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吉岡斉の科学技術批判の原点と背景

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吉岡斉の科学技術批判の原点と背景

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柿 原     泰

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<吉岡斉追悼シンポジウム特集>

年報 科学・技術・社会 第28巻(2019)、83-92 頁

Japanese Journal for Science, Technology & Society

VOL. 28 (2019), pp. 83-92

1 は じ め に

(1) 吉岡斉(1953~2018)(2)は、科学技術史、科学技術社会学、科学技術政策の分野において、 約 40 年間にわたって第一線で活躍し、きわめて多くの業績をあげた(3)。本稿では、その多 くの業績のなかから、主として初期の論文(1970 年代半ば~ 80 年代半ばころの約 10 年間) に注目し、その特徴や背景について概観する。 追悼セッション(科学社会学会 2018 年大会実行委員会企画)の企画者趣旨説明でも述べ られていたように、吉岡はとりわけ日本の原子力に関する歴史研究や政策をめぐる批判的研 究、1990 年代後半から関連する政府審議会等の委員としての活動を続け、東電福島原発事 故後は、政府事故調査委員会委員や原子力市民委員会の座長の活動など、原子力問題の批判 的な専門家としてよく知られている。とくに若い世代や他分野・一般の人々にとっての吉岡 イメージはそうであろう。しかし、その研究・著作活動の全体を振り返ると、後半期は原子 力中心といえるだろう(4)が、若くして科学史・科学社会学専攻の気鋭の論客として活躍し 始めて以降、さまざまな巨大科学やテクノロジーの歴史的・社会的なアセスメントに関する 研究や科学社会学の理論に関する研究などで多くの仕事を発表してきた。そして一貫して「科 学技術に対して批判的な視点に立った」研究活動を続けてきたということが言えるだろう。 追悼セッションの企画者の側から筆者に与えられたテーマは「吉岡斉の科学・技術批判の原 点と背景」というものであり、したがって、本稿では吉岡の初期の論文を中心に概観するこ

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キーワード:科学技術批判、科学社会学、吉岡斉

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東京海洋大学 [email protected] 1 はじめに

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とにした。 追悼セッションの第 1 報告である綾部広則の報告では、吉岡の著書(図書)を中心に振り 返って、3 つのカテゴリー(時評的作品、理論的作品、原子力に関する作品)に分類し、そ れらが 3 期に分けられた時期区分におおむね対応することが示された。その区分を参照する と、本稿で扱う初期というのは、第 1 期の「時評的」な仕事が中心の時期ということになる。 ただし、著書(図書)に限定せず、論文をも見ていくことによって、最初期の仕事には、い ろいろの要素が含まれており、その後の展開の原点というべき仕事を若い時分に発表してい たことがわかるだろう。

2 最初期の仕事

まず、吉岡の学術研究活動の最初期(1970 年代半ば以降)の仕事(論文)について、略 歴の紹介(5)とともに、概観しておく。最初の著書は、1982 年の『テクノトピアをこえて』(吉 岡 1982b)、続いて『科学者は変わるか』(吉岡 1984c)であるが、それ以前にはどのような 論文を発表していたのかを見ておこう。 吉岡は高校生時代、武谷三男の熱心なファンであったことから物理学者を志望し、実際に 東京大学理学部物理学科に進学して、1976 年 3 月に卒業している。武谷は物理学者である と同時に、「核問題・原子力問題をはじめ、多くの思想的・社会的問題に批判的に切り込ん できた論者」であり、「公害・環境問題などの社会問題を摘発する科学者・技術者運動の精 神的支柱」であったことから、吉岡にとってのロールモデルであったという。大学に入って から、もうひとりのロールモデルとして魅かれるようになっていた科学史家の廣重徹が、吉 岡が物理学科の学生であった 1975 年 1 月に亡くなったことがその後の進路選択に影響を与 えたようだ。1975 年の五月祭で中山茂の講演会を企画し、それをきっかけとして、ラベッ ツの翻訳作業に着手することになる。1976 年 4 月に東京大学大学院科学史・科学基礎論専 門課程に進学し、1978 年 3 月修士課程修了、1983 年まで博士課程に在籍することとなる(最 初の単著書である『テクノトピアをこえて』は博士課程在籍時のものである)。 この時期の吉岡の論文には、まず最初の論文、「科学者共同体とは何か――科学社会学の 共通認識を求めて」(吉岡 1976, 1977)があり、ついで修士論文「社会的責任の意識と現実 ――科学者の職業的行動様式と社会的責任との間の現代資本先進主義諸国における構造的矛 盾に関する歴史的=政治社会学的考察」(6)、そして修士論文に関連した論文に「“社会的責任” についての覚え書――科学社会学の新しい視座を求めて」(吉岡 1978a)がある。いずれも 「科学社会学」と銘打つものである。そして、その間には、ラベッツの『批判的科学』(1977) を共訳で出版している。

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それから、翌 1979 年に「科学批判の十年――広重徹から高木仁三郎へ」(吉岡 1979)を 発表し、その流れで、『日本読書新聞』に連載された「科学者は変わるか――70 年代日本の 科学者運動」(1979 年 10 月~ 80 年 5 月)をもとにしてまとめられたのが『科学者は変わるか』 (吉岡 1984c)となる。 次に、1980 年代に入ると、後述するように、いくつもの雑誌に活発に多くの論文を発表 するようになった。そのうちの 4 本を土台とし、書き下ろしも加えた論文集が最初の著書で ある『テクノトピアをこえて』(吉岡 1982b)となり、ついで 1984 ~ 85 年に発表された 4 本を土台として、『科学社会学の構想』(吉岡 1986a)が刊行された。このあたりまでが初期 の約 10 年間にあたる。以下では、この時期の仕事について、いくつかの特徴と考えられる 点を見ていく。

3 科学社会学(social studies of science)

先に紹介したように、吉岡の最初期の論文は、「科学社会学」に関するものであった。最 初の論文、「科学者共同体とは何か――科学社会学の共通認識を求めて」(吉岡 1976, 1977) は、英米系の科学社会学の潮流をレビューしたものである。マートン派のアプローチ(科学 のエートス[ノルム]論、褒賞システム論、科学的発見のプライオリティー論争、階層シス テム論、情報伝達システム論など)、新クーン派のアプローチ(科学知識の社会学、科学知 識の社会的制約性、分野の比較構造論、新分野形成論など)、そしてラベッツのアプローチ(ア カデミズム科学、産業化科学、批判的科学)について、分類・整理され、検討が加えられて いる。 吉岡のこのレビュー論文が発表された 1976~77 年頃といえば、日本での科学社会学の状 況はどうであったのだろうか。詳細な調査は今後の課題とせざるをえないが、すぐに思い浮 かぶのは、マートンやベン=デービッドらの翻訳書は刊行されていたものの、日本の研究者 による「科学社会学」に関する論文等はまだほとんど現れていなかったように見受けられる(7) 吉岡のレビュー論文より早いものとしては、村上陽一郎による「科学社会学の展開」(村上 1975)があるが、哲学・認識論からの関心が強い傾向のものであった。英米で盛んになりつ つあった科学社会学の研究動向について、目配りの効いたこの吉岡の先駆的なレビュー論文 は、その後、科学社会学に関心をもつ者に大きな影響を与えたのではないか、と思われる(8) つぎに見ておくべき特徴は、吉岡にとっての「科学社会学」とはどのようなものを指すの か、についてである。吉岡の最初の論文の最初の註において次のように述べられている。 「科学社会学」とは社会学の一分科ではない。それは現代における科学の社会的側面 に関する、あらゆる専門分科からの、あらゆる角度からの研究の総称であり……「社会学」

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(sociology)という名称を使うのは考えものである。”social studies of science” の名称が最 も相応しいだろうが、うまい訳語がないので、とりあえず暫定的に「科学社会学」と呼 ぶことにする。(吉岡 1976:12-13) また、後の『科学社会学の構想』においても、「科学社会学とは『科学と社会の学』を指 すものとする。……ここでいう科学社会学は、社会学(ソシオロジー)の下位領域ではない」 (吉岡 1986a:10)とされている。このように、吉岡は自身が取り組んでいる「科学社会学」 を狭い意味での「社会学」に限定したものではないことを何度も強調していた。 吉岡は、常に科学批判を志向していた(そのことは、後に再度確認する)が、科学批判と いう観点から従来の科学社会学をどう見ていたのか。 “科学批判家” の寄与が、専門化した「科学社会学」研究者の寄与を上廻るのは少し も不思議ではない。……「科学社会学」の専門家は、同時に科学批判の問題意識に貫か れていなければ、科学の社会的機能に存する矛盾に対する認識能力が、どうしても低下 せざるをえないのである。(吉岡 1978a:32) 別のところでは、「真の科学社会学は、いっさいの妥協を拒む反科学となるはずである」 と述べている。ここでいう「方法論的な反科学」とは、「現存する科学にとって変革を強い るもの」ということを意味している(吉岡 1982b:265)。このように、吉岡にとっての「科 学社会学」は、科学批判の問題意識に貫かれていなければならないものであった。 また、現代科学を批判的に捉えていくために、狭い意味での「社会学」では弱いというこ とについては、次のように述べているところもある。 現代科学は企業的性格の営みであり、カネと権力が大きな役割を演ずる。ところで社 会学(ソシオロジー)というディシプリンは単純化していえば、社会科学全体のなかか ら政治学と経済学とを差し引いた残余(のひとつ)である。……つまりそれは本質的に 現代科学の分析に馴染まない性格をもつように思われる。(吉岡 1986a:33) 社会学者からすれば、吉岡は「社会学」を不当に狭く捉えているという反論があるだろう が、吉岡らしい辛口の表現である。 吉岡は最初の論文においても、マートニアンとクーニアンの科学社会学に対してかなり批 判的に捉えていたが、その後、「マートニアンはそもそも開放系としての科学を分析対象と せず、クーニアンもまた、もっぱら知識論の次元で、社会から科学への影響を考察している にとどまり、現代科学の社会的問題を究明する手がかりを、あまり与えてくれなかったため」

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「次第に関心が薄れていった」(吉岡 1986a:242)という。そこで、次節で見るように、科学 社会学の自分なりの思考枠組み作りを追求しつつ、現代科学技術と社会の現実的問題に取り 組む活動(吉岡が「時論」と呼ぶ範疇の論文執筆)をしていくことになる。その際にも、科 学社会学の理論構築を意識していた。 最近は時論を書く機会がふえたが……それを通して、科学技術と社会をめぐる基本問 題についての思索を深め……きちんとした科学社会学の理論枠組みを作ってみたいもの だと考えている。そして時論を書く際にも、普遍化できそうな論点を取り入れることに よって、科学社会学のケーススタディとしての性格を幾分なりとも持たせることに努め ている。(吉岡 1982b:263-264)

4 科学技術批判として

吉岡は、1980 年ころから「科学技術と社会の問題に本格的に取組む」ようになり、いく つもの雑誌に多くの論文や解説記事等を執筆していった。そのうちの比較的長文の論稿のう ちのいくつかが『テクノトピアをこえて』(吉岡 1982b →改訂版 1985)や『科学社会学の構想』 (吉岡 1986a)に収められることになるが、それ以外のものもかなりの数にのぼる。それら 「時論」(あるいは時評)的な論文について、ここで網羅的に挙げる余裕はないが、当時のト ピックやそれらを取り上げる雑誌メディアにどのようなものがあったのかを確認する意味で も、いくつかの例を紹介しておく(9)。次の 3 つに分類してみる。 (1)個別分野にこだわらない比較的大きな視点に立った研究:個別分野の歴史や時事的 なことがらを論じつつも、それに限らない大きな論点をあげ、検討する論文であり、 先にも触れたように、比較的長文で著書(単行本)に収められることになったもの が多い。掲載誌には、『季刊クライシス』(吉岡 1980a, 1981a)、『技術と人間』(吉岡 1981e)、『新日本文学』(吉岡 1981c)、『思想の科学』(吉岡 1983b, 1985a)、『歴史と社 会』(吉岡 1984b)、『理想』(吉岡 1985b)などがある。 (2)巨大科学(物理系分野中心)の事例に関するもの:(1)に入るものでも、巨大科学 の事例を取り上げているものが多いので重複もあるが、核融合(『季刊クライシス』[吉 岡 1980a]、 『現代の眼』[吉岡 1980c]、『科学朝日』[吉岡 1982e]など)、高エネルギー 物理学(『理想』[吉岡 1985b])、太陽エネルギー(『季刊クライシス』[吉岡 1981a])、 宇宙科学(『季刊クライシス』[吉岡 1980a])など多数。 (3)その他の科学技術関連の評論:コンピュータ(『現代の眼』[吉岡 1982c])、コンピュー タ・管理社会論(『朝日ジャーナル』[吉岡 1981b])、バイオテクノロジー・遺伝子工 学(『季刊クライシス』[吉岡 1980a]、『新日本文学』[吉岡 1981c])、マイクロ・エレ

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クトロニクス(ME)(『経済評論』[吉岡 1983d])、技術と国家安全保障(『朝日ジャー ナル』[吉岡 1982d])、科学技術の軍事化(『公明』[吉岡 1985c])、ケストラーのホロ ン概念(『現代思想』[吉岡 1983c])などがある。 こうして並べてみると、1980 年代の当時、科学技術批判の議論を掲載する雑誌(総合月 刊誌、科学雑誌、哲学思想系の雑誌、週刊誌など)の文化があったことがうかがえる。 上記の批判的科学技術論の仕事の内容について、ここで詳しく論じる余裕はないが、ごく 簡単なコメントのみ付け加えておきたい。 ひとつは、テクノロジー・アセスメント(TA)の議論である。核融合などの巨大科学に 対するアセスメントを論じているだけでなく、マイクロ・エレクトロニクス(ME)のテク ノロジー・アセスメント(吉岡 1983d)をおこなっている先駆性が注目される。さらに、TA の思想がテクノクラシー的科学観にもとづいていることを指摘し、その限界を論じているこ とが印象に残っている。そこでは、ブライアン・ウィン(Brian Wynne)の論文を引きながら、 TA の政治的背景には既存の社会体制を安定化し、社会的摩擦の発生をおさえるという利害 関心があり、そうした関心にもとづいてアセスメントの対象が定義されること、つまりは現 存する社会秩序の維持に貢献するような数々の価値前提が入りこんでいることを指摘してい る(吉岡 1986a)。 もうひとつは、科学史(科学技術史)について、「現代科学史を素材として科学社会学を 進める」というのが初期の吉岡の方法であった。この時期、上記の対象以外には、とくに天 文学・望遠鏡の社会史の研究に力を入れており(吉岡 1982a, 1986b)、『望遠鏡の社会史』と 題する著書の刊行が予告されていた(吉岡 1986b:133)が、実際には未刊である。その後、 1980 年代半ばころから進められていた戦後日本の科学技術の社会史プロジェクト(科学と 社会フォーラム、通史プロジェクトとも呼ばれる)において、原子力をはじめ、原子核科学 や核融合、宇宙科学、航空機、電子技術、遺伝子工学、医療などを対象とした科学技術の現 代史・現在史の論稿を多数まとめている。吉岡にとっての歴史研究の位置づけや方法、力点 の置き方などにどのような変化があったのか、今回触れることができなかったが、今後の検 討課題としたい。 最後に、既に何度か述べてきたことだが、吉岡は一貫して、科学批判・科学技術批判とし ての科学技術論の研究活動を続けてきたことを再度確認しておく。そのことは吉岡自身の認 識としてもそうであり、たとえば、『原子力の社会史 新版』の「あとがき」では、次のよう に述べられている。 筆者は 1970 年代半ばに、科学技術に対して批判的な視点に立った現代科学技術史の 研究者をめざすこと……科学技術批判の立場から現代科学技術史に取り組もうと決意し た。筆者のそうした基本的な立場は、それから 30 年あまりにわたり、基本的に変わっ

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ていない。(吉岡 1999→新版 2011:395) 初期から最後の仕事までの間には、もちろん研究の対象やアプローチの仕方、理論志向か 事例中心の歴史研究か、等々について、変化があったことは当然のことだが、本稿では、「原 点と背景」ということで初期の仕事に注目し、終始一貫して科学技術批判の問題意識を持ち 続けたことを強調した。死後に公刊された(未完の)論文も「科学技術批判のための現代史 研究」(吉岡 2018)と題するものであったことを確認し、今後の科学技術論においても科学 技術批判の問題意識がいかに重要であるかということを受けとめて、追悼の稿を閉じること にしたい。 註 (1)学会誌という性格上、本稿では敬称を略していることをお許し願いたい。 (2)筆者は、吉岡斉追悼のための鼎談を綾部広則、菅波完と行ったことがある。綾部ほか(2018) をあわせて参照されたい。 (3)吉岡は自身の専攻分野を何と記していたか、彼の著書(単著)の奥付にある著者紹介を参照 すると、近年のものでは、『脱原子力国家への道』(2012)では「科学技術史・科学技術政策」、『原 子力の社会史』(1999→ 新版 2011)では「科学技術史・科学技術社会学・科学技術政策」と いったぐあいだが、最初の著書『テクノトピアをこえて』(1982b)をはじめとして、『科学社 会学の構想』(1986a)、『科学革命の政治学』(1987)、『科学文明の暴走過程』(1991)など、初 期から前半期までの著書では「科学史・科学社会学」とされることが多かった。  (4)原子力に関する研究が中心を占めるようになったのは、おそらく『通史・日本の科学技術』 において多くの原子力に関する章を担当し、それらをベースに『原子力の社会史』を刊行し たこと、1997 年の高速増殖炉懇談会の委員就任以来、約 20 年間にわたって政府の原子力関係 の審議会委員を務めたことなどから見ても、1990 年代後半からとりわけ、ということになる だろう。その少し前の「通史プロジェクト」の進行過程で、本誌『年報 科学・技術・社会』 の創刊号(1992)、第 2 巻(1993)に続けて原子力に関するまとまった論文を発表しているこ とも注目される。さらに前の時期では、たとえば、『科学革命の政治学』(1987)の第 6 章で 日本の原子力の展開を跡付けているが、本全体のなかでは中心的な対象になっているとはい えない。 (5)吉岡には、自身の著書等において、自分の研究経歴に関するエピソードを紹介、回想してい るものがいくつかあるが、比較的詳しいものとして、吉岡(2013)を挙げておく。 (6)修士論文の要旨(レジュメ)は、『ドクサ』第 4 号に掲載されている(吉岡 1978b)。 (7)日本の科学論における科学社会学の論考の例として、早い時期のものに、中村禎里「日本に おける生物科学の条件――科学社会学のこころみ」(初出は 1966 年、中村 1970 に所収)が挙 げられる。 (8)吉岡(1976, 1977)のこのレビュー論文が実際にどれほど読まれたのかは不明だが、吉岡自身が、 「非公式のメディアに発表したのがいけなかったのだろうか、今日に至るまで一回も他人から 引用されたことがないが、それを下敷きとして使ったとおぼしき個所をふくむ論文を、時お り見かけることがある」(吉岡 1986a:242)と述べていたことがある。 (9)この時期の主な論文は、本文中に言及しなかったものも含め、末尾の参考文献にリストアッ プした。

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参考文献 綾部広則・菅波完・柿原泰、2018、「原発ゼロ社会を創造する――「万人を不幸にする原発」に抗して」、 『週刊読書人』第 3228 号(2018 年 2 月 23 日付)、1-2 面。 村上陽一郎、1975、「科学社会学の展開」、『情況』84 号、5-14 頁。 中村禎里、1970、『生物学と社会』みすず書房。 ラベッツ、J・R、1977、『批判的科学――産業化科学の批判のために』中山茂・吉岡斉・江口高 顯・須摩春樹訳、秀潤社。(Jerome R. Ravetz, Scientific Knowledge and Its Social Problems, Oxford University Press, 1971.) 吉岡斉、1976、「科学者共同体とは何か――科学社会学の共通認識を求めて(上)」、『ドクサ』第 1 巻第 2 号、1-18 頁。 ―――、1977、「科学者共同体とは何か――科学社会学の共通認識を求めて(下)」、『ドクサ』第 2 巻第 1 号、33-61 頁。 ―――、1978a、「" 社会的責任 " についての覚え書――科学社会学の新しい視座を求めて」、『ドクサ』 第 4 号、26-33 頁。 ―――、1978b、「社会的責任の意識と現実――科学者の職業的行動様式と社会的責任との間の現代 資本先進主義諸国における構造的矛盾に関する歴史的=政治社会学的考察(修士論文レジュ メ)」、『ドクサ』第 4 号、61-62 頁。 ―――、1979、「科学批判の十年――広重徹から高木仁三郎へ」、『第三文明』220 号、92-101 頁。 ―――、1980a、「現代科学のフロンティア喪失」、『季刊クライシス』第 4 号、56-86 頁。 ―――、1980b、「新しい科学者像の探究」、辻哲夫編『撰集・日本の科学精神 5 科学と社会 世界の なかの科学精神』工作舎、304-323 頁。 ―――、1980c、「危機のなかの科学者」、『現代の眼』第 21 巻第 10 号、66-77 頁。 ―――、1981a、「オルタナティブとは何か」、『季刊クライシス』第 7 号、45-70 頁。 ―――、1981b、「超管理化社会への突入」、『朝日ジャーナル』第 23 巻第 23 号(1981 年 6 月 5 日)、 22-26 頁。 ―――、1981c、「ニュー・テクノロジーの時代――オルタナティヴの終焉」、『新日本文学』第 36 巻 第 8 号、78-90 頁。 ―――、1981d、「オーバードクターという名の失業者――職業科学者への狭き門」、『朝日ジャーナル』 第 23 巻第 38 号(1981 年 9 月 25 日)、16-21 頁。 ―――、1981e、「世紀末テクノロジーのゆくえ――科学技術立国と国民精神の動員」、『技術と人間』 第 10 巻第 12 号、8-27 頁。 ―――、1982a、「現代天文学の革命――その技術的・社会的側面」、中山茂編『現代天文学講座 15  天文学史』恒星社厚生閣、137-176 頁。 ―――、1982b、『テクノトピアをこえて――科学技術立国批判』社会評論社→改訂版、1985 年。 ―――、1982c、「プログラマーの憂鬱な未来」、『現代の眼』第 23 巻第 3 号、138-143 頁。 ―――、1982d、「技術安保 VS 技術立国の危険な構図」、『朝日ジャーナル』第 24 巻第 29 号(1982 年 7 月 9 日)、6-9 頁。 ―――、1982e、「核融合開発にアセスメントを」、『科学朝日』第 42 巻第 10 号、107-111 頁。 ―――、1983a、「科学技術体制の四半世紀をふりかえる――高度成長時代を準備したもの」、『批評 精神』第 4 号、99-114 頁。 ―――、1983b、「転換期の科学技術――戦後史のなかの科学技術立国」、『思想の科学』第 7 次 30 号、 50-69 頁。 ―――、1983c、「" ホロン " 概念と現代科学批判」、『現代思想』第 11 巻第 6 号、70-77 頁。 ―――、1983d、「ME 革命とテクノロジー・アセスメント」、『経済評論』別冊・労働問題特集号 4「ME

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革命と労働組合」、37-47 頁。 ―――、1984a、「現代科学とは何だろうか――科学と軍拡をむすぶもの」、講座・現代と変革編集委 員会編『現代危機の諸相』新地平社、238-260 頁。 ―――、1984b、「プロジェクトとしての現代科学――パラダイム転換の一般理論をめざして」、『歴 史と社会』第 4 号、156-192 頁。 ―――、1984c、『科学者は変わるか――科学と社会の思想史』社会思想社。 ―――、1984d、「巨大科学とパラダイム――社会的動因によるパラダイム転換について」、中山茂 編『パラダイム再考』ミネルヴァ書房、300-326 頁。 ―――、1984e、「“生活者の科学” の可能性――高木仁三郎論文への感想」、『歴史と社会』第 5 号、 377-387 頁。 ―――、1985a、「ニューサイエンス批判――科学知の政治学へ向けて」、『思想の科学』第 7 次 62 号、 53-64 頁。 ―――、1985b、「基礎科学の社会的吟味――高エネルギー物理学を例として」、『理想』628 号、63-80 頁。 ―――、1985c、「どうする日本の対応 科学技術 軍事化に『非協力』の姿勢を」、『公明』286 号、 73-77 頁。 ―――、1985d、「現代科学技術を変える――社会的制御とパラダイム転換の接点」、講座・現代と 変革編集委員会編『現代科学技術と社会変革』新地平社、260-292 頁。 ―――、1986a、『科学社会学の構想――ハイサイエンス批判』リブロポート。 ―――、1986b、「望遠鏡の社会史の構想」、『経済理論』(和歌山大学経済学会)第 214 号、132-149 頁。 ―――、1987、『科学革命の政治学――科学からみた現代史』中央公論社。 ―――、1991、『科学文明の暴走過程』海鳴社。 ―――、1992、「日本の原子力体制の形成と展開 : 1954 ~ 1991――構造史的アプローチの試み」、『年 報 科学・技術・社会』第 1 巻、1-31 頁。 ―――、1993、「戦後日本のプルトニウム政策史を考える」、『年報 科学・技術・社会』第 2 巻、1-36 頁。 ―――、1999、『原子力の社会史――その日本的展開』朝日新聞社→ 新版、朝日新聞出版、2011 年。 ―――、2012、『脱原子力国家への道』岩波書店。 ―――、2013、「解説」、中山茂『一科学史家の自伝』作品社、505-524 頁。 ―――、2018、「科学技術批判のための現代史研究」、『科学技術社会論研究』第 15 号、40-46 頁。

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Yoshioka Hitoshi and the Critical Studies

of Science and Technology

by

Yasushi Kakihara

Tokyo University of Marine Science and Technology

Keywords: criticism of science and technology, social studies of science, Yoshioka Hitoshii

This paper describes the significant characteristics of research activities of Yoshioka Hitoshi (1953~2018) who was a leading scholar in the field of critical studies of science and technology in Japan, especially by focusing on his early works from 1970s to mid-1980s. His first paper published in 1976-77 was a review essay of Mertonian and neo-Kuhnian sociology of science. And then he studied critically about contemporary issues on science, technology and society, and wrote many articles on journals and magazines. In other works, he developed original theoretical frameworks in social studies of science. He worked consistently based on criticism of science and technology throughout his academic life.

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