• 検索結果がありません。

『宗教研究』173号(36巻2輯)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』173号(36巻2輯)"

Copied!
131
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

論文

1,

芸能の宗教的意義, 西角井正慶, Religious Meaning of Art Performances, Masayoshi NISHITSUNOI,

pp.1-24.

2,

道教と修験道, 窪徳忠, Taoism and Shugendo (修験道), Noritada KUBO, pp.25-48.

3,

カントとブッダの類似と異質:比較哲学の一試論, 三枝充悳, Immanuel Kant und Gotama Buddha: Ein

Beitrag zur vergleichenden Philosophie, Mitsuyoshi SAIGUSA, pp.49-71.

4,

宗教実践と社会=経済的環境, 安斎伸, Religiöse Praxis der Katholiken im Zusammenhang mit dem

sozial-ökonomischen Milieu in Europa, Shin ANZAI, pp.73-93.

展望

5,

最近の「死海写本」研究から, 新見宏, Hiroshi NIIMI, pp.95-102.

6,

転機に立つスイスの神学界, 小川圭治, Keiji OGAWA, pp.102-108.

書評

7,

金倉円照著『印度中世精神史 中』, 高崎直道, Jikido TAKASAKI, pp.109-114.

8,

堀一郎著『日本宗教の社会的役割』日本宗教史研究1, 宮家準, Hitoshi MIYAKE, pp.114-119.

Posted in 1962

(昭和37)年

(2)

'

汗ダ

・ 比臣 というのだとある。ところが後に、長谷︵雄略︶ 天皇が崩じた時に、その比目交和気の子孫が 全 く 絶えたので、七日 セ夜 御食を奉らなかった。これによって御霊が 荒び 給う た。そこで諸国にその氏人を求めたとこ ろ 、ある人の言によ 鮭 つて、この比目文和気の女子のあることが わかり、右の婚姻関係を知って、時代的 | には 大 分 飛躍があるが、部曲の 湖 いわれであるから矛盾も感じないのだろう し、 代々その名で奉仕したのかも知れ

円目玉 の妻を召して 問 5 と 、わ のが氏は・死絶えて 要 一人あるのみだと答えた。 そこで、そのことを負はしめたところ、女は武 器 を扱 う ことは困難だか㈹ 日下 離 ら、その職を夫の円目玉に移して供奉せし められたいと願 う たので、円目 玉 なして 濱宮 の 奉 仕 をせしめると、御霊は 1 た に な 恐 。 ょ 由 ら 「 お れ 釆 く 喪 ょ ば 譚 一

そ天 逓

、 を士全

や賦

」 皇 部 や 役 に

という

和国高の時は 仁

く、

務がな

、 市 え い 名 北 部 て 民 が 日 に い

だ兄

部 支 任 る 、 え 和 む だ る 気 生 そ か が 日 の ら 日

積方( 大

遊食

所 。

妻 妾 都 議

に 仁 を と 解 到 ) し い ヒ

の の 通 解 八 こ 千 郁 し 三

年代)

供 の円目とに

0

幽 顕 は てのこ

て 上ヒ 、 令 さぬ

を の を 方 と 禰 文 鎮 に 註 義 を め は し

・ 嬰 る 、 て 余 っ 氏 そ い 此 て で の る

Ⅰ 妻 、 伝の

芸能の宗教的意義

(3)

和み 締う た。これによって今日以後、手足の毛 が 八束手と長くなるまで遊んで い てよい。だから 遊部というのだ、と 2 こ う 註している。﹁令集解 ロ の出来た平安中期 ともなれば、遊びは音楽という用語になっている 、、、 、 のだが、こ う い う無 %, 為 徒食の意味に解したものと見える。﹁喪葬 令 ﹂の註にも、喪は死屍、葬は蔵だといい、遊部の 名の出る 蠕車 ︵葬車 とも 註す ︶に次いで、 鼓 、大角・小角︵くだ即ち 笛 ︶、 幡 、金釘、 鐘 鼓などの楽器の数が、親王城 下の階級によって 定 められてを り、且 っこの註には﹁ 但北 条遊部 謂 野中古市歌垣 之類是 ﹂とある。歌垣の類とあるか らには、歌を歌 うこ とと関係はあろう。また註の中に遊部の員数を ぎ いているのに対し、徳二別 武 一とあるたげで、 こ れも判然としない, 遊びとは、音楽を奏し、また舞踏することであ る ﹂ 門 源氏物ま 叩 しなどには至るとこ・ろその用語例 があるし、 コ 神遊 ・﹁東遊び﹂など、音楽の名称ともた っ て ﹁古事記 L に語る天若日子の喪葬についても、 更 いるのだから、喪葬 楽 奉仕の他には何らの労役な にこれから、さし挟む古代の例は 、 何かにつげ く 、貴人喪葬の礼に 私は書いているこ 大和国高市郡からいでて仕える、遊部という 民 団 があったと見てよ い であろう,その部曲の遊び たる職掌を毎 為 徒食 の 如く説明したのだが、そんなどころではない。 ともかく、雄略天皇の亡魂が荒んだので・之を 和める。仏教的に @ えば成仏せしめる意ともなろ うか 。いやそれよ り 今少し古い意味において、荒ぶ魂を和める為の 慰霊の児 術 があった わけだ。その呪術者が絶えたる女系地白皮和気 の 職分を、円目玉の男系に移した来歴について 司 集解 三 が伝えている というよ う に見られる。令の規定の葬具として の鼓 ・笛は葬列の威儀のものか、遊部が奏したも のか。また七日 セ夜 御食を奉らない為に、 御魂 があらびたというの 。だから、死後 濱宮 における、御食が欠けたという 、その方面の奉仕も 大切ではあるけれど、遊部という以上は鎮魂 技 術 に関係ある部曲の称には違いない。 とで、甚だ恥しい気もするが、かといつて挙げ ないわげにものかない。彼の神話では、いろいろ な 鳥を使って葬儀を 行っている。即ち喪屋を作り、 ち ︵死者の食物を持っ者 か ︶・鷺を帯持ち @@ キ とし、 翠 古曲 珂 ︵ か ムリ せみ ︶を 御 雀を碓 。:・・ 女 、 矩を失 ナキ 女 i として八日八夜の遊 びをしたことが記紀に語られている。右に詳述し た 遊部の仕事と大体

(4)

ナ Ⅱ : ア

ア /j

ウズメ

売命

︵大鍋

女命

︶の神懸りの所作がまず挙げら

れる。天子の霊威を新しく切り換える

期伝承が

をなして、祭儀的

構成された神話であり、一度記録化されると、

こんどはそれを起原としての故実と考えるよ

になる。大石屋

籠りました天照大神が﹁いかんぞ大鍋

向かく

嬉笑するか﹂︵

︶とか、﹁などて大字彙

売は楽

びし﹂︵

︶とか、

楽器の事は書き伝えられなくても、やはり

︵音楽︶することによって

誘い出す手段に考

えたのだ。それも

宗 教導︶説など、様々な解説はあるが、ここで

的意は招魂の児術から出た話しと見るのである

カム

ワサ

術は、石上伝来の方法と

桁突

3O 3

鳴らして霊魂を覚

G

OOO

相通じるといえよ う 。鳥を用いたということは、 多分に鳥の習性からの連想によるものと思 う ﹂ 鳥と 霊界との信仰的 な 意味は、十分に考えられても、これらの農一 っ 一つの性質までほわからない。雀や雑はその 習 性からの連想であろ ぅ 。 帯 持ちの篇は掃 き 清める用法 よ りは、散乱 する霊魂を寄せ集める兇具であったろ う 。死者へ 0 食は、黄泉戸喫 か ら御 魂の飯の民俗に至るまで、泣女は 、 笑や 課 の 外来知識に敢えて 俣 つまでもない古代の喪儀 民 俗 といえよ う 。大君 日子の場合にも兄御としての音楽に蘇生する 印 象は語られている。七日 セ 夜の遊びとか八日八夜 の 遊びとか、 息 絶え て 後は勿論のこと、あるいは重病仮死の場合に も 復活蘇生の児 術 があって、生死の境は古くは 容 易 に判別出来なかっ たに違いないし、 よ し死を確認したとしても 遊 びが重んじられた。遊びという用語例には鳥の遊 びとか遊猟の充 字が あり、魚釣り遊ぶなどか 5 た 場合、また野遊び、 ぬ 遊びの如く 、 昔々の物見遊山、万葉集の旅人 の歌にも﹁世の中の 遊びの道に淋しく ば ﹂とあるなど、遊興娯楽的 な 面が思い浮べられよ う が 、 主として音楽をさし たのである。 記紀歌謡も様々な用途が考えられるが、概して いえば鎮魂的意義、それは第一義における外米 魂 の 釆 触を意味す ア /@ ウズ る、魂ふ りの 兄術 に用いられたものと思われる のが多い。大石屋戸の神話には、記紀には歌をば 記さないが、大字 受 一 ・ @.l. ⅡⅡ

(5)

@leg , ,、 @i"@ ,, @@,.@@@ -T"- ・ -@i ・ " , :@@

-

@

""q 外来 楽は 、推古 朝 ︵一八一二︶既に伎楽の伝習所 が 投げられ少年を集めて習わしめ、平安初期にか げて、何かと唐の 文化を摂取すると共に、東洋諸地域の音楽も釆 朝したが、古楽の日本化以前の楽譜の復元は困難 であろう。伎楽の曲

外来

して奈良朝以来、主体をなす 儀 ︵ 層事 本紀 ヒにょ って裏付けられている︶となった。緒を結ぶ 、む す びの 児 術は民俗的 には万葉集の歌にも数多く挙げられる。音楽と しては鎮魂歌。多分は奈良朝に遡り得るもので、 平安朝の神楽採物 歌 に 進展する。 蘇生の説話は、大国主命にもある。命はその 皮 に 美しく強大になってゆく。記紀における生死の 問題、喪葬の信仰 は 、日本武尊が 亮 じて、八尋自知 鳥 ︵白鳥が 霊 魂の象徴と見られた︶となって飛び行くのを、 妃 や 御子等が泣くなく 歌った 四 首の歌は、古事記編集の当時も天皇の 大御菱に歌 う歌 だった。それ以来の伝承で忙ない と 思 うが 、明治と大 まとの大喪の御簾にも用いられた。万葉集にお いては 濱 宮の歌で、日並皇子を悲しんで舎人等 が 、﹁ 働傷 して作れ る敵 しと題する二十三首の歌などには、到底 雑 仕 宿直の役をした下級の役人の作と思われぬ非凡 な作があって、柿本 大 麻呂はその舎人の一人でもあったらしいが、 人 麻呂の如 き 代表詩人 | 実はそういう儀礼 歌 を作 る 必要から、彼の如 ぎ 天分豊かな歌人が育つたと言える1 0 作 と思 はせる鎮魂的な意義内容の歌がある。然る 濱富め 歌が 、どんな 時 ど う い う 風に歌われたかはわからぬ。恐らくは毎日 のように声に出して歌 う 役があったかと思われる ﹁喪葬合ニ に 定め た 鼓や笛のことなどはあるいは送葬の行列のみ かも知れぬが、ともかく楽器も種々あった時代 である。挽歌に限ら ず 、万葉集の旅宴の歌など、文字に書いて鑑賞 したものでなく、声で聞 き味う たであろう。日本 古 釆の穏は無論古代 から 琴 、鼓や笛に合せて歌っていたに相違ない が、 歌の節も舞いの振りも古代そのままは残らぬ 。久米舞も隼人舞も 早くすたれた。 (140) 4

(6)

@.

めれ ・

芸 的な方面は 、 後々の田楽や伊勢休神楽の曲芸 に 、その亜流を残したと言えないこともないが、 正倉院はじめ東大寺 等 の諸大寺に伎楽面を残すのみである。その 猫 子 頭は併し今も行列に加わり、伎楽系統の獅子舞 ︵特に曲芸をも発達 廟を葛城の高宮に立てて、 八 拾の舞をしたとい せしめた︶は様々な形式を生んだ。 ぅ ことが、ひどく宮廷を刺激した。その筈である 。百八十部曲を集め

梅天皇元年︵一八四二︶ 軒暁 天皇 濱 宮の時、蘇我人 車蝦 填が、 己の祖 て、 予め 蝦岐 ・入庫親子の墓を造らしめ、更に 上宮乳部の民を聚めて、大慶山陵と潜称して使役 したのである。そこ で 上宮大娘 姫 三が憤られて、蘇我臣は国政を専 増 して 紬礼 をなすと歎かれたという﹂八橋 舞 の 橋 とは舞人の列のこと で、天子は八列八人で六十四人の舞、諸候は一八一 ハで 三十六人という風に 、 下にゃく柱舞人の数は 減じるが、臣下の八 橋 舞は甚だ 潜越 至極、然も先帝 濱 宮の際、その 一 畏 愁を尻目に行ったのに対し、上宮大娘娘三が 嘆 かれたのも道理であ る 。 周 代の舞なのだから非常に古い舞で、恐ら くは祝福の儀礼であったろ う 。七世紀には仏教に 伴 うて 有形無形の外 末文化が渡来し、人々の耳目を驚かし、讃歎 し 憧曝 させたに違いない。そうした文化を携えて, ﹂ そ 宗教は教化の 力 を 持つことに相違ない。但し舞楽ははじめから 仏 教 音楽に用いられたかどうか。または仏教の宗派 による如何、その 発 生や変革も知らぬけれど、梵唄とか、声明とか、 仏教の儀式自身のもつ音楽要素がない筈もない ﹁日本紀 ヒ の中に は 喪葬についての仏教音楽の記事はない。大武 紀に 、二月九日、即位祝賀に宋朝した新羅の使が 帰国するにさ いし、 難波に饗して種々の楽を奏した記事が見える。 , ﹂れは勿論宗教に関係ないことで、歓送の宴にお げる奏楽と見てよい 鯨 であろう。 抑 ところが、四年夏には僧尼二千四百余を 請じて大いに殺意する仏事や、飛鳥寺の西河辺に 種々の楽を奏する記事が のあり、御蒲 殿 ︵一種の岩屋︶の前で、 侶 優等 に 禧を賜 ぅ ことがあって、鎮魂に与る楽人等を 優遇したことが見え、と⑭ ワサブギビ t f ワヤ @ ノ 白丁 届かくこの紀には歌舞関係の記事が多く、神仏 能 習合以前の神仏並存的な信仰様相が窺われる。 朱鳥元年宮を名づげて 飛 5

(7)

秀夫,唐紅︵

イ乳 ︶朝臣真人が楽官奏楽。 、 t とある。その膳部や奏楽のことは、令の遊部を 連想するが、仏事は 一層鄭重で、︵日本的にはみかづら︶を

濱宮、、、、

に 奉るということや、薬師寺でも 毎遮 大会を行 つ たり、天皇崩御を 新羅に告げると、弔問 便 が来朝して、仏像や金 銀の宝物を奉ったり、 濱 宮の儀も俄かに仏教的色 彩 が濃厚となった。 併し、課題の中心とする芸能の点ではしかとし た 記事がない。種々音楽ということも伎楽など 舞 楽の古式なものを さ すと 思 5 が別して宗教音楽、あるいは古代の鎮 魂 舞踊と思わせる記事はない。天武天皇崩じて 一 年を経た 冬 十一月一 島津 御 京官 と 称し、浄行者 セ 十人を選んで 以つ て 出家せしむ。 乃ち 斎を宮中の御 窟院 に設くと 、 窟殿 と同じような 斎日 4 ヮ @@@ p で マ 然も僧侶の祈 藤 が行われた。これは神 事 を行 う 時と寺院で斎する時とで名を異えたか、 別々の施設か見当も つかない。天皇の為に観音像を造り、観世音経を 大官大寺に説かしめたり、また僧尼一百を度せ しめ、百体の菩薩を 宮中に坐さしめて、観音経二百巻を読ましめた りして、天皇の御店平癒の為に盛んに仏事を行 っ ていた。もちろん、 神祇の奉幣も怠りなかつたが、病はついに癒え 結 わずして崩御、翌々日始めて売笑︵みね奉り︶ 、南庭に 濱 宮を設け、

- と︶は亡 き 人の一生の業績を讃えることだが、 大武大畠は幼名を大 海人皇子と申した。壬生事はその幼少の時、育 て 申した当事を語ったと思われる。ここで壬生の 信仰について折口先 生 説を援用すると大変であるから省略して、 と もかく壬生の諌は諌の中最も大切な 諌と 思われる 。それを始めとして OO 終日関係深い人々の 諫詞や 、僧尼の芙が続 き、そ ぅ してこの紀の最後は 、佛 つて種々の舞を奏す と 終っているのであ る 。 朱鳥元年九月、天武天皇崩御の後は、皇后︵ 天 智 天皇皇女︶が堅二年即位、持続大畠の御代とな るが、先帝の濱 宮 の 喪礼は続 き 、無遮大会を大宮・飛鳥・ 墾田・坂田に殺げたとある。無遮大会を﹁限り なぎ拝み﹂と 訓 んで いるのは、誰彼と限りなぎ意で、僧尼庶民一際 人々の分け隔てなく行 う 供養である。歌舞をも 行 けて正月朔日というに、やはり 草 聖皇太子︵ 日 並 皇子 尊 ︶は公卿百薬の八等を率いて、濱で登夫 る 礼があり、 梵衆が (142) 6

(8)

難唯

詞を唱えるので﹁あらればしり﹂という

名称がある。あるいは後々の念仏踊りのように

する。旋回動作を主と

7

。Ⅱ らしも﹂という元明天皇︵元、草聖皇太子妃︶の 御製がある。この﹁ 楯 立つらしも﹂は武士ども が 、武備をしている ことと解して、女帝らしく軍のことを憂慮せられ ているのだとする説が有力だ。しかし、それは この歌に和し 給う た 御 妹の御名部皇女の歌︵七五︶の内容

しかし

。 その解釈すら右の憂慮に和したものと解しての @ ﹂とであるし、題詞の 製作動機など絶対的なものばかりではないーに よ るので、 釈 契沖が 、 右の即位礼の威儀の神 盾だ と 見た説の方が事実 に 即した解釈である。もし、即位 礼 には大眉 竺 エ てる行事がある、それで諒闇にその楯を伏せる 儀 があるという証が あるなら、楯状︵ 節 ︶舞の意義も据わって 釆る が 、そんな都合 よ い解釈も強いられない。日日本 書紀 ヒ では大武, 持 続紀に至ると、かかる神事・斎会の記述が多い。 仏会が一層公的に行われるに至ったからであろ ぅ 。特に喪葬に関し オホマヱ ツギ ということがある。これは物部民伝来の神事で ある。万葉集 巻 一に﹁大夫の靭の音すなり。 物

部の大臣

楯 立つ 甲 ならびに 刀 楯を持つとある如く

楯を扱 う舞 で、武人の舞歌には相違ない。持続即位四年には 物部 磨 が大眉を樹 っ 日 には皇族はじ 続 き 、最後に皇 の大きな古墳つ 諌を奏して傷み 推移したろ う 。 ところで右の め 、宮廷百官、諸蕃賓客が、 濱宮 に働 芙し、實 を 奉って楯節舞を奏することがあり、なお諸氏の 諌が 祖等 の 騰極 次第を諌 び 奉って、かく一年の仮 喪 の 儀を経て、大内 陵に 葬り奉っている。一面には 規模 まり御陵の出来る期間という事もあろう。かつ 一面には招魂の信仰を持つ 濱宮 の 兄術 としての 呆 や、 奉る 、 実は然することによって霊は安らかに 昇 天 するものと考えた。蘇生を期する招魂の観念も 自ら 楯節舞というのは、どういう舞であろう。樋代 舞 ︵天平勝宝四年大仏開眼の際︶とも 充字 してい る 。

(9)

する舞いに対して、跳躍すること、たばしる と ぃ 5 表現があるが、踏み跳ねつつ歩く動作に よ る 々の ル仲仲 かも知れぬ。 大 陸 でも民間の雑楽だと見える。日本の歌垣にも 類したので、古典においても踏歌・歌垣を混用し ているようだ。この 舞踏は行列を組んで朱雀門に訪れるといつた 、祝 福 的な正月行事で、漢人等の外来楽の模様は ム ﹁ではわかな ね 。ただ 神事舞踊として平安朝の佛を伝えるのは、熱田 神宮・住吉大社などに今も正月神事として踏歌 祭 が 行われ、熱田では コ オコン ジ 高巾子という白く高い巾子の冠をつげた役が 、宮 域内の各社の前で、催馬楽を歌って、大前の演 技 がある。どこの そ れも僅かづ つ 滑稽な 唱 詞を重んじたものだが、 武 家 時代の千秋月オも同様な祝福 芸 で、今もその 片鱗は窺えよ う 。 五節舞は文献的には古代以来のもので、名義に ついても諸説あるが、聖武大畠の十五年五月群臣 を内裏に宴したと き 、皇太子︵阿倍内親王、後の孝 謙 ・称徳天皇 ︶が、太上大畠︵元正 レ の前で、五節の舞を舞 う た際、太上天皇に 申した﹁宣命﹂に よ ると、天武天皇の御恩恵 に、 上下を斉え和らげて平安であるためには、礼と 楽 と二 つ 並べてこそ 米久に平安であろうと、この舞を造られた聖旨 を 受け継ぐために、皇太子に学ばしめた由を 、 申し上げたのに対し て 、太上天皇は天皇の聖慮を讃称し、今日の舞 をみれば、単に遊び︵音楽︶というだけではなく 、天下の人に君臣 親 子の理を教え趣 け 給ふものと答え申してをられ る 。この宣命には礼楽の儒教思想が窺われる。も つとも、日本書紀は 漢文なのだから、儒教思想があるのは当然で、 ョ机 日本・ 紀 L の宣命︵和丈として最も古ぃ文献︶に さえも儒仏の影響の 表 われた部分がある。 釈貧 の 服 器や儀式の改定も、この 聖 武紀に見え るほど、その以前からあって、仏法渡来期の物部 ・蘇我の対立は 、 政争とまでなったのだが、 歩 くも宗教としての 形態・文化は 、 末だ宗教としての体系を持たなか つた 古代信仰の上に ぬ えられた。古代信仰に著しい常世神として、 ま さに海彼岸から未り臨んだ、目もあやなる一種 の神として迎えられ た 。そのことに関してもここに私が述べるまで もない先師の卓説がある。 (144) 8 4% 。

(10)

@ 臼 @@ ト ・ @ : , @.@

添 う

山村に散在する神事芸能をはじめ、都会地

に 残存したものとしての同類には、板橋区赤塚

や 徳丸の田遊び︵

い わ

転 鰯

の神抑の展開それ自身が祭典を形成するものであ

神など仏法守護神かあるいは配下の神

ゆる田楽としては、浅草三社の棚

碇ヂ

か、

のといつてよい。且つ一方中世における

しき芸能の発生を

う ながして自らは固定して残存

している。その宗教的意

9

&

詰手、種々の音楽ならびに

くに来集

王臣諸氏五節・

大仏開眼︵七五二︶には、孝謙天皇親

文武百

官を率いて

帝大会す。その

一に元日に同じと

あるから、これ

ポ舞・楯状・踏歌・

裡袴

等の歌舞、東西に声を

発し、庭を分ちて

奏す

す所の奇

勝て記す可

からず。仏法吏

帰ょ

、斎会の儀未だ嘗て此の如く盛んなるは有ら

﹂と言

のは、あえて誇張とは思われな

かしてかくの如く

有の芸能を奏している外に、﹁東大寺要録

ヒに

、なお伎楽・散楽・唐楽をはじめ、梵音︵二百

錫伏ご

一百人︶

︵十人︶や大仏に奉る歌を歌っている。なお

当代の仏会歌謡については高野辰之氏の日日本

歌謡

L

に法華讃歎

・百万讃歎・仏足石の歌等について詳しい考証が

ある。﹁仏足石

﹂は国文学の領域でもあるが

、讃歎の佑頚の音楽

的な方面は私には判らない。大仏礼拝にも奏し

五節や田舞は

古くからの鎮魂舞踊で、五節は

前述した通りの祝福

としての

ふりだ。田舞は天智

にもあって

に行っているところから、実際の田植時に行

田の鎮魂︵円仁

霊をまぶし込める兄御︶であるものの、しか

何か固定した式楽となった感じがある。しかも

今日も伝来する田楽

,田遊びの中にも古代要素の強い芸能種目豊かな

正月の予祝神事があり、三河北設楽郡山間の各

村の

﹁花祭り﹂

・田遊びの地方塔︶それに隣接した

信州

野の﹁雪祭り﹂、﹁遠山祭り円遠州の﹁西浦田楽﹂

、ことに天寵

川に

(11)

識は薄らいでも、今では文化財としての価値を 自任している如 き 現状である。神事は一種の演劇 型態 のものたとい, え ば、 叱る人もあるかも知れぬ。しかし、それは 神 ︵神人︶が 来 臨して カ ある所作︵例えば反問︶ を 施す、あるいは 貴 く 強い神に降服した悪魔精霊の側の神が、その 降服した時の状態を演じることによって、誓約を 固め、村人の安全を 保障する。そういう祭祀型態としての古代伝承 ち い う ので、娯楽としてなり芸術としてなり、 鑑 賞するための演劇な のではない。芸能という言葉自身古くは 態芸 、 つ まり身体を用いる信仰的、儀礼的動作で、一八十一百 の 総称でもあり、 近 釆の芸能それは歌舞音楽を主とする用例とも 違 つてはいる。だか中古既に第一義の鎮魂要素が 亡 か れられ、変遷し、 次 第 に神事から離れて、見物を対 宋 とする鑑賞・ 娯楽ともなった。それは恐らく勧進能などを 起占 ,として小屋、今で えば劇場の発達となって来たものだ。それにし ても近代までは祐天赦 m を立てたり、翁や三番 央が 条件的に行われて、 神との縁は断ち切られていなかつた。今日とも なれば神の介在は迷惑に思 5 者が多いに追いない 宗教と芸能といえば、神道のみではない。なる ほど神社祭祀には雅楽の管絃が調わないまでも︵ 祭式は平安朝の儀 式 に基くから、祭祀音楽としては、当然雅楽が曲 一雄 な 占で重んじられる、太鼓笛を用いる祭式は あるし、境外の神 賑 いに至っては、近代になると、移動神座に伴って 打ち 離 す雛子に至るまで、祭礼にはなくてなら ぬもののよく ノ みは、 旦示 物的な風習とまでなり、それだけに社会環境や 時代感覚の変化によって様々な批判も起り、反省 も 促されている。 し かしその町の祭礼型態は中世から発達したもので 、 祭りには重要な要素ともなり条件でもあるが 、神社にとって は唯 一 絶対な意義を持つものでもない。ことに芸能は これまでにも消長があったよ う に、進歩してい つてもわるくはない 筈 のものだ。伝承行事は氏子が参与し、あるい は 氏子でなくては出来ない技術もあるわけだが、 生活条件が変って 釆 ると伝承性が稀薄となってゆく、現在生活文化 の 向上と社会環境の変化とは、村の芸能にも大き な 影響がある。その 文化財的価値の如何は別として、たとえば獅子 舞 の如 き 、古代に 猪 ・鹿に扮した精霊の舞の悌が 万葉集の歌にも印象 があるけれど、今日の獅子頭に よ る一般の獅子 舞は伎楽が将来して以来、田楽などの 引 きついだ 特殊な神人による 兄 (146) 10

(12)

芸能の宗教的 ; 11 て l47) 四 宗教音楽 芸能の宗教的意義と題する上は 、 実はもつと 埋め 冊 的でなくてはならぬであろう。しかし事柄は実 践面 であるし、 私 にして出来ることは、若い時、神楽などを見て 歩いて、いくらか歴史的にまとめた程度で、教義 内容となると全く 恥 しいことしか言えない。しかし、法会にも広い立 息株での芸術要素がある。第一 % 経もただ読んで 経の発声法も声楽的価値は高い仁違いない。 梵 唄 ・声明・和讃・念仏、この中には次第に下級の 僧 が衆生に及ぼした 教化の 力 の大きいものがあると思 う 。説教をく だいて、やがて 俄悔 物語や古浄瑠璃を発達させ 文 盲の民の心に染ませ て 感化した方面も、是非辿りたい方面である。 儀式としては、寺院でも教会でも音楽のない 例 があろうか。木魚の音・鉦の響 き 、読経の声々。 それだけでも音楽 的 効果がないとはいえない。キリスト教会の ナ ルガンの荘重な調べも、讃美歌の合唱。それは 正しく宗教音楽であ

議る

。仏教の梵唄とか和讃、キリスト教の讃 夷歌 は 、教理を内容とし、布教上にも重大な役割 をもつ宗教要素の強いも ので、芸能とは誰も見ないであろう。神社の方 にはそれがないとも舌口える。日本の芸能といえば 前述の ょ 5 な 信仰的 な 伝承なのだから、念仏芸の要素も影響も多い ものだが、祭祀は芸能によって行われてもいるわ けだ。だが神社音楽 といえば、誰しも雅楽を挙げる 肛 違いない。 術的 舞踊で、関東などでは近代ことに山伏的な 指導者によって流布されて、村人となるための 成 年戒的な意味も大 き かつた。そうして獅子舞に限らず、難業ともい ぅ べ き 苦しい舞踏を成し了えてはじめて一人前の 村人として認められ る 舞踊、いわゆる年齢段階に よ る通過儀礼とし ての 幼 ・ 少 ・ 青 ・ 壮 と次第に重い舞踏となる、 そ ぅ した成年戒の方法 は 三河花祭はじめ神事舞踊にはなはだ多 い 。 こ れら中世以来の民間信仰は神仏 混漬 だから、こ う い う 芸能の形態や意 義 内容は陰陽道を基礎としている。

(13)

として、加茂の臨時祭に奉納するに至り、神事 歌 として神を讃える歌舞を加えるよさになった。 もつともその種の讃 ゴ @ 軟は、奈良朝の仏足跡歌の方が早い。記紀歌謡 万葉集にも神人を祝福する寿詞的性格が見出せる 。そこに日本の芸能 の 宗教的意義があるとも舌口 えよう 。とも 角 、神 楽歌 となっては神事内容に即し、勅撰集でいえば 神祇釈教の部類、更 ら 、その宗教的意義はいうまでもないようなも のの、之も神人に伴われてくる精霊的な役が主体 をなす、宮廷楽に固 カ シ ワ サ 走 する以前の神 韻 があったとする師説を 、 私は しばしば祖述し布 街 して 来 たが、ここでは神前に お げる神秘な方面 だ げを いお う 。鎮魂祭の歌にもやや性質の似てい る 、神楽の﹁採物 歌 ﹂、之は神の兄 物 か神宝を読 みこんだもので、 歌 ウ ソビ @ 詞の内容は氏人の祭りのまどいの楽しさを内容 としたものや、神の社の御栄えを言ほぐものが 選 ばれ、あるいわ採物 の神聖な出所を歌 5 て神の祝福を期するといつ た 、いかにも神事的意義に即した歌詞なので、 こ の点、東遊びは東の クこプ @ 歌舞の意で東国の民謡を風俗︵国俗︶として 宮 廷 に奉ったものだったのが、人が楽しむことは神 も 喜び和み 給ぅ もの 久米舞は大伴 氏が 琴を弾 き 、佐伯氏は刀を持っ て 舞い 世人、邦禁 女 五人、与 韓 ︵ 漢 ︶養女舞七人の中、 五人 が童 白かれているが、 木 ﹁ 伝 釆の舞楽にはない。 雅 楽は瑳 出して、外来楽を日本化し、新作の舞楽もで き 、また , ゾグ ﹁催馬楽﹂・﹁風俗﹂・﹁倭舞﹂などが定められ た 神遊びの種類は奈良朝以前にもあったには相違 な か 成立ともい う べき、﹁内侍所の御神楽﹂は一条 朝 ︵ 十 、 即ち蜘蛛を斬るというような事の外に、要理 舞 六人。久大 舞 は著 中帯、度羅楽というような古代舞楽、 蟹後 ︵ 立琴 ︶師など 峨朝仁 明朝すなわち九世紀前半に幾多の天分 豊 かな音楽家が輩 古来の日本歌舞も外来楽器に乗せて、﹁神楽﹂ ・﹁東遊び﹂ , ろ う 。宮廷の鎮魂舞踊にしても、変転の跡は辿 れるが、最後の 世紀末︶といわれる。賢所の御前 て 奏する神事 音楽なのだか 雅楽とは俗楽雑楽淫楽に対して、正しい音律に よる典雅な音楽ということで、音楽理論を伴って いる。東洋諸国の それらが、どの程度に故国の音楽のままて行わ れていたか、肝腎の故国には残っていないという から知る由もない。 ﹁職員令﹂の雅楽寮を見ても、外来楽の種類も 、 楽師の員数も相当に多く、﹁令集解 ヒの 註には 尾張浮足 説 として、 <,1 曲 ) 山 2

(14)

尹れ壷 13 (149)

芸能の宗教的意義

能 番 修 を 信 な て 能

と芸

前進

・絃の

管師

が松 もな 宗教

や 組

羅切 唱え 仲酌 いる 、 歌 楽 も の る

た祀優の

寺とニ

すれば近い大 西 にも

ぅは

とは

固い切

いトつ

舞 お

舞の

自首

し は い に ま ら い 扱 昔 来 な

儀づ

価 た の え い 楽 の

い 礼 れ

繰構

ば な で

光信

を に な 遮 戒 能 が あ 術 仰

人 的 の ム

ヰ @ Ⅰ サま

と な つ て

{

で も

(15)

乱拍子, 八掛ひかがり ル ム井と 当 5 @ べん答弁走筆があって、延年 なるものは、僧家の芸能大会とでも命名したいく らいである。即ち 前 代の舞楽の他に、当代の趣味に合する 舞と謡 ︵ 糸倫 ・白拍子・ 相 乱拍子︶とを加え、また別に故 事 旧説を仕組んで、 称する田楽 や 、東遊びの変形があって 、 恐らく 総合的 はれる芸能が散在する。

六芸能の隆盛期

平安朝末期から発達した芸能に延年と称するも め が 年式は元文四年︵一七三九︶で、江戸中期の記 録 なが ﹁まず 寄 楽の喜春楽があり、次に振鉾・ 舞催 ・ 愈 丑室抑 --- 口 ● に 身に渡って 、 更に分離してそれぞれ独得の芸 風を備えたと 思 ある。主として奈良京都における諸大寺に行わ れた。興福寺 延 ら 、その大要がうかがえる。高野氏の日日本歌 語史 ヒを 引くと 披露の詞・開口・ 射払 ・ 間駈者 ね連事 ,。 ・Ⅰと よりヵみ 小い部 られた。山寺の立石寺は慈覚大師建立の寺と伝、 ぇ 、天王寺の楽師 林 氏が伝えたという舞楽が 、山 内の山王権現と神前 n の 根本中堂、薬師如 末 の右舞ム コ で行われる。 林 氏は河北町谷地に住むので谷地舞楽と称し、楽器 も曲目もすこぶる 簡 ⑨ 略 化していた。こうして退化の途をたどつては いるが、舞楽系統の郷土芸能となっているものが 各所に散在する。 糸 魚川 市には少年に舞えるよ う に仕立てた舞楽が 根 加山寺の日吉祭に行われる。これも 天 ムロ系のも のだ " そうして次に 述べようとする延年しても、舞楽なら舞楽だ け が 飛んで行ったものでないことを思わせる。また 神楽系統に影響を与 えたという点では、越後の弥彦神社、遠州の小 園神社、森町の山名神社に少くとも演目の上から 舞楽系統と名づくべ ぎ 神楽があり、隠岐国分寺の四天王寺 祭 に行わ れている蓮華会の蓮華 舞 には、仏の舞、眠り舞 な ど笛 ・太鼓の楽に合 せて、素朴な舞ながら、なるほど舞楽以外の楽 ではない。蘭陵王はその面によって、それとわか るものの、遠蛙楽に 至っては一名を麦 焼舞 という如く、百姓の麦 焼 ︵麦打ちの一万法︶と称する所作によって名づけ た 、それこそ百姓の = ウ 舞楽、そうなれば散楽という方が適切なくらい だ 、でもまあ舞楽の亜流だ。隠岐のような小さい 島でも﹁ 修 拝礼﹂と

(16)

芸能の宗教的意義 低級ながらも劇の構造になるもの︵ 連事 ・ 走 ︶ を 交えて演じたのである,その上、作り物をして 、これに楽を加えて 演じたり︵風流︶、あるいは滑稽の問答︵開口・ 当ム ガ ・答弁︶をしたりして、盛んに地口を弄した のである﹂といわれ ている よう に、いわば総合的にさまざまな芸能 種目を演じ並べている。平安朝の御神楽にもそ う した様相が思い浮。 へ られる。舞楽・延年は舞台を持ち、延年のそれ は能の橋懸から歌舞伎の花道へと発達してゆ・ く 。 そうしてそれは単に 舞台建築としての日本の特色だけでなく、信仰 的な意義における所作にも関するであろう。 私が見学した延年と称する芸能は、東照宮例祭 に 行われる日光輪王寺︵五月十七月︶のと、平泉 毛越寺の延年だ け である。その系統の郷土芸能は皆何ではないが 、延年と称するに足る伝来は多分この二手にお けるものだけであろ ぅ 。輪王寺の延年は、元和の古記には開口・ 延 年 ・大衆とあり、今伝つているのは大衆 舞 だとい ぅ 。大衆 律 、即ち 摩 詞 僧祇 律 による出自があるのだろうか。その方 画 こそ門外漢である。寺で頂いた解説書によると 三諦 即 一の 天 ムロ教義 を 表したもので、慈覚大師円仁が唐から将来 さ れた 秘 舞曲で、倶舎の額を唱えるところから、 倶 合舞︵または 釈起舞 ・釈氏 舞 ︶と呼ばれ、九 % すなわち僧侶たちに 教 えたものという。︵白の五条袈裟で頭部をつ つ む︶、 緋 織子の直 垂 、白の大口、太刀を背に 倣 いて、二人の舞人 が 交互に立つて舞 う 。元来は常行堂︵ 今 二荒山神 花 神門前に移された︶ の 摩多羅神の神事として、大晦日の夜から正月 セ 日の朝まで、毎日修したものという。現在は輪王 幸大本堂の三仏堂に 敷 舞台を設け、本坊から 額 衆を従えて練りいで、 舞人は二人 敷 舞台に昇り、 額衆は舞 ムロ千仏前に 伺 って列立し、声明 に 合はせて上座・下座の舞人は、一人 づつ 立つ てまづ 頭上に印を結び、さつと勢いよく右手を降 ろし、片袖の袖 先を 持ち三泰進み退く動作を繰返し、下座の一人は 中程から、黒の立烏帽子を冠り、中啓を持つて 二 一方に舞 う 。歌は昔の 倶舎と今の舞頓と多く異つている。中古行われ た 開口の詞は讃歎風な内容と思はれる。 陸中平泉毛越寺の延年は、旧暦一月二十日の摩 多羅祭りに行はれる,私は二一十年も前に見学に出 かけ、 故 北野博美㎝ 氏や本田安次 氏 と共にやや詳しい記録を作った ︵雑誌﹁民俗芸術﹂ 五ノ 三︶ 、ふ ﹁はその大略を述 へると、この祭りはは

"

一 -

(17)

- J@ 常行堂の堂内で僧侶の行 う 内陣の儀と、田遊び 系統の神事たる村人の行 う 外陣の儀とが並行して 行われる。常行堂の 本尊は宝冠阿弥陀。宝前には平安朝の饗膳みた ような美しい百味飯食が供えられ、堂の後側に 摩陀羅 神を祀って い る 。二十日夕刻からの行事は 、まづ 頭屋︵ 蘇 民宿 ︶から、願主が神 袋 ︵蘇民将来二子孫と書いた 小護 符 を一杯詰めた 網袋 ︶ を 持ち、牛王と呼ぶ赤玉の児物を先頭に、鬼子 上りの行列が 堂 内に練り込んで、 神 袋は仏前に据 えられ、かくて内陣 0% 外陣の祭りで一夜を明かすのだが、内陣の行 事は 、 ㈲常行三昧 供 2% と 次第書ぎがあり、 御本地 供 ︵毛越寺︶ 唱礼 節 ︵薬王院︶・梵唄師︵ 慈 元暁︶・ 当題師 ︵ 同 ︶・

慶題師釜

来院︶・後夜導師︵薬王院︶・ 唄 ︵ 慈 先院︶・三十二相 ︵蓬莱 院 ︶・散華︵大乗院︶・錫杖︵宝積 院 ・普賢 院 ・ 白 王院・秀文︶といつた よう に、中尊寺 よ りは 大規模な寺院とい ぅ ていただげに、一山の僧徒集まって 紋 するも ので、今でも三時間位は要し、以上の諸行事が終 つて、漸く芸能に移 る 。室内の経机仏具を取りのげた板の間そのま まを舞台とし、㈲音楽︵五常楽・ 慶 徳など︶ 、 ㈹ 祝詞︵やや演劇風な︶ 、 ケ @@ ササラ ㈲田楽︵ 笛 一人・編木三人・腰鼓三人で、曲目は粧 散 ・行道・立法・大水車・中入 返 ・小水車・鳥足など 田楽舞の典型的な陣形 を 組み、円陣の行道、二列交互の交錯など︶ 、 ㈹ 唐拍 子 ︵踏舞とも呼ぶ少童二人交々立つて跳ね舞 う 。那智 ・王子などでいえばし ててんに 当る 田楽の内の一種︶ 、 ㈹式三番︵禰宜 と若 女 との古雅の舞︶ 、 ㈹花押︵稚児の歌舞で古くから 延年 舞 によくある 曲 ︶ 、 ㈲勅使 舞 ︵毛越寺独自の曲目で、狂言風で面白い舞 があるが︶ 、 ㈹㈲の二つはいつれも当山の景観、寺 の 荘厳を讃える祝福 的なもので、それにつづいて⑰﹁留鳥﹂・﹁王母 が昔 ﹂・﹁支度 花 ﹂・﹁伯母捨 山 ﹂など、土地では 延 年節と 称する一種の 古風な能を演じる。 芸能という民俗も 、 何よりまず生きて行われて いなくてはならぬ。その生き方にも中核をなす 信 仰 的な行事が何 ょ り 大切なわけだ。三十年前私が見た格子の外の 外陣のどよもしは、坊さん等に向つての騒々しい 悪態だつた。花祭り などでも悪態や舞人への 讃め 詞はその土地では なくてはならぬ乱雑ながら不可欠の行事だ︵年占 の 観念も薄れてはい たが ︶。で、堂の梁の上などに真裸の男が寒さに ふるえながら、一夜の祈りをこめた 神袋 がどこ に 出されるかを待ち (152) 16

(18)

。頭屋は上座と下座と、その年の最年長から

童舞の﹁大地摺﹂という力足を踏む舞にっ

頭人を立てて、三紙様を安置し、広間に二間四面

﹁所体

﹂から、始まる。形態も意義も平

泉の延年に類似点か

の敷

舞台を備え、

役柄の分布図だった。けだし黒川能の村も

羽黒

神社例祭に出で仕える猿楽の部落であった

。曲目は毛越寺の延㊤

七丁

%

午節

とも

り、五流の能と同じた。たた

くいえば耳を丑するばかりの蝿の声のような単調

さに聞える。謡曲ほどの

W

認められて よい 古風な神事能である。三 % とは やはり、扇のことらしく、上座下座の頭屋が 、氏 神 ・の春日神社から 迎 える扇形の梵天で、熊野新宮にもあるし、こと に 那智の扇 輿 ︵芸能としては田楽・田遊びが伴 う ︶ と 類型的なものと 思 ねらっている。ところがその朝は降り積った 雪 の原へ神袋 が放り出されたので、青年はそこに 蝿 集 して、 揮一 っっ げ ない若者の肉体が、 神 袋を目がげて重なり合い、 ひしめぎ合い、湯気を立てている。その神 袋を 得た部落が幸福を得 るということで、宮崎宮や厳島の玉 取祭や、摂 川西大寺や尾張国府宮の裸祭りなど元々はやはり 成年戒の意味を持つ に 違いない行事が、次第に大ぎく、かつ奇祭化 して、信仰的にも変化し、厄年の男の厄落しなど と 自他ともに信じる に 至った。これらは迷信といわれても致し方な い 環境におかれる ょ 5 になったが、揮をつける 成 年式の一時的な儀礼 が 拡大誇張され、敢えて奇祭を誇ってきもした であろう。 おょ そ 競技は古くは 皆 芸能、即ち神事 芸 である。 歩射・騎射︵流鏑馬︶・競馬・競漕みな神事で あり、祭りから 離 れない為に競技とならなかつたとい, 否め 。相撲 ほ 既に神話にもあり、田遊び演技の年占であった 。それが次第に土俵 ができ、勝ち負けの法則を定めて、今のようなめ 肪技 となった。しかも競技だけのものでなく種々 芸能的要素が、纏綿 していること大方の見られる通りである。 能 といえば山形県東田川郡黒川村春日神社の正 月神事、王 祇祭 に行われる黒川能も、五流の能楽 以外の一流として

(19)

(154) 18

い る 系 ま も

か 酒 開 あ 葬

残存す

清め 座

作も、

幣 等の 持つて と名づ 強して な古代 少し老 瀕した 述べた 私はそ 鼓踊 ・ 睾 丸 踊 い 芸 て 着 い ど い つ

風踊

の中で

字を切の神事 に表わ

。そ

る 能は九 頂く機 してし のであ うに力

、そ

し 宗教的 流等で

の初

しの

たぜ

料 徒

通 は に 素 れ の 伝 と ら す よ 直 射 の の ど ナビ 度 し に る ネ中 つ で 私 信 時 、 が し て 歴 と 楽 て

色 そ 、 て は 史 こ 祈 ぅ 切 に あ

れ 美

焼 灼

願 神 技

よ る は 証 る に な が 子 に

家 濃 美

お 元 の 化

け 制 能

が る

皮 郷 始

雅 の の め 楽 芸 能 か の 能 な ら

伶団

安能

の。

たきも

て知

子 伊 い れ

孫 勢

る ぬ

だ猿

民 と ミ寒

フヒ い の 仁 和 ぅ

加 療 猿

。 ぎ ァ i 楽 は が 、 近

l

芸 江

猿楽

祭祀 能化 な し

て の

は は 楽 乏幸素 " と

仕 武 人

家 社

法 擁 寺

を 護 に

え 童 属

な け し け ナ - @

れ 再 芸

ひま ケこ 首ヒ

な 愛 者

者を

らず、

川能

今仲 集め 楽 て や 殿 、 美

(20)

し 、先力を期するなど、今日では一般的には 忘 れられて い よ う とも、まだ生きて行われている 社 もある。神懸りの 信 何 としては、中部地方の神楽、ことに石見の大 元神楽はじめ各地に見られて、蛇に象った縄を 数名で持ち舞いなが ら 、やがてその一人が神懸りして、作の占いな どが主であるけれど、重要な村のことを伺い立て たりする。隠岐神楽 の 巫女にもあって、神懸りの形式だけは残っても 傍観者が多い場合などは神懸りしない。それは 沖縄の ソ ロも、東北 のイタコ ・オカミンも同じで三十七年度上京し た ギリヤークの巫女とて、皆人に見せるために 行 ぅ ものではない意識 ほ 強いから、舞台の上ではただ形だけのもので 本当に神懸りされたら始末に困るであろう。隠岐 の神楽巫女はその舞 いに 引 ぎつづいて、立願によって赤児を抱いて の舞踊があったりする。昔は三河の花祭り︵ 申 古の神楽︶にも白山の 行事として、立願の人々が白山という作り物に 籠って 、 生れかわりの式を行った。神楽が神慮を 和めす ず しめるため の神事舞踊となったのは近代で、伊勢の代々 神 楽 代参の神楽として神人団が巡遊したもの、後に 太神楽などの影響 と 考えられているし、東京の里神楽はそうした 神 の舞が 、 能や歌舞伎の手法をとり入れて面白く見 せる為に工夫して、 黙劇として江戸末期二発達し、講社の娯楽土 も なったが、同時に神事舞大夫などの作り出した 神 話劇でもあり、悪神 退治の効果は村の安全をも保障するものと考え たに違いない、しかる信仰はまことに常識的で、 各地一群 づっ の特色 を 殊にする神楽にも通じる。 ここに神楽としては特筆したい一方面がある。 東 北 九戸地方には 墓 獅子といつて、盆などに 墓 場で 舞 う 神楽があ り 、佐渡からの報告では葬式に岩戸神楽を奏す ることがあることを知って不思議に思っていたと ころ、日向の方にも

の ﹁鉄輪﹂というのは恐らく能の﹁ れ玖絡胴 ヵナヮ ﹂ によ つ たので、亡霊の出る演劇は慰霊の意味で盆 興 行 となるので、納涼のた㈹ 心下 能芸めでなかつたことは折口先生や池田井三郎 氏の研究にもある通りである。倉林正次君は隠岐 の神楽について、特に霊㎎

(21)

Ⅰ :@. ""

. "" 。 , '""""""""""'

"""""

""" なり、﹁やすらへ 花 ﹂ ま 赤衣の疫神を送る 踊 ぅ 鏡花詞を伝えている 仏が 布教の行脚をつづ 0% 詞を唱えながら、赤いしやぐま赤い長着を 着、太鼓と 笛て噺 したてて、やはり赤いしやぐ りで、禁令の出たほど少女たちの集った盛況も あったらしい。その歌に寂蓮法師の書いたとい が 、その 雌詞が ﹁なま へ ﹂︵ ナマヘダ ︶に 変つ ている。それは一遍上人︵遊行上人︶の踊躍 念 けた、絵伝の踊りの模様を辿りながら見ても 踊 躍 による宗教的 昂興 にひたらせる凡俗への 教

も 六

『達 を 生 祭

た、 十 数 の お

「問は仮

本 古 鉄 答 供 尾 田

伏輪」

の 二

養 を 安

・ を 設 次 逓 等 「 志 げ 氏 部 の 荒 す 、 の の 曲 神 人 こ ㍉

れ霜

論 の 回 の を 月 と

性 」 釜 韓

神 れ 考 の 列 し に て

察 演

もし

都た要

劇並

びそ

「 御 合 ( 素 首 の 霊

悪 国

が も

祭 ぃ 営 あ 二 匹 」 。 隔 る 百 御 ・

ど 雑 と に 霊 「 と つ の 語 っ 多 い 」 う 仕 Ⅰ ひ 、 も 屋 後 (156)@ 20

甘コ

(22)

@@b@ イ @.@ 芸能の宗教的意義

国 雄 の う 月

という

した。

を一向 は昭 門附 の六 先年

劇 なと ら踊る 系統に 美しい ンテン

ょっ に 苦を演 価 ても してゆ

りも、

そ る っ 稲 茎 荒 世 て も は 黙 と て し 値 く 青 首 ま れ 「 一 四 も 日 界 " の 大 渕 打 " 地 高 の 葉 か た は 棚 つ 年 空 ( 宗 お か き て つ 病 蔵 く た は ら 横 文

軽 重

世 8 散 斎 多 な あ 大 気

か は

主 " 頷 ,こ ㎡ " 学 の い 旗 る 鼓 本 燕 京 " て な な の

・京に仏

厄、

仕合るわし

仏 、

打発と

-

」、)に以来

、に舞

昔辺

1

待の しむ

東 @ 一 こま りた 狂言 壕力

U

統を とし 意か てい 開せ 方 ぅ の の 鉦 宴 も は 北 、 け の あ 保 て ら る し よ 々

かはと帯を

こ一鼓ての「の

、 かそ鹿 例で「るつ国田

え漬

穿

。 。

ててたこ

める

ら " で に 鳴 世 お う 踊 ば し

阿檀

そ し " み 。 と

た見

のら

"

行ら

わしのたい等知も」のい

ったり

愛る

原家

ぅ伝歌る

承舞と舞

歌も

"

まれ

れた

れて

"

余教

宗 念

"

物種

」々

のな

たとの

体ぅし

たと

俊志

仏踊行

伎 苦

て 方 鼓 あ 仏 学 仏

と の

鋤 か

弱 味

充 踊

Z 7 一 丁 々 の し 者 か 体 型 付 種 同 い て の 字 り の 修 く の

日 た に

彩 す 態 大

様 者

は は

始 す

の 印 太 も 空 披 響 る か 海 も な か 十 王 る あ 涼 み

を 象 鼓 純 也 露 な 歌 あ

多 願 進 葉 虫

に り と こ

「に・

勧 2

銭百部入れえ

上さ与に

ょ る ) 下

放くをん県

"

持で南やつ

寺至

最 "

いと

5 も

なく

」つて

太鼓 吉祥 初 に た舞 た御 女 る を背 と称 つ 力

っ で 亡者 桑村 嵯峨 たの 後に 出雲 と お を 院 ま 踊 土 の 負 す み あ の の の て は の い ら 用 の る は 芸 踊 い る な ろ 後 出 き壬 「 巫 功 う

そよ

れい

" 連

中い斎は

と大舘り大一信

"

ぎ種仰

扮に狂れざの

生 ; 生

"

こい友穂

あ 5 5 そ だ い 念 か 「 な の 的 京 し 鬼 " 言 を や 大 ら た 。 の つ " 仏 く 段 太 太 て 部 " 釆 : て 起 か 社 し 。 各 曲 た 「 て の 物 殻 鼓 あ の 鬼 迎ヲ 、 点 ふ 造 め ま 声 打 と 鉢 あ 知 」 を 踊 り 壬 に と 壬 と か 営 る つ を ち 慰、 た つ く と 灯 り 、 至 貴 い 生 し ん の ィ言 発 廻 や う た た 極 い ち て 劇 青 め ぅ の て 」 た 仰 。 ぎ 。 あ っ な 、 的 の ら 、 は 芝 と め と

唱 て 碁 た い は 。 番 が ぅ も ガ と 貴 し 達 く 、 踊 及 21 (157)

(23)

vn のごとく、黒い覆面を垂れた亡者の躍りとも・ 落 城 のさい戦死した人の霊を慰めるのだと、説明 している聖霊が 現わ れて踊ると信じられる例も諸処にある。そうな ると 金 興行の幽霊ものに類するが、ともかく盆踊 りはお盆様を慰める ものと考えているのが常識であろう。しかし、 そんな単純な考えだけでは片付かない。 六斎会 仏 にしても、私たちはかつて山中湖畔の 千種村の六斎 衆 という行者による佐倉とも神事と もつかない病気折 禧 をみた。その記録は小寺誠吉,北野博美両氏 をはじめ六人の同好の モ で、かなり詳しい調査 記 録 を作ったつもりだ ︵雑誌﹁民俗芸術﹂ 二 ブ一 0 ︶。六斎衆も六人で組織 し 、古来正月四日を第一日として一週間の間、 道場を作り︵諸神仏 の 幣をはじめ種々の切紙で飾る︶、水垢離をとり、 人 日や 、 日の目を避けて、あら薦の上で蝕害 ロ 0 行 を 続け、祭壇には 阿 弥陀如釆を中心に 、向 つて右側に八幡神、左に 不動明王の画像を掛け、その下の床の間も、弥陀 ・不動の像を安置し を、 躍りの列に捲きこんで 村境 に送るためのも ので、旧い村の盆踊りにはそうして 村境 に送り、 B の村はまたその 踊 - ンモナイ りを受けういで、 C の部落に送るといった﹁ か げ 踊り﹂の法式のものがある。また秋田県西馬立 口内の﹁ガンゲ踊り﹂

命な

|む : ぶ| ラーなへあんな |あ ⋮ ん ぶ う | あみだー ん ぶう つ、 なむま

いだノ

Ⅰ。﹂と唱え る 。そ う いえば、 埼 玉泉春日部市武 里 というところに﹁やったり 踊 り ﹂とも﹁弥勒踊りしともい う 踊りがある。 若 者が円陣で扇をひら き 、ひどく跳躍のはげしい踊りが セ月 十五日の 真夜中に行われていた " 歌詞は南無阿弥陀仏を繰 り 返しているに過ぎ

なその旋律はなかなか美しい。これ

も関東一円に散在して、少しづつ様相を異にした 鹿島踊りの一類で、 い づれも踊躍の目立っものである。 盆踊りもやはり念仏 芸 の一種である。鎮花祭系 統 とすれば、盆の聖霊・もしくは然る時期に 釆 る 招かれざる悪霊 都の パーティの時も最後に獅子を退治する十脚 蛛 のような 糸 ︵ビニール︶をはでに用いて 愈 々 見 仕物化したと感じた が 、すでに早くから上駒なる曲名があったとこ ろからみると六斎の行き過ぎでもない。発願の詞 は ﹁発願 事 、至心 帰 (158) え 、念仏、御詠歌についで、歌舞伎の曲目とお なじ曲名が十数種挙げてあるが、どんな風に演じ たか記憶がない。京銭

(24)

祭礼の行事とて、輿も曳山も行列も、それに

伴 5

音楽舞踊も次第に神を離れて、甚しきに至って

は 観光に利用し、

中にはそれで金銭を得る手段としてきても

る 。もつとも中世の祭礼以来なんらかの神韻、

風流の珍らしい工夫など

余ヰ手ロ て 、紋付・袴の六人が着座して、﹁五方 堅め ﹂ ・﹁神奇﹂・﹁念仏﹂・﹁三拝九拝﹂・﹁兜の印 ﹂・﹁一本太刀﹂ ﹁二本太刀﹂などの舞踊的所作が行われる。病気 平癒の祈禧も仮設の病床を置いて、﹁読経﹂・﹁ 本格﹂・﹁一一本の祓﹂・﹁観音経﹂、﹁ひきと り ﹂・﹁納め﹂・﹁輿送り﹂,﹁野放し﹂、と病人 の 体に潜む病魔に する先力らしく、 鉦 ,太鼓の喧 喚 によって、 お れほど長くせ め 立てられたら、愚物などを信じな い 時代となっては 病人そのものが参ってしまうと思われる程だっ た 。大刀を用いた舞踊的所作もあるけれど、 や はり 祈禧 行事であ た 。丁度新盆で六斎衆は夜の行事として新盆の 墓場へいつて、小太鼓を音頭とし他は鉦を鳴らし て ﹁光明遍照十方 界 ﹂の四句を唱えて神寄せし、念仏となり、﹁ フツ キリ﹂という雛子があって、新仏の墓の前 へいつて 念併 を唱 る 。七十歳以上なら﹁極楽﹂、中年の者なら﹁ わ が親 ﹂、幼年の墓前には逆さ念仏ともい う ﹁を さ なご ﹂といつた 種 がある。 盆提燈 一つともる墓前のしみじみとし た 供養であった。平素 忙 山中湖畔の諸村から病気 祈 禧などに頼まれ 渡世ともしたというが、今ではどうなうたであ ろ,ヮ 。 戦後はマイクのお影で、盆踊りの輪は次第に大 ぎくなり、復活もし﹁新作もできて、盆にやるか ら 盆踊りという けのレ クレーションとなった。宗教的意義いか だ て 類 え 世 っ 、 対 一 ・ ト卜権 @@

(25)

ら 演じるほど、大体の演出法も会得 しては決して 歩 い効果でなかったと も、因果応報の教理に過ぎないとし 郷土芸能の中にも、人の為に神人 する為の踊り、それに 塞 いてそ うし 嬉び結う ものとして神前に奏し、ま の如く特殊な祈願のために行った芸 で、そのためにこそ各地様々の芸能 なってゆく観がある。 していた。そうしてそれらが村人に与えた教化 教養も、印刷も写真もない当時と 思 う 。狂言綺語とか方便とかの理に始って 、た とい、勧善懲悪の旧道徳だとして ても、それはそれで立派に、社会人心を教化す る 役割を果してきたのである。 が 行って 、 神の児術を施す為の兄 術 としての舞 、 悪魔精霊を追い払って安全を期 た 舞踊に伴 う 成年戒としての試煉、娯楽として の舞踊、人が楽しむがゆえに神も た 霊威的にそれもその生前の事を語り演じると いつたもの、また豊年祝い雨乞い 能 があって芸能といえば鑑賞の為という ょ り、 宗教的意義の方が強かったわけ が 伝承したのだが、やがて見るもの 娯 しむこの 方 に傾ぎ、今日またそれも稀薄に

"

" '"'"""

"

角の文化財もまた 僅 滅の危機に瀕するであろう。 編集部から何か寄稿してほしいというまま に、 筆 をとってみたものの、なまじ古典の遊部の意義 や 、痕跡もな い古 ⑨ 代 の 楽 舞を問題としたために、郷土芸能の方面 が 概略を記しただけで、その芸能の実際は写真で もないと不明なもの が 多いであろうし、それらがもつ宗教的意義も 述べ う くし難くなった。ただこれだけの説明でも 、芸能は芸術と違 っ て 宗教的要素の強いものであり、芸術となる 上 は 信仰と関係が稀薄となることは当り前であろう 。また芸能が宗教的 にあるいは社会的に果してぎた役割は存外に大 ぎ なものがある。﹁梁塵秘抄 し の如 き 歌謡にして も 、お 伽 草紙の如 き 小説 集 にしても、また芸能としては説経浄瑠璃 ︵古浄瑠璃︶に よ る人形芝居にしても、また義人 末節 によ る文楽人形 や 歌舞伎芝居と発達しても、神仏の霊験利生を丑 沖り演じるものがあれほどに多く、江戸末期にも なると村人たちが 自 一 """"

(26)

・⋮紅鮭

道教と修験道

し い し

さ と し

てこて

のい

古 "

とまで

いでい

えこて

" ろ

いく

古 と よ た に ぅ も る い 、 た か

時は

ぅ ぎ ど

壮者

道教は

大 き

関心思わ

現代

とを,

大 た 思想 す し

よ、。

ことが

響 る

与 験

え 道

と の

た 日 。 本 ま の の あ

怠 数 所 佳

さ と い , 」 だ @

かれら

ろ ま かお 教に対 の由を 風潮の 帰せら 狼 なも ている 内容は ナ ' @ @ し す の 然 れ の 人 、 の ぎ っ る べ ら る だ 々 ぃ 生 認 た し こ と の ま 活

て そ 馨 Ⅰ 笘

長潮装草・

う 欠 か 結 い こ に の 着 25 (161) 一、ぼ しがき

(27)

-

%

な て

れ は ま ば 遭 っ

、 教 た

と く な っ と の 無 関 た し

関 知

7%

く て 係 で を

望 を あ

も 縁

@ つ の ヌ直

験遣

の 重視

り、

て も 教 書 し 素 と 。 い の に び た 人 の る と

で あ で 。 の 考 し で え て

る に 心 一

。 ち の =

序説つて

と や て の

み な れ な

ら と

げ の ほ て 人

0 今

日 ぅ 考 の

。 え 松

に た 反 ち し 日 て 本

紐 の 縁 日 ど

こ 生 赤 り サこ

ろ 活

い " つ か に た あ か

か つ

︵ 2 ︶ 両棲 モが ふれておられるにすぎない。そこで、 両 博士の教えに導かれつつ、ここにきわめて大難 把 ながら、道教と 修 十分な資料しか持合わせていないけれども、 そ れるの限られたせまい範囲 だ げからでも、江戸時 代 の一般の人々の 宗 教 ふは 、仏教や神道によってではなく、むしろ 修験道や修験者によって左右されていたのではな いかと推測される ふ しが、多々あるのである。この ょう な重要な意 義 をもち、日本宗教史上、ことに日本庶民宗教史 上に特異な位置を占 める修験道についても、道教と同じく、その性 格や内容はまた十分には解明されていないようで ある。というのは、 道教のこのような面にとくにふかい興味をもつ 私からみれば、修験道に道教と共通する点、 くは類似する面がか なり多いのにも 拘 わらず、 従 未発表された 諸労 作 には、それらの点を明快に指摘した場合が、 お まりみあたらないか らである。 道教の日本への伝 来 については、すでに早く明 治 時代から、妻木直 良 ・小柳司気太 両 博士以下の 多くの先学が 、す ︵ ll ︶ ぐれた研究を公げにしておられる。けれども、 道教と修験道との関係については、わずかに、 宇 野 円空・小柳司気太 (162) 26

表 5 より  ノ  実  ト  こ  のを  ィ徒  践  口  入  ラ  ロ  l     つ進関  に九  り  区ウ  る 。  郡山  り  見     ン  者  十  ィ  ;  十案  万践  パ市 l 、  銭ト 率で  十る 万 。  デ  山  人  ッ  ト      )  て  る  模 宰 っ  あ  規 ル  四 ザ  は の  率 セ ン  ロ ト 人  は  あ 二 0 四 り    の ウ と 人  が と ラ ロ 、 人 、 ソ ブ 四で ・ あ  十 五五 ・  こ

参照

関連したドキュメント

The response of bodies to external stimuli is characterized by the many ways in which bodies store energy, how they release this energy that is stored, the various ways in which

— Completely integrable systems, Korteweg-de Vries equations, harmonic maps, anti-self-dual connections, twistors theory.... that, in the best cases, these non linear equations

Applying the gluing formula to the above decomposition instead of the sum theorem, we can obtain a simpler method to compute the Reidemeister torsion for the pair.. We will now

Since I is a maximal abelian ideal, the Cartan class of any nontrivial linear form is 4 or 5 and the coadjoint nontrivial orbits are of dimension 4.. Such Lie algebra is described

This difference itself shows the intentions of the stories as works of art, though they are artistically immature; Hawthorne often resorts to apparent symbolism

 Failing to provide return transportation or pay for the cost of return transportation upon the end of employment, for an employee who was not a national of the country in which

Apply only by fixed-wing or rotary aircraft equipment which has been functionally and operationally calibrated for the atmospheric conditions of the area and the

Precautions: In the event of escape of annual weeds following an early preplant, preplant surface, preplant incor- porated, or preemergence treatment of Bicep II Magnum applied alone