印度學佛敎學硏究第68巻第2号 令和2年3月 (121) ― 986 ―
『中論頌』第
13
章における偈の帰属問題について
―第
3
偈と第
4
偈を中心に―
清 水 公 仁
1.はじめに
龍樹(Nāgārjuna, ca. 150–250)の主著である『中論頌』(Mūlamadhyamakakārikā, 以下
MMK)の中で,龍樹の重要な空思想が説かれる第13章の特に第3,4偈には偈の 帰属問題がある.従来の諸研究では,諸 釈書に基づいて第3偈と第4偈ab句を 対論者の偈とする解釈が大半を占める.一方,筆者は拙稿(清水2016)で『 諍 論』などの用例から第13章全体を龍樹の偈として再解釈することが可能である と指摘した.本稿ではさらに第13章第3偈に説かれる「自性の無い(asvabhāva)」 という述語の解釈などから,その新たな解釈の妥当性について改めて論じたい. 2
.『中論頌』第
13章の偈の帰属問題と先行研究
2.1. 『中論頌』第13章とその解釈の異同 第3偈 諸事物は無自性である.変異することが見られるから.(ab句) 自性のない事物は存在しない.なぜなら諸事物は空(śūnyatā)であるから.(cd句) 第4偈 もし自性がないならば,何にとって変異することが存在するのか.(ab句) もし自性があるならば,何にとって変異することが存在するのか.(cd句)1) これら第3, 4偈の帰属問題2)について,『青目釈』と『安慧釈』3)以外の4つの 諸 釈書(ABh, BP, PP, PSP)は,第3偈と第4偈ab句を対論者の偈として 釈し, 第13章の現代語訳の多くがそれら4つの諸 釈書と同様の解釈をしている4).そ れに対して,この帰属問題を批判的に検証した斎藤(1982)は,第3偈cd句と第 4偈ab句を対論者の偈とする独自の解釈を示した. しかし,筆者はこれらの解釈には問題があると考え,第13章の全8偈を龍樹の 偈として解釈することの妥当性を検証したい. 以上の第13章の偈の帰属問題を整理したものが次の表である.(122) ― 985 ― 『中論頌』第13章における偈の帰属問題について(清 水) 2.2. 従来の解釈 表のように特に第3, 4偈は,諸 釈書や研究者の間で解釈が 大きく異なっている.以下,斎藤(1982)の研究を踏まえつつ,第3, 4偈の従来 の解釈について整理する. もっとも問題となっている第3偈について,『青目釈』と『安慧釈』以外の4つ の諸 釈書は,第3偈を対論者の偈として解釈する.その際,特にab句に見ら れる「無自性性(niḥsvabhāvatva)」という語を,ABh,BP,PP ,PSPは「人無自 性」や「固住することのない自性」などの特殊な意味合いで解釈して,ab句を対 論者の主張として 釈する.しかし斎藤(1982)は,『青目釈』と同様に「諸事物 には変異が見られるから無自性である」と文字通りに理解し,龍樹の主張とみな すべきだという.第3偈cd句については,斎藤(1982)もABh,BP,PP,PSPと 同様に「諸事物には空性があるのだから,自性の無い事物は存在しない」という 実在論者である対論者の主張として解釈する. 第4偈についても斎藤(1982)はABh,BP,PP,PSPの4つの 釈書と同様に, ab句は対論者が「もし龍樹が言うように自性が存在しないならば,何に変異す ることがあるだろうか」と批判していると解釈する.後半のcd句は,それに対 して龍樹が「自性が存在するならば,どうして変異することがあるだろうか」と 反論していると理解する. 2.3. 新しい解釈 以上のような従来の解釈も不可能ではないものの,特に第4 偈の解釈について次のような2つの問題点がある.先ず,ab句とcd句とで論者 を分けるという,MMKにおいて不規則な読解をしている点である.ある偈頌の ab句とcd句を別の論者とみなす解釈は,MMK諸 釈書の中ではPSPが第15章 第9偈を 釈する箇所を除き,この第13章第4偈にしか見られない. 次に,実はこの第13章第4偈とほぼ同内容のディレンマとなっているその第 15章第9偈5)も,本来龍樹の偈とみなすべきだと考えられるが,従来の解釈の多 1 2 3ab 3 cd 3′ 4ab 4cd 5 6 7 8 『青目釈』 × ○ ○ ○ × ○ ○ ○ ○ ○ ○ ABh, BP, PP, PSP ○ ○ × × ̶ × ○ ○ ○ ○ ○ 『安慧釈』 ○ ○ ○ ○ ̶ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 斎藤(1982) ○ ○ ○ × ̶ × ○ ○ ○ ○ ○ 筆者 ○ ○ ○ ○ ̶ ○ ○ ○ ○ ○ ○ (以上,○は龍樹に帰属し,×は対論者に帰属することを示す)
(123) ― 984 ― 『中論頌』第13章における偈の帰属問題について(清 水) くが,その第15章第9偈との整合性を無視しているというのが,第2点である. 本性が存在していないならば,何にとっての変異性があろうか.(ab句) 本性が存在しているならば,何にとっての変異性があろうか.(cd句) この第15章第9偈を,PSP以外の諸 釈書のいずれもが龍樹の偈であるとみな す.しかし,PSPだけは第13章第4偈との整合性を採るためか,ab句を対論者, cd句を龍樹の主張であると解釈する.PSP以外の諸 釈書がこの第15章第9偈 を龍樹の偈としているように,第13章第4偈も離れるべき有無の二極端を示す ディレンマが龍樹によって説かれていたと見る方が自然である6). このような問題点は,以下のような読解によって解消される.第3偈の「無自 性性(niḥsvabhāvatva)」と「自性の無い(asvabhāva)」は従来同義であるとして,共 に「無自性」などと解釈,翻訳されてきたが,「自性の無い」という述語を「無 自性性」とは別の概念であると理解することができる.そのように理解すると, 第3偈ab句では変異が見られることを根拠に諸事物の無自性を説いて,「自性の 有る(sasvabhāva)」事物を否定し,後半のcd句で諸事物の空性であることを根拠 に「自性の無い(asvabhāva)」事物をも龍樹は否定していたのだと読解できる.同 様に,続く第4偈ab句「もし自性がないならば,何にとって変異することが存 在するのか」も,龍樹が「自性のない(asvabhāva)」ことに偏るべきでないことを 示していたのだろう.そのように龍樹は,第3, 4偈で有無の二極端を離れるべき ことを諸事物の空性・無自性によって説いていたと言える. この第3, 4偈の新たな解釈の妥当性は第7,8偈で「不空(aśūnya)」とその対立 概念である「空(śūnya)」の二極端の見解を否定し,そういった一切の見解から 「離れること(niḥsaraṇa)」が空性の意味であると説かれていることからも支持さ れるだろう.この構図は第3,4偈の二極端の否定と,そこからの離脱(接頭辞 niḥ-)が説かれているのと同様のものである7).しかし,そういった一切の見解か ら離れるために説かれたその空性をも,観念化し見解として抱いてしまう「空見 (śūnyatā-dṛṣṭi)」ある者は厳しく非難される8). 3
.おわりに
以上に筆者が提示したような新たな解釈を採れば,従来の解釈に付随する難点 を解消し,かつこの第13章全体をより整合的に理解することが可能になるだろ う.(124)
― 983 ―
『中論頌』第13章における偈の帰属問題について(清 水)
1)MMK pp. 210–214. bhāvānāṃ niḥsvabhāvatvam anyathābhāvadarśanāt /nāsvabhāvo bhāvo sti bhāvānāṃ śūnyatā yataḥ // 3 // kasya syād anyathābhāvaḥ svabhāvaś cen na vidyate / kasya syād anyathābhāvaḥ svabhāvo yadi vidyate // 4 // 2)Cf. 中村(1975); 斎藤(1982). 3)『青
目釈』は他に見られない偈を,第3偈と第4偈の間に対論者の反論として挿入し(本稿では この偈を仮に第3′偈とする),合計で9偈を挙げる.さらに『青目釈』は第1偈を対論者の 偈として 釈する.本稿はできる限り 釈に依らずに,龍樹が第13章をで著した意図を明 らかにすることを目的としているが,諸 釈書の中では『安慧釈』が,現行のサンスク リットテキストと異なる偈があるなどの問題があるものの,筆者ともっとも近い理解を示 している. 4)第13章第3, 4偈について,Streng (1967)や三枝(1985),桂・五島 (2016)は,Abh,BP,PP,PSPの解釈に従った訳出をしており,Inada (1970)は第3偈頌 を反論者,第4偈を龍樹と見做し,斎藤(1982)とGarfield (1995)は第3偈cd句と第4偈 ab句を反論者と見做している.Kalupahana (1986)と丹治(2019)は筆者と同じく両偈を
龍樹のものであると理解をしている. 5)MMK p. 240–241. prakṛtau kasya vāsatyām anyathātvaṃ bhaviṣyati / prakṛtau kasya vā satyām anyathātvaṃ bhaviṣyati // 6)Cf. 立川
(1982). 7)丹治(2019)も筆者と同様に,龍樹は第3偈ab句で先ず対論者の有自性 の事物を否定し,cd句でその自性のない事物を否定している,と理解する.さらに,第7 偈に説かれる空は第3, 4偈の「無自性な事物」であり,不空は「有自性の事物」,であろう と筆者と同様の理解を示している. 8)第7, 8偈については四津谷(2018)に詳しい. 第8偈に説かれる「空見(śūnyatā-dṛṣṭi)」は,従来の第3, 4偈の読解に基づき「空性は実体 的にあると見なすこと」とおおよそ理解されてきた.しかし,筆者の新たな解釈を採用す れば,第3, 4偈で「空なるものはある」と批判する対論者は想定されていないことになる. よってここでの空見とは,空性を実在的に捉える見解ではなく,その対立概念である「不 空性(aśūnyatā)」を構想,連想してしまうことになるような,空性そのものへの見解を 言っているのだと考えられる.そのように,この第8偈では一切の見解から離れるべきこ とが徹底されており,その空見ある者は不治であるとされる.一方で丹治(2019)は,第 8偈は思想史的に問題があることなどから,「後代の竄入ではないか」としている. 〈参考文献〉
MMK Mūlamadhyamakakārikā. 叶 2011を参照. Streng, Frederick J. 1967. Emptiness: A Study in Religious Meaning. New York: Abingdon Press. Garfield, Jay L., trans. 1995. The Fun-damental Wisdom of the Middle Way: Nāgārjuna's Mūlamadhyamakakārikā. New York: Oxford
Uni-versity Press. Inada, Kenneth K. 1970. Nāgārjuna: A Translation of his Mūlamadhyamakakārikā with an Introductory Essay. Tokyo: Hokuseido. Kalupahana, David J. 1986. The Philosophy of the Middle Way Mūlamadhyamakakārikā. Albany: State University of New
York Press. 叶少勇 2011『中論 梵蔵漢合校・導読・訳注』中西書局. 桂紹隆・ 五島清隆 2016『龍樹 根本中頌 を読む』春秋社. 斎藤明 1982「『中論偈頌』解釈 の 異 同 を め ぐ っ て ―― 第13章 真 実 の 考 察 を 中 心 と し て ――」『仏 教 学』14: 65– 88. 三枝充悳 1985『中論偈頌総覧』第三文明社. 清水仁 2016「『中論頌』第 XIII章の研究――第3偈と第4偈の帰属問題を中心に――」『龍谷大学大学院文学研究科紀 要』38: 39–61. 立川武蔵 1985「 中論 における 自性 (svabhāva)について」『仏教 の歴史と思想 壬生台舜博士頌寿記念』大蔵出版,123–140. 丹治昭義 2019『中観 部』1, 新国訳大蔵経16, 大蔵出版. 中村元 1975「『中論』諸 釈における解釈の相違」 橋本博士退官記念仏教研究論集刊行会編『仏教研究論集』清文堂出版,65–79. 四津 谷孝道 2018「空見について」『駒沢大学仏教学部研究紀要』76: 101–129. 〈キーワード〉 龍樹,『中論頌』,空性,無自性,空見 (龍谷大学大学院)