――目次――
1,
当麻曼荼羅外陣弥陀十三観図相の研究,津田敬武,Noritake TSUDA,pp.1-22.
2,
氏神に対する管見,魚澄惣五郎,Sōgorō UOZUMI,pp.23-29.
3,
大和小学について,特に垂加神道史上より考察せる,小林健三,Kenzō KOBAYASHI,pp.30-45.
4,
仏教公伝と太子「篤敬三宝」に到る国史的事情(下),堀一郎,Ichirō HORI,pp.46-76.
5,
佐久良東雄の還俗とその歴史的意義,市村其三郎,Kisaburō ICHIMURA,pp.77-88.
6,
ヤスパースの宗教的思想,小松摂郎,Setsurō KOMATSU,pp.89-103.
7,
義湘の行業と教学,古田紹欽,Shōkin HURUTA,pp.104-120.
8,
西蔵王統論,立花秀孝,Hidetaka TACHIBANA,pp.121-138.
9,
ヘールカについて,ジュセッペ・トゥッチ,p.144.
10,
海外雑誌論文,pp.145-146.
11.
新刊紹介,pp.146-154.
Posted in 1937
(昭和12)年
常麻豊茶雁外陣輔陀十三観閲相の研究
枠 田敬 武
弼陀十三税の閲は常肺虔茶羅の向つて右縁に措かれた口想親、水想観、賛地槻、賛樹観及郷想観にして観控所 詮十一ハ槻申わ十三観を現はしたものであぇ。以下翫控の要旨とその園想を封照して各問に硯はされた完教観念を 考察したい。 ﹁ 日 想 親 日想観は第十六観のはじめの観で西に向つて正しく坐し、nの将に渡せんとして西犬に鼓の如く懸る時思を凝 らしてその有様を観じ、その観想を深く心に鉾し、関目閉目あ時にも明かに想起して永く忘れぬやうにするので ある。 その園は葦捷希夫人が岩上に坐し、合掌して西大の太陽を邦して居る。太陽に近く黄雲、白雲、黒雲が描かれ て居るが、黄雲は噴、〓雲は貪、黒雲は療を表象するものと云ひ、三障の芸と呼ばれて居る。太陽と雲、一は光 明であり、一は無明であろ。太陽と雲は白然兇め硯壌であるが、太陽の光明によつてすべての物を見ることが出 来、それによつて精細も、智識も啓け心も清くなる。然るに芸はその光明を覆ふものであ■る。こ1に雲が太陽の 光明に封し、罪恋の讐喩として描き椚されて居るのは、暗き無明のかなたに光明の≠界のあることを未森したも 常舶母茶羅外陣弼陀十三軌固祁の研究 ごO rので、心を西方に一定せしめ口液を観することに極楽浄土の観念を導く用意として深き意義が偶せられて屠る。 〓、水 想 親 水想間は先づ清澄なる水を観じ、次に氷を親し、最後に氷の映徹せる梯を見て瑠璃を祝するのである。その瑠 璃親は非詑准の境地を祁帖像するのであるから一種の理想観である。こ1に拭かれたのは海水と湛水及凝結した堅 氷であると云ふ。海水は定散の心水、湛水は念俳、天水は来迎、地‖海に蹄するのは往生を硯はすと云ふ。葦掟希 夫人が水面及氷の而を眺めつゝ合掌せる桝を現して居る。即ちその形刑は清澄な水と透徹せる氷の輝きを如貨に 聯想して清き精神に尊びかれた有様を表象して居るのである。 三、賓 地 観 貸地観は水想翫にょつて得た瑠璃地の上に極楽浄土を観することで、瑠璃地の下は金幡によつて支へられ、その 金幡は金剛七賓などで飾られ、八方に凍がり一々の賓珠に干の光明、一々の光明に八萬四千の色があり、その光 明地下に輝き、瑠璃地に映じて恰も億千の太陽が一時に照り輝く如く、つぶさに見るべからすと云ふ。また瑠璃 地の上は黄金の縄を張り、或は七賛を以て境界を設け、一々の賓申に仕五行色の光朋があり、花の如く、月の如 く、また星の如くに見える。その光明卒中に止任して光明毒となり、そこには百賓を以て造られた†薔わ楼閣が ある。光明毒の稲遼には百億の華幡があつて無数の柴器を以て荘厳され、光明のうちから吹き来る清風に吹かれ ホ、無常、無我〃音を演説するとムふ、かく〃如く瑠璃地り光明と肝巌む戒止し、妙汗む聞きたろものはっで 、 む有様を一々明瞭ならしめ、散失せしめす、恒にこの節を観じ、且つ憶ふ者はほゞ稀紫閉む地を見たもので、八 常繭量茶羅外陣欄陀十一二軌闘利の研究 g卯β
十ほ川堤死の罪を除キー一、必す渾薗に往生するであらうと教へられて摺る。 斯く軌結に説かれたこ日華地槻を刷示するために瑠刑地、坊華輔、欒器、宮殿、菩捉樹笠井提帝人人等が描か れて居ろ。坊の左右にある二の宮殿は法身と應身で、悲と智を硯はし、買上にある宮殿のうち、下方にあるは地 大水大を現し、上方にあるは火大、風大を硯はし、この四偶の宮殿が買上にあろは智を離るゝ慈悲で念彿三昧で あると云ふ。要するに四つの宮殿が買上に描かれて居るのは、理屈を離れた理想観で天界との信仰的紺係む示し 右往に所謂智を離れた慈悲と云ふことに常る。 親控に所謂光嘉が塔の形に描かれて居るのは彿教の形祁撃上注意すべきことであろ。塔婆は繹尊の遺骸、遺物 遺跡を記念するためであつたが、それが教理化され、経此ハそのものを淡身の塔婆と呼ぶやうになつた。法隆寺の 百寓塔内に悔羅尾を納め、柄香櫨あ蓋を塔の形に硯はし、或は錫杖の頭に五輪塔を硯注すなど何れも、これと共 通の意義を有し、記念塔から法身坊へ蟄達した経過を語るものである。この貸地観の固の中心に塔む描き、その 左右に華幡を立て、更に虚客車に飛行の焚器を現し、その欒器が極楽浄土の光明から吹き来る清風にふれて苦、 峯、無常、佃⋮我の法を詮くとなすもまた、記念塔の教理化を語るものである。言葉を替へて云へば、繹尊の人況 架から費連せる思想の一端である。 四、賓 樹 観 賓樹観は瑠璃地の上にあろ賓樹の荘厳及光明を脱することであるが、間控にょろと、その賛樹は高各八†両旬 粟及葦は七賽を以て造られ、すべてが完備し、種々の光明を草する。瑠璃色は金色の光を、改埋色は紅色の光を、 常腕畳茶維外陣爛陀十三親固舶の研究 gO紺
礪砥は碑既の光を、碑礫は練眞珠の光を聾する。この他、珊瑚、琉拍の光によつて照り輝いて居る。樹上は眞網 で覆はれ、樹毎に七重の網があり、また網と網との間には五百倍の宮殿がある。その宮殿は妙筆を以て造られ、恰 も梵王の宮殿のやうである。諸天の量子その中に住み、何れも頭に五百億の賓珠で造られた理路を戴いて居る。 その光は百倍の日月が和合して一時に照り輝く如く、その有様ほつぶさに詮き難い。この理路こそは、衆賓中最 も実はしきものであ去。貿樹の列は行々相苦し、その実は菓に相接し、衆菓の聞には各種の美はしき花が咲き、 花の中には妙へなる七賓の果樹がH釆て居る。葉の大さは何れも等しく縦横各二十五由旬あり、菓毎に千の異る 色及百種の檜があつて、恰も天の理路のやうである。其の問には令色の花が火輪のやうに旋韓し、諸果を生する こと恰も帝繹天の餅の如くである。大光明化して無量の賓莞となり、障幡を以て飾られ、その中に三千大世界、 一切の俳事及十方の俳囲が硯はれて居る。かくの如き有様を見了りたろ時は、樹華真美兼を各別に観じて轟く分 明ならしめなければならぬと云ふ。 この賓樹親を固示するため緑色の瑠璃地の上に賓樹を描いて摺る。根本は金色で七本となり、上は三に別かれ その上部は各賓蓋及塔の九輪があり、頂上の突端には賀珠があ■つて光明を放って居る。賓樹は全照金色の羅網に ょって覆はれて居る。それは即ち控に所謂眞珠網である。網の上には妙筆で造られたと云ふ多数の宮殿があり、 宮殿の下には千色に彩られた菜と令色の花がある。賓樹の下には葦捉希夫人及位女が合掌して居ろ。 吾人は観繹に挽かれた蜜樹m有様を想像してへ′こn蜜樹親日固に接すろ嘩は控意を説明すろに甚㍗小十分であ ることが容易に知られるが、それは物肥と現象む勉越した恕像の世非を剛示せんとするのであろからもとより直 常腫塵芥維外陣胸陀十三敵国粕の研究 四 ガJOn
むむ絡ないのである。 三﹂軌紆に眞珠、細杜鴫輔等い璧ムが無音に有許し∵尻ろこーこを想像せし狛∵賓樹削い内容を作らんとせるに 明かに賓石に封すろ経験及信仰を基礎とせるもので、その基礎的経験から聯想して崇高な光明のせ界を想像せし めて居るのである。即ち如茸に賓石の色と光を感見することは茸際に賓石の色と光を知つて居ることが大切で固 のみによつてその荘厳を知らしめることは出奔ない。 要するに賓樹観は、極柴の荘厳で、無漏軽生の境を航すろのである。賓樹によつてその境地む表象して居るの は宗教思想畿連史上に注意すべき一の事賓を示して居る。樹枝如ち紳蔽を立て、幣、鏡、玉などをその故にかけ て紳を招き寄せて井んだことは我が石神遺にもあろことで他にも多くの例がある。かやうに樹木と賓珠を合惜し て極柴の光明荘厳を示した研に柵物崇拝思想の痕跡を見るのである。また黄金の光から諸共を生すること恰も帝 繹研の如しといへろことも、その活動の梯を固示することは出奔ないが、打出の小槌に斬するマジック円心想の絞 り込まれて居ることに注意を要するのである。 五、要 地 配 貨池観は極柴将士にある八池水の光明と華化を観じて心に妙法を聴くべきことを云ひ、その賓池及蓮華の荘厳 に裁ては翫経に次の如く説明されて屠ろ。 琉池の水は如意珠王によつて造られた七貧より成り、十川の森に別かれ、その水わ流れる渠は黄金で造られ、 渠底には種々なる色の金剛砂が敷かれて屠る。地中に江七賛で造られた六十億の蓮華があり、その形は固く周閏 常鵬皐維外陣欄陀十三粗目刺の研
茶究
五 エリJ)J帯締旦茶羅外陣禰陀十三槻闘鼎の研究 六 は何れも十二由旬、摩慮花り間を流れて蓮華を上下し、その聾微妙にして苦峯無常無我及もろもろの波羅密を演 説し、∬つ諸彿の相好を讃嘆して居る。如意珠玉から流れ川ろ微妙なる金色の光は化して百貨の包もて飾られた 鳥となる。その鳥は常によき聾で彿改修を讃美する。かくり如く執することが観控所説わ響池釈で、その意を描 いたものが賓池観の固である。 その間は長方形の池で八に霞劃され地中には、草化、岸上には四本の賓樹、池速には合掌せる革碇希を現はし て居る。この囲に於て澱も注意すべきことは聾準であろ。蓮華が地中に生えて居る有様を観じ、その華を上下す る水の聾にも苦茎無常無我、諸波洋舞の演説及諸仰の相好を讃嘆すろ聾を聡くとなす。この聯想は水の流れに生 する音を蓮華に結び付けた微妙な想像であろ。太陽の光をあびて池申に静かに嘆いて居ろ蓮華が人心に静粛なる 感化を輿へることは何人も経験すろ桝であろ。観控に如意珠の光化して鳥となり、その鳥は俳淡恰を念じて讃美 したとあるが、固にはその鳥を描き目して居ない。この鳥は池小に浮ぶ水島を聯想せしむるもので、その鳥が如 意珠玉の光から化成したといふことは、蓮他に浮遊すろ水鳥吏示教的に理想化したもので、その鳥の鳴き聾にも 彿法伶讃美の聾を把かんとすろものである。 大、賓 榛 翫 賓榛観は楼閣によつて賓地、賓樹及び賓池を楓敬すべきものと云ひ、賓榛観とその利益について翫控は次の如 く説いて居る。 凍寒博士の一人に五百億針肇隆があり、その榛㈲小には無最の緒天が大の伐契を奏し、外の脱基にに聖器が懸 ガJOg
り、恰も天の茸悼のやうである。その発祥は打たざるに肇を重し伸漢及比丘伶を念すべしと説く、この間を城し
遂げた育にはゞ極欒世外の空地蜜樹及寒地を札享も霊﹂、これむ兄たもい止無蚤億劫い極東悪業む除†、死後は
必ず浮上に生れるであらう。
さて賛榛既の矧には三棟ゐ宮殿があり、小兵の宮殿には連座とその左右に二菩薩を硯はして店る。菩薩は何れ
も立ち、一人は舞ひ、他の一人は柴を奏して軍ハニこの三の宮殿は控に桝謂五百倍の賛棲む指すものであらうが
常麻鼻英雄往には三宮殿を以て定散の樹となし三尊の養を覚らしむるためなりと云つて居ろ。二菩薩の歌舞音柴
を奏して居るのは即ち諸天の伎柴を表象したものであろ。宮殿の左右には憶が立て居るが同注に瞳は念仰なりと
解絆して居る。幡は彿前を井厳するもので一種の稽井行焉であるから、それを念俳と見るのは常然である。宮殿
の両端には菩提樹の描かれ居る場合が少くない。由来菩提樹は繹今の表象であろから、繹今の来迎と見て不都合
はあるまい。宮殿の前方には葺捷希夫人と侍女が描かれて居る。茸捉希夫人の坐して合掌せろは即ち賛榛観を成
就して無量倍劫の悪菜を除き浄土に往生すべきことを固示したものである。
要すろに菩提樹は繹尊の表象として原始彿数の時代からあり、叉蓮華は諸彿の茎座として早くより彿教事相の
重要な表象である。こゝの蓮座は恐らく極欒浄土の主食としての阿禰陀俳聖螢座を描いたものと見るべきであら
ぅ。日観、水観、貸地観、賓樹親、貸地翫の五紙を成就した後、楼閣に即して棟梁を祝するはそこに待店の背景
を得たもので、棟梁浄土を人格化せんとする宗教思想を形に硯はしたものと云ふことが出来ろであらう。言葉を
維へて云ふと、極楽の観念を硯茸に近かよらせたものである。
常腕畳茶維外陣爛陀十三樅闇相の研究 七 ゴノOJ七、華 座 翫
観経の所詮によると阿難及葦捉希夫人が蛋中に無量詩仰と観音勢至の二菩薩を斉した時葦縫希夫人は繹尊に一
の疑問を出した。自分等は鐸優の力によつて無量毒俳及二菩薩を弄することを得たが未来の衆生は如何にして阿
摘陀三尊を丼し得べきかと。この疑問に封し鐸尊は彼の俳を観せんと欲すろものは、先づ想念を起して七実地の
上に蓮華想をなすべきであると答へられた。蓮華想は即ち蓮座釈のことで蓮華と蓮喜の粁厳及光明を脱すろこと
であーる。その蓮華の某は百賓の色をたし八萬四千の脈がある。その脈は恰も天蓋の如く、一々の脈に八萬四千の
光ありてすべてが明かに見られる。畢及実の小なるものも縦横各二百五十由旬、某あ数は八萬四千、一一の実は
百倍の摩尼珠を以て飾られ、その一々の摩昆珠は干の光を放つこと恰も輝け去天某の如くであろと云ふ。
蓮華萎は繹迦枇夜伽摩尼む以て作られ八萬の令剛、野叔迎賓、梵摩尼賓、妙眞珠綱等によつて飾られて居る。そ
の要望費の上には四杜の賓暗があろ。その一々の賓幡は恰も百千馬借の須銅山の如くであろ。また障の上には貿
幌がかけられて摺るが、それは夜摩天宮のそれのやうであるJその譜幌はまた五百億の綾妙なる賓珠を以て飾られその一々の賓珠には八萬四千の光があり、また一々の光は八萬四千の興る金色を呈して屠る。一々の金色は賓
土に偏くひろがり、所々に攣化して異相を硯はし、或は金剛碁となり、或は眞珠網た作り、或は雑草の雲となり、
或はまた意のま1に.裏硯して僻事をなすと云ふ。 かくい加汁蓮華L・蓮華座を偶ヰろには一々ハ葉、︰々い珠、■々ハ尤、▲々∵宥、一々い悼む兄一ヤ∵′一恰も鏡申に自己の耐像を見るが如くすべしと詮かれて摂る。舵後にこの翫を成就したる新の功徳む述べ、こい観想を成
昔鵬塵芥羅外陣鵬陀十三観阿相の研究 /ヽ ど/〃J就したろ者は、五高値相生死の罪を滅険して必ヰ棉栗世界に生れるとある。 さて邦雄糀の糊は空地の土に蓮華座が描かれて居る。これは即ち粁に謂ふ桝わ金剛ホ、也性珠リrい他勘審ごナ牢以 て造られた蓮嘉を硯はしたものであろ。蓮輩座の上には四の賓幡が描かれて居る。それは控に洋千萬倍の須摘山 の如しとあるが、須禰山は宇宙を意味する言葉であろから、か1る小幡の間に宏大価州遼なる宇宙を表象せんとす るは全く仰数的智識に基礎づけられた観想に訴ふるものであろ。即ちそれによつて無量詩仰及無量毒仰の主宰し 給ふ世界の如何に廣大なるかを想像せしめんとするものであらう。萎座を硯はして仰の表象することは印度初代 の俳教聾術に屡々見る所で原始俳教の頚相に於て大切なる表現であつた。こ1に拭かれた連座は即ちその原始時 代の伴食の萎座に系統を引いて居るものであらうと考察されろ。蓮華座の上に賓蓋を描き更にその上に如意賓珠 を置て粁厳して居るのもまた無量藷件の光明を表象するもので控には賓珠の数を五年億と云ひ、また一個わ賓珠 に八萬四千の光があると云へるにょつてその光明の無限なることが想像されて居る。 要するにこの華座観の固は前段の連座より更に進んで阿弼陀如来の観念を人格化せんとする川音で仰身の形相 俄に近づかんとして居ろ。 八、形 像 鶴 形保税は蓮輩座上に坐せる阿摘陀如来及観音勢至の形像を感見すべきことで、観控は先づ形像偶の本質とその 必要について諸俳如来は法界身そのものであるが故に一切衆生の心想の申へ入るべしとなし、従て心に俳を想ふ 時、その心に俳の三十二相八十随形好が有すると説いて屠る。それは心が俳となるといふよりも寧ろその心即ち 常腕星茶擢外陣覇陀十三親閲相の研究 九 g〃パ
一〇
常巌塾茶澤外陣欄陀‡−観闘相の研究俳であろといふべきで、諸俳の正偏知ももと心想から生れるのであるから一心に想をこらし観怖三昧に入らねば
ならぬと説いて居る。第二には蓮華の上に坐し袷ふ金色の賓像を心想中に於て辞せよ然る時は心眼開けて極欒洋
上の七賓荘厳を明かに見ることが刑務、貸地、貸地、彗樹の行列、諸大の賓鰹、衆生の薙網などが掌巾のものを
見るやうに明かになるであらう。かくならば吏に左右に大なる蓮華を鼠、左り蓮華の上には観音草書薩、右の蓮
聾の上には勢至菩薩の坐像を感見せよと説いて居ろ。第三には阿摘陀三尊の光明については俳菩薩皆光明新政
ち、その光は金色でもろもろの賓樹を照し、一一の樹の下に三の蓮華があり、その蓮華の土に一俳二芋陸生し、
極楽国土到る虞に阿摘陀三尊のゐますことが心想小・に於て井されろことを説いて居る。第四に行者はそゐ心想巾
に光明、流水、賓樹旦碍蔦の説く妙法を聞くとある。毅後に形傑感の功徳を述べてかくて諏きたろ妙法を憶持し
て失はぎれば心想中にほゞ極架世界を見、無量億劫生死の罪を除き、硯身の中に於て念彿三昧計打たものである
と説いて居る。
さてかくの如き経意を固示するため、貸地の上に阿弼阿如来及観音勢至の坐傑申告ゐ左右に注賓幡、またその
上には天菜、二菩薩の後には菩提樹、賓地の前方には茸提希夫人と侍女が描かれて居る。巾金ゐ阿禰陀像は班背
及身後に光背を負ひ天栄の上には賓珠がある。佃左右の観音及勢至の二菩薩も光骨薮付けて居ろ。即ち光背喪珠
等にょつて阿禰陀三尊の光明が表象されて居る。阿摘陀如来は右のチを胸前にあげ掌を外にして説法の印を結ん
で居†0。これは阿禰陀如来が白から妙法む詮き給ふ囲む夫象したもぃで/一r−い前〃に昔捷希美人が合‡してHろ り笹即ち阿輌陀如来を諺仰し、その妙港を聡きつ1あ去桝を硯はしたものである。軌粧には光明、流水、水鳥た こ■J川Jすべし。﹂ とある。 常踊阜茶拝外陣弼陀十〓租パ⋮州の研究 どが何れも妙法を説くとあるが、この間像に於ては直接阿禰陀如寒が妙淡を説いて周る。それは阿禰陀仰女人格 化して現にした縦某白からかくなるべきであらう。 九、眞 身 覿 眞身翫は阿禰陀如来ゐ光明、高さ、自宅、両眼、毛孔、光背に硯はれた諸俳及阿禰陀俳の八萬四千相を祝すべ きものとなすのであろが、観控によると、阿弼陀俳の光明は夜摩天首里閻浮檀金色を百千萬催した光を有し、高 さ六十高位郵由他恒河沙由旬とある。巾旬は凡そ四十里の長さで、それを六十高位催したと云ふのであるから、 その高さは無限大と云ふべきである。眉間の白老はすべて右旋し五の須銅山のやうであると云ふ。両眼は四大海 の水のやうで満と〓に分かれて居ると云ふ。毛孔は光明を演出し、その形また須銅山の桂であると云ふ。光背は その形固く、その中に無数の化仰があり、その化仰揉また各錬敦の化菩薩を侍者として屠ろと云ふ。阿弼陀彿は 八萬四千相を有し、その一々の相もまた八萬四†の随形好を有すと云ふ。その一々の好中にまた八萬四千の光明 があり、その光明は十方≠界を偏く照し、彿を念する衆生を輌取して捨てすとある。 観控はまた眞身観の功徳を述べてかく云つて屠る。﹁心眼を以て阿摘陀俳わ身相及光明を見ろたらば十方一切 の諸彿を見ることが日1奔、念俳三昧に入り諸仰の俳身を見ると同時に諸仰の心を見ることが川凍る。諸俳の心は 大慈悲心であるが故に絶大の慈悲を以てもろもろの衆生を抽取すと説き、最後にその功徳を結んで、この親をな す者ほ往生して諸彿の前に生れ、無生忍ゐ眞理む誇悟すろことが川凍るのであるから、智者は専念燕畢.・⋮仰を軌 gJO7
常脱臭茶躍外陣摘陀十三親閲刑の研究 一二 かくの如き眞身観を同示するため、賓地の上に阿弼陀仰の坐像、その左右に二本の菩提樹、蛮地の右側には革 紐希夫人と侍者を描いて居る。阿摘陀彿は金色で丙午を胸前に持し、右の掌を外に左の掌を内に向け光背には十 二の化怖が金色で硯はされ、上部には天菜がか1つて屠る。これが眞身観の給相で、それによつて心眼む払らき 阿禰陀俳の身相及光明を観じ、更に進んで諸件の心を知り、弼陀及諾仰の限り良き慈悲に接し、遂に無生忍の眞 理を詑悟することが出来るとなすのである。 一〇、観 音 観 観音観の目的は、観音菩薩の諸相を観想して無数の桐を除き、伽墓の稿を得るためであると云ふ。今その身相 面貌、頸相、手相、足祁などについて観痙の説く桝及この間像に現されたものについて考察し、批判を加へんと m心ふ。 琴晋の身の色は紫令色、身長は八十萬倍郵由他恒河沙由句とある。全身光明を放ち、その光明の巾に正造の衆 生即ち地獄、俄鬼、畜生、人、天の諸相が硯はれて屠ると云ふ。その固にはこれに修羅を加へて六道が描かれて 居ろ。即ち右側には下から順に餓鬼、修薙、人間、左側にはまた下から順に地獄、畜生及天人が何れも雲上に描 かれて店る。 観音菩薩の額面は、閣浮償金の色をなし、眉間に竜ありて七賛の色をなし八萬四†種の光明を草し、その一々 の光明に他磋棟数の化仰視はれ、その化伸は、何れも堰敵方化菩薩を侍膚として、嘩硯自在、十方の世粗に満ち て放ると云ふ。然し陶傑にあつては、眉佃に、一部を揃いて竜を夫激するに過ぎない。報上には、肉禦があると gJりβ
いふ。肉留は繹健三十二刑の一で、梵名をushnishasi忘S打ataと云払、仰頂上の肉が隆起して暫の如くたつて ㍍ろと.ムふ〓であろ。これは内潤m上に硯はれた椎牲りル几なム小⋮㌫=〓超−H黙的衣象でわろが、り〆一れが観音像に もあるとーナで﹂とに注意すべきものがあろ。光背の小には五行わ化仰がある。その化彿は何れも五行の化菩薩を 侍者となし化苦味はまた鎌量の誇大む侍者にして居ろと云ふ。同僚に於てはその国光の左右に二俳が雲に棄て飛 んで屠る桝が描かれて居ろ。 頭上に戴ける天冠は摩佗賓を以て造られ小に一問の化仰が立ち、その高二十五山旬と云ふ。間借にも天冠及小化 仰の立像が描かれて居る。 観音菩薩の幣は紅蓮の色をなし、八十億の微妙なろ光明む穫し、その光明攣じて理路となり、そり理路の巾に 一切の荘厳が硯はれて居ると云ふ。また掌は五行倍の種々たろ蓮華の色をなし、そり指端には八萬四†の喜があ る。その喜には何れも八寓四千の色があり、その色はまた何れも八商用†の光を有し普く一切を照し衆生を引接 すると云ふ。 観音の簡及掌が蓮準の色を宥すろと云ふ思想、またその蓮華の色から捜する光明が理路と化し、或は指瑞に描 かれた書から放射すろ光明が一切の衆生を照すと云ふが如き思想は、蓮華と師聯して蟄達したマジック円心想の桝 出で、そこに原始的宗教観念が彿教にょつて人格化されたことを見るのである。 足の裏には千幅輪の相があり、足を上げた時には、五百億あ光明姦と化し又足を下した時は、金剛摩尼の華が 飛散して一切のものを覆ふと云ふ。固には右足を下して蓮華を躇で居ろ桝を描いて店る。糀青書薩の石すろその 常備阜芳∵外陣購陀十三粕川相の研究 ご/りβ
他の身桐衆好については、繹今のそれと攣りなく、只肉髪と頂相のみ〃〃ろと一﹂ひ、それを以て翫華音菩薩眞賞色 身の和し﹂なして居ろ。 この税の功徳については、もろもろの刑に遇はす、菜障を除きて無数幼生死の罪を除くと云ひ、またこの税を たす方法については、先づ肉髪を観じ、次に天冠を観じ、そわ飴の衆相もまた次第に観じ掌中のものを見るが如 く明瞭ならしむべしとあろ。 開音槻を阿傾陀仰の眞身航と封照して特に︰禁‖芋べきことは、姿態の阿摘陀如釆と興ること、及阿弼陀如来には 無き荘唐㌫あろことであモ。即ち埋琉をまとへる手を延べて衆生を導くと云へるは、阿摘陀如来の教への硯寛化 を語るものである。足む上ぐれば足下の千幅輪より光明を放ち、また足を下せば令剛摩尾の華を散らすと云ひ、 また片足を下して蓮座む踏んで居るのも、皆硯質的括動を語るもので、阿弼陀如来の不動な姿勢と封立せること に注意しなければならぬ。 一l、勢 至 翫 勢至観は、無数劫阿倍砥、生死の罪を除いて紹仰の挿妙国土に至ろために、勢至菩薩の諸相を観すべきものと なすのである。耽控の説く桝によろと、勢至菩薩あ大さは、轡青書薩と同じく、身の色は紫金色で、全身光昭右 畿し、十方国土を照し、有縁の衆生は、背これを見ることが川来ると云ふ。同僚に蛭光背の左右に五色の彩雲が 描かルて㍍1一っ二嘩絆に∴∴と、頂上り肉害は、遁世い如く、そハトに雄眈があり、申にもろちりりい光明を盛り、 そむ光明は普く俳革む現すと云ふ。またこの菩薩の天冠には五㌣の賓難があり、そn貧寒にに、各五肯の貨姦が 常麻=⋮一茶洋介陣郵陀十三動因朝の研究 g=り
ぁる。而してそ崇魚は何れも十方諸仲揮妙囲t〓相む衣揺すと・ぺふ。剛光の周囲洋二十丑山旬ありて二打五十山 何十照すしL.ムふ、U 翫既に印相のこ上一鱒説明してないが、同僚には右の千を垂れて衆生化益の椚む硯はし、左手は胸側に持し、掌 を外に向け、詮洗の印を結んで居ろ。 更に新痙によるとこm苦麗わ歩む時は、十方の世界悉く・︺劫し、到る虚に五百倍の賓筆硯はれ、そり各り肝磁 は恰も極楽≠非〃如しと云ふ。こり菩薩0坐す一つ畔は、七結わ国王時に動托し、無量鍵教ゎ阿摘陀仰の分身及 銅キ勢至病苦柾の分身皆悉く極楽岡上に軒還して賽高・に沸ち、蓮華座に坐して妙法を演説して衆生を庇すと云 、0 ト♪ 勢至菩薩は一に無妻光とも構し、その一毛孔の光㌢見ろならば即ち十方無量0諸彿わ渾妙なる光明を見たこ,こに なり、また智慧の北を以て普く一切を照し、三枚右離れて無上の力を得せしむと云ひ、よつてこの菩薩む大勢至 と糾すろと云ふ、こり閣を成就したものは、無数拗阿僧漑、生死の罪を除き諸仰の渾妙闘士に遊ぶととがⅢ来る と云ふいである。 〓﹁並‖往生軌 普往生翫は白から極欒に生れしことを祝すべきものであろと云ふ。即ち蓮華上に結跡扶坐し、そのま1花車に 閉じ込められ、その後蓮華は再び開き、その間くや己れの身は正吾色の光明に照らされて心眼開かれ、虚蛋の中に 虹彿敗苔薩の満てるむ見、斗に入ろ水わ許、鳥り鳴る調べ、樹木り風に触れて生すろ啓及諸仰の二昔馨は何れも妙法 ㌣暗色茶細井陣欄陀十三郡間舶の研究 gJJJ
一六 常脆性茶羅外陣爛陀十三観閲相の研究 ならざるなきを脱すろことであると云ふ。今岡を見るに池の小火に蓮華があり、その蓮華の上に一人の合掌せろ 菩薩が坐つて悟る。この菩薩は眈に極繋に生れしことを観ぜろにょつて菩薩形に硯はされて罵ろのである。他の 前方両側には、菩提樹があり、また上部左右には、雲に来れろ化仰が、連座上の菩薩と共に令色に輝いて居る。 他の前、に葺捉希夫人が侍者と共に合掌して居るのは、心中に棉聖≠界を見つゝある有様む描点したものであらう 〓ニ、雑 想 観 耕怨翫は阿摘陀如来わ宿願にょつて、阿弼陀如来及観音勢至二軍巌㌫形相む感見して極楽に生れ無量の草稿む 得ろことを祝すろのであると云ふ。 閉経によると阿弼陀仰山身量は無速であり、且つ神通力を有し、攣硯自在時には大身む硯はして塩基の申に・満 つ至﹂ともあ石ノ、或−はまた小身にして丈六または丈八尺たろこともあろ。故に凡夫は阿弼陀仲宿願わ力によつて のみそわ形相を見ることが〓寒、仰叫に阿弼陀如来の像を感見すろだけでも旺叢の稲がありノ、ましてその身相を悉 く翫するに於てに如何ばかり多くの草稿が得られることであこbうかと云ふ。 この翫を示した同僚む見ろに池中に三の蓮華があり、その上に阿摘陀如来、観音勢至の二菩薩が立って令色に 輝いて居る。阿弼陀三尊の立像■に十三観申こ1に至てはじめて硯揺れ、仙力本願の思想を形相の上に示して居る 十三観り閲は郁禦渾土と阿抑相加水損形州・む心恕申に軌すべき力付として拭かれてHるが、杜じめい‖想 のである。 −四、禰陀十三潤周相わ紙措的批判 軌と エリJJ
水想観は、その序幕で、極楽の登門と見るべきものである。次に賓地悦、貨樹侃、空地観、及蜜櫨細は、棉柴の 荘厳しし光明を観じ、華匪観、椚像酌、吊身酌、槻昔翫、勢#軌・に、阿摘陀仰及観音勢中山形相む執するのであろ。 普維生観は白から極実に生れたことを観じ穀後の難想観は、阿摘陀如来の宿願により、阿摘陀俳の形相を見て極 柴に往生することを観するのである。 何故に日没と水面を祝することが極柴の晋再とたつて店るかは、厩ろ興味ある問題であ一ハ︶。酉天に水せんとす ろ太陽を辞するのは東天に旭日を耕する穀も普な信仰と、相封すろ宗教風俗の一で、彿数の往生思想と特殊り関 係む持つて居る。要するに口液の現象が死後の光明と結び付きそこに往生思想が聯想されて居ろのであろ。人′止‖ 物語巻十一、後拾遺往生佃等によると平安朝時代にも天王寺の西門を極楽の東再と稀し、天王寺の西方海上に死 ぬば血ちにm陀の将士に迎へらろゝものと想ひ投身入水すろものが少くなかつたと思はれる。︵院政時代の休養 日蛛、覇窒博物館学報第川冊、三宅米#、津田敬武共著︶要するに水の清澄と氷の溶き輝きを聯想して瑠璃槻を たすは、死の彼方に光明の≠兇如ち極聖世界を望むものであるが、死そのものが、直ちに極楽≠界をもたらすも のと見るのではなく、罪業を取り除くべき必要を認め、それを図示すろために桝謂三障の雲形む描いたものと見
られろ。
譜地観の問は、瑠璃地の光明荘厳を描いて居るのであろが、その閲に於て特に注意すべきものは、光明基上の 付目坊は繹曾を記念するために爪木たものであろが、更に潮って考へろと人用が一般に死者む記念するために建て る標識に起源を有して居る。故にこの思想は‖想観及水想俄に於て、死の破方に極欒≠界の存在を求むる思想と 卑=鵬=慧や打外陣佃陀十〓軌川和の研究 gJエア寅樹観〃固は、賓樹の荘厳光明にょつて、三千大世界一切の彿事及十方諸俳の休園が観想されるとたすのであ ろが、賓樹は繹吾が菩提樹†に於てⅡ畢を成就されたことに起源を有し、更に潮れば樹木崇拝に関係あろ思想と 見られるのである。次に草地観の閲は、極欒浄土にあろ八池水の光明を描き州さんとすろのであろが、この親の 要素をなすものは、池水と地中の蓮華及如意珠王である。給川に於ては八州の蓮華を措けるに過ぎたいが、悦控 説明には重要なる意養が逸べられて居ろ。第一その池水法如意珠王の造る桝 とあろが、如意珠王とはすべての ハ 望みを叶へしめる王である。即ち浄土の八池水はあらゆる功徳ある水といふことになり、その思想のうちに原始 宗教観念の一たろマジック思想のあることが考察される。池申に現ほされた蓮華の固は紅と練に彩られて自然の 椚状を示して居るが、観控の説明にょると、七賓で造られた蓮華が六十倍あこ日ソと云ふ。而して摩侶水即ち如意珠 ‡の造った水が花聞及蓮華を上下し、その聾が苦峯無常無我及諸波羅密を演説し、且つ諸仰の相好を讃嘆すろと 云ひ、更にまた如意珠王より里つる光明は、化して鳥t′長り、俳港檜を讃美するとたす、この思想は古来面度に 於て蓮華及池水と開聯して牽達した観念が如意珠王のマジック思想と結び付き、更にそれが教理化されて苦黍無 常無我の演説ともなり、諸俳の相好む讃美する聾ともたるに至ったものと見るべきであらう。 蟄榛税の筒に、三棟わ楼閣とその中に畢座及歌舞及青紫を奏すろ二菩薩を硯はして居るいは、観控に来賓国土 m J々に丘け憶の賓櫻があり、リ√﹂小桜閤小に■に、−1−仁塞い諸人が、人い使聖を瀕してHムとあるいを岬小せんとし たも射である。この外、圃には現ほれて居たいが、軌紆に抹虚蛋に多く打楽器が懸り打たぎるに自ら鳴り、念柵 常腕鼻茶羅外陣欄陀十三取出相の研究 同一系統に屠して〓心のであろ。 エ,JJJ
念凄念比丘恰む盆くと云ふ。而してかく観じたるものは頚地賓樹及賓池を見、極欒世界な線親したも0であると 詮いて居ろ。即ちこ㍗辟意によろと蜜楼睨は楼閣にょって柚欒世軋﹁牢鱒槻すろもぃとたすぃであ∴㌫、紙軌の結 果蛭蠍喜踊躍と云ふことにたるので、二菩薩の歌ひ舞ひ且つ音楽を奏して居るのは即ちそれを表象したものであ ららノ0 華座観は蓮華の菓及蓮華基の光明を仔細に祝するのであ去が、その間は空地0上に蓮華座を置き、蓮華座の上 には賓畦があり、更にその上から天蓋が下り、天蓋の上は多くの賛珠で飾られてhや.㌔観終に説明して、そわ蓮 華の某は百賓の色をなし、八萬四千の其脈があつて、それが大昔石如く、一々の脈に八萬四†の光があり、輩及 其の小たるものも縦横各二百五十J‖l旬、其の数丘八薔四千、一々の実は百億の座再珠む以て飾られ、その賓珠が 各八寓四千の光を放ち、その金色が攣化して令剛賽とたり、眞珠網を作り、或は意のま1に攣化して彿事をたす と云ふ。この説明は要するに蓮華座に即して理想的の光明を観ぜしめんとするのであるが、その観想の契機をな すものは摩尾即ち賛珠で、各種の賓珠の光から令色の光明を想起せしめんとするもわである。日想観からこの観 に至る種々の観想も結局は光明の世界と云ふことに踪一して極柴≠外の完成に零興して摺るが、この既に至り、 特に連座牢王題として居るのは、極楽≠血あ主尊即ち阿弼陀如来を観想せしむる用意に附たもので、この事は親 控の所溌によつて明かである。 次に形像観の固は金色の阿摘陀三弦を硯はして屠るが、観控は形像観について光づ諸俳如木の茸債は、法界身 であるが故に、仰の諸相はすべて心想中にあろもので、形lこ現はれたものは、結局順のもわに渦膏ざろことを翫 常舶満L斧羅外陣禰陀十一∴楷柑相の研究 gJJぶ
破して居る。即ちこの詮は固俊も恨りのものであり、また言語によろ説明も恨のものであるが、それによつて心 想巾に眞茸のもぃが考見されることを暗示して居る。よつて蓮華の上に坐し給ふ金色の賓像を心想中に於て丼せ よ、然る時は心眼閃け、極焚浄土の荘厳がすべて明かに見られ、また阿摘陀如来の光明によつて到ろ所に阿弼陀 三尊〓ましますことも心想中に拝されると説いて居るのである。更にまた光明、流水、賓樹、鴛鳶などの説く妙 法を心想中にきくと云って居るのであろ。即ちそれ等を観じて心想中に範封無限の力を感すろに至り、はじめて 宗教的力の作用む受けるのである。 形像観の功徳については、この妙法をきゝて失はぎるものは、心想中の極柴を見たもわで、硯身このま1にし て念俳三昧に入つたものであると説いて居るのは結局極焚は自己の心中に求むべきものであることを暗示せるも のと云ひ得ろのである。故にこ1に描き出された阿弼陀三尊の同便の目的は心想中に眞茸の阿弼陀三尊の像を辞 して無限の力を感得する方便たらしむる鮎にあろのである。 眞身親柱阿弼陀如来め光明及形像を観するのであろが、観控はその光明を夜摩天宮の閣浮檀余色を百干萬倍倍 したる光なりと云ひ、そわ高さを六十萬億邪由他恒河沙由旬と云ふ。また〓竜は五の須洞山の如く、両眼は四大 海の如く、毛孔は光明を演出L、その形須弼山の如しと云って居る。かくの如く硯貴からかけ離れた阿弼陀仰の 形容は、結り心眼む以てするも、それを具象化して想像することは山木ない。従つてそれを図像に硯はさんとす ることはもとより不可能セ、それむ問.小せん1∴ユリに於ては白から平凡化せヤlろを得ないぃであろが、平凡化せ ざるを稗ない研に寛大なる混理が籠って居る。平凡化といふことは、人帰化と云ふことであろ。また常識化と云 首腕鼻碁羅外陣瑚陀十三槻問粕の研究 どJJβ
ふことである。鋼陀の形相が人剛的形相モかりセ硯はされて用るの技、即ち人冊化にょつて平凡化されて居るの であろ。要すろに人相叩であり、常識的であ∴ご﹂とに人件に紋くべからざるもいであ云。こい弔にし∵組りなき 以上眞理は極めて卑近なるものであることが知られろであらう。然しながらこの事葦は非凡なろ超人的力り存在 とその僧侶を香おすろものではたい。観控が弼陀の形傑を形容して人間の想像も及ばざろ鮎にまで偉大化して居 ろのはこの必要から生じた思想である。然しその超人的倍大た力も人m的形像を通じて見出されろことにょつて はじめて救ひの力となつて屠ろことに注話しなければたらぬ。 釈音睨の固は、観音像を箪猫に観すべきために拭かれて居る。その目的は眈に述べたやうに阿獅陀俳激≠の木 朗を現状化すろためである。賓冠を戴き理路をつけ、身遼に六道わ衿を描いて居ろのも、超自然的光明のうちに 人間的要素を加へて衆生化益の姿を硯はして屠るのであろ。 勢至観の囲も、また勢至菩薩わ俊吉叫喝に観す云ために拭かれて居ろが、観音観の場合と同様、衆生化益の姿 である。瑚上の賓瓶中に光明を赦してあらゆる俳輩を硯はすと云ふが如き、天冠の空拳に揮妙国土が硯はれ、そ の粁崩恰も極柴≠界の如しと云ふが如き、また坐する時に転弼陀観音勢至の無数の分身が寅小に現はれ、妙法む 演説して衆生を慶すと云ふが如き、何れもマジック的︷ホ教観念の著しき表現と云−にねばたらぬ。要するに弼陀の 救≠朋を硯覧化すべき目的を持って屠るのである。 普往生偶の間に合掌の菩薩が地車の蓮華腫上に坐して居るのは自ら極欒に生れ、蓮華座の上に坐して一旦は蓮 華り中に閉じ込められ、而して後再び閃かれた畔、心眼も同時に閃かれたと云ふのであるから、そこに待生思想 ㍊鵬‖∵〃抑外陣抽陀十三椒卜椚の研究 こリJ7
常就旦茶繹外陣爛陀十三泄問刑の研究 〓一 と最も密接なる復活思想があ−り、その揖宿思想は、またマジック思想と師聯して屠るのである。 雑想観の閲に阿弼陀三尊の立像が地中に描かれて屠るが、それは弼陀の宿願の力によつてのみ見ることの出来 ヰ弼陀の形相を描いたものであろと云ふのであるから、そこに他力本願の渾土‖心想が表象されて居る。 これを要するに十三偶に関する税控の所詮は超自然的及超人問的形容によつて極禦の境地と阿摘陀如来の形相 を心想申に彷彿せしめんと努めて居るのであろ。然ろにその間控の所詮を具倍化して示さんとするに常り、その 固は平凡化され、人間化されて居るのである。それと同時にその平凡化及人闘化が超自然及超人力的と密接不離 の関係にあることにょつて弼陀の救ひの力が動いて居ることを明かに認め彷るのである。 a‖甥
数百千年以来の緑樹欝蒼として翻さびませろ付々の鋸守の森の杜は、そのかみわが組先の人々が限りなき丹誠
むさゝげたところ、村人の精神生活の中心であつたばかりでなく、茸にわが古代におけ二ハ哀落成し丑の最も奪き記
念物といはねばならない。元来わが古代農相の葛連の状況雪倭名抄その他の文献にょつて現状に充て1考察すろと、大力山間の猫額大の耕地ある磨か、或は山腹から低地に移ろところ及び河谷の低地につくところにあるこ
とが明瞭にされる。それはこれらの地的位置が柴囲の生活に適したからであらう。現在に残る古き氏■両統の杜壇
もまたかゝる地形に存するものが多い。わが古代では衆落の存するところ必す紳祀が存したと思はれるのである
が、もとより悠々幾千年の歳慮を撃這つれ、その奨遽は侃れないで、或は磨滅し、或は顕著た由緒を持ちなが
ら他に合併されてしまつたものもある。
古代人が最初における生活の形態は貸圃の生活である。而も農耕の牽達につれて、定着生活が進むと先づその
領域が定められる。かくして貸間はますます血族的の結合を固め、而も各二族は特定の榊を一族が拳って崇敬し
て守護神と仰ぎ、精神的な結合の紐帯とする。氏油とは堅炭の崇敬む受ける紳の謂で、もとよりその組紳たるこ
とを必須り傑作としない。物部氏が布都御魂紳倒髭蒜とした石上両耳を崇めた如く、特種の事情にょつて一族
氏神に 閲すろ管見
K刷に闘す・ヤ廿見魚 澄 惣 五 郎
gJJ〃氏紳に銅する管見 二侃 の虫祀とするが如きことも古い時代から存してゐた。しかしこれら神々の崇敬がわが氏族制度のもつ強い俸枕に ょって氏族の守護融から、更にそれがその一族の組紳であろが如き信念をいだく様に高められて行った。またこ れらの古代における氏神の崇敬は現世からかけ離れた宗教的なも∽でなく、硯葦の生活行動の指導的意義を強く 持ってゐたので、氏紳の崇敬はその一族にとつては転封のものであつた。わが組先の人々はかくてそれぞれの一 族の氏帥を祀つてその守護を受けてゐたのであつた。それはもとよりすべてが国家的のものとして朝廷から奉幣 されたのではない。然らばこれらの或るものが如何なる過程を経て朝廷の両紙官帳に載録される様になつたか。 本朝月今に引く娃喜十一年正月六月の太政官符には、 紳祀官應レ附二官帳↓坐二山城閥宇治郡山料∵紳二座事。 右得二宮道氏入内戒少允官遺艮連等去年八月七日解鵜。 作氏紳依二意見ヰ十年三月七‖奉勅之宣旨ペ初草薮豪春秋之祭祀ペ雉レ然未レ附二官帳ぺ歳月硝久。璧請特被二天 裁叫准二於本帥り被レ附二官帳ぺ預二用度幣ぺ︵以下略︶ といつてゐることから見ると、常道氏の氏神が寛平頃には朝廷の祭祀に頂つてゐたが、なほ官帳に載せられない から、これを朗‖でたので、このことはいはゆる氏神が官柾にたる過程を物語つてゐると考へられろ。 も∴もと諸国に於ける氏神正の多くは既にのべた如く大力各氏族わ奉祀する私祀であつた。然るに皇威が板張 卜囲宣的統制が損化し丁束るしL、時代㍗粁過上共に塔辞した︰扱けト†柾上し∵光葉む得て相成㌢両ぎいょいトニ 族の由緒哀感め、排威を柑さうと埜むものが多くなつた。それ故に澱秘け歴代帝都の所在地たる大和地方の私酢 gJごr)
が骨紋に列せられる場合が多かつたであらうが、また大和についで大和と東軍な地瑠的位置を占めてゐた河内和 基地〃”諸帖で所に宜址に刊せ、h加ろも=が多くなつたこ1′−む考察せらる。 り︹い後奈良時代以後になつて藤原氏り政治的勢力の進展する頃にたると、次第に紳柾に封し国家的制度を定め る必要に迫られ、∬つ藤原氏即ち中臣氏が古来面舵奉仕の侍統を誇る一族であることの外に、自己一族の勢力の 基礎を作ることをも考慮して、強いて私祀を官祀に列格せしめたこともあるらしい。それは古語拾遺に 至二大牽牛中ぺ和布二記文ぺ面舵之簿狗無明案≠誓秩之祀未レ一制其式ぺ至二天平年中べ勘﹁蓬帥帳ぺ中臣専レ槽任 意取捨。有レ両者小祀皆列。光レ縁者大祀狗慶。 と記されてゐる様に中臣氏は紳領の猫串を行ったらしい。天平年間に始めて紳帳を助逸したといふのは、紙‖本 紀天平九年八月即寅の詔に、この年春以来天災のため打姓百官の人々が多く死亡などすろ■∽で、 北ハ尭二諸国刊能起二風雨一箪画家一石レ験沖。未レ預二幣畠一斉。悉入二供幣之例ペ とあるのを指したのである。また天平五年勘造の出雲風土記に﹁以上若干桝並木二紳紙甘云々﹂とあるのは紳名 帳にあるものを指したのであらう。もL′一より官幣に預った榊址についてわ準例の文献は続〓本紀慶士≒年二月わ 保に ﹁甲斐。信濃。越中。但鳴上位等固一十九址。始入二祈年幣吊例蒜榊冊想 と記してゐる。これらから考察すると、とにかく奈良時代にょほど湘祀の統制饗理が行はれたらしい。これも根 本的には国家の統一が締着とたつたからで、元来自然に民族的に畿達した神政が、閥家的統制†に逝かれる様に 氏紳に関する管見 飢3J
なつたものを示すものであらう。併しこ1に紳とは今‖でいふ祀名で祭神名む示してゐたい。 やがて三代葺鋒元慶元年九月二十五口の傑を見ろL・一山臣忌部両氏人を五畿七道諸国に遺して.天油地祇三†百 三十二面を祭らしめたことが記されてゐる。これは延書式紳名恢と諸紳の座敷が同じであるから娃菩式所載の紳 軒は大方元藍元年頃迄に髭つたものと思はれろ。然るに二︰代寛鋒元慶川聖二パ骨七〓の條に大和城上郡宗像紳杜 が宜祀に預ることを記し、またその後延喜十一年正月の骨箱に宇治郡山科両祀二庄を骨帳に附すとあつて、いづ も延蕃式紳名帳には宗俊油正三座、山科紳祀二座と収録されてゐろ。されば両名帳正三千首二十七座となり、五 座が増されてあるべきに、たほ元慶と同じきはその間に官祀たることを停慶したものがあつたからであらう。こ のことは巾臣・忌部内氏の勢力軍払の結兼と考へてもよい。 ほ固いたるところに鋸りまし、多くの氏人によつて奉祀された数々の紳祀の祭紳の悉くむ今にして定めること は到底円木得べくもない。もたもとわが上代に於てもその納経の祭神がいかたろ系統に蜃し、その紳名が何であ るかは、榊威いやちこたろ顕著た紳祀を除いては一般には深く考慮声れたかつたと思はれる。何となれば延喜式 碑名帳の記載の方法が既に祭両名はなく軋披のみを以てせられ、出雲風土記の記述もまた同株であろ。即ち祀披 は紳名に等しきものであつた。人1日行はれる如き神社祭神の穿驚は常時素朴な而も溌く紳威を畏敬す一ハ藤代に満 っては考へなかつたー一とであらう。後代に←、﹂つて閻民が理智的となり強ひてそれを明めようと十ノろたい、帖批を に記∴J〃−、仁明巨﹂油/ト∵つわ︸一1い、車根曾い定キて名む . 享■
聴り棋腔−∴此
定めたものが多い。されば宕俸と解せられるものとても軋ち信すべからざるも〃である。 氏神に関する符見 クノごLわが紳紙は析謂八汀萬紳で天紳地紙として敦限りなくお七した。総記の神代記0申に掲げられた紳名などは僅 かにその∵郁に過ギ王㌣∵打で浩∵∵∴∪大化政所丹前り畔代にぉいては評囲ぃ囲蓬、願主各地㍗豪放女ふ∵十.して 祭祀者−こして細事む待ったのであらうが、これらの諸族が土若すろにつれて、今まで奉仕した地方の謂融おその 一族即ちその氏の氏神と稲して奉仕すろまでに獲展したのであらう。ち、J・去りわが原始信仰にあつては数多くの 自然崇邦、その他いろいろな桝謂民族信仰が存したことは疑ふべくもない。しかもそれらがいづれも倫理的に昂 揚されてその氏の氏神、上して崇敬され更に柑紳とされるに至つたものも勘くたいので、これが両紙思加療展の上 に注意さろべき大切な鮎で、わが開民の崇高た精細を見ろべき瓢であらう。 氏紳釦ち組紳と多くは考へられてゐるが、元来租油おる成語は管見ではホ代文献には多く見,︸工いところであろ。 前葉集︵肇二︶大作坂上郎女祭神歌の註に、 右歌者。以二天上F五年冬十一月一伏二祭大伴氏紳一之時。柳作二比款一 と記しまたは維=事紀天孫本紀に博通〓=−命の裔が大和ポ上に布都大神を祭られた時 北口石上大紳篤国家亦焉氏神出パ洞焉銅 と記してゐるが、これらは明かに氏む相和といふ意味でたく、その↑族の代々奉祀ナ一つ紳の意味であらう。時代 は降るが﹁詳記﹂ぷ永二年七月十二日の條には 倖聞平家公卿十人連署、鳥目土=吐罵氏症云々井†野軒、用氏祀、帥慮有悪事歎 −1し■へ記してゐろ特程の例㍗も軸げ和られる。これは氏神を更改したのみでたく、その政治的勢力でその祀の祭 氏刷L闘守ろ育札 ごJ二I.;
祀椎まで掌ることになつたのであらうバされば氏神と云つても他の氏族が※敬してはならぬといふことはなかつ たと思はれるので、その氏以外のものでは祭祀排がないだけであらう。古代に於ける祭祀稚たるものもその擬高 の祭祀杵は氏の上たる一族の甘長者たろ作造等が宥する詳で、地方では国造、野王等がそれであつた。もとより 氏族の私事としての祭祀に過ぎないが、それが面舵帳に載録されて官祀とたろと、朝廷から幣畠を賜うて官祭が 行はれる。このことはそれだけ−族の祀命的地根の高まつたことを示すのであつた。 また氏族の移動に件ひその奉祀する氏神の動座が行はれろし、また紳婁を新に他の地方に勧請して分祀を創立 マ/ワキタル することも自然起り得ることである。例へば山城の山崎なろ柄解紳祀を﹁白二王手森来晒解神政﹂と延喜式諏名 帳に記せる如きであろ。また地方の名族の中で一族巾ゐ戎者が朝廷に仕へ、官僚となつて常に都に居住するもの には、氏紳祭に賜暇を得て、その本貴地に蹄るゎが普通であつ糞。晋ヰ七年十二月三日の太政官符︵類撃二代格︶ 燃レ禁三止五位以上及孫王鞭山二畿内一事︵中略︶ 又諸人氏耐多准三並内刊毎年二月四月十一月何健二先祖之常一璧若有二申請哀直下二官宣ペ如レ此之新往還有レ程。 不レ柑二任レ意留連控レ日学彗共逮趣者鋒レ名言上。率l逮勅罪瑚 寛平七年十二月三日 とあつて正人化以上及び孫王が谷島に畿内を去ることを禁ぜられたが、た祀以東ハ祭祀であムから托席葉上際し、 な聖汀、川H、十∵〃には〓数を制限して地方に帰るこし一一を許されてゐ▼㌔こmことは一伽叫廷わ行†む僚わ 氏紳に関する管見 ごJβJ
氏神は多く放内にあることを示したもので、幾内諾飼の氏神祭に常に蹄閲したものの多いことが知られる。撃族
京都附近に移住した場合は、その居什地附近に氏神壮を創建した←あ上∴二﹂とは、大和に本荘を石する大作氏が
承和五年正月山城に於いて作氏神祀を葛野郡上林卿に創始したことによつて推察し得ろ。
元来社名なるものは、地名から田たか、乃至は氏族名から出たものであるか、何れがその起源をなすものであ
るかその前後は明かでない。常識的にはある氏族の住居地滞に民族名が地名として附せられることが最も多い。
マス 随つて社名は氏族名であり、同時にその地名である場合が多い。例へば紳祀名に多く﹁何々坐何々神社﹂と記さ
れてゐるのを認めるが、﹁坐﹂は多く地名を示してゐる。而もそれは後世次第に略されて畢に地名のみを冠して
社名とする様になる。例へば大和郡で和珂坐赤坂此石神祀を単に和珂紳祀と稀するが如きであらう。
氏刷に翻する管見 g/g占∵
大和小撃とはいかなる苔であるか。
いふまでもなく本書は垂加神道の関税山崎垂加易の編逃せる日本人の立場より検討・叙述せる小学を稲するも
のであつて、高給元年戊戊垂加翁四十一哉の時の作に係る。一巻五冊よりなり、特に恨名を用ひて童蒙の謹むに
容易ならしめてゐるのは、注意すべきである。尾崎誰嘉む群書一党に、本書を解題して﹁朱子小撃篇目のうち立
教明倫敬身の三門む立て教訓を施す事探切なり、此菩は闇斎五十一哉の時江府にあそぴて加藤君の勧めにょりて
作れり、神道儒教を尭ぬたる誰どもあ・り、﹂ と見える。辻原元甫の大和小畢︵六巻︶は朱子の小畢をかなに直したもので、垂加翁の大和小学とか意自ら別
さて小学に就ていへば、垂加箭にはこの外に、山崎嘉鮎倭板小学︵二冊︶があり、本書は朱子の小単に鮎を附 したもぃで酢生り講習川として版行ドル〃ものであー㌔この外に文分筆錐一に小囁m叫日を収めてあり、努川小 ノノハ十ハ﹂一“ワ 畢の研究紘を述べて、﹁小撃只以−束子香木︼譲レ之足焉、諸豪読解勿レ用地、諸家彼撃−於此由布Ⅴ之、句読姓也、大利小単に裁て
大和小学に裁て
i特ほ垂加細道史上よろ考察せる −
林 健 三
三〇 gJどβ︰一..︰=..︰....エス 然共除二本託完具二忌悍↓之甚英、寡言日加一癖準便慣二此道撃敬二小畢一者伽レ此而可出、諸家不レ得二此意↓故於.・題 郡之朝一牧三文言之本準於ニ∬数ケし槻入:中庸之骨旬↓小千川丑憺レ之哉、某氏於∴い夏條三根論詰園外之説衰氏踏∴ 襲英才老−譲二公明軍不レ知二蒐輯之意屯速夫﹂といつてゐるのは、注目すべきである。而して文中にしば/\﹁嘉
謂此空港之本意、小学之耳意地﹂と見え、小学研究の態度を察知するに足らしめてゐる。而して家の根本道徳であ
ヲトモクソンハアルクラ る孝を説いては﹁菅腰底レ濠天下撃不是底父母∵是拘幽操之意、不レ見真有ホ是寧是父不レ父子不レ乎︼以不睾 子
之慧㍍琵楚抑慈﹂といひ、単に志す者の態度妄哀しては、
﹁語類十三日、学者草常■亘志士不意空港撃苧念則道義裏面計二較死生乏心軽芙、況衣食ハ至微末事不レ得
シヤ
未二必死1亦何州二犯違犯レ分役レ心役レ志営皆以水芸耶、某撃今人由レ不レ能レ撃東野而至敷撃共本心哀衆実、吋レ不レ戒哉﹂
と一大痛棒を加へ、叉自己の照験より〓家の功罪を論じ、﹁Ht家ハ則父之罪人、何祭レ之、但父所レ許者亦白布二不レ得 ソ レ巳者簸、而祭レ之則川嘉撃欺︵八十四丁右︶﹂といつてゐる如き、いづれも垂加翁の小単に封する烈々たる求道 の精神を感ぜしめるものがあるJこの外に小学豪養葉︵三冊︶がある。本書亦小撃の註解書たる地位にあつて、大 挙秤教条︵七冊︶と並んで問斬撃の骨防を覗ふに足るもので、両者を合して豪養啓襲集として畢行木として刊行されてゐる。而して小学豪養集の序は、又小学に封する垂加易の思想を知るに良き資料である〇
ニコトキハJキ ﹁易日、豪以蕃正聖功也、苫之名共取二諸此↓羞聖誠両巳英、幼子常鋭レ帝レ誼則是養之正作レ安之功也、受渡数 ・ン一7靡豪蕃不レ正、衷世之仙若二孟母衰一程母︼乃能得姦レ子之道↓夫壁間レ念作レ狂、狂克念作レ里、雄二孟子桂子之
大和小単に就て ∴リgJ質尭l泰之正嬰之力壷充二亜聖之才孟昔誓名世之任一哉云々﹂ 即ち豪養の本義は正しき遺を示すことであえ。いかに豊富なる天賦の才を以てしても、正道を進ますしてその人 格の完成を期することは出来ぬ、小撃とは畢術の基本になるもので、必ずこの道を通りてのち、大挙に進まなけ ればならぬ、故に﹁人之有レ道﹂ ︵文骨筆鋒一︶を垂加翁解して日く、 ﹁人ハ父子君臣夫婦長幼朋友、道ハ規義別序信、布ハ国有地﹂ と、簡約の申に深奥の道理を説き、宇宙わ眞理を道破して亦飯詰なしといふべきである。 以上、垂加瓜朋の小学に封する論著を見てくると、小串に特に力む注がれた開所撃の学風を察知することが出来 るが、茸に小学は闇帝撃の入門であ少、又正撃への大切なる開門であつたといふことが出来るのである。垂加翁 の畢朝の塾生に封する講義は、豪語にょれば、明暦元年︵三十八才︶の春であるが、開講の順序は、 先小畢、次近思鋒、次四書、攻周易程倖 であつて、小学を虞先に講ぜられ、しかもこの年は、垂加翁承應二年十二月に鴨脚氏と結婚してのち二年であり この年には﹁敬蔚旗分柱附錬﹂なり﹁序伊頻大神宮儀式﹂が旧来てゐるのである。而してこの豊年明暦二年には ﹁孝控外俸﹂出来、黎三年には﹁倭鑑﹂を執筆せんとして藤森に詣でたが、その翌年が萬冶元年であつて、大和 小挙が〓釆てゐる。学問他なし、孝と忠と、と詠じられた思想の進展は、そのつぎノ1に刊行された著述の上に かざヤかにあらはれてゐるといふことが出来るのである。 然らば大和小畢は、その編纂の動横は如何であり、その内容はいかなるもむであるか。 大和小撃に就て βJどぶ
こ 先づ本#甘作い動機た見よう。序に ﹁世の人のたはぶれ、往てかへる道しらすなりぬるは、源氏伊勢物語あればにや、げむじは男女のいましめにつ くれりといふ、たはぶれていましめんとや、いとあやし、︰⋮つちのえいぬのとし、あづまにあそび、藤のな ヽ︳ヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽ にがしのもとにて、かの物語をそしりければ、うれしくもいひつとほ1ゑみて、小畢こそ人のさまなれば、男 のみならはんかは、されどまなしらぬ女はよみがたかるべし、そのさまをかなにやはらげよとて、しゐられに ける、睾ゐちからもなく、ふくろにひとまきをもたづさへねど、いさ1か立教・明倫・撒身の日をたて\や まとこまもろこしの事を、おもひ出るにまかせて書付侍る、﹂ とあり、之にょれば高給元年東遊して加藤美作守奉養の邸にあり、加藤氏の懇望によつて大和小畢を著作したの であるが、﹁ふくろに一巻をも携へぬど﹂とあるを見れば、一巻の文書をも見すしてこの大作を成就したと考へ られ、垂加翁の博識を覗ふに足りるのである。加藤奉養は伊像の大洲城主であつて、垂加翁は、加藤氏のため加 藤家倖をかき、加藤家蔵諭孟に放をかいてゐることが垂加文隼、垂加筆全集に見えてゐる。 次に本書の組織を見る。 いふまでもなく本書は、朱子の小学に倣って、その意を口本譜にてヤ易に解説し、立教節∴明倫琴一、敬身 琴二聖順序で、葦例をやまと、こま、もろこしにとつてかいたものである。小学題群を解して次のやうに述べて ゐられる。 大利小費に就て 2Jgク
﹁五行めぐり、四時をこなはれて、かくたがいなくやまざる、これぞ誠の天の命なり、元手利島は天道之常と云 るも、一のまことの四に分る1をさしてたん、人物の性あるは、かの命をうけてなり、此性をわきて仁義膣智 といふ、仁は元を得、紹は亨を得、義は利を得、智は貪を得たるものなり、人物をのづからその性にしたがひ それ′ヾにおちくあるを道といふ、古の里人、このみちをしな′〃1にほどよくして教をたて給ふ、孔子の六 控は、かはる′付\おこりたまひしひじりのをしへをあつめなして、ながくのちの≠にたれたまふ、口月と同き 鏡なるべし。﹂ いかにもよく小学題辞の意をうつしたものであると思はれるが、しかし本書の見るべきは小学の直繹でなく、 飽くまで日本人としての立場から取給した小撃の数である。然らば、日本人として朱子の小牒を取捨するところ ある、とは何を指すのであ■るか。 こ1に至つて我等は、吉川松陰の武教論鋒の卓説を兜づ引用して考へたいと恩ふ。武教講鋒は吉田松陰が先師 と仰いだ山鹿素行の武教小学の詩童であつて、安政三年の講述に係り、枚陰の著述の上にも柿めて重要なる地位 を占むるものであるが、別目して見るべきは武教小撃序の講義である。円く、 ﹁此序ノ大主意ヲ能々香込給へ、丑ニテ士道モ閣僚モ其梗柴ヲ得へシ。 先ツ士道卜云ハ無稽無法粗暴狂惇ノ偏武ニテモ済マス記誹詞童浮華文ゑノ偏文ニチモ臍マス、眞武眞文ヲ畢ヒ 身ヲ修メ、心ヲ正ソシテ囲プ清メベトヲ半ニスルコト是上道也、囲潤ト.ムハ刷州へ両川′潤アリ、異囲へ桂岡 ノ閻アリ、輿覇ノ寄ヲ諌メハ兎角典開ノ事′ミヲ華卜恩ヒ、我囲ヲハ却テ躇ミテ典岡ヲ漠ム桟三成行クコト畢 大和小華に就て クJ.‘り
︳︳︳︳ヽヽ︳ヽヽ●ヽ︳ヽ︳t︳︳ヽヽ︳︳ 者ノ油息一−テ是紳州ノ債ハ興国ノ憾卜典ナル繹ヲ知ラヌ故也、故三嶋奄ノ小畢ニテ前工云士道ハ大底知レタレ ヽ ヽ − − 、 ヽ 、 − ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ − ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ︳ ヽ ヽ ヽ − ヽ ヽ ヽ ︳ ︳ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ トモ是ハ唐人ノ作りクル苔ユへ囲膿ヲ鞘ゼズシテ遽カニ譲ムトキハ同シク異閥ヲ長ミ我囲惜ヲ失フ棟二戒壇ク 、 、 、 、 − − 、 ヽ I ヽ 、 、 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ コトヲ免カレサルヲ先師深ク慮り給フ是武教小撃ヲ作ル所以也是ヲ以テ開催ヲ考フベシ。 斑其士道囲饉︵甚切要ノ事ナレバ、幼年ノ時ヨリ心掛サセ、工夫サスヘキコト是小拳ノ本意≡ア詰り得士仁人 卜成ル様ニトノ数誠ナウ、是此序ノ大意郎チ此書ノ大意也﹂ 即ち晦奄の小撃にて士道の大要はわかるが、しかし開催が差ふを以て、どうしても日本の武士道の規範を示し た武教小畢を作る必要があつた。而して之が山鹿素行の本意であ少、是を以て我が国硯を考ふべしとされた、と いふのである。こ1に於てか思ふ、一は武士道の肝心たる蓑利の排‡り進んで最奥の我国牌の根本に入り、ノは 忠孝の根本道徳よ少進んで、それが途に忠の一字に踪する神国日本の圃膿の本義を以て眼目とした事を。踏み分 ける道は文武の二面ながら、その究局に於いては■途に囲饉を擁護する一鮎に畢向の目標を置いたのである。この 故に、大和小撃と武教小撃とは、日本の小学を代表する蟹璧と稀ふべきであらう。 然らば何を以てかく断言することが出来るであらうか。吾人は次項に於いて大和小撃の本質につき叙述しなけ ればならぬ。 三 大和小撃の本質は、立教第一と明倫第二にあざやかにあらはれてゐる。立教とは、正しからざるものを排撃し て家の教とする孝の思想をのべたもので、全濃の趣旨に至っては、垂加翁の庭女作﹁闇異﹂と同一の精神に立つ 大川小脛に就∪ βJ3J