実存哲学の批判
一
鳥
居
正
夫
実存哲学はいま多彩な︑そして強烈な批判を受けている︒このこ
とはこの哲学が哲学史の中にしだいに深く広く沈降してゆく姿を告
げている︒正統的哲学のわきに世界戦争の洪水のあとで残っていた
濁流と思われていたのが︑そのみなもとは意外に遠く︑このふたつ
とも支流にすぎす︑すぐ下流でとうとうたる大河となつで流れてき
たのである︒そうしてまたそれは哲学の歴史の流れ自身からみても
その大きな転廻を示しているのである︒
実存哲学が戦後の混乱と不安の社会の産物であることはいちおう
事実だが︑さらにヤスパースやハイデッガーの近代批判にうかがわれるように︵それらもニィチヱやキエルケゴールの時代に対する予
言や批評の遺産であることから考えても︶︑ 機械・技術・科学・合
理主義・大衆・世論などの横行する近代に対する黒黒や抵抗の表白
であることも否認されないだろう︒だがなおさらにわれわれはさか
のぼらなくてはならない︒伝統的な哲学や科学の﹁客観的真理﹂の
もっている虚偽を照破するために︑実存哲学は﹁主体的真理﹂の光
を採り入れた︒それまで人生智として︑詩として哲学皮の外におし
やられていたパスカル・キェルケゴール・ニーチヱなどの思惟が道 案内をつとめてくれた︒これらの哲人は﹁この自己がいかに生きるか﹂の指南をしてくれるものであった︒実存主義の哲学的完成者たちが深い神学的な︑あるいは丈学的な教養を身につけた者であったζとは偶然ではない︒我を忘れている現代人に実存哲学は︑自己に帰れと呼びかける︒一しかもそれを深奥な体系的理論にもとづけて︒こんな意味で︑実存哲学は近代的なさとりの哲学なのである︒この哲学では内面性と外面性の融合が遂行される︒その場所は︑実存哲学へのてびきを著わしたプアイフア一1が﹁ここには科学的な哲学︑そこには生の知恵︑ここには予感的な告示︑そこには強翻的な認識という通常の区別がその意味を失う﹂①と述べたところである︒ 実存哲学が科学的な哲学と人生智との溶融であるということは︑それが西洋思想と東洋思想との合一を結実させているともいえるだろう︒ハイデッガーは︑存在自身といわれるものを追及したと称せられている前プラトγの思想においてさえ︑存在自身の真理は考えられていなかったと述べたあとで︑ 門存在の歴史は︑しかも必然的に存在の忘失とともに始まる﹂②との奥深い洞察を下しているが︑そうするならばその始発から存在者についての知として歩いてきたヨーロッパの哲学は.静観的に﹁あるがままのある﹂を探究しようとする余力をもつことができすに処世智の思瑠に終ってしまったあわれなアジアの思惟をいま実存哲学においていだきいれたことになるのではなかろうか︒プァイファーは実存哲学の人生智の側の先達として︑ラ・ロシュフウコオ︑アウグスチヌス︑エピクテートスなどばかりでなく︑孔子︑老子の名をあげている︒哲学においても世界がびとづになったことをこの哲学が物語っているように思われ
る︒
一
﹈
「
①匂9窪gの国︒濠窪国憲ω8自暮帥ざψ8三ρ 註
②頃Φ置①σqσq象出︒訂≦紹ρω・目鼻ω
二
ω●団劇
人生智と科学的な哲学との融合というまことに困難な課題を︑だ
が実存哲学はあやまりなくじゅうぶんに成就できたのであろうか︒
たしかに︑哲学の主体化によって︑認識問題の存在論化︑科学批
判︑真理︒良心・世界・時間・空間・歴史等々の哲学的術語の深化
が遂行され︑哲学の前進がもちきたされたし︑同時に生の知恵も体
系的に理論づけられた︒
実存哲学ぽわれわれに喚びかけ訴える︒さてしかしひとたび現実
社会の場に立って︑このふるい起された感激をどこへ向げたらよいか︑何をなすべきであるかという段になると︑とまどいする︒何を
﹁選択﹂し︑何を﹁決断﹂せよというのであろうか︒この無内容
は︑人間存在と世界の根本的形式をえがき出すことを意図している
実存哲学や存在論の立場からすればむしろ当然のことであるとされ
よう︒というのは哲学は科学とちがって本来何の内容を与えるもの
ではなく︑ただ哲学することそのことにその本質があるとされてい
るからである︒
しかしこんな哲学観がまつ根本柄に反省されなくてはならない︒
それは封建制がその基礎まではうちこわされすに残存しているドイツやわがくになどの後進社会のイヂオ四七ーであり︑それらの社会
においては哲学の実質が近代自然科学の発達以前のものにとどまつ
コ ロ コている︒さきに実存哲学を﹁近代的なさとりの哲学﹂というような
矛盾した言表で特徴づけることができたのも︑この事情のためであ
る︒自然科学においての﹁実験一︑ 人文・社会科学においての﹁体 験﹂﹁iこれらが根源的に告示していみものは︑学問が現実によウて検証されなくてはならないという学問の本質である︒この根本的規定を欠いている攣は︑たんなる空言虚理となってしまう︒かれらは創造的な︑生産的な仕事ができす︑生活を指導する能力を失う︒まして科学を規制するなどという権利はとてもゆるされないのである︒ ﹁実存的思惟はどんな新しい対象も認識されないところの思惟である︒一①とのヤスパー入のことばは︑彼の意図と反対の価値評価において承認される︒ハイデッガーが一これに反して科学は真理のどんな根源的な生起でもなく︑いつもすでに開示された.真理領域の構築である︒﹂②と述べているのは観念的に逆倒された見解である︒事実は現代科学は哲学によって追従され︑哲学をかえって指導しているのである︒ 哲学が根本においては科学性を失っていてはならないとするならば︑人間の主体的な存在を解釈した実存哲学の業績はどこへもち去られてしまうのか︒わがくににおいての主体性論議︑国際学会での
マルクシズムとの論戦の影響から考えて︑実存哲学がそれまでの客
体的公式主義的把捉に対してねばりづよく効果的な抗議をつづけて
いることがわかる○さらにまた哲学界二般に伝統的な客観的態度に
対して革命的な示唆を投げかけていることもたしかである︒しかし
この場合︑ 門主体的把捉﹂とはなんであるのか︒それは選択や決断
などをするところの人問の自発的な︑自己意識的な行為についての
記述を言うのだろうか︒それならばたとえばゲシュタルト心理学や
臨床心理学も行っているし︑より多くじゅうぶんな程度には倫理学
が従事しているのである︒あるいは︑対象の主体性というよりは︑そ
れともちろん連関してはいるが︑記述の主体化︑非客観化を言うの
だろうか︒科学はいつでも対象についての把捉だとするならば︑哲
学もまたいつでも︵たとえば実存哲学も︶対象についての理論なの
2 【
一
である︒もしこの意味においての対象化さえ揮無しようとするなら
ば︑哲学は内容をすっかり洗い捨てて︑科学論理学︵ヤスパースの
言う﹁哲学的論理学﹂は彼の新著にみられるようにまだそんな意昧
での内容はもっている︶なり科学方法論なりへ退却しなくてはいけ
ない︒対象を観念的なものにまで拡大するならば︑だいいちすべて
の言表が客観化なのである︒だから科学ばか︑りか哲学も歴皮的︒個
別的なものであって︑やがて後続者によって変替を迫られる運命
をになっている︒ この運命をかしこくも洞察した実存哲学者たち
は︑あらわれないくらやみをかれらの体系の中に用意よくとりいれ
ておき︑一方また哲学を形式化すことによって︵たとえばヤスパー
スのようにかれらの哲学を﹁哲学の哲学﹂とすることによって︶︑
普遍的な永遠の真理を与えようとした︒それなのに実際は︑実存を
叙述する哲学︵本稿においては実存哲学という名称をそんな包括的
な意味において使用している︶にあっても︑ハイデッガーの存在論︑ヤスパースの実存哲学︑サルトルそのほかの実存主義がめいめ
い自己を他から区別して自己のより深い真理であることを確信して
いる個別的状況をみのがし︑かれらもやがてはのりこえられてゆく
ものであることを忘れているかのようにみえる︒もし実存をすべて
の規定をのりこえる可能的実存として︑そんな根源的な残基を
体系の中に包摂し︑全体知の傲慢を辞退することが主体的把握だと
いうならば︑物理学においての不確定原理や蓋然性の法則にすぐれ
た暗示がうかがわれるように︑科学にあっても可能なのであると反
論できるだろう︒それどころか主体性と客体性の融合的把捉をめざ
す嬉しい哲学は︐実存のけっきょくは無に姿をかえてしまうような
神秘的な無規定者を理論の申にとどめておかすに︑現代科学の革薪的な学説にみちびかれることによって前進が約束されることだろ
う︒ このような実存哲学の科学化によってだけ︑その欠点を顧ぐいとることができると思われる︒一そんなことは実存哲学や存在論以前への幼稚な後退だと実存主義者は一笑に附するだろうが︒哲学の科学化とここにいうのは︑実際には哲学がパスカル・デカルト・カγトの流れから泳ぎ出ることを意味している︒哲学が野馳うを唯一つの確実な地盤としているかぎり︑その観念化をさけることはできない︒ハイデッガー哲学は彼自身表明するように現象学的存在論であるが︑ヤスパースの思惟態度もカントの用地を開拓したフッサールの現象学から養分を吸盤している︒サルトルの主著の副題も一現象学的存在論の試み﹂と名づけられている︒現実を括弧に入れる現象学.的還元によって︑現実世界の映像化がなしとげられる︒人間の現実的存在は﹁現存U器第三や門実存国臥ω言口N︑開存祠〆色の叶①嵩﹂として抽象化され︑他の人間の存在は影絵となり︑人間の行為はパγトマイムとなる︒こんな態度から哲学の夢遊病が発作するのだが︑すべての形而上学的な概念は無意味であるとしてハイヂッガ1の﹁形而上学とはなにか﹂を例にして無や存在についての命題はにせの命題だと批判しているカルナップを待つまでもなく︑われわれは実存哲学に対して︑実存・現存︒存在・包括者︒無などの一連の用語を捨て去ることを︐勧告できる︒実存哲学は実存主義的臭味を脱去することによって︑その生命を継承させてゆくことができるのである︒ ﹁このごろの哲学者たちを魅惑するところの無は没落する資本主義社会の神話である︒﹂③とルカーチは述べ︑資本主義的な分業の結果としての非人間化による個人の生活の無意味さがこのようなフエテイズムをこしらえだしていると説明している︒封建遺制の︑あるいはまた資本制の産物である物神として解されねばならないところの絶対者︒無限者・同一者・全体者︒有限者︒無などの術
語が哲学界から姿を消してゆくのは︑いつの日のことであろう︒
3 【
一
①冒超①屋<Bα霞≦餌訂財①陣rω●ω誤 註
②国①崔Φαqαq2⁝国︒冒≦Φoqρω・9
③OΦ︒茜ピ仁感︒ω国恩ω8葺帥巴δ露⁝三碧ω・
℃げは︒ωo℃げ団ho円叶び︒︷自叶信円ρ旧●α○OO
三
げ当国●呵●ヨ一昌9
門不安は人間の性質の完全性に対する表現であるL①として﹇ひ
とは動物においてはどんな不安も見出さない﹂②とキエルケゴール
は述べているが︑はたして不安は人間に特有なできごとだろうか︒
﹁不安はおそれやそれと同じような状態から区別されなくてはなら
ない﹂③と言うキエルケゴールの思想を伝承して︑ハイデッガ1も
つぎのような規定を行う︒ 一不安はおそれとは根本的にちがってい
る︒われわれはいつもこの︑あるいはあの一定の存在者に対してお
それるのである︒﹂④不安は精神病攣において︑精神異常の原初的
徴候である︒ゴールドシュタイγによると一不安9︒糞ド曙は生存
︒臨ω808に対する危険の主観的経験であ一⑤り︑﹇不安は限定され
たどんなものにも関係しな︑いところの感情状態である︒不安の根元
はなにもなく︑どこにもない︒﹂⑥ドイツ病態心理学の伝統を引く
彼の不安記述は︑ここまではパスカル︒キエルケ.コールに水源地を
もつ実存哲学の︑とりわけハイデッガーの不安解釈に平行している
が︑つぎの段階ではまったく逆行しようとする︒ ﹁不安はすべての生体の生活に属す為︒だがおそれ常器はより高等な動物一たぶ
ん人類だけ一に限られているようにみえる︒というのはおそれは
抽象的な態度を前提とするからである︒一⑦対象に対する識別の能
力・過去の経験の記憶︒想像力などがなければ︑おそれは起ること
ができないのであって︑ ﹁おそれは正常な成人の特性であることが 明らかである︒﹂⑧精神病者やこどもや動物の認識は具体物に即してしか行われないから︑かれらは不安によって感触されている︒ 対立するふたつの見解のどちらが正しいだろうか︒不安とおそれを区別することは困難な作業であって︑両現象は発生的にみても相互移行的であるということは発生の時期に大きなへだたりがないことを示しており︑どちらかを一方だけにみとめることが不当であることをあらわしている︒両見解とも人間と動物を不連続的に切断してしまう人間主義的偏見に立っているのである︒⑨ 同様なことが気分全体についていえる︒一というのはハイデッガーにあっては不安は現存を無に持ちきたすところの根本的気分であるから︒彼によれば﹁気分づけられてあること︵気分︶はだがしかしく体験﹀とかく感情﹀とかとしてはとらえられない︒隔⑩また感覚も情感も﹁世︵界︶にある一の情態性しqΦ︷貯自︒げ胃搾に根拠をもっており︑現存がまつ気分づけられているから起るのである︒この気分がわれわれに世︵界︶を見出させてくれるのであるから︑ ﹁われわれは事実︑存在論的には原則として世界の原初的発見をくたんなる気分Vに委ねなければならない︒﹂⑪感覚や感情とことなって︒気分は人間的現存の﹁現 を規定するとζろの実存疇である︒それとともにつぎのような解明がなされる︒﹁石は無世界的である︒植物も動物も同様にどんな世界ももたない︒かれらがその申に附着しているところの環境のかくされた衝動にかれらは所有されている︒これに反し﹁て農夫は世界をもっている︒﹂⑫ 動物心理学の通説は脊椎動物から感情が︑哺乳動物から情緒が起ることを肯定している︒そうするとわれわれは少なくとも哺乳動物のある段階から︑ ﹁気分︵不安を含めて︶存在﹂をみとめなければならない︒形態知覚・色覚・記憶等女を脊椎動物の大部分と昆虫類
以上には現代の生理学は異議なく与えている︒また動物の心理的能
4 一
一
力を現在的な外界認知に限定しようとする因襲的な思想は︑ヤーキ
ーズのサルにおいての実験︑ケーラーの類人猿においての知能実験
によっイ︸うゆりやぶられたQっ︒つい㌦て発表されたアガクム入や・バーyvな
どの業績は︑みとおしの能力の存在をさらに︑不コ・イヌ︒アライグ
マ・ネズミなどにも承認させた︒⑬動物においての知覚や知能や情
緒の存在は︑かれらもまた世界をもつものであることを意味し︑人
聞だけが﹁世.界にある﹂ものではないことを証明している︒
人間を実存させているのは自己を自己の外に投げ︑そして棄てる
ことによってであり︑人間が実存できるのは超越的な目標を追求す
ることによってである︒こんなサルトルの主観主義はつぎのような
人間中心的見解を断言する︒ 門人間はこのような超出であり︑この
超出によってだけ対象をつかまえるのだから︑人間はこの超出の核
心にあり︑中央にある︒人闇の世界のほかの︑人間の主体性の世界
のほかの世界はない︒﹂⑭﹁世界がなければ自己もなく人もない︒
自己がなければ︑人がなければ︑世界はない︒﹂⑯
人間の自己優越のウーアドクサはややもすると思瑠に落ち入りや
すい哲学の歴史の中に︑執念深く生きつづけてきているが︑現代の
哲学のほとんどもまたそのとりこになっている︒デューヰをみてもマルクスをしらべても︑あるいはフロイトをとらえても︑この妖怪
の魔手からのがれていないことがわかる︒ギリシャにさきがけをも
っている⁝神と動物との間に立つ﹂人間観が︑ ⁝考える葦﹂のパス
カルを通って︑一神と動物には不安はない﹂と考えるキエルクゴー
ルの人間の特異化の強調にいたって︑人間の他からの峻別となり︑
それを相続した実存哲学は現代においてはきわだっで尖鋭な人間主
義を露出しているのである︒ ﹁昔は純粋精神的存在として人間を天
使のように書きあげたものであったが︑人間は動物でも天使でもな
い︒両者の問で襲方の規定をもっているが︑しかし餐方のどちらで もありえないと規定しなければならない︒﹂⑮とヤスパースは考えるが︑人間存在の特殊性を鮮明に浮き彫りさせてゆくことに専心するのあまり︑それはほかの存在から切りはなされてしまい︑申間的存在にではなく独尊的な存在となってしまう︒だから﹁これによって動物がどれも人間の祖先ではなく︑生物の大樹における別々の枝であることが判る﹂⑩ようになるのである︒われわれも人間が彼以外の動物に対してもっところのすぐれた差異をもちろんみとめるが︑
一方また人間は人間以外の動物と根源的にはっながっていることが
わすられてはならないこと︑さらにこの注意が現代の哲学状勢にあ
って重要な意義をもつだろうということを指摘したいのである︒
註
①国富鼻①σq鎚aヒd⑦σqユhh像︒門﹀⇒αqωご飴び①お●<・ρω9同︒巳嘗ω・ひQo
②③皆こω・ま
④口ΦaΦσqぴq2≦器δけ罎Φ冨9団ω算田ω●嗣
⑤国ξけOo5ω8言自鐸ヨ算︒昌づ餌言Hρ℃●β
⑥⑦ま置こ頃.潟
⑧陣げ嵐G℃・撰
⑨不安とおそれについてのよ.り精細な展開については拙稿﹁不安一実
存躊の科学的研究一﹂長崎大学⁝教養部研究報告第ご巷第二号参照
⑩国①置ΦαqσqΦ憎<︒ヨ≦Φω窪畠Φ増霜β︒訂冨芦ωμQ︒
⑪団Φ鑓Φσqσq①門ωΦ二野づ師NΦ芦ω・屋︒︒
⑫口Φ乙︒σqσqg躍︒訂≦①σqρω器i撃
⑬ラッセル︵永野・石田訳︶﹁動物の行動﹂第八章
⑭ω錠茸①い︑①首舞自二9︒=加ヨ①①ω叶離口げロヨ①巳︒︒日ρ℃・Oもゆ
⑮ω三三Φピ.Φ嘗⑦一一鼠き計即忘O
⑯ヤスパース︵内山・西丸・島崎・岡田訳︶﹁精神病理学総論し上巻十一 頁
⑰同書十ご頁
5 「
一
四
実存哲学のもつ焼過主義的性格については早くから指摘され︑そ
の克服の努力は実存哲学の内外で試みられてきたの︐であるが︑実は
実存哲学の建設者たち自身においてもこのことはすでに警戒されて
いたのであった︒
ハイデッガーは﹇現存は本質的に彼自身において共存蜜帥誘Φヨで
ある﹂①と言う︒ ﹁現存を︿世界にある﹀として開明したことは︑
世界のない︑たんなる主観がまつあるのではなく︑またけっして与
えられているのでもないことを示している︒したがって同様にけっ
きょくは孤立された自我が初めから他人なしで与えられているのでもないのである︒レ②彼はまた門現存は彼をめざして鐸ヨ≦崔窪実
存する﹂という命題老提出したあとで︑﹁他人のために自己を犠牲
にするとか︑いっぱんに人間は自分ひとりだけで実存するのではな
くて︑社会において実存する﹂③というようなことを言って反ばくしてはならないと述べている︒というのは前出の命題の中には﹁現
存の孤我的な孤立化もなければ︑現存の利己的な高揚もない﹂④か
らであるとされる︒
ヤスパースは彼の﹁交通貯︒日日ロ昌涛9︒鉱︒昌﹂の開明にもうかがわれ
るように︑ハイデッガーよりは現象学的イヂアテイオーソがうすく
なっている︒ ﹁意識が対象なしにはないように︑自己意識は他の自
己意識なしにはない︒﹂⑤私が私自身をうるのは交通においてであって︑交通とは他とともにある生活である︒しかし現実的な現存と
の交通にあっては不満を感じ︑たがいにとりかえることのできない
自己としての実存の交通へ進む︒ ﹁交通においてあることなしには
自我は自我となることができす︑孤独であることなしには交通に入
ることができない︒﹂⑥ サルトルになるといっそう他者の存在の影は濃くなってくる︒人間を個人の主観の中にかこんでしまうとの実存主義に対する非難を︑ひどい誤解だと彼は言う︒デカートの﹁私︐は考える︑だから私はある一から彼の哲学は出発する︒そのわけはそれが意識の絶対的真理であって︑それからはなれるならばすべての対象はただ蓋然的なものとなり︑虚無の中に崩壊してしまうからである︒しかしこの主観はまったく個人的なものではない︒ 門︿私は考える﹀によって︑ヂカートの哲学とは反対に︑カントの哲学とは反対に︑われわれは他者の前に立つところのわれわれ自身に達する︒他者はわれわれにとってわれわれ自身と同様に確実である︒﹂⑦他者は自己の実存の条件であり︑そしてこのことは他人においても同様に言えることであって︑主観はまた相互主観一︑曽8湧鐸げ冨︒瓜乱舐であったのである︒ 実存哲学は個人の内部的確実性を拠点として立っている︒サルト
ルは端的に﹁われわれの出発点はじっさい個人の主観である﹂⑧と
表明する︒まつ︑人間の内部的意識の確実性にたよる間は︑どんな
に社会を論じ世界をとらえても︑その哲学は観念論をのりこえるこ
とができない︒実存哲学を観念論と実在論との止揚と解するみかたも行われてきたが︑マルクシストとしてル駆引チが第三の道をみと
めす︑実存主義を観念論の陣営に入れているのも理由のあることで
ある︒⑨この立場では︑自己の存在以外はみな︵物の存在も他の人間の存在も︶影像化されてしまい︑その外へ一歩でも出れば無にお
ちこむ︒現存あるいは実存とは︑無にびきいれられ︑無を底にも
ち︑無をいだく存在である︒もちろんこの無はほんとうは人間にと
っての無︑つまり虚無感にすぎないのである︒実存哲学のニヒリズ
ム的性格の哲学的根拠がここにある︒つぎに実存哲学は︑ ﹁実存は
いつも個人である﹂⑩と言うキエル〃ゴールの思想を体得して︑ひと
6 {
一
りの人問を立脚点とする︒この思想態度からは︑現実に存在するの
は個人であって社会ではなく︑後者は︑個人によってオーガナイズ
された生活の場であるという見解を生むことができるが︑しかし実
存哲学はそこまで進んでゆかない︒実存哲学は個人を社会という場
において有機的に結合させていないから︑個人は性格をもたない︑
白和的存在になっている︒ ﹁交通﹂はこんな個性のない野手のかか
わりあいであるから︑ ﹁自身になる﹂が孤独化を意味するのであ
る︒社会においてこそ個性化が進み︑本来的に自己に到来するので
あるのに︑ハイデッガーにあっても引倒した解釈が行われる︒彼の
﹁共存﹂というのは︑自己と他人とが無差別的にあるところの申和
的な﹁ひと﹂としての存在を指すのであって︑ ﹁公共的存在一も現
存の日常性においての存在規定にすぎなくなる︒こうして実存哲学
の懸命な哲学的精進にもかかわらす︑他人の存在は影像化され︑つ
いには自己の申に包含されてしまう︒個人の内面的確実性の足場を
ぬけ出さないかぎり︑実存哲学は孤我主義的性格をぬぐい去ること
ができないのである︒
いましばらくわれわれもサルトルの言う﹁実存主義の出発点﹄に
戻って︑吟味を加えてみよう︒我の明誰とともに他我の存在も照明
コ りされる︒我を知るのは非我によってであ妖︑さらに非我の存在がな
ければ我の認識も存在もないからである︒ ﹁私がそこにありまた考
えながらあるからして︑私は私がそこにあるということを考えるの
である﹂⑪というキエルケゴールによって発掘された地盤を︑サルトルは忘却している︒いったい自我の存在だけを唯一っの絶対的に
確実なものとしているのは︑おかしなことである︒もし非我iあるいはヵγトにならって物自体と言ってもよい一が認識できない
とするならば︑それと同様の程度において自己の存在自身も認識で
きないとされなければならない︒またもし自己の存在を知ることが できるというならば.それと同様の程度において︑非我の存在も知ることができるのである︒ 実存哲学ももちろんそうだが︑ぜんたい︑哲学は個人を点のように考え︑いっきょにその認識ができるかのように思いこんでいる︒自我の存在とともに明らかになる非我には︑他の人間ばかりでなく物も含まれている︒そこに世界が開示され︑世界においてある自己があらわれている︒だが現代科学はさらに人間の個人の存在もまたびとつの世界であることを教えている︒トポロジー心理学は個人の内部のゲシュタルトを内的場として観察している︒生理学も生物体の内部に﹁外界㎜をみとめ︑むしろその研究が外部の外界についての探究よりは.より重要なことを発見している︒⑫人聞の身体の申には彼自身でないところのもの1空気・水分︒体液︒骨儲・色素・細胞内の形成物質︵澱粉︑油脂等︶︒多数の植物や動物が存在し生活している︒人聞は分割できない点であるどころか︑ひとつの宇宙を形成しているのである︒人間はこのようにして内部的にも外部的にも﹁世界においてある﹂ものなのである︒ハイデッガーの﹁世界にある冒ムΦ学ぞ9掌oQ魚層は個人の形式的規定にひきさがっている︒サルトルにあっても︑自己を投げかけ︑棄て去り︑空虚としての可能へ向ってゆく一これは即自①亭ωo陣と対自娼︒葺・ω9とのつきることのない関係にすぎないのだが1人間の運動を︑﹁自己︵自身︶の回路Ω8§常一︑甘鼠陣欲﹂と名づけた⑬あとで︑世界をそうゆう自己の回路においての旅路としての存在の全体として規定している︒自己になるというのはほんとうは個性化貯象く乙§房髄ぎ昌であって︑広がりとゲシェタルトをもたないものには︑個体的差はない︒このようなわれわれの考察からはじめて︑﹁距離﹂と﹁方向性回をもった﹁空間性幻餅譜ヨ膏げ脚⑦三の規定が︑ハイデッガーとちがっ
た実質的な意味をもってとり出されてくるのである︒
7 一
「
実存哲学では人間の存在にすぐ無がまとわりついてくるというの
も︑その思惟が人間の存在を人間から始めようとする人聞主義にと
りつかれているからである︒このごろハイデッガーの転向が話題に
なヴているが︑それは彼の解釈の重点が現存から存在へ移ウてきた
というぐらいのちがいにとどまるのではなかろうか︒人間以外の動
物や植物や自然物や文化財などが目前的存在・道具的存在としてひ
とからげにくくられ︑一般化された個人の形骸的存在だけが大きく
世にうっし出されている存在論の構造そのものが改築されないうち
は︑転向はみとめられないだろう︒
人間存在の解明が点的把握から場の理論へ昇ってゆくことによっ
て︑人間の内面的・外面的記述という難解な課題も︑微視的立場と
巨視的立場の視点転換という態度による解決がみとおされるような
気がする︒主体的行為と客観的存在との相克も︑運動と存在との関
係のように︑微分・積分の演算変更によって解答がえられるのでは
なかろうか︒一方また︑自然科学はもちろん人文︒社会の科学を含
めてすべての科学が︑たぶん物理学の革新的方法にみちびかれて︑
進歩を遂げ宇宙や社会や人間についての認識が高められるにつれ
て︑人間自身の内部についての認識も掘り下げられてゆき︵という
のは人聞はひとつの世界であるから︶︑ 認識論は旧世紀の遺物とし
て哲学史の申に記せられるにすぎなくなるのではないだちうか︒
註
①国Φ筐︒σQσq︒円ωΦ冒穿N①津噛ω・這O
②国①帥&σqαq︒﹃二三傷ω●⇔ひ
③④国︒試︒σQσQΦ二く︒ヨ芝Φω窪9ωO円ロ&①ω.ω●署
⑤冒超Φ円ω勺三δ︒︒8圧ρω・︒︒島
⑥冒紹︒房二夕山・矯ω9︒ら︒︒
⑦ω碧窪①い︑o×糞魯二巴凶ω§Φ㊦馨離憎げ目ヨ9︒三ωヨρ℃・ま ⑧ω母嘗︒二心ρ℃ひ︒︒⑨ω賢君︒国箆ω冨三㌶房ヨ嘗鎚の・ξヨ宣ρ℃三冒8℃ξ︵︒﹃普︒ hβけ郎﹃ρ℃ひ¶図i切圃ら⑩⑪峯Φ筈︒σqβ︒帥aZ⇔6房︒ぼ一h計飴びΦ屋●< ω︒訂︒ヨoh第二部ω勘﹃⑫山羽儀兵﹁科学叢話﹂七八頁ただし.これにつづく叙述は私が変 改を加えている︒⑬ω霞言︒くゆ需①Φ二〇鼠器び℃.同ま
五
社会についても哲学は︑動物学はもとより生態学や生物社会学な
どに一視もあたえす.人間だけが社会的存在であるという人間主義
的ドグマに陶酔している︒動物心理学者のシュニーラは動物の心理
的能力についてのこれまでの逸話主義︑・類推・劇場の偶像などによる
あやまりを綿密に検討したあとで︑なおつぎのように述べている︒
﹁毘虫から人間の社会にいたるまでのびじょうに異なった社会にあ
る群居的な行動の過程に︑根本的には洞様の生物学的要因が探しも
とめられる︒﹂①今西博士は精確な観察と透徹した論証によって︑
伝統的な社会観がどんなに人間本位的なものであったかを解呈し︑
科学的な社会定義を行い︑生物のさまざまな社会形態を展開してい
る︒②生物学主義的な社会観の主張ばかりでなく︑博士はまた人間
と動物とを通じてあらわれているカルチュアを研究する o巳9目巴
ぽ︒δσq機を提唱するが︑③シュニーラも﹁人種心理学的な意味にお︐
いての文化は.彼より低い霊長類に欠けてはいない﹂④と言ってい
る︒動物社会や動物文化についてとともに.動物社会の原初的道徳
について私は未熟な見解を発表してきた︒
人類が彼の前段階に動物の社会や文化をもっているということ
は︑人聞の内部においてもそれらの痕跡が残っていることを予感さ
8 一
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せる︒だがこのことの究明を行うかわりに︑ここではまつ現代以前
の人類の社会のひとつふたつについて例証しておこう︒民主的な現
代入が生活環境の変化によって封建的人間に変貌することをナチの
強制牧容所という冷酷な実験場が物語っている︒⑤ヤスパースの
門ナイーヴな現存においては︑私は万人がなすことをなし︑万人が信ずることを信じ︑万人が囲えることを考える﹂⑥との解明はハイ
デッガーの矧ひとゴ共同世界﹂の解釈に応じており︑この非本来
性とされたありかたは︑われわれが生存の底に体験しているもので
ある︒そしてそれはヂュルケムが﹁集合表象⁝と名附け未開人の特
性としてあげたものにほかならない︒
このように人間存在は内部的にも外部的にも歴史的なのである︒
といっても歴史性は︑空間性もそうであるが︑人間の専有物ではな
い︒ハイデッガーのように︸開存する人聞だけが歴史的であ﹂り︑
﹇︿自然Vはどんな歴史ももたない一⑦というような割りきった観念に落ちいらすに︑すべての生物がそれぞれの生活史をにない︑無
機物でさえそれぞれの履歴現象をもっていることに注目する方が学 リ ロ ほ コ問にとって有意義である︒いっぱんに個性が成り立つのもこのよう
な歴史性においてである︒
実存哲学で歴史性︵あるいは時間性︶が空間性に対して優位を保
っているのも︑その入聞主義のためである︒ いま道徳を例にとっ
て︑それが未開社会的なもの︑古代国家社会的なもの︑申世封建社
会的なもの︑近代資本主義社会的なもの︑現代社会主義社会的なものという段階をもって進んできたとの説を借りてみよう︒このよう
な継列は人類史的にみられるばかりでなく︑地域的にも発見される
のである︒民族的には未開民族ーアジアの後進社会il欧米社会
の系列に︑ 一国の申では.避地i田舎−都市の系列において︒さ
ちにわれわれ個人の内部においても生活史的にま%ゲシュタルト的 にこの堆積を見出すことができる︒過去も未来も現にあるものとしての現在にしか堆積していないのであって︑この点では空間性の優位を容認しなくてはならない︒時間性と空間性は事実は等しい重さであい応じている︒現実的な存在は空間的︒時間的な庵のとして世界において形態と方位をもっているからして︑われわれの行動に恣意をゆるさない︒実存哲学が門墨画野選投﹂や⁝状況にある﹂などを説きながら︑現実社会においては相反する活動に利用されたのも︑その規定が広さと拡がりと方向附けをもたない無内容なものであったためである︒ 現実的な世界では人間は他の動物や植物や無機物と共存している︒これらのものがなければわれわれは︑存在もできす︑生きても行けす︑丈化も起らない︒われわれはむしろこれらの低い存在者に基礎づけられているのである心このことはもちろん外部世界的にばかりでなく︑個人の内部世界においてそうである︒人間は彼の生涯においてアミーバーから始まる下等生物の発展史をくりかえすと言われるが︑彼がく理性Vを失ったことは野獣的存在に︑眠っているときは植物的存在に︑死んだときは無機物にかえるとも考えられよう︒このさいすぐに発せられるだろうところの︑こんな言説の非科学性の非難に対しては︑本川博士の脳波についての所説を借用することによってひとつの返答としておく︒ 一麻酔がさらに深くなると脳波がいちじるしく簡単になってくる︒ いわゆる分化消失である︒下等動物の脳波には局所的差異が少ない︒﹂⑧﹁脳波にみられる個人差が睡眠状況では消失して一様になる傾向があること︑および唾眠時の脳波が初生児の脳波に類⁝面していること︑また病的脳波がやはり唾眠時の脳波に近いことなども生物学的医学的意義が少なくない︒﹂⑨ こんな洞察は人欄存在が彼より低い段借の存在へ転落する傾性老
9 }
」
もっていることを明らかにする︒動物はなにか困難な状況にであっ
たときは︑よりたやすい場面に逃.避して安定をえようとする︒スポ
ーツ・遊戯・飲酒なども人生のたえがたい生存競争を単純な競争の
場面にすりかえようとするものである︒ハイデッガーによって﹇︐頽
落︿①鳳塾窪﹂と名づけられヤスパースによって﹁没落﹀げ当国三と
規定されたできごとを︑われわれは臨床心理学の⁝︐退行濁ΦσQ袋の串
︒瓢﹂によって解明する︒サイモンヅの言うように⁝︐退行は発達にお
いての後方への足取りび碧ド壌輿傷ω8唱である︒﹂⑩社会の混乱期
には享楽・陵疑・無欲等の一連の筆墨主義的行動がはんらんするの
が常である︒孤我主義は社会生活以前への後退として解されるだろ
う︒分業が進み個性化が仕上げられてゆくに応じて︑個人は自由を獲得し︑責任を課せられる︒この社会的地盤の上に不安が生起する
のである︒だから不安はホーネイやルカーチなどが考えるように資本主義社会の特産物ではなく︑またあってはならない︒むしろ古い
社会制度が崩解し新しい社会組織がまだみとおせない転形期に.不
安の︑度を過した偏よった露出が起ると言えよう︒
だが退行はわれわれがとりのぞかなくてはならない有害無益なも
のであろうか︒たとえぼ︑未開人の単純な生活状態へ︑動物の野獣
的行動へ︑植物の静止的生へなどへ退行することによって︑われわ
れはエネルギーを蓄積し︑⑪生の根源からの新しい活動へ立ち向っ
てゆくことができるのである︒創造的な文化活動の高まるにつれ
て︑いよいよリクリエーションは強く要求される︒実際われわれは
毎日の生活にあって退行を行っている︒高揚と転落の一反覆一は︐
歴史性をになう人聞にとって︑.避けることができない生起である︒
実存哲学の代表者たちはあいついでヒューマニズム論を公刊し
た︒ ﹁存在の真理を考えることは同時に人間的な入間のヒューマニ
ティを考えることである﹂⑫とするハイデッガーの深い志向も︑ 人聞的現存だけが存在の牧人とされ︑たんなる存在者でないところに人間の特性を見出そうとすることによって︑機械の部分品になり官僚制の中の紙片をつとめている人間的実存をその本来の対象化されない無規定性にかえすことによって人間の尊厳をみとめようとするヤ入パースに通じてゆく︒そうしてこのふたつの思想の実質はけ
っきょくは︑ ﹁人間は彼自身がこしらえるところのものである﹂⑬
として. ﹇彼自身より外に立法者はいないということを人間に思い
おこさせるから︑ヒューマニズムである︸⑭という徹底した人間回
心主義において人間に威厳を附与するサルトルに帰着してゆくこと
ができる︒人間をほかの存在︵神は別問題としなくてはならない︶
から切り取ることによって︑かれらのヒューマニズムは唯我独尊的
なものになっている︒われわれは社会生活の変化によっては野ばん
人のような道徳性に転落し︑もっとひどい環境では無道徳状態に没
落してしまうことを体験してきたばかりである︒ヒューマニズムは
人類史のはじめからあった︑ものではなかったし︑人間の実存に根源
的に附着しているものでもない︒人間の立っている場所を高さによ
って測り︑しかもその高さが︑非人間的な低さへいつでも落下する可
能性の危険におびやかされ︑いざなわれているものであることを理
解することが︑ヒューマニズムの正しい把捉なのである︒
ハイデッガーの存在論は現存や存在の意味を追究する哲学である
が︑人間存在の意昧は人間でないところの多くの存在者まで根心的
に掘り下げて観察することによってえられる︒たとえば人間の社会
やいろいろの文化の意味は︑社会や丈化がはじめて発生した動物に
まで探究の目を降すことによってあきらかになる︒人間の認識に応じて世界も認誰されるし︑この逆もまた正しい︒またこのような下
降とは反対の上昇によって人間の目標が与えられる︒この仕事のた
めには人文︒社会・自然の各系列にわたる諸科学の連結と統一が必
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【
要である︒このばあいにできあがるところの﹁世界学﹂︵これは哲
学的人間学のように諸科学の混合ではない︶とも名づけられる学問をまだ科学の領域に残させておくのがよいのか︑あるいは科学の全
領域にわたるために哲学として分科科学から区別した方がよいのか
を決定するみとおしはいまの私には欠けている︒ただこの小論の目
差したところは︑突飛なまでに舞い上った形而上学的思潔を常識人
の科学的教養にまでひきおろすにあったことを告白して︑稿を閉じることにする︒ 1954・6
註
①臼.ρω9器費冨ピ①<9ω一昌暮︒℃署9巳︒ひq8巴︒2︒層曽︒三①の︒h
降︒三旨巴ω⁝℃三δωo勺げ団ho鴇叶げΦh9¢円ρ剛・悼○◎O
②今西錦司﹁入間以前の社会﹂参照 ③今西錦司編鱒﹁入闇﹂参照
④ω︒ぎ⑦三9︒二ぼP即b︒謡 ⑤井村恒郎⁝﹁現代病﹂第一章
⑥冒呂Φ毎⁝勺財出︒ω8三pω・g︒ωO
⑦国①嵐ΦσqαQ興<︒日≦①ωΦ昌α・話鋤ぽげ蝕計ω﹈ひ
⑧本川弘一﹁脳波﹂ニゴ三頁 ⑨同書一二四頁
⑩℃・蜜.ω嘱ヨ︒昌島ω日冨身器ヨ凶8︒hゲ¢日自・旨呂冒の梓臣2計頃・口鍵
⑳ブランツ・アレグザンダー︵井・村・懸田・佐々六訳ご﹁理性なぎ現代﹂ 五六頁
⑫出Φ崔ΦαQσq窪帥び魯9ロ頃億ヨ餌p帥ωヨ偉9ω馳圃
⑲ω錠㌶Φ∴﹇.Φ恩︒・g三ご=ωき︒Φの↓口づげ露旨①巳︒︒旨ρ聞●鯵
⑭ヨ一9勺.潟
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