第
81巻 第
2号
2008年
9月
77‑111翻 訳
ルスヴァンシャド王とシェーリスタニ王女の物語
白い牝鹿
ペティ・ド・ラ・クロワ 最 上 英 明 訳
若きシナの王)レスヴァンシャドは,狩りをしていたある日,白い牝鹿を目撃した。
この牝鹿には青と黒の斑点があり,ひづめには黄金の指環をつけ,背中には銀糸を織 り込んだ黄色いサテンの鞍敷きを載せていた。
この高貴な獲物を一目見た王は,自分のものにしようと全速力で追いかけた。しか し牝鹿は追跡を逃れ,ほこりも立たないような軽快な足取りで逃走した。何とか追い つこうとしたが,無駄だった。追跡をあきらめようとしたとき,この牝鹿がもう一 度,彼の視界に入った。牝鹿は泉の近くの芝草に横になり,疲れを癒やしているよう
に見えた。急いで馬を走らせて追いかけたが,一向に近づく気配もなく,牝鹿は二三 歩,軽く跳躍して,水の中に飛び込み,そのまま姿を消してしまった。
シナの王は,馬から飛び降り,素早くかけより,泉の周囲を回り,水をかき回し て,獲物を捜そうとしたが,まったくその痕跡すら見つからなかった。彼はすっかり 驚いて,大臣や従者たちを見たが,彼らも驚いていた。王はしばらく考え込んだ。あ の牝鹿は狩人たちを惑わすために,動物の姿になって楽しんでいる妖精であろうと,
王は言った。同行の一同も同感だった。
ルスヴァンシャドは,金縛りにあったかのように立ちつくし,泉の方をじっと見つ
め,何度も深いため息をついた。「大臣よ,私は夜もここにいよう」と彼は言った。「妖
精がここから逃げないようにしないと。また水の中から出て来るような気がするの
だ。」王は大臣以外の従者たちを,王宮へ帰らせた。二人は草原に座り,白い牝鹿の 話をしているうちに,夜になった。やがて狩りで疲れた王は言った。「大臣よ,私は 睡魔には勝てない。私が眠っているあいだ,どうか見張りを続けて欲しい。泉にずっ と目を向けていてくれ。何かが姿を現したら,私を起こすように。」大臣も疲れては いたが,王の頼みでもあり,しばらくは見張っていた。しかし彼も同様に眠り込んで
しまった。
しかし,彼らの休息は長くは続かなかった。すぐ近くから聞こえる素晴らしい音楽 で目を覚ましたのだ。驚いたことに, とても人間技でできたとは思えない明る<輝く 美しい宮殿が目の前にあった。
「大臣」と王は小声でささやいた。「これはいったい何だろう。何という甘美な旋律 が聞こえてくるのだ。目の前にあるのは,何と素晴らしい宮殿だろう。」
「陛下」と大臣は返答した。「これは人間技でできたものではありません。魔法のカ が働いているように思います。こんな場所から離れましょう。魔術師がこの宮殿で陛 下をわなにかけようとしているのです。」
すると)レスヴァンシャドは返答した。「そうだとしても,恐れることはない。近づ いてみよう。」そしてさらに言った。「誰が住んでいるのか,見てみよう。私を不安に するのは止めるように。危ないと言われると,かえって逆らいたくなるのだ。」
大臣は,もはや王に思いとどまる気がないことを知ると,もう反論しなかった。ニ 人は宮殿に近づき,門が開いているのがわかると,大きい中庭に入り,そこから中国 製陶器の置かれた大広間へ入った。広間には黄金の金襴でできたソファーとタペスト リーがあり,芳香が満ちていたが,中には誰もいなかった。さらに先へ進み,となり の広間へ行った。そこでは若い女性が玉座に座っていた。彼女は高価な宝石を身につ け,信じられないほど美しかったので,ルスヴァンシャドと大臣は,心を奪われて立 ちつくした。
彼女は,五〜六十人の若い乙女たちが,歌を歌ったり琴を弾いているのに耳を傾け
ていた。彼女たちは真珠のちりばめられたハラ色の衣装を着て,玉座の向かいに立っ
ていた。ルスヴァンシャドは,こんな美しい声や心を奪われるような旋律を,これま
で聞いたことがなかった。しかし,女主人に見とれていると,周囲のものも,何とも
感じなくなった。
若い娘たちは王に気づくと,演奏を中断した。彼は深くお辞儀し,広間の中央まで 進み,彼を魅了した女性に言った。「素敵な女王さま,あなたはシナの王である私を ひと目で奴隷にしてしまいました。私を哀れんで,こんなに私の心をかきたてる女性 の名前を,どうかおっしゃってください。」
すると彼女は笑いながら答えた。「私は牝鹿です。ライオンを鎖につなぐこともで きます。私は今日あなたが追いかけて,泉に消えた獲物なのです。」
王は答えた。「おお,そのような変身の話は理解できません。目の前の今のあなた が本当の姿だと,どうしたらわかるのです。」
彼女は答えた。「あなたの目の前にいるのが,本当の姿です。もちろん私は,好き なときに,姿を変えることもできますし,人間にはまったく姿が見えないようにもで きます。しかしこれは魔法によるのではありません。自由に姿を変えれる能力は,生 まれつきのものなのです。」
こう言うと,彼女は玉座からおり,王に近づき,彼の手を取って別の部屋へ案内し た。そこには素晴らしい料理が並んだテーブルがあった。彼女は王を座らせ,自分も 王と大臣のあいだに座った。大臣はあまり気乗りがせず,王によからぬことが起こる のではと思った。
しかし王は,この女性の美しさにすっかり魅了され,そんなことを考える余裕もな かった。彼が彼女にも料理を取ろうとすると,彼女は言った。「二人でお食べくださ い。私たちには,料理の匂いだけで十分なのです。」
王と大臣が食事を終えようとすると,二人の若い侍女がメノウでできた杯に紫色の ワインを注いで持ってきた。飲み終わると,すぐに注ぎ足されるので,いつも杯は いっぱいだった。女主人にもワインが運ばれたが,彼女は一口も飲まず,匂いをかぐ だけで十分だった。やがて体も温まると,王は女主人に情熱的に語りかけた。
すると彼女は心を打たれ,彼に告白した。「王よ,私は人間より優れた種族に属し
ていますが,あなたへの愛を抑えることができなかったのです。獲物の真価を知って
もらえるよう,私のことをお話しましょう。シェーリスタンという島が海にあり,妖
精たちが住んでいます。王はメヌチャーといい,私はそのひとり娘でシェーリスタニ
という名前です。
三ヶ月前,初めて父の宮廷を離れました。アダムの子孫[訳注・人間のこと]の住む さまざまの国を知りたかったのです。世界中を見て回り,シェーリスタンに戻ろうと した今日,狩りをしているあなたを見たのです。観察しようと,立ち止まりました。
すぐに私の心が動揺しました。あなたが視界から消えると,夢見るような気持ちにな りました。ため息も出ました。心ならずも,あなたのことで頭がいっぱいになり,私 は顔を赤らめました。アダムの子孫が私の心を動揺させることがあるのだろうかと,
私は自問しました。私の誇りに人間が勝利することがあるのだろうか。私は自分の弱 さに恥ずかしくなり,すぐにあなたから離れようとしました。しかしそうする力があ りませんでした。金縛りにあったかのように,立ち止まりました。とうとう私はこの 情愛の感情に負けてしまい,あなたの気を引くための手段を考えました。それで私は 牝鹿の姿になり,おびき寄せようと,あなたの前に立ったのです。あなたは追いか け,私は泉に飛び込みました。あなたが私を探そうとしたときに,私がどれだけ喜び を感じたか,想像できないでしょう。あなたの心の動揺にますますうれしくなり,幸 先がいいと感じました。あなたの話に耳を傾け,一晩中,泉のほとりにいると聞いた ときは,思わずうっとりとしました。あなたが眠っているあいだに,お迎えする宮殿 を,妖精たちに建てさせたのです。」
シェーリスタニが話を続けようとすると,険しい表情の若い女性が入ってきた。王 女は彼女の表情から不幸が起こったことを知り,激しく泣き始めた。シナの王にとっ ては,何という光景だったであろう。彼女の深い悲しみに呆然としたものの,その理 由がわからなかったのだから。彼が尋ねようとしたそのとき,使者の女性が歩み出 て,話をした。「王女さま,ご存知の通り,妖精は人間よりも長くは生きられますが,
死を逃れることはできません。お父さまが亡くなられた今,国民はあなたが王位につ くことを望んでいます。一刻も早く,国にお戻りください。総理大臣である私の父 が,あなたを探して帰国を促すよう,私に命じたのです。」
「わかりました,マイムナ」と王女は答えた。「あなたやお父さまの労には感謝しま
す。すぐに戻ります。さようなら,王。」王女はルスヴァンシャドの方を向き,きれ
いな手を差し出すと,彼はその手に情熱を込めて接吻した。「私はここを去ります。
また再会する日が来るでしょう。あなたがずっと私のことを愛してくれるなら,私は 他の誰とも結婚しません。」
彼女はこう言うと,姿を消した。宮殿を照らしていたロウソクの灯りは消え,周囲 は真っ暗闇となり,シナの王と大臣は,夜が明けるまで,その場に残ることにした。
夜が明けると,驚いたことに,宮殿のあった場所は,すっかり野原となっていた。王 は言った。「夢を見ていたのだろうか。」
大臣は言った。「いいえ,これは魔法だったのでしょう。私たちは美しい女性の姿 になった恐ろしい魔女に出会ったのです。歌を上手に歌い,琴を弾いていた女性も魔 女に仕える妖精たちだったのです。」
大臣の話がもっともらしく思えても,彼女を深く愛した王にしてみれば,そう簡単 に信じるわけにもいかなかった。心に刻み込まれた彼女の魅力的な面影を壊そうとは せず,王宮へ戻る途中でも愛情あふれた彼女の思い出を大切に守ろうと心に誓った。
しかし,彼女に関する情報はまった<途絶え,情熱を必死に冷まそうとする大臣の努 カの甲斐もなく,王は深い憂鬱に陥った。娯楽にもまった<興味がなくなった。狩り だけは例外で,牝鹿を見かけた場所にだけは,再会を期待して何度も出かけた。
シナの王の旅立ちとナイマンの王女との出会い
こうしてまる一年が過ぎたが,苦しみの源である美しい妖精の王女が幻覚ではな かったと確信する自信もなかった。やはり魔法に過ぎなかったのかとも思い始めた。
彼は思い出を断ち切るため,旅に出ることにした。大臣には不在中の国政を委ねた。
大臣が護衛を同行するように懇願しても聞き入れず,夜にたったひとりで旅立った。
ルビーとエメラルドの飾りのついた黄金の鞍や馬具を装着した馬に乗り,豪華な衣服 に身を包み,ダイヤモンドで覆われた鞘の剣を持って出かけたのだった。
彼は自国を横断し,チベット国境に到着した。この王国の首都まで,あと二日ぐら
いの距離だったが,そこの葉の生い茂った木の木陰で休むことにした。彼が馬から降
りると,別の木陰に若い女性がいるのに気がついた。まだ十八歳ぐらいの年齢で,頭
を両手で抱えて,物思いに沈んでいた。彼女の絶望的な表情から,何か不幸な目に
あったのだと思われた。衣服は破れていたが,美しい女性で,身分も低からぬ者であ ることは,すぐにわかった。)レスヴァンシャドは彼女の方に近づき,救いの手を差し 伸べ,素性を尋ねた。すると彼女は返事をした。「私は王女ですが,王女ではないの です。私は王妃ですが,王妃ではないのです。」
シナの王はこの若い女性が何を考えているのかわからず,理性を失っているのかと も思った。「さあ」と彼は言った。「もっと分別をもって話をしてください。あなたの お力になれるよう,何でもお手伝いしますから。」
「私を頭のおかしな女性だと思われても不思議ではありません」と彼女は答えた。「私 が言ったことは,意味がわからないでしょう。しかし,私の不幸な話を知ったなら,
そうは思わなくなるはずです。あなたのご親切に感謝して,お話することにいたしま しょう。」そして彼女は話を始めた。
ナイマンの王女の物語
私はナイマン王の娘です。父には私以外に子どもがなかったので,王の死後,私が 女王となりました。最初はまだ四歳だったので,私が成長するまでは,乳母の夫であ る大臣のアリ・ビン・ハイタムが政務を担当しました。この聡明な男に私の教育も委 ねられました。私が国政術を学び終えた頃,私を運命のどん底に突き落とすようなで き事が起きたのです。モンゴルとの戦いで戦死したはずの叔父ムアファク王子が,突 然,ナイマン国に現れたのです。かつての友人だった重臣の数人が彼の仲間になりま した。彼らが彼の野心に肩入れしたので,反乱が起きました。大臣アリは鎮圧しよう としましたが,無駄でした。火を消すつもりが,かきたててしまっただけでした。結 局,すべての国民がムアファクの陰謀にそそのかされ,彼を支持したのです。
王位略奪者は王冠を手にするとすぐ,私を捕えて殺そうとしました。私の側からの
反撃の機先を制しようとしたのです。しかし,大臣アリと彼の妻である乳母は,暴君
から逃れる手段を見つけてくれました。二人はある晩,私を連れ去りました。アルバ
ジンを離れ,回り道をしながら,チベットにたどり着きました。私たちはこの王国の
首都に移り住み,大臣はインドの画家,私はその娘として暮らしました。彼は絵を勉
強していたので,画業には秀でており,すぐに評判になりました。私たちには宝石も たくさんあり,派手な生活もできましたが,アリの絵筆だけで生計を立てているかの ように,地味な生活を送りました。私たちは,ムアファクの追手を恐れ,疑われない ようにしたのです。
こうして二年が過ぎました。次第に私は王女だったことも忘れました。不幸なでき 事にも心の整理がつくと,身分の低い者としての生活にも慣れ始めました。もう一般 人の娘のような気持ちでした。かつて王座にいたことを思い出すこともありませんで した。落ち着いた生活を享受するうちに,記憶から過去のことが消えていったので す。かつての栄光に満ちた地位をときどき思い出すことがあっても,すっかり自由に なった身から思えば,束縛感を感じるだけでした。最高権力に伴う気遣いから離れて みると,今の運命も許せました。残りの人生を,こうして質素で幸福に暮らすことを 神が望んだのだろうと。不幸を喚いても無意味ですから。
大臣はチベットの街中の人が感嘆するような絵を描き続けました。国王もその評判 を聞き,絵を見てみたいと思うようになりました。王自身がアリのもとへやって来る と,彼は王に絵を見せました。王は絵にも画家との話にも,とても満足でした。二人 が話をしているあいだ,王を見てみたい好奇心から,私は部屋に入りました。私が画 家の娘として部屋に入っても,私のことなど,気にもとめないだろうと思ったので す。しかし計算違いでした。王は私を見てどぎまぎしたのです。それに気づいた私は,
すぐに部屋から出ました。私にはっとしたことを気づかせることもなく,王は大臣と 話を続けました。しかし私を見て心が動揺したことは,態度から一目瞭然でした。王 は翌日もやって来ました。翌々日以降も,また来ました。絵を探す口実で,全部の部 屋に入りました。そしていつも私のいる部屋までやって来ました。王はもちろん何も 話しませんでしたが,燃えるような眼差しが,心情を表していました。
ある日,王宮に部屋を提供し,高額の年俸を支払う申し出を彼は大臣にしました。
有名な画家を自国に引きとめ,自分のところに置いておきたいというのが彼の言い分
でした。アリはこの申し出の真意をすぐに推測し,私に言いました。「妃殿下,チベッ
トの王は妃殿下を愛しているのです。王の申し出は,絵よりも愛の賜物でしょう。私
たちは王宮に移り住みますが,毎日,必ず妃殿下に情熱を伝えに来るでしょう。ご自
身の生まれ育ちをお考えください。王の慰み者になってはいけません。王が王妃にす るほど愛していることがわかってから,王の願いを聞き入れてください。もしそうで ないのなら,受け入れることは止めましょう。」私は大臣に忠告を守る約束をしまし た。しかし,私も王の愛情に気づいていたことは話しませんでした。ましてや,私も 王に愛情を感じていたことなどは。王は若くてりりしく,立派な姿だし,どうして私
も心の高鳴りを感じずにいられたでしょう。
私はチベットの王に本心を隠すことにしました。ただ私をもてあそぶだけかもしれ なかったからです。しかし王は,そんな不安を吹き飛ばしてくれました。私が王宮へ 行くとすぐ,私が望んだような形で愛を告白してくれたのです。
「あなたを初めて見たときから,私はすっかり魅了されました」と王は言いました。
「それ以来,私はあなたのことばかり考え,あなたがいなくては生きてはいけませ ん。あなたを奴隷のように扱うつもりはありません。シナの王の娘のように敬意を表 します。私と結婚して,チベットの王妃になってください。」
感動と喜びにあふれて,私は王に心から感謝し,私の本来の素性も伝えました。王 が私の悲しい過去を知ると,叫びました。「王女よ,あなたがチベットヘ来られたの は,神が私にあなたの復讐を望んだからでしょう。卑劣なムアファクをすぐに罰しま しょう。今日にも結婚に同意してくださるなら,明日にでも使者を派遣しよう。王座 を返還するか,わが軍と戦うか,選択するように伝えます。」私は改めて感謝し,私 も最初にお会いしたときから,王にすっかり心を惹かれていたことを告白しました。
すると王はとても喜んでくれ,私の手を取り,激しく口づけをし,永遠に私を愛する と誓いました。その日のうちに結婚し,街中で婚礼のお祝いがなされました。
翌日,王は約束通り,ナイマン国へ送る使者を任命しました。彼らはすぐに出発 し,首都に到着すると,謁見を申し出ました。すぐに聞き入れられ,私と王が結婚し たこと,私へのナイマン国の領土の返還を要求しにやって来たこと,もし拒否すれば 宣戦することを伝えました。ムアファクはチベットの王に抵抗する力もなかったの に,この要求を無視し,王座を返還する意思はないと返答してきました。すぐに国の あちこちで召集が行われ,かなりの軍勢が揃いました。しかし出陣しようとすると,
ナイマンから使者がやって来て,私の叔父ムアファクが突然の病気で亡くなり,国民
は私に忠誠を誓うことを望んでいると伝えてきました。それで王は軍を解散し,王座 を引き継ぐ準備のために,アリをナイマンに送ることにしました。大臣が出発の準備 をしていると,思いがけない異常なでき事が起こったのです。
ある晩,私は部屋の寝床で休み,コーランを読んでいました。本を読んでから,も うすでに就寝していた王を訪ねようと,部屋を出ました。突然,恐ろしい幽霊が目の 前に現れ,すぐにまた消えたのです。私は大声で叫んだので,すでに寝ていた王が目 を覚ましました。王がやって来て,叫んだ訳を尋ねました。私は理由を話しました。
私は王がいるだけで安心したので,幽霊は私の幻覚だったのだろうと思い始めまし た。王は私の話を聞いて,私を安心させるどころか,次のように言いました。「王妃,
実は私はあなた以上に驚いているのだ。あなたが私の寝床とあなたの部屋と,同時に いるなんて,私には理解できない。」
「王よ」と私は答えました。「私には,あなたの言っていることがわかりません。もっ と詳しく説明してください。」
「さあ」と王は言った。「私の寝床へ来れば,すぐにわかります。驚くべきことがわ かるでしょう。」
私が枕もとへ行ってみると,本当に驚いたことに,私とそっくりの若い女性がいた のです。彼女はまったく私と同じ顔立ちと体型をしていました。
「神よ」と私は叫びました。「いったい何なのです。こんな前代未聞のおかしな話が あるなんて。」
「哀れな女よ」と未知の女が私とそっくりの声で話をさえぎりました。「私の体を真 似るなんて,何と恥知らずな。いったいどんなつもりなのです。悪事をしでかす魔女 ですか。私の夫である王を騨そうと思ったのですか。どちらが彼の妻かわからなくな るようにして,私を彼の寝床から追い出そうとするつもりなのでしょう。あきらめな さい。そんな策略は無駄です。魔法を使っていても,お前が哀れな女に過ぎないこと を,夫はわかっています。ねえ,国王。」彼女は王の方を向いて,さらに言いまし た。「この哀れな女を捕まえさせなさい。暗い牢獄へ入れ,明日火刑に処すよう命令
してください。」
私とこの女とがすっかり似ていただけでも驚いたのに,彼女の恥知らずな言動はさ
らにまた驚きでした。同じ声で返答する気力も失せ,涙を流さずにはいられませんで した。泣きながら,私は王に言いました。「王よ,私の不幸はもう済んでしまったと 思っていました。あなたと結ばれることで,私の苦しみも過去のものになったと思っ たのです。ところが,私の幸福を妬む悪魔がじゃまをしに来たのです。悪魔が私の姿 かたちを真似て現れ,私だと勝手に自称したのです。策略は成功し,あなたは私と悪 魔を取り違えました。私を見てください。あなたにとって妻がまだ大切ならば,愛の カで目を見開いて,目くらましの魔法を打ち破って,私を心で識別してください。私 がナイマンの王女であることを,神にかけて誓います。」
寝床にいた女は,また私の話をさえぎりました。「お前は嘘をついている」と彼女 は叫びました。「恥知らずの女で,まるで詐欺師。最初に誓いで自分の正当性を主張
し,それからいつでも流せる涙に助けを求めて。」
「もう止めなさい」と王はやっと言いました。「あなた方の話は,何の解決にもなら ない。かえって混乱するばかりだ。私には妻を識別できない。あなた方のどちらかが,
私を混乱させようとする魔女だ。しかし,判断するのは不可能だ。罪人の方を処罰し ようと思っても,罪のない者の方を罰してしまう恐れがないともいえない。」
王には私と魔女との区別ができなかったので,宦官長を呼び,私たちを別々の部屋 に入れるように命じました。そこで朝まで過ごしました。翌日,王は大臣アリと妻を 呼び,奇妙なでき事を説明しました。彼らは私たちに会うことが許されました。彼ら が私を識別できるだろうと思ったからです。しかし,私たちはとても似ていたので,
彼らにも真実と虚偽とは区別できませんでした。乳母でさえ,私が生まれたときのひ ざのアザを覚えていたのに,二人とも同じ場所にそのアザがあるのを見て,驚くだけ でした。しかしまだ驚くのは早かったのです。彼らは私たちを別々に尋問したのです が,未知の女も私と同じ答えをしたのです。結局,彼らもどうしたらいいか,わから なくなりました。それでも,乳母には私の方が適切な回答をしていると思われたよう で,彼女は私が本物だと判断しました。
しかし彼女の感性は評価されませんでした。王が集めた大臣全員が,王の寝床にい
た女性の方が王妃だという意見だったのです。そして私が火刑に処すべき魔女とされ
たのです。王は万が一のこともあり,そんな残酷な忠告に従うつもりはなく,私を首
都から追放するだけで十分でした。私の服は奪われ,ぼろ着を着せられ,外へ追い払 われました。慈悲深い人々のわずかのお恵みで,ここまでやって来たのです。これが 私の話です。最初に「私は王妃ですが,王妃ではないのです。私は王女ですが,王女 ではないのです」と言ったのはそのためなのです。
大臣カヴェルシャの物語
チベットの王妃が話を終えると,ルスヴァンシャドは言った。「王妃,元気を出し てください。あなたの不幸はもう峠を越えました。これから運命は絶対に好転します。
『完成は衰退の始まり。究極の不幸には幸福が近づく』とある詩人も言っています。
同じ詩人はさらに『幸福の絶頂にあるときは,没落への心構えをしなさい。不幸の極 限に達したときは,幸福への心構えをしなさい』とも言っています。人間の運命とは そういうものです。納得していただけるよう,大臣カヴェルシャの物語をお話しま
しょう。
ヒルカニアの国王コダヴァンドには,カヴェルシャという名の大臣がいました。こ の大臣はとても頭のいい有能な男でした。ある日,入浴しようとして,浴槽の横に立 ち,おしゃべりしながら指から指環を抜いていると,浴槽に指環が落ちました。しか し底に沈まずに,お湯の表面に浮いていたのです。
カヴェルシャは,この不思議なでき事に狼狽して,自宅の財産を持ち出して,彼が 指示した場所に隠すよう,すぐに家臣たちに命令しました。そして『王は私を逮捕し ようとしている』と家臣たちに言いました。家臣たちがまだ家財道具を全部運び終わ らないうちに,本当に王の警備隊長と部下がやって来て,彼を投獄するという命令を 伝えました。大臣が連れられていくあいだ,警備兵たちは家財道具の残りを持ってい きました。不幸な大臣は,コダヴァンドヘの虚偽の通報によって拘束されたのです が,何年も投獄されました。友人と話をすることさえ許されませんでした。彼を慰め ることもできず,王は毎日毎日,新たな命令を出し,拘束状態は厳しさを増すばかり でした。
大臣はずっとザクロの料理を食べたいと思っていました。絶えず頼んでみたもの
198
の,非情にも拒否され続け,苦しむばかりでした。ある日,看守が同情して,陶器の 皿にのせて運んできました。心から欲しかった食べ物がやっと手に入り,彼は喜色満 面でした。くつろいで賞味しようと,皿を床の上に置くと,二匹の大きなネズミがけ んかしながら走ってきて,皿の上に落ち,料理は汚れてしまいました。カヴェルシャ はもう食べようとはせず,家臣に使いを送り,財産をまた家に戻すように伝えさせま した。そして,王が彼を釈放し,またもとの地位につかせようとしていると言いまし た。まもなくその通りのことが起こりました。コダヴァンドはその日のうちに,彼に 自由を与え,自分のところへ呼び,彼に言いました。『無実が証明された。またお前 を信頼するから,もとの職に戻ってもらおう。』
一連のでき事を知ったカヴェルシャの友人たちは,どうして逮捕や釈放を予見でき たのか,質問しました。
『指環がお湯の中に沈まずに,浮かんでいるのを見たとき』と大臣は言いました。『私 の名誉は今が頂点で,幸福も逮捕命令で不幸に変わるだろうと推測したのです。実 際,その通りになりました。私が牢獄でザクロの料理を頼み続けても無駄に終わった ので,自分の不幸はまだまだ続くと思いました。とうとうそれが食べられそうになっ たとき,その中に落ちた二匹のネズミが知らせてくれたのです。私の不幸も極限に達
し,最悪の苦しみのあとには,まもなく最高の喜びが訪れるだろうと。』
王妃よ,もう絶望しないでください」とシナの王は言った。「この瞬間にも幸福が 近づいているのです。私の話を信じてください。希望を捨ててはいけません。それに,
私も悲しいのです。私も魔女にもてあそばれているだけなのではないか,自分の愛す る女性が恐ろしい悪魔なのではないかと思うと。」)レスヴァンシャドは,彼女に自分 の名前を名乗り,それから白い牝鹿とのでき事も話して聞かせた。
ナイマンの王女と大臣アリとの再会
彼が話を終えるとすぐ,ひとりの若者が,ほとんど裸同然の姿のまま馬を全速力で
走らせていくのを二人は目撃した。彼らのすぐそばを通ったので,王妃は彼を見て叫
んだ。「私の夫です。」彼は彼女を見ることもなく,すぐに走り去っていったが,追手
を恐れているかのように,ときどき,後方を眺めた。
若い王妃とルスヴァンシャドは彼をずっと眺めていたが,視界から消える前にもう ひとりの男が馬に乗ってやって来るのが見えた。彼も同じように全速力で馬を走らせ ていた。彼は豪華な服を着て,手には血で赤くなった剣を握っていた。最初の男を追 いかけていることは明らかだった。しかし奇妙なことに,最初の男と混同するほど姿 が似ていたので,王妃は彼を見て,また叫んだ。「この人も私の夫です。」彼も王妃の そばを走り去っていったが,追跡に夢中になっていたので,王妃に気づくことはな かった。
「王妃」とシナの王は言った。「こんな驚くべきことを,これまで見たことがありま せん。」
「王」と王女は言った。「これで私の話が,単なる作り話ではないことが,おわかり いただけるでしょう。」
彼らが奇妙なでき事について話をしていると,三人目の男が馬に乗ってやって来 た。彼も急いで追いかけてはいたが,ルスヴァンシャドと王妃を見過ごすことはな かった。その人物は,大臣アリだった。大臣と王女は互いにすぐ気がついた。大臣は 馬から飛びおり,王妃の足もとに身を投げて言った。「妃殿下,こうしてお会いして いるのですね。妃殿下をお救いくださった神に栄光あれ。神がしばらくは悪者に勝利 を与え,無実の者を追い払ったように見えたのもつかの間,正義が大いなる輝きを取 り戻すようにしてくれました。仇敵はもう生きていません。国王陛下が打ち殺しまし た。陛下の剣にはまだ裏切者の血がついたままです。復讐を完遂しようと,魔法のカ で陛下の姿かたちを真似た哀れな男を追っているのです。妃殿下が追放されてから,
首都で起こったでき事をお話したいのですが,別の機会にさせてください。陛下が遠 くへ離れていきます。妃殿下,馬に乗って,陛下を追いかけましょう。」
「いや,待ってくれ」とルスヴァンシャドは言った。「王妃を疲れさせるのは止めて,
ここで彼女と一緒に残ってもらおう。私が王を追いかけて,ここに連れてくるように しよう。」こう言うと,王妃が感謝を述べる間もなく,彼は馬の方へ行き,鞍に飛び 乗り,チベット王のあとを追っていった。
彼が出発すると,この見知らぬ若者が誰なのか,大臣は王妃に尋ねた。シナの王だ
200