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資本主義と非資本主義 19

資本主義と非資本主義

定  彦

 日本と東南アジアとの関係は,一般的・抽象的に理論化していうならば,資本主義と非 資本主義との関係である。現実の世界の歩みをみるならば,非資本主義と関係をもたない 資本主義は存在せず,資本主義と関係をもたない非資本主義はない。資本主義と非資本主 義との「有機的関連」において世界資本主義は存在する。だがこの場合,非資本主義は資 本主義によりこの有機的連関にくみこまれ,世界資本主義に包摂せしめられていった。こ のことは東南アジアにしても例外ではない。だが,このような資本主義と非資本主義との かかわりの歩みの理論的解明は,いまにいたるも明確ではない。東南アジア諸国の自立化 への途を見出すためにも,この課題は避けてとおれまい。本稿では,諸説を検討しながら

この課題を考えてみたい。

1 リカアドオの比較生産費説と国際分業

 リカアドオは『経済学および課税の原理』第7章「外国貿易論」で,国際間における資 本と労働の移動の困難を前提したうえで,イギリスとポルトガルの二国の間におけるラ

シャとぶどう酒の交換をとりあげる。いわゆる比較生産費説の有名な勢門がこれである。

 「イギリスはラシャを生産するには一年間100人の労働を要し,またぶどう酒を醸造せ んと試みたならば,同一時間にわたって,120人の労働を要するが如き事情のもとにある

     、(1)

ものとしよっd

 「ポルトガルにおいてぶどう酒を生産するには,一年間わずかに80人の労働を要し,ま た同じ国においてラシャを生産するには,同時間にわたって90人の労働を要するものとし

 、(2)

よっ,」

 このようにまずはじめに、生産部門間における生産力の差異が国際的に絶対的にも相対 的にも存在するという条件を前提したうえでつぎのような説明をする。

 このような条件が与えられているとすれば,イギリスはぶどう酒を輸入してラシャを輸

出し,ポルトガルはラシャと交換にぶどう酒を輸出するのが相互に利益である。ポルトガ

ルにとってはラシャを90人の労働をもってつくりうるにもかかわらずその生産に100人の

労働を要するイギリスより輸入する方が有利である。というのは,ポルトガルではその資

本の一部分をぶどう栽培からラシャの製造に割いて生産するよりも、いっそう多くのラシ

ャをイギリスから交換することのできるぶどう酒の生産にむしろその資本を投じた方が有

(2)

 20

利であるから。つまりポルトガルでは,ラシャ生産部門もぶどう酒生産部門もイギリスに 較べ絶対的に優れているが,なかでもぶどう酒生産は相対的に有利であり,イギリスでは,

両部門ともポルトガルに較べ絶対的に劣ってはいるがそのなかでもラシャ生産は相対的に 有利である。それであるからして,両国とも相対的に劣った生産部門の貨物を輸入して,

その部門の資本を相対的に優れた部門に投入し,相対的に優れた生産部門の貨物を輸出す ることが両国ともに有利である。その結果,ポルトガルは80人の労働で90人の労働を要す べきラシャを入手し,イギリスは100人の労働をもって120人の労働が費さるべきぶどう酒       (3)

を取得することができると。

 このように比較生産費説を説明したのち,リカアドオはつぎのようにいう。

 「かくの如くしてイギリスは,80人の労働の生産物にたいして,100人の労働の生産物 を与えるであろう。かかる交換は,同一国内の個人間には行われえぬはずである。イギリ ス人100人の労働の生産物1ヰ,イギリス人80人の労働にたいして与えられるはずがない。

しかるに,イギリス人100人の労働の生産物はポルトガル人80人,ロシア人60人または東 印度人120人の労働の生産物と交換せられうるのである鮎)

 「一国内において諸貨物の相対的価値を支配する同じ規則は,二国もしくはそれ以上の       (5)

国々の間に交換せられる諸貨物の相対価値を支配するものではないd

 このように,リカアドオの比較生産費説は,「国際分業」と「価値法則の修正」との二 つの論理をもつ。こういつたことがらして,「リカアドオからマルクスへ」という発想の

もとに,「比較生産費説」を「国際価値論」へ上向させ,そこから「外国貿易」・「国際分 業」を説明しようとする論理的志向が生まれる。だが,「国際価値論」について,その位 置づけは,すでに「国際価値論の位置づけ」(『経営と経済』第62巻第1号)でのべたよ

うに,もともと「外国貿易論」や「国際分業論」に論理的に上向しうる性質のものではな

い。

 ところで,比較生産費説における設例や価値法則修正の命題に示されるリカアドオの見 解は,価値の段階での論理であり,単純な投下労働量によって規定された生産費の論理次 元である。それは,彼の資本移動についての構想に端的にあらわされている。リカアドオ は比較生産費説をのべたすぐあとでつぎのようにいっている。

 「かかる事情のもとにおいては,ぶどう酒もラシャもともにポルトガルにおいてつくら れること,したがって,ラシャの製造に使用せられるイギリスの資本および労働がその目 的のためポルトガルに移されることが,イギリスの資本家ならびに両国の消費者にとつ、て 有利であることは,疑をいれぬであろう。その場合には,これら貨物の相対的価値は,一 方がヨオクシャ,他方がロンドンの生産物であった場合と同一の原則によって左右される

   、(6)

であろつd

 この立言で,リカアドオは生産力の劣った国イギりスから生産力の発達した国ポルトガ

ルへの資本の移動を想定する。だが,これは資本主義の現実に適合しない。資本の移動は,

(3)

 資本主義と非資本主義       21 資本主義一生解方法のより発達した国から遅れた国への移動が通例であって,その逆では ない。けだし,後進国は先進国にくらべて国民的利潤率が高いのが普通である。リカアド オがこのように資本の国際移動の通例に反する移動の方向を想定したのは,彼が資本の移 動を利潤率に関しておこなわれるものと理解はしていても,そのじつここで,資本の移動

を,商品の価値,つまり「生産費」の論理次元で,「生生費の高いところがら安いところ へ」という論理でとりあげたからではなかろうか。けだし,商品の価値(素朴な投下労働 量による生産費)に関連して資本の移動が直接に問題となりうるのは,吉村正晴氏が指摘 するように「気候,原料,労働力等のいわゆる立地条件の相違にもとづいて,各国の労働       (7)        、

生産力の相違が生じている場合のみ」といってよかろっ。つまり,後進国から先進国へ資 本の移動ができるということは,資本の移動の制限がないという条件のもとで,資本の発 達程度の差ということを捨象して,立地条件の点からだけみて先進国が有利な地位を占め ている場合に限られるのである。

 ここでのりカアドオの考え方からするならば,資本の移動の制限さえなければ,それに よって資本は国際間に自由に移動しうることになる。だがいったい,生産力の低い国の資 本が発達した国へ移動したとしても,どうして進んだ国の資本との競争に耐えることがで

きようか。リカアドオのこのような発想は,比較生産費説がスミスの国際分業論の継承・

発展であり,古典派自由貿易論に特徴的な,「国民経済」の視点の欠如,したがって国民 経済に規定された「資本の発達程度」という視点の欠如からくるものであろう。スミスは 利己心にもとつく分業の発達を説き,そこに調和的な自然的秩序がもたらされるものと考 えた密)スミスは,十分に展開することができなかったカ㍉こういつた一国内における分業 についての構想を国際分業にも適用する。つぎのスミスの立言はこのことを裏付けている。

「いやしくも思慮に富んだ一家の主人は,買うよりも高くつくものを,自分のところで作 ろうとしてはならぬという格言がある。……一家を斉えるうえにおいて思慮ある行為は一 国にとってもまた愚かなことであるはずはない。もしある商品を,われわれが自分で製造 するよりも安く,外国がわれわれに供給してくれるならば,われわれはなんらかの意味で われわれが長じている道において産業活動をしてその生産物の一部をもってその商品を買

      (9)

つた方がよいdスミスの超歴史的見解を継承しながら,国際間における資本の移動の制限 という事実に世界市場の特殊性を見出して,スミスの国際分業論の発展をおこなったのが りカアドオであった。

 このように比較生産費説が,「国民経済」やそれに規定された「資本の発達程度」の論 理が欠けているということから,リカアドオはその判例の考察にさいして,その生産部門 が資本主義の歴史的発達のなかで,どのような意味をもち比重をもつかということには全 然ふれていない。いうなれば,特例の生産部門はなにであってもかまわないわけであり,

たまたま立地条件の差異にもとつくものとして与えられている。だからして,そこからひ

きだされる国際分業論は,立地条件に適用されるものとしての調和的国際分業論にならざ

(4)

 22

るをえない。

 リカアドオは「完全なる自由交易の制度のもとにおいては,各国は自然みなその資本と 労働とを,自国にもっとも有利なるがごとき用途にささげる。この個人的利益の追求は,

      (1①

見事に全体の全般的利益とむすびつけられる」として,その調和的な国際分業論を立言す る。しかしながら,現実の国際分業はリカアドオの説くようにけっして調和的なものでは ない。いま,リカアドオのこの調和的な構想を展開して国際分業にあてはめようとする論 理の系譜として,小島清氏の見解をみてみよう。小島氏は,「所与の比較生産費に従って ではなく,生産費の変化を考慮にいれた将来の比較生産費  比較成長率  に基づいて        (11)      、   、

国際分業をきめるべきである」として,比較成長率の原理を提唱し,つぎのよっにいっ。

 「比較成長率原理による工業化と分業との二つの利益をともに獲得するには,先進国の 方が協力的に或産業を縮少し,その独占市場を後進国に開放しなければならない。またそ うすれば後進国は保護措置の必要なくして容易に生産規模を拡大し生産費を低下しうるで あろう。だから後進国が比較成長率優位産業の資本化に努力するのみならず,先進国が比 較成長率劣位産業の縮小・市場の開放をなすという,国際分業と貿易の双方的・国際協力 的調整が必要なのである。またこれなくしては,所得水準差の拡大から惹起されている現       、(12)

代の世界経済の構造的不均衡は解決されえないであろっd

 小島氏は比較成長率原理による工業化と分業との二つの利益をともに獲得するには,先 進国の方が協力的にある産業を縮小し,その独占市場を後進国に開放しなければならない

という。そしてまた氏は,『国際経済理論の研究』では,アメリカでは繊維工業の所得成長 率が他の産業にくらべて小さいので繊維工業を縮小するならば,大きな市場が後進国に開

        (13)

放されるとのべる。だが,これまでアメリカはその繊維工業を自らの手で縮小して市場を 後進国に開放したことがあったか。先進国は後進国によって自己の市場をおびやかざれよ うとする時は,あらゆる手段にうったえてもその進出を阻み自己の市場を確保しようとす るのがこれまでの資本主義の現実ではなかったか。先進国の市場開放をもとめる「新国際 経済秩序への途」(1974年,第6回国連特別総会で採択された宣言)がいまだに「声明文」

       q4)

の域をこえずにいること,またここ数年きびしさをました日米,日欧の「貿易摩擦」の解 決がいっこうにはかどらないことも,比較生産費説の欠如する「国民経済」の論理が問わ れているからである。

 「新国際経済秩序への途」が提唱されるや,小島氏は従来の見解をさらに展開し,先進 国と後進国との国際分業のあり方に,水平分業(産業内二化)という視点を繊維などの労        (15)

働集約財産業のみでなく重化学工業にも適用することを提唱する。たしかに,水平分業

(産業内特化)という小島構想は,「経済の効率」ということと「セパレートできない」

ということでは有効かもしれない。だが後進国の「自立化」,「自立的国民経済」の建設と

いう視点からみるならば問題がある。いま,氏が例にする鉄鋼業をとってみよう。この産

業は,製鉄・製鋼・圧延の三つの生産工程を一貫して行う銑鋼一貫作業方式をとるのが,

(5)

 資本主i義と非資本主義      23 近代的製鉄所である。いま産業内二化の構想により,圧延作業のいずれかの鋼材生産部門 を後進国に特化したとしよう。それは,「経済の効率」ではよいかもしれないし,「セパレ ートできない」相互関係をつくることは間違いない。だが,この「セパレートできない」

相互関係は,後進国の「自立化」の要求にこたえうるものではなかろう。ある一部門のみ しかうけもだないという関係から,後進国の鉄鋼業が「産業」として,どうして先進国の 鉄鋼業と同等の経済水準に到達しうるのだろうか。このような構想からは,後進国の強く 求める自立的国民経済の建設への途は無理であろう。小島構想は,その「相互関係」のあ り方いかんによっては,多国籍企業内の国際分業ということになる。それでは,かって資 本主義が後れた国々におしつけたモノカルチュアの産業内における再現ではなかろうか。

 比較生産費説を市場の側面からみるならば,それは一国のある産業部門を相手国に全面 的に移譲することを意味する。だがこのことは,個々の国民経済を構成単位とする複合体 である世界市場においては,けっして無条件的に実現されうることではない。

 国際分業は,経済の論理からするならば,先進国と後進国との商品の価格差により形成 されることはいうまでもない。それは一般的には,先進国の工業製品と後進国の原料・農 産物の低価格となってあらわれる。だが,後進国の原料・農産物の低価格は,経済の論理

によってのみ説明しうるものではない。吉村正晴氏は『貿易問題』で,この点についてつ

   、      (16)

ぎのよつな三つの原因をあげる。

 第一に,後進国や植民地にあっては,農産物は暴力的な古い搾取形態のもとで,生産物 の価値以下での低い価格で提供が行われた。アメリカやアフリカなどの農場で使役された 有色奴隷,囚人,賦役農民等の労働がそれであり,「租税の締木にかけられて倒れつつあ るロシアやインドの農民」の労働もそうであった。ロシアやインドの共産的共同体は,

「国家の容赦ない専制が一非常にしばしば責め苦によって  強要した租税のための貨 幣を手に入れるために,自分の生産物の一回分を,しかもますます大きくなって行く一部 分を,売らなければならなかった。これらの生産物は,生産費にはおかまいなしに売られ,

商人がかってにつける価格で売られた。というのは,農民は支払期日のためにはどうして        (17)

も貨幣を手に入れなければならなかったからであるd第二に,生産物の価値以下での販売

は,それらの古い搾取形態の下だけではなく,窮迫した分割地農民や植民者のもとでも広

汎に行われること。分割地農民にとって「絶対的な制限として現われるものは,本来の費

用を差し引いてから彼が自分自身に支払う労賃にほかならない。生産物の価格が彼にこの

労賃を保証するかぎり,彼は自分の土地を耕すであろう。そして,しばしば,労賃が肉体

的最低限に達するまで,彼はそうするであろう。……つまり,市場価格が彼の生産物の価

値または生産価格まで上がる必要はないのである。これこそは,穀物の価格が分割地所有

の優勢な諸国では資本主義的生産様式の諸国でよりも低いということの原因の一つなので

ある。……つまり,このより低い価格は,生産者たちの貧困の結果であって,けっして彼

       U81 らの労働の生産性の結果ではないのである。」

(6)

 24

 第三に,本来的な農耕植民地においては,未占有の土地が大量的に存在しており,しか もそれが自然によってすでに開墾されているからである。北米のプレリー,南米のパンパ ス,ロシアのステップ等がその著名な例である。これらの諸地方では,地代や土地価格が 低く,また,土地は処女地で肥料を要しないから,そこに成立する粗放経営は,きわめて       (19)

安い価格で穀物その他の土地生産物を,世界市場に販売することができるのである。

 ローザ・ルクセンブルグは,『資本蓄積論』第3篇「蓄積の歴史的諸条件」や『経済学 入門』において,資本主義が非資本主義地域を自己に包摂せしめていった足どりを,暴力,

詐欺,掠奪,破壊,植民地化,窮乏化の歴史として克明にえがいている。

 「資本は,その創生紀においてばかりでなく今日にいたるまで,歴史的過程としての資 本蓄積の恒常的方法たる暴力以外には,何らの問題解決も知らない。だが原始的な社会に

とっては,かような場合にはつねに存亡が問題なのであるから,すっかり力がつきるか絶 滅されるまで,生死を堵して反抗し戦うほかに途はない。だからして,植民地統治の日程 における永続的現象としての,たえず行われる植民地の軍事的占領,土人の蜂起,および,

その鎮圧のための植民地遠征がみられるのだ。……植民地での資本によるこの方法の充用 の古典的な例を提供しているのは,インドにおけるイギリス人の政策とアノレジェリアにお        (20)

けるフランス人の政策とであるd

 「東インド会社の香料諸国との取引関係は,今日の,アメリカ資本家と彼等が毛皮を買 うカナダ・インディアンとの関係,またはアフリカ・とグロにたいするドイツ商人の関係 と同じく,取引の旗のもとでの三二強奪,および見えすいた詐欺であった。後進社会と の『おだやかな』そして『平和愛好的な』商品取引の古典的な例は中国の近代史であって,

それは一本の赤糸によってのように,40年代のはじめから全19世紀をつうじて,商品交易 のため中国を暴力的に開放することを目的としたヨーロッパ人の戦争によって貫かれてい

 (21)

るd

 「豊饒なるブラジルは,ヨーロッパおよび北アメリカの資本主義の欲求のために,巨大 な荒地と単調なコーヒー裁培地とに変化され,土人の全大衆がプロレタリア化してこの裁 培地に賃金奴隷とされ,その後さらにこれらの賃金奴隷は,ある純枠な資本主義計図象 一いわゆる『コーヒー恐慌』のために,突如として久しい期間にわたって失業とどん底 の飢餓との餌食にされた。天富豊かなる大国インドは,資本の支配にたいする数十年にわ たる絶望的抵抗の後,イギリス植民地政策によって征服され,爾来一度に数百万人をたお す飢謹と飢餓チブスとがガンジス流域を週期的に見舞っている。アフリカ内地ではイギリ スおよびドイツの植民政策によって,過去20年間にあらゆる民族全体が,一部は賃金奴隷 に化せられ,一部門餓死せしめられてその骨をあらゆる地方に散らかされた。巨国中国に おける絶望的暴動と飢餓疫病とは,ヨーロッパ資本の侵入によってこの国の旧来の農民的 および手工業的経済が粉砕された結果である。合衆国にたいするヨーロッパ資本の侵入は,

まずイギリス移民による土着アメリカ・インディアン動滅と,その所有地の掠奪とをともな

(7)

 資本主義と非資本主義      25 い,ついで19世紀初頭イギリス産業のための資本主義的原料生産の確立を,ついで数百万 のアフリカ黒人の奴隷化をともなった。この黒人は労働力として,棉花,甘蕨,煙草裁培 地において資本の司令下におくために,ヨーロッパの奴隷貿易商によってアメリカに売ら

       (22)

れたものである,」

 すなわち,後進国の農産物の低価格といってもさまざまな理由があり,しかも非資本主 義地域が資本主義世界市場に包摂され,国際分業を形成してゆく過程は,資本主義による

さまざまな.「経済外的強制」のもとになされているのである。それは,非資本主義地域が

「無理」に貿易を強制させられた過程である。したがって,資本主義と非資本主義の国際 分業の形成にあたって,比較生産費説を無条件に適用して,ただ生産費の相違とか価格競 争の論理とかで説明することは,きわめて非現実的であり,その生産費の相違がいかにし て生まれ,どのような事情で価格競争がおこなわれるにいたったか,ということの究明を 抹消してしまうことになる。ましてや,国際分業にはいる商品が相互に未知の新しい生産 物である場合には,「生産費の相互の比較から,国際的分業の成立を基礎づけようとする       (23)

のは,およそ無意味な試みである」といえよう。

(注)

(1)D.Ricardo, Principles of Political Economy and Taxation, Sraffa, ed. P.135,小泉信三訳  岩波文庫版 上巻 133ページ。

(2)Ibi(L, P.135,小泉訳『前掲書』同ページ。

(3)Ibid., P.135,小泉訳『前掲書』同ページ。

(4)Ibid., P.135,小泉訳『前掲書』133−134ページ。

(5)Ibid., P.136,小泉訳『前掲書』134ページ。

(6)Ibid., P.136,小泉訳『前掲書』134ページ。

(7)吉村正晴『貿易問題』47ページ。

(8)A.Smith, The Wealth of Nations, Cannan ed. PP.13−16,大内兵衛訳 岩波文庫版 第1分冊  38−44ページ。

(9)Ibid., P.424,大内訳『前掲書』第3分冊53ページ。

(10)D,Ricardo, Principles of Political Economy and Taxation, PP.133−134小泉訳 岩波文庫版  上巻 131ページ。

(11)小島清『外国貿易』206ページ。

(12)小島清『前掲書』207ページ。

(13)小島清『国際経済理論の研究』51ページ。

(14)この点については,拙著『現代資本主i義と南北問題』(長崎大学東南アジア研究所刊)第4章  「新国際経済秩序への途」を参照されたい。

(15)小島清『世界経済新秩序と日本』107−136ページ。

(1⑤ 吉村正晴『貿易問題』64−69ページ。

(8)

26

(17)K.Marx, Das Kapital, Bd. III. Werke 25, S.735,邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第25・b  巻,933ページ。

(18)Ibid., S.813−815,邦訳『前掲書』1032−1033ページ。

㈲ Ibid., S.683−684, S.735−736,邦訳『前掲書』865ページ,933−934ページ。

(2① Rosa, Luxemburg, Die Akkumulation des kapitals, Archiv sozialistischen Literatur l Ver−

 1ag Neue Kritik Frankfurt, S.291−292,長谷部文雄訳 青木文庫版 下巻 437−438ページ。

(21)Ibid., S.306−307,長谷部訳『前掲書』459−460ページ。

(22)Rosa Luxemburg, EinfUhrung in die Nationalbkonomie, Rowohlt, S.191,佐野文夫訳 叢文閣  版454−455ページ。

(23)吉村正晴『貿易問題』102ページ。

2 再生産表式と外国貿易

      (1)

 マルクスは,『資本論』第2巻第3篇「社会的総資本の再生産と流通」で,社会的総資 本の再生産が均衡をたもって運動するには,どのような条件が必要かという課題にとりく む。それは,この条件が崩れるならば,均衡がこわれることの論理的検出の作業でもある。

 まず,ここで問題にする資本主義社会は,「資本主義三生産の全般的,かつ排他的な支 配」という前提における「純粋資本主義社会」であること。したがって,ここでの総生産 物は,個々の生産物と同じく,(1)不変資本(C),(2)可変資本(v),(3)剰余価 値(m)からなる。ところが,個別資本の場合には,生産物はどこで,どのように売られ るかという問題は,捨象しても理論の構築には差支えなかった。だが,個別的諸資本のか らみあいのなかで形成されている社会的総資本の再生産という課題からするならば,「労 働者や資本家はその消費資料をどこからえるのか?資本家はどこから生産手段をえるか?

生産された生産物は,どのようにしてこれらすべての需要をみたし,生産を拡大する可能 性をあたえるのか?したがってここでは,われわれは,『価値補墳と素材補墳との両方』

(『資本論』第2巻第20章M.E. Werke 24, S.392,邦訳『マルクス・エンゲルス全集』

第24巻483ページ)をも問題とするのであり,だから,社会経済の過程でまったくちがっ       (1)

た役割を演じる生産物を区別することが,無条件に必要なのであるd

 そこで,生産部門を(1)生産手段生産部門。生産的消費のためにむけられる生産物の 生産部門(第1部門)。と(2)消費資料生産部門。個人的消費にあてられる生産物の生 産部門(第II部門)。との二大生産部門に区別する。こういつた諸前提のうえに,Q生産は従 来の規模で反復され,蓄積は行われない「単純再生産」,ついで蓄積が行われ年々拡大さ れる規模での生産「拡大再生産」の条件が考察される。

 まず〔単純再生産〕

 1)4000c+1000v+1000m=6000

(9)

 資本主義と非資本主義       27

 11)2000c十500v十500m=・3000

 この場合,1,IIともに資本の有機的構成は4:1であり,剰余価値率は100%と仮定

する。

 〔1〕 消費資料の形態で存在している第II部門の可変資本500 vと剰余価値500 mは この部門の労働者と資本家の個人的消費によって実現(売られることによって価値が実現)

される。

 〔2〕 生産手段の形態で存在している第1部門の可変資本1000vと剰余価値1000mは,

それが実現されるためには,第1部門の資本家と労働者のための消費資料と交換されなけ ればならない。他方,消費資料の形態で存在している第II部門の不変資本2000 cは,再生 産を行うためには第1部門の生産手段と交換されねばならない。こうして第1部門の1000

v十1000mと第II部門の2000 cとが交換される。

 〔3〕 第1部門の4000cは,この部門内での個々の資本家相互間の交換によって実現

される。

 このようにして,単純再生産が円滑に行われるためには,1(v+m)=IIcという条 件がみたされねばならない。したがって,拡大再生産にあっては,1(v+m)>IIcと いう条件が必要となる。なぜならば,新しく拡大された生産をはじめるためには,生産手 段の余分が存在しなければならないからである。

 〔拡大再生産〕

 1) 14000c十1000v十1000m=6000  11) 1500c十750v十750m=3000

 ここでは1(v+m)>IIcという条件はみたされている。資本の有機的構成は1では 4:1,IIでは2:1,そして剰余価値率は両部門とも100%と仮定されている。

 〔1〕 この第1年度の表式から,蓄積が行われるためには,1(1000v+500 m)は II 1500 cと交換される。このことにより1500 mは蓄積され,資本に転化される。資本の 有機的構成を従来と同じく4:1と不変とするならば,1500m;400 c+100vとなる。

 〔2〕 追加不変資本400cは生産手段の現物形態をとっている第1部門の生産物のう ちにある。だが,追加可変資本100vは第II部門の資本家からえられなければならない。

ところが,第II部門の資本家は,自分の剰余価値II 100 mを第1部門の1100 vと交換する ことによって,これを追加不変資本にかえることができる。したがって,第II部門の不変 資本は1500cから1600cに拡大することができる。またこの場合,資本の有機的構成を従 来と同じく2:1とすることから,必要な追加労働力にあてられる50vは第II部門の剰余 価値の残り650mのなかからえられる。

 このようにして,第1部門と第II部門とにおける追加資本を原資本につけくわえると,

生産物の配分はつぎのようになる。

 1 4400c十1100v十(500m);6000

(10)

 28

 11 1600c十800v十(600m)=3000

 ここで,かっこ内の剰余価値は資本家の個人的消費にあてられる部分である。そこで,

生産が各部門とも従来どおりの資本の有機的構成と剰余価値率でおこなわれると仮定すれ ば第2年度末からの再生産はつぎのようになる。

 第2年度末

  1) 4400c十1100v十1100m=6600   11) 1600c十800v十800m=3200  第3年度末

  1) 4840c十1210v十1210m=7260   11) 1760c十880v十880m=3520  第4年度末

  1) 5324c十1331v十1331m=7986   11) 1936c十968v十968m=3872

(2)

 以上のべたマルクスの再生産表式から,「外国貿易の必然性」をみちびきだそうとする 試みが,これまでたえずなされてきた。19世紀80年代のナロードニキがそうであったし,

ローザ・ルクセンブルグもそうであった。

 ナロードニキは,剰余価値を実現するうえでの「困難からの活路」は外国市場の獲得で        (2)

あるという結論をだした。この見解にたいしてレーニンは,すでに拙稿「資本主義の運動 と外国貿易」第3節「外国貿易の必然性」(長崎大学東南アジア研究所刊拙著『現代資本 主義と南北問題』第1章)で指摘したように,一連の諸論稿をつうじて,精力的にナロー

ドニキ批判を展開した。レーニンは,つぎのようにいう。「実現の問題は,どのようにし て資本主義的生産物の各部分が,価値(不変資本,可変資本および剰余価値)の点で,ま たその物的形態(生産手段,消費資料,特殊的には必需品とぜいたく品)の点で,市場に おいてそれと入れかわる他の生産物部分を見いだすか,ということにある。この場合,外 国貿易が捨象されなければならないことは明白である。なぜなら,外国貿易をひきいれる ことは,いささかも問題の解決を前進させるものではなく,問題を一国からいくつかの国 へうつすことによって,その解決をおくらせるだけだからである9)

 このレーニンの主張は,マルクスが『資本論』第2巻第3篇「社会的総資本の再生産と 流通」第20章「単純再生産」で「実現の理論」と「外国貿易」との理論的つながりのあり 方でのべているつぎの命題に立脚する。

 「資本主義的生産はおよそ外国貿易なしには存在しない。しかし,ある一定の規模での 正常な年間再生産が想定されるならば,それと同時につぎのことも想定されていることに

なる。すなわち,外国貿易はただ国内生産物を使用形態や現物形態の違う物品と取り替え

(11)

 資本主義と非資本主義      29 るだけで,価値の割合には影響を及ぼさないということ,したがってまた生産手段と消費 手段という二つの部類が互いに取り替えられる価値の割合にも,またこれらの部類のそれ ぞれの生産物の価値が分解できる不変資本と可変資本と剰余価値との割合にも,影響を及 ぼさないということがそれである。だから,一年間に再生産される生産物価値を分析する ときに外国貿易を引き入れることは,ただ混乱を招くおそれがあるだけで,問題やその解 決のなんらかの新たな契機を提供するものではないのである。だから,外国貿易はまった

く捨象されなければならない巳)

 このように,実現の理論に外国貿易をもちこむことを拒否するレーニンは,もし「実現 の困難」をかたるとするならば,つぎのようにとらえるべきであるという。「もし実現の

『困難』や,ここから発生する恐慌や,その他のことについてかたるとすれば,そのとき には,これらの『困難』は,資本主義平生産物のすべての部分にとってありうるばかりで なく,必然的でもあって,けっして剰余価値だけにとってのものではないということを,

みとめなければならない……。種々の生産部門の配分の不均衡ということから生じるこの 種の困難は,剰余価値の実現のばあいだけでなく,可変資本や不変資本の実現のばあいに も,たえず発生しているし,また,消費資料の形での生産物の実現のばあいだけでなく,

生産手段の形での生産物の実現のばあいにも,たえず発生している。一般にこの種の『困 難』や恐慌なしには,資本主義平生産,すなわち孤立した生産者たちが未知の世界市場を

目あてとして行う生産は,存在しえないのである鯉

 このように,再生産表式から外国貿易の必然性をみちびきだそうとする作業は、再生産 表式の性質上,もともと論理的に無理な試みであるにもかかわらず,このような試みはそ の後も引き続いておこなわれている。

 ローザ・ルクセンブルグは,『資本蓄積論』でマルクスの拡大再生産表式をとりあげ,

つぎのようにいう。

 「われわれが,事物の現実の経過に照応して,年々,ただ不変資本のより急速な増大と 可変資本のより緩慢な増大ならびに剰余価値率の増大を仮定するならば,社会的生産物の 物象的構成と価値構成とのあいだの不均衡が現象上にあらわれる。たとえば,マルクスの 表式において,不変資本と可変資本との恒常的比率=5:1のかわりに,資本の増大に応

じて累進的により高い構成,すなわち第2年度には6:1,第3年度には7:1,第4年 度には8:1を仮定しよう。さらに,労働生産性の増大に照応して剰余価値率もたえず増 大すると仮定しよう,  すなわち,100台目いう安定的剰余価値率のかわりに,可変資 本の相対的減少にもかかわらず,マルクスの表式においてそのときどきに仮定された剰余 価値をおこう。最後に,獲得された剰余価値の半分がつねに資本化される,ということか

ら出発しよう。(部門IIは別であって,そこでは第1年度に,マルクスの仮定にしたがっ        、       (6)

て半分以上が,すなわち285mのっち184mが資本化される)」

    、      、      (7)

 このよつな前提から出発してローザは,つぎのよつな表式を作製する。

(12)

 30

 第1年度

 1) 5000c+1000v+1000m=7000(生産手段)

 II) 1430 c+285 v+285m=2000(消費手段)

 第2年度

 1) 5428%c十1071%v十1083m=7583  11) 1587%c十331%v十316m=2215  第3年度

 1) 5903c十1139v十1173m=8215  11) 1726c十331v十342m・=2399  第4年度

 1) 6424c十1205v十1271m=8900  11) 1879c十350v十371m=2600

 そして,このような再生産表式の展開は,つぎのことを生みだすという。「蓄積がかよう な仕方で進行するとすれば,第2年度には16だけ,第3年度には45だけ,第4年度には88 だけ,生産手段の不足が生じ,同時に,第2年度には16だけ,第3年度には45だけ,第4 年度には88だけ,消費手段の過剰が生ずるであろう留そして,こういつた論理の帰結として,

「決定的なことは,剰余価値が,労働者によっても資本家によっても実現されえないで,

それ自身資本制的には生産を行わない社会層または社会によって実現される,ということ である?)という。このようにしてローザは,再生産表式の独自の解釈によって,資本主義は

それ自体の内在的運動の論理の結果,「原理」として非資本主義世界との外国貿易を必 要とするという。だが,技術的進歩を考慮にいれて,資本の有機的構成の高度化を表式に

とりいれても,剰余価値の実現が不可能にならないことは,すでにレーニンが「いわゆる 市場問題について」(『レーニン全集』第1巻,1893年)で論証したところである。またわ が国にあっても,ローザのこの見解には,戦前,山田盛太郎氏が「再生産過程表式分析序 論」(『資本論体系』中,改造社版,昭和6年)でとりあげ,つぎのように批判している。

「『労働の生産性』の増大,従って亦た『資本構成』の高度化並に『剰余価値率』の増大 の諸条件を考慮に入れた場合の分析は,それの抽象の下に行はれたマルクスの表式分析に 封して何等の改攣を加え得るものでなく,從って,マルクスの再生産論或は表式分析の       (1①

未完成或は不十分性を唱へるのは決定的な誤謬である」。

 このように,外国貿易の必然性,いいかえれば資本主義が非資本主義を論理的に必要と

する根拠を再生産表式にもとめることが無理だったということは,ローザ批判としてはそ

のとおりであろう。だがローザが,資本主義が非資本主義を必要とすることを,資本主義

の「原理」として『資本論』の論理とのかかわりにおいてもとめようとしたこと。このロ

ーザの研究姿勢は,レーニンが『資本論』の論理とどのようにかかわるかという説明なし

に,外国貿易を「歴史的性質のもの」と規定し,また資本主義の新しい「段階」としての

(13)

 資本主義と非資本主義       31 帝国主義の世界を,資本主義と非資本主義との全体象としてえがいているのにくらべて評 価されるべきであろう。

(3)

 すでに,拙稿「資本主義の運動と外国貿易」(長崎大学東南アジア研究所刊,拙著『現 代資本主義と南北問題』第1章)で,レーニンの「外国貿易の必然性」の諸命題をとりあ

げた。その第2命題に関して建林正喜氏は再生産表式との関連において,外国貿易の必然 性に言及する。説明の便宜上,レーニンの第2命題をもう一度引用しよう。

 レーニンの第2命題はつぎのようである。

 「第2に,社会的生産の個々の部分間の照応(価値の点での,また現物形態の点での)

は,社会的資本の再生産の理論によって必然的に仮定されたものであり,そして実際には 一連のたえまない動揺のうちにつくられる平均的な大いさとしてのみさだめられるのであ るが,  この照応は,資本主義社会では,未知の市場のために働いている個々の生産者 たちの弧立性によって,たえずやぶられている。相互に『市場』として役だつ種々の産業 部門は,均等に発展するものではなく,相互においこしあっている。そして,より発展し        (ll)

た産業は外国市場をもとめるのであるd

 このレーニンの命題にたいして建林氏はつぎのようにいう。

 「この命題を『不均等発展』にかんするものと解する見方もある。しかし果たしてそう であろうか。不均等発展にかんするレーニンの科学的な説明は,周知のとおり別の論文

『いわゆる市場問題』において与えられている。そこでは不均等発展は生産財部門の消費 財部門にたいする優先的発展と規定されており……かような不均等発展において,……種 々の産業部門が『相互に黛市場.として役立つ』というからには,これらの諸部門は生産 財部門に包括される原料・機械等の諸部面でなくてはならない。すなわち第2の命題は,

生産財部門内部における生産諸部面間の不均衡的発展をもって,外国貿易の『必然性』を

    、      (12)

論証しよっとするものだと考えるd

 建林氏は,不均等発展は,レーニンによって生産財部門の消費財部門にたいする優先的 発展と規定されているとの解釈のもとに,レーニンの第2の命題は,生産財部門内部にお ける生産諸部面間の不均衡的発展をもって,外国貿易の「必然性」を論証しようとするもの だといっ。だが,そっだろっか。

 まず第1に,不均等発展の法則の規定について。たしかにレーニンは「いわゆる市場問 題について」において,氏のいうように,生産財部門の消費財部門にたいする優先的発展

を不均等発展としてとらえている。しかしながら,レーニンがそこでいっているのは,再 生産表式の研究からえられる唯一の正しい結論は, 「資本主義社会では生産手段の生産は

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ …   。 。 ・ …   (13)

消費手段の生産よりも急速に増大する」ということであって,この場合における不均等発

展こそが,不均等発展についての唯一の科学的な説明であるなどとはどこにもいっていな

(14)

 32

い。このことはレーニンの他の著作についてみればいっそうはっきりする。たとえば『帝 国主義論』では,諸国間における不均等発展が最大の課題となっている。つまり,不均等 発展の法則といっても,けっしてそれは一つの場合だけを意味しているのではない。それ は農業と工業,原料生産と加工工業などといった産業部門間における不均等発展や個々の の企業間における発展の不均等のみならず,生産力と消費力とのあいだの不均等発展やま た諸国間における生産力の発展の不均等等々をも問題にしているのであって,こういつた,

いろいろな場合の不均等発展の一つの場合を示すものとして,生産財部門と消費財部門と の不均等発展があげられうるのである。

 したがって建林氏のように,不均等発展を「生産財部門の消費財部門にたいする優i先的 発展」としてのみ規定することは,レーニンの見解からしてもそうではない。肝心なこと は,このようにいろいろ現われている不均等発展のうち,そのどれが提起された課題にし たがってとりあげられねばならないのか,あるいはその主要な側面となるのか,というこ とである。外国貿易の原因としては,農業と工業との不均等発展こそがその基軸におかれ ねばなるまい。それは,農業からの工業の分離ならびにその発展の不均等こそが,一国内 における社会的分業=国内市場のみならず,国際分業=世界市場の形成における基本的な 契機をなすもりだからである。ところカ㍉再生産表式における二部門の分割の方法は,生 産的消費か個人的消費かという視点にのみもとづいているのであって,社会的分業という       、      (14)

視点は,もともと論理の対象外におかれているからである。

 つぎに建林氏は,この第2の命題を,「生産財部門内部における生産諸部面間の不均衡 的発展をもって,外国貿易の必然性を論証しようとするものだ」とのべるが,そうだろう か。氏のこの見解は,レーニンが第2の命題でいっている「相互に『市場として』役立つ」

ということを,「資本主義のための国内市場の成長は,個人的消費の増大からはある程度 まで『独立して』,生産的消費の増大によってより多くおこなわれる。……しかし,いう までもなく,窮極においては生産的消費はつねに個人的消費ということとむすびついてい

 (15)  、

るdといっレーニンの命題を考慮し,そして,生産財部門と消費財部門とのあいだでは不 均衡は生じないが,生産のための生産が行われうる生産財部門の優先的発展にもとづいて,

生産財部門内部においては諸部面間の不均衡が生ずるとということを考えられたからでは なかろうか。もっとも,資本主義的生産が消費財部門よりは生産財部門に関してより優先 的発展がおこなわれるという法則から生産財部門内部での生産物の国際交換が行われると いうことはありうる。氏が指摘する機械・原料の諸部面はたしかにそうであろう。しかしな がら,この場合,かかる国際交換が,どのよつな必然性のもとに行われるかといっことは,

実現の理論からみちびきだすことは無理な作業であろう。しかも,この場合にしても国際 交換の一部面を示すにす ぎない。再生産表式における二部門間の再生産の均衡条件は,た

えまない動揺あるいは不均衡をつうじてしか実現されないのではあるが,これまでものべ

たように,均衡を前提として成立する再生産表式そのものから不均衡をみちびきだすとい

(15)

 資本主義と非資本主義      33 う作業そのものが,再生産表式とはいったいなんのためにつくられたか,という論理と整 合しないからである。

 このように,マルクス経済学をとりながらも,外国貿易の必然性の論証を再生産表式に もとめるという思考が絶えずくり返されているのは,外国貿易の必然性を「価値実現の困 難」としてとらえること,したがって,価値実現の問題を対象とする再生産表式にそのよ りどころをもとめるという発想からくるのだろう。北古賀勝幸氏の「外国貿易が価値実現 の困難=不均衡の結果であるとすれば,外国貿易の必然性はやはり,表式における不均衡        、(1⑤

       という論理がこの系譜の が必然的であることの結果として論証されねばならぬであろっ」

思考を端的に示している。だが,外国貿易の必然性は,さきに拙稿「資本主義の運動と外 国貿易」(長崎大学東南アジア研究所刊拙著『現代資本主義と南北問題』第1章)でのべ たように,価値の次元での問題ではなく,価格競競の論理段階での問題であろう。

(注)

(1)B.H. JleHHH, Pa3BHTHe KanHTa測3Ma B PoccHH, Coq. T.3, cTp.39,・邦訳『レーニン全  集』第3巻29ページ。

(2)B.H. JleHHH, TaM}Ke, cTp。28,邦訳『前掲書』19ページ。

(3)B.H. JleHHH, TaM}Ke, cTp.30−33,邦訳『前掲書』22ページ。

(4)K.Marx, Das Kapita1, Bd. II, Werke 24, S.466,邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第24巻  579−580ページ。

(5)B.H. JleHHH, Pa3BKTHe KanHTa双肥Ma B PoccHH, T.3, cTp.34,邦訳『レーニン全集』第3  巻23ページ。

(6)Rosa Luxemburg, Die Akkumulation des Kapitals, S.261,長谷部文雄訳 青木文庫版 下巻  393ページ。

(7)Ibid。, S.261,邦訳『前掲書』393−394ページ。

(8)Ibid., S.261,邦訳『前掲書』394ページ。

(g)Ibid., s.274,邦訳『前掲書』412ページ。

(10)山田盛太郎「再生産過程表式分析序論」『資本論体系』中1改造社版『経済学全集』第11巻488ページ。

(11)B.14.JleHHH, Pa3BHTHe Ka皿Ta双H3Ma B PoccHH, T.3, cTp,56,邦訳『レーニン全集』第3  巻43−44ページ。

(12)建林正喜『外国貿易と産業循環』21ページ。

(13)B.14.JleHHH, no noBo双y TaK Ha3blBaeMoro Bonpoca o pblHKax, T・1, cTp・81,邦訳『レ  ーニン全集』第1巻84ページ。

(14)わが国のマルクス経済学の一部にみられる「再生産表式」適用の過大の一因に,戦前の山田盛太郎  氏の業績の過大評価がある。戦前の日本資本主義における再生産過程の把握を,再生産論の日本資本  主義への具体化の問題としてとらえた山田盛太郎氏の『日本資本主義分析』は,そのすぐれた業績と歴史  的役割の高い評価はそれとして,再生産表式の論理を日本資本主義の具体的な社会的分業体系であり,

 生産力の体系である再生産構造の分析に直接適用するという論理は,方法論的に無理がある。

(16)

34

(19 B.H. JleHHH, Pa3BHTKe KaH町aπK3Ma B PoccKK, T.3, cTp.42,邦訳『レーニン全集』第  3巻31−32ページ。

(16)北古賀勝幸「再生産論と外国貿易の必然性」『熊本商大論集』第11号57ページ。

3 資本主義と非資本主義

 本山美彦氏は,著書『世界経済論』で,世界経済のトータルな姿態を資本主義と非資本 主義との「複合的構造」の展開としてとらえ,その論理化にとりくむ。第2章「いわゆる

『世界市場創出傾向』について」で,その論理化への手がかりとして,まず『資本論』に おいて各所にみられる諸範疇とその論理次元における「世界市場」との論理を追求する。

そして,「資本の各論理次元における制限設定と,その克服の論理ならびに姿態とが展開 されるべく設定された部面,これがマルクスの前半体系の叙述に見られる世界市場だった         (1)

のではなかろうか」とし,「資本主義は危機克服のためには自己の原理からすれば異質の        (2)

処理形態をも導入せざるをえなかった」のであって,「資本主義の原理が生み出す異質性 とその克服の論理がいかにして世界市場に結実して行くのか,すなわち資本はいかなる論       (3)   、

理でもって世界市場を創出するのか」といっことの追求が課題となるという。

 『資本論』の各範疇の論理次元におけるこういつた作業が何故必要かについて,氏はつ ぎのようにいう。「もともと世界市場とは資本制的生産の原理にとっては異質なものを包 含している。しかし,原理に設定されていた資本の制限克服の運動が,ある時には新たな 異質性を加え,ある時にはそれを同質化するという作用を世界市場に与え続けることによ って,論理的にはいかにして結果的な世界市場を創出することになるのかを前半体系の次 元でまず正しくおさえないかぎり,創出される世界市場の同質性と異質性は原理との連結        (4)

を絶望的に断ち切られるのであるdそして,この課題への接近の手がかりとして『経済学 批判要綱』でのべられている「資本の偉大な文明化作用」という概念をあげる。それは,

外的制限を克服しようとする資本の運動力㍉「世界市場創出傾向曽1「全地球を資本の市場 として征服しようと努める璽傾向,「資本の普遍的傾向望資本の「布教的・文明化傾向璽 として語られている箇所でもあると指摘し,そこでは「資本は休みなく普遍性を求めてい        (9)

るが,この普遍性は資本自身の本性に制限を見出す」ことの記述が世界市場との関連のも        、(10)

とで与えられているといっ。本山氏はさらに,こめ「資本の文明化作用」の進展にあたっ て,直面する「制限」の「可能的止揚」の要請される多くの局面(交通,貨幣,流通時間,

回転碍間=特に農業との対比,絶対的剰余価値,相対的剰余価値,流通圏域,流動資本,

機械制大工業,本源的蓄積,平均利潤率,信用制度,恐慌等)において世界市場の諸規定        (11)

が導入され,制限克服の場として設定されていると指摘したのち,「各範疇の契機に生み

出す外的制限……を生み出すのは体系進展の真のバネである生産力の増進であるが,『文

明としての資本』がその制限をどのようにして止揚して行くのか,なぜその止揚諸形態が

(17)

 資本主義と非資本主義      35 世界市場を生み出しつつ,資本そのものの自己崩壊の契機を肥大化させていくのか,これ        、(12)

がマルクスの体系の根底的視座であるとみなしてもよいだうりdとのべる。そして,「制 限」を「時間」という制約に通約する。それは,資本による普遍性の獲得とは,「自然的 再生産時齢を配に齢的な・資本時間14)に轍することであり,・資本時間、そのも のも必要時間として可能なかぎり短縮することであるとする鯉このように問題を整理した のち,氏は「絶対的剰余価値」生産と「相対的剰余価値」生産をとりあげ,以上の論理が どのように貫いているかを,つぎのように説明する鯉

 剰余価値の生産は,剰余労働時間部分を可能な限り大きくすることによって増大させう る。しかし,剰余労働は必要労働との関係でのみ存在しうるのであるから,この種の制限 を克服するためには,労働日を労働力能の自然的限界にまで絶対的に延長するか,同一場 所における「より多くの同時的労働日の空間的追加17)をなす協業でしかない。そこで,こ の種の制限克服の方法が可能となるためには,労働力の不断の供給と剰余価値実現のため       (1⑳

の不断の交換部面の拡大が必要となる。前者を保証するのが「剰余人口」の創出であり,

そのための農村の不断の分解である。そして後者の必要条件は,補完的交換地点の創出・

流通圏域の拡大であり,剰余価値を交換すべぎ世界市場の創出である。だが,こういつた 量的限界の克服は新たな質的限界を生みだす。ここから「必要労働時間」そのものを短縮 すべく「相対的剰余価値」生産による自然的制約克服がめざされる。こういつたことから,

機械による手労働の代替,協業形態の発展による生産力の増大を生み出す経営システム,

すなわち,機械制大工業が論理として登場してくる。そして,この次元でも,さらに具体 化した克服形態の場として,世界市場規定が導入されている。というのは,機械導入の進 展がまた新しい制限を措定することになるからである。必要労働時間の短縮は機械による その代替をすすめるが,これは固定資本部分を肥大化させ,可変資本部分を相対的に減少 させる。このことは利潤率の相対的低下を生みだす。利潤率の低下を阻止するため回転数 の増加が図られるが,それは原料の制限を論理的にも生みだす。やはり,ここでも制限克 服の場として世界市場が導入されざるをえない。外国市場に新たな原料供給基地を創出す

ることによってのみ,この制限は可能的,観念的に克服されるのである。

 このように,「絶対的剰余価値」生産から「相対的剰余価値」生産への論理的上向を世 界市場との関連で説明する本山氏は,さらに「流通時間」の制限克服と「農業」の制限 克服についても,世界市場とのかかわりにおいてつぎのようにのべる。すなわち,「流通 時間」の制限克服のため,交通手段と運輸手段の改善・発明の衝動に拍車がかけられ,貨 幣の媒介を極力排した世界市場をおおう信用機構の創出と整備が展開する19)ところで資 本にとっての合理性とは,自然時間の資本時間による可能な限りでの代置(必要労働時間 の短縮,回転数の極大化,流通時間の極小化)を実現することであるが,この意味からす るならば,農業こそ資本にとっては絶望的なほど合理性をもたない部面である。そこで,

農業のもっこの制限克服の場として世界市場規定がでてこざるをえない。資本主義は農業

(18)

 36

における発展を自己の個有の領域に見出す必要はない。輸入を通じてにしろ,あるいは植 民政策によってにしろ,外部の世界市場にそれを移譲することに成功しさえずれば,資本        (2①

主義の社会制度は合理的に編成できる。すなわち,「先進国の工業と後進国の農業という 世界市場の宿命的な分業の姿態は,資本制的生産様式の母胎であったはずの農業が資本制 的生産様式そのものの飛躍的発展を阻止してしまい,資本がその制限措定を結局は克服し えず,それを他に移譲しなければならなかったという論理からのみ理解されるべきであろ う,かくして,資本主義は,特に農業を根幹とする世界市場を産出しなければならなかった       (22)

    (2D

のであるdそして,この論理が経済外的強制とむすびついて展開するのであって,「結果 としての資本主義的世界市場の産出の論理は,資本制的,ないしは商品経済的様式が地球 上の全ての地域で確立しているとの想定から組み立てられるものではなく,資本主義が自 己を外延的・内包的に拡大しなければならない論理(そして本章ではその一つの視角とし て資本時間をとりあげた)=本質論と,その実現のためには国家範疇を使わねばならなか ったという媒介的な論理=形態論との使用によってのみ展開されるものでなくてはならな        (23)

いと結論的に言えるのであるd

 世界市場を資本主義と非資本主義との「複合的構造」としてとらえる本山氏の視点は,

なによりも現実の世界がそうであるし,また世界市場の論理化の出発点を『資本論』にも とめようとすることも作業の手順としてはそうなるだろう。氏はそれを,資本の論理貫徹 における「制限克服」としてとらえる。したがって,『資本論』次元においては,それぞ れの範疇の制限克服による世界市場への展開と範疇の論理的上向との二つの視座が導入さ れることになる。さらにまた,このような性質をもつ「制限」に,農業の「論理」を導入 することにより,原料輸入の論理の必然性を検出しようとする。それぞれの範疇の論理次 元における「制限克服」としての「世界市場」は,たしかに本山氏の指摘されるとおりで あろう。だが『資本論』にそくしていうならば,ある範疇の制限克服による世界市場への 展開がゆきづまったのち,その範疇の論理的上向がはじまるのだろうか。たとえば,商品 から貨幣,貨幣から資本,さらに絶対的剰余価値生産から相対的剰余価値生産への論理の 上向は,世界市場を論理にいれなくても可能なのではなかろうか。『資本論』にあっては,

ある範疇の制限克服による世界市場への追求という場合,その世界市場は,論理的には前 提としてすでに与えられている世界市場であって,そのような論理的位置づけの世界市場 に,その範疇の論理次元における世界市場の必要性が説かれているのではなかろうか。つ まり,個々の範疇からひきだされた世界市場の必要性は,それだけかぎりのことであって,

資本主義にとっての世界市場の必要性には,もっと資本主義の運動を体系的に包括する論 理が必要であろう。

 本山氏のいう,それぞれの範疇における「制限」とは,その論理次元における「生産諸

力と生産諸関係との矛盾」といいかえてもよい。絶対的剰余価値生産は相対的剰余価値生

産へ,そして相対的剰余価値生産は「資本蓄積」に論理的に上向するのであり,しかも資

(19)

 資本主義と非資本主義       37 本主義の運動は,資本蓄積の運動として展開するのであるから,こういった個々の範疇の論 理次元における「制限克服」としての世界市場の論理は,「資本主義的蓄積の一般的法則」,

さらにそのより上向した運動法則としての「利潤率の傾向的低下の法則」の体系的展開の なかに位置づけることができよう。たとえば,本山氏があげている絶対的剰余価値生産の

「制限克服」の場としての世界市場は,きわめて一般的・抽象的な,それゆえ資本の本性 そのものにかかわる世界市場の必要性ではあるが,そのことはそれだけのことであって,そ こから資本主義にとっての世界市場追求の論理が体系的に説明できるものではない。また 相対的剰余価値生産であげている,資本の有機的構成の高度化,それにもとつく利潤率の 低下に対する原料供給市場にしろ,さらに工業にたいする農業のたちおくれによる食糧輸 入にしても,すべて資本の蓄積運動の論理から説明しうる。

 ところで,農業の制限克服にもとつく世界市場の追求という場合,それまでの資本の論 理とどのような論理的関係があるのかということにたいして本山氏の説明は見当らない。

これは,なにも本山氏にかぎらず一般的にいえることだが,これまでのマルクス経済学に よる国際分業形成の論理化にあたってはつぎのような論理の撞着がみられる。農業とか工 業とかいう分け方は,社会的分業にもとつく区分であって,それは使用価値一生産力の論 理的系譜に属する。ところが,比較生産費説や国際価値論をどのように論ずるかはともか くとして,「価値」の視点から「外国貿易」を論じながら,国際分業形成の論理になると,

一転して何の説明もなしに,工業と農業という範疇がとりだされ,工業と農業との国際分 業とか工業国,農業国といった論理が展開されるのがつねである。つまり,国際分業論で 工業と農業ということをいい,しかも経済学体系を「資本」にはじまり「世界市場」に終 る一貫した体系としてとらえようとするならば,経済学の原理に工業と農業という社会的 分業の論理をくみいれる必要があろう。こういう意味で,私は資本蓄積の論理に工業と農 業という社会的分業の論理をとりいれるのである14)そして,「資本主義的蓄積の一般的法 則」は「利潤率の傾向的低下の法則」へと上向し,工業と農業という「社会的分業」は,

「国民経済」を論理的媒介項として外国貿易,国際分業,世界市場へと「国家」による経 済外的強制をともないつつ論理的に上向してゆく。このようにして,資本主義的蓄積の一 般的法則にもとつく,富と貧困,工業と農業との不均等発展は,世界的規模で展開し,そ の結果として非資本主義を包摂する世界資本主義が形成され,世界資本主義における富国 と貧国,工業国と農業国との不均等発展となって現われるのである15)

(注)

(1)本山美彦『世界経済論』37−38ページ

② 本山美彦『前掲書』38ページ。

(3)本山美彦『前掲書』39ページ。

(4)本山美彦『前掲書』45ページ。

(5)K.Marx, Grundrisse der Kritik der Politischen 6konomie(Rohentwurf), S.311,高木幸二郎

参照

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