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川喜多 喬 1 自省的な社会理論

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ヴェアトリス・ウェッブと「社会実験」の 実証的社会科学

英国産業民主主義者の社会科学方法論(II)

川喜多   喬

1 自省的な社会理論

「私の科学の主題は社会である。その主たる用具は社交(social inter一 course)である」(My Apprenticeshlp, Penguin, pp.27−28)。社会科 学は,社会科学者という一個の人間によって行なわれる行為の所産である。そ してその行為の対象は,燗たちであり,そのことは,この行為自体が,社会 的相互作用一社会関係であることを意味する。そして,その社会関係,またそ の社会関係の意識化の方法(観念,概念,推論法,連想等々)自身も,社会科 学者の過去の人生から完全に断絶したものではありえない。「それゆえ,私は 私自身が科学者として十分慎重に収集したのではなく,子供として,娘として 妻として,市民として,遇々収集した経験を無視することはできない。なぜな ら,社会学者は,物理学者,化学者,生物学者とは違い,きわめて特異な風に 彼の環境を創造する者だから」。人は,学者として,学生として社会研究をす るはるか以前に,ある社会的生物学的属性をもって,したがってその社会的,

O  o  o  o

生物学的属性にしぽしぽ固有の偏見でもって,社会研究を既にしてきているの である。そうした,いわぽ「凡人としての社会科学」を認めず,何らかの特殊 な方法,特殊な技能をもって社会研究ないし社会科学の方法,技能と定義する のは,学者ないし学生のアイデンティティの保障ないし自負のための用具にす ぎないかもしれぬ鯉 しかし,たとえそうしたところで,「出生や育ち,彼の 生れ育った階級や信条の世界の精神的雰囲気,彼の師や同朋の性格などが,そ の時々の経違にしたがって,またその親交の度合にしたがって,彼の研究材料 の以前に,彼の前に出現する。」要するに,研究者自身の社会的,経済的環境 が,研究者の研究機会とその支障,またその視点を決定するのである。われわ れが素朴に感得するのは,研究者の「学風」であり,その貴族的精神,富豪的 あるいは貧民的背景,宗教的ないしは俗物的精神構造,政治的野心や超越的姿

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勢,学問の権威化あるいは生活手段化などである。いわぽ「純粋に社会科学者 として」生を受けた者など,ありえないし,従って「純粋に社会科学者的な」

態度は,単なる虚偽意識によづて塗りこめられたものにすぎず,それゆえ,あ る社会的,経済的環境(例えば,富裕階級に生れたがゆえに,何不自由なく書 物を収集することができ,アルバイトをすることなく本を読め,「頭のいい人1

と交友をもち,先達に「かわいがられ」,終身雇用制的学者ポストを遇々手に 入れた,等々)に固有の精神的態度にすぎないかもしれぬ。まして,社会科学 者が,社会的な理想と生活信条をもたないかのように偽ることはできない(但

し,そのことを常に人前に告知せよ,ということを直ちには意味しないが)。

「子供や若年時の成長過程にあっては,生活信条の情的な探究が職業の獲得に 先行するのである。職業は,信条から,もしくは信条の喪失から選ばれるので ある」 (pp.27−28)。

社会科学者の「人格」と彼の社会科学の「理論」との間に一対一の関係があ るといえるほど,単純なものではないことは勿論である。しかしながら,B.

ウェッブは,「理論」を理解するにあたって,その「理論」を形成する行為を 享楽ないしは甘受する理論家にとってのその理論の人生史的意義に思いをはせ

ることを忘れなかった。むろん,その記述は(Diaries等)しぼしば彼女の

「偏見」を示している。しかし,その明示された偏見こそはまた,「理論」の 歴史的理解の手がかりとなるのである。

誇大な演繹理論の人格的帰結    .

B・ウェッブが,社会理論家の生きている世界の巨大かつ無数の現実世界のう ちで,ある断片をのみ社会理論家は生き,その断片が与える経験によってのみ 社会科学という行為を行なうと指摘していることを,既にみた。したがって,

B・ウェッブは,社会理論家が,その乏しい経験を土台として,たちまちにし て全世界を理解したと称するような誇大な理論を演繹することに反感を覚える のみであった。それはB・ウェッブのスペンサー批判にょく表現されている

(ここで,その批判がスペンサーをよく把えきったものであるかどうかは,こ の論文の趣旨には関係がない)。

(注)以上,以下における引用文間の議論は,特にことわりのないかぎり,

私の議論である。

●   ●

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まず,第一に,新しい経験を得ようとする努力の不在への批判一「スペン サーは(他の誰でも良い,こうした批判のあてはまりそうな社会科学者は無数 にいる/一著者)今日の諸理論を知ってはいない。彼は自分の心の中の意識 から理論を組み立てる。」(Apprenticesip p.51)

第二に,「新しい事実」として示されるものが全て既知の理論の例示にすぎ ないので,したがって何ら「新しい」事実はありえないはずの「実証主義」。

一 「『第一原理』は仮説であることをやめ……高度に発達した教典的信条と なってしまった。あとに残されたことは,無数の例示によって,この原則ない し『法則』が……自然の全過程を説明するということを証明することだけであ った」(p.50)。「彼は本を読むことすらなく,ただ自分の理論を明らかにす るために助けとなるものだけを収集する」(P.51)。

第三に,その結果として,何ら既存の知識に追加的な知識を加えることなく,

その知識の「交通整理」を専ら業とするような社会科学への反発。一 「彼は 偉大な構成者である。彼が自分の巨大な体系に与えた形式は,きわめて独創的 なものである。しかし,その構成要素の一つとして新しいものはない。すべて 借りものなのである」(p.51)。

第四に,直接「事実収集」に携わることなく,もっぽら他人の「事実収集」

の知的理解に従い,更には,そうした様々の二次的な解釈,理屈づけを知的に 理解することに自己の仕事を限定して,ますます抽象化にいそしみ,三次的,

四次的な解釈と推論の世界に安住し,それを享楽する「思考機械」への純粋化 への嫌悪。一「彼はその全生涯が(知的な)仕事であるという悲しむべき運 命を生きている。…・・彼は一種のクモのような生活をしている。理論の網の中 心に孤独に居て・事実を捕え,そしてそれを再び理論へとつむぐ。」(P.53)

      ・  ・  ●  ・  ●  ●  ・  ・  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●     ●

アうしてある種の社会科学者からは,たんに方法としてばかりではなく,生

・  ●  ●  o  ●  ●  ●    ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●

?ヤ度としても,精神構造としても,感性が喪失し,その成長がさまたげられ てしまう。「知的能力が異常に発達しながらも,共感的な,感情的な資質がほ

とんど発達していないことから,精神的な歪みが生まれる」。「彼の意識の中 には情動的な感情の『刺激因』などめったに存在しないのである」(P.54L

「本能的な感情が未発達で,生きがいの欠けた老年の空虚さは,誰もが認める

ことであろう」。

以上のような諸結果は,第六に,「何ごとにも興味をもっているが何ごとの 役にもたたぬ人びとからなっている荒涼たる社会」(p.133)をもたらすこと

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になろう。

皿 実証主義の精神的資質

これに対して,B.ウェッブは「事実発見への熱狂」(super−enthusiasm for fact−findi㎎)をもって社会科学者として成長してきたのである。

それはまず,「一般原則への懐疑」から出発する(Apprenticeship, p.292)。

そして第二にそれは,「実務家」の常識である。一 「社会の運営(mana一 gement)に実際にかかわっている『実務家』は,一一般原理などには耳を貸さ ずに,事実によって証明された原理の特殊な応用をのみ信ずる」(P.292)。

第三にそれは,社会科学の宿命である。一 「経済学の『理論』が新しく発 展するとすれぽ,それはその時代の産業生活の諸特徴を無意識的に観察してい ることと照応しているからである」(p.295渇 なぜなら,社会制度は誕生,

成長,崩壊,死滅するものであり,「一定時期の成長,崩壊の過程を観察する●  ●

ことによってはじめて,同一時代の諸事実をも理解できる」(P.253)のである。

そのうえ,第四に,社会科学の理論を構成する概念は,社会科学者にとって まず偏見の集成として立ち現れるのである(既述。ついでながら,「すべての 事実を退けて」白紙状態から出発しようとする理論的企図については,その人 の頭脳の中でいかに退却を続けても白紙にはついに到達しえないとしか思えぬ という反論を与えておく)。B.ウェッブは,「労働」という言葉が父の会話,

専門雑誌,業務報告等の中で現れるたびに慣れ親しんできたかぎりでは,「数 量的に計算可能な人間のまとまり」としか思えなかったという例をあげている

(P.64−5)。また「貧困」の意味するところを知るようになったのも・貧困 街の家賃代収人になった後である。

第五に,社会科学の用具が「社交」であり,そして「社交」に「共感」が伴 わねば,社会を構成する人間そのものがあくまで暗箱にとどまるのである。

「およそ共感というものがなければ,人間の外から知られる行動を導いている 内部の仕組みについてほんとうの知識を得ることは不可能なのだ」(p.136)。

「この用具が完壁なものであるかどうかは,もちろん純粋に知的な資質,分析 的な想像力によって決まる」。しかし,おそらく,そのことをもって,「社交」

による実証主義による必要はないとはB.ウェッブは言わない。なぜなら,こ れらもまた,人がその生の経験によって発展させられるべきものであるから。

「人びとの思念,感情,行為のさまざまの要素がどのように組みあわさってい

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るかを正確に理解するためには,客観的な経験と主観的な経験とのデリヶ一ト

な交互作用が必要である」(p.156)。

そしてまた,「人間的な要素」は,社会科学の対象であると同時に,社会科 学への動機を構成するのである。資料室に閉じ込もり,何時間をもそこにすご し,資料の山を前にし,ただただそれを次々と連読して事実をたずねるとき,

「社会構造への関心を,人の気持をワクワクさせる人間的な要素(human factor)の探求一指導者,あの人この人の役割の発見,荒涼たる年代記のう ちに現れる特異な自己利益の追求,個人的な野心と虚栄一が一貫して現れる 政策や理想とともに,活性化するのである」(cited byM.Cole, Bea−trice

Webb,Longma n s,1945, P.67)o

社会科学者,とくに実証主義的な「社会調査マン」(Social Investigator)

には,「精神的資質」(Mental Eguipment)が必要なのである(Methods of Social Study,1932, reprinted by Augustus]M.Kelley Publi一 shers, NY,1968, S.ウェッブとの共著)。 B.ウェヅブはS.ウェッブ とともに次の点を強調している。

第一に,「よく訓練された注意力」(trained attention)である。①まず,

知的な怠惰,ノロサを避けるべきである。更に②自己中心主義からくる,よく 読みもしなかったり,書いていないことを読んだり,他人が言おうとしている ことを聴こうとしない態度をとり除かねばならぬ。③重要なことは「予期せざ ること」に嫌虚であることである。「ものごとが始めそう考えていたこととは 違っていることこそ,研究者の歓びとするところである。研究者の仕事に光と 感激の色彩りを添えるのは,この偶然の歓びである」(Methods, P.34)。そ れゆえ④元来の問題の形式によって誘導された解答群だけでなく,その探求の 途上に出会った,関係するすべての事実を収集しなければならない(P.40)。

       ●  ●  ●

謫 には,「事実の客観的研究」である。まず,①「社会環境の特定の部分 すなわち特定あ社会制度を選び」②「その前にと二ふと,忍耐強く腰をすえて

……

サれに関するあらゆる情報を集めること」(P.41)である。しかし,それ は③研究への情熱をもつな,ということでもない。また④疑問を放棄しろ,と いうことでもない。まして⑤他人の疑問を無視しろということではない。

第三には,偏見への自覚である。およそ完全な知的公平でもって対象に向か うことはできない。B.ウェッブは,このような「非人間的な,対象からの自 己離脱」(inhuman detachment)を求めてはいない(P.44)。それどころか

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「無私」の自称すら,彼女は非難するQある人間が「無私だ」と言われる場合,

それは「無私だ」と言う人と「無私だ」と言われている人との「偏見の一致」

を証明しているにすぎない。また偏見とはいえ,それは個人的,階級的,民族 的等の自己中心主義といった粗暴な形をとるとは限らない。無意識のうちにし のびこみ,個人的な好みや創造的な選択といった形をもとりうる。要するに偏 見のなさ(の自認)ではなく,偏見の多様性(の開示)こそが,誤りを救う,

とB・ウェッブは主張するのである。そこには①相対化主義と②対話の精神が

期待されている。

第四には「共感的理性」(Sympathetic Understanding)である。このこ とは既に一部は紹介した。B・ウェッブの「好奇心を惹いたものは,『魂』と しての人間であり,彼らの現在および過去の生活条件であり,彼らの考え方,

感情であり,彼らの変転きわまりない行動であった」(ApPrenticeship,

p.153)。ところが,(当時の)心理学などの学問は,「個別的な環境に反作 用しながらさまざまの方向に発展しつつある個人の心の,実際の事実について 正確な記述をするかわりに心について,抽象的な定義を下しており,それはい かなる人の心的生活にも合致せず,論者自身……の心の働きを理想化して反映 させたものにすぎない」(P.153)。そして他人の心を知ろうとすれば,共感,

いや更に言えば「相手にも通じる共感」(accepted sympathy)が必要なので

ある。

●  ●

B・ウェッブは大学人の中に,上記の実証主義的態度からの遁走をみる。B

・ウェッブのみならず,われわれも,ありとあらゆる理屈づけでもって実証主 義を排撃し,書斎の空論や「資(史)料(文献)実証主義」や対象との熱狂的 一体化をこととする大学人の中に,実は「事実観察からの遁走」をみてとりう

るのである。

社会調査マンたるには「仕事への忍耐」が必要である。しかし①高程度の余 暇娯楽や休養に慣れた大学人は,「単調な骨おり仕事」に対して不忍耐である。

②参与観察や聴取調査にしばしぽ伴なう,あまり快適とはいえぬ条件に拒否反 応を示す。とくに③大学人は有富・有閑の教養人たる同朋と相親しむことに慣 れきっており,「興白くもない」,ときには嫌悪感をもよおす人びとと親しく 交って情報を得ることに対して拒否的である。そして,とくに④研究対象その ものである男女の人生や労働から逃れていようとする態度が障害となる。それ はB・ウェッブの指摘を待つまでもなく,「遠くから」対象を眺めることにな

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り,したがって「遠くから」眺める者以上に対象に対する,物理的にも,精神 的にも(好意的ないし批判的な)独断を招きやすいのである(彼らは苦しんで いる・なぜなら人(研究者自身/)の嫌悪している人生,労働を経験している のだから,とか,彼らは無知である,なぜなら人(再び研究者自身/)の嫌悪 している人生,労働を甘受しているのだから,等々の「論理」)。さらに⑤早 めに「一般化」してしまう,という「遁走」(quick retums)(p.51)。また

⑥とくに,(政治的)立場選択にすぐにでも結びつけてしまう「一般化」。さ らに⑦「きれいに,読めるように書く能力」も大学人にはしぼしば欠けている

(/)。

1V 社会実験と社会科学

社会科学の前提として人間(行動)の理解が必要であるとしても,更にその ために「共感的理解」が必要であるとしても,だからといってそれが必ず対象

(の行動)の賛美や,あるいは対象と共に在ることへの好感につながるわけで はない。そのためには,更にある条件が必要であるように思われる。「同朋

(human−fellowship)としての感覚を一時なりとも覚醒すること」(Meth一 ods, P.49)を主張するB・ウェソブも,次のように告白することを忘れな い(いささか長くなるが,同様の事態が社会科学者を襲うことは稀ではないで あろうから,引用したい)。

「ロンドンの雑踏を歩きながら,私を追いぬいていく男女,一列に並んだり,大騒 ぎをしたり・ときには仕事を,争いを,感情の波をその表情に宿している男女を眺 め・こうした欲望や苦痛,幾重にも重なった感情や思惟が,力と物とからなる条件 であり・やがて破壊されてしまう一塒的な形にすぎないことを思うとき,絶望感が 私を襲い,私の欲望や行動力をすべてマヒさせてしまう。そうした時,私は惰性へ と沈んでしまうのであり,そのような私を救ってくれるのは,私に観察と質問とを 許容する人びとの構造と機能の変化への好奇心のみである。心からの共感にとって

代っ℃冷血な調査が登場する」(ApPrenticeship,P.137)Q

B・ウェッブは,「実際に活動している制度を現場でつぶさに観察すること」

(Watching the institution at work>を要求した。しかし,それが上記の ように①「冷血な調査」である場合が,②制度側からの拒絶反応がある場合と 並んで予想されるのであり,③真の「共感的理解」がある場合は希有のことと 言わねばなるまい。しかし,第三者の「冷血な調査」もまた,社会科学的な知

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識の増大(それが望ましいかどうかの論議は,別である)にとって必要なこと である。なぜなら,反対に当事者自身による調査も,有難いことだからであり,

商売人,株主,銀行屋,大使,坊主,市会議員,国会議員,高級官僚大臣にな ってまで研究を続けられる人はほとんどいないからである。「実際に進行して いる事態に距離をおき,それを科学的に観察しようとし,更にそれを現場で,

同時に記録しようとし,そのうえ他人にそれを知らせようとする人」であるこ とは,ほとんどない。そうした人を第三者として立ち合わせることすら少いの

であるから(Methods, p.159)。

それにもかかわらず「参与観察」がなぜ必要なのか。「参与観察」に関る内 面的な,あるいは対人的な葛藤を避けて,「対象を変えることのない」平穏な 書斎の白昼夢の世界に逃れ,したがって「対象を変える」ことに伴うあらゆる 責任からも放免されてはどうか。それどころか,このように「遁走」した,

「同朋」であるはずの知識人こそ,「参与観察」者への最も攻撃的な批判者と なる例も多いのに。

B・ウェッブのこうした問題への解答は,まず第一に,あらゆる人間的行為 が「対象を変える」ものであり,それが自覚的たらんとすれば,必ずそれには 実験的なところがあり,それゆえ「社会科学」と「社会実験」(social expe一 riment)は密接不離であるというところにあった。「他人の生活の実験だって

/何と冷血な!!と言う読者もあろう。しかし,このような『実験』を避けるこ とはできないということを説明しなければならない」(Apprenticeship, p.

342)。 社会制度に表現された人間行動についての実験は,毎日,いたるとこ ろで行なわれているのである。なるほど,慎重に準備され,科学的に制抑され た実験は少ない。しかし,例えば各国の大蔵大臣は,需要曲線だの人びとの価 値尺度だのについて,毎日,社会実験を試みているのである。なるほど,それ は社会科学者によって行なわれていず,その限りで「意図せざる実験」(un一

intentional experiment)であるかもしれない。しかし「経営者,議員,大 臣など,しぼしば自分の仕事が実験としての性格をもっていることを知らず,

その結果に科学的な関心を抱いていない権力者の手による」(Methods, P.

226)社会実験は多い。これらを排撃せずして,社会科学者の関与する社会実 験のみを攻撃するのは,片手落ちであろう。

ところで,では「社会管理」(social administration)から,「他人の人

生を実験する」という冷血性(!?)を取り除きうるだろうか。

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「およそ管理運営(administration)というものは,利潤動機によるものであろう が公共サービスを動機とするものであろうか,工場の管理であろうが鉱山の管理で あろうが,小学校の管理であろうが郵便局の管理であろうが,協同組合の管理であ ろうが労働組合の管理であろうが,その最高管理者によって精神なき因襲に変えら れてしまわない限りは『他人の生活の実験』とならざるをえない。その他人に対し て無茶なこと,不注意なことがなされないようにするためには,管理運営に実際に 責任がとられていること,その管理運営の結果が,消費者,生産者,社会全体に責 任あるものであることなのだ」(Apprenticeship, p.342)。

要するにB・ウェッブは「観察,推理,検証すなわち科学的方法ぬきにして 健全な管理運営はありえない」(p.342)という。とすれぽ,問題は①「社会 科学者」が『制度の管理運営者』とは別の人間として,その制度からは「自立」

しているべきであるか,②「(制度の)管理運営」が,どの程度に必要か,に

あることになる。

第一の問題へのB・ウェッブの解答は①(既述のように)当事者が社会科学 者ほどの訓練された資質に欠けていること,②たとえその資質をもっていても,

それを行使しないことが「好都合」であることが多いこと,③とくに「いかな る制度も,成長し,発展する過程で,それ特有の病におちいり」(Methods,

P.244)当事者もその病にかかりやすく,その病は「その制度の実態の長期に わたる観察によってはじめて知られること」(p.244)にある。 しかし,われ われは,むろん,社会科学者の「自立」一「外在」に伴なう難点をも,列挙で

きるのである(B・ウェッブの論ずることが少いので,この小論では追加的に 議論することを略す)。B・ウェッブの社会科学への,とくに制度の参与観察 へのこのような思い入れは,一一個の職業としての社会調査への賞讃と結びつく 一 「もっとも将来性に富んだ社会事業(social service)の形態は,社会調 査マン(social investigator)という職業(craft)であり,同様の結論は 私の同時代人の多くが達したところのものであった」(ApPrenti ceship,P.165L

それでは,意図的に管理される制度そのものを減らす可能性についてはどう か。B・ウェッブは悲観的である。それどころか一S・ウェッブと共に一 意図的に管理される制度の成長を必然視するところが多いのである。

V 社会科学への理想主義と民主制

B・ウェッブは(S・ウェッブと共に)四種類の社会制度を区別する。第一

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は,動物的本能によって形成された社会制度であり,第二は宗教的な情熱によ って形成された社会制度,第三はカクアルベキという燗的(ヒーマニステ イック)な理想によって形成された社会制度であり,第四は社会的な目的

(social purposes)の効率的な実現を慎重に計画することから生まれる社会

●   ●

制度である。この区別はいずれも制度を誕生させ,これを支持する人間の動機 を強調し,その動機の解消,目標の実現,という制度の人間的目的を強調した

ものでありながらも,事実上その制度自体の構成にあたっては,人の目標は背 景に(前提として)しりぞき,用いられる機構…(machinery)の完壁性に関心 が集中される(Methods,p.28)。いわば,第四の社会制度は,社会科学の対 象であると同時に,その所産なのである。社会科学の方法とは,上記の第四の 社会制度を誕生させ,これを維持し,補正し,時としては効率的に崩壊せしめ

るための方法でもある。むろんすべての社会制度の改革が社会科学の教授の提 案によってなされただとか,厳密に科学的な方法でなされたとか言うものでは ない。しかし,とくに社会的効率(social efficiency)を高めるために慎重 につくられた社会制度については「社会科学の応用」が必要であり,また「応 用可能な社会科学」が必要である(ch.12)。

しかしB・ウェッブは,社会科学が,それが応用される社会制度の目的,す なわち社会的目的(social purposes)を決定するとは主張しなかった。「科 学は人の運命を決定する力をもたない。科学は,人生を破壊しようとする者に も人生を守ろうとする者にも,人を愛するものにも人を憎むものにも,わけへ だてなく身をまかせる。しかし『ものごとの秩序』を分析していく科学的方法 を拒否したり,ある選ぼれた目的に達する過程を選ぶ際に魔術的,神秘的な制 度に頼ろうとすると,迷信の源となり,普通は破局に至る」(ApPrenticeship,

P.123)。われわれは,ここに,「科学への理想主義」と「科学を超えた理想 主義」の共存と相互制肘をみてとれるのである。

「科学への理想主義」はB・ウェヅブに儘って「科学教」(Religion of Science)と表現されており,それは伝統的な宗教との決別の所産であった

(P.108)。しかし宗教との決別の動機が疑いの精神であるとすれば,その精神 が強固であれぽあるほど,それは宗教にとって代るべきものへの強固の模索一 執着と,かつこの執着への不安とを同時に生みだすであろう。「疑いが罪であ

ると信じられないように育ってしまったことは,不幸であった」(P.95)とい う表現の中に,このアンビバレントな心理が顔をのぞかせている。信じようと

(11)

する心と信じきれぬ心に,「肯定する自我」と「否定する自我」(p.78),こ の緊張した心理こそ,B・ウェップの多様な事実,事実の多様性への,「相対 化」的な,時としては恐迫神経病的とさえいえる関心の集中をもたらしたので

ある。

●   ●

「実証主義」という概念は科学と理想の結合を示すものであった。なぜなら B・ウェッブにとっては,「実証主義者」とは「人類への奉仕を生活原理とす る者」のことであったのだから(p.164)。

「科学への理想主義」が「反知性主義」の悪幣から人を守る反面,「科学へ の信仰」に堕しやすいように,「科学を超えた理想主義」は科学の悪魔的な用 具化にも変質しやすいであろう。しかし,おそらくそれを,究極的には科学の 名において断罪することはできないであろう。社会科学への関心は,実際にも 権力欲を支えにしても存在するのである。それが旧権力への愛執のためである こともあれぽ,新しい権力への闘争のためであることもあるだけの話である。

「個人的な観察あるいは統計によって,人びとの生活および労働を,そのあらゆる 側面からことこまかに記述することが,新聞,雑誌,演劇,小説,慈善団体報告書・

学術雑誌など,当時の出版物の特色となった。人びとの社会的諸条件に関心がこの ように新しく集中したことは,知的好奇心のためでも博愛精神のためでもなく,新 たに開化した民主制へのパニック的な恐怖のためだとも言える。しかしこれは同一 の事実を他の観点から眺めることである。というのも,たとえ最も狂信的な社会主 義者でも,彼の将来の望みは十分計画的科学的に組織された社会と,無私の社会サ 一ビスへの能力と欲求とが発達した大多数の民衆との結合によってはじめて果され ると考えたから」(p.165)。

旧権力と新しい権力とのどちらを支持すべきかは,社会科学のよく答えうる ところではないであろう。とくにそのどちらもが権力欲を真理への欲求に優先 させるかぎりにおいては。しかしここで重要なことは,いずれもが民衆を対象 とする社会科学に,ある種の期待をもっていることである。

B・ウェッブは社会制度を支える「常民」(common man)の存在を強調

●  ■  o  ●  ●       ●   ●  ●  ●      ●  ●  ●  ■  ●

する。そしてそれゆえにB・ウェヅブは社会制度の漸進的な,かつ民衆参加に

●   ●

よる改革を理想化するのである。

「常民」への関心は,「実証主義」の所産であり,かつはその目的であり,

そしてまた後者の栄養源ともなるものであった。例えば「階級」という言葉も まずもってその論理的に可能な内容を演繹的に推論し,時としてはそれでこと

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たれりとするのではなく,「標準的な労働者の家族を,その家庭内での,ある いはその職場での日常生活として観察」することにょって,はじめて彼らの

「階級」を理解することができる(p.166)と考える精神的姿勢こそ「実証主 義」である。そして「人類への奉仕者」(既述)として,(しぼしぽ,知識人 や官僚層の「集団としての罪の意識によって,またそれを新たにするために彼

らの生活諸条件の改善を考えることが「実証主義者」であるからである。

更にこの関心は,B・ウェッブにおいて以上の諸姿勢と結びついていた。

第一に法制度の,しばしば急進的な改革への非難。一「法とよばれる社会 制度に変化をもたらすこと」と,「法の変化を国民の習慣,慣習における変化 に照応させること」とは別ものである(Methods, P.250)。 法や法の変化が 思うような結果をもたらすかいなかは,与論(新知識の普及,教育,教宣書,

新聞,演壇,映画,放送)しだいである。

第二に,こうした国民の習慣,慣習を対象とする社会科学の一挙達成,完全 な体系化,一般化,教典化が不可能であること(既述)。

第三に,「(個人的,集団的な)英雄史観」への批判。一なるほど社会の 急激な変動はありうる。特に予想がつかないのは非凡なる人間ないし集団が出 現して,一国の運命を変えてしまうことがある。しかし彼らがいかに偉大であ ったにせよ,『常民』(common man)は存在する。そしてその『常民』をこ そ,彼らは相手にしなけれぽならないのである」(pp.254−255)。

第四に(しぼしぼ理想主義的な)独裁制への敵意。一 「独裁はより敏速な 法律制定を約束するが,変化への民衆の抵抗が増大するという大きな危険を冒 すことになる。民主制につきものの討論と遅速化は,新規の立法をより困難に はするが,法に服せしめる『同意』を大いに促進する」(P.252)。

第五に,論理的に可能であり,かつは「整合的」な社会像を,直ちに実在物 として建設しようとすることの非実際性の指摘,したがっていわば相矛盾する 社会諸制度の共存への諦念の勧告。一 「社会のことがらにおいては,形式と 実質とを同時に変えることの方がより論理的ではあっても,一時にはその一一つ だけを変えることにすることと比べると,より挑発的でやっかいなことである。

形式を変えないでおいて実質だけを変えることの方が,一般にはより容易で重 要である。」(「構造機能主義」の応用/)「形式を変えることは突然の飛躍

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第六に,社会科学の方法としての社交,すなわち対話法を一般化し,すべて の人びとが自己と他者と彼らによって構成される制度の分析と評価,創造と破

壊に参加することにょって,社会科学自体が「偏見」よりの脱皮をはかれると       」

ニもに,その制度の自省的一効率的運営が計れること。

第七に,「社会組織の効率化」と「人間関係の社会的豊穣化」というB・ウ エッブの目標の存在(cited by M.Cole, p.147)。(B・ウェッブの民主制 論の射程については,別の論稿にゆずることにして)ここで,B・ウェッブの 社会科学の方法と,社会改良の方法とが密接に結合しているのである。

M 社会有機体説と歴史的個性

B・ウェッブらの社会理論が国際的に,とくに日本において普及しなかった 理由に,まさにその「事実への固執」をあげることができよう。B・ウェッブ は「一般化」を極力避けようとした。しかし「一般性」を自称する理論,「一 般化」が可能なように,極力事実から遠ざかり,抽象度を増した理論こそ,す べての事実に妥当するかのごとき印象を与えるのであり,それゆえ時にはそれ がいかなる事実について言われたのかを全く知らぬ人びとの頭脳をも把えてし まうのである。とくにB・ウェッブは彼女の時代と場所,その内でも特定の地 域,階層,特定の制度について記述することを分析に優先させた。この特定性 を捨象してより一般的な結論を導きだすには,他の時代と場所,とくにある共 通の局性をもった地域,階層,制度について,B・ウェッブらと同程度に労力 を費した調査研究があらねぽならない。しかし残念なことに,こうした労力を 費すよりは,全く抽象的で,多くは独断的な社会理論の「輸入」と,これの

「論理整合化」作業への自足の方が,多くの学者にとっては容易なのであろう。

幸い自国(の特定の地域,階層,制度)の「実証主義」的な調査研究に携わっ ている人にしても,手っとりばやく「理論的枠組」を提供してくれる社会理論 の方が望ましく思えることが多いのである。

さて,B・ウェッブのこのような「特殊性への固執」は,一方で既述の「実 証主義」によって説明することができるように,他方で彼女がH・スペンサー より受け継いだ「社会有機体」論に因を求めることができる。なるほど彼女は

(注)むろん,ここにはB・ウェッブの上流階級出身に伴う,気質化した保

守主義の影響は無視できない(M.Cole,Beatrice Wbbb, Longmans,1945)。

(14)

すべての「社会有機体」に通じる「般原理の確立には,自戒を求めた。しかし,

他方で彼女は,特定の「社会有機体」の誕生,成長,崩壊,死滅を支配してい る諸条件あるいは特殊な原理の探求は,これを大いに奨励し,また実践した。

特定の「社会制度」の誕生,成長,崩壊,死滅についての同様の研究も,これ によって大枠を与えられていたといえよう。それゆえ,B・ウェッブらの仕事 は,英国あるいは将来の「大英共和国」の現実と可能性についての議論を出る ことが少なかったのである。この意味で,B・ウェップらの社会科学の対象の ナショナリズムを指摘することは正しいかもしれぬ。しかし,それを直ちに政 治的立場としてのナシ。ナリズムとして批判することは,的をはずれている。

B・ウェッブらに対して,諸外国(およびそれらと英国との関係)を分析せざ ることについての攻撃を行うことは,あれほどの仕事をした人に対しては酷な ないものねだり的批判を怠惰な研究者が行うことに等しいのである。

「社会有機体」への関心,その「構造一機能分析」における「構造」の(研 究範囲としての)優位は,社会科学としては一面的であらざるをえないことも 又事実であろう。しかし他方で「社会有機体」的な観点が,第一・に彼らの「事 実への関心」を育んだと同時に,第二に「社会有機体」を構成する諸君等の

(整合的な)関係(の事実)への関心を強化した面をも忘れることはできない。

そしてそれは特に,人びとの相互の関係(の質)への関心,彼らが相互に関係 をもつ目的(「機能」)に対する,この関係の形態(「構造」)からの寄与と 支障についての関心に導いているのである。

(補)

① B・ウェッブの思想とS・ウェッブの思想とを十分に区別することは,不 可能であると思われる。

(2) B・ウェッブは「社会科学の方法の専門家(という奇妙な人種/)」では 決してない。『社会研究の方法』というすぐれた書はあるが,それゆえ,各 著作から「方法」に関わるところを抜粋して再編成するしかない。

(3)この再構成は,B・ウェッブのパーソナル・レアリティを相当捨象する

「非歴史的な」読み方である。しかし私自身の目的はB・ウェッブの真実像 を求めることではなく,彼女の思想の中に「社会科学の方法」の材料をできる だけ多くみつけることである。

(4)この小論は『紀要』前号「G・D・H・コールと『機能批判』の社会理論」

(15)

の続きである。なお,この間に書いた「社交・友愛・自治一社交主義の一 鉱脈一」『現代思想』(1978、6)も併読されたい。

(5)この小論執筆中に,佐藤博樹氏のすぐれた論文「ウェッブ夫妻の社会理論 の「下部構造』(一橋大学大学院修士論文,未刊)を読む機会を得た。到底 その読書量においてかなわぬことと,社会的に「思考の節約」を計るためも あり,多くの議論は佐藤氏の今後の公刊に期待して中止したことを謝してお

きたい。

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