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真宗研究15号 003山﨑龍明「真宗名号論――その論理的構造――」

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Academic year: 2021

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ー そ の 論 理 性 に つ い て

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比 百 固 ま 日 ︵ 本 願 寺

派 '-' 一 般 に 名 号 八 口 問 自 由 仏

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白 ﹀ と い え ば 、 仏 、 ① である。したがって薬師如来の名号、阿弥陀如来の名号、 菩 瞳 の 称 号 を 指 し 、 同時に所称の法を意味するものであることは周知 という諸種の名号が存ずることも言を侯たない。 さ て 、 真 宗 教 義 、 つまり親驚の教学において、名号がその核心をなしている、 と規定することには誰しも異論はな いであろう。とすると、真宗における救済の論理を攻究するということは、名号を論理的に解明することでもあると い え よ う 。 しかしこの場合の論理とは、形式論理を指すのではなく、仏教独自の論理であることを確認しておかなけ l t J ま £ う 工 、 。 ’ 才 ’ IfFJJ このことを弁えないで救済の論理を形式論理的に探求するとしたなら、全くの徒労に帰するであろ し た 、 が っ て 、 名 号成立の論理が衆生救済の論理でもあるということができる。親驚は名号を南無阿弥陀仏と規定してい弘この名号 ぅ。なぜなら、名号そのものがすでに、縁起空の論理構造によって成立しているものだからである。 は阿弥陀仏の覚体と不二なる法として、衆生救済を成就するために衆生に廻施されるべきものがらとして本願に誓わ 真 宗 名 号 論

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真 宗 名 号 論 四 れ た も の で あ っ た 。 したがって、衆生は廻施された名号南無阿弥陀仏︿空|←有﹀の義意を間信するとき、名号の義 意︿論理﹀通りの自己に目覚めるのである。それは叉、名号南無阿弥陀仏の持つ論理性に臼己が深くかかわるとき、 はじめて可能になる。名号の論理は抽象的、概念的なそれではない。自らは現実の桂柏の中にしか生きる道のない人 いわば現実を貫く具体的な論理である。決して、 ③ 鷺でさえ超越しえなかった歴史的限界として、安易に排斥されるべき性質のものではないことを、この論理の中に確 ﹁ 以 名 摂 物 し が 親 聞を根源から洞察し、包摂していく智慧の用き、 認してゆきたいと思う。ここに敢てその一端を述べ諸賢の御批判を願う次第である。 名号による救済の真実性が語られるとき、勝易二徳論は欠くことのできないものとなっている。実はこの教法の勝 易性こそ、浄土教における救済の真実性の尺度ともみることができよう。教法が一切の法に勝れていても、実践的に 難であれば、特殊の機にのみ適応するものであり、なんら普遍性は持ふり得ない。逆に実践的立場において易ではあっ ても、教法そのものが余他のそれと比較して劣であったなら易であるということは全く意味がない。 したがって、宗 教的価値の領域にあっては、勝であるということは、必然的に、実践的立場における易修性を意味するものでなくて はならないのである。救済不可能な悪践が救いの法中にみいだされたとき、その法はまさに勝であり、易であるとい われ、救済が普遍化するのであった。勝易の徳は別箇の徳ではない。勝は易とかかわらずしては勝といわれえない存 ④ 在である。この相関関係を認識することなくして別箇のものとしてみるなら、仏教における機法のかかわり、か損なわ その勝易二徳を包括する名号について司選択集﹄の指向するところによれば、 ⑤ 万徳之所帰﹂であるから﹁勝余一切功徳﹂であり、﹁念仏易故通於一切、諸行難故不通話機﹂であるという。 れ て し ま う で あ ろ う 。 さ て 、 ﹁ 名 号 者 し か し 、

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常識的にみれば、名号は名号であり、万徳は万徳である。 とすると、万徳の所帰たる名号とは、具体的にいかなる性 格のものであるのか、ということを我々はまず間わなくてはならない。古来、名体不二といわれ、全徳施名といわれ てきたのは、このことを解明する過程での所産であった。 しかし、名体不二、全徳施名といっただけで名号が真実で あり、救済の力用が具備されていると規定することは早計である。実は名号を解明するといういとなみも、このこと に集約されるといってもよいであろう。もと、全徳を名に施すということは、名体が不二であってはじめて可能なこ と で あ る 。 し か し 、 不二という独自の論理性に疎縁な者にとっては、容易に首肯しがたいものでもあろう。これはひ とり名号の理解という過程における陸路ではなく、仏教そのものを理解するうえでの、 いわば形式論理的蹟きである といえないであろうか。切言すれば、名号の本質を理解するということは、 不二の論理性を理解しうるか否かにある といってもよいであろう。凡そ、二而と不二が同時に成立するということ自体矛盾である。 し か し 、 その矛盾が矛盾 のままで成立する基盤が縁起空という独自の場である。不二という言葉は、こを前提としながら、それを積極的に否 定し、同時に一をも否定する言葉である。実はここに阿弥陀仏の覚体と名号が不二であるということの深い意味が存 す る 。 かりに、名体がこであったなら、その名号は単なる媒介的存在であり、階梯的なものとして廃捨されよう。こ こでは、救済の具体的側面ともいうべき万徳と、名との必然関係が成立せず、救済も究寛されない。叉単に名体が一 であるとしたら、衆生救済という辺まで普遍化しないであろう。この両者の立場を揚棄する場が即の論理であり、更 ⑥ にそれの具体化されたものが名号法であったといえる。﹁況我弥陀、以名摂物。是以耳問、口語、無辺聖徳撹入識心﹂ ① ﹁諸仏皆徳施名。称名即称徳﹂という指摘はしばしば引用されるものであるが、これこそ徳と名との不即不離の関係 を示したものであり、このことが可能になるのは、徳と名が不二なるものとして成就されたときにである。このとき 衆生救済が万人共通の法として普遍化するのであった。換言すれば、衆生救済を意図して積功累徳された万善万行は、 真 宗 名 号 論 一 五

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真 宗 名 号 論 一 六 それ独自では衆生との接点をみいだすことはできない。そこで選択されたものが名号法であるというべきであろう。 したがって、その万善万行は名に施されるものとして成就されたことを看過してはならない。 ﹁ 名 体 不 二 と 云 え ば 、 即する面だけを考えて、離れる面のあることを忘れがちであるが、今はその離れる面の意義が重要なのである。正覚 の体に即自的な万徳は、衆生はこれを領受することはできない。即自的な万徳が対自的となり、その人格を離れて独 立した法として顕わされるとき、衆生ははじめてこれを己が所有とすることができる。如来と衆生との聞に授受され @ る法として成就されることによってはじめて回向ということが可能になる﹂という指摘によって、覚体と名号との相 関関係を明瞭に知ることができよう。殊に、この離れる面ということが、名号の名号法たる由縁でもあり、真宗教義 を指して﹁表現の宗教﹂といわれることがあるのもこの意味において妥当である。自己を顕現するためには、自己白 身を表現しなければならない。阿弥陀仏の名号は、阿弥陀仏の自内証が顕現されたものであり、阿弥陀仏自身の自己 実 現 で も あ る 。 し た が っ て 、 かく表現された名号を間信領受したとき、名号法という表現のもつ性格は真に究寛され る の で あ る 。 しかしこの場合の表現とは実智が権智として、 一如が如来した相ともいうべき独自の宗教表現を意味す るものであることは言を侯たない。 したがって、その表現の論理的構造は、真空妙有といわれるような仏教独自の縁 起空の論理性を内的構造とするものなのである。この論理性を内に持つ名号法によってこそ、阿弥陀仏の覚体と現実 の生との交りが可能になるのである。 る 。 真宗教義の中で名号が語られるとき、相対八衆生﹀と絶対八仏﹀とを結ぶものとして扱われることが多いようであ つまり生仏の背反状況に寄せて相対と絶対と単純に区別し、相対から絶対には到り得ないが、絶対は相対を包括

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するものであり、その具体的カ用が名号であると説かれる。 したがってその名号は、絶対の相対化として把握され、 如来をして絶対者と呼称されることさえ少くない。このことに誤りはないであろう。 しかしこの論理展開は仏教独自 の 絶 対 観 に 立 脚 し て い る 、 という前提条件を不可欠のものとする。たとえば、絶対者の概念も、 ⑥ ﹁それ自身において充足した完全なもの﹂と規定されている西洋哲学の立場から推すと、直ちに仏︿如来﹀ ﹁ そ れ 自 身 に お い て 存 立 し ﹂ をこの範暗に組み込むことは明か軽率であろう。という意味は、仏と衆生とは決

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て離すことのできない関係的存在 であるから、自ら次元を異にする、 ということである。実はそこから仏教独自の絶対観が導きだされてくるというこ とができよう。真宗における名号も、このことを認識しなくては正しく把捉することは不可能である。もと、仏教に おいて絶対を意味する言葉としては、真如、 一如、法性、実相、等が挙げられるであろう。知られるように、真如の 原語八

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岳 山 ﹀ と は 、 ︿物があるが如くにあるすがた﹀︿物があるが如くにおかれているあり方﹀の意味であるといわ れ 、 そ れ は 縁 起 ︿ 司 自 立 件 吉 田 国

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の理法の流動するすがたでもあるという。 とすると、相対の別に絶対が存す るというような二元的絶対観でないことが知られる。切言すれば、真如は真如という絶対的固定性を当体としないと いう処にその特異性が認められるであろう。 つまり、絶対と相対が即という関係で結合しているということであり、 それは因縁所生法をもって一切の存在の法則とする独自の立場でこそ容認されるものである。又、それは同時に存在 の基盤が空であることを意味している。ここに事物の固定的実体性は悉く否定され、動的︿空的﹀な基盤で一切の存 ⑩ 在が把握されるに到るのであった。この立場に立脚したとき、如来と衆生とのかかわり、或いはそれを可能ならしめ る名号の内的性格を理解する道が聞かれるのである。なぜなら、名号はそのような存在の法則の中で説示されたもの だからである。名号が名体不二といわれるのは、 それが真空の妙有の相として、無二智の清浄世間智として歴史的世 界に向下することを指向するものでもある。 ﹂ こ に 本 願 と い う も の が 、 具体的現実として眼前に顕現されるのであ 真 宗 名 号 論 七

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真 宗 名 号 論 八 る。親驚にとって本願と名号とは不二一体のものであった。﹁本願名号正定業﹂﹁本願名号信受して﹂等の言葉はそれ ⑪ を顕わしているといえよう。 周知のように、本願とは原語︿

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﹀ に 相 当 し 、 ﹁

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・ 回 目 巳 ’ 左

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︿ 前 に 置 く ﹀ か ら 作 ら れ た 名 詞 で 、 ︿心を前に置く﹀という意味から八願い﹀︿誓い﹀︿誓願﹀の意味で用いられている。 したがって 八本願﹀は八以前の誓願﹀という意味であり、これは阿弥陀仏が仏となる以前、ダルマカ l ラ菩薩であった時にたて ⑫ た誓顕である﹂という。したがって、本願とは阿弥陀仏に限定していわれるものではなく、本願という一種の思想形 ⑬ 態を意味するものでもある。したがって﹁縁起の光が限りなくわれわれの能所の存在を照らすときに能所が空ぜられ、 ⑬ 我執我所執が打破られ、すなわち般若波羅蜜化が限りなく行なわれる﹂実践形態を仏の本願といい、本願を宿願とする ⑮ そういう般若波羅蜜化せねばならない約束・必然性をすでにかねてもっている﹂ことを 立場からは﹁縁起の道理が、 意味するのであるという。要するに地蔵、薬師、阿弥陀、等の本願といって﹁経典に説かれているものは、そういう ⑮ 精神の動行の象徴である﹂という説示こそ本願の思想性をよく語るものであろう。きて、それを我々の救済の根源で ある阿弥陀仏の本願に集約していえば、衆生救済︿般若波羅蜜化﹀の具体的力用として可聞可信の名号法が誓われた の で あ る 、 といえよう。しかしそれが何故名号法でなければならなかったのか、 ということが古来論議されてきた が、大要次のように集約することができるであろう。 ら凡夫に代って正覚を成就し、 ﹁無有出離之縁、不善造悪なる凡夫の救済を意図して、弥陀自 その覚体を衆生に施与せんがために、 覚体と不二なる法として名号法を選択した﹂ と 。 殊 に ﹁ 証 言 願 の 不 思 議 に よ り て 、 やすくたもち、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名号をとなへんも ⑫ のをむかへんと御約束あることなれば﹂という文が一般によく引用されていることからも名号法の普遍性という面、が 重視されていることがわかる。この意味において名号は一種の表現法であるといえよう。 しかもそれは阿弥陀仏の本 願そのものの具体的顕現でもある。更にいえば、阿弥陀仏の名号とは、 ﹁ 普 済 諸 貧 苦 誓 一 不 成 正 覚 ﹂ と い う 法 蔵 菩 薩 白

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らの正覚と衆生往生の不二の誓願に基く法蔵自身の救済意志の具現化、普遍化として法蔵菩陸によって誓われた︿設 我得仏!不取正覚 V 救消の究克相であるともいえよう。このように、法政主探の救済意志か名号法として具体化し、 崎 衆生の而前に表現されたことは、﹁其心寂静志無所著﹂といわれる法蔵の白内証が如来した相でもある。それは迷妄 生死の私均、相反した清浄平等不ム一︿生死超克﹀なる仏智とかかわる言葉として現実となる。しかもその言葉は、 ⑩ ﹁以知実相故則知三界衆生虚妄相也。知衆生虚妄則生真実慈悲﹂という深い立場より衆生を洞察して衆生に恵まれた ものであった。実はここに浄土教興起の必然性ともいうべき基盤が存する。古来より浄土教教 F 義の中心課題が如来と 衆生との関係を明かすことにあるといわれるのも由なしとしない。この小論の直接意図するところも、生仏のかかわ りを明かすものとして名号の論理構造を攻究することに外ならないのである。さて、名号を宗教表現として扱い、注 意しているものに﹃大行の弁証法﹄がある。それによれば﹁仏と人間との非連続の連続、即ち矛盾的自己同一的媒介 は表現による外ない。一言葉による外ない、仏の絶対悲願を表わすものは、名号の外にないのである﹂ ﹁ 絶 対 者 と 人 間 との何処までも逆対応的なる関係は、唯名ロヴ的表現によるの外にない﹂と西田博士の所論をもって結論守つけているよ @ うである。吏に名号がかような表現的立場をとるものであるなら、それは単なる媒介にすぎないのではないか、とい う点について、﹁表現の媒介的立場は仮設的ではありえない﹂﹁表現はどこまでもそれを媒介として接しうる実在展開 @ の原理であるしとしている。このような立場に立っとき、我々は吏に救済の原理を明かすものとして名号のもつ論理 性に着目してゆかなければならない。そのことは同時に、名号という表現法のもつ論理的構造を探求することにもな るであろう。そこで、殊に親驚か﹁証巻﹂末尾において引用している﹁論註﹄の文のうち、善巧摂化章以下所明の智 慧慈悲方便について注目してみたいと思う。私はこの辺りが救済の原理及び名号の論理性が展開されている重要な箇 処であるように考えている。 ま ず 善 巧 摂 化 章 で は 、 菩薩の巧方便回向に寄せて救済の論理を述べ、 次に障害提門で 真 宗 名 号 論 九

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真 宗 名 号 論

養 恭 敬 自 身 心 ﹂ ﹁智慧門不求白楽、遠離我心貧著自身﹂﹁依慈悲門抜一切衆生苦、遠離無安衆生心﹂﹁依方便憐思一切衆生、心遠離供 @ を 超 克 す る こ と を 示 し 、 ﹁ 安 清 浄 心 し それは必然的に ⑮ ﹁楽清浄心﹂の﹁随順菩提門法﹂を成就することを﹁順菩提門﹂で説示している。ここに語られている と智慧慈悲方便によって﹁菩提円相違法﹂ ﹁ 無 染 清 浄 心 ﹂ 智慧慈悲方便こそ、衆生救済の原理を論理的に展開したものであるが、 それは次の名義摂対章において明確に示され

向説智慧慈悲方便三種門摂取般若、般若摂取方便、般若者達如之恵名。方使者通権之相官称。達如則心行寂滅。通 権則備省衆機。省機之智備応而無智。寂滅之恵、亦無智而備省。然則智恵方便相縁而動、相縁而静。動不失静智 恵之功、静不廃動方便之力也。是故智恵慈悲方便摂取般若、般若摂取方便。応知者、謂応知、智恵方便是菩薩父 母、若不依智恵方便菩薩法則不成就。何以故、若無智恵為衆生時則堕顛倒。若無方便観法性時、則証実際 ⑮ と。ここに示されている般若と方便の相即こそ、如←如来という関係に外ならない。それはまた実相に体達した智慧 ︿般若﹀はその智慧に違背する現実に対してかかわらずにはおれない、 という動的性格を示している。それが慈悲で あり、その、智慧慈悲に基く衆生救済︿真実化﹀の意志が方便として我々の前に具現されるとき、はじめて衆生救済 ⑮ の通路、か開示され、﹁依法性順二諦故﹂﹁摂衆生入畢寛浄故﹂なる救済が究寛されるのである。このように般若と方使、 智 慧 慈 悲 方 便 、 とは互いに相即相入する相依相関的存在であり、同時に衆生救済の法則︿菩薩の法則﹀でもある。実 は、名号南無阿弥陀仏による救済も、般若根本智を体得した法蔵菩薩の慈悲方便の究寛されたもの、救済意志の普遍 化されたものとして把えることができるであろう。ここに、名号をもって阿弥陀仏の救済意志の表現と規定する立場 も認められるのである。親驚が﹁この一如よりかたちをあらわして方便法身とまうす、そのおんすがたに法蔵比丘と @ なのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり﹂と述べていることは、般若根本智より方便

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後得智が流動する態として、阿弥陀仏が把えられていることに我々は気づくのである。般若が内的必然性としてそれ 自身のうちに方便を擁するということは、真実はそれ自身真実化の力用を具足するということを意味するものではな と い え よ う 。 つまり阿弥陀仏の名ロすには とすると、阿弥陀仏の名号も又不実なる衆生を真実化︿救済﹀せんとする、般若の智慧の積極的流動相である 、 、 。 し カ それ自身﹁達如之恵名通権之智称しという論理構造を有することを確認 しかもこの論理は、自己の内面と、自己の生と深くかかわらずしては、決して成立しない具体的な論 し て お き た い 。 理であった。その故にきわめて現実的な論理性をそれ自身のうちに有するのである。 れを把与えるとしたなら、容易に把ええないであろう。なぜなら、 したがって抽象的、概念的にこ それは、名号ともっとも遠い処でそれとかかわろう としている姿にほかならないからである。実はここに名号独自の論理性が存するともいえるであろう。 以上大雑把な展開に終ってしまったが、更に後日を期することにして一応摘筆したい。 ① 註 叉 、 果 号 、 尊 号 、 徳 号 、 嘉 号 、 等 と も い わ れ る こ と は 周 知 で あ る 。 尊 号 と い う は 南 無 阿 弥 陀 仏 な り ︿ 唯 信 抄 ﹀ 九 字 ・ 十 字 も 同 義 異 名 で あ る 。 梅 本 克 巳 著 ﹃ 唯 物 論 と 主 体 性 ﹂ 一 七

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頁 、 ﹁ 親 驚 に つ い て

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異 端 と は 何 か | L 村 上 速 水 著 ﹁ 親 驚 教 義 の 研 究 ﹄ 六 八 頁 参 照 名 号 者 万 徳 之 所 帰 也 。 然 則 弥 陀 一 仏 E i − − 一 切 内 証 功 徳 : 一 切 外 用 功 徳 皆 悉 摂 在 阿 弥 陀 仏 名 号 之 中 。 故 名 号 功 徳 、 最 為 勝 也 。 然 則 仏 名 号 功 徳 勝 余 一 切 功 徳 。 故 捨 劣 取 勝 以 為 本 願 敗 。 念 仏 易 故 通 於 一 切 、 諸 行 難 故 不 通 諸 機 。 ③ ③ ① ④ 真 宗 名 号 論 ⑨③(百) (f:⑨ 然 則 為 令 一 切 衆 生 、 平 等 往 生 、 捨 難 取 易 為 本 願 欺 ︵ 真 聖 全 一 の 九 四 三 ︶ 真 聖 全 二 の 二 九 、 元 照 律 師 ﹃ 弥 陀 経 義 疏 ﹄ 行 巻 引 用 真 聖 全 二 の 三 一 、 法 位 ﹃ 大 経 義 疏 ﹂ 行 巻 引 用 村 上 速 水 著 、 前 掲 書 一 九 九 一 只 守 哲 学 事 典 ﹄ 、 ︿ 平 凡 社 刊 ﹀ 七 一 一 頁 事 物 の 固 定 的 実 体 性 を 否 定 す る と い う こ と は 、 存 在 の 消 梅 性 を 指 向 す る も の の よ う に 把 握 さ れ や す い が 、 事 実 は そ の 逆 で あ る 。 木 典 行 巻 に ﹁ 大 経 を 真 実 教 と 指 定 し 、 論 註 を 承 け て 、 説 如 来 本 願 為 教 宗 教 、 即 以 仏 名 号 為 教 休 、 と 一 応 し 本 願 と 名 号 の 関 係 を 示 し て い る 。 ⑪

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真 宗 名 号 論 藤 田 宏 達 者 ﹃ 原 始 浄 土 思 想 の 研 究 ﹄ 一 一 一 七 九 頁 厳 州 市 に い え ば 、 本 師 側 、 か 架 し て 思 想 と い え る か ど う か 吟 味 を要するが、今は一般的意味でいい、更めて問わない。 ⑬ゆ⑬山口益著﹃空の世界﹄一一一頁以下参照 ⑪ 歎 異 抄 十 一 節 、 貫 一 一 聖 全 二 の 七 七 九 ⑬古来法蔵注目薩の地位について異説があるが、鶏訳大経に 其心寂静志無所著、とあるのは、八地以上の浄心の菩薩 を示しているものとする。龍樹・羅什・曇驚、等の諸師 は八地以上としている。神子上恵龍著﹃真宗学の根本問 題﹄一四頁以下詳説 論 註 善 巧 摂 化 章 、 宣 ︵ 聖 全 一 の 一 一 一 一 一 一 九 稲城選恵著﹁大行の弁証法﹄救済論稿 Z G 日 八

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頁 、 ﹃ 一 二 木 清 L 全集巻一八﹁親驚﹂に啓発されるところが多 稲 城 選 恵 著 、 同 右 、 八 三 一 頁 星野元豊著 25 叙哲学﹄一八三頁﹃しんらん全集﹄巻七 所収論文がこの点に蒜討している。又、神子上恵龍著前 畑 向 幸 一 同 等 参 照 ⑬ ⑬ ⑧ ⑬ ⑫ ⑧ ⑧⑫⑧論註下巻、真聖全一の一二三八 J 三 四 二 青 山 小 ⑧真聖全一の三四二、ここでは方便の意味が二種に使用さ れている。智慧・慈悲・方便の場合とこの三者を合一し て方便とし、般若に対置される場合とである。 論註上巻、真聖全一のご八五、参照 唯 信 抄 文 意 、 真 聖 全 二 の 六 コ 一

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、尚、方便法身と実相 身、為物身との関係について種々論議されるが、ここで は避けざるをえない。又、﹁真宗研究﹂七号所収論文、 ﹁阿弥陀仏観私考﹂︵藤光永氏﹀がこのことについて触 れ て い る 。 参考文献については一三会げないが、殊に中山延二氏の 著書に砕発されることが多かったことをここに記した ※ ⑬ @

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