‑ルカーチとの対比において‑
内尾一美
Uber Brechts Realismusbegriff
‑im Vergleich mit Lukacs‑
KAZUYOSHI UCHIO
前おき
ブレヒトのリアリズム論を読んでみると,ルカーチがバルザックやトルストイの作品をリア リズムの金科玉条であるかのごとく現代作家におしつけると云って,あまりにも激しくルカー チを論難攻撃しているので,我々は社会主義的演劇最大の劇作家であるブレヒトと,マルキシ ズム文学理論家として光彩陸離たるルカ‑チとの問に,のっぴきならない,和解困難な対立が あるかのような錯覚をいだかされる.ブレヒトの考えるリアリズムとルカーチのそれとは,は たして全く異なるものであろうか.この犬猿たゞならざる仲はやむをえないものであるのだろ うか.以下の小論はこの疑問についての,さゝやかなる検討の試みである.
1
ブレヒトのルカ‑チ攻撃は,ルカ‑チが現代文学のすべての新らしい技法上の試みを,非リ アリスティックなものとして否定し,バルザック,ウォルタ‑・スコット..ゲ‑テ,トルスト イのような,過去の大作家の作品を模範的なリアリズムの作品として提示し,現代の作家のな かでは,ゴ‑リキ‑,ト‑マス・マン,‑インリヒ・マン,ロマン・ロランの名をあげれば,
リアリズムの何たるかは一目瞭然だとしていることに集中する. 「彼はブルジョア階級がまだ 進歩的であった時代に占めていたあの高さからの,ブルジョア小説の没落を論じる.彼は現代 の作家が少なくとも形式的にはリアリスティックに書いていて,ブルジョア小説の古典的作家 たちを範としている限りにおいてのみ,彼らを好意的にとりあつかう.(lリとプレビトは書いて いる.
ルカ‑チがリアリズムの概念をあまりにもせまく限定してしまい,人間性の極端な不具化,
空洞化をおし進めている今日の社会状況を表現するための,現代文学のすべての新らしい実験
的な試みを,あっさりと否定してしまうことが,ブレヒトにはどうにも我慢ならなかったよう である.なぜならその否定はブレヒト自身の演劇における新らしい技法の試みをも否定してし まうからである.現にルカ‑チはブレヒトの演劇を形式主義的であると批判している(2)ブレ ヒトは新らしい技法を弁護して次のように述べている. 「技法は使い古され,その魅力は消え てゆく.新らしい問題が現われ,新らしい手段を要求する.現実は変ってゆく.それを表現す るためには,表現方法が変らねばならない.無から無は生まれない.新らしいものは古いもの から生じるのだが,それでも新らしいものは新らしい(3)J文学理論家・批評家であるルカ‑チ が,前衛芸術のいっさいの新らしい技法上の試みを,リアリスティックではないという理由で 否定するのに対して,作家であるブレヒトは,古い技法によっては変ってしまった新らしい現 実を表現することは不可能であり,そのためには新らしい技法が必要なのだと主張しているわ けである.またブレヒトは次のようにも書いている. 「リアリズムを形式上の問題にするこ と,それをたゞ一つの(しかも古めかしい)形式に結びつけることは,リアリズムを去勢する ことである.リアリスティックな書き方は形式上の問題ではない.我々が社会的な因果関係の 根本を究明するのを妨げるすべての形式は消滅すべきであり,それを助けるすべての形式は歓 迎されるべきである(4)」ブレヒトにとって,今や古めかしくなったブルジョア小説の技法は,
リアリズムの使命であると彼が考える社会的な因果関係の究明を阻害する技法である. 「常に 変動している社会的環境の常に新らしい要求に対して,古いおきまりの形式に固執することも また,形式主義である(5)」と,ブレヒトはルカーチを非難しているが,これはルカ‑チがブレ ヒトの演劇に対して加えた形式主義的であるという非難を逆手にとっての反論であり,君のリ アリズムについての考えの方がよっぽど形式主義的ではないかという,ブレヒトのいわばしっ ぺがえLである.
前おきで述べたように,ルカーチに対するブレヒトの攻撃があまりにも激しいので,リアリ ズム論をめぐっての両者の問の対立は,もはや調停不可能であるかのような外観を呈する.し かしよく検討してみると,ブレヒトのルカーチ攻撃は,古典的リアリズムの作品を規範として 現代文学におしつけることは不当であるという一点にとゞまっている.ブレヒトはルカーチの リアリズム理論の具体的内容には触れていない.リアリズムを問題とする以上,ブレヒトはそ こまで踏みこんで,理論的に相手の考えを分析した上で,是非の態度を明らかにすべきであっ たのである.
2
マルクス主義美学はもちろん史的唯物論の一部である.史的唯物論によれば,歴史における 究極の決定的要因は,現実的生活の生産および再生産,いわゆる下部構造である.ところでマ ルクスもエンゲルスもそれ以上のことは云っていないのだが,既に彼らの生存中に,経済的要 因が唯一の決定的要因であり,これだけが能動的なものであって,芸術や文学もそのなかに含 まれるもろもろのイデオロギー(上部構造)は,経済的要因のたんなる結果にすぎないとい
う,機械的,図式的な見方が行われていたようである.マルクス,エンゲルス自身の所説にそ のような解釈をまねく要素がなきにLもあらずであったので,エンゲルスは, 「わが門人たちに
よって,往々経済的な側面が過大に重視されているが,その責任の一部は,マルクスとぼくと が,みずからこれを負うべきものであった.」と,反省の言葉をある手紙(6)に書いている.ル カーチは『マルクス‑エンゲルスの美学論稿への手引』 (1945年)の冒頭の部分に次のように 述べている. 「この根本的な認識から,俗流唯物論(der Vulgarmaterialismus)は,下部構 造と上部構造の問には単純な原因・結果の関係があって,その中では下部構造が原因であり, 上部構造が結果であるという,機械的で誤っている,歪曲的で人を惑わせる結論をひきだして
くる.俗流唯物論の目で見れば,上造構造は生産諸力の発展の機械的,因果的な結果なのであ る.そのような諸関連は弁証法的な方法の本来関知しないものである.弁証法は世界のどこか に純粋に一面的な原因・結果の関係があることを否定する.弁証法はもっとも単純な事実のな かに原因と結果の複雑な相互作用を認めるからである(?)」機械的唯物論は,現実の単純な写真 的模写でもってリアリズムを倍称する文学の諸潮流(8)と,密接に結びついている.ルカーチの 俗流唯物論とその<人を惑わす結論>についての手きびしい論述は,明らかに1934年のソヴィ エト作家同盟第1回大会で提起されたく社会主義リアリズム>テーゼを念頭において書かれた ものである.このテ‑ゼはリアリズムの概念を明らかにすることなく,いわばスローガン的に 提起された,創作画においてもいまだにその概念は明確にされていない.しかしながら,この テーゼは共産党公認の文学理論として,プロレタリア階級の幼なく,まだそれ自身の伝統をも たない文学に対して大きな影響力をもった.ルカーチは新たに歴史の主役として登場し,自分 たちの文学をこれから創造しようとしているプロレタリア階級のために,真にリアリスティッ クな文学とはいったいどのような文学であるかを明らかにしようと努力したのである.
現実なるものは,たんに外部世界の直接に感じとられた表層からなるものではない. 「マル クス主義美学はリアリズムを芸術理論の中心点におき,いっさいの自然主義,直接的に知覚 しうる外界の表層を写真のように再現することで溝足しているいっさいの方向と戦うのであ る(9)」とルカ‑チは書いている.彼のリアリズム論の中心的な概念は<本質と現象の現実的弁 証法>㈹ (die wirkliche Dialektik von Wesen und Erscheinung)である.現実にはさま ざまな段階がある.二度とおきることのない,つかのまの,表面的な現実もあれば,変化する 諸状況とともに,異なる相貌をとりはするけれども,法則的に回帰するより深い現実もある.
さまざまな段階の現実はそれぞれに本質と現象として対立し,複雑な相互作用のなかに生の総 体の弁証法的なプロセスを実現してゆくのである.
それ故真の芸術は深さと広さを志向し,生をその全面的な総体性(Totalitat)においてとら
えようと努める.真にリアリスティックな文学は,現実の表層の模写・再現に甘んじるべきで
はなく,この表層の下に隠されている本質的要素をできるだけ深くさぐってとらえ,それを生
々とした運動・発展の弁証法的過程において表現すべきである.マルクスはリアリズムについ
て語る時, <典型的>という概念を用いて,たとえば,リアリズムは細かな現実のほかに,輿
型的環境のもとにおける典型的人物を忠実に再現すべきであるというように語るのだが,ルカ ーチはこの<典型>という概念を次のように説明している. 「典型とはこれらの諸矛盾,すな わちある時代のもっとも重要な社会的,道徳的,精神的な諸矛盾が,その中においてひとつの 生命ある統一体(eine lebendige Einheit)をなしているもののことである(ll)」
かくしていっさいの自然主義的な文学の潮流は否定される.そこでは描写は直接的に知覚し うる人間生活の表層にとゞまっている.そのリアリズムは極めて底の浅いものであって,真の リアリズムからはほど遠いものである.ゾラの『居酒屋』は下層社会の悲惨な生活をたしかに 忠実に再現している.しかしそこに模写されている悲惨な生活は,誰もが容易に知覚しうる現 象であって,その背後に隠されている本質的な要素は表現されていない.バルザックの『ゴリ オ爺さん』は,矛盾し,対立するさまざまな契機をはらんで,流動・発展する<生の総体性>
を表現しているが故に,ゾラの『居酒屋』よりも質的にはるかに深い,真にリアリスティック な作品である,このようにルカ‑チは主張するのである.
ところで次に引用するブレヒトの文章は,波の演劇は形式主義的であって,民衆性に乏しい という批判に反論したものであるが,ブレヒトのリアリズムについての見解が,上述したルカ ーチのそれとほとんど一致していることを明瞭に示している. 「労働者の鋭い目は,自然主義 的な現実の模写(Wirkhchkeitsabbildung)の表面の内側に入りこんでゆく.彼らは『御者
‑ンシェル』 (Fuhrmann Henschel)を見た時,そのくわしい心理描写について, <俺たち はそんな心理のことなんぞ知りたくないんだ>と云った.この言葉のうらには,すぐ目に見え るものの表面の下に働いている,社会を動かしている力をもっとくわしく表現してもらいたい という切なる願望がひそんでいたのだ.撒、自身の経験を云わせてもらうなら,労働者たちは
『三文オペラ』の空想的な表現,一見したところ非現実的な環境にはこだわってはいなかっ た.02)」‑ウプトマンの自然主義的なドラマ『御者へンシェル』を見た労働者たちの反応をブレ
ヒトは報告し,このドラマの中で描かれているような状況におかれた人々が,どのような心理 状態におちいるかということは誰にでも容易に察しのつくことであって,特に詳細に説明する 必要はなく,肝要なのはそういう現象の背後にあって一般の人々には容易には捉え難い<社会 を動かしている力>を暴露することだと主張しているのである.この<社会を動かしている 力>という言葉は,マルクスが<典型的な状況>という言葉で,またルカーチが<生の総体 性>という言葉で表現したものを,ずっと平易に述べたものだと解してよい. 『リアリスティ
ックな書き方についての覚え雷』という論文のなかで,ブレヒトは次のように書いている.
「我々の最良の画家たちは,おそらく彼らの画が現実に似ていない場合に不満足であるだけで
なく,たんに似ているだけの場合にも満足しない.彼らはたんなる模写以上のものを描かねば
ならないと感じている.彼らの目の前にある物は二つに分裂している.つまり存在する物と創
造されるべき物の二つである.そこには何かがある.そのうらには何かが隠されている.03)」ブ
レヒトは<目に見える物のうらに隠されている何か>を表現することが肝要だと,文学理論家
ルカ‑チがもっと難解な云い廻Lで,リアリズムについて語っていることを,ずっと平易な言
葉で主張しているのである.ブレヒトとルカ‑チのリアリズムについての見解が全く一致して いることは明らかである.
ブレヒトが深く傾倒していたマルキシズムの師カール・コルシュ(14)とルカ‑チはともに史的 唯物論の解釈において弁証法的な複雑な諸関連を重視した.それ故彼らは共産党が弁証法とい
う言葉を口先ではさかんにくりかえしているものの,実際には機械的な唯物論を正統的マルキ シズムにしたてあげて,マルキシズムを浅薄化していることを批判せざるをえなかったのであ る.そのためにコルシュは党から除名され,ルカーチは自説の撤回を余儀なくされるはめにお ちいった.コルシュにマルキシズムを学んだブレヒトは,ルカーチ同様特に弁証法を重視して いたのであり,彼らのリアリズムの中心的概念についての見解の一致は,そのことの当然の帰 結である.
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あらゆる芸術の創作活動の源泉は人間性に対する関心である.このことと関連して,あらゆ る芸術,あらゆる文学は人類の進歩という問題に大きな係りをもつ.なぜなら人類は人間の尊 厳を侵害する外的諸力,つまり宗教・道徳・慣習などを含めての,政治的・社会的抑圧と戦 い,調和的な人間性をそれから擁護する戦いをくりかえしながら,今日まで進歩をとげてきた からである.マルクス主義美学は究極の客観性を強調する.しかしそれは社会現象に対する無
関心や無党派性を意味するのではない. <芸術のための芸術>という主張のような芸術を自己 目的とする芸術観に反対して,ルカーチは次のように書いている. 「芸術家はどの党派にも属 さず,あらゆる社会の動きに超然としてそのような諸過程を観察するのだというあの考え方
アンバシビリテ
(フロ‑ベ‑ルのく無関心>)は,せいぜいのところひとつの結党であり,自己欺臓にすぎず, それどころか多くの場合,生と芸術の大問題からの逃避である.的」人類の進歩,人間の尊厳に 対する強い関心があってはじめて,直接的に目に見える現象の背後にある,社会を前進させる さまざまな力のからみあいを洞察することが可能となる.ルカ‑チは「人類の進歩という問題 に対しての情熱的な態度決定なしでは,正しい典型創造を行なうことはできないし,深いリア リズムは存在しない.そのような態度決定なしでは作家は決して本質的なものを非本質的なも のから区別することはできない.06)」と述べている.
人類の進歩という問題に対して作家がとるべき態度とは,必ずしも作家は政治的に進歩的・
左翼的傾向をもたねばならないということを意味するのではない.マルクスが保守主義者であ り,王党派であるバルザックの作品を愛好し,真にリアリスティックな作品であるとして高く 評価したことは,よく知られている.バルザックは彼の正統王朝主義にもかゝわらず,ブルジ
ョアジーの貴族階級に対する戦いは,王政復古時代のフランスにおける封建的な抑圧に対する
人間の尊厳の擁護のための戦いであることを見抜いていた.それ故彼は貴族階級の没落を哀感
をこめて描くと同時に,ヴァイタリティーにみちたブルジョアジーの姿を偏見なしに描くこと
ができたのである.その上,バルザックはリアリストの鋭い目で,社会の資本主義化は,人間
性の歪曲,人間の奇型化を必然的にともなうのだということをも洞察していた.バルザックの みならず,シェイクスピア,ウォルタ‑・スコット,ゲ‑テなどの,すべての偉大なリアリス
トは,彼らの政治的信念の如何にもかゝわらず,人間の尊厳についての関心を原動力として, 現象の背後に隠されている弁証法的な生の総体性を表現することができたのである.ある作家
の政治的信念が進歩的であるにせよ,保守的であるにせよ,その作家がヒュ‑マニスティックで あることが,リアリスティックな文学を創造するための不可欠の条件であるという主張は,彼 のリアリズム論の中心となる見解を側面から補なう,ルカーチの第二の重要な主張である.
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ところで,バルザックの時代においては,まだ潜在的な矛盾として存在していたものが,餐 本主義が高度化し,帝国主義の段階に達するにおよんで爆発的に顕在化した.人間の奇形化, 人間の解体をもたらす資本主義的分業は強化され,人間の人間による搾取と弾圧はますます激
しくなった.現代のあらゆる文学は,それが文学である限り,この問題を避けて通ることはで きない.表現主義,シュールレアリズム,ダダイズムなどのいわゆる前衛芸術はもちろん,サ ミュエル・ベケット,イヨネスコらの不条理劇(dasabsurdeDrama)にいたるまで,現代 のあらゆる芸術はこの問題となんらかの形でとりくんでいるのである.
現代において人間はたんなる疎外の状態から極端に物象化された状態の中‑歩みいった.人 間の社会的活動の所産であるもろもろの生産関係,制度やイデオロギーが,それ自体の力をも
った物象的となって,人間の支配・統制のおよばないものとなり,外的な<運命>のような姿 をとって人間を脅かしている.個々の個人は自分たちのおかれている状況のみならず,自分自 身さえも理解することができなくなり,外からおしつけられた目標にしたがって,たえずあく せくと駆けまわり,唯々諾々として要求された労働に従事し.つねに自分が目的だと信じてい る幸福に手がとゞいたという実感をもつことができない.今日の我々には<大衆社会状況>と か, <消費社会>とか, <情報管理社会>といったイデオロギーにくるめられて,その本質が つかみにくくされている現象である.
前衛芸術は内的独自,モンタージュ,異化効果など,さまざまな新らしい技法を用いて,皮 無的な社会における物象化された生活を我々に提示した.前衛芸術は我々に問題の所在を明ら かにしたのであり,その功績は認められねばならない.表現主義にしても,シュールレアリズ ムにしても,帝国主義段階の資本主義がもたらした極端な人間疎外状況に反対する,主観的に は誠実な芸術運動であった.しかし複雑な社会状況がさまざまな欺臓的イデオロギ‑を生みだ し,それらのイデオロギ‑が非人問的な人間疎外の現象の背後にある生の総体性を識別し難く しているので,前衛芸術をになった人々の関心は,もっぱら主観的・抽象的な<人間なるも の>の,物象化された状況からの解放に注がれた.しかしながら人間は一定の歴史的な総体性 のなかにしか存在しえないのであるから,盗意的に設定されたこの<人間なるもの>は,実は この世には存在しないのである.ルカーチは「表現主義はたゞブルジョア性一般に対する全く
<抽象的>な反対を,やっとのことでなしえただけであった(18)」と批判している.前衛芸術は
人間疎外の状況を避けることの不可能な,運命的なものとして受動的にうけいれているので, そこには「知識人の根なし草的生活叫」に固有の心象世界,虚無・不安・絶望・孤独などのニ ヒリスティックな感情の世界が誇張して描かれることになった.客観的現実からきり離された 個人,すなわち,抽象的な<人間なるもの>の,空洞化した内面世界を,いかに才智豊かに,
多彩な表現手段を用いて描写しようとも,そのことによっては,極端な疎外によって傷つけら れている人間の尊厳をその本来のあるべき姿に回復することに,なにひとつ寄与することはで きないのである.ルカーチが表現主義を含めていっさいの前衛芸術を全面的に否定するのは, それらがヒューマニスティックでなく,結果的には,疎外の現象の背後にある本質的要素をお
ゝい隠す働きをもつという理由による.
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抽象的・観念的な内面世界を描写することに専念する文学について,ブレヒトは次のように 書いている. 「これらの作家の場合には非常に錯綜した精神状況が提示される.たゞし我々は どこを見渡しても,因果関係(Kasuaht邑t)を発見することができない.それは環境から隔離 された心理なのである.複雑な状況の経過に我々は出会うのだが,それらは原因なしに飛び去
ってゆく.ここには高度に発達してはいるが,不毛なテクニックがある.納」前章に述べたよう に,つねに自己にのみかゝわり,結局は自己のまわりをめぐるだけであり,したがってしばし ば独自するものとして表現される自我,このような自我を描くことに専念することによって, 前衛芸術は読者をひたすらニヒリスティックな心象健界にさまよわせ,読者が社会の本質的な 矛盾に目をむけることを妨げる.それ故ブレヒトは彼らの用いた技法が高度なものであること は評価しながらも,彼らの作品の場合には・,それは<不毛なテクニック>と化しているときめ つけたのである.ブレヒトはリアリスティックに書くとはどういうことであるかを次のように 説明している. 「リアリスティックということは,社会的な因果関係をあらわにし,現在の支 配的な物の見方は支配階級の物の見方であることを暴露し,人間社会がおちこんでいる緊急の 困難のために,もっとも幅広い解決を用意している階級の立場にたって書き,発展の契機を強 調し,具体的でしかも抽象を可能にすることである,w」文学の階級性,党派性を明言している 点においてルカーチと多少趣きを異にしてはいるが,リアリズムは人類の進歩の方向にむかっ て発展の契機を強調すべきだと云っているのは,ルカ‑チと全く一致する見解である.
以上ブレヒトとルカ‑チのリアリズム論を対比して検討してきたが,中心的な概念において も,それに劣らず重要なヒューマニズムとの結びつきの問題においても,両者の見解は全く一 致している.再び出発点にたちもどることになるのだが,彼らの対立点はルカーチのブルジョ ア小説尊重と現代文学の新技法の全面的否定を,ブレヒトが激しく攻撃していることにつきる のである.
ブレヒトは『ある形式主義的リアリズム論についての所見』という論文の中で,新らしい技
法を弁護して次のように述べている. 「もちろん形式主義的な内的独自もあれば,一方におい
てリアリスティックな内的独自もある.モンタージュでもって世界を歪めて描写することもで きるし,正しく描写することもできる.幽」ある技法が無条件に非リアリステイシクであるなど とは,誰にも主張できないことである.ルカーチもそのようなことを主張しているわけではな い.なぜなら,ルカ‑チは前衛芸術の内容に即して,その技法を否定しているからである.し たがって新らしい技法を擁護するための,ブレヒトのルカーチに対する激しい攻撃は,彼が ルカーチのリアリズム論を内容的に充分に検討していないことから生じた誤解にもとずくもの であると云わざるをえないのである.
しかしながら誤解にもとずくものであるとはいえ,ブレヒトによる新らしい技法の弁護は 必ずしも不当であるとは云えない.なぜならルカーチのリアリズムについての規定の文学作品 への通用には,かなりのかたよりが見られるからである.ト‑マス・マンの作品がはたしてル カーチが云うように, <客観的現実の総体性>を表現しているかどうかは極めて疑ほしいし, ブレヒトがリアリズムの要件としている<社会を動かしている力>が,マンの作品に描かれて いるとはお性辞にも云えないのである.一方, 「ジョイスやデープリンの作品は,生産力が生 産関係に対しておちいっている世界史的な矛盾を示している.¢埼」というブレヒトの評言が正 しいとすれば,新らしい技法の試みを「抽象的形式の空虚な戯れ」糾(leere Spielerei mit abstrakten Formen)として全面的に否定するルカ‑チは誤っていると云はざるをえない.
ブレヒトが云っているように,技法はその用いられ方によって,リアリスティックにも,非リ アリスティックにもなりうるからである.ある作家の作品がリアリスティックであるかどうか は,そのft品の現実に対するかゝわり方によって判断すべきであって,技法にこだわって,あ る技法を用いた作品をひとしなみに否定しさるのは誤りである.前衛主義作家の大部分は,た しかに知識人のニヒリスティックな心象世界を描くのに専念したけれども,そうでない作家も いたのである.ルカーチは保守的な政治的確信にもかゝわらずリアリストであったバルザック やトルストイに対して極めて寛容であったが,小ブルジョア的,観念的な急進主義にもかゝわ らずリアリストでありえた作家たちに対しても寛容であるべきであったのではなかろうか.ル カ‑チの理論は理路整然,首尾一貫したものであるが,文学作品の評価においては,彼の個人 的な好悪の感情,つまりブルジョア長篇小説への偏愛と抽象的な現代芸術に対する嫌悪の気持 が少からず作用しているように恩ばれるのである.
注
(1) Brecht: Gesammelte Werke. Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag 1967. Bd. 19 S. 297 (2) Lukacs, Georg: Skizze einer Geschichte der neueren deutschen Literatur. Luchterhand
1963.S.209
(3) Brecht: a. a. O. S. 327 (4) Ebd. S. 291
(5) Ebd. S. 291
(6)エンゲルスからヨーゼフ・プロッホにあてた手紙. 1890年9月21日付,ロンドン.
(7) LukAcs, Georg: Einfiihrung in die云sthetischen Schriften von Marx und Engels./ Georg Luk丘cs: Literatursoziologie. ausgew丘hit von Peter Ludz. Luchterhand 1968. S. 215f.より
引用.
(8)客観的現実の表層の模写である自然主義はもちろん,現実の主観‑の反映である心象憧界を直接的 に描写する前衛芸術,たとえば印象主義,表現主義,心理主義などもこの中に含まれる。いわゆる 社会主義リアリズムも弁証法的と自称するが,自然主義の段階にとゞまっていると,ルカ‑チは批 判している.
(9) Luk丘cs, G.: a. a. O. S. 227
Ebd.S.229 Ebd.S.230
Brecht: a. a. O. S. 330 Ebd.S.355
Karl Korsch (1886‑1961).ブレヒトが決定的な影響をうけたマルクス主義理論家.教条化され たいわゆる「正統マルクス主義」に反対した.著書は"Marxismus und Philosophie" (1923), 廿Karl Marx" (英語版1938.独語版1967.)彼の共産党からの除名は思想的な党批判だけでなく, 3926年の独ソ協定調印に際して,国会においてコミュニストとしては空前のソ連外交批判を行なっ たことによる.
LukAcs, G.: a. a. O. S. 233 Ebd.S.235
(17)具体的には貨幣とか商品を考えてみればよい.それらは人間が社会的生活のために作りだしたもの であるが,人間の意識には人間から独立した存在のように恩はれ,かえって人間の行動を支配する ようになる.マルクスが資本論第‑巻で「物神的性格」 (Fetischcharakter)と名づけたような性格 をおびるのである.
Lukacs, G.: a. a. O. S. 323 Ebd.S.320
Brecht: a, a. O. S. 358 Ebd.S.326
Ebd.S.313 Ebd.S.361
Luk云cs, G.: a. a. O. S. 228
(昭和46年9月16日受理)