ヴァラビーの堅慧
佐 久 間 秀 範
1.まえがき
現在一般的に流布している仏教史の概説書を見た場合,Sthiramatiの人物像は 次の様になっている. (1)瑜伽行唯識学派の中でVasubandhuの著作に多くの 釈を書いた論師である. (2)Nālandāと双璧をなす仏教拠点Valabhīを率いた人物である. (3)中国唯識宗および日本法相宗の正統説の基礎を築いた「護法」と最も対立し た「安慧」と同一人物である. しかし様々な要素を再度検討すると,この人物像には無理があることが判る. 一つには玄奘の『大唐西域記』の「堅慧」は原語も人物像も一切記されていない ことである.二つには銅板碑文にSthiramatiとあるからと言って,それが 釈家 Sthiramatiであるとは限らないことである.しかし玄奘は 釈家Sthiramatiを知ら なかったわけではない.それは玄奘が『阿毘達磨雑集論』の作者として「安慧」 の人物名を表記しているからである.以上の点からValabhīのSthiramatiが 釈者Sthiramatiとは別人であるというこ とを中心に論証する.内容の混同が生じないように人名や地名はSthiramatiなど ローマ字表記を使用し,「堅慧」および「安慧」はSthiramatiに対応する翻訳語と して使用する.なお本研究はJSPS科研費JP17K02213, JP25284010の助成を受け たものである.字数の関係で参考文献の詳細な情報と は英文の別稿に譲り,す べて省略した. 2
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Valabhīが
Nālandāと双璧をなす仏教拠点であるという伝承の起源
まずValabhīにNālandāと双璧をなす仏教拠点があったという伝承はどこから 始まったのかについて述べる.後述するように大本の由来は玄奘の弟子基の著し た『成唯識論述記』にあるが,まずは近代仏教学の伝統としてヨーロッパの仏教学の流れを見ることにする.現存する最古の『大唐西域記』のヨーロッパ語訳は Stanislas Julienの仏訳1857–1858年で「堅慧」をSthiramatiと還元したものが最初 である.その後Valabhīで発掘された銅板碑文にSthiramatiの人物名の記述があ ることにより,Bühlerが1877年発行のThe Indian Antiquary, vol. VI, pp. 9–10で「堅 慧」が疑いなく(no doubt) 釈家Sthiramatiであると述べたことにある.Bühler
のその後の諸論文はすべてその確信の下に著述されている.このBühlerの見解
が与えた影響は甚大である.まずは1884年発行の『大唐西域記』のSamuel Beal による英訳Si-Yu-Ki Buddhist Records of the Western World, vol. 2, p. 268では「堅慧」
をSthiramatiと訳した上で, 76を付してこの人物を「Vasubandhuの著作に多く
の 釈を書いた人物である」と書いている.さらにその 76に南条文雄の名を
加えている.彼は1876年にOxford大学のMax Müllerの下で学び,1883年に『大 明三蔵聖教目録』の英訳を出版している.彼は日本における法相教学の伝承の影 響を受けていると考えられる.これによってValabhīにNālandāと双璧をなす仏 教拠点があったという伝承が確信されたと考えられる. 3
.堅慧から安慧への改変の起源
先述したようにヴァラビーの「堅慧」を「安慧」と改変した起源がどこにある かを探ると,最も古い記述は玄奘の弟子基の著した『成唯識論述記』の「三梵云 悉恥羅末底.唐言安慧.」(T43, 231c19–20)になる.基はこれに続けて「即糅雜集. 救倶舍論破正理師.護法論師同時先徳.南印度境羅羅國人也.妙解因明善窮内 論.扇 於小運.飛蘭蕙於大乘.神彩至高固難提議」(T43, 231c20–23)と記述し ている.玄奘自身は『大唐西域記』ValabhīとNālandāの双方の項で「徳慧」と 「堅慧」とを抱き合わせて提示する.「徳慧」については原語と人物像を明示する のに対し「堅慧」は名前のみで他の記述は一切ない.これに対して,基は上記の ように詳しい人物像と原語を示している. まず「羅羅國」については『大唐西域記』の割注に「伐臘毘國即比羅羅國」 (T51, 936b14)とある.この割注がいつ加えられたかは問題ではあるが,佐久間秀 範2008「法 相 宗 所 伝 の 諸 論 師 系 譜 の 再 考」 8で 述 べ た よ う に「羅 羅」 は Gujarātī lāṭa=lāḷaであり,Valabhīの属する古代国名である.またWaḷāはValabhī を指す.つまりこの割注は有効である.次に「即糅雜集」とあるのは玄奘訳の安慧糅『大乗阿毘達磨雑集論』と一致 し,玄奘が唯一「安慧」の名称を挙げた 釈家Sthiramatiと『大唐西域記』の
「堅慧」を基が意図的にあるいは確信を持って同一人物とした証拠である.この 「安慧」に人物像を基が付け加えたことによって,後の中国唯識宗の伝承となる 「安慧」と同一人物であることが確定した.義浄は『南海寄帰内法伝』において 「然後,函丈傳授經三二年,多在那爛陀寺[中天也],或居跋臘毘國[西天也]. 斯兩處者,事等金馬石渠龍門闕里,英彦雲聚,商搉是非.」(T54, 229a4–7)として ValabhīがNālandāと双璧となる仏教拠点であることを追認していることによっ
てValabhīのSthiramatiが 釈家Sthiramatiであることが中国唯識宗において了解
されていたことが判る.ところが,1896年出版の高楠順次郎の『南海寄帰内法 伝』の英訳およびこれを2004年に改定した宮林昭彦・加藤栄司訳の冒頭の地図 に拠る限り,義浄がValabhīはおろかGujarat州にさえ立ち寄っていないことは明 確である.つまり義浄は基の記述ないしその後の伝承をそのまま鵜呑みにしたこ とになる.ただし義浄は論師の名前を並べる中で,「安慧・徳慧」(229b17)の順 でSthiramati・Guṇamatiと還元できる名称をあげるものの,「徳慧」については 「徳慧乃定門澄想」(229b21)と示しながら,「安慧」については何も語っていない. 4
.僧院長
Sthiramatiの伝承の起源
では基がどのような理由でValabhīに生存したSthiramatiを中国唯識宗および 日本法相宗の伝承の「安慧」に仕立て上げたのかを推測することにする. 基は情報をもっぱら玄奘から得ていたと考えられ,圓測のような広範囲の知識 は持っていなかったと推測される.しかしながら,それだからこそ玄奘から学ん だ知識をもって唯識宗という一宗を立てる志を強くもっていたと考えられる.基 の強烈な個性はいくつかの点で窺い知ることができる.例えば『成唯識論』は玄 奘の意図ではなく基の強いすすめに従って諸論師の説を護法の説を正統説として 編纂し,中国語訳にしたと伝承されていることにも現れている. その場合当時の中国華厳宗の法蔵との関係は重要である.先に 記したように 中国華厳宗の伝統では「堅慧」は『大乘法界無差別論疏』(T44, 唐 法蔵 )「(63c5) 堅慧菩 者.梵名娑囉末底.娑囉.此云堅固.末底云慧.(中略)(63c19)造究竟 一乘寶性論.及法界無差別論等.」とある事から,法蔵をはじめとする華厳宗は 「堅慧」をSāramatiと確定している.この場合,唯識宗を激しく非難した法蔵に 対して,唯識宗を立てることに情熱を燃やしていた基にとっては『大唐西域記』 のValabhīに玄奘が「堅慧」を登場させたことは都合が悪いのである.玄奘はこ の「堅慧」を「徳慧」と常に抱き合わせでNālandāでも「徳慧・堅慧」として登場させる.玄奘はさらに「徳慧」については原語がGuṇamatiであると提示し, 人物像も詳しく述べているのに対して「堅慧」については原語も人物像も全く提 示していない.一方NālandāにSthiramatiが学匠として居たことはチベットの 『ターラナータ』などの仏教史でも共通して述べている.ただしチベットの伝承 でもSthiramatiに関しては疑いの目を向けていることは念頭に置く必要がある. そこで人物像の記載のない「堅慧」をNālandāの「安慧」と置き換えて「堅 慧」の文字を消し去り,その「安慧」に唯識教学・法相教学の「安慧」の基礎と なる人物像を書き加えることによって,Valabhīの「安慧」を基が確定したこと
になると推測される.つまり基によってValabhīのSthiramatiが 釈家Sthiramati と同一人物となったと考えられる.もしこの推測が正しいとしたら,基の目的は 何であろうか.法蔵の非難をかわして華厳宗の「堅慧」と玄奘の「堅慧」とを明 確に区別することが,基が一宗を立てるために必要不可欠な事であったとする と,基の意図が理解しやすくなる.もちろん基が玄奘の意図を知った上であえて 改変を行ったか,玄奘の意図を知らずに行ったかは推測の域を超えるものではな い.しかし少なくとも基が残した「安慧」に関する記事が後世において錯綜がは じまる端緒であったといいうるであろう. 基の強烈な個性を示すと見られる例をもう一つ提示することにする.基が唯識 宗を立ち上げるに当たって,特徴的な思想として提示した思想に五性各別があ る.五性各別は,五つの性を格付けした,つまりランク分けした五性各別(五性 格別)のことである.玄奘自身がランク分けの五性各別を玄奘訳『仏地経論』で 明示する部分は,チベット語訳『仏地経論』には対応箇所が全くない事は事実で ある.つまり玄奘が付け加えた考え方である.しかし玄奘自身はこの考えに執着 したとは見られない.それは玄奘がその後この問題を提示しないからである.そ れにもかかわらずこの考え方が唯識宗の旗印のようになったのは,天台宗に対抗 して基が唯識宗を立ち上げるのに強い情熱をもっていたことを示すもう一つの証 拠になると言える.逆に玄奘が『仏地経論』で明示してしまった五性各別が天台 宗から攻撃されたことへの反撃として唯識宗の旗印に仕立て上げたとみることも できる.五性各別に関して筆者は佐久間秀範2007 In Search of the Origins of the
Five-Gotra System 印仏研55巻3号をはじめとする諸論文で示した.
しかしこれだけではValabhīのSthiramatiが僧院長の地位を獲得する理由とし ては不十分である.この問題には江戸時代の普寂や戒定などに端緒をおき,その 後の仏教学者の間で展開して行く日本における唯識思想研究の流れが大きく作用
していると考えられる.これに関しては橘川智昭が真言宗豊山派第47回教学大 会(2018年7月6日)で発表した「唯識系譜考」およびその詳しい配布資料が重要 な根拠を提供している. 江戸時代の普寂が『顕揚正法復古集』の中に「馬鳴・堅慧二大士則説如来蔵」 (大日本仏教全書29, 177c)と記していることから普寂が「堅慧」を『宝性論』の著 者として如来蔵の思想家に位置づけたということは,浄土宗の普寂が華厳教学の 系統を継いでいることを示している.日本では,華厳宗の「堅慧」と法相宗の 「安慧」とが区別されずに,あるいは混同して,新たな展開を見せたと考えられ る.つまり「安慧」は如来蔵思想をもち,Valabhīで活躍した人物と解釈され, 真諦訳『摂大乗論』に基礎をおく玄奘以前の唯識解釈の基礎を築いた人物である との評価の萌芽がここに求められることになった. 筆者が橘川智昭の考えを正しく理解しているとしたら次の様になる.浄土宗の 普寂の記述および真言宗豊山派の戒定の見解が基になり,護法―玄奘―基による 境識倶泯の正観唯識と安慧―真諦―円測による識有境空の方便唯識という構図の 萌芽がもたらされ,明治時代の末期から著しく学者の注意を惹くようになり護法 系唯識と安慧系唯識との対立構造が常識の様に語られるようになったと考えられ る.橘川の所論は結城令聞「近世唯識研究の或る系譜についての評論」(『結城令 聞著作選集2・華厳思想』春秋社,1999年.初出は仏教史学会編『仏教の歴史と文化』同朋 社,1980年)に依拠しつつ,さらに敷衍して考察したものである.結城によれば, 安慧といえども識有境空であるということになる.これに基づくとその後の日本 における唯識思想研究の流れの中で如来蔵思想に基礎をおくValabhīの安慧系の 古唯識と正統なNālandāの思想を継ぐ護法系の新唯識という対立構造が周知のこ とになっていったと考えられる.もちろん玄奘以前の中国における唯識思想理解 が如来蔵思想に傾いていたことは事実であり,それは中国仏教全体の思想傾向で あるので,古唯識(如来蔵思想)に対して玄奘がNālandāの最新の思想を中国にも たらしたことは十分に納得できるものである.しかしながらこれまで検討してき た内容から考えて中国唯識宗および日本法相宗の伝承にある安慧がValabhīの仏 教センターの僧院長でありNālandāの仏教センターと双璧をなす仏教研究の拠点 を築いたとする考えは納得の行くものではない.もし銅板碑文にあるSthiramati が僧院長であることが事実であるなら,『大唐西域記』で玄奘が詳しく人物像ま で述べる「徳慧」つまりGuṇamatiが銅板碑文に全く登場しないのは何故であろ うか.この事実があるにもかかわらず玄奘が原語も示さず全く人物描写もしない
「堅慧」を「徳慧」を差し置いて僧院長に据えることにはかなりの無理がある. 5
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Valabhīを仏教拠点とすることの無理度
そもそもValabhīにNālandāに匹敵するだけの僧院群を見出すことが難しい現 状をどのように評価すべきかを述べることにする. 玄奘の報告ではMagadha国,つまりはNālandāの項は詳しいのに対して, Valabhī国の部分の描写は簡素なものである.もちろん描写が簡素であることで その地に大きな僧院がなかったことにはならない.それは『大唐西域記』で Valabhī国に続いて記述されている阿難陀補羅國は更に簡素であるからである. この地はĀnandapuraと還元され,現在のVaḍnagar/Vadnagarに比定されている. 近年Vadnagarでは考古学的発掘調査が行われ大規模な僧院跡が認められ,引き 続き発掘調査が行われていることが報告されている.この他Gujaratには仏教遺 跡があり,玄奘の報告にはない場所にも存在する.私が訪れたRajkotから南に車で三時間半程の所にあるUperkotのJunagadh Buddhist Cave Groupsの一つが山 の上にある王宮跡にある.この王宮は山の上に立てられ,その地下に掘られたと ころに僧院の跡がある.竪穴式の僧院窟である.現地ガイドの説明であるので確 実な証拠とはならないが,Gujaratには階段井戸が見られAhmedabadのAdalaj階
段井戸が有名であるようにUperkotの僧院のある王宮にも階段井戸がある.つま り,山の上でも水の心配はない代わりに湿潤であることも理解できる.つまり湿 気が多く,地質的にも崩れやすく僧院窟として不適切であったため,この僧院も それほど長くは使われることがなかったと聞いている. ではGujaratのValabhīの地はどのような地質であろうか. Valabhīの 地 は か つ て のMaitraka朝 の 首 都 の 位 置 づ け に な る. 現 在 の Valabhipur/Vallabhipurに比定されている.この地は地図でみると内陸にあるよう
に見えるが,Joseph E. Schwartzberg校訂(1978, Chicago and London)のA Historical Atlas of South Asiaの古地図を見ると判るように,アラビア海から入り込ん
だKhambhat湾が近くまで達した場所で,広く交易を行うに適した土地であっ
た. 塚 本 啓 祥1996『イ ン ド 仏 教 碑 銘 の 研 究』IのValabhī碑 文1(216年 は 216 + 241 + 78 = 535 CE)に付された解説にもValabhīはCambay = Khambhat湾の西 海岸にある港町でSaurāṣṭraすなわちGujarāṭの首都とある.Bhavnagar空港へ航 空機が高度を下げるころから広大な浅瀬が広がり,多くの塩田の姿も実際に見る ことができる.随時更新されているGoogle MapやGoogle Earthを見ても湾岸近
くには人工的に四角形に象られた塩田を見ることができ,Valabhīが海抜20 m位 の高さがあるのに対し,その東側は10 m以下であり,湿地帯であることが判る. Valabhīを包むGhelo川以外にも幾重にも流れを変えたと思われる川の様子を見 ることができ,このような場所に壮大な僧院があった可能性は少ない.『大唐西 域記』「去城不遠有大伽藍」T51, 936c1からするとGhelo川をはさんだ南側も海抜 10 m以下であるが,そこには海抜70 m∼80 mの小高い山があり,仏教遺跡の可 能性がある.現在はヒンドゥー教寺院がある.いずれにしても数回に亘る発掘調 査でも周辺地域に仏教遺跡の発見の報告がない.考古学的発掘調査が確実に行わ れた場所はGhelo川に囲まれた現在のValabhipur内にある.その場所は発掘現場 として残されており,銅板碑文もここから出土したと伝わっている.上記の古地 図によればすでに1 CEにはValabhīの名称が地図上に記載され,1200 CE頃まで の古地図にも名称が記載されているので,Sthiramatiの名前の見られる碑文7 (588 CE)や碑文21 (662 CE)の時代にはMaitraka朝(ca. 475 CE–776 CEが有力)の庇
護を受けていたことは確実である.Gujaratは現在ジャイナ教の優勢な土地柄で
ある.Valabhipurにもジャイナ寺院があり,私もそこに立ち寄ったことで先に述
べた発掘調査に参加した人物と出会ったのである.しかし仏教の痕跡は現在も見 受けられない.塚本啓祥1996に記された碑文21の所在がWaḷā(=Valabhī) Museum
とあるが,そのMuseumの存在はどうしても確認できなかった.銅板碑文の
展 示 し て あ るBhavnagarのBarton Museumに もRajkotのWatson Museumに も
Sthiramatiの名前の入った碑文の現物は見られなかった.どこに現存しているか
は現時点で私には不明である.
塚本啓祥1996を見ると判るようにValabhīに関する研究は重要な部分でBühler
の諸研究に基づいている.そのBühlerの研究の基盤は玄奘の『大唐西域記』で
ある.その『大唐西域記』がT51, 936b23ff.で報告する内容によれば,当時の統 治者はŚīlādityaの甥でHarṣa-vardhana王の娘を妃としたDhruvasena IIでBālāditya
とも号した王である.Harṣa王はインドにおいて玄奘を最も庇護した人物であ
る.Maitraka朝は彼の娘の嫁ぎ先であり,当時Maitraka朝はこのHarṣa王の支配
下にあったことが判っている.情報収集能力に極めて長けた玄奘がValabhīの情
報をこうしたルートで得ていた可能性を否定することはできない.そうであるな らば玄奘は現地に行くことなしにSthiramatiという人物がValabhīにいたことを 知っていた可能性も高い.そして玄奘はSthiramatiという名前のみは知ったもの の詳しい人物像については彼の情報収集能力をしても得られなかった可能性が高
い. 銅板碑文の目的が建物や土地の保有を担保するため,高価な金属ではあるが, 湿潤な土地でも木や紙よりも長時間残りやすい銅を用いたものと考えられる.そ の銅板碑文の記述内容から考えて仏教寺院がこの地にあったことは確実である. しかし,これによって銅板碑文に示されたSthiramatiを有名の 釈家Sthiramati と同定してよいという根拠にはならないことは先に述べた. その場合もしBühlerなどが描写するような壮大な僧院があったと仮定したら, 玄奘は何故もっと詳しく報告をしなかったのであろうか.さらには何故に常に 「徳慧」と抱き合わせでしか「堅慧」を登場させないのであろうか.しかも「徳 慧堅慧菩 之所遊止」の「遊止」(T51, 936c3)の意味が,定住したのではなく,一 時的な滞在を意味するのであるから,Nālandāと双璧をなす仏教研究の拠点を率 いた人物とすることには無理がある.それにもかかわらず「堅慧」に僧院の最高 権威者の位置づけを与えるのだとしたら,その人物像をまったく記していないの はどのような理由であるのかに対する十分な答えを用意しなければならない. さらに疑いたくなるのは,先にも示唆したように,玄奘自身はValabhīを含め た西インドには実際は行っていない可能性さえあるのではないかということであ る.つまり,Harṣa王の娘との関係から多くの情報を得ていたので,その情報に 基づいて記述したに過ぎないのではないかということである.あるいは実際に現 地を訪れていたとしても,この地域にそれほど多くの関心がなかったのではない かと疑われる.このような疑問点を加えて考えた場合,先に述べた玄奘の高い情 報収集能力を無視することはできないのである. 考古学的証拠が乏しいValabhīについて現時点で確定的なことは言えないとし ても,少なくとも銅板碑文にあるSthiramatiと多くの 釈書を書いた 釈家 Sthiramatiとを同一人物としたBühlerの説には無理があることは確定できる. 6
.結論
上記の考察で得られた情報と現在までの研究成果とを整理してみると,およそ 次の点が挙げられる. 1.サンスクリット語原典写本の研究成果からSthiramatiに帰せられるサン スクリット語 釈書は一人の人物の作品であること. 2.チベット語訳のみ残る『大乗荘厳経論釈』はこれとは別人物であること.同定する証拠が何もないこと. 4.玄奘自身もValabhīにSthiramatiという人物がいることを情報として知っ ていて,それが 釈家Sthiramatiと別人である事を認識していたからこそ 「安慧」ではなく「堅慧」と翻訳した可能性が高いこと. 5.Valabhīという場所にNālandāと双璧をなすほどの仏教僧院が仏教研究の 拠点として存在していたことを示す証拠が乏しいこと.
6.ValabhīのSthiramatiが 如 来 蔵 思 想 を 持 つ 古 唯 識 で あ り,Nālandāの
Dharmapālaの正統な新唯識と対立関係にあるという理解の仕方は,日本の
江戸期に萌芽を持ち,明治時代の末期以降に学者の間で組み立てられた伝承 である可能性が高いこと.
今後さらに考古学的資料をはじめ新しい資料が発見された場合,情勢は変わる可 能性もあるが,現時点での判断を下すと次の様になる.
1.ValabhīのSthiramatiという人物は瑜伽行唯識学派の中でVasubandhuの著 作に多くの 釈を書いた論師とは別人である. 2.Nālandāと双璧をなすような仏教拠点がValabhīにあったとすることには 無理があると考えられる上に,玄奘を信用するのであれば「徳慧」Guṇamati も「堅慧」SthiramatiもValabhīに長く滞在したのではなく一時的に 留した のであるから,そのSthiramatiがGuṇamatiを差し置いてその仏教拠点を率い た人物とすることは無理である. 3.ましてや中国唯識宗および日本法相宗の正統説の基礎を築いた「護法」 と最も対立した「安慧」という対立構造をインドの仏教史に持ち込むことは できない相談である. 〈キーワード〉 ヴァラビー,堅慧,安慧,Sthiramati (筑波大学教授,D. Phil &博士(文学))