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『日の出前の歌』試論

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『日の出前の歌』試論

著者 上村 盛人

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 31

号 1

ページ 135‑154

発行年 1982‑11‑25

その他のタイトル Swinburne's Songs before Sunrise

URL http://hdl.handle.net/10105/2339

(2)

呈建.驚冨aum票邑uc.V。l忍N。.1(cult驚)mm s。c).慧

『日の出前の歌』試論

上  村  盛  人 (奈良教育大学英米文学教室)

(昭和57年4月27日受理)

昨日今日と思ふ程に、みそとせよりあなたの事になる仕にこそあれ。

あはれにあぢきなしや。ゆふべの露のかゝる程のむさぼりよ。 ‑ 『源氏物語』、 「夕霧」

&e&vαToc巧p∂叫

1

スウィンバーンは、1871年1月に『E]の出前の歌』(SongsbeforeSunrise)を出版した。その 数年前(1868年)に、彼が『詩とバラード』{PoemsandBallads)を発表した時、社会のモラルに 挑戦する堕落的な内容の詩集として幕貰たる非難を浴せられたのだが、そのことが、この新しい 詩集の評価に対しても、かなりの影響を与えていた.例えば、出版直後の『土曜評論』(Saturday Review)の1月14日号において、匿名の書評担当者は、泥水の中へ入って行き、そこで転げ回る と、他の子供達が喜んで聴したてるのでますますいい気になり、さらに全身を泥だらけにして得 意がっている腕白小僧にスウィンバーンを喰えることによって、先ず、『詩とバラード』がいか に高貴なイギリスの詩の伝統を汚したかを非難し、そして、『日の出前の歌』の「比較的な清ら かさ」(̀comparativepurity)は決して詩人の本心からのものではなく、詩集を献呈しているマッ ツイーニ(JosephMazzini)に詩の制作を依頼されたからであるとしているOそして、スウィン バーンがいかに自由を望む気持を歌っているにしても、彼は1つの自由、即ち、泥を投げつける という自由、を存分に行使している、と皮肉たっぷりにこの詩集を断じている(1)又、数か月後 の『ェディンバラ評論』{EdinburghReview)では、やはり匿名の書評子(但し、これはトマス・

スペンサ‑・ペインズ〔ThomasSpencerBaynes〕が書いたものであることが分っている)が、

スウィンバーンは、「極端な扇情主義派」(̀theextremesensationalistschool')に属する詩人であ り、この詩集で賛美されている概念は、「放縦、無法とでも呼ばれるべきもので、自由ではない」

(̀oughttobecalledlicence,lawlessness,notliberty)のであって、「彼が、冒溝的な言葉使い で、人々の崇拝している神を罵倒するのは、許し難い罪である」(̀thatheshouldrevileinbla‑

sphemouslanguagetheobjectoftheirworshipisanoffenceofafardeeperdye')と述べ

ている。そして、このようなけしからぬ無神論を展開させるスウィンバーンの作品は、「フラン スの芸術、及び詩の堕落した一派」(̀thecorruptedschoolofFrenchartandFrenchpoetry') から派生していると述べたあと、もしこのような作品が社会に受け入れられれば、それは、キリ スト教に対して敬慶な信仰心を持ち、秩序と安寧を尊重する英国の社会を転覆させ、遂には、そ の芸術・文学・文明をも死に至らしめることになろう、といかにもヴィクトリア朝特有の独善的 で生真面目な雰囲気を芽芽とさせながら、激しい調子で、この詩集の存在価値を否定している(2)

135

(3)

一方、フランツ・ヒュッファー(FranzHdffer)は、『アカデミー』(Academy)の1月15日号 で、この詩集を取り上げ、この作品は、「前回の詩集と基本的には同一の思想の上に立っていて、

何物にも束縛されない熟き情熱の造り」(̀thecontinuationofthoseeruptionsofhotand unfetteredpassionwithwhichtheysharethesamefundamentalidea')であり、「人間の思 想・行動の限りなき自由が、スウィンパーンの哲学の第1原理であり、それ故に、この至高の

『人間の権利』を束縛しているように思われるあらゆる信仰や制度を最大限の激しさで、彼は攻 撃するのである」(̀UnlimitedfreedomofhumanthoughtandactionisSwinburne'sfirst

principleofphilosophy,andhethereforeattackswiththeutmostferocityeverybeliefor institutionwhichseemstorestrainthissupremedroitdeI'homme')と述べ、さらに、韻律の 美しさを強調しようとするために、時として、意味が唆味になり、又、余りにも長すぎるのが、

彼の詩の最大の欠点であると指摘しながらも、かなり好意的な論評を与えている(3)

20世紀に入ってからのこの詩集に対する評価はどのようなものであろうか。ウェルビー(T.E.

Welby)は、『詩とバラード』に比べて優れたものであり、「英詩の中でも特別な場所を占めてい る」(̀inEnglishpoetryithasaplaceapart)と高く評価しCOブラウン(E.K.Brown)は、

「予言者、知性派の詩人としてスウィンバーンが評価されているのは、この詩集のおかげであ る」(̀Itisuponthem〔i.e.SongsbeforeSunrise〕thathis〔i.e.Swinburnes〕reputationas aprophet,anintellectualpoet‥.chie凸yrests')としている(5)

。又、チュ(SamuelC.Chew)

は、「私の書いた他の書物は単なる書物に過ぎないが、『日の出前の歌』は私自身だ」(̀Myother booksarebooks;̀SongsbeforeSunrise'ismyself)とスウィンバーンが語ったことに

触れて、「この崇高な詩集の独自性は、彼の発言の誠実さを証明している」(̀Theuniquequality ofthesenoblepoemswitnessestothesincerityoftheremark')と述べている(6)

。他方、詳細

なスウィンバーン伝を書いたへンダースン(PhilipHenderson)は、『日の出前の歌』は、「読者 をまごつかせる程に大げさな美辞麓句の多い」(̀embarrassinglyrhetorical)ものであると述べ て、暗に、この詩集をあまり高く評価していないことを示しているし(7)

サ又、マクスウィ一二一

(KerryMcSweeney)は、この詩集は「実証主義的教義」(̀thepositivistdoctrines')を説いて はいるが、その「自由」の概念は抽象的に歌われているだけのつまらない作品であるとして、ま ともに取り上げようとはしていない(8)

。さらに、トマス(DonaldThomas)は、この詩集の中で

は、詩人の「詩的天分が(イタリア統一の願望を歌わねばならないという)政治的義務感の犠牲 になっていたのは明白であった」(̀itwasevident.‥thatpoeticinstincthadbeensacri丘ced toasenseofpoliticalobligation')と述べて、この詩集の価値を殆んど認めていないのである(9)

以上の極めて大まかな説明からでも明らかなように、『日の出前の歌』に対する評価は、今も って定まってはいないのである。しかし、スウィンバーン自身は、彼の多くの作品中でも、この 詩集をとり分け重要なものであると考え、自分自身の大部分を含んでいる大事な作品であると見 倣していたのである(10)この詩集は一体どのようなものであるのか、その中で詩人は何を訴え ているのか、又、彼の詩学との関係において、この詩集はどのような存在価値をもっているのか、

これらのことを検討するのが、この小論の目的である。

2

『日の出前の歌』は「序曲」("Prelude")によって始まる。詩集の冒頭を飾っているこの詩は

(4)

『日の出前の歌』試論 mn

そのタイトルも示しているように、詩集全体の基本的なテーマを提示しており、次のような1節 と共に歌い出される。

Between the green bud and the red Youth sat and sang by Time, and shed

From eyes and tresses点owers and tears, From heart and spirit hopes and fears, Upon the hollow stream whose bed

Is channelled by the foamless years ; And with the white the gold‑haired head

Mixed running locks, and in Time's ears Youth s dreams hung singing, and Time's truth Was half not harsh in the ears of Youth.(ll)

その大意は、 「青い菅と開花前の赤い膏の中間期といえる人生の青春時代に、若者がく時の翁) の近くに坐って、喜び・悲しみ・希望・恐怖などのさまざまな歌を、心の底から魂を込めて歌っ た。 2人の前には水のない空ろな川があり、その川床には、泡を立てることもなく歳月が流れて いる。白髪の老人と金髪の若者は肩を並べて腰をおろしていて、若者の歌う夢は老人の耳元に留 まり、そして老人の語る真理を聞いても、若者はそれを決して不快なものとは思わなかった」、と いうことになろう。歌を歌った若者とは、詩人自身を指しているとも考えられるが、スウィソバ ーンは、 1つの物語、或いは、神話を語るように、あえて3人称を用いることによって、普遍的 な詩人の魂の物語として、理想化された詩人の姿を描いているのである。 ̀Time と大文字で書 かれ、擬人化されているのは、手に大鎌を持ち、背中には翼を持つ老人として、中性以来、多く の寓意画の中に描かれてきたく時の翁) (Father Time)なのである。いま上に引用した1節が 述べているように、この詩の、いや、この詩集全体のテーマは、命ある全てのものを忘却の彼方

うたぴと

‑と流し去るく時)と、魂を込めて歌う歌人とも言うべき詩人(芸術家)との関係であると言え よう。

若者は「知識と忍耐力」 (̀knowledge and patience')をサンダルとし、 「自由」 (̀freedom')

かて

を精神の糧とし、 「力」 (̀strength)で作られた杖をもち、 「思想」 (̀thought)で織られた外套を 身につけているが故に、懐疑的悲観主義者、つまり、人間の無力、はかなさを悲しむあまり、や みくもに神に「祈りを捧げ、希望を託し、 (神を信じない人を)憎み、そして、自分など生まれ てこなければよかったのにと疑う人々」 (̀souls that pray and hope and hate,!And doubt they had better not been born,'II, 5)の仲間入りをしようとは全く考えないのである。又、

昔、ギリシアで、バッカスを崇め、太鼓やシンバルを騒々しく打ち鳴らして踊り狂い、馬鹿騒ぎ をした人々がいたが、やがて時が経つと、彼らも跡形もなく消え去ってしまった。そのように、

「生命という衣服を織り成してはそれを引き裂き、そして、別の人のために別の衣服を、その人 の生命が尽きるまで織ってやる(仕立屋とも言うべき)変化は誠に鋭く、歳月は誠に強力」 (̀So keen is change, and time so strong,/To weave the robes of life and rend/ And weave again till life have end,'II, 7)なのである。強力なく時)と共に、変化は避けられないのであ

って、 「万物は流転する」という思想が、ここではっきりと示されている。しかし、その強大な

(5)

変化や歳月にも支配できないものがある。それは、人間の不滅の「魂」(̀thesoul')なのであるO この若者の「魂は太陽に匹敵する」(̀Hissoulisevenwiththesun/II,4)、そして、「彼の心 は、海、及び、海の風の心と等しい」(̀Hisheartisequalwiththesea's/Andwiththe

sea‑winds,II,4)のである。スウィンバーンは、太陽のイメージを用いる時、常にその中に太 陽と芸術の神くアポロ)を見ていたのであり、絃しく輝く太陽は、不滅の芸術の精神なのである。

又、海は、(自由)の概念を象徴するものとして、彼の作品でよく用いられているイメージであ 完Esaロ

る(12)

。歌人である若者の魂は、そのような不滅の大腸と自由な海の属性を持っていて、そして、

「それ自らが放つ光によって存在し、万物が流転するのを見守り、しかも、いつまでも存在し 続ける魂だけが、どのような他の魂に対しても投げかけることのできる光を持っている故に」

(̀Sinceonlysoulsthatkeeptheirplace/Bytheirownlight,andwatchthingsroll,/And stand,havelightforanysoul,'II,8)、人間の不滅の魂は、人から人へと永遠に伝えられて行 くのである。人々を解放したり、束縛の中に放り込んで苦しめたりして過ごされる我々人間の生 涯はまことに短い、と述べた後、この「序曲」は次のような詩行で終っている。

By rose‑hung river and light‑foot rill

There are who rest not; who think long Till they discern as from a hill

At the suns hour of morning song, Known of souls only, and those souls free,

The sacred spaces of the sea. (II, 9)

「バラの花がかかる川のほとり、軽やかに過ぎ去る流れのほとりに、休むことなく働き続ける人 々がいる」と述べることによって、この詩の冒頭の、不断なく流れるく時の川)のイメージへと 読者の記憶を呼び戻す。そして、 「彼らは、ずっと長い時間をかけて考え続け、遂に、まるで丘 の上から見つけるように、朝の太陽が歌う時間に、自由な魂を持っている人々だけが知っている もの、つまり、聖なる海の自由で広い世界、を見つける」と締めくくるのであるが、最後の2行 の風韻を構成する語が̀free'と̀sea であるという操作によって、 「自由な海」ということが、

脚韻という形式の上からも示されるのである。 「休むことなく考え続ける人々」とは、無為な生 を送る人々を後目に、いち早く、自由の概念を実感的に体得し、それを不滅のものとして、人々

に伝えて行く仕事を絶え間なく続ける人々、つまり、不滅の自由の魂を記録し、後からやってく る人々に、その精神を譲り渡して行くという連綿たる仕事に携わる一連の芸術家であると言えよ

+‑・ワード

う。以上のように、く太陽)、く海)という、スウィンバーン独自の神話の世界における鍵語とも言 える重要な概念を示す言葉を用いることによって、詩集全体のテーマを、この「序曲」は、神話 的な精神の物語の枠組の中で歌い上げているのである。

次に続く、 「革命前夜」 ("The Eve of Revolution")は、 「自由の魂・神・栄光」 (̀O soul, O God, O glory of liberty,'II,16)に基く革命によって共和制がもたらされるべきであるというこ とにおいて、正に、く革命前夜)とも言うべき状態にあったヨーロッパ諸国に捧げられたもので、

共和制国家を実現させる革命という(日の出)をく前)にしたく歌)なのである。 「恐怖や驚異

の念によって作り出され、 (本来自由な)目や手や椿神を1つに拘束してしまう全ての雲や鎖を

(6)

『日の出前の歌』試論 139

バラバラに破壊し去るべき光、光、光よ.′」(̀Light,light,andlight!tobreakandmeltin sunder/Allcloudsandchainsthatinonebondagebind/Eyes,hands,andspirits,forged byfearandwonder,II,15)、(自由な人の糖神を)「閉塞させ、固定させる君主や僧侶」(̀prince thatclogsandpriestthatclings,II,21)、というような言い回しには、明らかにブレイク (WilliamBlake)の影響が認められる。そして、下に引用した1節が述べているような、「時や 変化や死があるからこそ、人間の不滅の魂は、人から人へ、歌から歌へと伝えられて行く」とい う思想は、マクガン(JeromeJ.McGann)も指摘するように、ブレイクやポイットマン(Walt Whitman)の基本的な考え方と同じものと言えよう(13)

Otime,Ochangeanddeath, Whosenownothatefulbreath

Butgivesthemusicswifterfeettomove Throughsharpremeasuringtones Ofrefluentantiphones

Moretender‑tunedthanheartorthroatofdove, Soulintosoul,songintosong,

Lifechangingintolife,bylawsthatworknotwrong;(II,24)

「万物は流転する」という古代のギリシア人が畏怖した運命観に対して、スウィンバーンが少な くとも、憎しみや恐れを感じていないのは、上の引用の2行目に̀nothatefulとはっきり書かれ ていることから見ても、明らかである。(「序曲」においても、若者と(時の翁)は仲よく肩を並 べて坐っていたし、く時の翁)の語る真理も若者には決して不快なものではなかったのである。) 冒ease

そして、自由な魂の歌を後世の人々に歌い継ぐぺきく歌人)としての、理想的な芸術家のあるべ き姿がここでも述べられているのは言うまでもないことである。

自由という(日の出)を目前にした夜の世界の情況を対話形式で展開させている、「夜の見張 り」("AWatchintheNight")に続いて、有名な、「ばびろんノ川ノホトリデ」("SuperFlumina Babylonis")が置かれている。この詩のタイトルは勿論、旧約聖書の『詩篇』(Psalms),137章、

1節の「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した」に由来する もので、そのラテン語のタイトルは『ウルガタ聖書』(VulgateVersion)によるものである。バ ビロンに囚われたイスラエルの民が祖国を思い、涙して歌った故事をふまえ、そのイスラエルの 民のように、自由を奪われた精神(特にイタリア)に対して歌いかけることによってこの詩は始 まっている。そして、「各人に、その手が成すべき仕事を、頭に載くべき冠を、公正なる運命は 与えるのである。世界の生命を一身に担い、自らの生命を投げ捨てる者は、そのようにして死す ることによって生きるのだ」(̀Untoeachmanhishandiwork,untoeachhiscrown,/Thejust

Fategives;/Whosotakestheworld'slifeonhimandhisownlaysdown,/He,dyingso,

lives,'II,38)と歌う1節は、批評家達が指摘するように、新約聖書、『マタイ伝』(Matthew)の 10章、39節の有名な言葉、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失 っている者は、それを得るであろう」(̀Hethat丘ndethhislifeshallloseit:andhethatloseth hislifeformysakeshall丘ndit.')をふまえているのは明らかである(14)

。このようにキリスト

教の言葉使いを巧みにもじりながら、詩人は、「自由(ここでは、イタリア共和国の独立)とい

(7)

う大義名分のために、自らの生命を懸けるものは、たとえその人が死んでも、その精神は永遠に 生き続ける」ということを述べているのであるが、それと同時に、 「その不滅の自由の精神を歌

う芸術(請)も永遠に生き続ける」と主張していることは、次の1節からも推測することができ る。

On the mountains of memory, by the world s well‑springs, In all mens eyes,

Where the light of the life of him is on all past things,

Death only dies. (II, 39)

「(不滅の精神を持つ)人の生命を懸けた光が過去のすべてのものを照らしている(人類の)記 憶の山の上で、世界の起源がそこから湧き出た泉の傍らで、全ての人々の眼の中で、死するのは 死のみなのである」と〔m〕, 〔W〕, 〔1〕, 〔d〕といった頭韻を響かせながら、スウィンバーンは、

自由の精神を体現している芸術の不滅性を歌っているのである。 「世界の起源の泉」とも言うべ き古代ギリシア以来の人間の精神を、人々の「記憶の山の上」に築き、後代の「全ての人々の 眼」に触れるようにしているのは、例えば、最古の叙情詩人、サッフォー(Sappho)のような不 滅の魂を持つ芸術家によって残された芸術作品なのである。

く日の出)を妨げる夜の闇になぞらえて歌われている「ローマを目前にしての停止」 "TheHalt before Rome"),く日の出)がやってくるまで自由という真理のために生命を懸けることを説く、

「メンタナ: 1周年記念日」 ("Mentana: First Anniversary"),救世主となる神の子を宿した聖 母マリアのように、祖国の自由のために生命を投げ捨てた、 「神の如き救世主的兵士」 (̀godlike soldier‑saviour')を4人も息子に持った母親のことを歌う「祝福されるべき女性」 ("Blessed among Women")、キリスト教会の通商の形式を用いて、ヨーロッパの諸国が、 「人に、生まれ よ、とお命じになったあなた、人に、自由であれ、と命じて下さい」(̀Thouthatbadestmanbe born, bid man be free,'II, 65)と母なる大地に祈る「国々の通商」 ("The Litanyof Nations") と続いているが、 「国々の通商」以外は、いずれも単調で、冗長な感じがすることは否めない。

そして、その次に置かれているのが「ノ、‑サ」 ("Hertha")である。

この詩は、 『日の出前の歌』を含むスウィンバーンの全ての作品の中でも代表的な詩と見撤さ れており、又、彼自身も、 「私が書いた全ての詩の中で、 1個の作品としては『パーサ』が最も 優れたものだと思っております。と言うのは、この作品の中で、最高の叙情性と音楽性が、凝縮 された明快な思想と、最大限に結合しているからです」 (̀Of all I have done I rate Hertha

highest as a single piece,丘nding in it the most of lyric force and music combined with

the most of condensed and clarified thought')と述べている(15) 「私が最初に存在したもので あり、私から歳月が流れ出し、神も人も私から生ずる。私は常に変わらず、あまねく存在するも の。神や人も移ろい、その姿は体ごと変化する。私は(変化し、移ろうことなどない)魂なので す」、と‑ーサ自身が語り出す、次に引用したスタンザと共に、この詩は始まる0

I am that which began;

Out of me the years roll;

Out of me God and man;

(8)

『日の出前の歌』試論

I am equal and whole;

God changes, and man, and the form of them bodily; I am the soul.

(II, 72)

141

自由の精神そのものとしての「母なる大地」への祈りが歌われている「国々の通商」のすぐ後に 置かれていることからも判断できるように、この作品の中では、その母なる大地(地球)に最初 に存在し、森羅万象を生ぜしめたものとして、ノ、‑サが描かれているのであり、上に引いた1節 の最初の2行は正にそのことを述べているのである。スウィンバーンにとって、キl)スト教の神 も含めて、およそ神というものは、「人が自分で勝手に作り上げたもの」(̀theGodoftheir fashion.'II,74)であるので、「神も人も変化し移ろう」(引用の5行目)のである。しかし、パ ーサは、「常に変わらず、あまねく存在する魂」(4‑5行目)として不滅なのである。

「あの騒々しい音は、『時』が、翼を広げて、頭上の枝を登って行こうと足をかける時にたて るもの。それで、回りに生えている多くの私の葉は、ザワザワと音を出し、彼に踏まれて、枝は 折れ曲がる」(̀ThatnoiseisofTime,/Ashisfeathersarespread/Andhisfeetsetto

climb/Throughtheboughsoverhead,/Andmyfoliageringsroundhimandrustles,and

branchesarebentwithhistread,'II,76)、と歌われるスタンザでは、「序曲」で若者と肩を並 べて歳月の川のほとりに坐っていた(時の翁)が再び登場し、「世界の木」、つまり、ユグドラシ ル(YggdrasiLここでは、‑‑サが支配する世界の象徴として用いられている)に、翼を広げた 鷲のように、取りついているのである。そして、そのために、ザワザワと不安げな音を出して揺 れている葉は、く時)に対して無力な人間を象徴していると言えよう。永遠の自由の世界に参入 する人にとっても、死は避けられないのであるが、その死を恐れ、怖がるあまりに、「鞭である 教義」(̀Acreedisarod,'II,75)を要求する信仰の仕界に逃れても何にもならないことがこ こでも示されているのである。パーサはさらに、「私はあなた達に、ただ、存在せよ、とのみ命 じます。私には祈りなど不要なのです。あなた達が自由でさえあればよいのです。丁度、あなた 達のロが、私の(自由な)空気を必要としているように」と、次のように語る。

Ibidyoubutbe;

Ihaveneednotofprayer;

Ihaveneedofyoufree Asyourmouthsofmineair;

Thatmyheartmaybegreaterwithinme,beholdingthefruitsofmefair.

(II,78)

ピ‑フー)‑

ここでは、1行目と3行目の脚韻が効いていて、「存在することは正に自由そのものなのである」

ビー.フー)‑

と信じ、「自由であれよかし」と願うパーサの気持が、効果的に歌われていると言えよう。その ような、自由な不滅の魂を持つ人のみが「世界の木」の葉の1つとなり、世界の木はそれだけ豊 かになって後世の人々の役に立ち、そして、その後の世の人々がまた新たな菓となり、このよう にして、「世界の木」は無限に成長してゆくのである(16)

神も移ろうものであり、「神のたそがれがやって来た」(̀his〔i.e.God's〕twilightiscomeon

him,'II,79)と、「‑ーサ」で歌った詩人は、‑キリスト教の神も、堕落した「指導者達」(̀high

(9)

priests, II, 85)のために今では死んでしまったと、次の作品、 「十字架の前で」 ("Before a Cru‑

ci丘Ⅹ")において、はっきりと言明するO そして、夜の闇の幻の中で、キリスト教の神の亡きあと、

く最も聖なる人間の精神) (̀O spirit of man, most holy, II, 91)、即ち、く神である人間の魂〉

(̀the soul of a man, which is God,'II, 91)が現れるのを祈る声が聞こえたと歌う「暗闇」

("Tenebrae")に続いて、 「人間讃歌」 ("Hymn of Man")では、そのく神である人間の魂)に ついて、次のように説明されている。

But God, if a God there be, is the substance of men which is man.

Our lives are as pulses or pores of his manifold body and breath ; As waves of his sea on the shores where birth is the beacon of death.

(II, 95)

く誕生一生一死)を限りなく繰り返しながら連綿と続く、 (人類総体の本質としての『人』 ) (̀the substance of men which is man')が神なのである。個々の人間の生は、そのく人類の本 質としての『人』)の体から見れば、全くささやかな1つの「脈持」 (̀pulse'), 1つの「毛穴」

(̀pore)のような存在なのであり、海のイメージで言えば、生まれると間もなく死ぬことがはっ きりしている「波」 (̀wave)のようなささやかなものなのである。ここでも、スウィンバーンは 各個人は生まれた瞬間から死を免れ得ないことをはっきりと認識した上で、いかにささやかな貢 献ではあっても、人類の本質としての不滅の魂の世界に参入することの必要性を説いているので ある。彼はさらに、 「個々の人間が神なのではなくて、神は全てのものの結実なのだ」 (̀Not each man of all men is God, but God is the fruit of the whole/ II, 96)、 「個々の人間は 死滅するが、人類としての人は永続する。個々の生命は死ぬが、人類の生命は死ぬことはない」

(̀Men perish, but man shall endure; lives die, but the life is not dead,'II, 102)と述べる。

次の「巡礼者」 ("The Pilgrims")は、自由の魂を聖母として崇めながら旅を続ける巡礼達と、

彼らにさまざまな質問を発する人とが交わす対話詩という体裁を取っている。これまでさまざま な角度から述べられてきたく人類総体の本質である人)の不滅の魂が、さらに別の状況(つまり 巡礼者と質問者)において、歌われているのである。自由の魂のためにそのように献身しても、

「人々はあなた達のことを忘れてしまうだろう」 (̀And these men shall forget you.'II, 106) と質問者が言うのに対して、巡礼は、 「確かにそうだが、我々は大地、海、大気、炎(つまり、

地・水・火・風という、世界を構成する4大元素)、及び、それらが織り成す全ての善きものの一 部分となるのです。我々の流した血が多少なりともその心臓を活気づけることなしには、未来の 人は存在しえないのです。それは丁度、自由の魂を求める途上で殺された人々の血や、その人達 が生命を懸けた望みと全く同じものが我々の中にあって、それが、炎の如く燃える彼らの足跡を 追いかける我々を駆りたてているのと同じことなのです」 (̀Yea, but we/Shall be a part of

the earth and the ancient sea,/And heaven‑high air august, and awful丘re,/ And all things good ; and no man's heart shall beat/But somewhat in it of our blood once shed/Shall quiver and quicken, as now in us the dead/Blood of men slain and the old same life's

desire/Plants in their丘ery footprints our fresh feet, II, 106)と答え、不滅の魂の火は、く過 去一現在‑未来)にわたって、人から人‑途絶えることなく続いて行くと説くのである。

以上のように、哲学的とも言える内容の一連の詩が続いたあと、フランスの革命主義者のこと

(10)

『日の出前の歌』試論 SE

を歌った「アルマン・バルベス」 ("Armand Barb邑S"),共和制の精神を忘れてしまったフラン スに対する思いを述べた「彼女‑多クヲ愛シタガ故ニ」ぐ̀Quia Multum Amavit")が置かれて いるが、これらはいずれも空疎な作品と言える。と言うのは、この詩集でスウィンバーンが訴え ている自由が、本質的には、マクガンも指摘するように、政治体制としての自由ではなくて、さ まざまに異なる時空の下にいる人々に共通するく心の状態としての自由)であるからなのであ り、(17)特定の時事的な事件のみをテーマにして歌われる時、その詩は、中味のない感じを与え るからなのである。

3

「世界の生成」 ("Genesis")と題する詩の中で、スウィンバーンは、く世界の発生)というこ とについて、聖書の「創世記」 (Genesis)とは全く異なる彼独自の説明を与えている。彼によれ ば、この地球や全ての空間や万物が生じる前に、又、光や神と呼ばれるようなもの(̀anything called God/ II, 117)や人も存在する前に,夜が出産の苦しみに身もだえした後に、く生と死を合 わせもつ憩力なもの) (̀the strength of life and death,'II, 117)を生み落としたのである。

そして、神によって作られたのではないその悲しげな、形を持たない恐ろしいもの(即ち、く生 と死を合わせもつ強力なもの〉)が分かれて、光と闇、地・水・火・風となり、万物が発生し、

その中にまじって、 「生という広い翼によって投げかけられた影である死」 (̀death, the shadow cast by life's wide wings,'II, 117)も、 「人間の魂によって投げかけられた陰である神」 (̀God, the shade cast by the soul of man,'II, 117)も存在するようになったのである。ここでスウィ ンバーンは、生と死が表裏一体を成す1つのものの2つの面にすぎないことを指摘し、そして、

神も人間の魂によって生み出された陰であると述べることによって、造物主としての神による天

地創造という解釈を否定し、神と人の立場を逆転させているのである。さらに詩人は続けて、し

かし、これらは一見、多様に見えるけれども、あくまでも1つのもの(つまり、く生と死を合わ

せ持つ強力なもの))の一部分なのであって、万物は、 「死すべきものが永遠に続ける戦い」 (̀the

immortal war of mortal things,'II, 118)、つまり、生と死という「生命の聖なる対立」 (̀the

divine contraries of life,'II, 118)を避けることはできないのだ、と歌う。このように、個々の

生命には死が必らず訪れることを強調したあとで、 「この世に生まれた時から、先人(の魂)が

人の(魂の)中に宿っていたように、昔に死んでしまった人々の中に、未来の人(の魂)も宿っ

ている」 (̀And as a man before was from his birth,/So shall a man be after among the

dead,'II,119)と述べて、不滅の人間の魂が時間を超越したものであることを、改めて指摘して

いるのである。生と死、光と陰、昼と夜のように、対立するものの絶えざる交代によって永遠に

変化し続けるのが、万物を支配する法則であるという認識に基いて、哲学的な世界観を披歴して

いるこの作品の中でスウィンバーンは、く環世においても、来任においても永遠の生命などとい

うものは人には与えられてはおらず、必らず死がやってくる、というのが世界の真の姿であるこ

とを知らねばならないO しかし、人の魂の自由な活動は、生物学的な人類という種が存続する限

り,不滅なのであって,そのような自由な精神を充分に働かせた人の魂は、後にやって来る人々

にも確実に受け継がれる万古不易なものなのであり、逆に言えば、その本来自由な魂は、昔の人

の中に、将来やってくる人々のものとして、既に備わっていたと言うことになる)と述べること

によって、く襲世において徳を積み、心正しい行いをしておれば、来世には神の永遠の惟界に入

(11)

ることが約束される)と説くような教えを排除するのである。

その次の作品、「アメリカのウォルト・ホイットマンに寄せる」("ToWaltWhitmaninAm‑

erica")では、自由の国、アメリカの民主的な詩人であるホイットマンに、く諸国民の本質である 魂)(̀thesoulthatissubstanceofnations,'II,124)、即ち、く大地の神である自由)(̀the earth‑godFreedom,'II,124)を大西洋を超えて、ヨーロッパまで波及させてくれるようにと願 う気持が歌われている。それに続く、「クリスマスの唱和」("ChristmasAntiphones")は、3部 から構成されており、第1部の「教会内」(̀InChurch')では、人々がキリストに平和の到来を 訴えていることが歌われ、第2部の「教会の外」(̀OutsideChurch')では、キリストの教えと その死にも拘らず、圧制と暴力が依然として存在し、苦しみに打ちひしがれた人々が涙を流して、

キリスト自身に対して投げる不満と怒りが歌われ、第3部の「教会を越えて」(̀BeyondChurch') では、神に選ばれた人だけが救われるというような選別・差別をするキリスト教を乗り越えた所 に、暗黒の夜が明けて、自由な魂の日の出が覚れるのを待ち望む人々の気持が、いずれもクリス マスの祈りの時に用いられる唱和の形式を用いて歌われている。このように、スウィンバーンは、

キリスト教の言葉使いや祈りの形式を盛んに借用しながら、キリスト教を越えた思想を歌うので ある(18)

。続く、「新年のメッセージ」("ANewYearsMessage")でも、自由な魂の共和国の 到来を願う気持が歌われている。

「悲シミノ母」("MaterDolorosa")、「勝利スル母」("MaterTriumphalis")と続く作品は、

そのタイトルが示しているように一対になった作品で、人々に顧みられずに見捨てられ、蔑まれ ているく悲しみの母)の如き、境在のく自由の精神)は、実は、く勝利する母〉とも言うべき不 滅の存在であることが歌われている。「勝利スル母」の次の1節は、この詩集に対する作者の考 え方を要約していると言えるであろう。

Darkness to daylight shall lift up thy paean, Hill to hill thunder, vale cry back to vale, With wind‑notes as of eagles Aeschylean,

And Sappho singing in the nightingale. (II, 149)

ここで「あなたの」 (̀thy')と呼びかけられているのはく自由の糖神)である。その自由の精神 のく勝利の歌) (̀paean')を、夜の闇は日の出に対して捧げ、山から山‑、谷から谷へとその く勝利する母の歌)は轟き渡り、こだまを返しながら拡がって行くのである。その時、風の中に

ナイナインゲーfi>

聞こえてくるのは、アイスキュロスの劇の中の鷲が出すような、或いは、夜鳴き貨となって不滅 の歌を歌い続けるサッフォーの歌のような調べなのである。スウィンバーンは一貫して、アイス キュロスやサッフォーを、不滅の魂を持つ代表的な芸術家として見倣していたのであるが、引用 の最後のく夜鳴き鴬)のイメージは、この詩だけでなく、 『日の出前の歌』という詩集の意味を 考察する上で、極めて巧みに用いられていると言える。と言うのは、く夜鳴き鴬)とは文字通り、

° ° °

夜に美しい音色で鳴く鳥(しかも、不滅の魂を持つ芸術家であるサッフォーの化身である)なの

°       °

であって、その鳥が、く日の出前の)夜の世界の中で、不滅の魂を込めて精一杯に(敬)ってい

るからである。ここでは、 「何世代にもわたって時を旅して行く人間の母であり、人間の息、そ

してその心臓の血」 (̀Mother of man s time‑travelling generations, /Breath of his nostrils,

heartblood of his heart,'II, 144)であるく自由の魂)のことが歌われているのは勿論であるが、

(12)

『日の出前の歌』試論 145

同時に、その魂を後世に伝える媒介となる不滅の芸術作品を生み出したアイスキュロスやサッフ ォーの如き、芸術家の不滅の精神も強調されているのである。

「行進の歌」 ("A Marching Song")でも自由の世界の夜明けが、激しい口調で歌われており、

それに続く「シエナ」 ("Siena")では、聖女キャサリン(Saint Catherine)の故事を取り入れな がら、 「ああイタリアよ、光をあらしめよ」 (̀Let there be light, O Italy!'II, 169)と歌われ、

「心ノ中ノマコトノ心」 ("Cor Cordium")では、自由の歌を高らかに歌い、そして今はイタリ アの海に限るシェリー(Percy Bysshe Shelley)に対して、後輩の詩人としての敬意が表わされ、

「サン・ロレンツォにて」 ("In San Lorenzo")では、限り続ける夜に、く目覚めるべき時はま だ来ないのか)という問いが投げかけられている。

そして、そのく日の出)が始まる‑時間前のこととして、 「ティレシアス」 ("Tiresias")が歌 い出される。ここでは、盲目の予言者、ティレシアスと、兄を手厚く葬るために自らの生命を投 げ捨てたアンティゴネ(Antigone)の物語を踏まえながら、自由の魂を持つ人間と腰も、運命が 与える死から逃れることはできないことが強調され、それに、イタリアの統一による共和国の成 立という時事的なテーマが絡められている。ギリシア神話の錯綜したエビソ‑ドが至る所に恢め 込まれているこの作品は、読み易いものとは決して言えないが、この小論に関わりのあるものと

して、次に引いた1節が挙げられる。

Yea, they are dead, men much more worth than thou 〔i.e. man〕;

The savour of heroic lives that were, Is it not mixed into thy common air?

The sense of them is shed about thee now : Feel not thy brows a wind blowing from far?

Aches not thy forehead with a future star?

The light that thou may'st make out of thy name Is in the wind of this same hour that drives,

Blown within reach but once of all mens lives.   (II, 18ト82)

偉大な先人の自由な不滅の精神は、後からやってくる人間の世界に吹き渡る風となり、又、その 後代の人間が、さらに後の時代の人間にとって光となるべきものを作り出しても、その光は、す べて、これまでの偉大な先人が吹き寄こし、今もすべての人の所に吹き込まれている風の中に存 在する、というのである。つまり、偉大な魂の伝統は永劫不滅であって、後からやってくる人間 は、その同じ不滅の精神を発揮することによって、偉大な魂の系列が織り成す伝統の中に組み込 まれ、かくして、その自由な精神は、あの「ノ、‑サ」の中で語られていたく世界の木)のように、

永遠に成長し続ける、ということが、ここでは、風、光という新たなイマジェリーを用いること によって歌われているのである。一般的に、く風)は、詩人の霊感の象徴と考えられているし、

又、く光)は、太陽(つまり、太陽と芸術の神、アポロ)に属するものである。このように、こ の作品においても、詩集全体がそうであるように、く時事的な状況) (̀states of affairs')よりも むしろ、く精神の状況) (̀states of mind')が歌われているのである(19)

「国旗の歌」 ("The Song of the Standard")では、 「希望(の色)としての緑、信念(の色)

(13)

としての白、愛(の色)としての赤」 (̀Green as our hope in it 〔i. e. the banner of Italy〕, white as our faith in it, red as our love,'II, 187)を表わしている共和国の旗を取るようにと、

イタリアに命じているが、この詩は、く精神の状況)というよりも、表面的なく時事的な状況) のみを歌っているために、作品としてはすぐれているとは言い難い。それに反して、次に続く

「草丘にて」 ("On the Downs")は、マクガンも指摘するように、 「精神的自伝」 (̀spiritual autobiography')とも言うべき作品であり、正に、く精神の状況)を自伝風に述べている故に、重

要な作品と言えるのである。く20)風も太陽もなく、海も、空も、陸も全くおぼろげな日の出前の 時刻に、荒涼としたイギリス南部の草丘に立っていた時のことを、語り手は、あたかも眼前のこ とのように、回想しながら、その荒涼たる風景の中に、人の世の空しさを今、感じている。そし て、苦しんでいる人を救うべき「神など全く存在しないのだろうか?」と語り手の魂が問いを発 し、泣き崩れていた時、啓示の如く、母なる大地が、 「我が子よ、もしあなたが正にそれでなけ れば、神など存在しないのです」 (̀ThereisnoGod, Oson,/If thou be none,'II, 194)と語っ て聞かせる。この言葉は、既に述べた、 「人間讃歌」の̀But God, if a God there be, is the substance of men which is man'(II,95)や、 「アメリカのウォルト・ホイットマンに寄せる」

の中の̀The great god Man, which is God'(II, 124)と同じものである。語り手は、この言 葉によって、夢から覚めた人のように啓示を与えられ、 「人間界、植物界、動物界,鉱物界、探 海、川、そして、人々が愛し、憎む全てのものの中に、多様であるけれども、実は1つの調べで あるもの、つまり、成長する1つの神がいる。それは、死、運命、着きもの、悪しきもの、変化、

時間と共に成長する、ある1つの強力な勢力とも言えるもので、これは、他のいかなるものによ っても作られたのでもなく、く崇高に生きよ)と命ぜられる時が来るまで、全ての人の中に待機

して隠れているものなのである」と言う真理を悟るのである。 「多様である1つの調べ」とは、

各個人に宿っている不滅の魂のことであるのは勿論である。 「他のいかなるものによっても作ら れたのでもない」 (̀uncreate')という言葉も重要な意味を帯びていて、聖書に書かれているよう に、はじめに神が存在し、万物を「創造」 (̀create)した、という解釈を否定しているのである。

また、 「強力な勢力」とは、丁度、ノ、‑サがそうであるように、世界が始まった時に存在してい たもので、生や死や世界の全ての変化を合わせ持つ全てのものの総体としての不滅の魂のことで ある。そして、全ての人にはこの不滅の魂が宿っていて、不滅の崇高な世界に参加すべき時が来 れば、その魂を充分に発揮できるのである。

そのような啓示によって開眼された目で海の方を見れば、 「夏の色をした軽やかな海の上に、

まるで、巻きつけられた旗が風によって自由にはためき出すように、今、日の出の赤い輝きが、

活気のある太陽の旗を振り広げ、その赤い旗の輝きが、風下の活気づいた白い海と、喜びに溢れ た緑の草丘の方へと拡がって行った」 (̀Like a furled 凸ag that wind sets free,/ On the swift summer・coloured sea /Shook out the red lines of the light, / The live sun's standard, blown to lee/Across the live seas white/And green delight,'II, 196)のである。この詩の冒頭の、

静まり返っていたおぼろげな、海を見下ろす世界に、遂に、日の出がやって来たのであり、その 日の出の輝きを、 「活気のある太陽の旗」と描写することによって、この直前に置かれていた作 品、 「国旗の歌」との連続性が示されている。そして、上の引用の最後の4行において、く赤・白

・緑)というイタリアの3色旗の色が、日の出の光、海の白波、草丘の描写の中で用いられてい るのである。

く今や機が熟したから、鎌を入れて収穫物の刈り取りを始めよう)と、夜の闇の中で苦しんで

(14)

『日の出前の歌』試論 147

いた人々に、起ち上がるようにと呼びかける「収穫月」("Messidor")に続く、「カンディアの反 乱に寄せる歌」("OdeontheInsurrectioninCandia")の中では、「血は霧の如く滴り、命は 雨の如く流れ落ちるけれども、多くの人が生き延びる代りに自由が殺されるよりは、戦いで、1 人か2人しか生き残らなくてもまだその方がましだ」(̀Thoughblooddriplikedew/Andlife rundownlikerain,/Itisbetterthatwarsparebutoneortwo/Thanthatmany一ive,and

libertybeslain,'II,202)と歌われている。自由を求める戦いの中で巣れた「これらの人々には 不滅の歳月が与えられる。苦痛、臨終の最後のひと息、苦しみの一瞬と交換に、地上に栄誉が存 在する限り、これらの人々は永遠の栄誉を手に入れる」(̀these〔have〕theimmortalyears./

Theseforapang,abreath,apulseofpain,!Havehonour,whilethathonouronearth

shallbe,'II,204)からなのである。クレタ島のカンディア(イラクリオン)で、自由を求めて 反乱を起こし、その戦いの中で変れたギリシアの人々も、古代ギリシアにおいて不朽の栄誉を残 した人々と同様に、又、2千年以上もの歳月の隔りを超えて、自由の精神をその不滅の芸術作品 によって我々に伝えているギリシアという名前と同様に、その精神は永遠に続くものなのである。

不滅の自由の魂を持つ人は、死ぬことによって永遠に生きることになる、とここでも詩人は歌っ ているのである。つまり、マクガンの表現を借りて言えば、人間は、後代の人々のために、光を 放つ太陽なのであり、人々は次々に伝えられて行くその太陽の光の如き、自由の精神という霊感 の中で生き続ける、という、この詩集の重要な主張がここでもなされているのである(21)

「痛クノ、ナイノダ」("NonDolet")と題するソネットで、イタリアに起ち上がるようにと願 う気持が歌われ、次の「エウリディケ」("Eurydice")では、く自由)が、夜の闇の世界に捕われ た神話上の女性、エウリディケに峻えられ、彼女を連れ戻すオルフェウスに、ヴィクトル・ユゴ ー(VictorHugo)が愉えられている。(ただし、このソネットの中では、オルフェウスが後ろ を振り返って見ても、エウリディケは姿を消さないことになっている0)次に続く、「懇願」("An Appeal")、「死者ノ如ク」("PerindeacCadaver")はいずれも、かつてはミルトン(JohnMilton) やクロムウェル(OliverCromwell)を生んだ共和国であり、又、自由を求めるマッツイー二のよ うな人々を保護してきたのに、その本来の精神を忘れ、自由を抑制しそうな気配を示している英 国を弾劾している作品であるが、テーマが「時事的な状況」のみであるために、詩的完成度は低 いと言える。次の「単調音」("Monotones")では、不滅の魂を持つ人々が起ち上がるまで、い かに単調で、退屈なものであっても、真理も、旗も、光も、ただ1つだけである故に、く我々の 奏でる調べは、ただ1つの音のみである)と歌われ、『日の出前の歌』という詩集が、執劫にく単 調音)を繰り返し奏でなければならないことのアポロギアとなっている。続く、「奉納」("The Oblation")では、(心から大切な愛するもの)(̀Heartofmyheart,'II,221)に対して、くあな たが生き続けるためであれば、たとえいかなるものでも、一身に代えても私は捧げるつもりであ る)と歌われ、その次の「一年の歌」("AYear'sBurden")では、「希望は死ぬけれども、信念

は生きる‑‑・。死に生を与え、死者に打つ手を与える人間の精神は、少くとも大丈夫」(̀Yet, thoughhopedie,faithlivesinhope'sdespite./...Thesoulofman,thesoulissafeat

least/Thatgivesdeathlifeanddeadmenhandstosmite,'II,223)、と不滅の魂は、死ぬこ とによって永遠に生き続けることが歌われている。

4

(15)

詩集の最後を飾る「終曲」 ("Epilogue")は、下に引いたスタンザと共に歌い出される。

Between the wave‑ridge and the strand I let you forth in sight of land,

Songs that with storm‑crossed wings and eyes Strain eastward till the darkness dies ; Let signs and beacons fall or stand,

And stars and bale五res set and rise ; Ye, till some lordlier lyric hand

Weave the beloved brows their crown,

At the beloved feet lie down. (II, 226)

上の引用の第1行と、「序曲」の第1行(̀Betweenthegreenbudandthered,'II,3)が同じ

構文になっていること、そして、この詩の最後と「序曲」の最後が共に同じ̀seaという単語で 終っていること、使われている韻律が同一であること、そして、これら2つの作品のタイトルが 対照的であること、これらのことによって明らかなように、この「終曲」は、詩集冒頭の「序曲」

と一組になるべきものとして書かれている(22)

。この「終曲」は、「序曲」が終っている所、即ち、

「聖なる海の自由で広い世界」の描写から始まっていて、「序曲」では「休むことなく働き続け」、

そして、「長い時間をかけて考え続ける(不滅の自由の魂を持つ)人々」が、最後に見つけるこ とになっていた広々とした海に、詩人はやって来ているのである。「政のうね」(即ち、自由な海) と、人々の住む陸地がある浜辺との中間に、今、詩人はいるのである。この今、詩人がいる場所 は、重要な象徴性を持っている。つまり、スウィンバーンにとって、詩人(芸術家)とは、不滅 の自由な世界と、死に脅かされ苦しみあえいでいる一般の人々の仕界との丁度中間にいて、自由 な(海の)精神を、海を渡る風の如き霊感によって、(陸の)人々に伝えるために働く人間なの である。詩人は、「嵐に邪魔をされることもある(霊感の)翼」によって、「陸の見える所」に

「歌」を送り出し、その歌の進路を導くのろLや星が明滅するのを見守り、そして、自分よりも

「もっと堂々とした歌い手」が現れるまで、愛する自由の足元に歌を捧げるのである。後からや ってくるよりすぐれた詩人は、さらに力強く、自分が受け触いだ自由の魂を人々に伝え、このよ うにして、自由の魂は、次から次へと譲り渡され豊かになって行く。この考え方は、既に何度も 指摘したように、この詩集でスウィンバーンが、さまざまに異るイメ‑ジや比職を用いながら、

く単調音)の如く、繰り返し表明しているものであるが、上に引用したスタンザで取り分け注目 すべきことは、くさあ行って、愛する人(即ち、自由)の足元にひれ伏すのだ)と「歌」に言挙 うたぴと げしながら、歌人としての詩人の任務をはっきりと述べていることである。

詩人の放つ歌は、目指す愛する人(自由の不滅の魂)のまばゆいばかりの光に比べれば、全く 取るに足らないようなものであるが、恥じ入ることはない。と言うのは、弱々しく無力に思われ る全ての人の中にあるのは、ただ、く1つの思想、1つの光、1つの調べ、1つの情熱、1つの

心、1つの音楽、1つの力、1つの炎、1つの祭壇、1つの聖歌)(̀Onethought.‥one light,/…Onechord‥.,/Oneheat…,/Oneheart,onemusic,andonemight,/One

且ame,onealtar,andonechoir,'II,228)であるからだ、と彼は歌う。この̀one'の繰り返し

は、正にく単調音)そのものを示していると言える。不滅の魂を持つ1人の人間(マッツイーニ)

(16)

『日の出前の歌』試論 149

が、混乱の時代の海が泡立っていたさ中に、 「(自由なる)ローマをあらしめよ」 (̀Let there be Rome,'II, 228)と言った時、そこにローマが現われたのであり、その言葉は、正に、道しるべ

として宇宙に輝く1つの星、 「目に見える音、耳に聞こえる光」 (̀Visible sound, light audible,' II, 228)とも言うべきもので、そのような不滅の魂を持つく太陽の神(アポロ)〉 (̀Thesun‑god,' II, 228)が現われたために、夜の闇を支配していた悪しき星の如く、王国が次々に崩れ落ちて行

く。だが、夜から(日の出)への変化を司るく運命)が、暖味で不完全であるために、夜明けの 光は仲々見えてこない。それで、悲しみに打ちひしがれた人々は待ち切れず、夜の世界が与える

「安逸と眠り」 (̀ease and sleep,'II, 230)を求めるようになり,やがて絶望が生じ、人々は卑 屈になり、争い、裏切り、暴力、恐怖の混乱の世界に戻る。しかし、全てのものの外に超然と立 ち、じっと我慢強く、夜明けを待つことができるのは、魂だけなのである。つまり、 「地球が始 まって以来、誰にも及びもつかない或る1つの根から、色とりどりの果実を穣らせる多くの精神 を持つ人類の魂だけが、艮きにつけ、悪しきにつけ、歳月の経過を見守ってきた」 (̀Sheonly, she since earth began,/The many‑minded soul of man,/From one incognizable root/That bears such divers‑coloured fruit,/Hath ruled for blessing or for ban/The flight of seasons and pursuit,'II, 232)のである。この魂は、 「私が最初に存在したものであり、私から歳月が流 れ出し、神も人も私から生ずる。私は常に変わらずあまねく存在するもの。神や人も移ろいその 姿は体ごと変化する。私は魂なのです」 (n, 72)と語り始めるパーサと全く同じものである。

共和制の精神を支配する魂として、彼女は、万物の生生流転を見守るのである。そして、その次 のスタンザでく時の翁)が又しても登場し、 「我々を愛する故か、疑う故か、いずれとも分らな いが、今しも、強烈で危険なく時)が翼を打ち震わせながら高い所に止まり、日の出前の薄暗い 時間を光と闇に分けようとして、はっきりとは見えない翼から夜の影が、明るく輝く翼から昼の 光が落とされる」 (̀Even now for love or doubt of us/The hour intense and hazardous/

Hangs high with pinions vibrating / Whereto the light and darkness cling, /Dividing the dim season thus,/ And shakes from one ambiguous wing/Shadow, aild one is luminous, / And day falls from it,'II,232)、と歌われる。ここで歌われている(時)は、 (羽根を広げた鷲 の如く、 「世界の木」に止まっている) (n, 76)、と「パーサ」の中で描かれていたく時の翁) と同じものである。既に少し触れたように(137頁)、く時の翁)は、中世以来の寓意画に多く描か れ、そして、その後は、絵画は勿論のこと、文学作品においても、そのイメージは盛んに用いら れてきたが、寓意画に描かれる一般的な(時の翁)は、普通、背中の翼と共に、手に大鎌を持つ 破壊者、即ち、恐ろしく、忌むべき(死神)として描かれるのに対し、スウィンバーンがここで 述べている(時の翁)は、大鎌を持たず、翼を持つだけとされ、つまり、早く過ぎ去る時間のみ を強調していると言えるのであって、く時)は、確かに、闇の如き死を人間にもたらしはするけ れども、同時に、明るい昼の光の如き生をも与えるのであって、忌むべきものとしては描かれて はいない。(23) 「序曲」で若者と並んで坐っていたく時の翁)も同様であるが、彼は、く運命) (̀fate')と呼びかえてもいいもので、人間にとって愛すべきものとか忌むべきものではなくて、

(「我々を愛する故か、疑う故か、いずれとも分らないが」、上の引用、 1行目)人間には全く無

関心に、闇(死)と光(坐)の変遷を支配する存在なのである。このようなく時の翁)を登場さ

せることによって、ここでも詩人は、永遠の生などというものは有り得ず、人間には必ず死が訪

れるが、しかし、それを、恐れたり、忌むべきものとして取り扱うべきではないことを、訴えて

いるのである。

(17)

戦いや圧制の下で人々は苦しんでいるけれども、 「我々一般の人間よりも、はるかに遠くの事 物を見聞きする人間がいる」 (̀men there are who see/And hear things other far than we,' II, 233)のであって、彼らは、 「与えるべき生命と恵みを持ち、 (不滅の自由な)魂を見たために、

(永遠に)生きる人々」 (̀Men who have life and grace to give,/Men who have seen the soul and live,'II, 233)なのである。そして、 「彼らのあらわな栄光の死体が、空に向かって輝 く光となり、一般の人々よりも確実に(事物を)見つめる人が、それらの中に、何という光や、

やすらぎがあることかということを発見する」 (̀Their mere bare body of glory shines/

Higher, and man gazing surelier sees/What light, what comfort is of these,'II, 234)ので あるO ここでも、スウィンバーンは、事物をくより確実に見つめる)ことのできる人が次々に現 れることによって、自由の魂は、個々の人間の死にも拘らず、人から人へ伝えられて行くという ことを主張しているのである。そして、くより確実に事物を見つめる人)とは、シェリーが、 「詩 人は非公認のこの性界の立法者である」 (̀Poets are the unacknowledged legislators of the world')と言う時のく詩人)と同じような種類の人のことを指していると言えよう。(24)そして、

今、語り手も、じっと目を凝らしていると、感覚に信頼の炎がともされ、太陽の始まる所、つま り、そよとの風もない天空と、風立ち披騒ぐ海を分けながら始まる(日の出)の情景が浮かんで くるのである。

そして、そのあとに続く3つのスタンザで、くとある6月の夜明け前、海‑出かけた人が、優 しい暗い海の中に喜ばしげに体を浸し、徐々に明るさを増してくる東の空の方に向かって泳ぎ出 すと、まるで花が咲く時のように、日の出の光が射してきて、そして、太陽が充分に昇り切る前 に、泳ぎ手と共に、海面をおもむろに広がるさざ波が、パッと火がついたように輝くのを見て、

そのすばらしさに心から笑い、そして、頭を上げてゆっくりと泳いでいると、水中ではなくて、

光がゆれ動く天空にいるような気になりながら、激しく体に打ち当たる日の出の海の満開の花が、

回りを取り囲み、覆い包むのを感じ、徐々に輝きを増す黄金色の波間を堰かれたように泳ぎ進み、

全ての波しぶきが赤く輝くのを見ると、自分の魂もそれにつれて輝き出し、海の心をこのように 燃え立たせている喜びをあこがれ求めるようになる。丁度、そのように、暗い世界を、まるで帰 るべきノアの方舟を持たない鳩のように、天の方を指して求めて行く自由な不滅の魂は、記憶を 磨滅させてしまう歳月の行き過ぎ難い海を超越するのであるし、自由であるべき人々の耳元に、

太陽の方に向かって鳴っている雲雀となって呼びかける。又、その自由の魂は、波がきついとい う理由で、自ら漕ぎ出そうとせず、妙な舵手(即ち、暴虐的指導者)を探し求め、自分自身を奴 隷にしている人々に対して、この目の出前の遊泳者と全く同じように、目指すべき目標としての、

太陽の輝く方向を指し示すのである)、と語られる(E, 235‑36)c 日の出前の海に泳ぎ出して行 く人物を取り囲む情景の描写は、生涯、海を愛し続け、く海の詩人)とも言われたスウィンバー ンの面目躍如たるものがあり、おそらく、彼自身の体験に基いて描かれており、 『日の出前の歌』

という詩集のクライマックスを飾るのに誠にふさわしいものであり、斎藤氏も指摘するように、

正に、 「秀逸」であると言えよう。(25)そして、このあと、日の出の方向を指して薄暗い海を泳い でいるこの人物の上に、 (日の出)が必らず訪れることを確信していることが歌われ、次に引い

たスタンザと共に、この詩集は終るのである。

Yea, if no morning must behold

Man, other than were they now cold,

(18)

『日の出前の歌』試論

And other deeds than past deeds done, Nor any near or far‑off sun

Salute him risen and sunlike‑souled, Free, boundless, fearless, perfect, one, Let mans world die like worlds of old,

And here in heaven's sight only be

The sole sun on the worldless sea. (II, 236)

151

く自由で、束縛も、恐れもなく、完全な1つの太陽の如き魂を持つ人の上に朝がやって来ないの ならば、人間の世界は滅べばよいのであり、人間のいない海の上に孤独な太陽を祝われさせれば よい)と、逆説的な言い回しを用いることによって、詩人は、人間の自由な魂がある所には必ら ずく日の出)がやって来ることを歌っているのである。もう一度改めて強調しておくが、スウィ ンバーンは、ここで、イタリアの独立というような、特定の政治的自由のことを歌っているので はなく、もっと普遍的で根本的な人間の精神のあり方についての確信を表明しているのである。

5

『日の出前の歌』の個々の作品について、我々は、以上のように、順次、概観してきたのであ るが、この詩集において、作者が終始一貫した態度を保持していることは、充分に指摘できたは ずである。第1章で触れたように、この詩集に関して、批評家の問に意見の対立があるのだが, その大きな理由の1つは、この小論においても何度か触れたように、スウィンバーン独自の神話 的仕界とも言うべき体系があることであり、第2に、彼独得の文体が、時として、冗漫さや冗長 感を生じさせ、読者にいらだちと当惑を与えがちであることによるものと思われる。しかし、レ イモンド(MeredithB.Raymond)も指摘するように、スウィンバーンの神話的世界や彼の他 の作品をも含む全体像を考慮に入れて、「再読」(̀rereading')し、「分析」(̀analysis')すること、

つまり、「忍耐」(̀patience')と「努力」(̀study')によって、この困難は克服されるはずなので ある(26)

かつて、メレディス(GeorgeMeredith)が、スウィンバーンには「内的中心」(̀internal centre')が全くないと言い、又、モリス(WilliamMorris)が、スウィンバーンの作品は、「本 性ではなく、文学の上に基いている」(̀foundedon】iterature,notonnature')ようなので共感 できなかったと批判したが、スウィンバーンという詩人の全体像を視野に収めた上で読み返せば、

ラングの言うように、「スウィンバーンの最良の作品が、文学ではなく、本性の上に基いたもの であり」(̀Swinburne'sbestworkwasfoundedonnature,notonliterature')、又、「彼の所謂、

『内的中心』が、書物や、自由や、進歩ではなくて、彼自身の『精神』であった」(̀his"internal centre"wasnotbooks,liberty,progress,but...hisown<fクWZ#')ことが理解できるはずなので ある(27)

いま上で述べたことを、『日の出前の歌』に引き寄せて言えば、この詩集は、イタリアの独立

という個別的、かつ政治的な問題をモチーフにしているのでは決してなく、既に繰り返し指摘し

たように、詩人にとって根本的に重要な関心事であるく普遍的な自由の精神)を歌っているので

ある。『詩とバラード』(第1集)でスウィソバ‑ンは、(1)エロスを志向する態度、(2)タナトスを

参照

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