ノヴゴロド史研究の課題と方法
著者 石戸谷 重郎
雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学
巻 13
ページ 1‑23
発行年 1965‑02‑27
その他のタイトル ЗАДАЧИ И МЕТОДЫ ИЗУЧЕНИ
Я НОВГОРОДСКОЙ ИСТОРИИ
URL http://hdl.handle.net/10105/3414
ノ ヴゴロド史研究の課題と方法
4‑j H 谷 重 郎 (史 学 教 室)
1
ロシア西北部のノヴゴロド市またはそのかなり広い周辺をふくむノヴゴロド地方への歴史的関 心は、大別するとノヴゴロドがモスクワ中央集権国家に征服・兼併される1478年以前と以後との
2つの時期に向けられている。 1478年以後ではまさに「モスクワ国家」 (mOCKOBC壬くoe rocyAap‑
CTBO)の一地域としてノヴゴロドがとり上げられるのであるが、かのホロ‑プ「登録帳簿」
(sanncHafl Kroira)の如きは、まさにノヴゴロド地方についてのみ豊富にかつまとまって残され ている史料の典型的なものである。 16世紀末にはモスクワ国家によって「債務ホロープ」 (Kニ6‑
a.ibHbift xojion)の法規定、とくにその登録が指示されるが、この債務ホロープ法令が一片の空 文におわらなかったことを立証し、債務ホロープなるものの広範な存在を確認することは、もし ノヴゴロド地方の「登録帳簿」も他の地方のそれと同様に散逸し去っていたとすれば、きわめて
(1〕
実鉦性の乏しいものにおわらざるを得ないであろう。
ホロ‑プの「登録帳簿」が、どちらかといえばホロープ問題という限定された枠のなかで、研 究者の眼をノヴゴロドにひきつけているとすれば、いわゆる「ノヴゴロド土地台帳」 (HoBropoユー C王くan n三ICIJOBaH Iくm‑ira)は,農民・土地問題はもとよりおよそ15‑16世紀のロシア社会経済史を
(2)
論ずるためには、何よりもまずこれを引用せざるを得ないという重要性をもっている。とくにこ の土地台帳は同一地域についてのいく度かの調査がもり込まれているので、発展の様相がそれに 反映しており、ロシア最古の現存土地台帳としてその史料的価値は絶大なものがある。ノヴゴロ
ドの「土地台帳」現存史料の成立は何れも1490年代以後に属するが、ペレリマンが試みているよ
(3)
うに、 1478年の合併以前のノヴゴロドの姿もかなりの程度に推定され得るのであるD したがっ て、 「ノヴゴロド共和国「(HoBropoACIくan CecnyojiHKa)の崩壊過程、とくにイワン3世のノヴ ゴロド土地没収を考察するための不可欠の史料なることは、ベルナ‑ドスキイの近著「15世紀に
(4、
おけるノヴゴロドとノヴゴロド国」が示す通りである。
モスクワ国家の一地域としてのノヴゴロド地方をもって、モスクワ国家の全体を類推すること は勿論いましめらるべきであるが、史料的事情上述の如くであるために、ノヴゴロドへの関心は
(5,
ロシア・ソビエト史学において特殊な地位を占めているのである。ところが、モスクワ国家に合 併される前のノヴゴロドについても、研究史は実に多くの業績をもっており、そしてわが国にお けるノヴゴロド史研究とは、実はこの合併前についてのそれであり、本稿の主題もまたここにお かれている。合併前のノヴゴロドは、一艇に「ノヴゴロド封建共和国」または単に「ノヴゴロド 共和国」と呼ばれて(勿論両者ともに当時の歴史的術語ではない)、 「侯国」 (KH月>KeCTBO)と区 別されており、その特異な体制がわれわれの関心をひくのである.しかし、筆者はいきなり史料
に接し、あるいは先学の業績に刺戟されて、ノヴゴロド史に入ったのでほないO その動機と経緯 を述べることは、ノヴゴロド史そのものに関連するところが大きいので、まずそれからはじめた い。
上述のホロープ問題は、ホロープについての明確な法規定としての「ルス法典」 (もしくはそ
(6)
のままにルースカヤ‑プラーヴダPyccKaH npaB/ia)にまでさかのぼっての考察を必要とする。
しかし、そのルス法典がいっ頃そしてどのような事情で成立したかについては、それが何回かの 成立を明瞭に反映させているだけに、まさに難問としてロシア・ソビエト史学に多くの仮説を生 み出して今日にいたっている。そのなかでもチホミロフの「ルス法典研究」は各種のロシア年代 記を中心にこの法典の成立と纂編の歴史をノヴゴロドに密着させているという点でも、特色ある ものである。チホミロフ所説の根拠にふれるいとまはないが、かれの結論は次の如きものであ る: (1)ルス法典簡素編纂のI、いわゆる「最古のプラーゲダ」は「ノヴゴロドにおけるワリャ ーグ人の特権的な地位」を反映させており、 「その用語の古さほ、古代性によってではなくて、
(7)
資料のノヴゴロド起源によって説明される」。成立時点としては1036年がもっとも可能性が強い。
(2)簡素編纂I、 IIをあわせての最終編纂はフセウォロド侯がノヴゴロドに侯たりし1117‑1136
(8ニ,
年の問になされた。 (3)ルス法典拡大編纂は1209年のノヴゴロド蜂起に関連して行なわれ、商業
(9〕
と高利賃の条項が多いことはまたノヴゴロド起源を考えさせる。そして、 13世紀のノヴゴロド史 に見られるかの「ヤロスラフのダラーモニタ」 (rpaMOTbi耳pocjiaBjii子)についても、ルス法典の拡
(10
大編纂を指さすのではないか、と想定しているのである。
ルス法典の起源と成立をノヴゴロドに結びつけるチホミロフの基本線は、この法典の全ロシア 的性格を強調するグレ‑コフの見解と対立するものであるが、チホミロフ説を検討するためには どうしてもノヴゴロドの歴史そのものにとり組まざるを得ないのである。のみならず、ルス法典 簡素編纂の現存テクストのすべては、 「ノヴゴロド第一年代記」 (HoBropoACKan nepBan jieTon‑
HCb) 1016年の条に挿入されているものから起っているという事実に注目すれば、いよいよノヴ ゴロド史の検討なしには、ルス法典の成立史を云々できないことになるのである。
「第‑年代記」 1016年の条というのは、簡単にいえば、当時ノヴゴロドの侯であったヤロスラ
11)
フ‑ウラジーミロヴィッチがこキエフ大侯たりし父ウラジーミルの死後に兄弟と争ってついにキ エフを占領し、そのときノヴゴロド人に「グラ‑モク」を与えたというもので、そのグラ‑モク の内容としてそのあとにかかげられているのが、まさにルス法典簡素編纂Iおよび同Ⅱなのであ る。果たしてルス法典簡素編纂はそのような成立事情をもっているのかについては、ロシア・ソ ビエト学界の内外にはげしい対立がある。キエフ攻者にノヴゴロド人が協力したあとで金銭と法 をいわば「恩賞」として与えたとすれば、法典そのものにそのような性格が見出されねばならな いが、実はその点でも賛否両論に分れているのである。そして、何れにせよ、ヤロスラフ侯がノ ヴゴロド人に何らかの形の恩賞、.つまりルス法典簡素編纂そのものではなくても、いわば「特権 状」の如きものを与えたとすれば、それはさきにその名のみをあげた「ヤロスラフのグラ‑モ ク」との関係が一応検討されねばならないO 「ヤロスラフのグラ‑モク」というのは、 1229年の ミ‑イルのノヴゴロド侯位就任について「第一年代記」が「そしてノヴゴロドのすべての自由に 対し、またヤロスラフのすべてのグラーモクに対して宣誓した」と述べているように、ノヴゴロ ドの侯の就任にあたってノヴゴロドの自由をおかさないことを約束せしめられたものである。そ
ノヴゴロド史研究の課題と方法 (石戸谷)
3
の点では、 1016年にいうヤロスラフ侯がノヴゴロド人に恩賞として与えたというグラーモタと 1228年その他に見える「ヤロスラフのグラーモク」とを結びつけて考えたくなるのは当然であろ う。ところが、ここに第3の類似した、しかも内容の確実なブラ‑モクが出てくる。それは、わ
l/ゴT'Jオ‑ルナヤニクラ‑モク
が国でもその存在だけはすでに注目されている侯とノヴゴロドとの「契約」また'は「契約文書」
(12) (13二・
である。その現存史料の最古は、 1264または1265年のもので、当時ノヴゴロドに侯たりしヤロス ラフ侯(1016年のヤロスラフとは別人)がノヴゴロド統治の上の種々の制約的条件に宣誓したも のである(後にもう少し詳しくふれる)Oこの侯に対する制約を侯に認めさせたということは、例 えば1229年の「ヤロスラフのグラーモク」 (その内容は伝えられていない)との類似をまた考え させる。しかも1228年、 1230年にはヤロスラフ俣(1016年、 1265年のヤロスラフ侯とは別の第三 者)がやはり就任もしくは再任にあたって同じく「ヤロスラフのダラーモク」に宣誓しているの である。加うるに1265年の「契約文書」には「汝の父ヤロスラフの宣誓せるものに汝は宣誓せ
よ」とノヴゴロド人から要求されている。 1228、 1230年のヤロスラフ侯が、 1265年のヤロスラフ 侯のまさに父であることを考えると、いわゆる「ヤロスラフのグラ‑モク」の内容は、 1265年の グラ‑モク即ちここでいう「契約文書」の内容に近いものではないかと思われてくるのであるC
とすれば、 1016年にヤロスラフ侯が与えたという「グラーモク」も、同一系列のものであっ て、ルス法典簡素編纂ではない、という見方も出てくる。これに対して、以上の3つ、 (1)1016 年のヤロスラフが与えた「ブラ‑モク」 (2)1228‑1230年の条に言われている「ヤロスラフのグ ラ‑モク」 (3) 1265年の「契約文書」をすべて同一系列に属せしめないで、 (2) (3)は類似内容で
(14)
あるが、 (1)はルス法典簡素編纂Iに他ならない、と主張するのがチエレ‑プニンである。つま りチホミロフが、 (1)と(2)をルス法典に結びつけているのに対し、 (2)と(3)を「契約文書」のグ ル‑プとして考えるものであるG しかも、 (1)即ち1016年ではヤロスラフ侯がまさにブラ‑モ/'I
国>M
をノヴゴロド人に与えたとあり(ただし、ゲーツは年代記のこの部分を否定する)、そのあとに 出てくる(2)は当然(1)をうけつぐものという見解に対する反論として、チェレープニンの提出し ている説は、さらに第4のヤロスラフ侯を重く見るものである。この第4のヤロスラフ侯は1182
(16、
年から1199年までの問に途中で二度追放されて計三度ノヴゴロド侯に就任している。このような 侯の「追放」は12‑13世紀では珍らしいことではないが(後述)、チェレープニンはその過程にお いて侯がノヴゴロド人の「特権」ないしは「自由」を文書によって承認するにいたり、それが前 逮(2)1228‑1230年の「ヤロスラフのグラーモク」とよばれているもので、さらに形を整えて(3)
(17
1265年の「契約文書」に見るような内容になったもの、と主張している。
以上、ルス法典成立史の問題がノヴゴロド史とどのような関係にあるかについての諸説の一端 にふれたのであるが、これを究明するために大きくクロ‑ズアップされてくるのが、ノヴゴロド の「特権」 「自由」、つまり共和政の問題ということなのであるD
2
ノヴゴロド史研究のための基礎史料の第1に絶対必読のものとしてあげらるべきは、周知のよ うに、これまでもしばしば引用してきた「ノヴゴロド第‑年代記」である.この年代記の「宗務
(18、
院本」は、はじめいわゆる「年代記集成」の第3巻(1841年刊)に所収刊行され、さらに「古文献
委員会本」が1888年に出ているが、わが国では容易に読み得るものではなく、従来は英訳rノヴ
(19)
ゴロド年代記1016‑1471」 (1914年刊)が利用されていた。しかし、 1950年にソビエトでより完 全な刊本が出されてから、まず清水睦夫氏、ついで最近の田中陽児氏などがこれを活用しはじめ
(20)
ている。 1950年版については田中氏も大体のことにふれているので、ここにはそれ以外の諸点に 言及しておきたい。
およそ、歴史研究にとって年代記が貴重な史料たることは言をまたないが、とくに政治史を問 題にするときはこれなしには何も言えないであろう。ロシアの場合には上記の「年代記集成」が 現在までに全部で26巻でている。前記第3巻は、第ト2巻に先んじて1841年に刊行されたが、以 来革命までに23巻、そして革命後も続行されて第26巻はつい数年前に公にされたばかりであるO その殆んどはわが国に入っておらず、まさにわがロシア史学の立ちおくれの不名誉な例証でもあ
った。ただ戦前に、除村吉太郎氏が邦訳「ロシャ年代記」 (昭18年)を完成していたので、戦後の わがロシア史学はこれによって大きな前進をなしとげ得た。当時わが国でキエフ‑ロシア史の研 究が阿部重雄氏つ可村盛‑氏らを中心としてすすめられたのも、ひとえにこの邦訳の賜であった といっても過言ではあるまい。しかし、除村氏の邦訳は現代ロシア語訳からのものであるのと、
重要箇所が省暑されている点で(おそらく氏がテクストに使用した現代ロシア語訳でも省署され ているのであろう)、われわれの学問的良心を満足させ得なかった。このような情勢のもとで、
天理図書館が上記の「年代記集成」の第24巻までを一括購入したことは(昭27年)、まことに意義 が大きく、拙稿「ロシア‑ビザンツ条約」は除村氏邦訳に省暑されている10‑11世紀のこの諸条
・、21)
約のテクストについて、原典年代記を利用したささやかな仕事であった。かくて、天理図書館所
.22)
蔵の「年代記集成」仝24巻は、今後わがロシア史学の推進力たり得ると思われるが、一方におい て、ソビエト学界の第25巻「15世紀末のモスクワ年代記大成」 (1949年刊、 1072‑1492年)、第26 巻「ウォログダニベルミ年代記」 (1959年刊、最古代‑1538年)の刊行は、わが国ロシア史学の
(23)
徒にもひろく入手を可能ならしめたのみならず、かっての「年代記集成」の第1巻(1846年) ・ 第2巻(1843年)を修正した1926年版(第1巻)と1908年版(第2巻)とを、ともに昨年度にそ
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のまま復刻刊行した。これは、われわれにとっては文字通り干天に滋雨の恩いであり、これによ っていわゆる「ラウレンチェフキー本」 (「集成」の第1巻、最古代‑1116年、 1111‑1305年、 12 05‑1419年の3部)と「イパチェフスキ‑本」 (「集成」の第2巷、最古代‑1292年)を座右に備
(25)
えることができたわけである。
いま、このように「年代記集成」に言及するのは、たんにロシア史の史料として不可欠なるが ためばかりでI.′まなく、実は「ノヴゴロド第‑年代記」を理解するためには、ひろくロシアの他の 地方の歴史ないしは年代記編纂を考慮に入れなければならないと考えるからである。立鋸勺にいえ ば、ノヴゴロドの歴史はロシア史全体の発展のなかで観察さるべきであるO焦点はまさにここに ある。ノヴゴロド共和政の成立も展開もそして衰亡も、すべてはロシア史と切り離しては考えら れないのであり、とくに侯とノヴゴロドとの関係をみるときにこのような態度が必要である。ノ ヴゴロドの侯は、周知のようにつねに他侯国からノヴゴロドに就任したか、あるいは他侯国にあ ってノヴゴロド侯を兼ねたものである。これについては後にもう少し詳しくふれたいが、ノヴゴ ロド共和政の成立とは、キエフ大侯が自己の意志においてノヴゴロド侯を決定し任命し、さらに は更迭していたことに対するノヴゴロド人の反抗の勝利の形をとっている。しかも当時(12世紀
ノヴゴロド史研究の課題と方法 (石戸谷)
こ)
前半)のロシアでは、キエフ大侯位そのものがまた世襲的ではなく、一応いわゆる「年長帳石二制
」の原則によっていたのであるO このような事実を無視してはノヴゴロド共和政の成立を語るこ とはできないし、そしてそのためには「年代記集成」の第1巷・第2巻によって当時のロシアを もっと適確につかむことが前提となるO いいかえればキエフ‑:ロシア史そのものの再検討が必要 であろう。さらにノヴゴロド共和政はその確立後には、さきにも言及した侯との「契約」を結ん でいる。その快とはノヴゴロド侯であるとともに、より̲止二碇にいえば、ノヴゴロド侯であるより はむしろトヴェリ侯でありモスクワ侯であったことを忘るべきでない。かれらがトヴユリあるい はモスクワの利益をまず優先的に考えようとしたからこそ、ノヴゴロドほ種々の条件を提示し、
それを認めさせることによって侯の専断を制肘しようとしたのである。総じてノヴゴロドに誰が 侯となるかは、 「侯選択の自由」 (bojih b kh只3H)がいわれているにかかわらず、その侠位をう
かがう他の諸侯国の問の力関係も大きな影響を及ぼしている。 12世紀30年代からほぼ1世紀にわ たる期間は、ノヴゴロド侯の交替がもっともはげしかった時期であり、ノヴゴロド人が侯を「追 放した」 (croHHiua, BbiroHHiua)事例は枚挙にいとまがない。その際、これをもってノヴ='ロド 人の侯に対する抵抗の根強さ、あるいは民主的傾向のみを過大評価するのは警戒さるべきで、旭 侯国における情勢の変化がノヴゴロドに敏感に反映している場合が少なくないことに注目せねば ならない。勿論、ソロビヨフも指摘しているように、他侯国における紛争と内証、侯国問の対立 抗争がノヴゴロド共和政の発屡に大きな利益をもたらしたことは、充分高く評価さるべきである がO その他、対オルダー(金帳汗国)関係にせよ、モスクワ侯国が優勢を占めてノヴゴロド侯を 兼ねるとともにノヴゴロド‑の圧迫を強化しついには征服してしまう15世紀の問題にせよ、およ そノヴゴロド史をより深く追究するためには、全ロシア史そのものをより深く理解しなければな らないのである。その意味では、ノヴゴロド史考察の前提としての全ロシア史の政治過程がわが 国では従来あまりに貧弱な成果しかもたなかったことが改めて反省さるべきであろう。
およそロシアの各種年代記の成立と編纂、相互の関係、史料としての信悪性なにどついては、
;26)
多くの問題があるが、この分野での偉大な業績をのこしたシャフマノフの一連の労作がわがmで は参照することが現状ではきわめて困難なため、筆者白身もまだ手をつけていない。ただチホミ
(27)
ロフの「ソ同盟史史料学」 (1962年刊)は、大学生のためのものではあるが、ロシア年代記につ いての基本的な考え方を整理して示している。一般にロシア・ソビエト史学がノヴゴロド史を論 ずるとき、最も多く引用するのはいうまでもなく「ノヴゴロド第一年代記」であり、ついで「同 第四年代記」、そしてキエフとの関係ではラウレンチェフスキ‑木とイパチェフスキー本、ブス コフ・トヴェリ・モスクワの諸年代記があげられ、さらに他の年代記に見られない記事をふくむ という意味で「ニコン年代記」の引用も多い。ロシアC,D各種年代記は同じ年代については記狛勺 容が重複しているのは当然であり、その作者と編纂場所による異同ないしは特色の程度は‑拙こ いい切れない。その中でも、もっとも特色あるものの1っが「ノヴゴロド第一年代記」である。
・mi.
「ノヴゴロド第一年代記」も、他の年代記と同様に何人かの作者によって書き継がれている が、 1152年の灸ではその前後の記事の作者がどこで編纂に従事していたかだけは知られるC即ち
「6660年に。 4月23日、市場(TOpr)の中の聖ミ‑イル教会炎上、損害莫大(MHoro SbiCTb 3,71a), 全市場と河岸までの家々焼失す。ここスラヴノにまで〔延焼二。」 「スラグノ」とはいわゆる「スラ
28)
ヴェンスキイ区」でウォルホフ河右岸に位するノヴゴロド市の一部である。上の記事につづいて
この火災で9つの教会がやけたと述べているが、編纂はそのうちの一つの教会で行なわれていた のかもしれない。また1230年の条の前後の作者はチモフェイなる寺僧(nor寸OMapb)であることは、
1230年の記事に「わたくし、罪深き寺僧チモフェイ」とあるによって想像されるが、チホミロフ は、このチモフェイこそ13世紀成立の聖者伝「ロブコーフスキイ‑プロロ‑グ」(JloStくOBCKH員 npojior)の編者であり、ヤコブ教会の寺僧であって、少なくとも1188年からはじめはヘルマン
‑ボヤータにより、後にはチモフェイによってこのヤコブ教会で年代記編纂が行なわれていた、
と推定している(29)「第一年代記」に教会関係の記事がとくに念入り詳細であることを思いあわ せても、チホミロフの推定は当っているように恩われる。
3
さて、「ノヴゴロド第一年代記」を1950年版によって検討し(そこでは宗務院本は1016‑1352 年を含みCTapUIHHH3BOA旧版と名づけられ、委員会本・アカデミー本・トルストフ本は最古代
‑1447年まででMjiaauiH員H3BOA新版と呼ばれている)、続く時期を1478年の共和国滅亡までを
「ノヴゴロド第四年代記」「ソフィア第一年代記」「モスクワ年代記」を主に補って読んでみる と、たしかにノヴゴロドは現代史家によって「共和国」と呼ばれているに価するいくつかの特性 をもっていたように思われる。その一端については、すでにふれた通りである。
いま「ノヴゴロド第一年代記」だけについていえば(というのは、わが国ではその他の年代記 はノヴゴロドについてはほとんど顧みられたことがないので)、これに対する態度は大まかには 二つに分けられよう。一つは阿部重雄氏に見られる方法で、全体を通観しようと努めるもので、
密度は薄くなるが、ノヴゴロド史の発展の諸相がとらえられている。(30つもう一つは、田中陽児氏 が示しているように、部分的ではあるが、精密に理解しようとする態度で、田中氏はしばしばあ る部分については、年代記の難解なテクストをそのまま数行にわたって邦訳している(31)
。阿部氏
がそのノヴゴロド研究に従事されていたのは10余年前のことで、当時はなお「ノヴゴロド第一年 代記」の1950年版は入手し難い事情にあり、氏は田中氏にも利用されている英訳(既掲)によらざ るを得なかったが、それよりもむしろ氏の論考がモンガイトとフョードルの共著論文を骨子とし ている点に問題があるのではなかろうか。つまり、たとえ英訳によったにしても、「ノヴゴロド年 代記」をiE確に理解し、年代記からつかみ取られる多くの疑問(テクストの読み方だけでなく) に答えることば、容易な業ではなく、端的にいって1つ2つの論考では到底処理し切れるもので はない。その点では「民会」(Bene)に焦点をしぼって、それを通してノヴゴロド共和政の性格を とらえようとしている田中氏の¥f.場の方が、少なくとも有利とはいえようOしかし、田中氏がノ ブゴロド民会を論ずるにあたっていきなり13世紀から筆をおこしていることは、阿部氏がノヴゴ ロドを最古代から見とおそうとしていわゆる「原初年代記」の記事にまで眼をくぼっているのと 対称的である。もっとも田中氏論文は未完である故、なお批判を控えねばならないが、氏は「民 会」なる術語が「ノヴゴロド年代記」に使われている限りにおいてのみ、民会の召集を問題にし ている。しかし11‑12世紀においてノヴゴロドで民会が開かれていたこと、あるいは一般に「民 会」と年代記に明示されていなくてもそれが開かれた場合が多かったことは、ソビエト学界でも しばしば指摘されている(疑問に思われる場合についてもかれらは「民会がひらかれた」と断定 しすぎることが多いが)。しかし、問題は13世紀よりも前にもノヴゴロドで民会があったというこ とではなくて、ll‑12世紀ではノヴゴロド以外でも、極言すれば全ロシアの主要都市では民会が 普遍的にもたれていたのではないか、ということである。即ち、各種年代記によれば、キエフで
ノヴゴロド史研究の課題と方法 (存戸谷)
7
は1068年、 1069年、 1113年、 1141年、 1161年など、ウラジーミルでは1097年、ベルゴロドでは99 7年に、民会が開かれている。この各地における民会召集の問題は、民衆が重要な政治的役割を 果していたことを考えさせるもので、いいかえれば、 ll‑12世紀についてノヴゴロドの「特異 性」をどこまで強調できるか、という問題にからんでくるのである。
クリュ‑チェフスキーは、そのわが国周知の著「ロシア史講義」のなかで、 12世紀第1四半期 まではノヴゴロドの政治体制はロシアの他の地方と異なる特性をもたず、と述べている。し32)その 意味をク・J *‑チェフスキ‑は明確に説明していないが、民会と侯との間の財政‑納税のとりき めがこの時点より後のノヴゴロドでは「口頭の契約」によらず「成文化された契約」に韮いて行
なわれた、という意味で述べているようであるO 12世紀の第1四半期以後では管見では1126年に ノヴゴロドの「ポサードニク」 (後述)をノヴゴロド人自らが任命しキエフ大侯を待たなかったと 考え得る記事、および1136年にノヴゴロド人がノヴゴロド侯フセウォロドに3ヶ条(実質は4ヶ 条)の詰問状をつきつけて侯を追放するにいたった事件などがまず重要な意味をもってくると患 われる。ところが、ロシア・ソビエト史学でも、また多くの点でその影響をまともに受けている わが国のロシア史学でも、この1136年蜂起をノブゴロド共和政の第一歩と高く評価している、33)の に対し、チホミロフはその著「ロシア古代都市」 (ここで「古代」とはモンゴール侵入前の意味 で使われている)において、同様な現象はひとりノヴゴロドのみに限らないと指摘し、あわせて 民会の各地における開催についても多く言及しているのである。例えば、 1113年のキエフ民会に ついて、ウラジーミル‑モノマフがキエフ大侯になり得たのは「人民がすえた(侠位につけた) からである」と解し、しかもノヴゴロド共和政に見られる侯位就任にあたっての「契約」 (一部 既述、詳しくは後述)のようなものが結ばれていたと見ている。L、34)あるいはまた、 1146‑1147年 のキエフ民会と人民の動きについて、 「ノヴゴロドと同様に自由に侯を招き得る権利を留保しよ うとした」、 「この頃にキエフの千人長(TMCHUKMft)は、ノヴゴロドのそれと同様に選挙制にな った」と述べ、、35)キエフについては結論的に「12世紀後半には、キエフ人の同意をもって侯をキ エフの座にすえる慣習が最後的に確立された」、しかしキエフ市の経済的衰退・政治的発言力の 低下に加えて「タタールの侵入がキエフ民会の伝統を決定的に破壊した」と結んでいる。・二36、この 他、チホミロフは1151年のポロッツク蜂起を上土36年のノヴゴロド蜂起と同じ性格のものと断定
し、ガリーチに民会体制なしとするユシコフ説に反論を加え、ウラジ‑ミル(‑ザレ‑スキイ) の人民が1175年にヤロボルクに宣誓させた上でかれを侯に迎えたという「モスクワ年代記」の記 事を重要視している。
このようなチホミロフの所説は、従来ともすればすでに12世紀前半からノヴゴロドの「特異性」
を強調しがちであった傾向に対して、一つの反省をうながすものではあろう。しかし、 「ノヴゴ ロド第一年代記」をできるだけ精密にかつ全体を通観する態度で読んでみると、やはりノヴゴロ
ドがいわゆる共和国的な体制をとっていたことを否定し得ないし、またそれは12世紀30年代前後 からかなり明白な形をとり、 13世紀前半に確立されていると、いい得るように思う。
ところで、 「ノヴゴロド第一年代記」のような重要な基礎史料の検討は、テクストに即して全 文を邦訳することからはじめらるべきであろう。かの「原初年代記」については、既指の除村氏 邦訳があり、また木崎艮平氏や「古代ロシア文化研究会」による訳出(ともに未完)が試みられ ている。 「ノヴゴロド第‑年代記」の内容をできるだけ正確に理解するには、ロシア・ソビエト 史学のノヴゴロド政治史についての文献を参照することが有効と考えるが、この点でもっとも詳 細なのが、ソロビヨフの「ロシア史」である。37)クリュ‑チェフスキーについでいままたこのソロ
ビヨフの業績がソビエトで再版されはじめていることは、革命前の歴史学の成果に対するソビエ ト学界の評価の態度を示すものであろうが、ソロビヨフのこの大作は、ロシアの各種年代記を丹 念に読んだその結果が結晶されているもので、われわれが各種年代記を読んでその政治過程の理 解に苦しむ場合、その殆んどが、かれの「ロシア史」のなかに解答を見出し得るのである。勿 論、かれの答えを、現代ソビエト史学のそれに比べてみると、不適切ないし不充分が指摘される こともある。しかし、従来殆んど顧みられなかったソロビヨフは、今後わが国でももっと生かさ れねばなるまい。とくにソロビヨフにはノヴゴロドについて「ノヴゴロドの大侯に対する関係に ついて」と適する学位論文があり、公刊後1健紀をへた今L]ではわれわれには直抜読み得る機会 がないだけに、かれのその後の大作である前記「ロシア史」は充分に検討さるべきであろうo
「ノヴゴロド第一年代記」がわれわれをとらえるもの、それは民会・貴族・民衆・主教の役割 などの問題によってであるが、これらとならんでとくに注目したいと思うのは、 「ボサードニク」
と「侯」の問題である。
「ポサードニク」 (noca月hhk)はわが国では「市長」 「市政長官」などと訳されており、 13‑
15世紀にノヴゴロドが西方と結んだ条約ではHborchgrev' Hbormester "borgermeister"など の語におきかえられているので、(38)訳語としてはこれ以外にはないと思うが、要はその実質であ
るG ノヴゴロド共和国の特質の重要な一つが「民会」の存続にあったとすれば、その民会で重要 な地位を占めたのはまさにこのポサードニクであり、またノヴゴロド共和政が「責族的」といわ れるとき、その貴族の政治的権力はかれらがボサ‑ドニクにつくことによってかれらに確保され たのである。 「ノヴゴロド第一年代記」の顕著な特質の一つは、このポサードニクの交替に異常 な,、衷心を示し、それを丹念詳細に伝えていることである。勿論、脱落している部分もあるが、歴 代の「.ボサ‑ドニク名列表」をこの年代記がのせていることは、その関心の深さを示すものであ る。 ‑39)
ロシア・ソビエト史学の「ポサ‑ドニク」研究は、カライドウィッチの「ノヴゴロドポサ‑ド ニク試論」 (1821年)、プロゾロ‑フスキイ「ノヴゴロドポサ‑ドニク新考」 (1892年)など(40)を へて、比較的新らしくは、ブスコフのそれについてカフェンガウスの「古代ブスコフにおけるボ サードニクと貴族会議」 (1950年)が出ている。Cォ;カフェンガウスは、 「ブスコフ年代記」 (既掲) を主な手がかりとして、ブスコフの貴族会議がポサ‑ドニクより成ること、そのポサ‑ドニク職 が童身制なること、かなりの程度に世襲的であること、ブスコフのポサードニクの選挙制は史料 では確認されないこと、などを結論とし、さらにかの「ブスコフ裁判法規」によってそこに示さ れるポサ‑ドニクの裁判権の問題にもふれている。そしてカフェンガウスは、この論文の最後 で、ポサ‑ドニク制はブスコフでは充分明らかにされ得ない、より多くの資料と記述をもつノヴ
ゴロドのそれについて考察の必要あること、ノヴゴロドのそれはブスコフのそれとは若干異なっ た特質をもっている、と結んでいる。このような要望にこたえて登場したのが、ヤーニンのモノ グラフィ「ノヴゴロドのポサードニク(ォ)」(1962年)である。ヤーニンの研究史上の最も大きな特 色は各時代のボサードニクの印章に注目して、これを突破Eはしていくつかの難問に答え、ある いは定説を補強していることにあるが、それとともにノヴゴロドのポサードニクをその起源から 終末までを総合的に、しかもけっして素通りでなく考察していることは、ソビエトのノヴゴロド 共和匡圃F究を飛躍的に前進せしめたものといえようC その際、ヤ‑ニンが前記「ポサードニク名 列表」を狙上にのせていることは勿論である。ここでヤーニンのこの密度の濃い労作の全貌にふ れる余裕はないので、筆者自身が年代記から得た問題の2 ・3に言及するにとどめたい。
ノヴゴロド史研究の課題と方法 (石戸谷)
9
「ボサードニク」ははじめキエフ大侯によってノヴゴロドに任命されていた。そして12世紀の初 頃までほ、ノヴゴロド人でなく、確かめ得る限りではむしろ南方キエフから赴任している。のみ ならず、ノヴゴロドの侯とノヴゴロドのポサードニクの区別が明確でない場合も見られる。これ についてヤーニンは、当時は「侯‑ボサードニク.1と考え得るとしている。ここで重要な点は「ボ サードニク」が大侯の権力下におかれていることである。 「ポサードニク」の語源については、一 般には「ボサード」 .nocaa)即ち「商工地区」に由来すると考えられているが、ノヴゴロドのそれ が12‑15世紀において侯に対立する、いわば市民の代表としての地位をもっていたことからすれ ば、これが魅力的な解釈でもあろうが、やはりヤーニンの説くように、 「すえる」 (nocaノIHTb) に由来すると見るべきであろう。つまり、大侯が自己の代理者として「すえた」、 「任じた」のが 本来「ポサ‑ドニク」であった。このような大侯の代理者は14‑15世紀の史料ではふつう「ナメ ーストニク」 (HaMeCTHHK) (文字通り代理者の意味、ふつう「代官」と邦訳されている)と呼ば れているが、 10‑11世紀のロシア各地の大侯代理者について各種年代記が、 「ポサ‑ドニク」と
「ナメ‑ストニク」とを混用していることは、如上の推定が誤っていないことを示しているo Lかし、ノヴゴロドの歴史の全過程からいえば、 「ポサードニク」はいうまでもなく「大侯の 代理者」ではなく、 「市民の代弁者」であり「侯への対立者」である。したがってそれだけに、
前者から後者‑の転換期としての12世紀初ないしは前半が重要な意味をもってくるのであって、
これに宵する限り、従来の「ノヴゴロド共和政の基礎は12世紀30年代から」という定説は支持さ るべきである。
「ポサードニク」が民会とともにノヴゴロド共和政のシンボルの1つであったことは、対侯条 約・対外国条約に必らずその名をつらねていること(43}によって想像されるのみならず、共和国滅 亡の際示された姿の中にも明瞭にあらわれている。この時期はすでに「ノヴゴロド第一年代記」
の記事の範囲を越えるものであるが、 「モスクワ年代記」 「ソフィア第一年代記」 「ニコン年代記二 等によれば、 1477年秋から1478年春にかけてのイワン3世の対ノヴゴロド交渉は武力制圧下に行 なわれ、その際イワン3位の要求のなかには、とくに民会とその鐘の廃止およびポサードニク制 の撤廃がふくまれている。民会の機能を制限しようとするモスクワの政策は、ワシ‑リイ2位の 1456年の対ノヴゴロド条約いわゆる「ヤジュルビーツァ集約」にも、またイワン3世の1471年プ) それ、 「コルストゥイニ条約」にも一貫してあらわれているが、その決定的な瞬間においてイワ ン3世はついに「ポサードニク」そのものの廃止を主張して、ついにノヴゴロドにその要求を呑 ませたのである。イワン3世は、ノヴゴロド民会のシンボルたりし鐘をモスクワに持ち去るとと もに、ポサードニクをはじめ多数の貴族を逮捕し、さらにその後数年にわたってかれらの経済的 基盤である土地を没収する強圧策を断行したのである。(44二'ノヴゴロド共和国の終末期におけるポ サードニクの運命は、逆にポサードニクがそれまでに占めていた地位ol重要さを物語っていると いえよう。
ノヴゴロドのポサードニクはいくつかの発展段階をもっているが、 14世紀には1年毎の交替剃 となり、 15世紀には各区(KOHeil)の代表をもととする複数制になっている。しかし、それ以前 の12‑13世紀をもふくめて、ポサードニクに誰が選任されるか,という問題はいわば党派的な対 立を生み出し、さらにこれが侯の交替ないしは選定とからみあって、ノヴゴロドの政情を‑そう 複雑なものにしていたのであるが、 「侯の問題」については節を改めて考えよう。
4
〔付表I〕ノヴゴロド侯系譜
V 'I 3
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ドブルイニヤ マルーシャ
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コンスタンテン
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︒ ス コ
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Iフ フ
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(1)ヴイシェスラフ[2)ヤロスラフ
J
(3)イリヤ(4)ウラジーミル イジャスラフ
,I
スビヤトスラフ
l
*かっこ内の数字は「侯名列表」
(付表Ⅱ)の順位を示す。
フセウオドロ
= L l ウラジ‑亨ル(モノマフ) (5)ムステスラフ(7)スビヤトポルク(6げレ‑プ(9:ダヴイド オレ‑グ
フセウォロド
I.
郎)スビヤトスラフ
i [
!36)ウラジーミル フセウオロド
l
(54)㈱ミパイル
l
(57)ロスチスラフ
:.
ヤロスラフ
】
141)ヤロボルク
l113)ilo)ロスチスラフアンドレイ II‑‑‑l
l l 1
‑m E 蝋10)ムステスラフ ユy‑(ドルゴ
(121(14)スビヤトスラフ 1 ル‑キイ)
・Il.‑ 、 I.∴: I ̲
[
、IS.ごIln v. *‑^‑ー
ムスチスラフ(17)ヤロ
スラフ │38)40):42)ヤ(34)ロ1261リュ(19)ダヴ(22)64)ス(35)ムス ロスラフ マン ‑リク イド ビヤト チスラ
I l スラフ フ
」5)ロマン
ムステスラフ S3)ボリス 朋)ムスチ (46)姻ムス L スラフ チスラフ
t 1
(49)スビヤトスラフ (蝣50)フセウオロド
‑
ヽ′
ユリー(ドルゴルーキイ)
l
フセウオロド
、
舶コンス ユリ‑
包翻31)ムス 82)ヤロ 27!ユリ‑ 女ンチン チスラフ ポルク
1
28)スビヤトスラフ
mア ン
(51)153フセ オロド
イ レ
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コンスタンテン
I
73;ド ミ ‑トリイ ワ シ ー リ イ
﹁ フ ョ ー ド ル
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伽)ムスチスラフ
I I I
(47)(52)(55)(58)ヤロスラフ(43)45)スビヤトスラフ(30)ヤロスラフ
Il
.
脚(61)アレク(60)アン サンドル ドレイ
L l 】
162)ヤロスラフ アフ(641ワシ‑リイ
I ‑蝣‑ ‑蝣*‑
シイ
l
鵬ミパイル
Il
(63)ドミートリイ ダニ‑ル (88)ドミートリ
(67)ユリ‑ (70)イワン アファナシイ
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171)セメン172)イ ワ
i?4)ド ミシ シ ワ ワ ワ ィ .T : ・ f jn . r a
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‑ ア ン ド レ イ イ イ イ 世 ン リ リ リ 3
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アレクサンドル
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ノヴゴロド史研究の課題と方法 (石戸谷)
ll
侯の系譜のあとづけ(年代記そのものがそのための重要な資料である)は、キエフ国家でも、
あるいは一般諸侯国でも勿論重要であるが、ノヴゴロド史の考察にとっては特別な意味をもって いる。というのは、ノヴゴロドの侯とは、けっしてノヴゴロド生え抜きの侯ではないからであ る。このことは10‑11世紀の「年長虜番制」の原則がかなりの程度に実現されていた時期につい ては、ノヴゴロド外の地方にもいい得るであろう。しかし、この順番制が次第に顧みられなくな り、一方では世襲制が拍頭し、それにからみあって諸子分封の制がつちかわれてくる12‑13仕 紀、さらには全く各侯家がそれぞれの土地に定着し切った14‑15世紀において、ノヴゴロドが依 然として「固有の侯」をもたなかったということは、その共和体制と密接な関係があるものと予 想せざるを得ない。田中氏いうところの「たんなる外来者」でありつづけたことは、ノヴゴロド 侯の基本的性格であり、さらにはノヴゴロド共和国に決定的な影響を与えている。その際、ノヴ ゴロド侯は、ノヴゴロド人の意志によってであれ、大侯の決定・指示に基づいてであれ、いわゆ る「侯身分」に属する者の中からのみ速ばれたのである。ロシアでは、キエフ国家でもモスクワ 国家でも、「貴族」(60兄pe)はいかに有力になり大土地所有者になっても、絶対に「侯」(KHH3b) に上昇することは許されない。そしてノヴゴロド侯に、それら多数の侯の中から、具体的に誰が なるかは、結局は各侯家系の勢力関係によって大きく作用されてくる。年代記には「ノヴゴロド 人は侯を迎えに使を出した」という記事がしばしば見られるが、それを単純にノヴゴロド人自ら の意志によってその侯を決定したとばかり速断し得ないのであって、現実にはそのときどきの大 侯の子または弟が迎えられていて、年代記には明示されていなくても(明示ある場合も少なくな いが)、背後にそのような政治関係がひそんでいるかどうかも充分慎重に吟味されなければなら ない。そしてその大侯位自身がまた諸侯問の争奪の的になっていたことを考えれば、ノヴゴロド 侯位の交替事情はまことに複雑な背景をもっていたとしなければなるまい010‑11怪紀および14 健紀後半‑15世紀にノヴゴロド侯の交替が正常であった、つまりめまぐるしい更迭がなかったと いうことは、ノヴゴロド内部の事情によるよりは、むしろ大侯位が安定していたことにより大き な理由が見出さるべきであろう。(45)勿論、この二つの時期にはノヴゴロド侯と大侯との関係は基 本的に相異していて、前者では大侯の代理者としての性格のつよい侯がノヴゴロドに赴任してお りー後者では大侯がそのままノヴゴロド侯を兼ねて現地にはほとんど駐在することがなかった。
ところで諸侯家系の中に歴代ノヴゴロド侯を指し示すためには、その前提として誰と誰がノヴ ゴロド侯になったかの確認を必要とする。その点でまず参照さるべきは、さきの「ポサードニク 名列表」などとともに年代記に挿入または付加されている「ノヴゴロド侯名列表」である。(46;
「侯名列表」(「ノヴゴロド侯名列表」のこと、以下同じ)は延にして(再任などをふくむ放) 計76代のノヴゴロド侯をのせている。第1代はウィシェスラフにはじまるが、これはキリスト教 改宗以後からはじめているためで、「原初年代記」によってもこれが真実の第1代でないことは 明らかである(47)
。そして最後は第76代ワシーリイにおよんでいる。このワシ‑リイとはモスクワ
侯ワシーリイ2世(モスクワ侯として在位1425‑1462年)のことである。したがってこの「侯名 列表」を挿入している「ノヴゴロド第一年代記」の古文献委員会本など、1950年版にいう「新版
」(既述)の末尾が1447年までの記事をふくんでいることと思い合わせると、「名列衰」が最終的 にはワシーリイ2位の時代につくられたことを意味する。しかし、「新版」諸写本の「ノヴゴロ ド第‑年代記」が「旧版」のそれに基づき、「旧版」の最後の年1352年以後を書き継いでいるこ と、さらにその「旧版」そのものも書き継ぎ葺き足していることを考えると、「侯名列表」その ものがかなり長い歴史をもっていたことも想像されるのであるCシャフマトフが先ず注目し、そ
して後チホミロフもこれを支持しているように、(48) 「侯名列表」は少なくとも途中で様式が明白 に変っているQ それは第26代のリュ〜 lトソクからであって、これ以後はただ侯の名をあげるにす ぎない。もう少し具体的にいうと、例えば次の如くである。
A 「そしてかれ〔17ヤロスラフ〕が1年間坐した、そしてノヴゴロド人はかれを追放した。そし て〔18⊃ロスチスラフ‑ムスチスラウィッチを連れて来た。」‑‑・
B 「そして〔24スビヤトスラフはコ町から逃げたO そしてイジャスラフの孫なる〔25コロマン‑ム スチスラウィッチを〔人々は〕連れて来た。」
C 「そしてそのあとに⊂26〕リュ‑リックエロスチスラウィッチが坐した。」
D 「そしてそのあとに〔27〕ユリイ‑アンドレ‑ウィッチが坐した。」
即ちA、 Bの事例では交替の事情が記され、かつ上には示さなかったがロマン以前では圧倒的 大部分が在位年数も書き加えられている。これに対してC、 Dではきわめて粗暴に「そのあと に」 (hotom)とあるのみである。シャフマトフはこの「侠名列表」は1167または1168年(年代記 では6676年)で終っている年代記をもとにして(25)ロマンまでの表をつくったのであろうと推定 し、チホミロフはこのシャフマトフ説を「完全に支持し得るもの」と同意している。この時点以 後は、さらに途中から「そのあとに」にかわって「このあとに」 (no ceM)となるが、そこから
また別人が別の年代記で名列表をかきついだという推定も成り立つかもしれない。
ところで「ノヴゴロド第一年代記」の本文記事におけるノヴゴロド侯就任とこの「侯名列表」
とを対称し、年代記何年の条にそれぞれの就任の記事が見出されるかを付加したものが付表Ⅱで ある。表では、紀年数は年代記に用いられているビザンツ開聞紀元から一応機械的に5508年をひ いている。(4〕)
〔付表 Ⅱ〕ノヴゴロド侯名列表
(1) ヴイシェスラフ (2) ヤ ロ ス ラ フ (3) イ リ ヤ
(4)ウラジー ミル 1036 (5) ムスチス ラフ
(6)グ レ ー プ (7) スビヤトポルク (8) ム ス テ ス ラ
(9) ダ グ イ ド 1095 (10)ムステスラフ(‑8)1097 (ll) フセウ ォ ロド 1117 (12)スビヤトスラフ 1136 (13〕 ロステスラフ 1139 (14)スビヤトスラフ(‑12)ユ139 (15)ロステスラフ(‑13)1141 (16)スビヤトポルク 1142 (17)ヤ ロ ス ラ フ 1148 (18)ロステスラフ 1154 (19)ダ ヴ イ ド ユ154 (20)ムステスラフ 1154 (21)ロスチスラフ(‑18)1157
(22) スビヤトスフラ 1158 (23) ムステスラフ 1160 (24)スビヤトスラフ(‑22)1161 (25) ロ マ ン 1168 (26)リ ュ ‑リ ク 1170 (27)ユ リ 1172 (28) スビヤトスラフ 1175 (29)ムスチスラフ(‑23)1175 (30)ヤ ロ ス ラ フ 1176 (31)ムステスラフ(‑23,29)1177 (32)ヤ ロ ボ ルク 1178 (33) ポ リ ス
(34) ロ マ ン 1179
(35)ムステスラフ ユ179
(36)ウラジ←ミル 1180
(37)スビヤトスラフ 1180
(38)ヤ ロ ス ラ フ 1182
(39) ムスチスラフ 1184
(40)ヤ ロ ス ラ フ(=38)1187
(41)ヤ ロ ボルク 1197
(42)ヤロスラフ(‑38,40) 1197
ノヴゴロド史研究の課題と方法 (石戸谷)
(43) スビヤトスラフ 1199 (44) コンスタンテン ユ205 (45) スビヤトスラフ 1209 (46) ムスチスラフ 1210 (47) ヤ ロ ス ラ フ 1215 (48) ムスチスラフ(‑46)1218 (49) スビヤトスラフ 1219 (50) フセウ ォ ロド 1221 (51) フセウ ォ ロド 1222 (52) ヤ ロ ス ラ フ(‑47)1222 (53)フセウ オロド(‑51)1224 (54) ミ パ イ ル 1225 (55) ヤロスラフ(‑47,52)1225 (56) ミ パ イ ル(‑54)1229 (57) ロ スチスラフ 1230 (58) ヤロスラフ(‑47,52)1230 (59) アレクサンドル 1236
(60) ア ンド レ イ 1241 (61)アレクサンドル(=59)1241 (62) ヤ ロ ス ラ フ 1265 (63)ド トリイ 1273 (64) V シ ‑‑リ イ 1273 (65) ア ンド レ イ 1282 (66) ミ パ イ ル 1304 (67)ユ リ 1314 (68)ドミートリイ 〔1322〕
(69) アレクサンドル 〔1325〕
(70)イ ワ ン 1329 (71)セ メ ン 1346 (72) イ ワ ン
(73)ド ミ ‑トリイ (74)ド ミ ‑トリイ (75) ワ シ ‑リ イ (76)ワ シ ‑リ イ
13
この「侯名列表」がノヴゴロド侯に就任したもののすべてをっくしているか、あるか同一人物 の再度以上の就任を克11射こ記載しているかについては、若干の疑問も提出される。例えば、 (ll) フセウォロドほ1117‑1136の在位で「名列表」にも「フセウォロドほ20年坐して(CeAリB)、 〔人 々は⊃かれを追放し(Bbiraama)、そしてオレーグの子スビヤトスラフを連れてきた」と記されて いる。これがいわゆる「1136年のノヴ=I'ロド蜂起」といわれるものであるが、年代記本文によ
ると、それより前に1125年の条にいきなり「この年ノヴゴロド人はフセウォロドを座にすえた (nocaノiHiira Ha CTOJie)」とあって、 1117年以後、この1125年またはそれに近い年に一度フセウ ォロドが追放されたことがあるのではないかを考えさせる。(50)さらに1132年の条ではフセウォロ ドを「追放した」ことを明記するとともに、 「考えて」 (e且VMaBLue)再び連れ帰ったという記事 があるO ただ、このフセウォロドの場合、 1132年では追放後に新らしい侯が迎えられてはおら ず、 1125年の場合も同様と思われるので、 「侯名列表」の記載は不充分ではあっても不正確とは いい難い。
しかるに、 13世紀については、多分に再検討の余地が残されていると思われる。例えば、 (58) ヤロスラフ(47、 52と同一人)につづいて「侯名列衷」は(59)アレクサンドルに移っているが、
年代記本文では、ヤロスラフが三度目に侯位についた1230年の条でかれが「おのれの2人の息子 フョードルとアレクサンドルを、ノヴゴロドにすえた」とある。これについて、ヤ‑ニンは2人 の息子は代官にすぎないとし、その立論の根拠に「侯名列表」にないことをもあげている(51二ヤ
‑ニンによれば、 「この脱落は偶然とも考え得るでもあろうが」それ以後の「名列表」の記載か らすれば、偶然とするには矛盾があるといっている。管見では、実はこれ以後の記載こそ租漏に なっているのではないかと思うo即ち「侯名列表」の(61)アレクサンドルの再任から(66)ミ‑イ ルまでを年代記本文についてみると、 「侯名列表」にはノヴゴロド侯としてあげられてはいない にもかかわらず、次のような記事が見出されるのである。(数字は「侯名列表」の順位、圏点と数 字は引用者による。)
A 1255年「ノヴゴロド人はブスコフからヤロスラフこヤロスラウィッチ(62)を連れ来り、か
B 1255年
C 1256年
れを位にすえた。しかるにワシ‑リイを追放した。」
「 (ヤロスラフの兄アレクサンドルこれを怒り)アレクサンドル侯はおのれの位
° ▼ ° °
についた(ceAe)。」
「 (アレクンサドル供ノヴゴロドを去るにあたり)おのれの子ワシーリイを位に つけた(nocaAH)。」
D 1256年 「(アレクサンドル侯ノヴゴロドにタタールとともに来り、去るにあたって)お
t t ° ▼ 一
のれの子ドミートリイを位につけた。」
㊨ 1264年 「ノヴゴロド人はドミートリイ‑アレクサンドロウィッチを追放し・‑・・・アレクサ
o o o o °
ンドルの兄弟ヤロスラフ(62)を求めて使を出した(nociaiua no耳pocnaBa)。」(つ
o o o I O
づいて、 1265年1月に「 (人々は)ヤロスラフを位につけた」の記事あり。)
C
㊥ 1273年 「侯ドミートリイエアレクサンドロヴィッチ、ノヴゴロド(63)に来り、10月9日位
rJ G ° 0
についた。」
㊨ 1273年 「ドミートリイ自らの意志で位を退き‑‑ワシーリイ‑ヤロスラヴィッチ(64)、
o o o o °
ノヴゴロドにて位についたoJ
H 1276年 「ワシーリイ‑ヤロスラヴィッチ放す。ノヴゴロド人、ドミートリイ‑アレクサ ンドログィッチを求めて使を出した。」 (翌1277年記事にドミートリイを「(人々) 位につけた」とあり。)
① 1282年「(ノヴゴロド人とドミートリイとの対立.抗争につづいて)冬アンドレイ‑アレ
0 0 U 0 °
クサンドログィッチ(65)、ノヴゴロドに来たり、 ⊂人々コ位につけた。」
J 1284年 「(アンドレイ侯ニ‑ザに退き)ノヴゴロドの位をおのれの兄弟ドミートリイに
(J ° 0
譲った(C'tcTyilnca)c J
K 1293年 「(ドミ‑トリーと武力抗争ののち)アンドレイ侯自らノヴゴロドに来たり、
o a a 0 °
位についた。」
即ち、以上の11回がこの期問のノヴゴロド侯の交番と考えられるのであるが、 「名列表」には、
このうち4回の交替、 E、 F、 G、 .TがあげられているにすぎないO したがって13世紀の後半か らのノヴゴロド侯交替についてヤーニンが「名列表」を全面的に信頼する立場をとっていること は、首肯し難く思う。とくに「名列表」が(66)ミハイル‑ヤロスラヴィッチについて「そしてか れは3ケ月未満坐して、町から出ていった」とあるのみで、つづいて(67)エリー‑ダニローヴィ
ッチにうつってあとにもさきにもこのミ‑イルについてはこれ以外の記述がないことは、年代記 本文と全く矛盾しており、とくにミ‑イルの名でノヴゴロドと結んだいわゆる「契約文書」が多 数残されていること:52ノを考えるとき、われわれは年代記本文を‑そう精密に検討しなければなら ないであろうO
ノヴゴロド侯の交替・選定の事情(とくに誰のイニシアティヴできめられたか、ノヴゴロド人 によってか、大侯によってかなどの問題) ・追放.大侯の兼任など、われわれには残されている 課題が多いが、ここでは、交替のとくに頻繁な時期に注目しておきたい。全体的には12世紀30年 代から14榎紀20年代のイワン‑カリクーまで、とくに集中的には、1136‑1142年の7年間に、(ll) フセウォロドから(16)スビヤトポルクまで7人(延べ、以下同じ)、 1154‑1161年の8年間に(18) ロスチスラフから(24)スビヤトスラフまで7人、 1175‑1180年の6年間に(28)スビヤトスラフか ら(37)スビヤトスラフまで10人が、めまぐるしく交替せしめられている。さきにもふれたよう に、このような情勢がつねにノヴゴロド人自らによってのみつくり出されたとは限らないにして