなくても、それと同じような表現で言い表されることを しなくてはなりません。いまの言い方はわかりにくかったでしょうから、例 で言い直します。「ショパンのワルツを弾く」という出来事が実現するために は、それ以前に、どんなにつっかえながらであっても「ショパンのワルツの
楽譜に従って音を出す」ということがあったはずです。同様に、外国語で書 かれた本を読もうとしているのならば、その本の一部である外国語で書かれ ている文章をひとつずつ読んでいるのでなければなりません。 それに対して、第一の部類に属する出来事については、事情はまったく異 なります。自分が眠っているという状態を実現させるために、どれだけ不完 全な仕方であろうが先に眠っていなくてはならないというのは、意味をなし ません。忘れるについても、同様です。なにかを忘れるために、まず、本当 に忘れるまえに、忘れることの練習をするなどということがありうるでしょ うか。 でも、「忘れようとする」という言い方、また、「眠ろうとする」という言い 方があるじゃないかと言われるでしょう。「意識的に」「努力して」忘れるこ ともあれば、眠ることもある、これはいったいなにをしているのだろう、と いうわけです。答えは、こうです。眠るのに適した状況や、忘れるのに適し た状況というものがあります。「眠ろうとする」こと、「忘れようとする」こ とは、それぞれ、眠ることや忘れることに適した状況を自分から作ろうとす ることなのです。このように考えれば、「眠ろうとして努力する」や「忘れよ うと努力する」といった言い方に矛盾がないことは明らかでしょう。ここに なにか矛盾があるように思えてしまうのは、こうした言い方が、「問題を解こ うとして努力する」とか「山頂まで行こうと努力する」といった言い方と同 じだとみなすからです。この二種類の言い方が異なることに、まだ納得が行 かないならば、つぎのように考えてみたらどうでしょうか。山頂まで行こう と努力することもまた、山頂に自分が立つという出来事が実現するのに適し た状況を作ろうとすることだと言えるかもしれません。しかしながら、この ときになされること—山頂までの道を歩くこと—は、「山頂まで行く」という 過程の一部にほかなりません。それに対して、「眠ろうと努力する」際になさ れるさまざまな事柄—寝具を用意すること、寝間着に着替えること、部屋の あかりを消すこと、等々—は、断じて、眠ることの一部ではありません。あ るいは、このように言ってもよいかもしれません。眠ろうとするひとにとっ て、眠るための準備をしたあと、なすべきことはただ、眠りが訪れるのを待 つことだけです。それに対して、山頂をきわめようとするひとは、山頂に自 分が立つときの準備をしたあと、その事態が到来することをただ待ったりは しないのです。 さて、このちょっとした哲学的議論の実例から、教訓を引き出すことにし ましょう。まず、この議論から、何が得られるのでしょうか。当面、ふたつ のことが考えられます。ひとつは、「忘れる」とか「眠る」といった言葉で記 述される出来事と、「問題を解く」とか「山頂まで行く」といった言葉で記 述される出来事は、どちらも、ひとにかかわる出来事ですが、そのひととの かかわり方が大きくちがうということです。もうひとつは、どちらの言葉も
「. . . ようとする」とか「. . . しようと努力する」といった文脈に現れることが できますが、それぞれの場合で異なる意味になるということです。これらの 事柄が、本当に重要な問題とかかわるのかどうかは、まだ見えませんが、少 なくともここからは、ひとに「起こる」ことと、ひとが「する」ことのあい だの区別といったものを引き出せそうです。そして、この区別はそれ自体で、 それなりの興味をもつものではないかと、私は考えます。 しかし、私がこの議論を取り上げたのは、それ自体の興味のためというよ りは、哲学において言語分析というものが実際にどのような形でなされるか を示す手頃な例としてでした。今度は、こちらの観点から、どのような教訓 が引き出せるかをみておきましょう。 哲学の言葉ということで、ひとがすぐ連想するものには、だいたい二種類 あると思います。ひとつは、とても一般的で抽象的な言葉です。「存在」とか 「認識」とか「行為」といった言葉が、その例です。もうひとつは、哲学者に よって作られた専門用語です。「理性」とか「実体」とか「属性」といった言 葉が挙げられるでしょう。このいずれの種類に属する言葉も、日本語ではほぼ 例外なく、漢字熟語の名詞であることに注意してください。哲学的議論、と くに、問題を考え始める最初の段階で絶対に避けるべきなのは、こうした言 葉です。実際、うえの議論で、こうした言葉は出てきたでしょうか。「意識」 というのがちょっと怪しそうですが、実際に出てきたのは「意識的に」とい う副詞だけです。典型的な「哲学の言葉」とされる漢字熟語の名詞は、哲学 的問題のありかを示すだけの見出し語(「存在」や「認識」や「行為」など) にすぎないか、あるいは、過去の哲学者たちによる複雑な概念操作の歴史を ひきずる、それ単独では意味不明の語でしかありません。哲学的議論という と、こうしたむずかしげな言葉が飛び交う場所だと考えるひとが多いのでは ないでしょうか。そうした印象は、哲学書から得られたのかもしれませんし、 ひょっとすると、実際にそういう場所に居合わせたことから得られたのかも しれません。もしそうであれば、それは不幸なめぐりあわせというものです。 分析哲学という哲学のスタイル、そして、その要とも言うべき哲学的言語 分析の特徴は、抽象的な「哲学の言葉」が単に名指すだけの哲学的問題を、 現実の言語使用に引き戻して考察することにあります。「記憶」という言葉で くくられる哲学的問題があるとすれば、そうした問題を検討するために考察 されるべきなのは、この「記憶」という言葉ではなく、「覚える」、「忘れる」、 「思い出す」といった動詞とそのさまざまな変形—「覚えている」、「忘れて いる」、「覚えられない」、「忘れられない」、「思い出せない」、「覚えていた」、 「忘れた」、「思い出した」—の方です。ここで重要なことは二つあります。第 一に、これらの語をそれぞれ単独で考察するのではなく、これらの語を含む 文にはどのようなものがあり、どのような使われ方をするのかといった具合 に、必ず、その語が使われる文脈を念頭に置くことです(哲学の言葉の典型 とされる漢字熟語の名詞は、独立性が高いために、つい、ひとり歩きしがち
であるだけでなく、文脈における考察ということになじみません)。第二に、 目指されるべきなのは、考察対象となっている言語表現のあいだの相互関係 を明らかにすることですが、そうする仕方はいろいろあるということを見失 わないことです。とりわけ、定義を目指すことは、多くの場合、不毛である だけでなく、危険でもあるということを、覚えておくとよいと思います。哲 学では言葉に注意を払わなければならないということを聞くと、ひとはよく、 哲学の議論ではきちんと定義された言葉だけを使うべきだとか、自分の使う 言葉の定義がどうなるか考えるべきだといった話だと思いがちのようです。 でも、重要な概念を表す言葉であればあるほど、その定義を目指すことは見 当違いの努力になりかねません。なぜならば、哲学的議論で問題となるのは、 しばしば、同程度に基本的な複数の概念から成る一種のネットワークだから です。こうした場合、ひとつの概念を表す表現を別の表現で定義したとして も、そこから本当の理解が得られるということはあまり望めないでしょう。 私が勝手に名付けたものですが、「哲学的言語分析の三原則」なるものを、 最後に、紹介しておきましょう。この三原則が、これまで私が述べてきたこ とと一致していることに気付かれることと思います。 1 漢字熟語を分析の対象としてはならない。 2 語を単独で考えてはならない。 3 定義を目指してはならない。