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ドキュメント内 『宗教研究』173号(36巻2輯) (ページ 46-51)

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六道 

あ 年法 

る十主 

こ  月宮 

と  岡家 

を  山教 

お大昔 

こと 

手師 

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わ行お  てた    

慶  お  目庇 

   散大  半学  会話 

師 

宮家 

第十二 

国幣  大石 会か  の  ら 

際御  の教 

こと  公示 

煩語 が  および  聞せ 

請  え  漬  た 

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体  貌 常 棋道 て 云 臣 亡 

     

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8  道教では︑中元地官のほかになお︑上元天官・ 下  も ︑すべて日本固有ととく弊風が認められる︒その 好 

万水宮の二神が説かれ︑この三神をあわせて三宮大帝  適例が ︑ 私がここ数年来扱ってぎた庚申待という宗教 

といつた︒三宮大帝  行事の起源に対す 蝸 

る ︑一部の日本民俗学者の態度である︒その態度に対 しては︑前著﹁庚申信仰の研究1日中宗教文化交渉 史 ︐ 二において︑ や ︶   やくわしく資料をあげて︑私の考えを説明しておいた が ︑その際には︑平安時代から室町前期におよぶあい だの一般の人々の 鱗 

庚申待やその信仰を明示する資料がえられなかつたた めに︑単なる推定に止まらざるをえなかつた︒ 清少坤 言 がここに︑本文 

に 紹介したように 明 ミロしている以上︑文献記録には 何 らの記述がなくとも︑意外に早くから︑一般の人々の あいだでも︑宮中 

や宮廷貴族たちと同様に︑中国文化を受容れて︑実行 していたとみて差支えないように思われる︒従って 庚 申得に ついても︑ 

意外に早く︑平安時代から行っていたかもしれないと 考えられる︒また︑右のような日本民俗学者の態度の 影響を ぅ けて︑ 宮 

中の行事や習俗と︑一般の人々︑ことに農民のあいだ で 行われていたそれとはちが ぅ ととく人々がある︒ 清 少納言の言葉は ︑ 

それらの人々の考えが︑まったく根拠のない勝手な独 断 にすぎない由を我々に 赤 めしてくれる 鉄託 となる であろう︒おそら  く ︑注意ぶかくさがしたなら ぱ ︑このような例はかな り 多くみいだされるのではないかと考えている︒たと て ば︑蜻蛉日記の 

﹁五月にもなりぬ︒わが家にとまれる人の許 よ り︑おは しまさずとも︑菖蒲葺かでは ゆ ︑しからむを︑いかが せ むとはすると 

はいひたり﹂の一句も︑その一例となるであろう︒ た だし︑この場合に一応注意しなければならないのは︑ ︐ @ のように中国文 

化を受容れて実行していた一般の人々は︑おそらく 一 示 都の周辺あたりに限られていたのではないかという ︑地域的限定で 

る ︒清少納言の言葉だけからでは︑この占ははつぎ り きせることができない︒ 

ほ ついては︑たとえば三教源流 捜神 大全巻 一 ︑三元 大 帝 の 策 ︑ 咳鎗叢考巻 三十五︑天地水三宮の条︑集 説詮 真の三宮の条など 

を参照されたい︒拙著﹁道教と中国社会﹂一七六頁に もごく簡単な説明はしておいた︒ 

9  この 度 頻出伝説は︑現存の山海経にはみえないの で︑ここでは論衡 巻 二十二︑訂鬼 籍 前引のものによ つ たが︑荊楚歳時記︑ 

集 説話 真 ︑天牢記 巻 四などをはじめ︑多くの書にもみ えている︒くわしくは守屋美都雅音﹁校註荊楚歳時記 ﹂二七頁以下︑お 

よび上原淳 道 ﹁神祭・ 詩呈は ついて﹂︵東方宗教創刊号 七五頁以下︶を参照されたい︒ 

皿 三尺 説 とその信仰︑およびその日本への伝来と変 遷は ついては︑拙著﹁庚申信仰﹂︐﹁庚申信仰の研究 1日中宗教文化交渉 

史︐ヒ により︑また日記をはじめとする文献資料の原 文 による日本の庚申の日の行事の変遷の跡づけについ ては︑拙著﹁庚申 

信仰の研究1年譜篇 | ﹂によって承知していただ き た い ︒本文でのべた三月上大税 は ︑太上三戸中経︵道蔵 第六九四冊︑ 雲笈 

土筆巻八一所収︶に よ つた︒ 

道教と修験道 

f.@  ﹁オシラさま﹂の伝承については︑今野田 輔著 ﹁ 馬娘 婚姻 譚 ﹂にくわしい 本文に紹介した中国の蚕 女 説話は︑捜神記︵ 道  蔵 第一一 六冊︶ 巻 六所 掲 のものであるが︑なお︑ 三 教 源流 捜神 大全巻 こ ︑養女の 条 ︑集 説詮其 の養女の 条 ︑歴世具 仙 林道 通  ぬ 後集 巻二 ︵道蔵第一五 冊 ︶養女の 条 ︑ 塘城 集帖 録 巻末︵道蔵第五六一冊︶養女の 条 ︑三個群竹鋸 巻九 

︵  道蔵第九九三冊︶ 

九官 仙濱 の項などにもみえている︒ 

は 宋史 巻 九八の礼 士ご および同書巻 一 二の礼 志五 には︑﹁季春日日車允秀﹂とあり︑同書巻四三一の 孔 維伝 には﹁季春事 先 

蚕 ﹂とある︒ 先蚕は ︑いさまでもなく 蚕神 である︒ 

H  下田 積与 ﹁常世国の性格﹂ 六 ︵東方宗教第三号 セ 三頁以下︶参照︒ 

Ⅱなお一条兼良の玉菜 記抄 ︵文科大学史話叢書本︶ 拝賀の部の建武五年八月二十五日の条にも︑宮中で高 歩 を行った記述があ 

  

Ⅱ歴世 真仙 林道通鑑 巻二 0  ︵道蔵第一四二冊︶壺金 条にひく続 篇詣 志の記述によったが︑大串 記巻五 ︑ 九月九日の項の登高  および 茉夷 嚢の条にもみえている︒なお︑この話は民 間 年中故事要言 巻六 ︑ 桓景辞 旧事の条に訳出されてい るから︑平安時代 

の 宮廷貴族ばかりでなく︑江戸時代の人々のあいだで も 知られていたことは確かである︒なかには︑この話 によって 子骨を実 

  

㏄くわしくは拙著﹁庚申信仰の研究1日中宗教文化 交渉 史︒ 乙第六章 を参照されたい︒ 

W  都氏文集︵群書類従第九 輯 ︶ 巻 五の﹁神仙﹂と 題 する対策は︑都良香の神仙 説 に対するふかい理解を示   

はのちに仙人視されている︒元亨釈書巻一八参照︒ 大 江 匡衡については︑ 江 吏部 集 ︵群書類従第九 揖 ︶参照   

㎎塩尻巻五二︑同書巻五六など参照︒他の巻にもか れの道教に造詣のふかかつたことがあらわれている︒ 

㎎亀沢開祖神機 独妙祀師 年譜図 行格 ︵白隠和尚全集 第一巻︶宝永七年の条参照︒ 

㏄拙稿﹁大庄図書館厳道教資料﹂︵ ビ プリア第一四号   

れ日本道教学会第八回大会における︑水田組入氏の コ長谷川延年について 本邦の一道教信者 ︒ と 題す る 研究発表による︒ 

桟 拙稿﹁通券 楼 影印本道蔵校勘 記| 全真教関係資料 に 就いて ︒ヒ ︵東方宗教第一 号 ︶参照︒私はこのほ かになお︑約五十冊 

    分の校勘を行ったが︑その結果はまだ公表していない       恭 これらの占については︑拙著﹁庚申信仰﹂一七五 頁 以下を参照されたい︒ 

ぬ民衆道教については︑拙稿﹁中共の宗教政策と民 衆道教﹂︵東洋文化一一号︶︑ 同 ﹁中国民衆と民族宗教 ﹂︵天地人三号︶︑ 

拙抑 

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Ⅱ 

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著 ﹁庚申信仰﹂一八 セ頁 以下などを参照︒ 

篆 民衆道教と中国人の生活との関係については︑ 拙 き ﹁道教と中国社会﹂の序章︑および﹁庚申信仰﹂ 一 八七頁以下参照︒ 

t0  功過格については︑酒井忠夫﹁功過格の研究﹂︵ 東 五宗教第二︑第三号︶参照︒ 

符 宇野円空 著 ﹁修験道﹂︵日本宗教大講座︶による︒ 本書は概説ではあるけれども︑修験道の研究書とし てもつともすぐれた 

ものであると考えている︒ 

%  周書四頁︒著者は羽黒派の大先達島津伝道師︒ 昭 和 十二年刊︒ 

鴉 小柳司気太﹁道教と真言密教との関係を論じて 修 ぬ 道に及ぶ﹂︵東洋思想の研究所収︶に よ る︒ 

㎝ 拾枕 集は原本をみることがでぎず︑やむなく﹁ 羽 黒派 修験道提要﹂三六頁に掲げられている文を引用し た ︒原本は漢文で記 

るされている由である︒ 

綴本書も原本をみることがでぎず︑大日本史料第一一 一編 ノ 五冊︑慶長十二年十二月十八日の条に掲げられ ィ ﹂いる文を引用した︒ 

㏄天台修験者北村 英 隆郎の 御 教示による︒ 

90  宝田正道﹁修験道発生の風土的背景﹂︵日本仏教 史 学二ノ四 Ⅰ 同 ﹁全室 山 信仰の伝説とその思想的展開 ﹂︵日本仏教史学二 

ノ 三︶による︒ 

ぬ 松田寿男﹁ 続丹 生者﹂︵古代手人 ノ 一︑二号︶に ょ    笘 修験道行者勤行 集は ︑宮家 準 君の教示によって 知 つた︒ 

使 庚申信仰と修験道との関係につかては︑ 註 Ⅱ周書  竹戸川 安章 ﹁修験道と民俗﹂︵日本民俗学大系第八巻  ㏄長井政太郎﹁出羽三山﹂︵日本文化風土記第二巻︑ 

二巻︑三五 頁 以下︶をも参照されたい︒ 

四四一頁以下参照︒  ︑三四三頁以下︶による︒なお︑ 同 ﹁羽黒山の山伏﹂  三四七頁以下︶による︒ 

︵日本文化風上記 第 

(184)@  48 

        

  

    

  

  

  

輔 

  

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な  ㌔ 

      

49   (185) 

カント とプッダ の類似と異質 

思  て  い  る  れ  景  岐  し  れ 

索 

  

   こ  は  か  に  な  が 

十 

標  に 

わ  わ 

と 

思 

ら 

わ 

が 

二  八  題  生  れ  れ  か  怒  気  か 

同  が  は  れ  ぶ  遮 

     

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比年 

ら 

千  世  に 

首  ら  が  ヵ 

さ  一 

     

  

、 

去た 

生  の  ス  泰  え 

  

枝 

口  代 

   比較  充 

思索にわれわの一つ 

に  とれお 

し  の  い  な とほで き  一体い 

かれの  、  な  、わ 

わ し  一切 

背多 

む  よ う 

。  か  そ 

ろ 

し化 

う 

恵 

カント  とブツ  ー  比較  哲  グの  類似と 

学の  一  試論  |  異質 

           

ている︒しかし︑この小論では︑それに触れる 余裕はない︒ごく常識的に︑現在の学界一般 で 承認されているもの ‑ つ 0 ︶ を ︑ブッダの遺法として ぅげ いれ︑それに ょっ て ︑その思想︵の一端︶を探究しょう︒ 

﹁類似﹂とは︑カントの生まれたケー ニ ヒスベル グ の街が︑現在のドイツからみれば北東の国 東 プロシャの︑その  北東に位置し︵現在はポーランドに属する | といえ よ う ︶︑ゴータマ・フッ ダ の誕生の地ルンビニー 

目 

日ま 円 が ︑現在  の インドの北東の カピうずアッ トウ 木 ap ぃ田つい ︵ dF 由 ︑本い口田守 ぺ がの日の国の︑その北東の位置にあ った ︵現在ほネパール  領 に属する︶︑ないしは︑カントは 一セ 二四年に 生まれ︑八十歳をもって一八 四年に世を去り︑ またブッダは︑その  南北の年代論に約一世紀の差はあるとしても︑ す へての仏伝が一致して︑八十歳にしてニルヴァ 1々 に 入られたと 伝  える︑そのようないわば偶然的な類似・共通性 を い う のではない︒また︑﹁異質﹂とは︑ ヵン トが 革具匠の子であ 

り ︑ブッダがシャカ族の太子であった︑もしく は ︑カントがみずから ぺン をとって著述し︑ブッ ダ はただ言葉と実践 

とをもって弟子を教えたという︑やはり偶然的 な 相異・異質性をい う のでは勿論ない︒  ︵ l Ⅰ︶ 次に︑カントの著述は問題ないとして︑フッ ダ の 遺法の研究には︑テクスト・クリティクの面で 多くの難問が控え 

る 

あ  ・  び 

  

に  さ  の 

ドキュメント内 『宗教研究』173号(36巻2輯) (ページ 46-51)

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