フッサールにおける生世界 : 厳密学としての哲学 という見果てぬ夢
著者 浜渦 辰二
雑誌名 文化と哲学
巻 9
ページ 55‑74
発行年 1991‑11‑01
出版者 静岡大学哲学会
URL http://doi.org/10.14945/00006865
し も
じ ユルゲン@ハ
iパiマスは﹃コミュニケi
ョン的行為の
の
く で
ょ︑
つに
し て
しミ
O
づけの試み
( F
Z N
S a
ュz g m
ω
︿ 号
ω出
口町
巾)
::
:は
すべ
て挫
折し
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まっ
︒﹂ブッサiル 基礎づけの試み﹂として特徴づけられる限り百
この
lま
ッサ
iル
にも向
てい
と ら そのとき︑このハiパiマスの
は︑晩年のフッサ
iルが
の
の一つに
しミ
出させる︒﹁学としての哲学:::厳密な学としての哲学
l i この
てられた己
( ︿ 円
‑m
、 世
'‑
﹁無歴史的ア@プリオリズム﹂を標携していたフッサ
i
ルが
︑
の み
わ ば
一一寸
ブ
ラとし
ぶち当たり︑超越論的主観性という根源から厳密な学としての
と解されたこともあった︒そして︑
あげようとしてい
が挫折し
こと
吐
露するものである︑
﹃ 危
機 ﹄
において生活世界とい 景 に 出 て き た こ と
(言
わば
︑
﹁生活世界への転回﹂)
もこの挫折の脈絡において理解され︑
ブ
ツ
サ
jレ
の 関に
55
﹁超越論的主観性の現象学から生活世界の現象学への転回﹂を見ょうとする︑あるいは
(フ
ッサ
i
ル自身はそこに
ら
なかったにしても)少なくとも可
そこに現象学の可能性を見出そうとすることが多くの現象学者によって試みられた︒
とすると可
さきほどのハ
lパiマスの言葉も可
このフッサ
lルの挫折を踏まえた上で︑
この挫折によって開かれた生活 世界という荒野に︑﹁コミュニケーション的理性﹂という新しいアイデアをもって︑開拓に乗り出すことを
る も のと考えることができるかも知れない︒
いま引用した﹁厳密な学としての哲学という夢は見果てた﹂というフッサ
i
ルの
することは誤解であることが︑早くから指摘されており︑多くの研究者がこれに同意している︒すなわち百この
しかしながら可
このように解
lま
自 分 が か つ て 抱 い て い た に 破 れ た 挫 折 を 吐 露 し た も の で は な く 可 当 時 の ひ と び と が
︑
(精
密
さ と い う ) 道 を
誤った厳密∞可
g m
さ ︑ (実証主義という)道を誤った合理
して百厳密さそのもの百
そのものを ててしまい百哲学を単なる世界観ではなく学(若宮内出
ωの宮内同)
る︑という当時の
(ドイツの)哲学的状況を嘆いたものである可
として築くという哲学本来の精神を放棄してしまってい というのである︒しかし可このように誤解を正したか
hh
ソ ト ﹂
って
可 そこから導かれるのは可﹁フッサ
i
ルはかつて抱いていた
やはり捨てきれないでいた﹂
とか
︑
j舌
世 界という構想を発見しながらもー
かつての意識哲学の枠から抜け出ることはできなかった﹂という結論では必ずしもな いであろう︒むしろ︑﹁転回﹂があったと
にせよなかったと
にせ
よ︑
一方の超越論的主観性に基づく厳密な学 としての
いう﹁夢﹂と百他方の
活 世 界 と い う
lま
と や
¥ それぞれ切り離して相容れないものと
して対立させたうえで百
から他方への
﹁転回﹂を云々するという︑
その間いの前提そのものに対して疑問が向けら れるべきではなかろうか︒そこで小論では百
ブ
ツ
サ
jレ
は 見 果 て る こ と の な か っ た
と は ど の よ う な も の で あったのかを検討することによって︑
助としたい︒ その
一一寸
'言ぢ57
L一一
の挫折後に描かれる
のハ
iパlマスの﹁現実﹂たる
活世界論を 察するための
/筒、、
一、h醐J
フッサiルは
﹁ヨ
ーロ
ッパ
の危機﹂をどこ ω ) ︑そしてもう一つに百
そ れ に よ っ て
﹁理性への
rt (l)
口
、‑./
を な お ざ り に し て
った
治宝
いる
︑ と い う 状 況 に 彼 は 危 機 を 見 て い のであ
しての哲学が︑
疎 外 す
ので
もー
に追随して
︿哲学と学と生﹀
の 統 一 を 回 復 す ことで
る︒それは可
と も
︑ 学 を 拒 否 し た
を 委 ね て し ま い か
コ争 一二
て ふ / ふ /
O
れ ゆ
が崩壊したこと﹂
て い る か と
平 ﹂︑ ︑
︑
MY
︑ 午︑ 込
' 計 官 ︐
刀
に追随して
しミ
理主義﹂
でもない百本来の
(彼
は
フッサi
ル の 現 象 学 的 哲 学 は ど の よ う に し て
の和解を けようとするのであろうか︒
のブッサ
i
ルは
︑ 導入しているが︑
そ れ は 司 自 然 科 学 の
け を 世界に
けという考えは︑
の研究者によって
じ ら れ て き た
いるように見える︒
そ こ で の 議 論 を ま と め て み よ う
︒
﹁ 自 然 科 学 の 忘 れ ら
ご ︑ ρ R H γ /
争 時
t心み式1
しふ ム
の とも呼んでい ろ う と す
a
・︑
a
可t 3 V
た 世界の
lま
したこと﹂
一つ
には
百
ど︿ ル∞
∞巾 ロ∞ の町 内戸 市
治宝
てしまって し て か ら 脱 出 す 向 け
し のでも に哲学を
け て し ま い か とも挟を分かちー
一一寸
¥ 』 戸 /
{9
)
︒
し こ と
れ で
は によって の 忘 れ ら れ た
として
(︿出品川山)
のだ ︑A咽
円 以
︑ っ ︐ 刀
tところが︑この
ら という問題によって︑
く批判さ としての
世界
﹂
したブッ
とい︑っ
に知覚的に
され
可能な ルは︑すでにガリレオにおいて︑﹁数学的に
された理念性の世界をー
ら れ 世 界
l l
我 々 の 日 常 的 生 世 界 と す り 替 え る こ と
﹂
(︿円品川
W )
が 生 じ て い る と 指 摘 し
︑ 数 学 的 世 界 を
﹁ 発 見
﹂ したガリレ
、 と
て 、
57
オは同時に生世界を﹁隠蔽﹂してしまった
( ︿ 日 ・
ω ω
) と主張する︒ここでは︑﹁原理的な直観可能性の宇宙としての生 ︑
世界
﹂(
︿日
・
5 0 )
と可﹁原理的に直観不能なぷ珊理的u
構築物としての客観的に真なる世界﹂(在三
との対比が有明確 に打ち出される︒幾何学的自然科学的な数学化において生世界に﹁理念の衣﹂(記
‑ E )
が被せられると言われるがー
とす
ると
可
世界はこのような﹁理念の衣﹂が被せられる前の百その意味で﹁純粋直観﹂﹁純粋経験﹂の世界というこ
とになろう︒ところが︑他方で︑この生世界は初めから﹁我々の日常的な生世界﹂
(
︿ 門 仏 ゆ )
とも呼ばれる︒そして百
この意味での世界をその十分に具体的な姿で捉えようとするなら百
それ
は百
ば文化的歴史的な﹁沈澱﹂をもった 世界であり︑
そこには学問的な成果も文化的遺産として﹁流入﹂してい
こと
にな
る︒
レピやワープロといった科学 技術の産物が日常生活のなかに入って来るばかりでなくー自然科学的な世界観も日常生活のなかに
してくる
( か
つ
ての天動説に代わって可いまでは地動説が常識となってい
)︒
﹁理
念の
われた世界の方が活においては
具体的な経験を成すこともあり百逆に︑﹁理念の衣﹂に
われない純粋経験など抽象の産物に過ぎないとすら
える
︒
しか
し可
そうすると︑初めは明確であるかに見えた自然科学的世界と
世界との対比は︑だんだんぼやけてきてしまう︒
ここに世界の一義性﹂と指摘される事態がじることになる︒れはフッサiル
つ
次のように提出さ れ
︒﹁具体的
世界はグ学的に
るu
世界に対して
礎づけを
盤
であ
と同
時に
︑
その
的 具体性においてはこれを包括している︒;;グ客観的に
るd 世界とρ生
世界
グ のこの逆説的な絡み合いは﹃両方
の存在仕方を謎に満ちたものにする︒﹂
同 一 に )
このフッサl
ルの
によりながら
U@
クレスゲスはー
一方
の
ρ客
観的に真なるμ
世界との対比における
(狭義の)生世界と﹃他方のそれをも包括する
(広
義の
)
世界との﹁ニ義性﹂
を指摘し百そこから
と批判し目︒基本的にはこのクレスゲスの議論に依りながら百 に百﹁狭義の概念も広義の概念もー要求されているような基盤機能を引き受けることはできない﹂
B@ヴァルデンフェルスは更に次のように言︑っ︒生世界
には普遍的たることと基底たることが同時に要求されているが百
も で 底ではないし︑逆に可普通的な基底であるかぎり具体的歴史的なものでは出 ない︒そこからもう一歩進めて︑彼は厳しい批判をフッサ
i
ルに向けた︒すな
い﹂がゆ
苧
﹂
1
︑ ︐
e eh M篭
たりえ
、
、
﹁ブ
ッサ
i
みは可基底とされているものー
つまり可知覚の世界としての
世界
︑
︑ぺふふ
ー も ︑
?eh" 警
し
し か規定されていないがゆえに挫折している﹂
ので
あり
百
、"
に町田
らの
、も
つ
えにたてられることはありえない﹂
と い う
﹁ 意 味 の 無 底 性
L一一
と
ア
ン
フェルスは
張するので
る
この
治宝
けの
治宝
ハミ
挫折した﹂とい
し
/¥
ノt
て
スの言葉を訪併とさせることは
までも
まい
︒ しかし有生世界を基底としてそこから
け ことにブッサ
iル
しミ
つ
つ
O
も も
、 匹
」ー
の議論のもとになっている
世界の二
もフッサ
i
ルの
しミ
ってい
つ
O
ここで
グィi
レの
ことに耳を傾けたい︒彼によれば百
において
、
、
と 比 ﹂
ではなく︑
むし
ろ百
﹁対比の止﹁二つの世界の和解﹂
の
あ円
︒
サ
ら い﹂を﹁逆説的﹂とか﹁謎﹂とか呼びながら︑何ら
く︑慌て
︑っ
とも
して
い
しミ
; テ
ることになる︒﹁対比﹂ではなく﹁止揚﹂
であるかどうか
ともかくとし
、
、
イ5
11
レの主張で
のは
︑ 彼
が
デiン
のω節とつω
仔持 こ
に
υ L N際 ぃ 日
JU
ち つ
1
さ
ているとして︑
そこから
出す結論である︒すなわち︑
デiン
ムー
晶︑
験という基盤の上に確立される﹂
とか︑知覚された物の
に主観的﹂
ことによって物理 学的思惟がそこから取り出して仕上げた﹁客観的﹂な物が物理学的な物なので
む ∞ ) ︑
とい
が述べられ
ている︒それゆえ︑アグィi
レによれば可自然科学的な事物と知覚的な事物という二つの事物があるのではなくー の事物の異なった規定に他ならない︒更に可彼はフッサ
lルの次の それ
らは同
に注目する︒﹁物理学的なより高次の 超越でさえも有意識にとっての可ないし認識主観として機能している各々の自我にとっての世界を超出することを意味
しな
い︒
﹂
ト4
要するに可
ブッサi
ルのここでの狙いは︑意識主観を離れてまったく自体的に存在する世界とい
う虚構を暴くこと可すなわちー
アグィ!レを引用するなら可﹁科学の自体的に真なる世界についての言説の射程を相対 まさに最終的な︑王観なき自体存在という考えを虚構としてその仮面を剥ぐこと﹂だと
のである︒彼のこの主 化
し 張が的を射たものであることは可次節において
世界という思想がそもそも現象学の根本概念である志向性から
まれ
たものでることを確認するとき可はっきりするであろう︒
f醐 『
一一
』同#〆
周知のように可フッサi
ルはブレンタ
iノからびとった志向性の概念を可三忠一識とは何かについての意識である﹂
という意識の一般構造を表すものと
た︒しかし可
れを意識の﹁内﹂と﹁外﹂とを﹁魔術的﹂な仕方で結び付けて くれる靭帯のように
とし
たら
百 それはまったくの誤解である︒むしろ有意識を何か箱のようなものと考え︑箱の
内と外と同様な仕方で可
(あるいは心)
の内と外とがあるかのように考えることを退けること︑すなわち﹃関じら れた﹁内﹂とそれと関わりのない
﹁外﹂という考えを共に退けることこそ可志向性という概念に託されていたのである︒
れ
れ ば
で﹁無世界的な意識﹂と可他方で﹁いかなる意識にも依存しない世界﹂という二つのものを立てて百 いかにして両者に橋を架けることができるのか百
と問うのは根本的に間違った関いの
て方なのである︒K@ヘルトの
借りれば百﹁志向性の概念とともに可
いかにしてさしあたり無世界的な意識が自分の彼方にある
ρ外的世界グ
ノ ¥
の関係を結ぶことができるのか百という近世グさことに
で
O
それゆえ︑現象学的還元を﹁無世界的﹂な
(半分はフッサiル
ら
いてしまった
だが)
しではならない︒それは︑世界を
わ せ
ので
はな
く︑
で
甲﹂しら
O
ち ︑ 自体的に存在する世界という仮説を括弧に入れー世界を
こ と
︑
志向性に
いて
するのである︒志向性とは百﹁主観│客観﹂
こと﹂を主張するものであり︑
という図式
打 ち
、
日i
iG
@
ガ
マー
の
つ
ぅ﹁
間
すれ
ば︑
﹁内
﹂
と﹁
外﹂
とい
う
打ち破
、
、
ヘルトの
しての現象野を表示するものなのである︒世界という概念も︑
、 世
'‑‑
うな志向性の
ま れ
も
に他ならな
ぃ︒すなわち︑世界のないはない
(︿ 呂
‑ M 叩 寸 )
とと
もに
︑
の
世
lま
しE
O
フッサi
ルは
で
も︑
﹁生
世界
(ピ
宮口
∞者
向日
門)
﹂と
い
並んで
(目
立た
いが
て
( 垣
内 在
与 g )
﹂
/戸司、¥
N
∞
∞ 同 唱 同 町 山 市 山 )
という
葉も使っている︒﹁生世界﹂
という概念において
﹁ 生 ﹂
の概念との概念が結び付けられてい
こと
は︑
は世界生と不可分であり︑両者は相互依存的な﹁相関関係
のうちに
、
、
とい
︑つ
こと
してい
O
生
(主
観)
への関係性を持つ
しミ
O
し
がっ
て百
ンマi
は世界へと関かれているとともに︑世界は生
が﹁志向性は生世界の距芽である﹂と
ょ ︑
つ に
百
世界とい
の
は志向性なので
O
しかし︑志向性を単に﹁何かについてのいてのみ捉え
とし
たら
︑
れはまったく
向性についての理解に終わるほかなく︑志向性から世界への
lま
がれてしまおう︒
ブッサ
iルはししばデカル
トに倣って﹁コギト﹂という語で志向的体験をしたとしてもー
決して能動的@
(﹀ 宮)
味だけで理解してはいなかった︒既に
﹁イ
デ iン
においても彼
、
﹁我
あり
﹂
間的な点的なコギトに
いてで
61
はな
く︑
﹁流れのうちにある生﹂
( 日
‑HCG)において捉えている︒︑だからこそ︑
ブッサ!ルは︑
牛込 しい いL
自 ハ =
L P
q J
トし
えノ
白日
以チ
ゃい
p日
体験の
に︑すなわち規定可能的未規定性の
﹁地平﹂に取り固まれている︑吋∞wHOH)
と
ことができた︒
それゆえ有志向性は顕在性において
﹁遂
行﹂
されていなくとも︑非顕在性において既に﹁発動﹂している
NO
印)︒
フッサl
ルはここにおいて﹃志向性を
のである︒﹃イデlンI﹄に先立つ講義において既に﹃
わ
ば﹁対象志向性﹂から﹁地平志向性﹂
NO
︑ 吋
へと深化させている
ノエシスの側において時間的地平が語られるのと同様に百
ノ
ニL
マの側においては空間的地平が語られていた︒すなわち可
一 九
O
五年の
﹁内
的時
間意
識﹄
の講義にところによれば百
知覚は瞬間的@点的な
においてはあり得ず︑
いつも或る過程においてのみある
(門会)︒知覚の現在には︑
把持
と
未 来
が﹁住みついて﹂
( 同 ・
ω仏
ω ) おり百﹁知覚はすべて︑過去把持的および未来
予持的な庭を持つ﹂
( 凶
‑HOm)
のである︒また︑九O七年の
吋物
と
の
とこ
によれば︑﹁知覚の
観と
は百
ら取り出されて知覚されたもの﹂
トA
であり可知覚されるものはすべて
もっている︒知覚 の全体は百本来的な現出(見える面)
と非本来的現出(見えない面)
から成り百本来的な現出
は れ
だけであるのではなく︑
それ
は︑
その本質によって補足を
している
ul
︒背面
周囲も或る意味では知覚さ れており
立)可現出には可
えるものが見えないものを指示している﹂
ということが
しているのであ 日)︒それゆえ︑知覚は可
その
題となる対象とそれを取り巻く非主題的な地
という﹃﹁対象l
地平﹂構造
を持っているとすると百﹁世界﹂
は百個々に経験される対象の総和として獲得されるのではなく﹃
むしろ百個々の対象
が経験されるとき百それと同時にその背景または地平において有
しかも対象が経験されるのとは
る或る仕方で経験 されている可
と
わなければならない︒世界の経験は︑対象の経験とはまったく性質を
にしており︑﹁世界﹂
とは
百
ば﹁地平の地平﹂としてのみ経験されるわけである︒
先に述べた﹁近世
J認識論
α
の古典的な問題片すなわち﹃﹁いかにして
ぷ思
識の
島グ
という内在から抜け出して可
グ外的世界μ
という超越に達することができるのか﹂
(︿
何日
・日
・ M M O )
といhつ
内
f ¥
諮問
﹂
( 日 ・ M
∞一︿札・只・Mω
∞∞
一一
問︒
︿・
ω N
N町 内
・ )
から︑本来の
での
﹁超
越の
そ
能 な ものにするところにこそ︑
︿地平の現象学﹀
の狙いがあった︒それ
ー物の
ー知ら
性ではない︒
つまり︑顕在的知覚との動機づけ連関
一切欠けてい
つ
、
宇品つ
で
り︑﹁自体的に存在する対象とは可
して
︑
にまったく
lま
しE
L ‑
と
﹁直観の進行における無際限性ヘ
ち ︑
一一寸
しミ
な 物
で
つ
し
し五
地が残っている﹂
ということに他ならない︒
しかも︑地平の
と
で
九
空虚な論理的可能性ではなく︑キネス一ア
i
ゼ的身体性の
﹁ 私
年C
しー叩によって
け ら た
一一寸
性 (
︿
2 B
o m r z z )
﹂
で あ
︒地平とは︑
この
よ︑
つに
けられた可能的
し一ー
に他ならず︑
それはまた︑零点た
この身体にたいす
づけとパ
iスペク
イ
し一一
(}
ハ︿
日・
HGN)への関係を持つ︒
こ︑
つし
て︑
地 平 と し て の 世
治宝
f ¥
っこと
ら かにされることになる︒それゆえ︑先にヘルトに倣って
﹁志向性の
ともに;;近世グ 原理的に廃棄される﹂
と述べたことは︑正確には︑
こ の 地 平 志 向 性 へ の 深 化 に お い て 初 て
}﹂し/﹂
品 ︑
Cことで
あっ
た︒
この地平志向性の意味においてこそ︑生世界は志向性の思想の延長線上に
と ことができ
で る ︒
,岡町、
一一
一
、同副〆
てし
し
63
こ の よ う に
︑ 生 世 界 の 思 想 と は 何 よ り も
︑ 客 観 主 義 の
﹁自体的存在という仮説﹂
(︿
円・
H ω
ω )
を退けて︑﹁主観的i相
対的﹂とニ一一口われる生世界が主観関係的であるのに劣らず可自然科学的世界ですら志向性という関係を越え出てしまうも のではないことを主張するためにこそ︑導入されたものであるとすると可﹁生世界概念の二義性﹂を暴くことによってー その広狭間義のうちに自家撞着を指摘することは﹃
フッサ!ルの本来の狙いをはずした揚げ足取りになりかねない︒む
しろ百聞いは可L@
ラントグレ
i
ベのように百﹁一方は具体的な普遍性という規定と︑他方は原理的な直観可能性の つの規定がともに両立可能であるのはどのようにしてであるのか﹂という仕方で 宙という規定という︑生世界のもつ 立てられるべきであろう︒そのような聞いとして︑﹁生世界概念の二義性﹂として提起された問題を考え直すことにし
ょ ︑ っ
︒
クレスゲスの
い方に戻れば︑自然科学の基盤としての狭義の
世界と百自然科学をも包括する広義での
世界とい う二義性が問題であった︒すなわち︑ラントグレ
i
ベの
い方では︑原理的な直観可能性の
具体的普遍性という︑
世界に与えられた
一つの規定である︒これをD@カiは 1
﹁直接経験の世界﹂または﹁知覚的世界﹂としての生世界 世界として特徴づけていた︒この特徴づけは確かに分かり
す
しヨ
し
フッサi
ルの
と可﹁文化的世界﹂としての 機
に至る様々な著作に遡って生世界概念の先駆的形態を探るとき
( カ
i
はそこまでしていないがて
はっきり した系統図を描くのにも役立つ︒すなわち可知覚的世界としての生世界は可
にア
ィl
レが指摘した
﹁イ
デ
iン
の筒
所(
官︒
咽
ω m
N )
ゃ︑﹁現象学的心理学﹄において
された百自然科学と精神科学の根底にある﹁前学問的経験世
界﹂
(円
封印
印町
内・
) の 考 え に そ の 先 駆 を 見 出 す こ と が で き る し
︑ 他
文 化 的 世 界 と し て の 世 界 は
﹃イ
デ
iン
の
﹁精神的世界﹂の考え
ができるのである︒また﹃この特徴づけは可知覚世界が﹁非歴史的﹂であるのに対して刊文化世界は﹁歴史的﹂である
カ!の問題関心にも役立つことができる︒彼によれば﹃文化世界は知覚世界に﹁基づけ﹂
( 日 ︿ ・
円 ︑ 吋 ⁝
山 内 ・ )
やの﹁文化世界﹂﹃デカルト的省察﹄の考え
にその先駆を見出すこと
と対比させることによって︑
られている
(逆は成り
たない)
カ す
こと
でき
し
、 がともに
世 呼ぴうる は可それらが共に︑自然科学的世界との対比において
ラス文化︹詳しくは百
﹂が自然科学の
一一寸
非理
壬子ム
再開
的 で
あ
る と
しミ
つ
るEこ
O と
お
しミ
て 類 似
L一一
しており︑﹁知覚プ
になっているからで しかしー知覚を﹁直接経験﹂あるいは
﹁純粋経験﹂として捉えること百
よび
ー
し て 捉えることに対しては注意を必要とする︒
フッサi
ルは
ー
のなかで︑﹁彼
的事物)
提 示 す る 知 覚 を
︑ 単 な る 感 覚 所 与 ( セ ン ス デ
!
と
ft
﹂3
r i v
し一一
( ︿ 日
と
~ 、
ら
れる
とニ
一一
口わ
れる
グ感覚所与μ
なるものに訴えては
ら
しミ
O
カf
世界の純粋に
的に特徴︒つけるものであかのように﹂
( ︿ 日 ・
H
N寸
E¥コ
してい
O
ブ ツ
サ
jレ
﹁根源的
(己
足立
m w F E
ロぬ )﹂
と呼ぶ知覚がすでに
でお
り︑
lま
﹁と
して
ってい下﹂し〆﹂
、
、
﹃論
理学
研究
﹄ 粋 知 覚
﹂ に 留 め て お か な い
︒ 前 述 の よ う に
において既に洞察されていたことであ一︒とこ
?刀ん大竹京︐刀四九円十ト
でい
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、
、
︑﹁
純
﹁前学問的経験世
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の 帰から
を 始 た
のフッ サ
jレ
は この事態を︑﹁端的に眺めることにおいて
も の
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、
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」剛岬
もの@何ら
され
ものとし て我々に与えられるものはー
よ く よ く 吟 味 す れ ば 百 以 前 の 精 神 的 活 動 の 沈 澱 抱
と述べてい
O
﹁我々の経験世界としてわれわれを絶えず取り巻いてい
世界としての
のご
ー勉強杭など
の家具︑家可畑︑庭王道自六百
いったものが百例として
っ︒それらは︑キ品つれ
こ・
迭問
自'
勺ご
﹂
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本土
ふー
ん口
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も
つ
たものとして経験される︒﹂
てその﹁歴史﹂または
( 只 ‑ Z H )
経 験 世 界 の は
﹁発生﹂を指示している︒﹁経験世界は文化世界として絶えず変化する歴史的な顔を
んでおり可
それは
の﹁
知の
( 円 以 ・
ω小)
と し
って
いる
﹂
65
( 門 戸 川
Hω)
(傍
点筆
者︺
とも述べられているように︑﹁純粋経験﹂
の世界と思われた経験世界はすでに︑文化世界に通
じている︒初めは﹁非歴史的﹂であるかに見えた知覚世界は可いつの間にか﹁暦史的﹂な文化世界に接続して行きーそ
の関にはっきりと境界線を引くわけにはいかなくなる︒結局︑﹁純粋経験﹂の世界なるものは可﹁具体的な生世界﹂から
﹁抽
象的
に扶
り出
され
た世
界核
﹂(
︿日
・
5eに過ぎないのである︒
他方有生世界を﹁直接経験の世界﹂と捉えることに劣らず︑
それを﹁文化的世界﹂あるいは﹁精神世界﹂と捉えるこ
とにも注意を必要とする︒フッサi
ルは
デlンの第二一篇において︑自然主義的態度に対比される人格主義的態
度によって︑
日常世界を精神科学の対象たる精神的世界として描き出した︒しかも可
その関連草稿のうち我々は
世
とい
う諾
の初
出例
(︺
︿・
ω寸 丘
町 ・ )
を見出すことができる︒それは︑よりも精神科学によって︑﹁現象学に
る
新し
い道
百 しかもずっと良くはるかに
かな
道﹂
(日
︿・
ωに
)
治宝
されるとして司自然科学に対する精神科学の優位性百 ひいては自然に対する精神の優位性を主張するかに見える︒この思想が百﹃イデ
iン という結論へと導いており百またーウィーン
の
かれた﹁自然の相
対性と精神の絶対性﹂﹁ヨーロッパ的人間の危機と
を締め括る﹁精神のみが不死である﹂ω
品 川 山 )
という結語にもその
聞くことができ
︒しかし︑この﹁精神の 絶対性﹂という思想はフッサ
i
ルの思索を背後から支えてい
ものかも知れないにし
も百彼の
る
の で
はありえ
い︒自然科学が自然を素朴に前提しているように︑精神科学は精神を素朴に前提してい
︒自然科学と同様 に精神科学も﹁自然的態度に立つ
に過ぎず百共にー自然と精神の一一元論に立ったうえで百の一方に重心を
いて
しミ
だけのことである︒フッサi
ルが現象学のもとに考えているのは百﹁自然世界と精神世界とは
いに邪魔をするこ
とのないゴ一つの世界μ
であ
る﹂
( ︿ 円 ・
ω
寸 仏 )
という二元論をその根拠に向けて間い
すことであった︒﹁現象学的心
そのためであった︒それゆえ冗我々 において可自然と精神の対立の根拠たる﹁経験世界への還帰﹂を企てたのも可
はゾンマi
に倣
って
﹃
﹃イ
デ iン
の﹁精神世界の構成﹂に
(あ
るい
は可
それが生前に発表されることなく可
フ
ッ