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Vol.65 , No.2(2017)085緒方 義英「『無量寿経』生因三願の次第について」

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(1)

『無量寿経』生因三願の次第について

緒 方 義 英

1.はじめに

本論では,『無量寿経』に説かれる無量寿仏の四十八願のなか,第十八,十九, 二十願に着眼し,その願意と関係性から,救済法として展開される生因三願の次 第について考察するものである. 『無量寿経』には,無量寿仏の衆生済度が浄土によって実現されることが説か れ,その浄土への往生を可能にする救済のシステムが,第十八願を中心に構築さ れることが示されている.無量寿仏は,衆生済度に必要な行業のすべてを四十八 願に表し,それを円満に成就することで正覚を取得する.四十八願の成就によっ て獲得される功徳は,そのすべてが名号に摂められ,それを衆生に回向すること で「信楽」を開発するのである.この信楽こそが,衆生を本願力に乗託させ,浄 土へと往生させる正因となり,無量寿仏の衆生済度を成立させる智慧ともなるの である. しかし,ここで問題となるのが,信楽開発(獲得)の極難さである.無量寿仏 は「難思光」と称され,その智慧,慈悲ともに衆生の思議が及ぶところではない. 仏智を了知しない衆生にとっては,とても信じ難い「救済法」となるのである. 経中には「難のなかの難,これに過ぎたる難はなけん.」1)と説かれている.これ こそ,第十八願において「唯除」と示さねばならなかった「十方衆生の実際」で ある.そこで,このような衆生が,いかに信楽を開発され,往生浄土を果し遂げ られるのか,その救済の次第について明らかにしていきたい.

2.第十八願意

『無量寿経』(讃仏偈)には 願はくは,われ仏とならんに,聖法王に斉しく,生死を過度して,解脱せざることなか らしめん.(乃至)われ誓ふ,仏を得たらんに,あまねくこの願を行じて,一切の恐懼 になるだろう.そのような状況では,文字の微細な形の違いについても配慮しな がら議論を進める必要が出てくることもあるだろう.このことは,必ずしも短所 とは言えず,むしろ長所として活かしていくことも可能かもしれないという期待 はあるものの,これまでの仕方ではうまく立ち行かなくなるかもしれないという 点には留意せざるを得ないだろう.

終わりに

紙媒体の研究資料ネットワークは,少しずつデジタル研究環境へと置き換わり つつある.しかし,それは様々な問題を抱えており,デジタル媒体に固有の問題 に加えて,紙媒体時代にはあまり注目されなかった潜在的な問題をも,新たな装 いで以てあらわにしてきている.もはや我々はこれを避けて研究を続けることは 困難であり,その長所を活かしつつ問題点を認識し解決に向けて努力していくと いう営みを多かれ少なかれ引き受けていかざるを得ないだろう.こうした活動へ の学界を挙げての膨大な努力の蓄積は,いまや,日本の人文学全体を先導する役 割を担うに至っている.そのような先進的な取組みを続けてきているという自覚 とともに,建設的に事態に取り組んでいくことが,インド学仏教学の未来をより よい形で切り拓いていくことにつながっていくだろう. 〈参考文献〉 島田蕃根翁延寿会編 1908『島田蕃根翁』島田蕃根翁延寿会. 船山徹 2008「漢語仏典――その初期の成立状況をめぐって」京都大学人文科学研究所附 属漢字情報研究センター編『京大人文研漢籍セミナー 1 漢籍はおもしろい』研文出版, 71–118. 松永知海 2008「日本近代における『黄檗版大蔵経』の活用」『東アジアにおける宗教文化 の総合的研究』佛教大学アジア宗教文化情報研究所,139–148. 山崎清華 1928「異字の撰択に就いて」『現代仏教』(10 月号),103–115. (平成 28 年度 JSPS 科学研究費補助金 JP15H05725,JP16H03422,JP26284068,JP16K02492, JP24242013 による研究成果の一部) 〈キーワード〉 デジタル研究環境,大正新脩大蔵経,嘉興蔵,IIIF,IVS,Unicode (一般財団法人人文情報学研究所主席研究員,博士(文化交渉学))

(2)

たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,至心信楽して,わが国に生ぜんと欲ひて,乃 至十念せん.もし生ぜずば,正覚を取らじ.ただ五逆と誹謗正法とをば除く4) とある.前述のごとく,「一切衆生を平等に救済する」という悲願のもとに構築さ れる無量寿仏の衆生済度は,「無量寿仏の本願を聞いて喜ぶ」という,信楽開発の 一念において業事(救済)が成弁(成立)する.つまり,信楽の開発こそが,無量 寿仏の衆生済度における必要不可欠な要因であり,この信楽の開発なしでは,衆 生済度がまったく成立しないことになる. それなのに,その信楽開発(獲得)が「難中の難,これ以上に難しいことはな い」のである.十方恒沙の諸仏は,この「極難信の法」を説き,それを衆生に勧 めるのではあるが,簡単には信楽開発へとは結びつかない.経中には この経を聞きて信楽受持することは,難のなかの難,これに過ぎたる難はなけん5) とその極難さを説いている. なぜ,衆生にとって,信楽を開発することが「難中の難」なのであろうか.そ の原因は,衆生が無量寿仏の智慧(無量寿仏の救済の因果律)を了知しないからで あり,且つ,罪福(自業自得の因果律)を信じて止まない心があるからである.経 には もし衆生ありて疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん.仏 智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして,この諸智におい て疑惑して信ぜず.しかるになほ罪福を信じ善本を修習して,その国に生れんと願ふ. このもろもろの衆生,かの宮殿に生れて…6) とある.まさしく,信楽の開発によって救済を成立させる第十八願にとって,そ の最大の問題が疑心,すなわち「本願を信じない心」なのである.いくら諸仏の 称名によって名号が回向されても,それが信楽という智慧となって開発しなけれ ば,そこに無量寿仏の行が成就することはない.無量寿仏の行が成就しなければ, 救済の成立もないのである.これが,第十八願文末尾に「唯除」と示される,五 逆と謗法の現実なのである. 曇鸞は,五逆罪の根底に謗法があることを見抜き,「正しい法を否定するならば 道理は見失われ,そこから五逆罪が起きる」と説いている.五逆のなか,殺母・ 殺父が恩田(恩を与えるもの)に背く罪,その他は福田(福を与えるもの)に背く罪 で,これらはすべて反逆罪にあたる.この反逆罪を起こす要因が,虚妄なる見解 に,ために大安をなさん.(乃至)われまさに哀愍して,一切を度脱すべし2) と,無量寿仏の本願が一切衆生の救済に向けられていることが示されている.こ の平等なる衆生済度こそが,一如より来生して正覚を取得する無量寿仏の本懐で あり,仏陀としての存在意義である.「平等なる救済」ということであるから,そ の救済の必然として,衆生の機根を問わず,衆生に功徳を求めない.つまり,一 切の衆生が成仏するための功徳を,無量寿仏自身が全て成就し回向する,という のである.その功徳の内容が,無量寿仏の四十八願として表される. さて,無量寿仏の四十八願をみてみると,その一々の願に「不取正覚」とある. これは,すべての願の成就なくして正覚の取得はない,という無量寿仏の誓いを 表している.無量寿仏は,四十八願の行(衆生済度に必要不可欠な行)を円満に成就 することで正覚を取得し,その正覚上に果徳の名号を現していく.もし,無量寿 仏が正覚を取得しなければ,名号の存在自体もないわけであるから,この名号の 示現こそは,四十八願の行が円満に成就している明証となるのである.ここに, 一切衆生を平等に救済するべく,そのすべての行を円満に成就させた無量寿仏の 名号が現れることになるのである. 無量寿仏は,一切の衆生を平等に救済するため,自身の願と行を名号に包摂し, それを諸仏に称名させることで衆生に回向する.この仕組みが,第十七願文にお いて誓われているのである.第十七願文には たとひわれ仏を得たらんに,十方世界の無量の諸仏,ことごとく咨嗟して,わが名を称 せずば,正覚を取らじ3) とある.無量寿仏は,自身の名号が十方諸仏に讃えられ,また称えられんことを 誓うのであるが,この誓意は,諸仏の勧信,護念,証誠によって,衆生の信楽を 開発(回向成就)させることにある.すなわち,十方諸仏が無量寿仏の名号法(救 済法)を称讃することで,それが勧信,護念,証誠となり,衆生の信楽開発にお ける重要な役割を担う,というのである.また,諸仏の立場からいえば,「一切衆 生を平等に救済する法」は,何よりも自身が求めていた法であり,その法を喜び, 称讃するところに,諸仏の「願い」でもある一切衆生の救済が実現するのである. この諸仏の称名(讃嘆)こそは,衆生に無量寿仏の名号を回向し,信楽を開発 させんと用きかける唯一無二の行業となるのである.その次第は,次の第十八願 文に示される.第十八願文には,

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たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,至心信楽して,わが国に生ぜんと欲ひて,乃 至十念せん.もし生ぜずば,正覚を取らじ.ただ五逆と誹謗正法とをば除く4) とある.前述のごとく,「一切衆生を平等に救済する」という悲願のもとに構築さ れる無量寿仏の衆生済度は,「無量寿仏の本願を聞いて喜ぶ」という,信楽開発の 一念において業事(救済)が成弁(成立)する.つまり,信楽の開発こそが,無量 寿仏の衆生済度における必要不可欠な要因であり,この信楽の開発なしでは,衆 生済度がまったく成立しないことになる. それなのに,その信楽開発(獲得)が「難中の難,これ以上に難しいことはな い」のである.十方恒沙の諸仏は,この「極難信の法」を説き,それを衆生に勧 めるのではあるが,簡単には信楽開発へとは結びつかない.経中には この経を聞きて信楽受持することは,難のなかの難,これに過ぎたる難はなけん5) とその極難さを説いている. なぜ,衆生にとって,信楽を開発することが「難中の難」なのであろうか.そ の原因は,衆生が無量寿仏の智慧(無量寿仏の救済の因果律)を了知しないからで あり,且つ,罪福(自業自得の因果律)を信じて止まない心があるからである.経 には もし衆生ありて疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん.仏 智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして,この諸智におい て疑惑して信ぜず.しかるになほ罪福を信じ善本を修習して,その国に生れんと願ふ. このもろもろの衆生,かの宮殿に生れて…6) とある.まさしく,信楽の開発によって救済を成立させる第十八願にとって,そ の最大の問題が疑心,すなわち「本願を信じない心」なのである.いくら諸仏の 称名によって名号が回向されても,それが信楽という智慧となって開発しなけれ ば,そこに無量寿仏の行が成就することはない.無量寿仏の行が成就しなければ, 救済の成立もないのである.これが,第十八願文末尾に「唯除」と示される,五 逆と謗法の現実なのである. 曇鸞は,五逆罪の根底に謗法があることを見抜き,「正しい法を否定するならば 道理は見失われ,そこから五逆罪が起きる」と説いている.五逆のなか,殺母・ 殺父が恩田(恩を与えるもの)に背く罪,その他は福田(福を与えるもの)に背く罪 で,これらはすべて反逆罪にあたる.この反逆罪を起こす要因が,虚妄なる見解 に,ために大安をなさん.(乃至)われまさに哀愍して,一切を度脱すべし2) と,無量寿仏の本願が一切衆生の救済に向けられていることが示されている.こ の平等なる衆生済度こそが,一如より来生して正覚を取得する無量寿仏の本懐で あり,仏陀としての存在意義である.「平等なる救済」ということであるから,そ の救済の必然として,衆生の機根を問わず,衆生に功徳を求めない.つまり,一 切の衆生が成仏するための功徳を,無量寿仏自身が全て成就し回向する,という のである.その功徳の内容が,無量寿仏の四十八願として表される. さて,無量寿仏の四十八願をみてみると,その一々の願に「不取正覚」とある. これは,すべての願の成就なくして正覚の取得はない,という無量寿仏の誓いを 表している.無量寿仏は,四十八願の行(衆生済度に必要不可欠な行)を円満に成就 することで正覚を取得し,その正覚上に果徳の名号を現していく.もし,無量寿 仏が正覚を取得しなければ,名号の存在自体もないわけであるから,この名号の 示現こそは,四十八願の行が円満に成就している明証となるのである.ここに, 一切衆生を平等に救済するべく,そのすべての行を円満に成就させた無量寿仏の 名号が現れることになるのである. 無量寿仏は,一切の衆生を平等に救済するため,自身の願と行を名号に包摂し, それを諸仏に称名させることで衆生に回向する.この仕組みが,第十七願文にお いて誓われているのである.第十七願文には たとひわれ仏を得たらんに,十方世界の無量の諸仏,ことごとく咨嗟して,わが名を称 せずば,正覚を取らじ3) とある.無量寿仏は,自身の名号が十方諸仏に讃えられ,また称えられんことを 誓うのであるが,この誓意は,諸仏の勧信,護念,証誠によって,衆生の信楽を 開発(回向成就)させることにある.すなわち,十方諸仏が無量寿仏の名号法(救 済法)を称讃することで,それが勧信,護念,証誠となり,衆生の信楽開発にお ける重要な役割を担う,というのである.また,諸仏の立場からいえば,「一切衆 生を平等に救済する法」は,何よりも自身が求めていた法であり,その法を喜び, 称讃するところに,諸仏の「願い」でもある一切衆生の救済が実現するのである. この諸仏の称名(讃嘆)こそは,衆生に無量寿仏の名号を回向し,信楽を開発 させんと用きかける唯一無二の行業となるのである.その次第は,次の第十八願 文に示される.第十八願文には,

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ようとするのである.しかしながら自力無功,善根を植えようとすればするほど, また,功徳を積もうとすればするほど,そこに見えてくるのは煩悩ばかりで,何 一つ功徳を回向しえない自身に気づかされるのである. このような環境下で,諸仏は,諸行が往生の因縁とはならないことを説き,念 仏が往生の因縁となることを教える.そして,不断に名号を讃嘆し続け,これを 衆生に勧めていくのである.こうした諸仏の勧信が,それまで諸行を修してきた 衆生の心を軟化させ,遂には念仏一行を選び取らせることになる. 無量寿仏の本意は,衆生を第十八願へと転入させ,そこで往生を決定させるこ とにある.しかし,そのためには念仏の功徳に気づかせ,念仏一行を選び取らせ る必要がある.衆生が念仏の功徳に気づくまでは,決して修諸功徳を止めさせな い.もし万が一,臨終まで気づかないようであれば,その時は大衆と共に現其人 前し,自ら念仏の功徳を教えよう.そのように,第十九願で誓っているのである.

4.第二十願意

第二十願文には たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,わが名号を聞きて,念をわが国に係けて,も ろもろの徳本を植ゑて,至心回向してわが国に生ぜんと欲せん.果遂せずは,正覚を取 らじ8) とある.衆生は,第十九願の方便によって念仏を選び取ることができたが,未だ 罪福を信じる心は消えず,本願の嘉号をもって己が善根と為している.そのよう な衆生の心を転換させ,第十八願へと入らせるために,この第二十願が発された. 本願の名号であるのに,それを自身の善根と為して回向する衆生は,いまだ定 散自力の心を離れてはいない.多善根多功徳の名号を選び取りながらも,それを 称える心が自力を離れないのである.この自力の心が原因で,せっかく回向され ている名号の功徳を受け取れず,それを拒否し続けることになっている.このよ うな衆生の現状を憐れみ,自力心を翻すように説法するのが,他でもない諸仏の 称名である.この諸仏の称名が,衆生に自力無功を教え,本願他力への乗託を勧 めるのである.やがて,自力に功徳がないことを教えられた衆生は,自力に頼る ことを止め,自身に向けられた大悲本願の恩を知ることになるのである.

5.救済の構造(円満なる一切衆生の救済)

無量寿仏が構築する衆生済度のシステムは,救済に必要な功徳のすべてを名号 (顚倒),妄心(妄想),雑念であり,それが謗法者の心と重なるのである. このような五逆の罪を犯す謗法者(五逆と謗法を合わせて逆謗という)が,無量寿 仏の救済から除外されていくのである.そこで,この逆謗者をいかに救うか,そ れが本願における最大の課題となってくる.どうすれば逆謗者の疑心を取り除き, 信楽開発(回心)させることができるか,そこに無量寿仏の智慧と慈悲が注がれ る(逆謗摂取).

3.第十九願意

第十九願文には, たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,菩提心を発し,もろもろの功徳を修して,至 心発願してわが国に生ぜんと欲せん.寿終るときに臨んで,たとひ大衆と囲繞してその 人の前に現ぜずば,正覚を取らじ7) とある.無量寿仏の救済は,信楽開発の一念において成立するため,本願を信じ ない疑心の衆生は,救済より除外される他はない.衆生を煩悩具足のままに救お うとする第十八願であるのに,その本願に乗託しない衆生は,どうにも救うこと ができないのである.この時点では,「救済を拒む衆生」といわざるを得ない. しかし,そのような「唯除」の衆生をこそ見捨てないのが無量寿仏の大悲,本 願である.「一切衆生を必ず救う」という救済の必然性(必然的展開)から,「唯 除」される衆生への方便がはじまるのである.第十八願で除かれた逆謗者が,そ の直後に発される第十九願と第二十願によって便宜され,まちがいなく本願へと 誘引されていくのである. さて,無量寿仏の衆生済度は,そのすべてが本願力(本願成就の功徳とその力用) によって成立するものである.そのため,これらは「他力不思議の因果律」とい える.衆生は,この「他力不思議の因果律」を了知することができず,結果的に 本願を疑うことになるのである.このような衆生の実情にたいして,自業自得の 因果律が説かれ,自力諸行の仏道が示される.自業自得の因果律のもとで開かれ る自力諸行の仏道こそは,まさしく罪福を信じる衆生の心に相応するのである. 他力不思議を信じない衆生を本願真実の世界へ誘引するため,その第一の手段 (方便)として第十九願,すなわち修諸功徳の願が発されるのである. いまだ悟りを開いてない衆生の行(諸行)は少善根福徳の因縁であり,すでに 悟りを開いた仏の徳(名号)は多善根福徳の因縁である.そうであるのに,「他力 不思議の因果律」を信じない衆生は,どこまでも修諸功徳に励み,それを回向し

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ようとするのである.しかしながら自力無功,善根を植えようとすればするほど, また,功徳を積もうとすればするほど,そこに見えてくるのは煩悩ばかりで,何 一つ功徳を回向しえない自身に気づかされるのである. このような環境下で,諸仏は,諸行が往生の因縁とはならないことを説き,念 仏が往生の因縁となることを教える.そして,不断に名号を讃嘆し続け,これを 衆生に勧めていくのである.こうした諸仏の勧信が,それまで諸行を修してきた 衆生の心を軟化させ,遂には念仏一行を選び取らせることになる. 無量寿仏の本意は,衆生を第十八願へと転入させ,そこで往生を決定させるこ とにある.しかし,そのためには念仏の功徳に気づかせ,念仏一行を選び取らせ る必要がある.衆生が念仏の功徳に気づくまでは,決して修諸功徳を止めさせな い.もし万が一,臨終まで気づかないようであれば,その時は大衆と共に現其人 前し,自ら念仏の功徳を教えよう.そのように,第十九願で誓っているのである.

4.第二十願意

第二十願文には たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,わが名号を聞きて,念をわが国に係けて,も ろもろの徳本を植ゑて,至心回向してわが国に生ぜんと欲せん.果遂せずは,正覚を取 らじ8) とある.衆生は,第十九願の方便によって念仏を選び取ることができたが,未だ 罪福を信じる心は消えず,本願の嘉号をもって己が善根と為している.そのよう な衆生の心を転換させ,第十八願へと入らせるために,この第二十願が発された. 本願の名号であるのに,それを自身の善根と為して回向する衆生は,いまだ定 散自力の心を離れてはいない.多善根多功徳の名号を選び取りながらも,それを 称える心が自力を離れないのである.この自力の心が原因で,せっかく回向され ている名号の功徳を受け取れず,それを拒否し続けることになっている.このよ うな衆生の現状を憐れみ,自力心を翻すように説法するのが,他でもない諸仏の 称名である.この諸仏の称名が,衆生に自力無功を教え,本願他力への乗託を勧 めるのである.やがて,自力に功徳がないことを教えられた衆生は,自力に頼る ことを止め,自身に向けられた大悲本願の恩を知ることになるのである.

5.救済の構造(円満なる一切衆生の救済)

無量寿仏が構築する衆生済度のシステムは,救済に必要な功徳のすべてを名号 (顚倒),妄心(妄想),雑念であり,それが謗法者の心と重なるのである. このような五逆の罪を犯す謗法者(五逆と謗法を合わせて逆謗という)が,無量寿 仏の救済から除外されていくのである.そこで,この逆謗者をいかに救うか,そ れが本願における最大の課題となってくる.どうすれば逆謗者の疑心を取り除き, 信楽開発(回心)させることができるか,そこに無量寿仏の智慧と慈悲が注がれ る(逆謗摂取).

3.第十九願意

第十九願文には, たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生,菩提心を発し,もろもろの功徳を修して,至 心発願してわが国に生ぜんと欲せん.寿終るときに臨んで,たとひ大衆と囲繞してその 人の前に現ぜずば,正覚を取らじ7) とある.無量寿仏の救済は,信楽開発の一念において成立するため,本願を信じ ない疑心の衆生は,救済より除外される他はない.衆生を煩悩具足のままに救お うとする第十八願であるのに,その本願に乗託しない衆生は,どうにも救うこと ができないのである.この時点では,「救済を拒む衆生」といわざるを得ない. しかし,そのような「唯除」の衆生をこそ見捨てないのが無量寿仏の大悲,本 願である.「一切衆生を必ず救う」という救済の必然性(必然的展開)から,「唯 除」される衆生への方便がはじまるのである.第十八願で除かれた逆謗者が,そ の直後に発される第十九願と第二十願によって便宜され,まちがいなく本願へと 誘引されていくのである. さて,無量寿仏の衆生済度は,そのすべてが本願力(本願成就の功徳とその力用) によって成立するものである.そのため,これらは「他力不思議の因果律」とい える.衆生は,この「他力不思議の因果律」を了知することができず,結果的に 本願を疑うことになるのである.このような衆生の実情にたいして,自業自得の 因果律が説かれ,自力諸行の仏道が示される.自業自得の因果律のもとで開かれ る自力諸行の仏道こそは,まさしく罪福を信じる衆生の心に相応するのである. 他力不思議を信じない衆生を本願真実の世界へ誘引するため,その第一の手段 (方便)として第十九願,すなわち修諸功徳の願が発されるのである. いまだ悟りを開いてない衆生の行(諸行)は少善根福徳の因縁であり,すでに 悟りを開いた仏の徳(名号)は多善根福徳の因縁である.そうであるのに,「他力 不思議の因果律」を信じない衆生は,どこまでも修諸功徳に励み,それを回向し

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衆生は,第十八願で一旦除かれはするものの,第十九願,第二十願と方便され, そこで疑心を取り除かれて,遂に第十八願へと入る(他力に乗託する)ことができ るのである. このように,第十八願と,その第十八願から展開される第十九願,第二十願と によって,第十八願を起点とした円環が形成され,その円周上を第十九願,第二 十願と進趣し,最終的には第十八願へと入る.第十八願,第十九願,第二十願に よって構成される円形が,その形状通り,無量寿仏の衆生済度を円満に成立させ る救済のシステムとして構築されているのである.そして,その円周上に逆謗者 を引き入れて,一切衆生を平等に救済するのである. ここに,無量寿仏が完成させた救済の構造,特に生因三願に係る信心開発のシ ステムが明らかになったことで,修諸功徳の教えによって自力諸行を積む衆生や 植諸徳本の教えによって自力念仏を修する衆生が,皆すべて,すでに本願力(他 力)のうちに摂取されている事実を知るのである.これが,生因三願によって展 開される無量寿仏の救済の論理である.  1)『浄土真宗聖典(註釈版)』82 頁参照のこと.  2)『浄土真宗聖典(註釈版)』12 頁参照のこと.  3)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと.  4)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと.  5)『浄土真宗聖典(註釈版)』82 頁参照のこと.  6)『浄土真宗聖典(註釈版)』76 頁参照のこと.  7)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと.  8)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと. 〈参考文献〉 稲城選恵 1974『真宗安心の根本的問題――信心と疑いについて――』百華苑. 桐渓順忍 1982『救済の論理』教育新潮社. 小山法城 1992『空華の安心――教行信証・化身土巻・講讃――』百華苑. 梯実円 2001『教行信証の宗教構造――真宗教義学体系――』法蔵館. 〈キーワード〉 『無量寿経』,本願,生因,第十八願,方便 (東九州短期大学准教授) に包摂し,それを衆生に回向することで機能する.この名号の回向において,最 も重要となるのが信楽の開発となる. しかし,その信楽の開発が困難の極みで,衆生に獲信させることができないで いるのである.そこで,これを打開するために設けられたのが,第十九願と第二 十願の方便である.方便という語には「近づく,近づける」,また「目的に到達す るための手段,方法」という意味がある.これを無量寿仏の衆生済度に当てはめ てみると,「第十八願に近づけるための手立て」,「信楽開発の手段」となる.すな わち,本願力に乗託できない衆生を第十八願へと近づけるため,その便宜的な手 段として設けられたのが,第十九願と第二十願なのである. このように,第十九願と第二十願は,一切衆生を平等に救済しようとする「法 の必然」として発され,第十八願で「唯除」となった衆生を,「必ず救う」と大悲 し,「念仏称えよ」と方便して,遂には本願へと入らせる.まさしく,この両願に よって,衆生は第十八願へと誘引され,信楽を開発することができるのである.

6.まとめ(回入と転入の論理)

親鸞は,仮門(第十九願)から真門(第二十願)に入ることを「回入」,真門から 願海(第十八願)に入ることを「転入」と表現した.「回入」の回は「まわす,次 に送る」という意味があり,「転入」の転には「ころがる,方向を変える」という 意味がある.第十九願から第二十願へは順に回し入れ,第二十願から第十八願へ は方向を転じて入らしめる.しかも,それが,第十九願,第二十願,第十八願で 回転するというのである.四十八願の配列からいえば,第十九願から第二十願へ は順送りであるが,第二十願から第十八願は逆戻りとなる.第十九願で第二十願 へと向いていたベクトルが,第二十願で反転し,それを第十八願へと向け直すこ とになるのである.これが,まさしく「自力から他力へ」の大転換となるのである. 四十八願上における生因三願の次第を直線的にみるならば,第十八願から第十 九願,第十九願から第二十願へ進み,第二十願からは第二十一願へと進まねばな らない.しかし,それが,第二十願から第十八願へと折り返すようにプログラム されている,というのである.これが,親鸞の示した救済の論理である.直線上 では決して成立し得ない配列の次第が,回転可能な円環的構造によって可能とな るのである. 円環上に生因三願を配置するならば,第十八願から第十九願,第十九願から第 二十願へと弧を描き,一回転するように第十八願へと還ることができる.逆謗の

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衆生は,第十八願で一旦除かれはするものの,第十九願,第二十願と方便され, そこで疑心を取り除かれて,遂に第十八願へと入る(他力に乗託する)ことができ るのである. このように,第十八願と,その第十八願から展開される第十九願,第二十願と によって,第十八願を起点とした円環が形成され,その円周上を第十九願,第二 十願と進趣し,最終的には第十八願へと入る.第十八願,第十九願,第二十願に よって構成される円形が,その形状通り,無量寿仏の衆生済度を円満に成立させ る救済のシステムとして構築されているのである.そして,その円周上に逆謗者 を引き入れて,一切衆生を平等に救済するのである. ここに,無量寿仏が完成させた救済の構造,特に生因三願に係る信心開発のシ ステムが明らかになったことで,修諸功徳の教えによって自力諸行を積む衆生や 植諸徳本の教えによって自力念仏を修する衆生が,皆すべて,すでに本願力(他 力)のうちに摂取されている事実を知るのである.これが,生因三願によって展 開される無量寿仏の救済の論理である.  1)『浄土真宗聖典(註釈版)』82 頁参照のこと.  2)『浄土真宗聖典(註釈版)』12 頁参照のこと.  3)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと.  4)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと.  5)『浄土真宗聖典(註釈版)』82 頁参照のこと.  6)『浄土真宗聖典(註釈版)』76 頁参照のこと.  7)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと.  8)『浄土真宗聖典(註釈版)』18 頁参照のこと. 〈参考文献〉 稲城選恵 1974『真宗安心の根本的問題――信心と疑いについて――』百華苑. 桐渓順忍 1982『救済の論理』教育新潮社. 小山法城 1992『空華の安心――教行信証・化身土巻・講讃――』百華苑. 梯実円 2001『教行信証の宗教構造――真宗教義学体系――』法蔵館. 〈キーワード〉 『無量寿経』,本願,生因,第十八願,方便 (東九州短期大学准教授) に包摂し,それを衆生に回向することで機能する.この名号の回向において,最 も重要となるのが信楽の開発となる. しかし,その信楽の開発が困難の極みで,衆生に獲信させることができないで いるのである.そこで,これを打開するために設けられたのが,第十九願と第二 十願の方便である.方便という語には「近づく,近づける」,また「目的に到達す るための手段,方法」という意味がある.これを無量寿仏の衆生済度に当てはめ てみると,「第十八願に近づけるための手立て」,「信楽開発の手段」となる.すな わち,本願力に乗託できない衆生を第十八願へと近づけるため,その便宜的な手 段として設けられたのが,第十九願と第二十願なのである. このように,第十九願と第二十願は,一切衆生を平等に救済しようとする「法 の必然」として発され,第十八願で「唯除」となった衆生を,「必ず救う」と大悲 し,「念仏称えよ」と方便して,遂には本願へと入らせる.まさしく,この両願に よって,衆生は第十八願へと誘引され,信楽を開発することができるのである.

6.まとめ(回入と転入の論理)

親鸞は,仮門(第十九願)から真門(第二十願)に入ることを「回入」,真門から 願海(第十八願)に入ることを「転入」と表現した.「回入」の回は「まわす,次 に送る」という意味があり,「転入」の転には「ころがる,方向を変える」という 意味がある.第十九願から第二十願へは順に回し入れ,第二十願から第十八願へ は方向を転じて入らしめる.しかも,それが,第十九願,第二十願,第十八願で 回転するというのである.四十八願の配列からいえば,第十九願から第二十願へ は順送りであるが,第二十願から第十八願は逆戻りとなる.第十九願で第二十願 へと向いていたベクトルが,第二十願で反転し,それを第十八願へと向け直すこ とになるのである.これが,まさしく「自力から他力へ」の大転換となるのである. 四十八願上における生因三願の次第を直線的にみるならば,第十八願から第十 九願,第十九願から第二十願へ進み,第二十願からは第二十一願へと進まねばな らない.しかし,それが,第二十願から第十八願へと折り返すようにプログラム されている,というのである.これが,親鸞の示した救済の論理である.直線上 では決して成立し得ない配列の次第が,回転可能な円環的構造によって可能とな るのである. 円環上に生因三願を配置するならば,第十八願から第十九願,第十九願から第 二十願へと弧を描き,一回転するように第十八願へと還ることができる.逆謗の

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