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こぺる No.131(2004)

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ひろば⑩ 実感的「在日」論 仲尾 宏 部落のいまを考える⑮ [~司b月主5日(毎月 1 固25日発行) ISSN凹19-4剖3 こべる刊行会 全国人権問和研究大会に見られる特措法以後 住 田一郎

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ひ ろ ば ⑮

宏︵京都造形芸術大学教員︶ 国籍と血統 ごく単純な話題からはじめよう。私はときどき大学の 教室で学生に問いかけてみる。 ﹁あなたはどうして日本人なのですか。あなたは日本 国籍をどうしてもっているのですか﹂ その答えの六

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パーセントから七

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パーセントは﹁日 本で生まれたから﹂ である。これはいうまでもなく ﹁ ブ l ﹂だ。けれども同じ問答をアメリカの教室でして みたらその答えは﹁ピンポン﹂となる。 日本の大学生、いや若者たちが国籍問題や国籍法につ いてほとんど知らず、考えてみたこともないことをあげ つらっているのではない。日本社会の圧倒的マジヨリテ ラム 再開 イ で あ る 日 本 人 に と っ て 、 日本国籍は水や空気と同じよ うなものと受けとめられている。唯一、日本人が国籍を 意識するときは圏外旅行の際に必要な日本国政府の発行 する旅券を保持しなければならず、出入国の際、外国の 空港などでは﹁外国人﹂のゲ l トを通過し、日本再入国 の際に﹁日本人﹂のゲ l トを通過するときであろう。ま た注意深い人は旅券の券面に外務大臣が﹁日本国民であ る本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ同人に 必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請す る﹂とのべていることで、自分は日本国の政府の権限に より外国の官憲に保護扶助されるという日本政府と特別 の関係にあるのだ、ということをあらためて意識するだ こぺる ろ 、 っ 。 さて、日本人にとってのさきの問答の正解である﹁父 1

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または母が日本人であるとき﹂、出生した子は日本国籍 をもっ、という国籍の血統主義はどんな問題を日本社会 で 生 ん で い る か 。 そのひとつは戦前の大日本帝国の植民地支配が生んだ 在日韓国・朝鮮人および中国人は三世、四世、五世と代 を重ねても、父も母も﹁在日﹂である限り﹁日本人﹂と し て 扱 わ れ な い こ と だ 。 その日本人でない取扱い、とはひとつには﹁住民登 録﹂の対象ではなく﹁公正な管理に資することを目的と く ぴ か せ する﹂外国人登録法という首棚につながれることである。 この外登法は日本社会の住民としてのさまざまな諸権利 とは明確に切り離されている。ひと昔、ある県の自治体 はその自治体の住民人口に外国人登録者の人数を無自覚 にも加えていなかったほどだ。他方で﹁住民登録﹂をみ ると次のようなことがある。たとえば父が韓国人、母が 日本人、子が韓国籍として駐日韓国領事館に登録されて いた場合、この住民票には母のみが単独で登録されてい る。したがってこの母は﹁単身﹂、すなわち夫も子もい な い こ と に な る 。 このような奇妙な現象は日本国籍保持者を日本人の血 統のみに限定してきたこと、外国籍者は住民としては二 義的な取扱いのカテゴリーとして処理してきた戦後日本 の法制とそれを﹁異﹂としてこなかった行政の怠慢、そ れにそのような取扱いを当然としてきた日本人一般の意 識 に よ っ て 支 え ら れ て い る 。 ときどき部落史の研究者で在日韓国・朝鮮人の略称を ﹁在朝﹂といういい方をする人がある。それでは韓国に 住んでいる日本人は﹁在日﹂なのか。またある研究者は ﹁在日﹂に参政権がないことをつい昨日まで知らなかっ たという。要するに﹁在日﹂は見えているようで、多く の 日 本 人 に は ま だ 見 え て い な い の だ 。 ﹁在日﹂はあくまで﹁在日﹂であった。戦後、心なら ずも帰国の機会を逸し、当分の問、日本で暮らそう、と してきた人びとが﹁在日﹂の大多数である。中には祖国 に帰っても生活の基盤が崩壊しているため、もはや戻る ことすらかなわなかった人もいる。さきにみたような法 制の継続もあって、多くの日本人はこの﹁在日﹂の人び とを日本社会にとって﹁余計な人びと﹂とみてきたので はないか。﹁できればいてほしくない人びと﹂とみてき たのではないか。戦後、新憲法のもとで民主主義と個人

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の尊厳がうたわれているにもかかわらず、民族的出自が 異なることによって、あるいは血統が異なることによっ * 2 て、日本社会の住民としての権利がいちじるしく侵され てきたことに多くの日本人はあまりにも無自覚であった の で は な い か 。 話をもう一度、血統にもどす。 近年、ブラジルやペルーから多くの人びとが単身また は家族ともども日本に移住して働いている。首都圏や東 海諸県、それに近畿でも滋賀県などでは在日韓国・朝鮮 人よりもそれら南米出身者の人口がはるかに多くなって 、 ‘ 、 , n v L V M ヨ F 九 日 u このことの由来は九一年の入管法の改正による。日本 の企業は若者のいわゆる﹁ 3K 職場﹂ばなれ、それに大 メーカーの下請け・孫請け企業への仮借ない工賃切下げ 要求のため、低賃金をいとわない海外からの労働者の労 働に依存せざるを得なくなった。どんな不況下にあって も、町に失業者が溢れていても、日本の産業界はもはや 彼らぬきには生きのびることができなくなっている。 このとき日本政府は無限定な労働者の流入に歯止めを かけるために、民族的出自を日本にもつ﹁日系人﹂に限 って日本滞在中、職種に制限のない在留資格をとらせた。 だがこの方策はとんでもない人種主義である。 ブラジルやベル l は典型的な多民族・多文化社会であ る。父母、祖父母、曾祖父母のいずれの世代でも日本出 身者、すなわち日本人の血統が百パーセントである家族 は 少 な い 。 アフリカ、先住民のインディォ、その他 アジアの国々からきた人びとが入り混って家族を構成し、 ヨ ー ロ ッ パ 、 世 代 を 重 ね て い る 。 その中でたとえ四分の一でも八分の一でも日本人の血 統につながっていれば日本へ行って﹁デカセギ﹂ができ、 また場合によっては﹁定住﹂﹁永住﹂の在留資格を手に 入れることができる、ということは他のブラジル人から みると不公平と映る。その理由はブラジルやベル!に住 んでいる人はすべて﹁ブラジル人﹂﹁ベル l 人﹂である ことを自認し、人種的・民族的出自を殆んど意識しない で暮らしていけるからだ。それは﹁日系人﹂が日本語や 日本の伝統的文化をほとんど知らないままに移住してき ていることをみても一目瞭然である。中には容貌が日本 人そっくりな﹁純日系人﹂もいないわけではないが、 こベる 3

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彼・彼女らとて、日本語や日本文化に来日までにさほど の縁をもっていたわけでもない。 いずれにしても﹁日本人の血﹂にこだわったこの日本 政府の方策は現地ブラジル社会などでさまざまな反発を よ ん で い る 。 さきの﹁在日﹂はいつまでもよそ者、という政策や風 潮、﹁日系人﹂のみに移住労働許可を限定したこのよう なやり方をみていると、日本政府当局者や少なからぬ日 本人の意識の中には﹁血統ユートピア﹂のような思考が 存在しているのではないかとさえ思える。 民族と祖国 ここからは﹁在日﹂の内実に沿って話をすすめる。と はいっても私が﹁在日﹂でない以上、 つ と め て ﹁ 在 日 ﹂ との接点をもとうとしてきたつもりの私見にすぎないこ とをまず断っておく。 戸籍と住民登録によって日本国家に操られ、生育した 故郷を日本列島の内にもっている日本人にとって祖国は 日本である。ついでにいえば戸籍は日本人としての血統 証明書のような役割を果たしているが、それ以外には何 の役にも立っていない法制度である。しかもそれは明治 初期の国家が古代律令国家の記憶をもとにあらためて戸 主

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イエ制度を人民支配の根幹に据えつけるために制度 化したものである。いま、日本以外の民族的出自をもっ 人が、この戸籍に参入したいと思えば﹁帰化﹂という手 順を踏まねばならない。日本人との婚姻や養子縁組がそ うである。そして原則的には財産の継承・分与もこの戸 籍によって資格が確認される。﹁帰化﹂についてはのち ほどくわしく触れる。 さて﹁在日﹂にとって祖国はどこか。 まず皮膚感覚の話からはじめたい。二

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二年のサッ カー・ワールドカップ開催のとき、日本と韓国が対戦し たとしたら、どちらを応援するか、と﹁在日﹂の人に訊 ねた。すると多くの﹁在日﹂の人びとは﹁日本が他の国 の チ l ムと対戦していたら日本を応援する﹂﹁日韓対決 ならどちらも応援したいが、やはり韓国を応援する﹂。 人によっては﹁もし北朝鮮が出場して日本と対戦してい れば﹃北﹄は好きな国ではないがやはり北朝鮮を心情的 に応援したい﹂﹁ソウルのレッド・パワーは凄い。行つ

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てみたかった﹂というものであった。日本に生まれ、育 っていても血が騒ぐのであろう。いや正しくいえば﹁血 統 ﹂ が 騒 ぐ の で は な く 、 日本社会でつねに﹁在日﹂を意 識させられているからこそ、祭りのハレの場であるワ l ルドカップなどでは、わたしたちのクニ、という思いが つのるのだろう。その後の釜山でのアジア大会のときも 同 じ よ う な 反 応 だ っ た 。 だがこのような例もある。私はここ十年来、市民や学 生を募って韓国の史跡をたずねるツアーを主宰している。 と き ど き 在 日 一 一 一 世 の 学 生 た ち も 参 加 し て い る 。 そ の よ う な時は、あらかじめ彼・彼女たちの祖父母の出身地、つ まり﹁コヒヤン H 故郷﹂の詳しい所在を聞いておいて、 パスがその地を通ることがあると、その学生たちに﹁こ こが、君の先祖の地だぞ﹂と説明する。だが、彼・彼女 らは私が期待したほどには強い反応を示さなかった。私 は﹁目を輝かせて喰いいるようなまなざし﹂を期待して いたのだが、彼・彼女らにとっては韓国の一農村風景と いう以上に感慨をもてなかったようだ。 在日一世の里帰りの場合は異なる。ながらく故郷訪問 をなし得なかった朝鮮総連系﹁在日﹂の﹁南﹂訪問が実 現したとき、そのハラボジ︵おじいさん︶たちは涙、涙 の連続で﹁もうこれでこの世に思い残すことはないとさ え 思 っ た ﹂ と い わ れ た 。 一 世 の ハ ラ ボ ジ 、 ハ ル モ ニ ︵ お ばあさん︶にとっては、もはや遠い遠い過去の思い出の 地であったにしろ、そこは故郷であり、先祖の墳墓や、 遠く近くの縁戚につらなる人びとの懐かしい顔がおのが 血のつながりをあらためて思いおこさせるものであった。 けれども三世の場合はそうではない。その地からきた祖 父母の出身地として朝鮮半島の山や河を受けとめること はできる。が、そこまでである。人にとって故郷とはや はり自分がそこで生を受け、育った地なのだ。 時折り、とくに朝鮮総連の、わけでも幹部クラスの人 が朝鮮民主主義人民共和国のことを﹁ウリナラ︵わが 国︶は﹂といい、自分の立場をほぼ完全にその国と重ね 合わせて語る人がいる。それは民族団体を構成する人間 として、あるいは幹部としてはそのような立場に自分を 置 か ね ば な ら な い だ ろ う 。 し か し 、 二 世 、 二 一 世 の 場 合 、 どうみてもそのウリナラはコヒヤンとは重ならない筈だ。 それは多くの﹁在日﹂の出身地が慶尚道、全羅道、済州 島であるということとも関連するが、要するに﹁朝鮮民 こぺる 5

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主主義人民共和国公民﹂という﹁擬制﹂に身を託して ﹁ウリナラ﹂という言説を説かねばならない。その人た ちはその﹁擬制﹂ないしはイデオロギーを受け入れてい るからこそ、そのような言説をとることをみずから肯定 し て い る と い え よ う 。 これは本人の責任や思いすごしではない。戦後五十年 を経ていまだに分断を解消する見通しさえたっていない 厳 し い 現 実 か ら き て い る の だ 。 ま た 別 の 人 は い う 。 ﹁ 私 は 朝 鮮 籍 、 だ 。 こ れ は 一 九 四 七 年に日本政府が﹃外国人登録令﹂を出して朝鮮半島出身 者は﹃朝鮮﹂として登録せよ、としたからそのようにし たまでだ。あえて分断のもう一方の ﹃ 韓 国 ﹂ 国 籍 を 登 録 する気はない。﹂それはその通りである。しかしここに 厄介な問題がまちかまえている。もし現状のように二つ の分断国家が並立したまま日朝国交が回復したとき、こ のような朝鮮として外国人登録をしている人びとの国籍 はどうなるのか。﹁北﹂の政府としては自動的に﹁自国 公民﹂となる、という立場をとるだろう。ある雑誌で読 んだことだが﹁もしそんなことになれば裁判で争う﹂ ﹁強いていえば﹁在日﹄として登録する﹂といきまいて いた﹁在日﹂の作家がいた。これはこれで正直な本音で あ ろ 、 っ 。 また心情的に﹁北﹂にシンパシイを感じつづけている 人、朝鮮総連の活動にかかわっている人でも、商売上、 あるいは仕事の上で﹁南﹂へ行くことが多く、人との交 流も必要な人は韓国国籍をとっている人もいる。 ﹁在日﹂の人びとは分断という現実、そしてまた日本 国家と二つの自分たちの国をめぐる政治的、経済的、軍ー 事的葛藤のはざまで生きている。二・三世の彼・彼女た ちにとっては故郷を意識するときには生まれ育った日本 の ど こ か を 意 識 せ ざ る を 得 ず 、 一 世 を ふ く め て ﹁ 祖 国 ﹂ という言葉にでくわすときには国籍と民族を無視するこ と は で き な い 。 だが今の日本社会で生きてゆく上で﹁国籍﹂によって おのが民族を意識しつづけることは限界に近づいている の で は な い か 。 その端的な倒のひとつがいわゆる﹁帰化﹂である。生 後国籍取得の方法として﹁帰化﹂制度が日本の国籍法に ある。一九八

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年代まで日本の法務省は﹁帰化﹂に厳重 な条件と複雑な手続き、人権にかかわる秘密裡の個人情

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お う な っ 報探索、あまつさえ指紋押捺、日本人的氏名の強要など、 ありとあらゆる方策をとって日本国家への拝脆を要求し た。言葉をかえていえば﹁血﹂の混流を防ごうとした。 そのためあえて﹁帰化﹂を望む﹁在日﹂は少数派だった。 しかしその後、法務当局の主流は﹁帰化﹂の簡素化によ って大量の﹁在日﹂のかこいこみをはかる方向に転じた もののようである。許可条件と許可までにかかる日月は 飛躍的に短縮された。坂中英徳という法務官僚がいうよ うに﹁在日﹂の自然消滅を促進させよう、というもので ある。地方参政権付与の法案が国会に上程されたとき、 自民党右派はすばやく簡易国籍取得の方法を盛りこんだ 特別法案をふりか、ざして地方参政権問題の国会論議を聞 に葬った。﹁帰化﹂許可者は法務省の統計によれば一九 九二年から毎年一万人を越え一九九七年からは毎年一万 五千人を越えている。一九九

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年 か ら 二

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一 年 ま で の 十二年間でその累計は十四万にのぼっているがその八 O パーセントは﹁在日﹂だと推定される。 また日本人と﹁在日﹂との国際結婚も増加している。 そ の 実 数 は 正 確 に 把 握 し ょ う も な い が 一 一

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二年では夫 妻のいずれかが外国人であるというカップルの婚姻届出 は四万人である。これも累計すると数十万人の﹁国際結 婚﹂が成立していることになる。かつては日本人側から の結婚差別が甚しく、婚姻に至らなかった悲劇の多さを 思い返せば隔世の感がある。しかし結婚にあたっては日 本人の家族が﹁在日﹂側の﹁帰化﹂を条件とする例は多 1ハ

そして生まれてくる子のほとんどが国籍法の血統主義 をそのまま受け入れて日本国籍として育ってゆく。なに う し ろ ゆ び かと権利が制約され、いまだに学校や地域で後指をさ されかねない﹁在日﹂にとって、みすみす不利な﹁韓国 籍﹂﹁朝鮮籍﹂を子の国籍とする人は少ない。しかし近 年になって韓国から日本へ渡来してきた韓国人と日本人 の婚姻の場合は多少ともちがいはあるかも知れない。 いずれの場合も国籍と民族ないし民族的出自は話離を はじめている。韓国・朝鮮籍を登録している特別永住者 は 二

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一 一 年 末 に お い て 五

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万人を割った。それに反比 ロ よ 口 ょ う 例して如上の﹁帰化﹂による日本国籍取得者、そして 日本人との婚姻による日本籍の子の出生の合計はほぼそ こベる の 同 数 に 達 し て い る の で は な い か 。 だとすれば﹁在日﹂問題のありょうは大きく様がわり 7

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を し つ つ あ る 、 と い わ ね ば な ら な い 。 つ ま り 地 方 参 政 権 をはじめとする政治的無権利や高齢者・障害のある人の 年金からの締めだし、低額な戦後補償などの法制的な差 別問題はまだまだ残っているとはいえ、これからは﹁在 日﹂自体のありょうがあらためて間われてくる時にきて い る よ う だ 。 民族となまえ・教育 ﹁在日﹂のありようといえばやはり﹁なまえ﹂と教育 の 問 題 で あ る 。 いうまでもなく、﹁在日﹂の日本名 H 通称名は一九四

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年の植民地統治下での﹁創氏改名﹂がことのおこりで ある。その民族の歴史性、文化性と深くかかわった人の 名まえの名づけ方を、無理矢理、他民族の方式にかえさ せたこの野蛮な政策は大韓民国の場合、建国直後に廃 止・無効とされ、人びとはもとの名に復した。﹁北﹂も 同 様 だ っ た ろ う 。 日本本土に戦前渡来、あるいは﹁募集﹂﹁斡旋﹂﹁徴 用﹂などで移り住んでいた人はそうはいかなかった。す でに使用に慣れ、仕事や地域、学校で通用していた通称 の日本名は、それを民族的マジョリティである日本人と 日本社会が﹁当然のこととして受け入れ、︵時には強制 し ︶ ﹂ て い る た め に 、 にわかにもとの民族名に復すこと に は ば か り が あ っ た 。 このあたりの葛藤はもう少し当時の方々にそのころの 様子を訊ねてみたいところだが、とりあえず、﹁あまり 深く考えずそのままにしていた﹂という一世、二世が多 か っ た 、 だ ろ う と い う の が 私 の 若 干 の 聞 き と り に も と づ く 推測である。中には﹁日本で暮らしているのだから朝鮮 名にもどす必要はないと思った﹂﹁今かえるとまわりの 日本人からゴチヤゴチャいわれると思った﹂﹁改めて本 名にすると変だと思われるのがいやだった﹂という人も 、 4 , F O 、ν ナ ム 二世になってくると、生来、日本名で育ったため、そ れをあたりまえのこととして受けとめてきた人が少なく ない。古い話になるが、一九七一年に日立製作所の応募 時、通称の日本名で履歴書を提出したために﹁履歴詐 称﹂として就職内定取消処分とされた愛知県の﹁新井﹂ 青年がその一人だ。彼は会社のこの処分によってはじめ

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て﹁在日﹂を自覚し、四年間の裁判闘争の末、勝訴して 今は本名の朴姓で同社の中堅管理職として働いている。 また三世である子どもが日本名であるのに、学校で差 別を受け、親の自分が通称名で生きてきたことに疑問を 感じはじめて自分の﹁民族﹂に向きあった、という人も い る 。 京都の朴実さんが﹁帰化﹂申請の時﹁日本人らしい 名﹂を強要され、のちに裁判で争って本名を取りもどし た、という例はよく知られるようになった。 けれども次のような例もある。二世の親で自分の母、 つまり子どもにとってのハルモニが朝鮮人らしい言葉づ かいや風習を残していることがイヤで学校の先生の家庭 訪問のときには留守にさせていたという。学校でいえば、 数少ない﹁在日﹂の子どもと真剣に向きあい﹁本名を呼 び名乗る﹂運動をすすめている日本人教師たちがいる。 そのような先生が家庭訪問をして﹁本名﹂に触れると ﹁放っておいて下さい﹂と親からいわれることが少なく ない、という。けれども粘り強く話し合っているうちに ﹁先生におまかせします﹂といわれてほんとうに嬉しか ったという述懐も聞くことがあった。 また民族団体にかかわったり、自分個人の﹁在日﹂と しての活動のときは本名だが、会社の経営者としては日 本名を使っている、という人も少なからずいる。実際、 民団や総連の大きな集まりに招かれていくと数百名の参 加者のすべてが本名でよびあい、その名札をつけていて、 この時ばかりは民族的マイノリティになってしまった私 はなんとなく居場所がないような気になったものだ。 ここ十数年来、三世の子どもたちが大学へ入学し、卒 業していった。﹁在日﹂の学生たちで、在学中に朝鮮文 化研究会や韓国文化研究会の活動に加わったり、﹁在日﹂ が設立している奨学会の研修に参加して、自分の民族に はじめて向きあい、﹁在日﹂としての誇りの意味がわか ったといって本名を取りもどしてゆく人も増えてきた。 この点について、日本社会ほど特殊な社会は珍しいと 私は思う。よく知られているように世界各地に移民とし て 散 ら ば っ て い っ た 日 本 人 が い る 。 彼 ら も 一 一 一 世 ・ 四 世 か ら五世にかけての世代となってきたがアメリカ合衆国や 南米各地でも、日本式の氏名が基本として伝えられ、そ こぺる のまま用いられている。なんとベル l のフジモリ氏やパ ラオのナカムラ氏のように日本名のまま大統領に登りつ 9

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めた人もいるのだ。同じく朝鮮半島からアメリカや中国、 そしてロシア沿海州などへ渡った人は﹁在日﹂の数倍に 達している。その人たちもまた朝鮮あるいは韓国式の姓 名 で く ら し て い る 。 日本でくらしている﹁在日﹂だけがもとは強いられた とはいえ、なお日本名で暮らしていることの方が﹁異 常﹂ではないのか。異常なのは﹁日本で暮らすなら、そ れが当然﹂という日本社会のあり方ではないか。もし、 学校でも会社でも、あるいは地域の自治会でも﹁ウチは ﹃在日﹄の本名大歓迎﹂という掲示を出せば相当雰囲気 は変わるのではないか、とさえ思ってしまう。ある知人 の﹁在日﹂のお医者さんは悩みに悩んだ末、子々孫々に わたって日本に住むことが決定的なのだから、家族あげ て 日 本 国 籍 取 得 、 つまり﹁帰化﹂をすることにした。し かしそのことによって自分の家族の民族的出自を消した くはない。だから﹁帰化﹂後もなまえだけは自分も子ど もたちも本名で生きることにした、という。やはりなま えにこめられている思いは重いのだ。 教育のことにも触れねばならない。いま全国に数多く の民族学校ーーその多くは朝鮮学校で、ごく数校が韓国 系 の 学 校 ー ー が あ る 。 それらの学校は戦争直後、自分たちの手でわが民族の 子として子どもたちを育てようとした一世、 二 監 の 親 た ちの手で建設され、自主的に運営されてきた。この五 O 年余の民族学校の苦闘の歴史は紙数の関係で触れる余裕 はない。昨今、民族学校は国公立大学受験資格の取得や、 日本政府や自治体からの財政援助を獲得するために、カ リキュラムを日本の学校のそれに限りなく準拠する努力 を続けてきた。しかしなお両方とも日本の﹁一条校並 み﹂の門戸は聞かれていない。前者の場合も文科省の政 * 3 治的差別がありありと透けてみえる結末となった。 私は民族教育とは、どの国のどの民族も自固または自 民族の言葉を媒介にしていることがその表象だと思う。 したがって日本の学校で﹁在日﹂の子どものための民族 教育はなしえない。しかし可能なことはある。日本人の 子どもたちに近隣の諸国・諸民族との歴史的なかかわり や﹁在日﹂の存在を丁寧に教えること。また韓国・朝鮮 の歴史や人物、文化を﹁在日﹂の子どもをふくめたすべ ての子どもたちに教えること、否、他の固からきたすべ ての子どもたちとその母国のことや初歩のことばを教え

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る こ と 1 1 これらは少しばかりの工夫と心くぱりでどの いうところの多文化教育の手は 地域でもできることだ。 じ め で あ る 。 民族学校についていえば、朝鮮学校では朝鮮語によっ て全科目の授業が行われている。 韓国系の学校では﹁一条校﹂ということもあって日本 語による授業が規定されている︵東京の韓国学校は除 く︶。そのことはともかく、狭義の民族教育とは母国の 言語、歴史と地理、文化などの教育である。その周りに 数学、理科、世界史、必要とされる外国語、保健体育、 生活などの市民教育がある。かつての日本の教育体系は ここまでだった。しかしグローバル時代に適応してこれ からは普遍的なユニバーサル教育を行わねばならないと 考 え る 。 それは人権教古円であり、環境教育であり、民主主義教 育である。そうでないとひとりよがりの民族教育におち いる危険がある。かつての皇民化教育はまさにユニバー サルな価値観を欠いた日本民族本位の教古円だった。今ま たそのような教育への引戻しを望む勢力が力を得つつあ る。それを阻むためにも日本社会に存在する内外すべて の学校で、本稿についていえば朝鮮・韓国系の学校でも そのような努力が積み重ねられることを望むものである。 四 む す び 河合隼雄氏はここ数年来﹁こころの教育﹂を提唱して いる。そして全国の教育委員会は莫大な経費をかけて学 校でそれを実践させている。これについて現場や保護者 からは人の心の領域に指導者という立場で勝手に踏みこ むもの、という批判が強い。もうひとつの問題は子ども たちに愛国心と郷土愛を根付かせようというものだ。最 近の教育基本法改訂論者も同じような論法を持ち出して い る 。 私は愛国心と郷土愛は直線的につながるものではない し、そのように仕向けてはならないと思う。 郷土とは家族にはぐくまれ、幼い友や先生との出会い、 その環境下の自然との触れあいなどでひとりひとりの人 聞が人間らしさを獲得してきたフィールドである。とき こぺる にはそれは地理上の異国の場合もある。その地を懐しみ、 愛着をもつことはごく自然な人間の感情だろう。そのよ 11

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うな場はまた共同体でもあった。権力や利害関係以前の 人間と人間のかかわる場所であった。そこを愛すること は世界のどの地域でも人がひとしく共有する感情である。 そのような郷土を愛することと国家を愛するというこ とは次元のちがう話である。国家とは人類が歴史上のど の時代、どの地域でも支配階層が人民支配のために必要 な機構としてつくりだしたものだ。人民が国家を必要と したのではない。それはアイヌにとって国家は必要・必 然ではなくコタンこそ必要・必然であったことをみても わかる。日本をはじめとする近代国家はその逆方向をと って成立した。アイヌ、琉球、そして朝鮮半島や台湾の 人ぴとの共同体的村落を破壊し、征服、支配する機構と して立ちあらわれたではないか。そして数十万の朝鮮 人・中国人をら致・連行して奴隷的強制労働をさせたの が日本国家ではないか。そして戦後、その反省もなく、 戦後補償に目をとざし、あるいは先住民の権利を無視し てきたのが日本国家ではないのか。また数百万のアジア と日本人民の生命とその生活を破壊したあの戦争責任を ごまかし続けてきたのが日本国家ではないのか。 私はこんな国家を愛することはできない。 あえて﹁在日﹂に即して発言しよう。私はら致事件の 報道のたびに、あの行為が﹁民主主義﹂と﹁人民共和 国﹂の名においてなされたことは心底悲しかった。また 総連系在日朝鮮人が国家に成りかわって謝罪を表したこ とにも強い違和感をもった。私は過去の日本国家が犯し たあまたの犯罪を認める。しかし私が日本国家に成りか わって謝罪することはしない。一人の日本に暮し、その 歴史を知った人民として深い反省と一一度とくりかえして はならない歴史として、それをおのが言動に体現するこ とが唯一の謝罪のあらわし方だと思っている。願わくば 自分が朝鮮民主主義人民共和国の公民であるとする﹁在 日﹂の人びとよ、あなたたちが﹁祖国﹂を思う心情は別 として、人間の一人としてあのような事に率直に怒り、 責任を問う立場にたってほしい。冷戦、あるいは日本政 府の対北敵視、断交継続下でおこったこととはいえ、事 柄のどこにも弁解の余地はないのだ。 ひとりひとりが所属を強要されている国家からの呪縛 を と き は な ち 、 ひとりの人間の立場から国家の政策のす べてを逆に監視し、非があればその非を札すことによっ てしか、人間の未来はない。そのことを日本人とすべて

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・の﹁在日﹂に共通の認識としたいのだ。まず﹁祖国﹂が あるのではない。人があり、人が生まれ育った郷土があ り、その人のいのちと郷土のよさを十全に生かしてくれ ている存在が国家であれば、そのとき私は国家を信頼し てその国家をはじめて﹁祖国﹂とよぶ。 話が少し逸れたかも知れない。やがて世代を重ねるう ちに﹁在日﹂という言葉が現実にそぐわない時代がくる だろう。そのとき、限定つきながら土着の日本人と歴史 上、外来の人びととが民族的出自のことなりを認めなが ら、また認めることによってすこやかな緊張関係を保ち つつ生きてゆける社会をめざしたいものだ。 注 一 九 四 七 年 、 旧 植 民 地 の 朝 鮮 半 島 出 身 者 は 朝 鮮 、 台 湾 出 身者は中国人として外国人登録せよ、という外国人登録令 ︵ の ち 法 ︶ が 出 さ れ 、 一 九 五 二 年 法 務 省 民 事 局 長 通 達 に よ り 、 そ れ ら の 人 び と は ﹁ 日 本 国 籍 を 喪 失 す る も の と す る ﹂ と 決 定 さ れ た 。 な お 、 当 時 、 こ れ ら は ﹁ 記 号 ﹂ と さ れ 、 国 籍 を 本 人 の 国 籍 を 表 示 し た も の と 認 め ら れ て い た わ け で は な い 。 ﹁ 朝 鮮 ﹂ に つ い て は 日 本 政 府 は 外 交 上 の 承 認 国 で は な い の で 、 依 然 と し て ﹁ 記 号 ﹂ で あ る 、 と い う 解 釈 に た っ て い る 。 * 1 以 下 、 本 文 中 で は 、 煩 墳 な た め 、 そ の 人 び と は ﹁ 在 日 ﹂ と し て 表 記 し た 。 * 2 地 方 自 治 法 で は そ の 管 轄 内 に 住 所 を 有 す る 者 を ﹁ 住 民 ﹂ と し 、 国 籍 条 項 を 設 け ず ﹁ 役 務 の 提 供 を ひ と し く 受 け る 権 利 を 有 し 、 負 担 を 分 任 す る 義 務 を 負 う ﹂ と 定 め て い る 。 だ が 後 述 の よ う に 他 の 法 や 省 庁 の ﹁ 通 達 ﹂ に よ っ て ﹁ 国 籍 条 項 ﹂ が 設 け ら れ 、 住 民 と し て の 基 本 的 人 権 が 著 し く 侵 害 さ れ て き た 。 * 3この問題の文部科学省の最終決定は朝鮮学校については 本 国 で の 学 校 と し て の 確 認 が と れ な い の で 、 各 大 学 の 個 別 判 断 に 任 せ る 、 と い う も の だ っ た 。 欧 米 系 や 韓 国 系 、 中 国 ︵ 台 湾 ︶ 系 学 校 に つ い て は そ れ ぞ れ ﹁ 理 由 ﹂ を つ け て 受 験 資 格 を 認 め た 。 こべる 13

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部落のいまを考え る ⑩

全国人権同和研究大会に

見られる特措法以後

住田一郎︵西成労働福祉センター職員︶ 昨 年 の 別 府 大 会 に も 私 は 一 一 一 月 末 の 特 措 法 終 結 後 、 各 地 でどのような地域活動が実践されているのか、期待と不 安がない交ざった気持ちで出席した。結論から言えば、 期待は裏切られ、不安は的中した。特措法による数多く の同和対策事業の実施が各地の被差別部落を取り巻く状 況を如何に改善し、その到達点を基礎に今何を課題とし ているのか、つまり﹁部落差別の現実をどのように捉え ているのか﹂をレポートの内容からは知ることができな かった。内容以前に、被差別部落内で地域住民が主体的 に取り組んだ活動が報告レポートにはほとんど反映され ていなかったからである。年々レポート数にしめる被差 別部落内での主体的な取り組みの比率が少なくなってき ていたとはいえ、それでも半数以上は地域内での活動を 中心としたものであった。ところが、今年の福岡大会で は私が常に出席してきた第四分科会﹁人権確立をめざす 地域の教育力﹂第一分散会に提出された五本のレポート はすべて被差別部落外の人々によるものとなっていた。 もちろん、部落外の人々のレポートがおかしいと言って いるわけではない。そうではなく、特措法終結後の部落 解放運動において被差別部落住民自身による主体的な部 落問題との取り組みが決定的に重要であると考える私に とって不満なのである。 分科会目標にも﹁差別の現実を明らかにし、地域の教 育力を高めるための課題を具体的に明らかにしよう﹂と 明記されている。にもかかわらず、地域での具体的な ︿教育力を高める﹀活動がレポートされないのはなぜか ということである。この間に﹁差別の現実﹂は確実に変 化し、改善された部分も大きいに違いない。しかしなが ら依然として部落差別が存在するなら、どのような形で 差別が存在し続けているのか。差別が存在するとして私 たち被差別部落民は如何にその差別と対処すべきなのか が、真撃に関われねばならない。総括されなければなら ないはずである。私の見るところ、特措法終結後、各地 の被差別部落と自治体双方に何を課題とすべきかについ て戸惑いがみられるように思われる。一時、第四分科会 レポートの多くを占めた︿啓発のための解放劇﹀も影を 潜めてしまった。確かに、これまでのレポートでは﹁ウ チからソトへ﹂の問題提起は︿解放劇﹀も含め活発に行

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われてきた。ところが、部落差別の結果としての﹁ウチ H 被差別部落民が負わされてきた課題﹂と厳しく向き合 う報告は皆無だった。 ︿差別とは何か。何が差別なのか﹀の問いも自明であ るごとく陵昧にされてきた。それゆえ、﹁ウチとソトを 交える﹂自由で対等なコミュニケーション回路も十分に は発達してこなかった。むしろ、この課題は特措法終結 後の今日的な課題、だともいえる。それだけに、この一一年 間のレポートでまったくこの点について触れられないの が 残 念 な の で あ る 。 それでも、発表されたレポートの討議を通じて見えて きた課題もあった。 一つは、報告者の女性教諭が総括討議で述べた事柄に ついてである。彼女は﹁昨日の発表と討議の後、ホテル に帰って出身者の女性から、先生の子どもさんは確かに いまは病気を理由に差別されるかもしれない。でも、病 気が治れば差別されることはなくなる。しかし、私たち 部落民は生涯差別から逃れることはできないと言われた。 私もそうだと納得しました﹂と発言した。従来から被差 別部落住民のなかに︿あたかも宿命のごとく捉える部落 差別認識﹀が根強く存在してきたことは事実である。だ が、被差別状況を︿宿命﹀として受け入れるなら、部落 差別からの解放のイメージは描けない。解放それ自体が 自己矛盾となり、全国水平社以来の部落解放運動も五十 年におよぶ同和教育研究活動もその意味を失ってしまう。 部落差別は︿宿命﹀ではなく、解決可能な社会的矛盾な のである。問題は被差別部落住民自身が部落差別問題を 解決可能な社会的矛盾として捉え、解決を確信できるの かどうかにある。確かに、部落解放運動と同和対策事業 によって被差別部落を取り巻く状況の著しい改善を、 ︿宿命﹀として捉える先の彼女にしても認めないわけに はいかないだろう。しかし、人々による差別意識は依然 として根強く、自らの被差別意識も変わらないと彼女は 考える。多分、彼女の見方は被差別部落の殻に閉じこも り、他地域の人々との関係を築くための波紋を起こす能 動的な行動がなければ克服されることはないだろう。い うまでもなく、彼女の課題は今日の部落解放運動そのも のが担うべきものでもある。 二つは、特措法終結後も続けられている被差別部落内 での学習会にかかわるものである。その地域では担当教 員の方針によって教科学習だけではなく、部落問題学習 につながる地域の歴史を掘り起こす学習が導入された。 こぺる 15

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﹁部落のことを子どもにどう伝えたらよいか悩んでいる 人が少なくない﹂なかで、﹁なぜ、いま地域︵部落︶の 学習をするのか。そっとしておけば﹂との父母の疑問や 戸惑いに答えながらのスタートだったらしい。この地域 には部落解放同盟の支部がかつての元気さは無くなって いるがなお存在している。にもかかわらず、子どもたち に被差別部落民である事実を伝えることに臨時が見られ る。だが、部落解放運動の高揚期には、学習会で子ども たちに部落民であると知らせることはある意味自明とさ れてきた。同和対策事業が同和地区指定 H 被差別部落を 前提として実施されてきた経緯を考えるなら、被差別部 落の顕在化はむしろ当然であった。しかし、ここに来て ﹁械多であることを誇りうるときがきた﹂との水平社宣 言に連なる︿カムアウト︵被差別部落の顕在化︶﹀が揺 らぎはじめている。同和対策事業による部落差別問題の 大きな改善が、﹁このままそっとしておけば部落差別は 解決するのではないか。あえて子どもに部落を知らせる こともない﹂と考える︵考えたい︶被差別部落民を作り 出していることも事実である。この事実をどのように捉 え、どう乗り越えていくのかが現在、我々被差別部落民 に問われている課題なのである。部落差別は顕在化され ることなくして解決はない、と私は考える。 最後に、今後の啓発活動のありょうを示唆する一つの 試みについて報告したい。 愛媛県の高齢化がすすむ小さな町での﹁生きがいのあ るふるさとづくり﹂の一環に組み込まれた啓発活動につ いてである。一九八七年にすでに会活動はスタートして いた。目標に﹁同和地区内外の人たちが一堂に会し、共 に話し、共に食べ、共に欽んで、心のふれあいを深めて いく交流の機会﹂を掲げる活動は決して珍しいものでは ない。しかし、この地区での活動の斬新さは発足当時か ら、行政の補助金で運営されるのではなく、同和地区内 外の会員の会費によって運営されてきたこと︵特措法終 了後は事務も行政から会員に︶。さらに、会活動の中心 に高齢の部落出身者と彼の部落差別をなくしたいとの思 いに賛同したかつてのクラスメイトたちが位置尋ついてい ることにある。部落問題が被差別部落を含む地域社会そ のものの課題でもあるだけに、この地域での活動スタイ ル は 貴 重 で あ る 。 被差別部落内外の人々の具体的な︿顔のみえる関係づ くり﹀を積み上げることと、前述したこつの課題の克服 なくして部落差別問題解決の展望は見えてこないだろう。

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鴨水記 マ読者が郵便局で購読料を振り込んで くださるさいにお書きになる払込取 扱票︵なんと無粋な用語であること よ!︶の通信欄にメッセージがあるも のはすべて事務局でコピーされて、わ たしに届きます。﹁継続の手続きが手 違いで大きく遅れてしまいました。よ ろしくお願いします﹂といったものも あれば、﹁いつもじっくり読ませても らっています﹂﹁刺激を受けていま す﹂というのもある。そんな短いこと ばに励まされる一方、﹁誠に申し訳な いのですが、調子が悪いので今回限り で︵継続は︶中止させていただきま す ﹂ ︵ 京 都 N − H さん︶とのお便り を読むと、これまでのお力添えに感謝 し、すみやかなご快癒を祈りつつ、十 一年の歳月を想わないわけにはゆきま せ ん 。 マ ﹁ 土 方 さ ん の 丈 : ・ 淡 々 と す ご い 事 を 書いていると感じます。藤田さんは何 と お 答 え に な る の で し ょ う ・ : ﹂ o こ れ は昨年日月、埼玉県の M − M さんから いただいた通信欄のメッセージです ︵ 原 文 の ま ま ︶ 。 ﹁ 土 方 さ ん の 文 ﹂ と は 、 本誌

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︵ 凶 ・ 日 ︶ の ﹁ 吉 田 智 弥 に ﹂ 。 せっかくのお便り、なんとしてもお答 えしたいところですが、わたしには思 いあたるフシがない。土方さんがわた しにふれた件については﹃同和はこわ い考﹄で一応の考えは述べましたしね。 どうも吉田と藤田をまちがえておられ る ん や な い で し ょ う か 。 M − M さ ん 、 あらためてお便りをいただけませんか。 マ﹁差別と貧困の中でどうしょうもな い運命と嘆き諦めつづけてきた人たち がいた/差別社会の矛盾に気づき胸 張って生きるため差別への怒りを突 き上げた/その壮烈なたたかいは人 間としての自由と平等の権利を奪い返 すものであった/時には烈火のよう に激しく/時には人としての温もり とやさしさがあった/そんなたたかい の中から﹁部落民魂﹄は生まれた/ そして多くの誇りうる活動家を育て た/水平社会を現実のものにする道程 はつづく/﹁部落民魂﹄を創造した先 人たちの遺志と偉業を称え/その生き 方 を し っ か り と 継 承 す る ﹂ これは京都府部落解放センター正面 に昨年目月建立された記念砕﹁水平社 み ち し る べ 会への道標﹂の背面に刻まれている文 章の全文です。記念碑は各地の活動家 が 集 、 つ た め の 象 徴 、 碑 文 は そ の 精 神 と いうことらしい︵除幕式のパンフレッ ト か ら ︶ o そのことにとやかくいうつも りはないけれど、部落民魂ということ ばには、なぜかなじめないものを感じ や ま と だ ま し い る。おそらくそれは、例えば大和魂 のように魂ということばにつきまとう ﹁ウサン臭さ﹂のせいではないかとに ら ん で お る ん で す が 、 如 何 。 ︵ 藤 田 敬 二 マ 前 号 の 高 田 嘉 敬 さ ん の 文 章 中 、 6 頁 下段前から日行自の﹁愛知県の眼科医 ︵高島さんこは﹁愛知県の眼科医︵高 柳さんこの誤りです。お詫びして訂 正 い た し ま す 。 ︵ こ ぺ る 刊 行 会 事 務 局 ︶ 編集・発行者 こベる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下lレ上木ノ下町73-9 阿昨社 Tel. 075-414 8951 Fax. 075 414 8952 E mail: koperu@par.odn.ne.jp 定価300円(税込)・年間4000円郵便振脊 01010-7-6141 第131号 2004年2月25日発行

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涙がとめどなく出てくる。心が熱くなる。 ふっとふきだしてしまう。冷や汗が出る。 障害をもっ子ともたない子の育て方に遣いがあるのか? 親・保謹者の愛情とまわりの理解さえあれば、子どもは育つ。人間だもの!

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。四六判・並製・19 2頁・定価〈本俸l8 0 0円+説} ISBN 4-900590-77-0 にんげんっていうものは一一視と子の記録 人気者の宗ちゃん/長かったあの日/支えてくれた人身/心臓の手術/保 育所で・学校で/イギ日スのスペシャルスクールで/将来への期待 子どもが生まれてきたときのこと/父繊の存在/学校で/敏宵制度につい て/将来のこと お父さんたちのほろ酔いトーク{座絞会} クローパーの会の発足、入会のころの思い幽/病院の対応/子どもの民学/ 子どもの将来

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の 会 編 『クローパーの会j誕 生 の 秘 密 一 三 一 号 二 OO 四年二月二十 五 日発行︵毎 月 一 翻 二 十 五 日 発 行 ︶ 働 く 暁 子 と 健 現在の状況/一般歳労にどのように結びついたか/子育てのうえで気をつ けてきたこと/兄弟錦鎌との関係/父鎮の役割/健康管理について/民労 と自立のための制度とこれからの線組 ダ ウ ン 症 の 子 ど も と 共 に 歩 む 。 手 配 三番目の孫.I車君大付樋/美.ち亭んとともに 4、体佳代子/畏かった あ の 一 年 安 閑 帽 子/みんなちがって、みんな い い 糸 賀 み す づ/織の成 長を願って歩んだこの+余年屡民干/千尋の足跡廻千忠実/『五体不 満足』を統んで谷弁.名/ダウン症 の 弟 を も っ て 轟 原 佑 佳/鎗と歩く 山々 阪 上 正 方 一 九 九 三 年五月 二 十七日第三種郵便物 認 可 ※こぺる会員の方は送料サービス 〒602・0017京都市上京区衣極通上旬霊前下ル上木ノ下町73-9 TEL(075)414・8951FAX(075)414・8952E制aiI :副nsha

par.o仇 情.jp

阿昨社

定 価 三 百 円 ︵ 本 体 ニ 八 伏 円 ν

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