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部分社会の法理の在学関係への適用に関する考察

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

部分社会の法理の在学関係への適用に関する考察

雪丸, 武彦

九州大学人間環境学府博士後期過程

https://doi.org/10.15017/15653

出版情報:教育経営学研究紀要. 10, pp.55-62, 2007-05-31. 九州大学大学院人間環境学府(教育学部門) 教育経営学研究室/教育法制論研究室

バージョン:

権利関係:

(2)

部分社会の法理の在学関係への適用に関する考察

  雪丸 武彦

(九州大学/大学院生)

はじめに

1∬皿

部分社会の法理の生成と展開

教育分野における部分社会の法理の展開 部分社会の法理への批判

部分社会の法理の在学関係への適用と課題 おわりに

はじめに

 本研究の目的は在学関係の説明概念の一つである 部分社会の法理を対象に学説及び判例の検討を行い、

在学関係に対してその法理の適用した際の課題を明 らかにすることである。

 就学者と就学校との法関係である在学関係を表現 するものとして憲法学上「部分社会」という説明概 念がある。この概念は本論で参照するように判例に おいて登場し、学説としても理論蓄積がなされ、総 体として部分社会の法理もしくは部分社会論と呼ば れてきたω。

 部分社会の法理は、議会や政党、労働組合、宗教 団体、そして学校といった自律的に法秩序を構成す る社会(部分社会)においては、一般市民法秩序と 直接の関係を有することの認められる特別の事情が ない限り司法権が及ばないとするものである。部分 社会においては内部規律が存在し、その規律に対し ては判断してはならないという社会の自律性に対す る尊重、それに対する司法権の制約を最大の特徴と する。部分社会の法理を簡潔に定義したものとして 次のものがある。部分社会の法理は「自律的法規範 をもつ社会ないし団体内部の紛争に関しては、その 内部規律の問題にとどまる限りその自治的措置に任 せ、それについては司法審査が及ばないという考え

方」(2)である。

 部分社会の法理をめぐっては、本論で見るように、

部分社会内部における個人の権利の保障がなされな いことが危惧され続けてきた。確かに司法審査を認

めず、部分社会の法秩序を優先させることになれば、

救済可能性がなくなりかねない。長谷部は「部分社 会の法理は、各部分社会には、内部紛争を解決すべ き法は存在するとの前提に立って」いると指摘して いる〔3)が、事実問題としてこの前提が成り立ちうる のかという点に加え、それが成り立つとしても解決 すべき法が妥当性を有しているかどうかという点も 見逃せない。

 これに関連して従来部分社会の法理が理論として 問題視されてきたのは、①さまざまな異質な団体が 一括して含まれていること、②内部問題に司法審査 が及ばないとする理由が不明確なこと、③内部の事 項に司法審査が及ぶかどうかは、結局は各団体の性 質やその内部での法的紛争の特質などを具体的に検 討しなければ決定できない、という理由であり(4)、

部分社会の法理が存在するという前提に立つまでの 理論不備や、存在が可能としても理論の有効性の有 無自体が問われている。

 さて、部分社会の法理は上記のような難題を抱え ていることが指摘されているが、本稿は部分社会の 法理の一つである在学関係論にカテゴライズされる 判例及び学説を検討し、総体としての部分社会の法 理の問題というよりも、在学関係論としての課題を 抽出することを目的とする。

 本稿がこのような理論検討をするのは次の理由に よる。第一に、部分社会の法理の理論射程を明確に することで、在学関係論の外延を明確にするためで ある。在学関係の代表的学説において部分社会論の 援用がなされているものの(5>、その問題性や限界に

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雪  丸  武  彦

ついて自覚的であるとは言えない。一方で、本論で 指摘するように、在学関係に部分社会の法理を適用 することに批判する論者もいるが、その批判は部分 社会の法理が特別権力関係論を継承したものである、

ということに集中している。そうではないのではな いか、固有の批判すべき点があるのではないか、と いうのが筆者の見解である。部分社会の法理の在学 関係論としての射程、さらに可能性を検討すること は学説の発展として意義があると言える。

 第二に、現代的課題に引きつけるとすれば、近年 の学校選択制や新たな学校設置者の参入などの新自 由主義的改革といわれる教育現象は、従来の就学義 務制度がもたらしていた安定的な就学体系を切り崩 しっっ、保護者や学校設置主体という従来の学校制 度の想定しない権力主体を取り込んでいる。さらに、

地方分権改革の系において、学校評議員や学校運営 協議会といった社会の力を学校に取り入れ意思決定 の多様化をもたらす制度設計がなされている。社会 のカを学校に取り込むということは、オープンシス テムとしての学校にとっての有用性を意味する反面、

従来の学校に存在しない新たな秩序を構成するとい う点において危うさをもつ。

 このように制度的に学校における権力関係の再構 成を行おうとしている現在、部分社会の法理の生成、

批判の間で、そしてその存在をめぐり交わされた議 論を参照することは、再構成のもつ危険性を照射す るという点において意義をもつと考える。やや結論 的に言えば、本稿では部分社会の法理に対して、限 定的ではあるが、その有用性の再評価を行うことに

なる。

 内野は「部分社会論は、部分社会(たとえば学校)

内での人権制限を正当化するという実体法的文脈で もちだされることもあるが、この点はあまり感心で きない」㈲としており、本稿も在学関係という具体 事象を扱い実体法的文脈の中に位置づける試みであ るため、同様の批判を浴びることになろう。

 しかしながら、上述のように理論としての曖昧さ を欠点とする部分社会の法理が発展の系として個別 的・具体的な事例(本稿では在学関係)の法理に向 かいつつある現在、実体法的文脈と整合性のある法 理を形づくることは今後必要不可欠の作業である。

本稿は発展に向かうまでの検討課題の提示の作業と 位置づけられよう。

 以下では第一に部分社会の法理がどのような経緯

で法理として成立するに至ったかを概観し(1)、教 育分野における部分社会の法理の展開を論じ(H)、

部分社会の法理に対する批判を検討するとともに

(皿)、在学関係に部分社会の法理を適用することの 意義と課題を論じ(IV)、最後に本稿の知見を簡単に 整理し、今後の課題を論ずることとする。

工 部分社会の法理の生成と展開

 部分社会の法理は戦前より田中耕太郎や末広厳太 郎、美濃部達吉らによって「法秩序の多元性」とい う概念から関連する議論がなされていたし、裁判の 中で提起されてもいた。この裁判においては、部分 社会の法理は治安維持法を適用しようとする裁判所 に対して、国家権力の統制に対する学問と大学の自 立と自律を主張する文脈で用いられ、自由を確保す るものとして主張されていたω。

 これに対し、内部規律問題として提起される部分 祉会の法理は直接的には戦後の法社会学研究におけ る「社会団体の内部的秩序」研究の蓄積により議論 の契機を与えられた〈8)。

 そして戦後の判例上の部分杜会の法理のルーツを 辿れば、米内山事件最高裁判決(1953年1月16日)

における田中耕太郎少数意見に示された「法秩序の 多元性」鰯までさかのぼる。この事件では、青森県 議会によってなされた米内山県会議員の除名処分に 対して青森地方裁判所が執行停止の決定をしたが、

これに対して内閣総理大臣が異議を述べ、その異議 の適法性が争われた。

 田中耕太郎は上記の多元性について以下のように 指摘した。「凡そ法的現象は人類の社会に普遍的のも のであり、必ずしも国家という社会のみに限られ」

ず、「国家なる社会の中にも種々の社会、例えば公益 法人、会社、学校、社交団体、スポーツ団体等が存 在し、それぞれの法秩序をもっている。法秩序は社 会の多元性に応じて多元的である。それ等の特殊的 法秩序は国家法秩序即ち一般法秩序と或る程度の関 連があるものもあればないものもある。その関連を どの程度のものにするかは、国家が公共の福祉の立 場から決定すべき立法政策上の問題である」ω〉。田 中はこのことから司法権の介入の認められない純然 たる自治的決定領域が存在することを論じたのであ った。しかしながら川村の指摘するように「社会の

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多元性、法の多元性を指摘するだけで、憲法の規定 する裁判所の司法権との関連を特に検討しないで、

そこから司法権の介入し得ない領域があるとの解釈 をひきだして」ωおり、法理論としては正確ではな

い。

 さらに田中耕太郎は自らの見解を、東京都板橋区 議会議員の除名決議の無効確認、損害賠償請求をめ ぐる最高裁判決(1960年3月9日)の補足意見にお いて次のように展開した。「国家は人類社会の現段階 において、最も完全な社会であり、その主権の下に ある種々の地域的および機能的な部分社会を自己の 法秩序で以て統合している。…救済を要求し得るの は、国家がその使命の達成の見地からとくに問題を 重要視して、これを自己の裁判権に服せしめた場合 に限られるものと見るべきである。…各社会はその 存立のために自らの秩序をもち、必要があれば懲戒 等の制裁によってこれが実現を保障できなければな らない。懲戒権はその社会に内在する権限である」ω。

田中は自説を以上のように展開したが、やはりここ でも先述の川村の指摘が妥当する。

 にもかかわらず、田中の部分社会の見解は、単に 田中の私論に止まらず、後の判例に影響力をもつこ ととなった。その代表的事例が村議会議員の懲罰(出 席停止)の無効確認又は取消を請求する事件(最高 裁1960年10月19日)である。この中で多数意見

として「自律:的な法規範をもつ社会ないし団体に在 っては、当該規範の実現を内部規律の問題として自 治的措置に任せ、必ずしも、裁判にまつを適当とし ないものがある」(13)と論じられた。この判決では議 員の除名処分自体は司法権の権限内の事項とし、出 席停止処分は権限外の事項とした。なお田中耕太郎 は補足意見において、除名、出席停止処分ともに権 限外にあると解すべきとしている(14)。

 これらの判例の蓄積の結果、後述するように、富 山大単位不認定事件最高裁判決で学校は「部分社会」

として説明され、「法秩序の多元性」論が部分社会の 法理として確立され、それが在学関係論を説明する

ものとして結実するに至った。

 以上のように田中が「理論的関心から語った事柄 が、その後の判例や裁判実務に意外に大きな意義を 発揮する」ことになったのであった(15)。ただしこの 理論的関心は、安易に放棄されるべきものではない

ことが論じられていくのである。

皿 教育分野における部分社会の法理の展開

 部分社会の法理は国公立、私立とを問わず、学校 という自律的法規範を有する団体に適用される。そ の点で利便性が高く、1950年代中頃から在学関係に 部分社会の法理(ないしその類似の構成)が採用さ れるようになった。以下最高裁判決のみを追ってい

くことにしよう。

 まず京都府町医科大挙学処分取消請求事件の上告 審(最高裁1955年7,月30日)である。この事件は 控訴審においては国・公立学校の在学関係は特別権 力関係とされていたが、次のように部分社会の法理

と類似の構成を採用している㈹。

 大学の学生に対する退学処分は、教育上の必要 に基く懲戒行為として行われるものであるが、こ れにより学生としての法的地位を消滅させる効果

を生ずるものである以上、なんらの法的効果を伴 わない単なる事実上の作用としての懲戒行為と同 視すべきでないことはいうまでもない。そして、

公立大学の学生に対する退学処分も私立大学の学 生に対する退学処分も、ともに、教育施設として の学校の内部規律を維持し教育目的を達成するた めに認められる懲戒作用である点において、共通 の性格を有することは所論のとおりである。

 しかし、国立および公立の学校は、本来、公の 教育施設として、一般市民の利用に供されたもの であり、その学生に退学を命ずることは、市民と

しての公の施設の利用関係からこれを排除するも のであるから、私立大学の学生に退学を命ずる行 為とは趣を異にし、行政事件訴訟特例法第一条の 関係においては、行政庁としての学長の処分に当 るものと解するのが相当である。

在学関係が特別権力関係であるとする見方であれば、

内部規律問題として見るよりも先に、大学に懲戒権 が授権されているという論理から懲戒を無制限に正 当化する。しかし、それとは異なり、本判決では懲 戒という作用を内部規律の問題として捉え、法的に 懲戒の可能な範囲を設定するというアプローチを採 用しており、この点において画期1生をもつ。とはい え「なんらの法的効果を伴わない単なる事実上の作 用としての懲戒行為」についての細かな検討はして おらずその曖昧さが残る。そしてこの事実上の作用

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雪  丸  武  彦

について法的効果を伴わないとする見方が、まさし く部分社会の法理の構成である。

 次に昭和女子大事件の最高裁判決(最高裁1974 年7,月19日、)が挙げられる。判決では以下のよう

に説明された(17)。

大学は、国公立であると私立であるとを問わず、

学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施 設であり、法律に格別の規定がない場合でも、そ の設置目的を達成するために必要な事項を学則等 により一方的に制定し、これによって在学する学 生を規律する包括的権能を有するものと解すべき

である。

学校当局の有する右の包括的権能は無制限なもの ではありえず、在学関係設定の目的と関連し、か っ、その内容が社会通念に照らして合理的と認め

られる範囲においてのみ是認される…。

特別権力関係を持ち出さずに、包括的権能を社会通 念上の合理的な範囲内で認めている。

 上記の2つの判例のように、放学処分や退学処分 については部分社会の法理は司法審査を可能として いるが、それ以外の措置については広範な裁量権を 認めている。

 前節の判例蓄積に加え、これら教育分野における 判例蓄積もあり、富山大学単位不認定事件の上告審

(最高裁1977年3,月15日)では以下のように部分 社会の法理が展開された⑯。

るのが相当である。

大学は、国公立であると私立であるとを問わず、

学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究 施設であって、その設置目的を達成するために必 要な諸事項については、法令に格別の規定がない 場合でも、学則等によりこれを規定し、実施する

ことのできる自律的、包括的な権能を有し、一般 市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成してい るのであるから、このような特殊な部分社会であ る大学における法律上の係争のすべてが当然に裁 判所の司法審査の対象になるものではなく、一般 市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題 は右司法審査の対象から除かれるべきものである。

この判決では、田中耕太郎の見解のように部分社会 における規律をほとんどすべて司法権に優越させる 構成は採用しないものの、一般市民法秩序との関係 の有無をメルクマールとして司法権の限界を設定す るという部分社会の法理が明確に示された。

 以後教育判例において部分社会の法理が適用され るケースは多く見られるようになった。そしてそれ らのケースでは、「社会通念に照らして合理的と認め られる範囲において」(丸刈り校則裁判(熊本地裁 1985年11,月13日))、または「社会通念に照らし て著しく不合理でない限り」(高校バイク禁止校則違 反による自主退学勧告事件(最高裁1991年9月3 日号)という表現により校則の適法性を確認し、部分 社会の法理を追認することになったのである。

裁判所は、憲法に特別の定めがある場合を除いて、

一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するので あるが(裁判所法3条1項)、ここにいう一切の法 律上の争訟とはあらゆる法律上の係争を意味する

ものではない。すなわち、ひと口に怯律上の係争 といっても、その範囲は広汎であり、その中には 事柄の性質上裁判所の司法審査の対象外におくの

を適当とするものもあるのであって、例えば、一 般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な 法規範を有する特殊な部分社会における法律上の 係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の 関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、そ の自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、

裁判所の司法審査の対象にはならないものと解す

皿 部分社会の法理への批判

 これまで見てきたように部分社会の法理は田中耕 太郎による積極的な主張を経て、教育分野において

も一定の定着をみることとなった。

 とはいえ先述したように部分社会の法理に対して は批判が多い。以下では2つの点について検討して

みる。

1.法治主義との整合性

 法治主義という原理の形骸化が部分社会の法理を 批判する代表的見解である。例えば辻村による「司 法審査が及ばない範囲を広く解する傾向を正当化す

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ることとなり、法治主義の原則から妥当ではない」(19)

とする見解がそれに当たる。

 周知の通り従来司法権の限界は様々な角度から論 じられてきた。裁判所法に定められる「法律上の争 訟」は「当事者間の具体的な権利義務ないし法律関 係の存否に関する紛争であって、且つそれが法律の 適用によって終局的に解決し得べきものであるこ と」(教育勅語合憲確認等請求事件)⑳を要件とする。

例えば宗教上の教義に関する争い(21)は法の適用によ っては解決し得ず、法律上の争訟とはならない。そ れゆえここに司法権の限界が設定される圏。また、

憲法の例外規定や国際法上の例外も司法権を制限す るものとして論じられてきた。

 これらの例外の妥当性は通説として一定の地位を 築いているものの、部分社会の法理はそうではない。

一般市民法秩序との関連においてすべての部分社会 への司法権の介入を抑制しようとする部分社会の法 理は司法権の限界を際限なく拡大する可能性がある からである。

 この可能性から「部分社会論を肯定すべきか否か という問いに対しては学説の大半が否定的」とされ る囲。もっともその間の論理は様々である。

 まず確認しておきたいことは、学説の多くに共有 された考え方として、先述した「社会通念における 合理性」が基準となっているということである。典 型的には次の見解がある。「原則的に、自律権によっ て、司法審査適合性が否定されるとしても、内部自 治にとどまらない重大な事項、内部自治に委ねてい ては社会的正義に著しく反する場合には、司法審査 が肯定されるべきである」㈱。

 一方で見解が異なる点は部分社会の性質である。

例えば阪本は部分社会の自律性を「結社の自由」か ら導き、司法審査のあり方について弾力的に次のよ うに論ずる。「結社の自由の一側面は、結社内部に誕 生する自主規範の運用・解釈の自由を国家が尊重す ることにある。とすれば、裁判所としては、結社内 部の紛争解決に当たって、同自主規範を法規範に準

じたものとして扱いながら、それを裁判規範とする よう求められているのである」圏。このような立場 に立ちながらも、司法審査の範囲については先述の

「社会通念」に加え「公序良俗」を基準としながら、

「結社の構成員に対する処分を司法審査するに当た って、自主規範を尊重するよう求められる裁判所は、

原則として、処分の理由・程度均衡等の実体面につ

いて判断すべきでなく、同自主規範が公序良俗に反 するか、または、処分が社会的にみて明らかに許容 限度を超えている場合に限定されるべき」㈱として

いる。

 これに対して木村は「司法審査適合性の有無は、

各団体の憲法上の根拠条文によって決すべきであ る」⑳と論じており、この説を採用するところによ れば、「大学の場合は、憲法23条の学問の自由から 導かれる大学の自治との関係で、審査権の行使が制 限される」㈱こととなる。

 このように憲法上の根拠条文をもとにした場合、

先述の富山大学単位不認定事件のようなケースも対 応できるであろうが、阪本の見解ではそれを不適当 とする。阪本は「国家内に存在する部分社会は部分 社会に特有のルールに従って統制運営されるべきで

あって、部分社会内部紛争の解決は、司法審査によ らず、内部的救済に待つべしと考えることは、活力 ある自由な多元的国家にふさわしい」と評す。しか し「その理屈は、私的な結社について妥当するもの の、本来法令によって統制されるべき国家機関につ いては通用しない」とする剛。

 以上のように学説においては、部分社会の法理が もたらした司法判断の思考停止は回避されるべきで あり、その理論は「放棄」すべき圃というスタンス に立ちながらも、その立ち位置については若干の差 異が認められる。

2.理論の包括性

 部分社会の法理の批判点は基本的には法治主義か らの懐疑であるが、一方でなぜ部分社会であればす べて司法審査が許容されなくなるのかという包括性 に対する疑問もある。

 例えば長谷部は「多様な中間団体についてそれぞ れ司法権の介入が抑制されるべき理由は異なるはず であり、それを一括して部分社会の法理を説くこと は、問題の解明にさして資するものとはいえない」⑳

と指摘する。

 これに関して芦部もまた、法秩序の多元性を前提 とする一般的・包括的な部分社会の法理は妥当では ないとし、「それぞれの団体の目的・性質(例えば強 制加入か任意加入かの区別)・機能はもとより、その 自律性・自主性を支える憲法上の根拠も(略)異な るので、その相違に即し、かつ、紛争や争われてい る権利の性質を考慮に入れて個別具体的に検討しな

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雪  丸  武  彦

ければならない」幽とする。個別具体的なアプロー チを採用するとなると、もはや部分社会として論ず る積極的な意味はなくなる㈱。

 また、この理論の包括性はかつて公務員の勤務関 係など公的主体の内部の権力関係を説明した特別権 力関係論との類似性を有することが指摘される。す なわち特別権力関係の特徴であった公的主体との関 係を、今度は自律性に置き換えて、自律性ある団体 ならすべて司法権が抑制されるという構成になるの である。例えば大須賀は「本来は司法審査の限界を 説く理論であるが、裁判所の審査が及ばないとする ことによって団体の処分が実質的に適法とされるの で、特別権力関係論と同様の機能を果たすことにな る」㈱とする。

 教育法学の立場からはこの特別権力関係論との類 似性から部分社会の法理を批判する見解が多い。

 例えば兼子は先述した富山大学単位不認定事件の 最高裁の見解に対し「『部分社会』説は、現在の行政 法学説とも呼応し、特別権力関係論が唱えていた司 法審査制限を部分社会の法的自律性によって新たに 裏づけようとする」⑯と批判する。結城もまた「学 校が『部分社会』とみなされることで、学校の包括 的規律権・広範な教育裁量権とそれに基づく措置や 決定に対する司法審査の排除が導かれ、伝統的な学 校特別権力関係論の法的効果が実質的に存続せしめ られている」㈹と批判している。確かに部分社会の 法理は特別権力関係論の作用を内包しているように 見え、特にその作用が国公立でも私立でも変わらず 及ぶという点において、巧妙に特別権力関係論を強 化していると捉えられるのである。この懸念は妥当 すると言わねばならない。

皿 部分社会の法理の在学関係論への適用と

 課題

 以上のように部分社会の法理はその生成において 自律性の尊:重から始まり、現在はほとんど否定され るに至っている。

 この部分社会の法理はどのような構造をもってい たのであろうか。樋口は部分社会の法理のもつ本質 を次のように指摘する。「治安維持法を適用しようと する裁判所にむけて主張される部分社会論と、日本 国憲法下の、権利保護の根拠となりうる法令の適用

を排除しようとする部分社会論とは、同じ論理構造 を持つことによって、自由の保障という要請に対す る効果の点では、正反対のはたらきをすることとな る」(37)。部分社会という社会的権力は、コインの表 と裏の関係であり、国家からの自由を要請すると同 時に、自由の制限をもたらす。

 この点を在学関係に置き換えた指摘として篠原は、

「構造論的にみて、「部分社会」論には、①部分社会 の自律性を確保する機能と、②部分社会への司法審 査を制限する機能の両面があるが、この両者の機能 は「在学関係」の一方の主体である児童・生徒の立 場に立つ場合、その学習権保障への過程で矛盾した 論展開を示すこととなる。」「たとえば、近年問題と

された「生徒規則」による管理教育化を考えたとき、

その「生徒規則」による児童・生徒への人権侵害は、

その「生徒規則」自体が、①部分社会の自律:性を有 する自治規範としての内部慣習法であること。さら に前述のことを根拠として、②司法審査を制限する ことから、結果的に「在学関係」の一方の当事者で ある児童・生徒の権利・権限は不当に解釈されるこ ととなる」と的確に論じている(38>。

 このように「人間の自由と生存条件を脅かすのが 国家権力に限られず、少なくとも同程度で社会的権 力による侵害の危険がある」翻ことから、社会的権 力に対する救済可能性をどのように担保するのかと いう課題が生まれてくる。「「部分社会」論がスウィ ーピングな特別権力関係論にかわる形で登場したこ

とには、一定の積極的意味があったとしても」、「社 会的権力からの自由を裁判によって求める道をせま くする効果」を生むという点については瑚確な批

判的観点が必要」(40)なのである。

 この点、憲法の私人間適用説などの法解釈レベル での救済論を構想するか、立法論によるのかはひと まず置くとして、理念として確認しておきたいこと は、社会的権力に対しパワーバランスのとれた権利 ないし権限を在学関係の一方の当事者である学習者 に対して確保する必要性である。

 ここに指摘されるパワーという存在を、現代的に は就学義務制度の弾力化という条件の下において実 施されている学校選択制の「選択」権により確保す ることもあり得る。また、将来的に導入される可能 性のあるバウチャー制のように「選択」権に「財政」

の性格も取り入れて保障するという戦略もある。こ れらの制度設計は現在のところ多様であるというし

(8)

かない。

 この一方で、現在様々な形で学校への地域や保護 者の参加・参画が唱われる中で、かつての公的領域 として踏み入れられない「聖域」としての学校は存 在し得なくなっている。これを学習者の権利の保障 の促進として見る向きもあろうが、他方で部分社会 の法理の議論の中で示されたたコインの両面性に従 えば、また異なる次元での社会的権力の問題が発生 し、それ自体について問題設定をなす必要性が出て きていることが指摘できよう。

おわりに

 本稿では部分社会の法理について、判例及び学説 を概観し、その性質について明らかにするとともに、

在学関係において部分社会の法理の議論を展開させ たときに得られる示唆について論じた。部分社会の 法理の議論の展開を見るとき、在学関係に対するそ の法理の再評価がなされ得ると言えよう。

 ところで、本稿においては部分社会の法理の参照 がメインテーマとなり、教育法学説における部分社 会の法理の取り込みやその解釈について論じること はほとんどなかった。教育権論争の中で教育法学内 部において部分社会の法理は様々に解釈されており、

この点はまた深く論ずる余地がある。

 また部分社会の法理を考える際に在学関係におけ る個別のアクターの位置づけをそれほどに考慮して いないのが本稿では課題となっている。

 芦部が論じたように、部分社会の法理では、それ ぞれの団体の目的・性質(強制加入か任意加入か)・

機能に応じて議論を展開することが課題として提示 されていた。

 団体への加入という点に着目すると、学校におけ る加入という問題は、少なくとも判例上においては 看過されていたと言える。ここには学校内部の構成 員は当然ながら内部規則に従うものであるとの前提 がある。しかしながらそのように考えた場合、なぜ その効力が発生したのかという根拠は示されない。

部分社会の法理においては部分社会内部において規 則を作りだす自律性があると考える。しかしその自 律性を尊重するあまり、自律性を本来もたらしたは ずの個々人に対する視点が希薄になっている。

 特に留意すべきは、個々人がなぜ自律性をもつほ

どの団体を構成したのかという「目的」であり、そ の目的に対する賛意という意思の存在が看過されて いるという理論上の事実である。

 上記の点の理論深化はまた他日に期したい。

【注】

(1)部分社会の法理は部分社会論とも呼ばれるが、

 本稿では引用する場合を除き主として部分社会  の法理と呼ぶ。

(2)野中俊彦「裁判所と憲法訴訟」野中俊彦・中  村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法H[第4版]』

 有斐閣、2006年、p224。

(3)長谷部恭男『憲法[第2版]』新世知、2001年、

 p.406。

(4)野中、前掲論文、p224。

(5)伊藤進『教育私法論』信山社、2000年、p.17。

(6)内野正幸『憲法解釈の論点』[第4版ユ日本評  論社、2005年、P.156。

(7)樋口陽一『憲法[改訂版]』創文社、2004年、

 P.191。

(8)戒能通孝『法社会学の課題』法律文化社、1951  年、 p.1380

(9)田中は同年上梓した著書においても同様の見  解を述べている。田中耕太郎『法律学概論』学  生社、1953年、P.23。

(10)最:高裁昭和28年1月16日、最高裁判所民事  判例集7巻1号、p.12。

(11)川村清「部分社会論と司法権」和田英夫先生  古稀記念論文集編集委員会『裁判と地方自治』

 敬文堂、1989年、p.3。同旨、初宿正典『憲法  2基本権』成文堂、1996年、p.85。

(12)最高裁判所民事判例集14巻3号、pp.359−360。

(13)最高裁判所民事判例集14巻12号、p2633。

(14)同書、p。2638。

(15)佐藤幸治「『部分社会』論について」『判例タ  イムズ』判例タイムズ社、1982年、pp2・5。

(16)最高裁判所民事判例集8巻7号、p.1463。

(17)最高裁判所民事判例集28巻5号、p.790。

(18)最高裁判所民事判例集31巻2号、p280。

(19>辻村みよ子『憲法』日本評論社、2000年、

 p.481。

(20)最高裁判決1953年11月17日、行裁例集4

(9)

雪  丸  武  彦

 巻11号、 p2760Q

(21)最高裁判決1981年4,月7日、最高裁判所民  事判例集35巻3号、p.443。

(22)なお大石は「もともと司法権の限界とは、他  の憲法的機関との関係における裁判所の地位や  性格に由来するもの」であり、「私的団体や部分  社会の内部事項に対する審判権の可否は、訴訟  手続優越の原理に対する例外の問題ではなく、

 むしろ一定の理由づけに基づく争訟の形態又は  審判対象の問題であるから、むしろ「法律上の  争訟」の可否の問題として考えるべきであろう」

 としており、「限界」論の意味内容の区別に注意  を促している(大石眞『憲法講義1』有斐閣、

 2004年、pp.170−171)。検討を要する指摘であ  るものの、本稿においてこの点については深く  触れない。

(23))松本和彦「特別権力関係と人権」高橋和之・

 大石眞『憲法の争点[第3版]』有斐閣、1999年、

 P.63。

(24)木村俊夫「裁判所」手島孝監修・安藤高行編  著『基本憲法学[第2版]』法律文化社、1998  年、p.205。

(25)阪本昌成『憲法理論1[第二版]』成文堂、

 1997年、p.440。

(26)同書、p.440。

(27)木村俊夫「裁判所」手島孝監修・安藤高行編   『基本憲法学[第2版]』法律文化社、1998年、

 pp.204−205。

(28)如意剛「裁判権の担い手としての裁判所」栗  城壽夫・戸波江府編著『現代青林講義憲法[補  訂版]』青林書院、1997年、p.301。

(29)阪本昌成、前掲書、p.440。

(30)野坂泰司「裁判所と違憲審査制」『憲法(4)

 統治機構[第3版]』有斐閣、1996年、pp.178−179。

(31)長谷部、前掲書、p.406。

(32)芦部信喜『憲法[新版補訂版】』岩波書店、1999  年、 P.309Q

(33)同旨、大野拓哉「「部分社会」論と「学校」

 一「学校」の「自治」に関する若干の考察」『弘  前学院大学一般教育学会誌』8号、1988年、p。45。

(34)大須賀明編著『憲法』青林書院、1996年、

 p.105。

(35)兼子仁『教育法〔新版〕』有斐閣、1978年、

 p.401。

(36)結城忠「学校部分社会論」結城忠編著『教育  法規重要用語300の基礎知識』明治図書、2000

 年、p.171。

(37)樋口陽一『国法学』有斐閣、2004年、pp.131−132。

(38)篠原清昭「児童・生徒の在学関係の法的性質  は何か」『教育法規の論争点』教育開発研究所、

 1994年、p.138。

(39)西原博史「〈国家による人権保護〉の道理と  無理」樋口陽一・森英樹・高見勝利・辻村みよ  子編著:『国家と自由一憲法学の可能性』日本評  論社、2004年、p.327。

(40)樋口陽一「日本国憲法下の〈公〉とく私〉一   〈公共〉の過剰と不在一」日本公法学会『公法  研究』第54号、1992年、p.7。

参照

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