埼玉大学紀要 教育学部,57(2):197‑210(2008)
近代移行期 における厚地綿布の品質 と価格
田村 均*
キーワー ド :近代移行期 、厚 地綿布 、短繊維綿、太糸、手紡 糸、機械紡績 糸、番手
1 は じめに
日本では、近世期にかけて短繊維系の中国綿 を原種 とする綿花の栽培が普及 し、綿業の領域 において短繊維太糸系の織物技術が発達 した。
自給用であれ商品向けであれ、衣料用に各地で 生産 された木綿織物は、お もに機械紡績綿糸相 当5‑ 9番手 (以下、「洋5‑ 9番手」 と略す) の極太ない し洋12番手前後相当の太糸系の手紡 糸 をしっか りと織 りこんだ、布地が強靭で耐久 性のある厚地綿布 を特徴 とした。 日本の在来綿 花の繊維長は上等品で も0.75イ ンチ (約1.9cm) で、その最適綿糸の紡出番手は洋12番手の水準 であ り、中 ・下等品 (0.625‑0.40イ ンチ) にな る と洋10番手以下の極太糸が綿糸好適番手で あった (中岡、2006)。
日本のみならず、中国をは じめ朝鮮 ・ベ トナ ムなど東アジア一帯で栽培 されたのが、中国綿 を原種 とする短繊維系の綿花であった。そのた め、キャリコ (極薄綿布) をめ ぐるインドとの 競争で 「長繊維綿 一細糸 一薄地布」 という品質 連関をつ よめたイギ リス綿業にたい し、東アジ アの棉業 には太糸厚地を特徴 とする 「短繊維綿
‑太糸 一厚地布」の品質連関がみいだされてい る (川勝、1991)。なかで も日本は、歴史地理的 にみると 「短繊維綿 一太糸 一厚地布」 として特
* 埼玉大学教育学部 コラボ レーション教育講座
徴づけ られる東アジア棉業の辺境的一角 をなし、
18世紀後半か ら西 ヨーロッパで発達する近代綿 業にたい しては、その もっとも辺境 に位置 して いた (中岡、2006)。近世期 をつ うじて洋20番手 以上に相当する細い綿糸 をうまく紡 ぎだす こと がままならなかった 日本において、庶民衣料が 洋10番手前後ない しそれ以下の極太糸へ依存 し なければならなかった所以である。
とはいえ、東アジアの辺境 としての歴史地理 的条件のなかで、近世後期か ら幕末期 にかけて の 日本で、「長繊維綿 一細糸 一薄地布」系 の縞
とうぎん
木綿である唐桟 を模倣する試みが生 まれた (佐 貫ヂ ・佐貫美奈子、1997、田村、2004)。 この う ごきは、お もに都市市場向けの上級品の生産対 応 としておこり、その一部は諸藩の国産化 プロ ジェク トにひきつがれ、い くつかの地方に伝播 した(1)。 この動向は、短期的には 「短繊維太糸 系の織物技術で、細糸薄地系の縞木綿 を模倣 し
ようとする矛盾 した試み」(中岡、2006)であっ たが、地方産地へ の高機 の導入契機 とな り、
中 ・長期的にみると近代移行期 にかけて 日本産 綿布の品質変化 とくに薄地軽量化 ‑ファッショ
ン化 をうなが してい く重要な誘因となった (田 村、2004)。「短繊維綿 一太糸 一厚地布」の辺境 国において、19世紀中葉か ら後半期 にかけて注
目すべ き胎動が生 じていたのである。
そこで本研究は、①近世後期〜幕末期に試み られた唐桟模倣の意義 と限界、そ して②細糸系
‑ 197‑
滞空
の輸入紡績糸 (イギリス糸) を利用 して国産綿 布の薄地軽量化が達成 される幕末 ・明治期にな お も太糸使用 を墨守 し、その在来性 を温存 した 厚地綿布の属性把握 とその品質変化 を追跡する。
ただ し、紙幅の制約か ら唐桟模倣に関する考察 はつ ぎの機会にゆず り、本稿では、明治期 に生 産縮小 を余議な くさせ られなが らも、地方市場 や地廻市場向けの需要 を残存 させていった旧来 的な厚地綿布の軌跡 を先行的に考察する。
2 太 糸の カテ ゴ リーにつ いて
あ らか じめ、「太糸」のカテゴリーについて概 括 してお く。
綿糸の太糸概念は時代 によって変化 した (衣 1)。イギ リス式の綿糸番手が定着す る明治中 期には、洋16‑24番手が 「太糸」、同28‑32番手 が 「中糸」、そ して同38番手以上が 「細糸」とし て分類 された。 これ らの分類標準の対象 となっ たのはお もに輸入錦糸であ り、なかで も中 ・細 番手はもっぱ らイギ リス糸が占めたのにたい し、
太番手にはインド糸が多かった (高村、1971)。 それ ら以外の もの として、洋10番手前後ない し それ以下の国産綿糸 (在来手紡糸、ガラ紡 ‑水 車紡績糸、初期紡績会社の生産品)が 「極太糸」
に分類 され、洋60番手以上のイギ リス製の瓦斯 糸が 「極細糸」 として とりあっかわれた。 とく に断 らないか ぎり、本稿 は明治中期の太糸概念 に依拠する。
日本の綿業界において太糸 という分類標準が
定着するのは、洋30‑40番手クラスの中ない し 細糸を、イギ リスか ら大量に輸入する明治20年 代以降のことであったとみてよい。 とりわけ洋 番手の分類標準が成立する経緯は、イギ リス製 の高番手で均質な工業製品の綿糸が大量 に流入 したため、商取引上、在来水準 に相当する各種 綿糸を太糸 として差別化する必要が生 じたか ら である。在来的な基準か らみれば比較的細番手 であった国産化初期の機械紡績綿糸 (洋12‑ 16 番手)が太糸 として分類 されたの も、そうした 事情が横たわっている。なお、洋16‑20番手水 準の綿糸は、明治政府の支援 を受けた初期紡績 会社が ヨーロッパか ら導入 した機械紡績技術 を もって して も、当初、短繊維系の国産綿や中国 綿を原料 としたため、首尾 よく紡出することが で きなかった (中岡、2006)。
冒頭で指摘 したように、世界的にみて極太短 繊維系 に属す 日本の在来綿花か ら手筋技術 に よってうまく紡出で きるのはせいぜい機械紡績 綿糸相当16‑18番手 くらいまでで、そのほとん どは洋10番手前後 (8‑12番手)の ものであっ た。 自家用に紡がれた綿糸のなかには、洋5‑
7番手 くらいの文字通 りの極太綿糸 もあったろ う。 しか し、そうした 日本の在来綿糸は、世界 のなかで もっとも激烈に細糸化 を追求 したイギ リス流 の近代概念 を用 い る と極太糸のカテ ゴ リーに一括分類 されて しまうが、当時にあって は洋10番手前後 に相当するものがごく標準的な タイプの国産綿糸であった。
したがって、市場サイ ドか ら必要以上には細
表1 各時代 にお ける太糸綿糸 の番手推移
種 類 近世後期 (幕末期) 明治20‑30年代 明治40年代
初頭 極 太
太 糸 (〜 9番手) 〜116‑2番手24番手
〜20番手 中 糸 (10‑14番手) 28‑32番
手 22‑40番手 細 糸
極細 糸 (15‑20番手) 38‑42
60番手〜番手 42番手〜
資料)近世後期 ;筆者の推定。明治20‑30年代 ;
五十嵐直三 『綿花綿糸売買慣習取調 報告書』1900年、高等商業学校 (国立国会図書
館蔵)。明治40年代 初 頭 ;大阪税 務監督局 『織物要綱』同監督局、1908年 (F明治
前期産業発達史資料』別冊(57)
Ⅳ、明治文献資料刊行会、1970年、所収)
糸化が要請 されなかった近世後期か ら開港以前 の幕末期あた りまでは、太糸 というとらえ方は 日本になかったと想定 しえよう。む しろ、明確 な規定ではないにせ よ、綿糸の太 さに関する相 対的な区別概念が生 まれたとすれば細番手のほ うに向けられたとみるべ きである。単位重量あ た りの繊維長 を計測 し番手数に比例 して細糸化 するイギ リス式の洋番手 とは対照的に、地域差 があるものの、和番手数は決め られた和糸の単 位総長あた りの重量 に反比例 して軽量細口化す る(2)。いいかえれば、長 さ概念の洋番手 にたい し、和番手には重量概念が採用 された。
つ まり洋番手 とは逆 に、和番手は番手数が小 さいものほど細事を意味する。そのため、近世 日本にあっては洋10番手前後に相当する在来標
かせ
準の ものよりも‑総あた りの重量が軽 目の錦糸 を、地方 ごとに何 らかの重量概念 を用いて区別 していったのである。地域の事情や産地の慣習 にそ くして、「何匁あが りの糸」 (3)というような 和番手の分類表現が、それに相当する。そ して 何 よりも、そ うした新たな分類基準 を考案 させ るほどに通常の ものよりも軽量細口の綿糸 を必 要 としは じめたのが、江戸などの都市市場で流 行 しはじめる縞柄のス ッキリとした上級縞木綿
さらし ち ゅうがた
や、晴の白い真岡木綿 を捺染 した中形のような 都市的な流行品であった。 白く、そ して糸ムラ がす くない細手の綿糸ほど、縞木綿業界や捺染 業界か ら歓迎 されたか らである。都市的な上級 品の登場による木綿の高級化 は、文化 ・文政時 代あた り幕末期 にかけて生 じは じめた新 しい流 行現象であった (田村、2004)。
要は、イギ リス製の輸入綿糸お よび紡績機械 の導入が、 日本にイギ リス式の綿糸番手標準 を 浸透 させる要因であったが、番手数の推移か ら うかがえる太糸概念の時代的な変遷は、それぞ れの時期に市場か らもとめ られた織物の品質の ちがいに起因 している。「細糸」や 「極細糸」な どの近代的なカテゴリーの成立は、流行市場の 時代的な趨勢 を色濃 く反映させ るものであった とみることがで きる。幕末開港以後、流行市場
が薄地軽量化のために加速度的に細糸化 を要求 しは じめたか らである。
縞木綿 に限定 していえば、文化 ・文政時代か ら幕末期 にかけて、唐桟模倣の試みや結城縞の 生産活発化が旧来の ものよりも糸ムラがす くな い細手の綿糸 を大量 に必要 とした。都市 的な ファッションとして人気 を集めた上級木綿の需 要増加が、在来綿糸の細手化 をつ よく刺激 して いったか らである。そのため、それまで使い慣 れていた洋10番手前後に相当するものよりも、
糸の細太の不同がす くない軽量細 口の手紡糸の 生産が各地で試み られ、機械紡績綿糸相当12‑
18番手 クラスの ものが幕末期の綿糸市場 に供給 されは じめたのである。
開港以前の具体例 を紹介 しよう。尾西地方で
さん とめ
活発化 した桟留縞の生産は洋10番手前後に相当 する在来糸を使用 したが、通常の ものよりも糸 ムラがす くない ものが歓迎 され、結城縞の生産 ではそれよりも細事の洋16番手前後に相当する 細 口糸が要求 された。いっぽう、武州入間地方 では和唐桟 に和糸 「十二糸」(洋16番手相当)が 使用 されたのにたい し、結城縞 には和番手で「九 糸」や 「八糸」と呼称 された、当時 としてはもっ とも袖口となる洋20‑22番手に相当する常陸 ・ 北条地方産の手紡糸が使われた (田村、2004)0 ただ し、和番手の 「八糸」は洋22番手に相当す るか らといって、その品質が、機械製の輸入綿 糸 (イギ リス糸) とおなじような細 く斉‑な綿 糸であったとみるわけにはいかない。
くりかえすが、短繊維太糸系の在来綿糸 (和 糸)は手筋のため糸ムラが多 く、在来綿花の上 等品 (0.75イ ンチの繊維長)の最適紡出水準の 洋12番手 をこえるような、たとえ洋16番手以上 に相当する細手であっても糸の太 さには不同が 発生 した (佐貫ヂ ・佐貫美奈子、1997)。 もと もと毛羽が立ち、 しか も糸ムラが生 じやすい短 繊維綿を用いて、手紡 ぎ作業によって経済的に 採算が とれる範囲内で軽量細口の綿糸 を紡 ごう とすればするほど、糸ムラが 目立ちやす くなっ たであろうことは想像するに難 くない。
‑ 199‑
3 幕末期における厚地綿布の晶質 と価格
近代以前か ら、 日本における厚地綿布の代表 的存在であったのが河内木綿や三河木綿であっ た (永原、1990、武部、1989)。たとえば河内木 綿の品質について、天保期に書かれた大蔵永常 の 『公益国産考』は 「糸太 く地厚 きを名物 とせ り‑ (中略)‑諸国の暖簾油単は河内毛綿にか ぎれ り」(4)とし、また嘉永〜慶応期 に書 き足 され た喜多川季荘の 『守貞護稿』 も 「錦性良ク故二 久 シク損破 セズ ト錐モ糸染色美ナラズ」 (5)とし ている。
しか し、その糸遣い (番手構成)や量 目 ・価 格 などの実態 となると不明な点がす くな くない。
とりわけ、近世ない し幕末期の品質に関 して先 行研究や織物史を参照 して も、堅牢かつ耐久性 のある太糸厚地の木綿 といった程度の一般的な 説明 しか得 られない。史料データの制約か ら、
在来綿布の具体的な属性 をあきらかにで きない か らである。
こうしたなかで、明治末期 に編纂 された‑餐 料が、幕末期 に遠州地方で生産 されは じめた笠 井縞 (遠州縞の前身)の品質を 「茶縞及浅黄縞 ニシテ経緯十番手内外 ノ太物地二限 レリ」(6)と
たて よこいと
説明する。笠井縞が、経 ・緯糸 ともに洋10番手 前後に相当する綿糸を使用 した縞木綿であった ことが指摘 され、近世 日本の標準 タイプの在来 綿布であったことが示唆 されている。ただ し、
この所見 も、おそ らく当時の業界関係者や古老 などか らの聞 き取 りによるもので、幕末期の史 料 デー タに依拠 した ものではない。客観 的 な
データか ら当時の実状 を把握するのは容易では ないが、本研究では、糸遣い (番手構成) と量 目の2点に くわえ、必要にお うじて価格の面か ら厚地綿布の具体的な属性 を分析する。
表2に、佐貫ヂ民 らの再現作業 (佐貫ヂ ・佐 貫美奈子、1997)に依拠 し、幕末期の尾西地方 でさかんに生産 されていた各種縞木綿の番手構 成 (推定値) を示 した。それ らに使用 された と 想定 しうる手紡糸の太 さを洋番手に換算す ると、
つ ぎの とお りである。すなわち、桟留縞 (下等 品)・官大 臣縞 ・佐織縞の3品種がそれぞれ洋 5‑ 8番手に相当する極太糸遣いであ り、 しか もそのいずれ もが1反あた りの量 目が250‑330
もんめ
匁におよぶ厚地で重量感ある縞木綿であったこ とが うかがえる。 また、洋16番手以下相当の番 手構成であったと想定 しうる桟留縞 (和唐桟) の うち、洋9‑13番手相当の中等品が1反200 匁前後の量 目となって、官大臣縞や佐織縞に準
じるような、比較的重量感のある厚地系の製品 であったとみ られる。 これにたい し、洋13‑16 番手相 当の桟留縞の上等品の量 目が200匁以内
(150‑190匁)であった とみ られ、その当時、
都市的 な上級編木綿 の代表格 であった結城縞 (16‑25番手/140‑160匁)の品質に近似 して いたことが うかがえる。
それに して も、衣料用の在来木綿1反が250
‑330匁 とい う値 は、 1kg内外 に相当する重量 である。おそ らく、かつて 日本各地で織 られて いた地縞や 自家用の在来綿布のうち、 とくに冬 物の普段着や労働着などに供せ られたのは、そ うした1反300匁前後 もしくはそれ以上 にお よ
表2 幕末期 ・尾張地方産の縞木綿の番手構成 ほか (推定)
織物種類 綿糸相当番手 (洋番手換算) 筏密度 (推定) 1反重量 (試 算)
官大臣縞 5‑6 6‑7算
330匁前後
佐織縞 5‑6 6‑
7算 330匁前後 桟留縞 (下等品) 7‑8
7‑8算 250‑270匁 桟留縞 (中等品) 9‑1
3 8‑9算 . 190‑230匁 桟留縞 (上等品)
13‑16 10算 150‑190匁 結
城縞 16‑25 ll‑13算 140‑160匁 典拠)佐貫ヂほか 「江戸期 ・尾張の桟留機な
らびに桟留縞の復元」F中京大学教養論集』31巻2号、
1990年3月.佐貫ヂ・佐貫美奈子 『木綿伝承一手紡ぎ入門‑』染織と生活社、1997年0
ぶ量 目で厚地 の ものであった とみ られ る(7)。 こ うした厚地綿布 は、文化 ・文政か ら幕末期 にか けて流行 した都市的な軽量綿布 の うち、縞木綿 としては上記 の結城縞、そ して自木綿ではお も に小紋地や中形 ・絞 り地用 として歓迎 された真 岡晒 (1反150匁前後)の2倍相 当の重 さがあっ た ことになる。おな じく短繊維綿の 日本綿花 を 手紡 した在来綿糸 を用 いて製織 した木綿製 品で あ りなが ら、縞木綿 の製品間に価格差 のみ な ら ず2倍 もの重量差が出現 していた ことは注 目に 値す る といわなければな らない。
大 蔵 永 常 の 『公 益 国産 考』 は、和 泉地 方 で
「薄地の下直 なる木綿、其外極 うす地織 出せ り
‑ (中略) ‑或 は因州 にては地細 に して、 まう か木綿 にまがへ る上木綿 を織 出せ り」(8)として、
もおかまがい 幕末期 において安価 な薄地物や 「真 岡紛」 の よ
うな上質な木綿 の軽量品が出 まわっていた こと を指摘 している。文化 ・文政期 における軽 目で 良質 な真 岡木綿の流行が、各地で安物 をふ くむ 類似 品の生産 を刺激 したのであ る。筆者 は、す で に横浜 開港以前 の幕末期 にかけての 日本で も、
ヨー ロ ッパ社会 で先行的 に進展 した絹織物の低 価 格 化 と流 行 木綿 の薄地軽 量 化 がす す み、西 ヨーロ ッパ製の輸入織物が流入す る開港後 にそ の うご きが加速 されていった とみてい る (田村 、
2004・2007)。 しか も、上 の事例 か ら想定 しえ るように、その趨勢 と軌 を一 に して、流行 品種 ではなか った厚地綿布 も、在来品1反 あた りの 量 目が約300匁前 後 か ら230‑250匁 あ た りの水 準 に低減 していったのではないか ととらえてい る。品種 によっては、200‑220匁 くらいにまで
低下 していったのではなか ったろ うか。 とい う の も、第2次世界大戦前 までの昭和期 日本 に残 存 した地縞や在来綿布 の厚地物が この重量水準 であったか らである(9)0
幕末開港後 の変化 が うかが える事例 を示 そ う。
明治維新直前 の1865(慶応2)年の尾張三河両 地方でお もに江戸市場 向けに生産 された3種類 の 自木綿の量 目デー タを概括 したのが、表3で あ る。尾張地方 において、知多部下 (知多半 島) で織 りだ され る尾張 自す なわち知多木綿のほか に、名古屋 白 とい う別種 の 白木綿が生産 されて いた。裏地のほか、手拭地や下帯用 な どとして 需要があった知多木綿 (知多晒) の1反の量 目 は、一般的サ イズ (9寸 5分 ・2丈8尺)の着 尺換算値 で90‑110匁 内外 であった。日本 の在 来 綿布 のなかで も、知多木綿 に代 表 される手拭地 や下帯用 として受容 された白木綿 は、組織 を敵 密 に織 りあげる裏地や着尺地用 の もの とちがい、
やわ らかな糸 を用 い緯糸 をやや租 めに織 りこみ 布地 を柔軟化す る薄地軽量 の綿布 に属す。
そ して、 もう1つ の名古屋 白 も、量 目120匁 とい う在来綿布 としては きわめて薄地軽量 の白 木綿であ る。史料 に 「糸 中肉を好 申侯」(10)とあ るので、 中ロの綿糸 を使 って裏地や小紋地 ・絞 り地用 な どの着尺地用 に生産 された ものであっ た。名古屋 白は愛知 ・春 日井 ・丹羽 ・葉栗 ・中 島 ・海東 ・海西の7郡で織 りだ された、 「関東真
き じろ
岡木綿 二類 し侯」(ll)の生 白木綿 であった。当該 製 品 は真 岡木綿 のみ な らず、 1反100匁前後 で あったイギ リス製の輸入金 巾に匹敵す るほ どの 量 目である。 これ まで真 岡木綿 は、 開港後 に輸
表3 幕末期 ・尾張三河両地方の白木綿とその晶質 (慶応2年) 種 類 生産地 織幅/長さ 1反重量 【着尺換算値】 糸
質 用 途
名古屋白 愛知.春日井 .丹羽 9寸5分 120匁前後 120匁前後 中肉
衣料用 (裏地、小紋地、
・葉栗 .中島など7郡 2丈
7‑8分 絞り地など)
尾張白 知多郡 92寸丈26分尺 90‑100匁 100‑110匁 糸 細、
柔 らか 裏地、染地、手拭、下帯など 三州木綿 額田郡.幡豆郡など 9寸 130‑180匁 150‑210匁 糸太、 上絵.安房地
方の漁場
(短尺白) 2丈5尺 糊つ よい 労働着など
注)【着尺換
算値】は、着尺の一般的サイズ (織幅9寸5分 ・長さ2丈8尺)への換算値。
史料)「乍恐御歎頗奉 申上候御事」(林英夫 F在方木綿問屋の史的展開』塙書房、1965年、180‑187頁、所収)
入綿布の代表格であった金巾に押 されて、幕末 期か ら明治前期 にかけて生産が極度に低迷 した
ととらえられて きた (青木、1959・1970、岡野、
1988)。 しか し、技術史家の中岡哲郎が、 1ケ 月 もの期間を要する真岡木綿の在来晒技法が需 要急増 に対応で きなかったのではとの きわめて 興味ぶかい所見 を表明 している (中岡、2006)0 筆者は、そ うした技術的な事情 に くわえ、名古 屋 白などの新たな国産軽量品をふ くめた競合関 係の激化 を指摘 してお きたい。
これ らにたい し、本研究が とくに注 目するの は、厚地系の三河木綿 (短尺 自)の品質である。
この日木綿 について、着尺換算値で150‑210匁 強 という量 目データが確認で きる。現在の愛知 県東南部にあたる三河地方で生産 されていた三 河木綿 は、織幅が9寸 と着尺地用の一般サイズ よ りも短尺の白木綿であったことか ら、「短尺
さんば く
自」ない し 「三白」などと略称 された。伝統的 に経 ・緯糸 ともにつ よい糊付 をほどこした太糸 を用いて堅牢に織 りあげ られる 「腰」の強い厚 地綿布であったため、耐久性のある労働着用 と
して漁場や漁港などの地方市場 に受け入れ られ ていた。
しか し、 この量 目デー タでは、三日木綿が近 世期 をつ うじて厚地綿布の代表的存在であった ことを十分 に例証で きない。 というの も、労働 着用であったならば、幕末期の三河木綿 も先に 考察 した佐織縞や桟留縞の下等品のような、す くな くとも1反300匁前後 にお よぶ ような厚地 綿布であって もよいはずだか らである。そ もそ も、織物製品は 「地合之上中下二預 り値段上下 御座候」(12)であるが、「目方重 キ方百八十 日軽 キ方百三拾匁位」(13)の三河木綿のうち、ここで は1反の重量が200匁前後 になるような比較的 重量級の品種 を厚地綿布 として とらえてお く。
三河木綿 も地合や 目方によって等級が存在 し、
製品が差別化 されていたのである。
当該データか ら推察で きるポイン トは、つ ぎ の2点である。 1つは、三河地方で も糸量 を減
らし価格 を下げた比較的軽量の製品 も生産 され、
地合 ・目方などの加減による品質の等級差別化 がはか られていたことが うかがえること。 した がって、 もう1つは、幕末期 に加速 していた在 来綿布の薄地軽量化の趨勢が三河木綿にも無縁 ではなかったこと。
いずれにして も、輸入製品 との間のみならず、
国産品のなかにも2倍 もの重量差 を生 じさせ る ほどに、幕末期の在来綿布 は大 きく変容 しつつ あった。厚地綿布であって も、 日常 レベルで軽 量綿布 を好みは じめた幕末庶民の噂好変化 を受 けなが ら、 しだいに差別化 ‑軽量化の影響 を受 けざるをえなかった事態の進行 を指摘 してお く。
4 明治期における厚地綿布の晶質 と価格
以下、明治期の厚地綿布 に関する品質データ (番手構成 ・量 目 ・価格)の事例 を前期 と後期 にわけて考察 し、近代移行期における在来的な 厚地綿布の品質変化 をあ きらかにする。
(1)明治前期の在来綿布
幕末期 と同様、明治初年の事例捕捉 も容易で はない。現時点で明治初年の もの として提示で きるのは、第1回内国勧業博覧会 (1877年)‑
出品された、茨城県筑波郡小 田村で織 られた自 木綿の量 目データである。 この事例 によると、
筑波地方産の自木綿 は1反150匁の製品であ り (14)、真岡木綿の一種であった とみ られる。糸遣 いや価格の詳細 はわか らない。 したがって問題 は、量 目150匁程度の綿布が厚地なのか薄地なの か という点に絞 られよう。
表 4に、明治10年代半ばにおける富山県新川
にいかわ
地方で生産 された新川木綿の品質データを示 し た。当時、新 川木綿 は大 別す る と 「甲 (量 目 物)」・「乙 (中 日物)」・「丙 (軽 目物)」の3種類 に分かれ、 1反の量 目が170‑200匁前後 となる 量 目物が価格の高い上級品 としてあっかわれて いを。 これにたい し、130‑160匁前後の中日物 が中級品 として価格中位 に位置 し、軽量 タイプ として100匁前後の軽 目物 も生産 されていたが、
‑ 202‑
それは低価格の下級品であった。 この分類は、
同時代 の人たちが木綿 の品質 を基本 的に重量 ベースで把握 し、糸量 と地合 (織物組織) にお
うじて区別 していたことを示唆する。
おさ
そこでは、筏密度の大小すなわち経糸本数の 多少が綿布の品質を規定 し、経糸数が より密で ある製品ほど厚地系の量 目上級品 とな り、価格 が量 目ベースで設定 される。量 目上級品の経糸
よみ
数は600本 (7.5算)〜680本 (8.5算)であったの にたい し、軽 日下級品のそれは480本 (6算)〜
488本 (6ユ算)であった(15)。一般的に、緯糸の 打ちこみは経糸数におうじて、密度の商い経込 みの ものほど綿密におこなわれた。そ うして糸 量 と地合により品質が等級化 され、新川木綿は おおむね地厚系 (200匁前後) と地薄系 (100匁 前後) とに大別 され、その中間的な製品 となる 130‑ 160匁前後の ものが中日物 としてあっかわ れたのである。なお、新川木綿の用途を確認す ると、地厚晶 と中日物が ともに衣料用であった のにたい し、地薄品は手拭地や足袋裏 ・包帯用 であった(ユ6)。
明治前期における新川木綿の動向に関 し、先 行研究 (谷本、 1990・1992)は以下のような興 味ぶかいポイン トを指摘 している。すなわち、
地厚品の系譜にあった新川木綿が、中日物のみ ならず地薄の軽 目品の生産を増加 させたのは、
幕末期 にかけて拡大 した域外 (信州・松本方面) の安価 な綿布市場へ積極 的に対応 したか らで あった。 しか し、幕末維新期の環境変化 と地域 経済の変動 を受け地薄物の需要が減退 した結果、
在来の手紡糸を綿密に織 りこむ量 目上級品の品 質を再評価 し、それへの生産 シフ トを模索する うごきが生 じた。それは、「其旗 日ヲ増 シ重量 ヲ加へ精微綿密克 ク品質ヲ改良シ、以テ需途二 供セハ戎ハ回復セ ン夫 レ需途広ケレハ供程モ又 大ナリ」(17)とみて、「亦洋綿布 ノ薄弱ハ永 ク人心 ヲ保 タサラン故二内地好良綿布 ノ回復ハ早晩無 カルへカラサルヲ信セ リ ト」(18)という状況認識 か らであった。金巾をは じめとする輸入綿織物
‑薄地軽量品の国内市場への流人は、国産品の 薄地軽量化 をつ よくうなが しなが ら、在来的な 厚地綿布にたい し、その存在意義をあ らためて 自問自答 させ るような大 きなインパ ク トとなっ たのである。
つ ぎに依拠する史料は、 1885(明治18)年に 東京 ・上野で開催 された繭糸織物陶器漆器共進 会 (五品共進会)への出品解説である。各地で 書 き上げられた とみ られる織物の出品解説の う ち、筆者が捕捉 しているのは、大阪 ・八尾地方 の河内木綿 (縞 ・無地物) をはじめ、茨城県下 館地方の晒白木綿 (漂自活の白木綿)、そ して埼
き じろ
玉県北埼玉地方の生白 (無漂白の白木綿) と青
表4 明治10年代 にお ける越 中 ・新川木綿 の品種 と価格
品 種 読 1反重量 織 幅 長 さ
単 価 甲 (重 目物) 7算 半〜 8算半 170‑200匁 9寸5分‑ 1尺
3丈 38‑65銭 乙 (中El物) 6算 半〜 7算半 130‑160匁 9寸〜 9寸5分 2.
65‑2.75丈 25‑28銭 丙 (軽 日物) 6算〜6.1算 80‑93匁 8寸3分
〜 9寸 2.60‑2.65丈 17‑20銭 資料)「富山県第壱回勧業年報 (明治16年)」『富山県
史 (史料編Ⅵ 近代上)』、1978年、所収.
表5 明治 10年代後半 にお ける厚地綿布 の量 目と原料締糸
品 種 生産地 織機 1反重量 原料綿糸 1反単価
河 内木綿 (蘇 .無地物) 大阪府八尾地方 地積
(経糸160匁、緯糸240匁) 手紡糸 (経 .終糸 とも) (不 明) 晒木綿 (白木綿) 茨城県下館地方 地機 170匁 手紡糸 (経 .綻糸 とも) 95銭 生 白 (白木綿) 埼玉県北埼玉地方 地機 200匁 手紡糸 (経 .緯糸とも) 90
銭 青縞 (史料 織紺) 埼玉県北埼玉地方 高機 240匁 洋糸右認 (経糸)、手紡糸 (緯糸) 1円50銭 ) 西岡家文書 「中村家文書 「出品解説 (繭糸織物陶器漆器共進会出品解説書勧業博覧会)」 (武部善人 『」(河内木綿史』吉川弘文館F茨城県史料 近代産業編 Ⅱ』茨城県、1981年、176‑1、17987頁)3年、235‑237頁)
富田家文書 「共進会出品解説」(『行田市史 資料編 近代Ⅰ』
蘇 (紺織木綿)の、合計4事例である。それ ら 4種類の在来綿布 に関する品質データを整理 し たのが、表5である。 1反あた りの製品重量に 注 目すると、青筋 (240匁)が もっとも重 く、つ いで河内木綿 (糸量200匁) と生白 (200匁) と な り、これ ら3製品は新川木綿の分類基準 をあ てはめると地厚品 となる。そ して、やや軽量な 下館地方の晒木綿(170匁)は中日物にふ くめる ことがで きよう。なお、 1疋 (2反分)に糸量 400匁 を使 う河内木綿は、製織前 に錦糸の染色 作業により重量が加増 されるため、最終製品の 1反 あた りの量 目は240‑260匁 くらいになっ たとみ られる。
糸遣いをみると、番手構成はわか らないが、
4種類のすべてに経 ・緯糸両方 もしくは緯糸に 手紡糸が使われている。 これ らのうち、河内木 綿 ・下館地方産の晒木綿 ・北埼玉地方産の生白 の3品種 は、経 ・緯糸 ともに各地在来の手紡糸 を織 りこむ地機製品であった。経糸に洋糸右揺 (輸入綿糸) を使用 した青縞は高機で織 られた ものであったが、その番手数は不明である。価 格は、晒木綿のほうが晒 (漂 白) を施 さない生 白よりも売値で5銭 ほど高い。いっぽう、織紺 すなわち綿糸を藍染め してか ら織 りあげる青縞 の単価 は1円50銭 であ り、白木綿 の1.5倍強で あった。
1890(明治23)年4月に発行 された 『大 日本
かわわ
織物協会会報』によれば、三重県河曲郡で生産 されていた伊勢木綿の一種である生白木綿は、
「当今 に至 りて も自製糸 (手紡糸のこと一引用 者)を以 て量 目物上等 を製造す」(19)る もので あった。伊勢 ・河曲郡下で産出される生 白は、
1反の製品重量が200‑250匁の量 目物であ り、
河内木綿や北埼玉地方産の生 白 ・青筋 に匹敵す る厚地綿布であった。価格 は1反50‑70銭 くら いで、上述 した新川木綿の上等品である地厚品 に相当する。伊勢地方産の生 白の番手構成 も不 明であるが、経 ・緯糸 ともに在来の手紡糸を織 りこんだ製品であるので、洋10番手前後に相当 するものであったとみてよいであろう。
以上の事例考察をふまえ、明治前期における 厚地綿布の品質をつ ぎのように規定する。すな わち、①糸遣いにおいて経 ・緯糸両方ない し緯 糸に在来の手紡糸 (機械紡績綿糸相当10番手前 後)が使用 され、②1反の製品重量が200匁前後 ない しそれ以上の重 目物 となるため、(勤価格が 高い上級品 としてあっかわれる製品を、近世以 来の 日本的な厚地綿布 とみなす ことにする。た だ し、それが高機製か地機 によるものかは問わ ないものの、 さしあた り織物組織が強靭になる 地機製のほうに重量級の厚地物が多かったこと を指摘 してお く。
なお、手紡糸が好 まれたのは、「一般二毛茨 ノ多キヲ好メリ撚緩 クシテ毛茨多キ トキハ 自然 二織 目ノ詰ムカ為 メ」(20)であったか らとみ られ る。すなわち、「本邦綿架 ノ如 キハ剛勃 ニシテ 租短ナ レハ到底毛茨ナキコ トハ能クスへカラサ レ トモ、緯糸ノ用ニハ頗ル妙ナ リ、就中無地織 物ニハ経緯糸共二最モ適用スル者ノ如 シ、如何 ン トナレハ之ヲ以テ織立テタル木綿ハ毛茨相絡 合 シ織 目能ク埋墳 シテ、綿布 ノ地質 ヲ美好ナラ シメル功カアレハナ リ」(21)と、 とらえられよう。
(2)明治後期の在来綿布
表6に、明治末期に名古屋税務監督局が織物 消費税 にかかわる税務資料 として作成 した、管 轄下の東海 4県 (愛知 ・岐阜 ・三重 ・静岡)で 生産 された木綿織物 の調査 デー タうち、各種 207点の量 目データの一覧を示 した。総数207点 の うち、200匁以上の ものは15点 (7.2%)を数 えるが、前項の考察で得 られた「200匁前後」と いう明治前期における厚地綿布の重量概念 を意 識 し、その下限をさげて180匁以上のサ ンプル を量 目物 としてひろいあげると、42点 (20.3%) になる。 これにたい し、軽 目物 (100‑129匁) が31点 (15.0%)とな り、これ らの中間領域 に分 布する中日物 (130‑179匁)は134点 (64.7%) を占める。
まず注 目したいのは、三河木綿である。第1 章の考察で幕末期 (慶応2年)に150‑210匁強
‑ 204‑
表6 明治末期 ・東海地方 における各種木綿の量 目
品種/等級/量目軽 目物31【15.0%】 中日物134【64.7%】 重 目物42【20.3%】
10
0
匁〜1
10匁〜120匁〜130匁〜140匁〜150匁〜160匁〜170匁〜180匁〜匝 匁〜200匁〜210匁〜l220匁 計〜230匁〜l240匁〜
相 宿
1
14 1 6 5 6 321 13 9 1 1 1 2 1 1 66
白 縞 2 6 ll 4 7 1 3 35
蒲団縞 2 21124 3 2 3 1 1
1
21 13
紺白 餅餅 1 2 3 7 2 13112 18
紺木綿納戸木綿萌黄木綿鉄色木綿餅下 .絞 り下三白 .半紡木綿瓦斯 白木綿自木綿 (岡木綿を含む) 5112 1144
1 2
11 211 21313 1611 11132234
7 1374
合 計 61 31 22 30I 16I 181 411 219 21L 6[ 10
Lll
2L 11 1 207 資料)名古屋税務監督局 『管内織物解説』同監督局、1910年、国立国会図書の量 目を確認で きた三河木綿 (三日 ・半紡木 館蔵.
綿) は、明治後期になると160‑180匁あ
た りの中日 か ら量 目領域 にまたがる中間的な製品
となって いる。200匁前後の量 目物がす く
な くな り、や や軽量化がすすんでいたことが うかがえ
る。け れ ども、類似 品の白木綿 は在来的な20
0匁前後 の量 目品 と、明治中期 に生産開始 された岡木
綿 のような120‑140匁前後の軽 日物 とに
両極分解 している。白木綿製品の2極分化で生 じた隙
間 の中間領域 (150‑180匁前後) を埋め
るように 分布するのが、軽量化 した三日 ・三河
半紡木綿 である。量 目を130‑140匁前後
にた もち定評あ る真岡木綿の代用品 として拾頭
した岡木綿 (自 木綿)が、極細の瓦斯糸
を用いた新興の瓦斯木 綿 と競いなが ら、後染めの萌黄 ・鉄色
木綿など をひっぼるかたちで木綿製品全体の薄
地軽量化 をリー ドしていたような印象 をうける
。 こうしたなかで、200匁前後 (180
‑220匁)の 重量級サ ンプルを比較的多 く捕捉で きる
のが、
紺縞 ・紺餅 ・紺木綿 ・納戸木綿などの、
近世な い し幕末期以来の在来的な木綿群である
。 これ らの品種のなかには、230‑240
匁以上にもおよ ぶ地厚量 目の もの も散見 される
。当時にあって も、在来の品質‑の曙好が根強
く残存 していた
ことが うかがえよう。そ して、紺餅や自縞 ・白 餅など夏物用 として薄地軽量化がすす
んだとみ られる品種が 目立ついっ
ぼうで、全体 としては 明治後期 における木綿織
物の分布領域が、150
‑170匁前後の中
日領域へ相対 的に集 ま りつつ あったことを指摘
してお きたい。
明治後期になると、絹製品を
は じめ絹綿交織 物 をふ くむ綿織物製品の低価格指向が
いちだん とつ よまり、在来綿布のうち量 目上級
タイプの 厚地綿布は価格が高いため、庶民層か
ら敬遠 さ れはじめていた(22)。短繊維綿に
起因する堅牢性 や耐久性 という近世以来の品質への基本的な
評 価が、価格面か ら崩 されかけていたのである。
織
物市場の趨勢 を左右する庶民需要が、価格の より
安価 な製品に集中するようになっていたか らであ
る。
1908年 (明治41)2月における大
阪税務監督 局の調査データによれば、先の考察で明治1
0年 代半ばにも200匁以上の重量 にお よんで
いた河 内木綿 (自木綿)にも、一般サイズの着尺
換算 値 (9寸5分・2丈8尺)で150‑160匁
前後の 中 日物が登場 していた (表 7)。大阪府 の
南北 南河内都下で生産 されつづけていた河内木綿は、
「一般二地