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1960年前後の日本の青少年観と性 [ PDF

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(1)1960年前後の日本の青少年観と性 −サド裁判(1961年)における「猥褻」の語られ方を通して− キーワード:青少年,猥褻,性欲,自慰,家庭,純潔 発達・社会システム専攻 境 目次 序章. 隆三. 書は、国民一般を対象として、性秩序を乱すという働き を有していたが、性教育で言及される猥褻文書は、青少. 第一節 性言説から見た1960年前後の歴史的位置. 年を対象として、自慰を誘発するという機能を所持して. 第二節 サド裁判. いた。当時自慰は、医学的観点から精神的・身体的に有. 第一章. 自慰の禁止と「青少年」の医学的主体化. 害なものとされている。. 第一節. 1960年代検察当局の猥褻と性欲観. 第二節. 大正期の猥褻と性欲観. ん、刑法上でも問題化されるようになり、意味づけが変. 第三節. 性教育書における自慰の禁止と「青少年」の. 容する。刑法(少年法)言説上の猥褻が対象とする青少. 登場 第二章. 自慰の解禁と「青少年」の家庭における主体化. 60年前後になると、 「青少年」は、性教育上はもちろ. 年は、社会秩序を乱す主体として、少年法における近代 的子ども観を形成する。一方、性教育上の青少年は、家. 第一節. 検察側証人証言 に見ら れ る猥褻 と性欲観. 庭を通して社会秩序を維持する主体となる。大正期性教. 第二節. 性教育書における自慰の解禁と「青少年」の. 育言説において、自慰を禁止され、医学的視線の対象と. 変容. なっていた青少年は、60年前後には、社会秩序を混乱. 第三章. 家庭、性別、少年法における「青少年」の主体. させる主体として、刑法(少年法)的視線に監視される. 確立. 存在へと移行している。純潔教育や女子教育も、このよ. 第一節. 家庭の内と外(性愛の分離). 第二節. 母と性別特性教育. 第三節. 少年法と子ども. 第四章. 「青少年」の非主体化. 第一節. 背景としての性解放論. 第二節. 猥褻否定と「青少年」の消滅. 終章. うな「青少年」を構成するものであった。 また、大正期の性欲学から60年前後の性解放論にま で、普遍的に見られる「性欲−刺激−充足」という性欲 観の存在も明らかにする。 先行研究 刑法上で犯罪とされる猥褻性が、青少年観を規定・構 成していくという本稿の主題を扱う先行研究は見られな. はじめに 本論の目的は、サド裁判(1961年∼69年)にお. い。しかし60年前後の性現象を考察する歴史研究には 以下のようなものがあり、 本論のテーマを補完している。. ける「猥褻」の語られ方を通して、1960年前後の性. 日本におけるセクシュアリティの歴史を追究する赤川. のあり方が青少年観に結像していく過程を描き出すこと. 学は、オナニーに対する捉え方が、大正期の通俗実用書. にある。逆に言えば、性秩序が青少年の扱われかたを通. や性教育の現場における「強い有害論」から、徐々に戦. してどのように構成されていくのかという問題である。. 後の「弱い有害論」 へ変化していくと述べる(赤川,1999) 。. サド裁判は猥褻を問う裁判であったけれども、検察当. この論点は、医学的な害が強調される自慰の主体から、. 局の陳述や検察側と弁護側の証人証言を通じて、当時の. 性秩序を混乱させる犯罪主体へ向けて青少年が問題化さ. 性言説が青少年カテゴリーとそれを支える複数のカテゴ. れていくという、本稿のテーマに符合する。また、19. リー要素に編制されていく様子を窺い知ることのできる. 10年代以来の性欲=本能論と1960年代に本格的に. 裁判でもあった。したがって、本論の狙いは、単に青少. 成立した性=人格論が、日本における性思考を枠づけて. 年観を描くことにあるのではない。. きたという赤川の主張は、60年前後における性と愛の. 大正期における猥褻文書は、刑法言説上と性教育言説. 分離という問題と切り離せない。つまり、猥褻の扱う性. 上で、二つの異なる意味を持っていた。刑法上の猥褻文. という肉体的快楽の領域における青少年と、愛という精.

(2) 神的領域に住まう青少年が重なりあったまま、言説化さ. に大正期の刑法言説と性教育言説においても常用されて. れていく問題である。また、赤川の考察する性解放論は. いる。 当時は通俗性欲学の全盛期であり、 「性欲−刺激−. 「性欲の社会的規制からの解放であるとともに、人格と. 充足」という展開形式を持つ性欲は、本能とみなされ. しての性への解放」 (赤川,1999,p.391)という特徴を. ていた。大正期刑法上における猥褻文書は、性欲を徒に. 持つ。しかし、性解放論は猥褻概念や通俗性欲学の基底. 刺激し、性秩序を混乱させるという社会的機能を有して. にある「性欲−刺激−充足」という性欲観を共有するも. おり、その影響を受けると想定されているのは国民一般. のではあっても、 「人格としての性」 を体現するものかど. である。一方、性教育上における猥褻の働きは、青少年. うかは速断できないように思われる。. の自慰を誘発して、医学的な観点から身体的・精神的に. 川村邦光によれば、1950年代の家族計画運動の意. 害をもたらすものとされる。対象は国民一般ではなく、. 義は「避妊薬や避妊具を使用して熟練する避妊体験を通. 青少年に特化されている。大正期における猥褻文書の猥. じて、夫婦/男女の性行為は〈子産み〉という生殖行為. 褻性が、被影響者としての「青少年」に結像していくの. から切り離されて、生活もしくは人生の営みの一部とし. は、性教育言説上であって、刑法言説上ではない。 「青少. て位置づけられ、恋愛や快楽を追求する行為へと転換し. 年」は、猥褻の犠牲者として、まず大正期性教育言説上. た」 (川村,2002,p.93)ことにある。家庭において、快. に登場したのである。また、猥褻の引き起こす結果は、. 楽としての性行為の自律化が60年前後に生じたという. 社会秩序の混乱という刑法犯罪にかかわるものではなく、. 見解であり、避妊というテーマゆえに、性交可能な夫婦. 自慰の有害性という医学的・個人的な問題であった。こ. や成人男女が考察対象となっている。本論は、同じ家庭. こで確認をしておくと、 「刑法言説」や「刑法上の言説」. の構成員である青少年に光を当て、性行為の自律化とい. と表現するとき、二つのケースを考えることができる。. う性と愛の分離による影響を考察する。. 刑法条項そのものを指す場合と、刑法をめぐって紡がれ. 田代美江子は、ジェンダー的視点を重視する性教育史. る言葉(たとえばサド裁判の公判証言)を指示する場合. を考察する中で、戦前の廃娼運動を引き継いだ「風俗対. である。本稿では、とくに説明がなければ、後者の<紡が. 策」としての純潔教育が、男女の特性や役割を肯定する. れる言葉>を示すものとする。. 道徳教育に姿を変えながらも60年代前半にピークを迎. 40年を隔てた1960年前後の性教育書においては、. える過程を論じている(田代,2003)。池谷壽夫は、純潔. 大正期と変わらず、青少年がその対象である。しかし、. 教育が理念的に想定していた、性別役割分業とジェンダ. 大正期に見られたような自慰とその有害性が重視されな. ーと純潔に基づく家族像が、60年代後半に成立した政. くなり、男女の交際や性行為における純潔性、および幸. 府の求める家族像として定着し、70年代以降今日に至. 福な結婚/家庭生活の健全性に焦点が移っていく。. るまで克服されていないと述べる(池谷,2001) 。60年. 『純潔指導』を著した鈴木・間宮によると、性欲処理. 代以降の母子保健政策や家庭教育振興方策など政府の家. のために 自由に性交渉 をおこなえば純潔が汚れる(鈴. 族政策の場においては、一貫して純潔教育的理念が維持. 木・間宮,1954) 。同じく性教育書を出版した沢田・中村. されているのだという。アプローチの方法こそ違え、田. は、性指導が幸福な結婚と健全な家庭生活という価値の. 代は女性、池谷は家族というテーマで、60年代純潔教. ためにあるのであって、結婚外の不純な異性間交遊や交. 育の遺産を問題にする。サド裁判においては、純潔教育. 渉のためにあるのではないという(沢田・中村,1951) 。. の対象である青少年が、どのように扱われたのかが論点. つまり、どちらも、男女の性的交渉を純潔または結婚/. となる。. 家庭という一定の枠の中で受容しようとしており、その. 赤川はオナニーを媒介にして、川村は性行為と生殖行. 意味で、純潔=結婚/家庭という等価関係が成立してい. 為の分離を通して、 性と愛それぞれの自律化を分析した。. る。鈴木・間宮の純潔というカテゴリーが、沢田・中村. 田代と池谷は純潔教育という共通のテーマを扱いながら. においては結婚/家庭という形態として実現されている. も、前者は社会的背景と実践、後者は言説を中心に分析. わけである。実は、鈴木・間宮自身も、純潔の重要性を. を進めている。四人ともそれぞれ異なる素材を考察して. 説くだけでなく、著書の最終章を「幸福な結婚. いるが、サド裁判においては、青少年観へ向けて上記の. い家庭建設への基礎−」と題して、まるごと幸福な結婚. 主題群が集束していく様子を見ることができる。. /家庭の称揚のために割いている。50年代から60年. −明る. 前後に、純潔と結婚/家庭のテーマは密接な関係を取り 論旨 サド裁判で使用された猥褻と性欲という概念は、すで. 結んでいたことが推測される。 大正期に厳しく自慰を禁止された「青少年」は、半世.

(3) 紀足らずのうちに、過度でなければ自慰で責められるこ. を生むものであった。ここでは、青少年が家庭、純潔、. とはなくなり、かわりに、幸福な結婚/健全な家庭とい. 母、特性教育の目指す性別役割分業などと結びつけられ. う枠内に制限された異性間交渉という純潔性を求められ. ている。青少年は、猥褻犯罪の主体や客体としてだけで. ることになる。60年前後の性教育言説上における「青. なく、純潔な交際と幸福な結婚を経て、健全な家庭を営. 少年」が示す性秩序の維持や混乱は、家庭の純潔性を媒. む主体としても存在し始めているのである(三章二節) 。. 介にしたものである(二章) 。. 戦前、少年審判官に任命された内藤証人は、戦後の少. サド裁判の検察当局陳述、検察側証人証言および証人. 年法改正作業に携わり、最高裁判所の家庭局第三課長も. たちが公にした文書は、以下のことを明らかにする。刑. 務めた。改正少年法における犯罪処理手続きの変更によ. 法そのものは国民一般を対象とする条項で構成される。. って、少年は刑事処分を前提とせずに家庭裁判所が独自. しかし、サド裁判の公判陳述や証言を見る限り、検察当. に判断を下せる対象となり、そのことで少年が成人と明. 局と検察側証人の区別を問わず、 「青少年」 が猥褻に関わ. 確に区別される独自の存在となったことを、内藤は高く. る存在として問題化されている。つまり、60年前後の. 評価する(内藤,1950) 。被影響性や教化親和性が高く、. 「青少年」は、猥褻の影響を受けやすく、刑法上の罪を. 帰責可能性に乏しく、可塑性や可能性に富むという内藤. 犯す可能性を持つ存在として「発見」されている。. の少年観は、近代的子ども観の持つ無垢性や被保護性に. 青少年は、猥褻文書に刺激を受けて性秩序を乱す存在. 極めて近い。 少年と少年犯罪に対する内藤の認識枠組は、. となるだけではない。婦人運動家で主婦でもある田崎証. 戦後改正少年法における処分手続きの変更を背後から支. 人は、エロ・グロを家庭内に置かないという言い方によ. えており、 けっして切り離すことができないものである。. って、愛のない肉体的快楽を家庭から排除・隠蔽しよう. 鳥居は、改正前の旧少年法における「保護処分」が、. とする。つまり性と愛の分離が問題なのではなく、それ. 近代的な子ども観を前提として成立したとみなすことに. が置かれる場所、家庭の中なのか外なのかという配置場. 疑念を表明している(鳥居,2002) 。戦後改正少年法によ. 所が問題なのである。家庭内に置かれた性欲は愛のある. って、はじめて少年の犯罪処理手続きが、刑事処分を担. 快楽を構成し、家庭外の性欲はエロ・グロ(=愛のない. 当する検察の手を離れて家庭裁判所の権限に移ったこと、. 快楽)となる。愛と性の分離は、家庭の内側と外側が分. およびその立案を担当した内藤の少年観が、近代的子ど. 離するということを意味している。田崎によれば、家庭. も観に近かったこととを併せて考察すれば、子どもや少. の中にのみ真の清らかな愛情が宿るとされ、性欲も、そ. 年のあり方(=青少年観)が、戦後から60年前後にか. の愛情に裏打ちされた形でしか承認されない。男女の愛. けて変容した可能性を考えることができる。改正少年法. は、いずれ結婚して家族を営む夫婦間の愛として設定さ. において、青少年や子どもは、罪を犯す存在として成人. れる。結婚と結びつかない愛や恋愛は、性欲の領域にあ. と同様に対象化されたけれども、同時に無垢性や被保護. るものとして最初から否定されている。その意味で、純. 性という特質を持つ「子ども」としても対象化されてい. 潔とは家庭や家族と密接に関係を持つ言葉であった。青. る。また、内藤は、改正少年法成立の二年後、純潔教育. 少年は、結婚によって形成される家庭の内側にしか存在. 分科審議会のメンバーに任命される。この事実は、刑法. しない純潔性を維持する構成メンバーとなる(三章一節)。. (少年法)と純潔教育の両言説上において、共通する子. 女子校の校長を務める生江証人の支持する特性教育は、. ども観/青少年観が機能し始めているということを示し. 青少年の半数を占める女子生徒を対象としているが、性. ている(三章三節) 。. 別役割分業を担う「母親」になる教育という意味では、. 検察当局と検察側証人の発言はすべて、青少年観を二. 田崎の主婦や母親が中心となる家庭観を強化するもので. 重のレベルで問題化している。わかりやすいように、下. ある(生江,1983) 。性別特性教育の目標は、勤労者や市. 図を参照する。○と◎は、青少年観が成立していること. 民という男女に共通する役割よりも、家庭を経営管理す. を示し、×は非成立を示す。なお、本論における「青少. る主婦、家庭の外で所得を得る夫に生理的・精神的な再. 年」は、猥褻概念との関わりから析出・形成されるもの. 生の場を提供する妻、子どもの成長に責任をもつ母とい. である。 一つ目は、 言説領域の拡大というレベルであり、. う三つの役割を身につけることである。家庭/家族のみ. 大正期の性教育上でしか対象化されていなかった青少年. が女性固有の領分とされる。60年前後における青少年. が、60年前後には性教育だけでなく刑法上(サド裁判). というカテゴリーは、その下位区分として性別という基. でも主題化されるようになったという事実を指す。二つ. 準を有していたのだが、それは単なる生物学的性差を越. 目は、青少年の扱い方のレベルである。大正期の青少年. えて、家庭生活の主催者である「母」という特別な価値. が自慰の被害者という医学的な視線の対象として処理さ.

(4) れるのに対し、60年前後には、性教育と刑法の二つの. 機能している。 「青少年」 が性秩序の構成と変容に重要な. 言説領域とも、性秩序を維持し乱す監視対象として扱わ. 役割を果たしてきたことは確実である。. れるようになる。医学的自慰言説が○で、性秩序の混乱 言説が◎である。. また、大正期とサド裁判の時期における性欲学や性教 育言説および性解放論の考察によって明らかになったの は、青少年観の変容にもかかわらず、大正期から60年. 大正期 60年前後. 性教育. 刑法. ○. ×. ↓. ↓. ◎. ◎. 前後にかけての猥褻と性欲観自体は変化していないとい う事実であった。 [主要引用史料] (年号順) 河合廉一・澤田順次郎 1913 『色情の犯罪』島田書店. 大岡昇平、埴谷雄高、遠藤周作、吉本隆明、大江健三. 金谷幸太郎. 1914. 『性慾教育』藤田文林堂・開文社. 郎など、ほとんど全員が文学・芸術関係者である弁護側. 澤田順次郎. 1919. 『法医學上より観たる色情犯罪』小. 証人の証言内容は、 大岡の言葉からも推察されるように、. 西書店. 当時の流行思想であった性解放論から多少なりとも影響 を受けていた(四章一節) 。そして、弁護側言説は青少年 というカテゴリーをうまく対象化できなかった。教育の. 春野通男. 1920 『年頃の子女を持てる父母に代わりて. 性に関する講話』大同館書店 羽太鋭治・伊藤尚賢. 1921 『如何に性欲に就て教ふべ. 専門家ではないという理由からだけでなく、証人たちの. きか. 父と子の性欲問答』新橋堂. 猥褻を否定する論理自体が、青少年という表象を必要と. 山本宣治. 1923 『性教育』内外出版株式会社. しなかった。動機と意図、表現、読解、権力、普遍性な. 内藤文質. 1950. どの切り口を通して猥褻を否定しようとする試み自体の. 月報. 第12号』最高裁判所事務総局家庭局. 中に、青少年観の侵入を許さない論理が存在しており、. 沢田慶輔・中村昇. その意味で、弁護側証言は検察側証言におけるような青. 鈴木清・間宮武. 少年の主体化を否定するものである。一方、性解放論の. 謝国権. 重要なテーマでもあったオルガスムという快楽概念は、. 田崎敏子. 大正期の通俗性欲学が持っていた「性欲−刺激−充足」 という性欲観と共通する部分を持っている。両者とも、 快楽(=性欲の充足)が自律性を持ち、社会的制度など 他の要素に規定されることがない。快楽は、純潔な交際 を経た結婚後の家庭において獲得されるものではなくな. 「刑事処分か保護処分か」『家庭裁判 1951 『思春期の指導記録』同学社 1954 『純潔指導』日本文化科学社. 1960 『性生活の知恵』池田書店 1960 「婦人民主クラブへ. びつきがほしい」 『月刊社会教育』No.33,国土社 文部省. 1966 『生徒指導の実践上の諸問題とその解明』. 大蔵省印刷局 生江義男. 1983. 「明日の女子教育のために」『明日を. 開く人間教育』国土社. り、純粋に性行為のみを目的として自立する。通俗性欲. 現代思潮社編集部編. 学における性欲観の純化された一つの形態が、オルガス. [主要引用文献] (五十音順). ム理論であるともいえる。本論で考察の対象となった性. 赤川学. 欲に関するすべての言説は、その基底に同じ性欲観を共. 書房. 有していると考えてよい(四章二節) 。. 一般主婦との結. 1988 『サド裁判. 上・下』. 1999 『セクシュアリティの歴史社会学』勁草. 池谷壽夫. 2001 「純潔教育に見る家族のセクシュアリ. テ ィとジェンダー −純 潔 教 育 家 族 像から 六十年代 結語 サド裁判の猥褻概念に着目し、性のあり方が青少年観. 家族像へ−」 『教育学研究』第六十八巻第三号 川村邦光. 2002 「家庭の〈性生活〉の創出−『性生活. に変換される様子を検討してきた。まず大正期に遡り、. の知恵』をめぐって−」服藤・山田・吉野編『恋愛と. 青少年が性教育言説上で、自慰の被害者という医学的対. 性愛』早稲田大学出版部. 象として処理されることを確認した。1960年前後に. 田代美江子. 2003. 「第九章. 敗戦後日本における「純. は、青少年が性教育だけでなく刑法言説においても扱わ. 潔教育」の展開と変遷」橋本・逸見編『ジェンダーと. れるようになり、社会秩序の維持や破壊の主体へと変容. 教育の歴史』川島書店. したことを考察した。しかも、その秩序維持や混乱の様. 鳥居和代. 2002 「旧少年法の成立過程. −「保護」と. 態は、家庭、母、純潔、特性教育、性別役割分業、少年. 「教育」の関係をめぐって−」『日本の教育史学 教. 法、 オルガスムなどの複数要素に配分/編制された上で、. 育史学会紀要第45集』教育史学会.

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