『日の出前の歌』試論
著者 上村 盛人
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 31
号 1
ページ 135‑154
発行年 1982‑11‑25
その他のタイトル Swinburne's Songs before Sunrise
URL http://hdl.handle.net/10105/2339
呈建.驚冨aum票邑uc.V。l忍N。.1(cult驚)mm s。c).慧
『日の出前の歌』試論
上 村 盛 人 (奈良教育大学英米文学教室)
(昭和57年4月27日受理)
昨日今日と思ふ程に、みそとせよりあなたの事になる仕にこそあれ。
あはれにあぢきなしや。ゆふべの露のかゝる程のむさぼりよ。 ‑ 『源氏物語』、 「夕霧」
&e&vαToc巧p∂叫
1
スウィンバーンは、1871年1月に『E]の出前の歌』(SongsbeforeSunrise)を出版した。その 数年前(1868年)に、彼が『詩とバラード』{PoemsandBallads)を発表した時、社会のモラルに 挑戦する堕落的な内容の詩集として幕貰たる非難を浴せられたのだが、そのことが、この新しい 詩集の評価に対しても、かなりの影響を与えていた.例えば、出版直後の『土曜評論』(Saturday Review)の1月14日号において、匿名の書評担当者は、泥水の中へ入って行き、そこで転げ回る と、他の子供達が喜んで聴したてるのでますますいい気になり、さらに全身を泥だらけにして得 意がっている腕白小僧にスウィンバーンを喰えることによって、先ず、『詩とバラード』がいか に高貴なイギリスの詩の伝統を汚したかを非難し、そして、『日の出前の歌』の「比較的な清ら かさ」(̀comparativepurity)は決して詩人の本心からのものではなく、詩集を献呈しているマッ ツイーニ(JosephMazzini)に詩の制作を依頼されたからであるとしているOそして、スウィン バーンがいかに自由を望む気持を歌っているにしても、彼は1つの自由、即ち、泥を投げつける という自由、を存分に行使している、と皮肉たっぷりにこの詩集を断じている(1)又、数か月後 の『ェディンバラ評論』{EdinburghReview)では、やはり匿名の書評子(但し、これはトマス・
スペンサ‑・ペインズ〔ThomasSpencerBaynes〕が書いたものであることが分っている)が、
スウィンバーンは、「極端な扇情主義派」(̀theextremesensationalistschool')に属する詩人であ り、この詩集で賛美されている概念は、「放縦、無法とでも呼ばれるべきもので、自由ではない」
(̀oughttobecalledlicence,lawlessness,notliberty)のであって、「彼が、冒溝的な言葉使い で、人々の崇拝している神を罵倒するのは、許し難い罪である」(̀thatheshouldrevileinbla‑
sphemouslanguagetheobjectoftheirworshipisanoffenceofafardeeperdye')と述べ
ている。そして、このようなけしからぬ無神論を展開させるスウィンバーンの作品は、「フラン スの芸術、及び詩の堕落した一派」(̀thecorruptedschoolofFrenchartandFrenchpoetry') から派生していると述べたあと、もしこのような作品が社会に受け入れられれば、それは、キリ スト教に対して敬慶な信仰心を持ち、秩序と安寧を尊重する英国の社会を転覆させ、遂には、そ の芸術・文学・文明をも死に至らしめることになろう、といかにもヴィクトリア朝特有の独善的 で生真面目な雰囲気を芽芽とさせながら、激しい調子で、この詩集の存在価値を否定している(2)
。
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一方、フランツ・ヒュッファー(FranzHdffer)は、『アカデミー』(Academy)の1月15日号 で、この詩集を取り上げ、この作品は、「前回の詩集と基本的には同一の思想の上に立っていて、
何物にも束縛されない熟き情熱の造り」(̀thecontinuationofthoseeruptionsofhotand unfetteredpassionwithwhichtheysharethesamefundamentalidea')であり、「人間の思 想・行動の限りなき自由が、スウィンパーンの哲学の第1原理であり、それ故に、この至高の
『人間の権利』を束縛しているように思われるあらゆる信仰や制度を最大限の激しさで、彼は攻 撃するのである」(̀UnlimitedfreedomofhumanthoughtandactionisSwinburne'sfirst
principleofphilosophy,andhethereforeattackswiththeutmostferocityeverybeliefor institutionwhichseemstorestrainthissupremedroitdeI'homme')と述べ、さらに、韻律の 美しさを強調しようとするために、時として、意味が唆味になり、又、余りにも長すぎるのが、
彼の詩の最大の欠点であると指摘しながらも、かなり好意的な論評を与えている(3)
。
20世紀に入ってからのこの詩集に対する評価はどのようなものであろうか。ウェルビー(T.E.
Welby)は、『詩とバラード』に比べて優れたものであり、「英詩の中でも特別な場所を占めてい る」(̀inEnglishpoetryithasaplaceapart)と高く評価しCOブラウン(E.K.Brown)は、
「予言者、知性派の詩人としてスウィンバーンが評価されているのは、この詩集のおかげであ る」(̀Itisuponthem〔i.e.SongsbeforeSunrise〕thathis〔i.e.Swinburnes〕reputationas aprophet,anintellectualpoet‥.chie凸yrests')としている(5)
。又、チュ(SamuelC.Chew)
は、「私の書いた他の書物は単なる書物に過ぎないが、『日の出前の歌』は私自身だ」(̀Myother booksarebooks;̀SongsbeforeSunrise'ismyself)とスウィンバーンが語ったことに
触れて、「この崇高な詩集の独自性は、彼の発言の誠実さを証明している」(̀Theuniquequality ofthesenoblepoemswitnessestothesincerityoftheremark')と述べている(6)
。他方、詳細
なスウィンバーン伝を書いたへンダースン(PhilipHenderson)は、『日の出前の歌』は、「読者 をまごつかせる程に大げさな美辞麓句の多い」(̀embarrassinglyrhetorical)ものであると述べ て、暗に、この詩集をあまり高く評価していないことを示しているし(7)
サ又、マクスウィ一二一
(KerryMcSweeney)は、この詩集は「実証主義的教義」(̀thepositivistdoctrines')を説いて はいるが、その「自由」の概念は抽象的に歌われているだけのつまらない作品であるとして、ま ともに取り上げようとはしていない(8)
。さらに、トマス(DonaldThomas)は、この詩集の中で
は、詩人の「詩的天分が(イタリア統一の願望を歌わねばならないという)政治的義務感の犠牲 になっていたのは明白であった」(̀itwasevident.‥thatpoeticinstincthadbeensacri丘ced toasenseofpoliticalobligation')と述べて、この詩集の価値を殆んど認めていないのである(9)
。
以上の極めて大まかな説明からでも明らかなように、『日の出前の歌』に対する評価は、今も って定まってはいないのである。しかし、スウィンバーン自身は、彼の多くの作品中でも、この 詩集をとり分け重要なものであると考え、自分自身の大部分を含んでいる大事な作品であると見 倣していたのである(10)この詩集は一体どのようなものであるのか、その中で詩人は何を訴え ているのか、又、彼の詩学との関係において、この詩集はどのような存在価値をもっているのか、
これらのことを検討するのが、この小論の目的である。
2
『日の出前の歌』は「序曲」("Prelude")によって始まる。詩集の冒頭を飾っているこの詩は
『日の出前の歌』試論 mn
そのタイトルも示しているように、詩集全体の基本的なテーマを提示しており、次のような1節 と共に歌い出される。
Between the green bud and the red Youth sat and sang by Time, and shed
From eyes and tresses点owers and tears, From heart and spirit hopes and fears, Upon the hollow stream whose bed
Is channelled by the foamless years ; And with the white the gold‑haired head
Mixed running locks, and in Time's ears Youth s dreams hung singing, and Time's truth Was half not harsh in the ears of Youth.(ll)
その大意は、 「青い菅と開花前の赤い膏の中間期といえる人生の青春時代に、若者がく時の翁) の近くに坐って、喜び・悲しみ・希望・恐怖などのさまざまな歌を、心の底から魂を込めて歌っ た。 2人の前には水のない空ろな川があり、その川床には、泡を立てることもなく歳月が流れて いる。白髪の老人と金髪の若者は肩を並べて腰をおろしていて、若者の歌う夢は老人の耳元に留 まり、そして老人の語る真理を聞いても、若者はそれを決して不快なものとは思わなかった」、と いうことになろう。歌を歌った若者とは、詩人自身を指しているとも考えられるが、スウィソバ ーンは、 1つの物語、或いは、神話を語るように、あえて3人称を用いることによって、普遍的 な詩人の魂の物語として、理想化された詩人の姿を描いているのである。 ̀Time と大文字で書 かれ、擬人化されているのは、手に大鎌を持ち、背中には翼を持つ老人として、中性以来、多く の寓意画の中に描かれてきたく時の翁) (Father Time)なのである。いま上に引用した1節が 述べているように、この詩の、いや、この詩集全体のテーマは、命ある全てのものを忘却の彼方
うたぴと
‑と流し去るく時)と、魂を込めて歌う歌人とも言うべき詩人(芸術家)との関係であると言え よう。
若者は「知識と忍耐力」 (̀knowledge and patience')をサンダルとし、 「自由」 (̀freedom')
かて
を精神の糧とし、 「力」 (̀strength)で作られた杖をもち、 「思想」 (̀thought)で織られた外套を 身につけているが故に、懐疑的悲観主義者、つまり、人間の無力、はかなさを悲しむあまり、や みくもに神に「祈りを捧げ、希望を託し、 (神を信じない人を)憎み、そして、自分など生まれ てこなければよかったのにと疑う人々」 (̀souls that pray and hope and hate,!And doubt they had better not been born,'II, 5)の仲間入りをしようとは全く考えないのである。又、
昔、ギリシアで、バッカスを崇め、太鼓やシンバルを騒々しく打ち鳴らして踊り狂い、馬鹿騒ぎ をした人々がいたが、やがて時が経つと、彼らも跡形もなく消え去ってしまった。そのように、
「生命という衣服を織り成してはそれを引き裂き、そして、別の人のために別の衣服を、その人 の生命が尽きるまで織ってやる(仕立屋とも言うべき)変化は誠に鋭く、歳月は誠に強力」 (̀So keen is change, and time so strong,/To weave the robes of life and rend/ And weave again till life have end,'II, 7)なのである。強力なく時)と共に、変化は避けられないのであ
って、 「万物は流転する」という思想が、ここではっきりと示されている。しかし、その強大な
変化や歳月にも支配できないものがある。それは、人間の不滅の「魂」(̀thesoul')なのであるO この若者の「魂は太陽に匹敵する」(̀Hissoulisevenwiththesun/II,4)、そして、「彼の心 は、海、及び、海の風の心と等しい」(̀Hisheartisequalwiththesea's/Andwiththe
sea‑winds,II,4)のである。スウィンバーンは、太陽のイメージを用いる時、常にその中に太 陽と芸術の神くアポロ)を見ていたのであり、絃しく輝く太陽は、不滅の芸術の精神なのである。
又、海は、(自由)の概念を象徴するものとして、彼の作品でよく用いられているイメージであ 完Esaロ
る(12)
。歌人である若者の魂は、そのような不滅の大腸と自由な海の属性を持っていて、そして、
「それ自らが放つ光によって存在し、万物が流転するのを見守り、しかも、いつまでも存在し 続ける魂だけが、どのような他の魂に対しても投げかけることのできる光を持っている故に」
(̀Sinceonlysoulsthatkeeptheirplace/Bytheirownlight,andwatchthingsroll,/And stand,havelightforanysoul,'II,8)、人間の不滅の魂は、人から人へと永遠に伝えられて行 くのである。人々を解放したり、束縛の中に放り込んで苦しめたりして過ごされる我々人間の生 涯はまことに短い、と述べた後、この「序曲」は次のような詩行で終っている。
By rose‑hung river and light‑foot rill
There are who rest not; who think long Till they discern as from a hill
At the suns hour of morning song, Known of souls only, and those souls free,
The sacred spaces of the sea. (II, 9)
「バラの花がかかる川のほとり、軽やかに過ぎ去る流れのほとりに、休むことなく働き続ける人 々がいる」と述べることによって、この詩の冒頭の、不断なく流れるく時の川)のイメージへと 読者の記憶を呼び戻す。そして、 「彼らは、ずっと長い時間をかけて考え続け、遂に、まるで丘 の上から見つけるように、朝の太陽が歌う時間に、自由な魂を持っている人々だけが知っている もの、つまり、聖なる海の自由で広い世界、を見つける」と締めくくるのであるが、最後の2行 の風韻を構成する語が̀free'と̀sea であるという操作によって、 「自由な海」ということが、
脚韻という形式の上からも示されるのである。 「休むことなく考え続ける人々」とは、無為な生 を送る人々を後目に、いち早く、自由の概念を実感的に体得し、それを不滅のものとして、人々
に伝えて行く仕事を絶え間なく続ける人々、つまり、不滅の自由の魂を記録し、後からやってく る人々に、その精神を譲り渡して行くという連綿たる仕事に携わる一連の芸術家であると言えよ
+‑・ワード
う。以上のように、く太陽)、く海)という、スウィンバーン独自の神話の世界における鍵語とも言 える重要な概念を示す言葉を用いることによって、詩集全体のテーマを、この「序曲」は、神話 的な精神の物語の枠組の中で歌い上げているのである。
次に続く、 「革命前夜」 ("The Eve of Revolution")は、 「自由の魂・神・栄光」 (̀O soul, O God, O glory of liberty,'II,16)に基く革命によって共和制がもたらされるべきであるというこ とにおいて、正に、く革命前夜)とも言うべき状態にあったヨーロッパ諸国に捧げられたもので、
共和制国家を実現させる革命という(日の出)をく前)にしたく歌)なのである。 「恐怖や驚異
の念によって作り出され、 (本来自由な)目や手や椿神を1つに拘束してしまう全ての雲や鎖を
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バラバラに破壊し去るべき光、光、光よ.′」(̀Light,light,andlight!tobreakandmeltin sunder/Allcloudsandchainsthatinonebondagebind/Eyes,hands,andspirits,forged byfearandwonder,II,15)、(自由な人の糖神を)「閉塞させ、固定させる君主や僧侶」(̀prince thatclogsandpriestthatclings,II,21)、というような言い回しには、明らかにブレイク (WilliamBlake)の影響が認められる。そして、下に引用した1節が述べているような、「時や 変化や死があるからこそ、人間の不滅の魂は、人から人へ、歌から歌へと伝えられて行く」とい う思想は、マクガン(JeromeJ.McGann)も指摘するように、ブレイクやポイットマン(Walt Whitman)の基本的な考え方と同じものと言えよう(13)
。
Otime,Ochangeanddeath, Whosenownothatefulbreath
Butgivesthemusicswifterfeettomove Throughsharpremeasuringtones Ofrefluentantiphones
Moretender‑tunedthanheartorthroatofdove, Soulintosoul,songintosong,
Lifechangingintolife,bylawsthatworknotwrong;(II,24)
「万物は流転する」という古代のギリシア人が畏怖した運命観に対して、スウィンバーンが少な くとも、憎しみや恐れを感じていないのは、上の引用の2行目に̀nothatefulとはっきり書かれ ていることから見ても、明らかである。(「序曲」においても、若者と(時の翁)は仲よく肩を並 べて坐っていたし、く時の翁)の語る真理も若者には決して不快なものではなかったのである。) 冒ease
そして、自由な魂の歌を後世の人々に歌い継ぐぺきく歌人)としての、理想的な芸術家のあるべ き姿がここでも述べられているのは言うまでもないことである。
自由という(日の出)を目前にした夜の世界の情況を対話形式で展開させている、「夜の見張 り」("AWatchintheNight")に続いて、有名な、「ばびろんノ川ノホトリデ」("SuperFlumina Babylonis")が置かれている。この詩のタイトルは勿論、旧約聖書の『詩篇』(Psalms),137章、
1節の「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した」に由来する もので、そのラテン語のタイトルは『ウルガタ聖書』(VulgateVersion)によるものである。バ ビロンに囚われたイスラエルの民が祖国を思い、涙して歌った故事をふまえ、そのイスラエルの 民のように、自由を奪われた精神(特にイタリア)に対して歌いかけることによってこの詩は始 まっている。そして、「各人に、その手が成すべき仕事を、頭に載くべき冠を、公正なる運命は 与えるのである。世界の生命を一身に担い、自らの生命を投げ捨てる者は、そのようにして死す ることによって生きるのだ」(̀Untoeachmanhishandiwork,untoeachhiscrown,/Thejust
Fategives;/Whosotakestheworld'slifeonhimandhisownlaysdown,/He,dyingso,
lives,'II,38)と歌う1節は、批評家達が指摘するように、新約聖書、『マタイ伝』(Matthew)の 10章、39節の有名な言葉、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失 っている者は、それを得るであろう」(̀Hethat丘ndethhislifeshallloseit:andhethatloseth hislifeformysakeshall丘ndit.')をふまえているのは明らかである(14)
。このようにキリスト
教の言葉使いを巧みにもじりながら、詩人は、「自由(ここでは、イタリア共和国の独立)とい
う大義名分のために、自らの生命を懸けるものは、たとえその人が死んでも、その精神は永遠に 生き続ける」ということを述べているのであるが、それと同時に、 「その不滅の自由の精神を歌
う芸術(請)も永遠に生き続ける」と主張していることは、次の1節からも推測することができ る。
On the mountains of memory, by the world s well‑springs, In all mens eyes,
Where the light of the life of him is on all past things,
Death only dies. (II, 39)
「(不滅の精神を持つ)人の生命を懸けた光が過去のすべてのものを照らしている(人類の)記 憶の山の上で、世界の起源がそこから湧き出た泉の傍らで、全ての人々の眼の中で、死するのは 死のみなのである」と〔m〕, 〔W〕, 〔1〕, 〔d〕といった頭韻を響かせながら、スウィンバーンは、
自由の精神を体現している芸術の不滅性を歌っているのである。 「世界の起源の泉」とも言うべ き古代ギリシア以来の人間の精神を、人々の「記憶の山の上」に築き、後代の「全ての人々の 眼」に触れるようにしているのは、例えば、最古の叙情詩人、サッフォー(Sappho)のような不 滅の魂を持つ芸術家によって残された芸術作品なのである。
く日の出)を妨げる夜の闇になぞらえて歌われている「ローマを目前にしての停止」 "TheHalt before Rome"),く日の出)がやってくるまで自由という真理のために生命を懸けることを説く、
「メンタナ: 1周年記念日」 ("Mentana: First Anniversary"),救世主となる神の子を宿した聖 母マリアのように、祖国の自由のために生命を投げ捨てた、 「神の如き救世主的兵士」 (̀godlike soldier‑saviour')を4人も息子に持った母親のことを歌う「祝福されるべき女性」 ("Blessed among Women")、キリスト教会の通商の形式を用いて、ヨーロッパの諸国が、 「人に、生まれ よ、とお命じになったあなた、人に、自由であれ、と命じて下さい」(̀Thouthatbadestmanbe born, bid man be free,'II, 65)と母なる大地に祈る「国々の通商」 ("The Litanyof Nations") と続いているが、 「国々の通商」以外は、いずれも単調で、冗長な感じがすることは否めない。
そして、その次に置かれているのが「ノ、‑サ」 ("Hertha")である。
この詩は、 『日の出前の歌』を含むスウィンバーンの全ての作品の中でも代表的な詩と見撤さ れており、又、彼自身も、 「私が書いた全ての詩の中で、 1個の作品としては『パーサ』が最も 優れたものだと思っております。と言うのは、この作品の中で、最高の叙情性と音楽性が、凝縮 された明快な思想と、最大限に結合しているからです」 (̀Of all I have done I rate Hertha
highest as a single piece,丘nding in it the most of lyric force and music combined with
the most of condensed and clarified thought')と述べている(15) 「私が最初に存在したもので あり、私から歳月が流れ出し、神も人も私から生ずる。私は常に変わらず、あまねく存在するも の。神や人も移ろい、その姿は体ごと変化する。私は(変化し、移ろうことなどない)魂なので す」、と‑ーサ自身が語り出す、次に引用したスタンザと共に、この詩は始まる0
I am that which began;
Out of me the years roll;
Out of me God and man;
『日の出前の歌』試論
I am equal and whole;
God changes, and man, and the form of them bodily; I am the soul.
(II, 72)
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自由の精神そのものとしての「母なる大地」への祈りが歌われている「国々の通商」のすぐ後に 置かれていることからも判断できるように、この作品の中では、その母なる大地(地球)に最初 に存在し、森羅万象を生ぜしめたものとして、ノ、‑サが描かれているのであり、上に引いた1節 の最初の2行は正にそのことを述べているのである。スウィンバーンにとって、キl)スト教の神 も含めて、およそ神というものは、「人が自分で勝手に作り上げたもの」(̀theGodoftheir fashion.'II,74)であるので、「神も人も変化し移ろう」(引用の5行目)のである。しかし、パ ーサは、「常に変わらず、あまねく存在する魂」(4‑5行目)として不滅なのである。
「あの騒々しい音は、『時』が、翼を広げて、頭上の枝を登って行こうと足をかける時にたて るもの。それで、回りに生えている多くの私の葉は、ザワザワと音を出し、彼に踏まれて、枝は 折れ曲がる」(̀ThatnoiseisofTime,/Ashisfeathersarespread/Andhisfeetsetto
climb/Throughtheboughsoverhead,/Andmyfoliageringsroundhimandrustles,and
branchesarebentwithhistread,'II,76)、と歌われるスタンザでは、「序曲」で若者と肩を並 べて歳月の川のほとりに坐っていた(時の翁)が再び登場し、「世界の木」、つまり、ユグドラシ ル(YggdrasiLここでは、‑‑サが支配する世界の象徴として用いられている)に、翼を広げた 鷲のように、取りついているのである。そして、そのために、ザワザワと不安げな音を出して揺 れている葉は、く時)に対して無力な人間を象徴していると言えよう。永遠の自由の世界に参入 する人にとっても、死は避けられないのであるが、その死を恐れ、怖がるあまりに、「鞭である 教義」(̀Acreedisarod,'II,75)を要求する信仰の仕界に逃れても何にもならないことがこ こでも示されているのである。パーサはさらに、「私はあなた達に、ただ、存在せよ、とのみ命 じます。私には祈りなど不要なのです。あなた達が自由でさえあればよいのです。丁度、あなた 達のロが、私の(自由な)空気を必要としているように」と、次のように語る。
Ibidyoubutbe;
Ihaveneednotofprayer;
Ihaveneedofyoufree Asyourmouthsofmineair;
Thatmyheartmaybegreaterwithinme,beholdingthefruitsofmefair.
(II,78)
ピ‑フー)‑
ここでは、1行目と3行目の脚韻が効いていて、「存在することは正に自由そのものなのである」
ビー.フー)‑
と信じ、「自由であれよかし」と願うパーサの気持が、効果的に歌われていると言えよう。その ような、自由な不滅の魂を持つ人のみが「世界の木」の葉の1つとなり、世界の木はそれだけ豊 かになって後世の人々の役に立ち、そして、その後の世の人々がまた新たな菓となり、このよう にして、「世界の木」は無限に成長してゆくのである(16)
。
神も移ろうものであり、「神のたそがれがやって来た」(̀his〔i.e.God's〕twilightiscomeon
him,'II,79)と、「‑ーサ」で歌った詩人は、‑キリスト教の神も、堕落した「指導者達」(̀high
priests, II, 85)のために今では死んでしまったと、次の作品、 「十字架の前で」 ("Before a Cru‑
ci丘Ⅹ")において、はっきりと言明するO そして、夜の闇の幻の中で、キリスト教の神の亡きあと、
く最も聖なる人間の精神) (̀O spirit of man, most holy, II, 91)、即ち、く神である人間の魂〉
(̀the soul of a man, which is God,'II, 91)が現れるのを祈る声が聞こえたと歌う「暗闇」
("Tenebrae")に続いて、 「人間讃歌」 ("Hymn of Man")では、そのく神である人間の魂)に ついて、次のように説明されている。
But God, if a God there be, is the substance of men which is man.
Our lives are as pulses or pores of his manifold body and breath ; As waves of his sea on the shores where birth is the beacon of death.
(II, 95)
く誕生一生一死)を限りなく繰り返しながら連綿と続く、 (人類総体の本質としての『人』 ) (̀the substance of men which is man')が神なのである。個々の人間の生は、そのく人類の本 質としての『人』)の体から見れば、全くささやかな1つの「脈持」 (̀pulse'), 1つの「毛穴」
(̀pore)のような存在なのであり、海のイメージで言えば、生まれると間もなく死ぬことがはっ きりしている「波」 (̀wave)のようなささやかなものなのである。ここでも、スウィンバーンは 各個人は生まれた瞬間から死を免れ得ないことをはっきりと認識した上で、いかにささやかな貢 献ではあっても、人類の本質としての不滅の魂の世界に参入することの必要性を説いているので ある。彼はさらに、 「個々の人間が神なのではなくて、神は全てのものの結実なのだ」 (̀Not each man of all men is God, but God is the fruit of the whole/ II, 96)、 「個々の人間は 死滅するが、人類としての人は永続する。個々の生命は死ぬが、人類の生命は死ぬことはない」
(̀Men perish, but man shall endure; lives die, but the life is not dead,'II, 102)と述べる。
次の「巡礼者」 ("The Pilgrims")は、自由の魂を聖母として崇めながら旅を続ける巡礼達と、
彼らにさまざまな質問を発する人とが交わす対話詩という体裁を取っている。これまでさまざま な角度から述べられてきたく人類総体の本質である人)の不滅の魂が、さらに別の状況(つまり 巡礼者と質問者)において、歌われているのである。自由の魂のためにそのように献身しても、
「人々はあなた達のことを忘れてしまうだろう」 (̀And these men shall forget you.'II, 106) と質問者が言うのに対して、巡礼は、 「確かにそうだが、我々は大地、海、大気、炎(つまり、
地・水・火・風という、世界を構成する4大元素)、及び、それらが織り成す全ての善きものの一 部分となるのです。我々の流した血が多少なりともその心臓を活気づけることなしには、未来の 人は存在しえないのです。それは丁度、自由の魂を求める途上で殺された人々の血や、その人達 が生命を懸けた望みと全く同じものが我々の中にあって、それが、炎の如く燃える彼らの足跡を 追いかける我々を駆りたてているのと同じことなのです」 (̀Yea, but we/Shall be a part of
the earth and the ancient sea,/And heaven‑high air august, and awful丘re,/ And all things good ; and no man's heart shall beat/But somewhat in it of our blood once shed/Shall quiver and quicken, as now in us the dead/Blood of men slain and the old same life's
desire/Plants in their丘ery footprints our fresh feet, II, 106)と答え、不滅の魂の火は、く過 去一現在‑未来)にわたって、人から人‑途絶えることなく続いて行くと説くのである。
以上のように、哲学的とも言える内容の一連の詩が続いたあと、フランスの革命主義者のこと
『日の出前の歌』試論 SE
を歌った「アルマン・バルベス」 ("Armand Barb邑S"),共和制の精神を忘れてしまったフラン スに対する思いを述べた「彼女‑多クヲ愛シタガ故ニ」ぐ̀Quia Multum Amavit")が置かれて いるが、これらはいずれも空疎な作品と言える。と言うのは、この詩集でスウィンバーンが訴え ている自由が、本質的には、マクガンも指摘するように、政治体制としての自由ではなくて、さ まざまに異なる時空の下にいる人々に共通するく心の状態としての自由)であるからなのであ り、(17)特定の時事的な事件のみをテーマにして歌われる時、その詩は、中味のない感じを与え るからなのである。
3
「世界の生成」 ("Genesis")と題する詩の中で、スウィンバーンは、く世界の発生)というこ とについて、聖書の「創世記」 (Genesis)とは全く異なる彼独自の説明を与えている。彼によれ ば、この地球や全ての空間や万物が生じる前に、又、光や神と呼ばれるようなもの(̀anything called God/ II, 117)や人も存在する前に,夜が出産の苦しみに身もだえした後に、く生と死を合 わせもつ憩力なもの) (̀the strength of life and death,'II, 117)を生み落としたのである。
そして、神によって作られたのではないその悲しげな、形を持たない恐ろしいもの(即ち、く生 と死を合わせもつ強力なもの〉)が分かれて、光と闇、地・水・火・風となり、万物が発生し、
その中にまじって、 「生という広い翼によって投げかけられた影である死」 (̀death, the shadow cast by life's wide wings,'II, 117)も、 「人間の魂によって投げかけられた陰である神」 (̀God, the shade cast by the soul of man,'II, 117)も存在するようになったのである。ここでスウィ ンバーンは、生と死が表裏一体を成す1つのものの2つの面にすぎないことを指摘し、そして、
神も人間の魂によって生み出された陰であると述べることによって、造物主としての神による天
地創造という解釈を否定し、神と人の立場を逆転させているのである。さらに詩人は続けて、し
かし、これらは一見、多様に見えるけれども、あくまでも1つのもの(つまり、く生と死を合わ
せ持つ強力なもの))の一部分なのであって、万物は、 「死すべきものが永遠に続ける戦い」 (̀the
immortal war of mortal things,'II, 118)、つまり、生と死という「生命の聖なる対立」 (̀the
divine contraries of life,'II, 118)を避けることはできないのだ、と歌う。このように、個々の
生命には死が必らず訪れることを強調したあとで、 「この世に生まれた時から、先人(の魂)が
人の(魂の)中に宿っていたように、昔に死んでしまった人々の中に、未来の人(の魂)も宿っ
ている」 (̀And as a man before was from his birth,/So shall a man be after among the
dead,'II,119)と述べて、不滅の人間の魂が時間を超越したものであることを、改めて指摘して
いるのである。生と死、光と陰、昼と夜のように、対立するものの絶えざる交代によって永遠に
変化し続けるのが、万物を支配する法則であるという認識に基いて、哲学的な世界観を披歴して
いるこの作品の中でスウィンバーンは、く環世においても、来任においても永遠の生命などとい
うものは人には与えられてはおらず、必らず死がやってくる、というのが世界の真の姿であるこ
とを知らねばならないO しかし、人の魂の自由な活動は、生物学的な人類という種が存続する限
り,不滅なのであって,そのような自由な精神を充分に働かせた人の魂は、後にやって来る人々
にも確実に受け継がれる万古不易なものなのであり、逆に言えば、その本来自由な魂は、昔の人
の中に、将来やってくる人々のものとして、既に備わっていたと言うことになる)と述べること
によって、く襲世において徳を積み、心正しい行いをしておれば、来世には神の永遠の惟界に入
ることが約束される)と説くような教えを排除するのである。
その次の作品、「アメリカのウォルト・ホイットマンに寄せる」("ToWaltWhitmaninAm‑
erica")では、自由の国、アメリカの民主的な詩人であるホイットマンに、く諸国民の本質である 魂)(̀thesoulthatissubstanceofnations,'II,124)、即ち、く大地の神である自由)(̀the earth‑godFreedom,'II,124)を大西洋を超えて、ヨーロッパまで波及させてくれるようにと願 う気持が歌われている。それに続く、「クリスマスの唱和」("ChristmasAntiphones")は、3部 から構成されており、第1部の「教会内」(̀InChurch')では、人々がキリストに平和の到来を 訴えていることが歌われ、第2部の「教会の外」(̀OutsideChurch')では、キリストの教えと その死にも拘らず、圧制と暴力が依然として存在し、苦しみに打ちひしがれた人々が涙を流して、
キリスト自身に対して投げる不満と怒りが歌われ、第3部の「教会を越えて」(̀BeyondChurch') では、神に選ばれた人だけが救われるというような選別・差別をするキリスト教を乗り越えた所 に、暗黒の夜が明けて、自由な魂の日の出が覚れるのを待ち望む人々の気持が、いずれもクリス マスの祈りの時に用いられる唱和の形式を用いて歌われている。このように、スウィンバーンは、
キリスト教の言葉使いや祈りの形式を盛んに借用しながら、キリスト教を越えた思想を歌うので ある(18)
。続く、「新年のメッセージ」("ANewYearsMessage")でも、自由な魂の共和国の 到来を願う気持が歌われている。
「悲シミノ母」("MaterDolorosa")、「勝利スル母」("MaterTriumphalis")と続く作品は、
そのタイトルが示しているように一対になった作品で、人々に顧みられずに見捨てられ、蔑まれ ているく悲しみの母)の如き、境在のく自由の精神)は、実は、く勝利する母〉とも言うべき不 滅の存在であることが歌われている。「勝利スル母」の次の1節は、この詩集に対する作者の考 え方を要約していると言えるであろう。
Darkness to daylight shall lift up thy paean, Hill to hill thunder, vale cry back to vale, With wind‑notes as of eagles Aeschylean,
And Sappho singing in the nightingale. (II, 149)
ここで「あなたの」 (̀thy')と呼びかけられているのはく自由の糖神)である。その自由の精神 のく勝利の歌) (̀paean')を、夜の闇は日の出に対して捧げ、山から山‑、谷から谷へとその く勝利する母の歌)は轟き渡り、こだまを返しながら拡がって行くのである。その時、風の中に
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聞こえてくるのは、アイスキュロスの劇の中の鷲が出すような、或いは、夜鳴き貨となって不滅 の歌を歌い続けるサッフォーの歌のような調べなのである。スウィンバーンは一貫して、アイス キュロスやサッフォーを、不滅の魂を持つ代表的な芸術家として見倣していたのであるが、引用 の最後のく夜鳴き鴬)のイメージは、この詩だけでなく、 『日の出前の歌』という詩集の意味を 考察する上で、極めて巧みに用いられていると言える。と言うのは、く夜鳴き鴬)とは文字通り、
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