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Vol.66 , No.2(2018)051吉田 哲「『集量論』第一章における〈想起〉の問題」

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全文

(1)

『集量論』第一章における〈想起〉の問題

吉 田   哲

1.

 問題の所在

ディグナーガ

(ca. 480–540)

は『集量論』

Pramāṇasamuccaya, -vṛtti, PS, PSV

第一章

(PS I)

において知の自己認識

(svasaṃvedana)

説を述べるが,彼はその論拠として,

知は顕現すると同時に,それ自体の顕現

(svābhāsa)

とその対境としての顕現

(viṣayābhāsa)

を伴うことを述べる

1)

.さらに彼は

PS I 11

以下に,知にその両者の

顕現があることを,対境知

(viṣayajñāna)

とその対境知の知

(tajjñāna)

に差異が認識

されることをもって説明している.その場合の対境知の知とは,いわばその対境

知の想起である.ディグナーガは

PS I

において認識手段が直接知覚

(pratyakṣa)

推理

(anumāna)

の二種のみであるとし,直接知覚が対象とする自相

(svalakṣaṇa)

推理が対象とする共相

(sāmānyalakṣaṇa)

以外に認識対象が存在しないことをその

理由とする.

PS I 2'cd'

および

2'd–3b

はその主張に対する疑義への回答である.ディ

グナーガは,「色等は無常である」といった,一見すると色

(varṇa)

という自相と無

常性

(anityatā)

という共相を対象とするような認識や,再認識

(abhijñāna)

や想起

(smṛti)

について,「別の認識手段ではない」と述べている.想起と二種の認識手段,

特に推理との関係は,後代の解釈においても常に一意的に定まっているとはいえ

ないが,これをディグナーガはどのようなものとして考えていたのであろうか.

2.

 〈再認識〉(

abhijñāna

)と〈想起〉(

sm

ti

ディグナーガは

PS I

においての数個所にわたって想起に関説している.その

一つは

PS I 2'cd', 3b

とそれに対する自注部分である.まずその部分

2)

を訳出した

上で,内容を検討したい.

yat tarhīdam anityādibhir ākārair varṇādi gṛhyate sakṛd vā tat katham. asty etad grahaṇam, kiṃ tu, tasya sandhāne na pramāṇāntaram (PS I 2'cd'). svasāmānyalakṣaṇābhyāṃ hy

(2)

avyapadeśya-varṇatvābhyāṃ varṇādi gṛhītvānityatayā cānityaṃ varṇādīti manasā sandhatte. tasmān na pra-māṇāntaram. na ca || (PS I 2'd) punaḥ punar abhijñāne (PS I 3a). yad asakṛt tad evārtham praty

abhi-jñānam, tathāpi na pramāṇāntaram. kiṃ kāraam. niṣṭhāsakteḥ(PS I 3b'). yadi sarvaṃ jñānam pra-māṇatveneṣyate, evam pramāṇam anavasthitatvena syāt. smṛtādivat | (PS I 3'b). smṛtir eva smṛtam. tad yathā smṛtīcchādveṣādayaḥ pūrvādhigata+arthe na pramāṇāntaram, tadvat.3)PS, PSV. 1.21–2.5 【問】もしもそうであるならば(=認識手段が直接知覚と推理の二種のみであるとするなら ば),これが〈無常〉等の形(行相,ākāra)でもって色等として把握されたり,あるいは, 一度ならず〔把握される場合は〕どうなのか.【答】そのように把握することは確かにある けれども,それ4)の重ね合わせ5)があるからであり,〔直接知覚と推理以外の〕別の認識手 段があるのではない(PS I 2'cd').〔人は,〕言語表現され得ないものである自〔相〕( sva-lakṣaṇa)と,〈色性〉等という共相(sāmānya-lakṣaṇa)とによって色等を把握した後に,〈無 常性〉等を「色等は無常である」というようにして意(manas)によって重ね合わせるので ある.それ故に〔そのような把握のされ方の場合も,直接知覚と推理以外の〕別の認識手段 ではない. たびたび再認識すること(abhijñāna)もまた〔認識手段〕ではない(PS I 2'd–3a).一度な らず同じ対象を再認識することがあるとしても,〔それも直接知覚もしくは推理以外の〕 別の認識手段ではない6).なぜか.際限がないことになるからである(PS I 3b').もしも, あらゆる知が認識手段として認められるとすると,認識手段には際限がないことになって しまう.想起(smṛta)等のように(PS I 3'b).「smṛta」とは「smṛti」(想起する行為)であ る.例えば,想起や欲求や嫌悪等が,以前に認識された対象に対しては別の認識手段たり えないのと同様である.

認識対象が自相と共相の二種のみであり,それ故に認識手段は自相を対象とす

る直接知覚と,共相を対象とする推理との二種のみであるという

PS I 2ab

での

ディグナーガの主張に対して,「色等は無常である」

(anityaṃ varṇādi)

というよう

な,一見したところでは自相としての色

(varṇa)

と,共相としての〈無常性〉

(anityatā)

とを把握する認識が反例として挙げられている.これに対してディグ

ナーガは,そのような認識において自相であるかのように考えられている色は,

直接知覚の対象である自相ではなく,共相として把握し直された〈色性〉

(varṇatva)

なのであり,「色は無常である」といった形を取る認識は共相のみから

構成されており,したがって反例とはならないことを説明する.ところで,注釈

者のジネーンドラブッディは,ここでの「別の認識手段ではない」という意味を

「推理に他ならない」とする解釈

7)

を示す一方,いずれの認識手段でもないとい

う解釈も示しているようであり

8)

,場合によっては複数の解釈を許すものと認識

していたことが分かる.

(3)

また,周知の如く,自相と共相はアビダルマ哲学における伝統的な用語でもあ

り,『倶舎論』では,自相は色,音声,香り,等のような法の自性

(svabhāva)

意味し,共相はすべての有為法に共通する〈無常性〉

(anityatā)

,すべての有漏法

に共通する〈苦性〉

(duḥkhatā)9)

といった四諦の十六行相

ṣoḍaśa-ākāra

等を意味す

10)

.また,壷や布,女・男といった世俗有

saṃvṛtisat

を把握する有漏智とし

ての世俗知

(saṃvṛti-jñāna)

もまた,十六行相およびその他の行相を有し,一切諸

法を自相と共相とによって把握するとされる

11)

.ここでのディグナーガの議論

もアビダルマにおける伝統的な「自相」と「共相」という用語をふまえたものと

して見るべきであろう

12)

これに続いてディグナーガが取り上げるのが〈再認識〉

(abhijñāna)

である.そ

してそれが直接知覚と推理以外の別種の認識手段と見なされてはならないとす

る.ある対象が何度も認識される場合,そのすべての認識を認識手段とすると,

認識手段の数に「際限がないことになるから」

(aniṣṭhā-āsakteḥ)

というのがその理

由である.

この場合の「別の認識手段ではない」ということが何を意味するのかが問題と

なろう.別の認識手段ではないならば,それは直接知覚と推理のいずれかに含ま

れるのか,それともそもそも認識手段ではないのかということである.注釈者の

ジネーンドラブッディは,ディグナーガが〈再認識〉に言及するのは以下の対論

者の見解を示そうとしているからだと述べている.

ま た「あ る い は, 一 度 な ら ず」 と い う こ の〔表 現〕 に よ っ て「〈特 殊 に よ る 認 識〉 (viśeṣadṛṣṭa)と呼ばれる推理は〔直接知覚と推理以外の〕別の認識手段である」というこ とを示している.例えば,ある時,直接知覚によって火と煙とが確知され,続いて今度 は,同じその煙によって「これはあの火に他ならない」と〔人が〕断定する場合,その火 の認識は〈特殊による認識〉(viśeṣadṛṣṭa)と呼ばれるものであり,〈共通性による認識〉 (sāmānyatodṛṣṭa)という推理とは別の認識手段である.13)

ジネーンドラブッデイが想定する対論者の見解は,再認識

(abhijñāna)

が推理

とは別の認識手段であるとするものであり,ディグナーガはそれを否定しようと

しているということになろう.ジネーンドラブッディだけでなく,ダルマキール

ティや彼以降の仏教論理学者が

PS I

のこの個所の〈再認識〉を〈特殊による認

識〉

(viśeṣadṛṣṭa)

のことだと解釈するのは,クマーリラからの批判

14)

を受けての

ものと考えられるが,ディグナーガの意図はどうだったのであろうか.ディグ

(4)

ナーガがそもそも再認識

(abhijñāna)

として想定していたものを特定するにはさ

らに検討が必要であるが,すでに指摘されているように

15)

,アートマンの存在に

関して言及される『ニヤーヤ・スートラ』中の再認識

(abhijñāna)16)

等も念頭に

あったのかもしれない.また,欲求

(icchā)

と嫌悪

(dveṣa)

は『ヴァイシェーシ

カ・スートラ』ではアートマンの存在を示す証相

(liṅga)

の中に含まれているこ

とも併せて考慮すべきかもしれない

17)

3.

 疑似知覚としての〈想起知〉(

smārtajñāna

ディグナーガは擬似知覚

(pratyakṣābhāsa)

が列挙される

PS I 7cd–8ab

においても

想起に関説している.

bhrāntisaṃvṛtisajjñānam anumānānumānikam (PS I 7cd) || smārtābhilāṣikaṃ ceti pratyakṣābhaṃ sataimiram (PS I 8ab) | tatra bhrāntijñānaṃ mṛgatṛṣṇādiṣu toyādikalpanāpravṛttatvāt pratyakṣābhāsam, saṃvṛtisatsu arthāntarādhyāropāt tadrūpakalpanāpravṛttatvāt. anumānatatphalādijñānaṃ pūrvānubhūta-kalpanayeti na pratyakṣam. (PS, PSV. 3.16–20) 錯誤〔知〕や世俗有知や,推理と推理結果や(PS I 7cd),想起知や欲求は,眼病知に似た 擬似知覚である(PS I 8ab).そのうち,錯誤知は, 気楼等に対して水等を分別すること によって生起するから擬似知覚である.〔世俗有知は〕世俗有に対して他の対象を付託す ることにより,その〔他の対象の〕形象の分別によって生起するから〔擬似知覚である〕. 推理とその結果等の知は,過去に直接経験されたものを分別することによるから,直接知 覚ではない.

ジネーンドラブッディの注釈によれば,この部分では,(

1

錯誤知,

2

世俗

有知,

3

推理および推理結果等,

4

眼病知

(=感官の異常による知)

,という四種

類の擬似知覚が挙げられているのだという

18)

.ディグナーガは第四の眼病知を

どのように理解しているのか明瞭でないが,このジネーンドラブッディの解釈は

ダルマキールティの説に依拠したものである

19)

.また,ジネーンドラブッディは

「想起知」

(smārta)

や「欲求」

(ābhilāṣika)

3

の推理・推理結果と同種の擬似知

覚に含まれるとする

20)

.問題の「想起知」は「過去に直接経験したものを分別す

ることによる」という点で「推理とその結果等の知」と同類のものとして一括し

て提示されていると考えられる.ディグナーガにとっても,推理は一種の想起知

としての性格をもつ

21)

.しかし擬似知覚の一種としての想起知の機能や性格の

詳細は,この

PS I 7cd–8ab

だけではあまり明らかにはならない.ただし,

PS I 3'b

で,想起が欲求や嫌悪と同列に例示されていたのと同じく,

PS I 7cd–8ab

で想起

(5)

知と欲求

(ābhilāṣika)

が併記されていることは,

PS I 3'b

に対する自注で,想起と

欲求

(icchā)

および嫌悪

(dveṣa)

が併記されていることとも関連しているであろ

う.想起が欲求や嫌悪などと同列に例示されることなどは,アビダルマの伝統に

おける心所の体系とも併せて考慮されるべきであると思われる

22)

4.

 結語

推理に想起が深く関わることをディグナーガが認識していたことは明らかであ

23)

.ディグナーガにとって再認識や想起が直接知覚ではないことは,彼の疑

似知覚に関する記述や,

PS I 23'b

に対する自注

24)

からも明らかであろう.しかし

想起

(smṛti)

,想起知

(smārta)

がすべて分別知に含まれるとしても,分別知が直

接知覚と見なされるただ一つの例外があり,それは分別知の自己認識の場合であ

25)

.問題は推理と想起の関係ということになる.ディグナーガは「一度なら

ず」

(asakṛd)

対象を認識することを認識手段と見なしてはならないと考えている

ようである.ある対象についての二度目,三度目の認識も認識手段であるなら

ば,彼の言う通り認識手段は際限がない事態となるであろう.したがって,想起

は「以前に認識された対象に対しては」少なくとも直接知覚という認識手段では

ない.そして,後代のプラジュニャーカラグプタなどが,推理を証相から生じる

特殊な想起であり,想起の一種とする

26)

ことがディグナーガの意図するところ

であるならば,想起は推理という認識手段である場合もあり,またそうでない場

合もあり得るが,いずれにせよ,二種の認識手段とは別の認識手段ではないとい

うことになろう.

1)PS I 9 and PSV:svasaṃvittiḥ phalaṃ vātra (PS I 9a). dvyābhāsaṃ hi jñānam utpadyate svābhāsaṃ viṣayābhāsaṃ ca. tasyobhayābhāsasya yat svasaṃvedanaṃ tat phalam. (あるいは,こ

こでは自己認識が結果である(PS I 9a).なぜならば,知は自己としての顕現と対象とし ての顕現という二つの顕現をもって生起するからである.二つの顕現をもつそれ(=知)の

自己認識は結果である.);cf. 片岡(2011, 71).

2)Cf. Hattori (1968, 24.13–25.10).

3)両チベット語訳はHattori (1968, 176. 10–28, 177. 10–28)を参照.

4)PSṬ[31.1]:tasyety anityāder varṇādeś ca(「それの」とは〈無常性〉等のと色等のと, である.). 5)「重ね合わせ」という訳語については,発表時に頂いた片岡啓博士の御教示も参考にし た.あらためて御礼申し上げます. 6)Cf. 寺石(1993, 211, 213):「PS全6章のうちI, II, Vの3章には,「認識手段ではない(=知 覚でも推理でもない)」とする表現が3例見られる.」,「 認識手段ではない 別の認識手 段ではない といった表現の多くは, 知覚や推理とは別の認識手段ではない(=知覚ま

(6)

たは推理に含まれる) ことを意味している.」.

7)Cf. PSṬ[31.8–9]:tasmān na pramāṇāntaram, api tv anumānam eva |(「それ故に,別の認

識手段ではない.」そうではなくて推理に他ならないのである.).

8)PSṬ[34.5–8]:atha dvitīye kalpe na pramāṇāntaram iti kathaṃ grantho nīyate | yāvatā pramāṇam evedaṃ na bhavati, tato nedam pramāṇam iti yuktaṃ vaktuṃ syāt | satyam etat, kiṃ tu pareṇa pramāṇāntaram iti kṛtvopanyastam | atas tathaiva pratiṣiddham ity adoṣaḥ || (【問】さて,

二番目にある「別の認識手段ではない」(na pramāṇāntaram)という文が記されるのはど うしてか.これは認識手段なのではない以上,「これは認識手段ではない」というのが 正しいはずである.【答】確かにそうである.しかし,他派によって別の認識手段と〔考 えられて〕提示されたのであり,それに対して,まさしく以上そのように〔別の認識手 段ではないと〕否定されたのであるから,過失はない.). 9)AKBh ad AK 6.14 [341. 11–13]. 10)AKBh [108. 11–12]. 11)Cf. 桂(1989, 544). 12)ディグナーガはPS I 4cdにおいて,五識の対象に関して有部アビダルマにおける自相 と共相を念頭にした議論を行っていると考えられる.Cf. 吉田(2008).

13)PSṬ[29.10–30.2]:asakṛd vety anenāpi̶viśeṣadṛṣṭākhyaṃ yad anumānam, tat pramāṇāntaram iti darśayati | tad yathā pratyakṣeṇaikadā paricchinne vahnau dhūme ca punaḥ paryāyeṇa tenaiva dhūmena yadā sa evāyaṃ vahnir iti paricchinatti, tadā tad viśeṣadṛṣṭākhyam agnigrahaṇaṃ pramāṇāntaraṃ sāmānyatodṛṣṭād anumānāt |.

14)Cf. 戸崎(1979, 148–149); 志賀(2008, 122–123).

15)Cf. 戸崎(1979, 150).

16)NS:tadavyavasthānād evātmasadbhāvād apratiṣedhaḥ(NS 3.1.3); savyadṛṣṭasyetareṇa pratyabhijñānāt (NS 3.1.7), etc.

17)Vaiśeṣikasūtra 3.2.4: prāṇāpānanimeṣonmeṣajīvanamanogatīndriyāntaravikārāḥ sukhaduḥkhe icchādveṣaprayatnāś cātmano liṅgāni; cf. Honda (1990, 31).

18)PSṬ[60.6–7].

19)PV III 288: trividhaṃ kalpanājñānam āśrayopaplavodbhavam | avikalpakam ekañ ca pratyakṣābhañ caturvidham ||; cf. 戸崎(1979, 382–383). 20)Cf. PSṬ[59.14–60.5]. 21)Cf. 桂(1982, 93). 22)想起と記憶の問題は説一切有部でも議論されていたことが知られる.Cf. 桂(1989), 那須(2010). 23)Cf. 桂(1981, 73–75); 桂(1982, 92–93). 24)Cf. Hattori (1968, 47.32–48.28).

25)PS, PSV [3.12–14]: yadi rāgādisvasaṃvittiḥ pratyakṣam, kalpanājñānam api nāma. satyam etat.

kalpanāpi svasaṃvittāv iṣṭā nārthe vikalpanāt (PS I 7ab) | tatra viṣaye rāgādivad eva apratyakṣatve 'pi svaṃ saṃvettīti na doṣaḥ.(もし,貪等の自己認識が知覚であるならば,分 別知も自己認識については〔直接知覚なのではないか〕.確かにそうである.分別知も

また自己認識である場合は〔知覚であると〕認められる.〔しかし〕対象に対しては〔知 覚〕ではない.分別があるから(PS I 7ab).その対象に対しては,貪等と同様に直接知 覚ではないけれども,自らを認識するといえば〔知覚であるといっても〕過失はな い.); 両チベット訳はHattori (1968, 180.22–28, 181.22–27)を参照.

26)PVA [245.4–5]:na hy anumāna(-m ?)smaraṇād anyat, smaraṇam eva liṅgād utpadyamānam anumānaṃ | tasmād asakṛt tad eva yena pratīyate tat smaraṇam eva |; D [te226b7–227a1], P

(7)

[te273b6–7]: rjes su dpag pa dran pa las gzhan ni ma yin te | rtags las skyes pa i dran pa kho na rjes su dpag pa yin no || de i phyir gang gis de nyid lan cig ma yin par mthong ba de ni dran pa kho

na o ||(実に推理は想起と別のものなのではない.想起に他ならないものが証相より生起

するとき推理なのである.したがって,同じそれを一度ならず認識するものは想起に他 ならない.).

〈略号〉

NS, NBh Nyāyadarśanam: With Vātsyāyana's Bhāṣya, Uddyotakara s Vārttika, Vācaspati Miśras Tātparyaṭīkā & Viśvānātha's Vṛtti. Ed. Taranatha Nyaya-tarkatirtha, Amarendramohan Tarkatirtha,

and Hemantakumar Tarkatirtha. Vol. 2. Kyoto: Rinsen Book, 1982. PS, PSV Pramāṇasamuccaya, -vṛtti. See Steinkellner 2005.

PSṬ Jinendrabuddhi s Viśālāmalavatī Pramāṇasamuccayaṭīkā Chapter 1 Part I: Critical Edition. Ed.

Ernst Steinkellner, Helmut Krasser, and Horst Lasic. Vienna: Austrian Academy of Sciences Press; Beijing: China Tibetology Publishing House, 2005.

PVA Pramāṇavārtikabhāshyam, or, Vārtikālaṅkāraḥ of Prajñākaragupta. Ed. Rāhula Sāṅkṛityāyana.

Patna: Kashi Prasad Jayaswal Research Institute, 1953.

PVV Pramāṇavārttika of Acharya Dharmakirtti With the Commentary Vṛtti of Acharya Mano ratha-nandin. Ed. Swami Dwarikadas Shastri. Varanasi: Bauddha Bharati, 1968.

〈参考文献〉

Ernst Steinkellner, ed. 2005. Dignāga s Pramāṇasamuccaya, Chapter 1. http://www.ikga.oeaw.ac.at/ Mat/dignaga_PS_1.pdf.(最終閲覧日2018年2月1日).

Hattori, Masaaki, trans. 1968. Dignāga, On Perception: Being the Pratyakṣapariccheda of Dignāga s

Pramāṇasamuccaya from the Sanskrit Fragments and the Tibetan Version. Harvard Oriental Series,

vol. 47. Cambridge: Harvard University Press.

Honda, Megumu. 1990. A Reading in the Vaiśeṣika Sūtra.『同朋大学紀要』4: 1–94.

志賀浄邦 2008 「Tattvasaṃgraha及びTattvasaṃgrahapañjikā第18章「推理の考察(Anumānaparīkṣā)」

和訳と訳注(2)」『インド学チベット学研究』12: 96–136. 那須良彦 2010 「記憶するしくみ― 発智論 大毘婆沙論 の所説を中心として―」『印 度学仏教学研究』59(1): 372(161)–365(168). 梶山雄一 2004 「 諍論」『大乗仏典14竜樹論集』中公文庫,中央公論社, 140–191. 片岡啓 2011 「Pramāṇasamuccayaṭīkā ad I 8cd–10和訳」『南アジア古典学』6: 1–50. 桂紹隆 1981 「因明正理門論研究[四]」『広島大学文学部紀要』41: 62–82. 桂紹隆 1982 「因明正理門論研究[五]」『広島大学文学部紀要』42: 82–99. 桂紹隆 1989 「知覚判断・疑似知覚・世俗知」『藤田宏達博士還暦記念論集 インド哲学と 仏教』平楽寺書店, 533–553.

寺石悦章 1993 「PramāṇasamuccayaにおけるPramāṇaの一側面」『印度学仏教学研究』41(2): 952(211)–950(213). 戸崎宏正 1979 『仏教認識論の研究』上巻,大東出版社. 吉田哲 2008 「Pramāṇasamuccaya I 4cdの一解釈例」『印度学仏教学研究』57(1): 409(164)– 406(167). 〈キーワード〉 ディグナーガ,『集量論』,再認識,想起,想起知 (龍谷大学講師)

参照

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