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。8 道教では︑中元地官のほかになお︑上元天官・ 下 も ︑すべて日本固有ととく弊風が認められる︒その 好
万水宮の二神が説かれ︑この三神をあわせて三宮大帝 適例が ︑ 私がここ数年来扱ってぎた庚申待という宗教
といつた︒三宮大帝 行事の起源に対す 蝸
る ︑一部の日本民俗学者の態度である︒その態度に対 しては︑前著﹁庚申信仰の研究1日中宗教文化交渉 史 ︐ 二において︑ や ︶ やくわしく資料をあげて︑私の考えを説明しておいた が ︑その際には︑平安時代から室町前期におよぶあい だの一般の人々の 鱗
庚申待やその信仰を明示する資料がえられなかつたた めに︑単なる推定に止まらざるをえなかつた︒ 清少坤 言 がここに︑本文
に 紹介したように 明 ミロしている以上︑文献記録には 何 らの記述がなくとも︑意外に早くから︑一般の人々の あいだでも︑宮中
や宮廷貴族たちと同様に︑中国文化を受容れて︑実行 していたとみて差支えないように思われる︒従って 庚 申得に ついても︑
意外に早く︑平安時代から行っていたかもしれないと 考えられる︒また︑右のような日本民俗学者の態度の 影響を ぅ けて︑ 宮
中の行事や習俗と︑一般の人々︑ことに農民のあいだ で 行われていたそれとはちが ぅ ととく人々がある︒ 清 少納言の言葉は ︑
それらの人々の考えが︑まったく根拠のない勝手な独 断 にすぎない由を我々に 赤 めしてくれる 鉄託 となる であろう︒おそら く ︑注意ぶかくさがしたなら ぱ ︑このような例はかな り 多くみいだされるのではないかと考えている︒たと て ば︑蜻蛉日記の
﹁五月にもなりぬ︒わが家にとまれる人の許 よ り︑おは しまさずとも︑菖蒲葺かでは ゆ ︑しからむを︑いかが せ むとはすると
はいひたり﹂の一句も︑その一例となるであろう︒ た だし︑この場合に一応注意しなければならないのは︑ ︐ @ のように中国文
化を受容れて実行していた一般の人々は︑おそらく 一 示 都の周辺あたりに限られていたのではないかという ︑地域的限定で
る ︒清少納言の言葉だけからでは︑この占ははつぎ り きせることができない︒
ほ ついては︑たとえば三教源流 捜神 大全巻 一 ︑三元 大 帝 の 策 ︑ 咳鎗叢考巻 三十五︑天地水三宮の条︑集 説詮 真の三宮の条など
を参照されたい︒拙著﹁道教と中国社会﹂一七六頁に もごく簡単な説明はしておいた︒
9 この 度 頻出伝説は︑現存の山海経にはみえないの で︑ここでは論衡 巻 二十二︑訂鬼 籍 前引のものによ つ たが︑荊楚歳時記︑
集 説話 真 ︑天牢記 巻 四などをはじめ︑多くの書にもみ えている︒くわしくは守屋美都雅音﹁校註荊楚歳時記 ﹂二七頁以下︑お
よび上原淳 道 ﹁神祭・ 詩呈は ついて﹂︵東方宗教創刊号 七五頁以下︶を参照されたい︒
皿 三尺 説 とその信仰︑およびその日本への伝来と変 遷は ついては︑拙著﹁庚申信仰﹂︐﹁庚申信仰の研究 1日中宗教文化交渉
史︐ヒ により︑また日記をはじめとする文献資料の原 文 による日本の庚申の日の行事の変遷の跡づけについ ては︑拙著﹁庚申
信仰の研究1年譜篇 | ﹂によって承知していただ き た い ︒本文でのべた三月上大税 は ︑太上三戸中経︵道蔵 第六九四冊︑ 雲笈
土筆巻八一所収︶に よ つた︒
道教と修験道
f.@ ﹁オシラさま﹂の伝承については︑今野田 輔著 ﹁ 馬娘 婚姻 譚 ﹂にくわしい 0 本文に紹介した中国の蚕 女 説話は︑捜神記︵ 道 蔵 第一一 0 六冊︶ 巻 六所 掲 のものであるが︑なお︑ 三 教 源流 捜神 大全巻 こ ︑養女の 条 ︑集 説詮其 の養女の 条 ︑歴世具 仙 林道 通 ぬ 後集 巻二 ︵道蔵第一五 0 冊 ︶養女の 条 ︑ 塘城 集帖 録 巻末︵道蔵第五六一冊︶養女の 条 ︑三個群竹鋸 巻九
︵ 道蔵第九九三冊︶
九官 仙濱 の項などにもみえている︒
は 宋史 巻 九八の礼 士ご および同書巻 一 0 二の礼 志五 には︑﹁季春日日車允秀﹂とあり︑同書巻四三一の 孔 維伝 には﹁季春事 先
蚕 ﹂とある︒ 先蚕は ︑いさまでもなく 蚕神 である︒
H 下田 積与 ﹁常世国の性格﹂ 六 ︵東方宗教第三号 セ 三頁以下︶参照︒
Ⅱなお一条兼良の玉菜 記抄 ︵文科大学史話叢書本︶ 拝賀の部の建武五年八月二十五日の条にも︑宮中で高 歩 を行った記述があ
Ⅱ歴世 真仙 林道通鑑 巻二 0 ︵道蔵第一四二冊︶壺金 0 条にひく続 篇詣 志の記述によったが︑大串 記巻五 ︑ 九月九日の項の登高 および 茉夷 嚢の条にもみえている︒なお︑この話は民 間 年中故事要言 巻六 ︑ 桓景辞 旧事の条に訳出されてい るから︑平安時代
の 宮廷貴族ばかりでなく︑江戸時代の人々のあいだで も 知られていたことは確かである︒なかには︑この話 によって % 子骨を実
㏄くわしくは拙著﹁庚申信仰の研究1日中宗教文化 交渉 史︒ 乙第六章 1 を参照されたい︒
W 都氏文集︵群書類従第九 輯 ︶ 巻 五の﹁神仙﹂と 題 する対策は︑都良香の神仙 説 に対するふかい理解を示
はのちに仙人視されている︒元亨釈書巻一八参照︒ 大 江 匡衡については︑ 江 吏部 集 ︵群書類従第九 揖 ︶参照
㎎塩尻巻五二︑同書巻五六など参照︒他の巻にもか れの道教に造詣のふかかつたことがあらわれている︒
㎎亀沢開祖神機 独妙祀師 年譜図 行格 ︵白隠和尚全集 第一巻︶宝永七年の条参照︒
㏄拙稿﹁大庄図書館厳道教資料﹂︵ ビ プリア第一四号
れ日本道教学会第八回大会における︑水田組入氏の コ長谷川延年について 1 本邦の一道教信者 ︒ L と 題す る 研究発表による︒
桟 拙稿﹁通券 楼 影印本道蔵校勘 記| 全真教関係資料 に 就いて ︒ヒ ︵東方宗教第一 0 号 ︶参照︒私はこのほ かになお︑約五十冊
分の校勘を行ったが︑その結果はまだ公表していない 恭 これらの占については︑拙著﹁庚申信仰﹂一七五 頁 以下を参照されたい︒
ぬ民衆道教については︑拙稿﹁中共の宗教政策と民 衆道教﹂︵東洋文化一一号︶︑ 同 ﹁中国民衆と民族宗教 ﹂︵天地人三号︶︑
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著 ﹁庚申信仰﹂一八 セ頁 以下などを参照︒
篆 民衆道教と中国人の生活との関係については︑ 拙 き ﹁道教と中国社会﹂の序章︑および﹁庚申信仰﹂ 一 八七頁以下参照︒
t0 功過格については︑酒井忠夫﹁功過格の研究﹂︵ 東 五宗教第二︑第三号︶参照︒
符 宇野円空 著 ﹁修験道﹂︵日本宗教大講座︶による︒ 本書は概説ではあるけれども︑修験道の研究書とし てもつともすぐれた
ものであると考えている︒
% 周書四頁︒著者は羽黒派の大先達島津伝道師︒ 昭 和 十二年刊︒
鴉 小柳司気太﹁道教と真言密教との関係を論じて 修 ぬ 道に及ぶ﹂︵東洋思想の研究所収︶に よ る︒
㎝ 拾枕 集は原本をみることがでぎず︑やむなく﹁ 羽 黒派 修験道提要﹂三六頁に掲げられている文を引用し た ︒原本は漢文で記
るされている由である︒
綴本書も原本をみることがでぎず︑大日本史料第一一 一編 ノ 五冊︑慶長十二年十二月十八日の条に掲げられ ィ ﹂いる文を引用した︒
㏄天台修験者北村 英 隆郎の 御 教示による︒
90 宝田正道﹁修験道発生の風土的背景﹂︵日本仏教 史 学二ノ四 Ⅰ 同 ﹁全室 山 信仰の伝説とその思想的展開 ﹂︵日本仏教史学二
ノ 三︶による︒
ぬ 松田寿男﹁ 続丹 生者﹂︵古代手人 ノ 一︑二号︶に ょ 笘 修験道行者勤行 集は ︑宮家 準 君の教示によって 知 つた︒
使 庚申信仰と修験道との関係につかては︑ 註 Ⅱ周書 竹戸川 安章 ﹁修験道と民俗﹂︵日本民俗学大系第八巻 ㏄長井政太郎﹁出羽三山﹂︵日本文化風土記第二巻︑
二巻︑三五 0 頁 以下︶をも参照されたい︒
四四一頁以下参照︒ ︑三四三頁以下︶による︒なお︑ 同 ﹁羽黒山の山伏﹂ 三四七頁以下︶による︒
︵日本文化風上記 第
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カント とプッダ の類似と異質
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カント とブツ ー 比較 哲 グの 類似と
学の 一 試論 | 異質
ている︒しかし︑この小論では︑それに触れる 余裕はない︒ごく常識的に︑現在の学界一般 で 承認されているもの ‑ つ 0 ︶ を ︑ブッダの遺法として ぅげ いれ︑それに ょっ て ︑その思想︵の一端︶を探究しょう︒
﹁類似﹂とは︑カントの生まれたケー ニ ヒスベル グ の街が︑現在のドイツからみれば北東の国 東 プロシャの︑その 北東に位置し︵現在はポーランドに属する | といえ よ う ︶︑ゴータマ・フッ ダ の誕生の地ルンビニー
目
日ま 3 円 が ︑現在 の インドの北東の カピうずアッ トウ 木 ap ぃ田つい ︵ dF 由 ︑本い口田守 ぺ がの日の国の︑その北東の位置にあ った ︵現在ほネパール 領 に属する︶︑ないしは︑カントは 一セ 二四年に 生まれ︑八十歳をもって一八 0 四年に世を去り︑ またブッダは︑その 南北の年代論に約一世紀の差はあるとしても︑ す へての仏伝が一致して︑八十歳にしてニルヴァ 1々 に 入られたと 伝 える︑そのようないわば偶然的な類似・共通性 を い う のではない︒また︑﹁異質﹂とは︑ ヵン トが 革具匠の子であり ︑ブッダがシャカ族の太子であった︑もしく は ︑カントがみずから ぺン をとって著述し︑ブッ ダ はただ言葉と実践
とをもって弟子を教えたという︑やはり偶然的 な 相異・異質性をい う のでは勿論ない︒ ︵ l Ⅰ︶ 次に︑カントの著述は問題ないとして︑フッ ダ の 遺法の研究には︑テクスト・クリティクの面で 多くの難問が控え
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