• 検索結果がありません。

Vol.66 , No.2(2018)054近藤 伸介「『摂大乗論』に見る死と再生の過程」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Vol.66 , No.2(2018)054近藤 伸介「『摂大乗論』に見る死と再生の過程」"

Copied!
5
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

『摂大乗論』に見る死と再生の過程

近 藤 伸 介

1.

 アーラヤ識の様々な名称と機能

アサンガAsaṅgaは『摂大乗論Mahāyāna-saṃgraha』の中で,アーラヤ識 ālaya-vijñānaについて次のように述べている.

【1】アーラヤ識を依り所として諸存在は生起する.(MS D 6b5–6, P 7a7, T 135a1)

【2】略説すれば,他ならぬアーラヤ識の本性とは一切の種子を有する異熟識であって,そ れによって三界の一切の身体と一切の境遇(gro ba / gati)が包摂される.(MS D 7a6–7, P 7b8, T 135a20–21)1) これらの記述から,アーラヤ識が有情の身体や五趣・六趣といった境遇の一切 を包摂し,我々が認識するあらゆる存在を生起させる基盤であることが分かる. また【2】では,アーラヤ識の本性を「一切の種子を有する異熟識」と定義して いるが,アーラヤ識にはその機能に応じて様々な名称があり,一切の種子を有す ることから「一切種子識sarvabījaka-vijñāna」,異なった状態へと成熟することか ら「異熟識vipāka-vijñāna」,感覚器官を統合・維持する働きから「アーダーナ識 ādāna-vijñāna」と呼ばれる2).アサンガは,こうした様々な名称をアーラヤ識に 帰し,この概念を特に重視している.彼は次のように言う. 【3】それ故,知られるべき基盤としてアーダーナ識,心,アーラヤ識3),根本識(rtsa ba i

rnam par shes pa / mūla-vijñāna), 輪 の 限 り 続 く 蘊(khor ba ji srid pa i phung po / āsaṃsārika-skandha),存在の支分(srid pa i yan lag / bhavāṅga)4)と説かれているそれら

は,すべてアーラヤ識であって,ただアーラヤ識のみが王道とされているのである. (MS D 5a3–5, P 5b3–5, T 134a27–b1)

ここには様々な名称が挙げられているが,アサンガはそれらがすべてアーラヤ 識を意味するとしており,彼がこの概念を自身の唯識思想の中心に据えているこ とが分かる.アーラヤ識は有情の存在基盤として輪 の続く限り存続するが,本

(2)

論では,アーラヤ識が持つ3つの機能,すなわち一切種子識,アーダーナ識,異 熟識を取り上げ,『摂大乗論』の記述をたどりながら,それらが死から再生の過 程においてそれぞれどのような役割を果たし,いかにして有情を古い生から新た な生へと移行させるのかを明らかにしたい.

2.

 一切種子識による種子の保持

一切の種子を保持するアーラヤ識の機能,すなわち一切種子識について,『摂 大乗論』には次のようにある. 【4】ある所,ある時には物質も心も中断することが見られるが,アーラヤ識においては, その種子は中断しない.(MS D 5a2–3, P 5b2, T 134a25–26) この箇所について,無性釈は次のように述べている. 【5】〔「ある所,ある時には」とは〕場所と時間を表す.すなわち,無色界において物質の 相続は断絶し,無想〔天〕やその三昧において心の相続は断絶する.〔一方,〕アーラ ヤ識においては,対治が起こるまでの間,物質と心の種子の相続は断絶しない. (MSUb D 200a6–7, P 245b5–6, T 386a28–b3)

これらによれば,物質は無色界で,心は無想天や無想定でそれぞれ断絶するも のの,アーラヤ識の種子は対治が起こるまで,その相続が断絶することはないと 言う.よって,一切の種子を保持するアーラヤ識の機能,すなわち一切種子識 は,対治が起こらない限り,死から再生に至る過程で中断することなく,蓄積し た一切の種子を新たな生へと持ち越すことになる.

3.

 アーダーナ識による身体の統合

アーダーナ識について,『摂大乗論』は次のように述べている. 【6】なぜアーダーナ識と呼ばれるのか.〔それはその識が〕物質から成るすべての感覚器官 の原因であり,身体すべてを把握する基盤となるからであって,このように寿命が続い ていく間,それによって物質から成る五つの感覚器官は破壊されずに保持されており, 〔身体すべてを把握する基盤となるから,5)〕また新たな生(nying mtshams sbyor ba /

pratisaṃdhi続生)が結ばれる時,それが発生を掌握しているから身体が保持されるので あって,それ故にそれがアーダーナ識と呼ばれる.(MS D 3b3–5, P 4a1–3, T 133b29–c5)

これによれば,寿命の限り感覚器官を統合し,物質的身体を維持しているのが アーダーナ識であり,また我々が中有を経て再生する時,新たに獲得した身体を

(3)

掌握するのもアーダーナ識である.それではアーダーナ識には死から再生までの 間に断絶はないのであろうか.これについては,次のような記述がある. 【7】善なる行為をなす者,あるいは悪なる行為をなす者が死んでいく時,〔彼らの〕身体は 下部から,あるいは上部から順に熱が消えることになるが,〔このことは〕アーラヤ識 がないならば不合理であり,それ故に,誕生の汚染ということもまた,一切の種子を 有する異熟識がないならば不合理である.(MS D 9b6–7, P 10b3–4, T 136b3–4) ここでは死に際して物質的身体から徐々に熱が抜けていく現象を取り上げ,そ れを身体からアーラヤ識が離れていくことであるとして,アーラヤ識の存在論証 としている6).死とは一つの身体に伴う生の終りであり,その際,感覚器官の働 きもすべて停止するので,そこではそれまで身体を統合・維持していたアーラヤ 識の機能,すなわちアーダーナ識も停止することになる.その後,我々は中有を 経て新たな身体を獲得するが,アーダーナ識は,この新たな身体を統合・維持す ることでその働きを再開する.このようにアーダーナ識は身体が生きて活動して いる限り,その機能を停止することはないが,中有においては(少なくとも物質 的)身体が失われているため,その機能を中断することになる.

4.

 異熟識による汚染と清浄

異熟識については,『摂大乗論』に次のような記述がある. 【8】一切の種子を有する異熟識がなければ,〔生存に伴う〕汚染と清浄は不合理である. (MS D 11b5, P 12b6–7, T 137a18–19) ここには,有情の生存に伴う汚染と清浄は,異熟識がなければ成立しないとあ る.この汚染と清浄は,有情が異なる世界へと転生する際に特に問題となる. 【9】ここ(=欲界)から死んで,禅定的な場所に生まれる時,汚染された非禅定的な意識 によって新たな生に結ばれるのであるが,その〔禅定的な〕場所の汚染された非禅定 的な心にとって,〔基盤となる〕その種子を有するものは,異熟識がないならば,その 他のものではあり得ない.(MS D 9b1–2, P 10a5–7, T 136a21–23) 【10】また無色界に生まれた時,彼らには汚染された善の心があるが,〔彼らの〕汚染され た善の心もまた,一切種子である異熟識がないならば,種子もなく,依り所もない ことになるだろう.(MS D 9b3, P 10a7–8, T 136a24–25) 欲界から無色界といった上位の世界に転生する場合,有情は欲界の汚染された

(4)

意識によって上位の世界に結ばれ,そこで汚染されつつも善なる意識が生じるこ とになるが,そうした意識を顕現させる種子を有するのが異熟識であると言う. これらの記述から,異熟識が汚染と清浄が生じる際の基盤となる識であることが 分かる.また転生の過程については,以下にさらに詳細に述べられている. 【11】非禅定的な場所で死んだ意(yid / manas)が中有の状態に留まっている時,汚染され た意識によって新たな生が結ばれるが7),その汚染された意識は中有の状態において

消滅し8),しかも識が母の胎内において他ならぬカララ(nur nur po / kalala)へと凝結

する.(MS D 8b7–9a1, P 9b3–4, T 135c26–29) ここでは「汚染された意識」と「カララヘと凝結する識」について言及されて おり,汚染された意識については,中有にある心(意)がこれによって次の生に つながるとある一方,この意識は中有において消滅するとも述べられている.そ れではこの汚染された意識と凝結する識とは同一のものであろうか,異なるもの であろうか.続いて,次のように述べられる. 【12】もしもその〔汚染された〕意識そのものが凝結するならば,その凝結〔した意識〕が 依り所となって,意識が母の胎内に生起することになるのだから,したがって二つの 意識が同時に母の胎内に生起することになってしまう.〔また〕その凝結した意識は, 意識性(yid kyi rnam par shes pa nyid / mano-vijñānatva)としてはあり得ず,常に汚染 された〔意識の〕基盤であり,また意識の対象を認識しないから〔,凝結した識は意 識ではないの〕である.(MS D 9a1–3, P 9b4–6, T 135c29–136a5) これによれば両者は異なるものであり,凝結する識は汚染された意識の基盤で あると言う.よって,アサンガは次のように結論付ける. 【13】それ故,何であれその凝結した識は,意識ではないけれども,それは異熟識であっ て,それは一切の種子を有するものであるということが成立する.(MS D 9a5–6, P 10a1–2, T 136a10–12) このように『摂大乗論』における異熟識とは,汚染と清浄の意識が生じる際の 基盤となる識であり,また再生においてカララを生じさせ,新たな生へと成熟す る識である.死において古い身体からアーラヤ識が離れ,アーダーナ識の機能が 停止しても,異熟識はその機能を停止することなく,中有においても前世以来の 汚染された意識を引き続き生じさせる.そしてこの意識が消滅し,中有が終わる 際に,異熟識はカララへと凝結し,有情は新たな生を始めるのである.

(5)

1)世親釈は【2】について,「異熟」を「およそ〔諸法が〕自身の本性をそれぞれ様々に獲 得すること(gang bdag nyid kyi ngo bo so sor thob pa)」と,「境遇」を「五趣」と,「一切の 身体」を「境遇とその同分と異分が種々に異なること(gro ba de dang de i ris mthun pa dang ris mi mthun pa rnam pa sna tshogs pa)」と注釈している.(MSBh D 132a2–3, P 155a5–7, T 329a28–b2)   2)『摂大乗論』におけるアーラヤ識,一切種子識,アーダーナ識,異熟 識の区別や使い分けは,必ずしもこの定義に従ったものではなく,ある箇所では,異熟識 が物質から成る感覚器官を掌握すると述べられており(MS D 9a7, P 10a2–3, T 136a13–15), またある個所では,アーラヤ識が汚染と清浄の基盤であると述べられている(MS D 8a2–3, P 8b4–5, T 135b23–26).しかし場合によっては,これらの名称を厳密に使い分ける必要があ ると思われる.例えば『摂大乗論』には,解脱に導く聞熏習の種子(thos pa i bag chags kyi sa bon / śruta-vāsanā-bīja)はアーラヤ識に蓄積されないと明言されている(MS D 10b7–11a4, P 11b6–12a4, T 136c13–25)が,一切種子識と言う場合にはこれが含まれる可能性がある. また『成唯識論』には,第八識の様々な名称の内,心,アーダーナ識,種子識の名称は十 地すべてに用いられるが,アーラヤ識の名称は異生と有学のみに用いられ,異熟識の名称 は異生と二乗と菩 の位に用いられ,無垢識の名称は如来地のみに用いられるとある(T 31. 13c7–22).   3)漢訳では,玄奘も真諦もこの箇所を「アーラヤ識」ではなく 「アーラヤ(阿頼耶,阿梨耶)」としている.   4)『摂大乗論』には,「根本識」が大衆 部,「輪 の限り続く蘊」が化地部,「存在の支分」が上座部の呼び名であると述べられて いる.(MS D 5a1–3, P 5a8-b3, T 134a23–26)   5)デルゲ版にのみ,この一節が挿入され ている.   6)同様な論証は,『瑜伽論』「摂決択分」のアーラヤ識の第六論証(T 30. 579c17–22)と『成唯識論』(T 31. 17a13–22)にも見られる.また,世親釈の真諦訳にも「若 至死位,阿梨耶識捨離五根.是時,黒脹壞等諸相即起.是故定知.由爲此識所執持,一期 中五根不破壞.」(T 31. 158a9–11)とある.   7)世親釈は【11】について,「非禅定的 な場所」を「欲界」と,「汚染された意識」を「煩悩を伴った意識(nyon mongs pa dang bcas pa i yid kyi rnam par shes pa)」と,「新たな生が結ばれる」を「自己の本体を掌握すること (bdag gi dngos po yongs su dzin pa)」と注釈している.(MSBh D 135a3–5, P 159a7-b1, T

331c29–332a2)   8)汚染された意識が中有において消滅する理由について,世親釈の 真諦訳では,再生の瞬間を意味する生有(=生陰)には汚染がないためと説明している (T 31. 169b25–27).一方,『倶舎論』「世間品」の偈文には「かの四種の有において,生有 は常に汚染である(tasmin bhavacatuṣṭaye upapattibhavaḥ kliṣṭaḥ ekāntena)」(AKBh p. 151. 15– 17)とある.これによれば,諸々の煩悩によって結生,すなわち再生が起こるため,再生 の瞬間である生有は常に煩悩に汚染されていると言う.また『摂大乗論』にも【7】に「誕 生の汚染(skye ba i kun nas nyon mongs pa)」という表現があり,他にも「また,無想〔天〕 といった上位の世界から死去して,ここ(=欲界)に生まれた者たちの識は,煩悩や随煩 悩によって汚染される」(MS D 8b3, P 9a5–6, T 135c13–14)とある.

〈略号〉

AKBhAbhidharmakośabhāsya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan, 1st ed. Patna: K. P. Jayaswal

Re-search Institute, 1967.   MSMahāyāna-saṃgraha / Theg pa chen po bsdus pa. D 4048, P 5549,

T31 no. 1594.   MSBhMahāyāna-saṃgraha-bhāṣya / Theg pa chen po bsdus pa'i 'grel pa. D

4050, P 5551, T31 no. 1597.   MSUbMahāyāna-saṃgrahopanibandhana / Theg pa chen po bsdus pa'i bshad sbyar. D 4051, P 5552, T31 no. 1598.

〈キーワード〉『摂大乗論』,アーラヤ識,アーダーナ識,異熟識,一切種子識,死と再生 (佛教大学研究員,博士(文学))

参照

関連したドキュメント

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

 彼の語る所によると,この商会に入社する時,経歴

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に

は,医師による生命に対する犯罪が問題である。医師の職責から派生する このような関係は,それ自体としては

に至ったことである︒

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から