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ムパースの伝記風の素描

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(1)

93

これは︑文字どおりのr研究のための覚書﹂であって︑それ

()

研究ノート

︵ 上

サミュエ

以上のものではけっしてない︒いわばこれは︑研究の一段落の

成就すらとても覚つかないため︑その未熟さをも顧りみずに︑

研究の過程をあえて活字にしておきたいという個人的欲望から

でたものであって︑なんら積極的な貢献を意識したものではな

い︒またこの覚書は︑書くことの楽しみを満喫したいという個

人的な道楽をも兼ねているので︑かの荘重なるアカデミズムと

も無縁である︒とはいうものの︑こうした覚書にも︑慣例上序

文を付することは望ましいことであろう︒そこで序に代えて︑ ーーサミュエル・ゴム︒ハース研究のための覚書

ル . 

踏み入れてみたいという願望は︑かなり強いものであった︒ れたひとつの感想は︑アメリカの労働運動の歴史はある意味で ここにサミュエル・ゴム︒ハースをとりあげた理由をのべておき

その理由の第一は︑かなり偶然である︒わたくしは︑日本で

( 1 )  

はまだ充分な研究がつくされたとは思えないとの理由で︑たま

たまアメリカの労働運動を研究の対象に選んだが︑そこで得ら

サミュエル・ゴム︒ハースの歴史でもある︑ということであっ

た︒それにもかかわらず︑アメリカにおいてすら︑ゴム︒ハース

( 2 )  

の研究は非常に充分とはいえない︒外国人でかつ凡庸のわた<

しが︑その点でいささかなりとも貢献しうるということは︑も

ちろんありうべきことではないが︑まだ残された処女地に足を

ムパースの伝記風の素描

( 1 )

,‑、

(2)

 

闘西大學q

親清論集﹄第一四巻第五号

第二に︑ゴムパースと日本との関係も︑けっして浅いもので

はない︒明治時代の高野房太郎︑大正期の鈴木文治︑戦後の占

領軍によるアメリカ的ユニオニズムの導入の努力︑などがそう

( 8 )  

である。とはいうものの、アメリカ流のビジネス•ユニオニズム

( 4 )  

を日本に完全に移植することは︑ついに成功しなかった︒これ

を異花授精の困難さで説明することは︑もちろん自由である︒

けれども︑授精を拒む日本的な要素の究明と同時に︑ゴムパー

ス主義そのものについて正しい認識をもつことも必要であろ

第三に︑第二の理由と関連することであるが︑ゴム︒ハース主

( 5 )  

義そのものにメリットがありはしないか︑ということである︒

一世紀以上も前に生れた人物を︑いまも無拘束のままに自由に

歩かせるということは︑もちろん愚かなことである︒けれど

も︑かれは︑まったく現代に再生を許されない墓場行きの人物

なのであろうか?︑わたくしは︑そうは思わない︒

以上のような理由で︑わたくしは︑サミュエル・ゴムパース

を描くことにした︒まずはかれの人物と生涯から始めねばなら

( 6 )  

ない︒幸いかれは︑一千頁をこえる自伝を残して世を去った︒

なお便利なことに︑戦後フィリップ・タフト教授は︑それを三 う つ ︒

かない︒そしてこの研究覚書は︑その素描を意図したものであ

( 7 )  

百頁余りの読み易いものに改めてくれた︒またローランド・ハ

( 8 )

9). ︸ヴェイ氏やフロレンス・ソーンのゴムパース研究もある︒そ

の他ゴムパースの時代背景をめぐる研究は豊富である︒怠けも

ののわたくしは︑ゴムパースにかんするピプリオグラフィーの

調査を東京のアメリカ文化センクーに依頼したところ︑同セン

ターのドロシー•E・スパフォード女史は、二冊の詳細なビプ

リオグラフィーをクイプで打って送ってくださった︒しかしそ

ターのハリー•H・ボラック氏のまったくの個人的な好意で、

rアメリカ労働総同盟﹂の創立以来一九二四年にいたる間の年

次大会議事録のコビーを︑ワシントンの同本部より直送された

現物により撮ることができた︒しかしいずれにしても︑資料の

点検はまったく不充分である︒だが前述のごとき個人的な﹁研

究のための覚書L

7

アングルの端正な正確さも素描であれば︑ロダンのムーヴマン

も素描である︒できうれば︑その両者を兼ね備えさせたいもの

である︒ただ最後に一言すれば︑つまるところ素描は素描でし のほとんどは︑入手が困難である︒ただ幸いなことに︑同セン

(3)

'4•'9'5

サミュエル・ゴム︒ハースの伝記風の紫描(‑)︵小林︶

( 1 )

日本におけるアメリカ労働運勁の研究は︑蓋的にみれば あまり少なくはない︒日本人の手になるアメリカ労働運 動の通史としては︑松井七郎︑磯部佑一郎︑岡本広作︑

川田寿の諸氏のものなどがあり︑また雪山慶正氏の雑誌 連載などもある︒アメリカ労働運動通史の醗訳も︑数種 類はある︒通史にこだわらなければ︑若干のすぐれた研 究もみられる︒だが問題はその研究の方向であって︑日 本では︑アメリカにおける標準的な労働運動解釈にたい して︑それを批判するまえに︑まずそれをよく理解する という態度が︑どうも不充分なもののようである︒

( 2 )

ゴム︒ハースの時代についての研究は︑もちろん枚挙にい

とまがない︒

( 3 )

この点も周知のところであろう︒高野房太郎については ハイマン・カプリンの詳しい研究

明治労働運動史の一( r

駒—高野房太郎の生涯と思想L

有斐閻、昭和三四年)が あるし︑鈴木文治のアメリカ的ユニオニズムヘの傾斜に ついては︑かれの自伝

r労働運動二十年﹂(‑元社︑

昭和

ない︒占領政策の衝撃を強調せる短い英文の綸文として

は︑たとえば︑

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1 2 5  127 

ることを︑強調しておきたいと思う︒

( 4 )

日本の代表的な社会政策学者である大河内一男氏は︑あ る座談会で︑高野房太郎や鈴木文治や占領軍当局の態度

にふれたのち︑r

: ・ ・

過去をふり返ってみると︑どの時代

にも外国の考え方による組合の育成と︑外国流の︑とく にアメリカ流の組合の組織を︑とくに外国とつながりの ある人を通して日本に等入しようと何度か繰り返してき たわけです︒そしていずれも育たなかったのです︒⁝⁝

・・・やはりその底流には︑近代社会の中での日本人に固有 な人間関係というものについての特殊な考え方がひそん でいたのではないか

•:·:Lとのべている。(9日本労働協 会雑誌

L

五八号︑一九六四年一月︑二九頁︶

( 5 )

戦後アメリカでゴム︒ハース主義︵ヴォランクリズム︶の 再評価が多くおこなわれたが︑それを完全に否定し去る ものはなく︑多くは︑その条件付通用性を認めていたよ

(I.R.

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1960; 

その他アド ルフ・シュトルムタール︑チャールス・ギューリックと メルヴィン・バース︑フィリップ・タフト︑ロイド・ア ルマンなどの諸論文がそうである︶

C 6 )

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1925

同志社大学の松井七郎

(4)

496 

虐げられしものの象徴的指導者は︑みずからも虐げられた生

ちょうどそのような生い立ちをもっていた︒生れたのは︑

0年一月二七日︑ロンドン市のテンクー街︵点

en to r S tr e e t)  

ー一番地だが︑かれは一九一九年にいたるまで︑フォート街

︵ 弓 o rt S tr e e t)

これなどは︑いかにも生活に追われる家庭のある種の無頓着さ

生活といえば︑フォート街のゴムパースの住家は︑灰色に朽.

ちた三階建の煉瓦づくりの建物の一階の大小二つ続きの部屋だ

( 1 )  

ロンドンからニュー・ヨークへ 闘西大學3

一 八

博士は︑入手困難なこの一九二五年版自伝をわたくしの

( 7 )

S 

am ue l  G om pe rs ,  Se ve nt y  Ye ar s  o f  Li fe  a nd  L ab or ,  re vi se d  an d  e di t e d  by  P hi li p  Ta ft  a nd J  oh n 

A,  

S es s i on s ,  D ut to n,

1957  

( 8 )

R  

ow la nd  H il l  Ha rv ey

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sg

 

mu el  Gompers, 

Ch am pi on   o f  t he   Toiling 

s e s ,

1935 

  ,  ( 9 )

F 

lo re nc e  Ca lv er t Thorne, 

Sa mu el  Gom pe rs

 │ 

Am er ic

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Statgg•

Ne w  Y or k,

1957  

を往ったり来たりした︒かれらの気持はすべて︑家族の欲望を った︒冬には奥の小部屋が貯蔵室に利用されるため︑親子七人が大きい方の部屋に寝た︒父母の大きなベッドを囲むカーテンが︑家庭における道徳の支柱であった︒ゴムパースたちは︑朝になるとその大ベッドの下にしまいこまれる脚輪附きのベッドで寝たのである︒自然道路のみが遊び場となり︑持たざる階級かれは平凡な貧しき子供であった︒ただオランダ風の慣習や道具類が︑かれの家庭に変化と潤いを与えていた︒というのも両親は︑アムステルダム生れのオランダ人だったからである︒

そのかれも︑当時の産業状態には幼き心を大いに痛めつけら

れたらしい︒かれの住む地域はスビクルフィールヅ

( Sp i t al ‑ f ie i d s)

として知られ︑ナント勅令の廃止ののちフランスより逃

( 2 )  

らの多くから職を奪った︒悲惨さと不安のために絶望的な空気

が漂った︒当時を回顧して︑かれはつぎのように書いている︒

7ひとびとは︑手をふり絞り︑頭をたたきながら︑フォート街

満たしえない父親の歎きをしめす叫びに︑しめされていた︒そ れてきたユグノー教徒の子孫たちが︑その鉛ガラスの窓のある 八四

(5)

497 

()

Sc ho ol )

に転じ︑フランス語と音楽とを新たに学ぶ︒さらにヘ

なったが︑実はこれはゴムパース家の血筋でもあった︒ゴム︒ハ 圧迫者を結束させてきたところの世界的規模の感情Lをかれに に転じたという風変りな人物であった︒骨董類を集めるために わが家の窓辺に連れゆき︑かれらが絶望と闘うのをわたしに見せずにはおかなかった︒かれらは︑日常生活をわれわれととむにたいするかれらの感情をば︑かれらと分たざるをえなかっLと︒しかもかれらの叫びは︑支配者にたいする闘争に品叙

7意識下の指導的衝動Lとなり︑後年かれ

の﹁生涯を形づくる上での支配的力にまで発展したL

もちろん︑幼き心に明確な意識の醸成を期待できるわけがない

から︑この叙述には︑いささかの潤色はあろうが︒

教育については︑ゴム︒ハースは︑六オのときにユダヤ人の自

由学校に入り︑読み書き︑算数︑地理︑歴史を学んでいる︒十才

と三ヶ月のとき︑貧しさから中途退学を余儀なくされたが︑そ

オだったといえる︒その後かれは夜間自由学校

(t he Ni gh t  F re e 

プライ語を学び︑ユダヤ教の律法と解説であるタルマッド

(t he Ta lm ud

の勉強をさせられたが︑これは法律的思考の訓練に大) いに役立ったと︑みづから語っている︒

祖父自身もキャラコ捺染工だったが︑工場主と衝突して骨董屋

ヨーロッパ各国をめぐってきた祖父の見聞談は︑旅行がまだ安

便

ス一家を結構楽ませたらしい︒祖父は︑骨董蒐集における無法

者との競争のために抜け目はなかったが︑同時に親切な人間理

解をしめした︒また人間は本来おしCぺりだから︑秘密を守り

たければ他言せぬことと︑きびしく喩した︒ゴム︒ハースによれ

ば︑これが後年のかれの寡言︵かれは雄弁ではあったが︑饒舌

ではなかった︶に貢献したという︒だがこの心の清い祖父も︑

大した澗痕持ちだったらしい︒祖父の激昂は年とともに激しく

ース自身このことを意識して︑生涯自制の努力を怠らなかっ

( 3 )  

た︒また祖父は︑数千ポンドもの商売を営みながら︑帳簿代り

にドアの裏にチョークで記帳する有様だった︒そのため間違い にしてきた隣人だった︒わたしたちは︑かれらの苦しみ︑不正る︒祖父の家は︑何代も続いたオランダの労働者の家であり︑ そのためか︑かれはこの祖父のために自伝の数頁を費してい の叫びは︑毎日道路にひびき︑わたしを捉え︑わたしを小さき

(6)

498 

放免してくれるよう頼んだというのである︒よくある話だが︑て︑ゴムパースの父の出であるアムステルダムのゴム︒ハース家 で来︑祖父に裁判所で損害賠償をしてもらうからとて︑かれを劇批評家など︑その顔ぶれは多彩である︒そうしたなかにあっ かと聞くので︑かれは自分がやったのだといった︒祖母がとん はソロモンとその妻ジャケットの時代︵一六00年︶まで遡 める子供たちを見事にやっつけているのである︒だがこの従兄 ク・コートとシルク・ハットに身を固め︑よくゴムパースをコ出会いは終ったL

闘西大學二社済論集﹄第一四巻第五号

がおこると︑それはときに祖父の激昂の原因となった︒しかし

この祖父は大した洒落者で︑念入りにプラシのかかったフロッ

ンサート・ホールに連れていった︒生涯音楽を愛したゴム︒ハー

スの音楽への開眼は︑かく祖父がしてくれたわけである︒

音楽以外の楽しみは︑観劇だった︒ただし貧しかったかれ

は︑僅か六ペンスの入場料を稼ぐために︑街頭でマッチ売りを

やっている︒そして六ペンスが稼げなかったときは︑家でみづ

から劇を演じて楽しんだというのだから︑大変な演劇狂いだっ

たらしい︒だがその反面かれは大変な腕白大将で︑従兄をいじ

とも︑かれはよく喧嘩をした︒この頃のゴム︒ハースの気性をし

めす面白い挿話がある︒かれと従兄のサイモンとが棒投げ遊び

をしていると︑かれを狙って投げたサイモンの棒が的を外れて

居酒屋の窓を破った︒サイモンは家へ逃げ帰ったが︑かれはど

うなるかと立っていた︒巡査がきてかれを捉え︑誰がやったの いかにもゴム︒ハースらしくて微笑ましい︒ただしかれはこの事件にいささか勿体をつけ︑7かくて警察権力とわたしとの最初の

族は︑かなりの富豪をも含めてョーロッパに散らばって居り︑

かれは自己の一族をいささか誇りにしていた︒だがかれが自己

の血縁の分岐状態に関心をもちだしたのは︑後年かれがワシン

トンに住むようになって︑プダペスト存住のローザ・ゴムペル

(R os a Go mp er z)

紙を受けとってからである︒夫人は︑義理の息子のカウフマン

にゴム︒ヘルッ家の資料を蒐集させていたが︑かれの死のため

にヽこの仕事は夫人の女婿であるマックス・フロイデンクール

( 4 )  

博士によって完成された︒それによれば︑ゴムペルツ家の祖先

る︒その後幾世代にもわたって︑一族の間に大いなる富と学殖

とが築きあげられる︒ブロシャ政府の官吏︑ユダヤ教の律法博

士︑プロシャ有数の銀行の創設者︑有名な政治家︑出版者︑演

(7)

'199 

(

)

である︒ただそれ以前に明白なることは︑空腹時にも宗教上の

い︒そこでかれの一家は︑とうとうひとつの決意を促された︒ 感と理想への献身の期芽をここに求めることは︑もちろん自由 照らす大なる精神的目的であったLという︒かれの権威への反 縮せしめ︑自由は最大の効用を生むというのである︒自伝によ は︑宗旨や権威よりも自然的本能を重んじた︒抑制は人格を萎 は︑大戦を妨止する力をかれに期待していたというのである︒ 教養を身につけた夫人は︑人類愛に満ちた理想主義者であって︑ の間に書簡の往復がはじまった︒この一九世紀風の洗錬された 一方ローザ・ゴムペルツ夫人とは︑前述の手紙を機会にかれと めるゴムペール氏に劣らず︑貧しきオランダの叔母を愛した︒

とくに児童保護の点で︑ゴム︒ハースの労働運動の人道主義的性

格に魅せられていたらしい︒かれによれば︑この優しい夫人

宗教的儀式や慣例をかなり守っていたらしい︒けれどもかれ

rわたしの心は常に貧るように理想を捉えてきたのであっ

て︑仲間への奉仕という霊感のもとに︑倦まざる献身により理

想に従ってきた︒奉仕こそは︑わたしにとって︑自己の人生を は︑貧しい労働者階級に属していた︒それだけにかれゴムパー

L

ゴムパースには︑成程と思うことがまだひとつある︒葉巻工

として稼ぐ父の収入ではまったく不充分だったので︑かれは︑

0

年と三ヶ月のときに学校を退いて靴屋の見習いに出た︒だ

が仕事場の騒音に悩まされて︑かれは葉巻工の徒弟になりたい

と父に申しでている︒その理由は︑靴工場の騒音もさることなが

( 6 )  

ら︑葉巻工には労働組合があるが靴工にはそれがないというこ

r葉巻工組合Lにおける父の活動をつうじて労働組合

に親しんでいたとはいえ︑さすがにゴムパースだけのことはあ

る︒こうしてかれは︑ビショップスゲート街のデヴィッド・シ

(D av id Se hw ab

)氏の年期奉公人となった︒ここでも

かれは︑ひとつの経験をしている︒イギリスでは︑アメリカの

葉巻工のようにその作った葉巻をある限度内まで吸えるという

特権がなかった︒そのため葉巻工はドアのところに一列に並ば

されて︑職長の身体検査を受けたが︑そのやり方は屈辱もので

あった︒いわばここにも︑未来の労働運動指導者を生みだす原

‑・‑‑‑‑‑‑‑c‑, .. 一~●ー・‑ -一—---·---・-·

- - - ~ - ~ - ' " - ·

—-'"-~-、一~-一~---'--・: 〜 ̲̲̲,,̲:.̲̲,

(8)

500 

渡米熱に浮かされてこの歌を歌ったなかには︑かのアンドル る ︒

西

老いしは憩う

西

に歌ったつぎのポビュラー・ソングをみると︑それがよくわか 闘西大學ユ紐済論集﹄第一四巻第五号

当時の合衆国は︑その実際はともあれ︑銀念の世界ではまだま

だ自由の地であった︒折しも奴隷解放の闘いは︑それを象徴す

るかのようであった︒かれを含めて当時の労働者たちの熱狂的

若きは歓び

去れよ去れ

そは大いなるミズリーの海に注ぎ

働くものこそ人たらん

卑しきものも実りを得ん

その多きものほど

財と富への助けを誇る

西

けれどもゴムパース一家の渡米を決定的にしたのは︑イギリ

r葉巻工組合

L( th e Ci ga r‑ ma ke rs 'S oc ie ty

)

( 6 )  

金による援助であった︒この旧型組合主義ーもちろん当時は新型組合主義だったわけだがー—の特徴的な政策によってゴム

合主義を理解するうえで︑象徴的な意味をもつ︒こうして一家

0

rL

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wi ck Ba si n)

ニュー・ヨークのキャスル・ガーデン

( Ca s t le Ga rd en

)

たのは七月二九日だから︑七週間余りの船旅である︒ここでも

ゴム︒ハースは小さな経験をしている︒下船するときかれの父

握手をした︒だがたまたま徴兵反対の︵またニグロの︶暴動が

ニュー・ヨークを震撼させていたときだったので︑この黒白二

人の握手をみた群集は激昂して二人を街灯柱に吊さんばかりに

の誰だって同じことをしただろうL

新居は︑ハウストン

11

ースは一三オと六ケ月と二日だった︒早速父を手伝って葉巻を

つくり始めた︒新居は四室でロンドンの家よりは広かったとは

いえ︑真向いは屠殺場だったから︑環境はよくない︒のみなら

7

L( li vi

ng , 

~n)

の慣行のも

とにおける劣悪な労働状態が終始目撃される︒かと思うと︑八

ー ︑ '

9,J 

(9)

501 

(2)  (1) 

サミュエル・ゴムパースの伝記風の素描(‑)︵小林︶

時間労働制の先駆者だったジョン・ローチ氏の造船所から︑八 時間制を告げる鐘の音が明る<聞えてくる︒このようななかで

っ﹂ていった︒成人した一八七二年一0

月四日︑かれは合衆国

の市民権を得ている︒

ゴム︒ハースの伝記作家のローランド・ハーヴェイ氏は︑

ゴム︒ハースのロンドンからニュー・ヨークヘの移動を品山

エジプト

L(

Ou

t

o f  Egyp

t)

と表現しているが︑けだし

言い得て妙である︒

(R

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. c i t

. ,  

p .8 )

  スピクルフィールヅは︑イギリスの労働運動史上の重要 な舞台のひとつである︒ウェップ夫妻によると︑スピク ルフィールヅの絹織工は︑一七七三年にすでに永続的な 組織をつくっており︑一七六五年および一七七三年には 賃金の決定にかんする

rスピクルフィールヅ法Lを獲得

している︒これは︑団結禁止法下の絹織工の団結の事実 上の承認として重要である︒そのためスピクルフィール ヅの絹織工は︑自分たちの団結は事実上守られていると して︑団結禁止法撤廃にかんして政府側を支持し︑フラ ンシス・プレイスたちの撤廃運動にたいする支援を差し

控えているほどである︒

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, 

19~0

p p.  

9精神的に合衆国の子供かつ市民となるべく生れかわ

(4)  (3) 

八九

37 , 

翌 5 4

98)

その後もかれらの闘争は花々しい︒か

れらの織る絹は︑アラモード︑編子︑パジュアソイ︑サ

クンなどの最高級のものとして有名であった︒だがキャ

ラコ製品が登場するや︑そのために惹き起され中失業に

激怒し︑かれらは︑見付け次第道ゆく婦人のキャラ

n

シャツを引き裂いたという。(B

. E•

Ha

rv

ey

  ̀ o

p .c i

t .   p .

3 ) 

なおゴムパースのロンドンにいた一八五0年代とくに五

二年以後の五・六年は︑イギリスの労働組合運動史上︑

ひとつのプランクであったという︒

(W

eb

bs

,

p .  

c i t . ,   p . 

2 2 4 )

もちろん五七年の不況とともに︑ストライキの

波がみられはするが︒

ゴムパースの最良の助手だった女性フロレンス・キャル

バート・ソーンによれば︑ゴムパースはもともと工モー

ショナルな男であって︑もっぱら経験から穏かな言葉の

価値を知ったという︒たとえば一八九三年の大不況のと

き︑かれは︑マヂソン・スクェア・ガーデンで開かれた

失業者の国家救済要求の大会において︑激越な演説で失 業者の感情に訴えたところ︑聴衆は尻ごみして逆効果し か得られなかった︒ゴムパースは︑その後ひたすら感情

を抑制したという︒

( Fl o

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t Thorne,

  op .  

c i t .

,   p .  

31) 

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‑‑ ,‑'L..̲ ‑‑‑‑‑‑‑

-~---—

(10)

(6)  (5) 

闘西大學ユ枇済論集﹄第一四巻第五号

靴工に組合がないといういい方には︑註釈を要する︒イ

ギリスの靴工の組合の歴史は古い︒9合同靴工組合し

( th e .A ma lg am at ed   So ci et y  o f  Cordwainers)

は︑一七八四年

に組織されており

(W eb bs , o p.   cit••

p. 51

)︑一八六二年

に改組され︑一八七四年には﹁合同長靴短靴製造工組合L

( th e  . Am al ga ma te d  S oc ie ty o f   Bo ot n  a d  Sh oe   Make rs ) 

と改称されている︒のみならず新しい靴縫機械の導入さ

れた一八五七年から一八七四年にかけて︵ちょうどゴム

パースのロンドン時代が入る︶︑r合同組合しは︑機械に反

対する手縫の靴工にたいし︑新事態への適応を勧告して

(S ue ay nd   Be at ri ce   We bb ,  I nd us tr ia l  D

e

cr

a

on

gm an s  1 90 2.   pp. 

417~418)~

工に紐g

という意味は︑いろんな意味で靴屋の徒弟ゴムパースの

身近にそれがなかったということであろう︒

いわゆる﹁新模型

L( th e

New  M

od el ) は︑あまりにも標

本化されて有名であって︑詳述の要はあるまい︒一八五

(9合同機械工組合L

th e  .A ma lg am at ed   So ei et y  o f  E ng in ee rs

)ができると︑その後一八七五年に

いたるまで︑9合同機械工組合﹂の規約のすぺてまたはそ

の一部を模倣しない組合はなかったという︒

(W eb bs , t he  

E

o f Tr ad e 

U

on is mp .  22 4)

rL 合同葉巻工組合

もそうであった︒そこにみられる哲学は︑いわば﹁賃金

基金説Lと表裏一体の関係にある

"

wo rk ' nd th eo ry

"

 

き権力を肌に感じてこの国に自由を求めた精神︑それとの絶え

ざる接触

I

これらはすぺて︑.若き日のゴム︒ハースを将来の大

衆の指導者として教育した︒が同時に巨大なアメリカの同化カ

がしのびこんできた︒リンカーン大統領が死んだとき︑かれは

一日泣き過し︑その後も仕事が手につかなかったという︒ コス.モポリクンのそれであった︒雑多な人種や国籍︑反乱に生 一ュー・ヨークのイースト

1 1サイドの気風は︑

(7/ 

であったといってよい︒

ニュー・ヨークの暴動のうち最大のものは︑一八六三年

七月ご二日の徴兵反対の暴動であろう︒徴兵リストが発

表されると︑いささかなりとも富めるものは僅少であっ

て︑ほとんどは貧しき労働者であった︒徴兵のプルジョ

ア的性格に憤激せるアイルランド人の一団が徴兵官の事

務所を襲った︒これが発端となって︑煽動された群集は

黒人やアポリッショニストを襲ったという︒これは︑逆

にニグロの暴動を促した︒この事件の一般的な描写につ

いては︑菊池識一著rアメリカの黒人奴隷制度と南北戦

戦争L未来社刊︑昭和二九年︑三六五頁

l

三七六頁が詳

︐ 

︑ ︒

ーロにいえば

(11)

503 

サミュエル・ゴムパースの伝記風の素描(‑)︵小林︶ 二︱オのときかれらは︑おなじく友愛的共済組織たる7オッド

工組合Lの第十五支部︵ニュー・ヨークにおける英語使用国民

クラプ

L( th e Ar io n  B as e  B al l  a nd   So ci al  Cl ub )

運動や討論や模擬裁判をやって楽んだ︒これは︑ある意味で︑

将来のかれの活動のための実地訓練であった︒さらにかれは︑

L( Co op er Un io n)

と関係をもった︒毎土曜の夕に開か

ースには︑歴史︑伝記︑音楽︑機械︑速度測定︑雄弁術︑経済

学︑電気︑地理︑天文学︑旅行記などがあり︑ゴムパースは︑

二十年間そのよき聴講者であった︒

ゴム︒ハースの指導者的資質は︑すでにこの頃からみいだされ

る︒友愛運動

(f ra te rn al mo ve me nt )

に強く惑かれていたかれ

Ri si ng t  S ar   So ci al  a nd   De ba ti ng   Cl ub )  ..lJ~

そのメ

ムバーたちは通常友愛組織たる7

(t he Co ur t  Em pi re   Ci ty f  o   th e  A nc ie nt   Or de r  o f  F o re s t er s ) ): a

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すらいわれたらしい︒

一八六四年︑サミュエル・ゴムバースは︑アメリカの7葉巻 た︒のちには法務長官から7世の敗北者のスポークスマンL は︑﹁アリオン・クラプ﹂の名を﹁明星社交討論クラブ

L( th e

からを﹁哀れむべき者の弁護士

L7

負け犬の擁護者Lと考えてい なら二︑三年で弁護士試験に︒ハスすると賞められたりしている︒事実かれは︑﹁オッド・フェロウLゃ労働者にかんする法律

上の事件について︑しばしば無報酬で奉仕した︒かれは︑みづ としては高給の週十五ドルで働きにこないかと誘われたり︑君 たシュティーフェルの勤める法律事務所のムーア氏から︑当時 かれを大いに満足させてくれた︒春と秋と冬とに再編されるコ れるrユニオど主催の講演会や講義は︑知識欲に飢えていた ビーター・クーパ

(P et er Co op er )

の設立せる7クーパー・ユ 一四オのかれは︑仲間とともに﹁アリオン野球社交 社交的だったゴム︒ハースは︑すぐにかれ自身の新世界をつく・フェロウL

(t he  I nd ep en de nt r  O de r  of  O dd  Fe ll ow s)

L( th e Ri si ng t  S ar   Lo dg e)

をつくり︑これは︑の

ちに

2

^チーヴン・ダグラス支部三五七L

Do ug la s  Lo dg e 

357)

(t he  S te ph en A•  

するゴム︒ハースの功績をたたえ︑その五十周年記念︵一九二三

年︶にさいし︑かれに名誉とメダルを与えている︒

ゴムパースはまた︑法律家的素質にも恵まれていたらしい︒

のちにニュー・ヨーク市の代表的な弁護士となったヘルマン・

シュティーフェルの弁護士試験の準備を手伝ってやったり︑ま この支部は︑友愛運動にたい

-~--口·--- --―--一•一‑‑‑ - ~ —曹9ー9―—---~-、---―--"‑ ‑

‑ ‑ ‑ ― ‑ ‑‑ ‑

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