224
地形区分の模式断面図
秋葉山南西麓周縁地域の地形区分図 一一天竜川と気回川合流付近一一 第
1
図林野利用変遷につい
て︑畑小作︑杉山年
季売渡証文︑林地の
地籍図等の諸資料を
手懸りとして︑商品 作 物 の 林 地 へ の 浸 透︑それに伴う一斉
育成林の進行︑その
発展段階について以
下解明を試みるもの
であ る︒
一︑旧小川村の
地域概観 天竜林業地帯の中
枢すなわち遠州秋葉
山(標高八六八米)
の南西麓︑天竜川と
気田川との合流点に位置する旧小川村は︑天竜川東岸の一部と︑その一支流気田川下流部を包括する典型的な河谷山
村である︒近世期︑幕府直轄地(天領)で中泉代官の支配下に置かれていたが︑現在は磐田郡天竜市の一地区に属し︑
村域は大部分︑林野であり︑杉︑檎を主要樹種とする人工的な育成林が一律に展開している︒周囲は標高一五
O
米t
四
OO
米内外の山々に囲まれ気田川の河谷沿いには︑道路が整備され︑秋葉山麓の坂下を経て犬居(若身)春野方面 に一時間半足らずで連絡する︒しかも当村と外縁地域との物資交易の重要ルlトであるが︑このルlト 沿 い に か け
2 2 5
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因て︑河谷の谷壁と谷底との谷傾斜面︑いわゆる傾斜変換線内には︑標高一五
O
米︑二OO
米︑二五O
米の各等高線が延びている︒その平均斜度は三
01
四O
度内外の急傾斜を示している︒村域は天竜川水系と気田川水系との分水界に俗に赤石裂線と光明断層と呼称される著しい断層が南北に走っているハ
8 0
接し︑地域内には︑然も森林地の間隙に
多彩な岩質類の層理の不整合(怒と︑逆層の露出および破砕された崩落現象が望見される︒
また︑気回川沿いの奥地(小川村域内)笹合︑唐井栗聞には︑販入曲流や小規模な︑河岸段丘がみられる(第
1
図参照)︒然も気回川の河川礁の円形度や粒度︑河床の砂礁︑大小の土石堆積状況など︑明瞭に天竜川と比較すると異な
った河相を現わしている(写真
1 )
︒
一般に山村集落は散村景観を示すが︑当村の主要集落群︑千草︑中嶋︑唐井栗︑松間等︑
いず
れも
標高
一
OO
米の
気田川谷底内すなわち自然堤防状の微高地︑氾濫原︑小規模な河岸段丘上に立地展開している︒殊に天竜川との合流
点に位置する千革︑上島の対向集落は︑近世期を通じて台風︑集中豪雨に見舞われると︑天竜川の洪水︑氾濫で河堤
の決潰︑田畑の冠水などの災害を蒙ってきた︑然も天竜川の気田川への逆流︑それに伴う河川水位の上昇で︑家屋の
流出
がみ
られ
︑
一時的に集落移動もあった︒そのことは享保十四年(一七二九)明和二年(一七六五)寛政三年(一
2 2 6
航空写真遠州│秋葉山西南麓周緑地域 一一旧小川村(現在天竜市)一一
七九一)各年
度の
天竜
川︑
気 回 川 に 関
係する﹁川除
御 普 請 仕 立
帖 ﹂ ハ
9 u
﹁川
除
御並
日請
御入
用
帖﹂
( 9
﹀や
﹁天
竜川通出水見
回 り 申 渡 書 付 ﹂
( 9
﹀等
とり
わけ寛政三年
(一
七九
一)
﹁乍
恐以
書付
御注進奉申上
候﹂の文章内
に﹁天竜川大
満水定水
λ ρ
水重四丈余増水井気田川通出水定水一一水重壱丈八尺余増水仕以下中略:::上ケ嶋畑小砂押込夏作皆無ニ押
埋申候後略﹂(資料
3 )
と記明されている︒以上の諸史料の記録関係から災害の甚大さも傍証される︒したがって近世
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因
227
天竜
) 1 1
と気回川の合流付近の河川礁の堆積状況 写 真1
期築提の決潰や土
砂︑石瞭等の水田
気回川の下流唐井粟付近の杉,檎の人工林景観
への流入の被害に
対応してそれぞれ
年貢米の納入慣行
が 行 わ れ れ て い
る︒殊に谷底や沢
沿いの水田は︑自
然の湧水を利用し
て︑棚田式に造成
され
︑
一番有利な
点は河川の氾濫に
写真
2
伴う危険度の少な い 安 定 耕 地 で ある︒その分布は地
圃 家 屋
圏 自 然 堤 防
図マ f Z 「回林地番号
冨 河 水 路 自 氾 濫 原
第
2
図 天竜川と気回川との合流付近の林地の土地割図2 2 8
形的な条件に規制された局地的な現象である︒他方︑航空写真(前掲)と土地利用図(秋葉山︑一九五三)の掲示か
ら判
断す
ると
ハ中島︑松問︑小田各集落の後背地および気回川の谷壁傾斜面には︑樹令の高い針葉樹林や伐採後
g
︑再造林と推定される幼令林が諸所に散在している(写真
2 )
︒
さらに航空写真からは︑集落周縁の傾斜地や尾根筋の平坦面︑hh品
な谷
壁傾
斜地
に︑
かつての焼畑︑切替畑︑山畑な
どの跡地︑その跡地への造林景観がみられるが︑当村域内の気田川河谷沿いは近世中期その可耕地開発が限界に達
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因
し︑後背地の山地に開発前線が上昇し︑とりわけ林地の地籍図(第2図)によると︑林地の地割形状の規模︑面積の
拡大から採草地︑焼畑の跡が推測され︑近世期の主要な農耕地であった︒その後切替畑︑山畑︑焼畑などに︑局地的
な杉檎の育成林が展開しているが︑本格的な一律の育成林は寧ろ明治︑大正︑昭和中期にかけて急速に進展した︒そ
れ以前は薪炭用の原木︑
ナラ
︑
グヌギ︑
シイなど雑木林が植栽され︑あわ︑そば︑ひえなど焼畑特有な自給的農作物の栽培が行なわれていた
a u u
また
︑み
つま
た︑
桑︑
茶︑
こうぞ等商品作物が併存して栽培され︑とりわけ茶は品種
改良の試行によって現在(天竜茶)の銘茶として︑天竜川河谷筋の茶主産地の一翼をなしている︒このような焼畑に
よる自給的な農作物利用は︑換金作物の価格上昇に伴って︑昭和三五年頃までシイタケ︑薪炭用の雑木林を中心に利
用が維持されてきた︒これらの旧焼畑地はその後木材景気ブlムで一層︑杉︑檎の育成林に転換したが︑
そ の 景 観
は隣村の光明村に展開した︒すなわち頂上部分に雑木林を残し︑その下に杉︑檎の針葉樹を造林するいわゆる広針混
植の林業生産方式が目立った︒山林経営のタイプは︑一部の有力者を除いて︑大体自家山林への依存率が高いが︑
2 2 9
部の上層農家は自営林業の性格が目立つ︒他の零細的な自営林家は︑林地面積の限界と相まって︑逐次︑林業労働に
依存する傾向がみられる︒文化三年(一八
O O )
と︑明治四年(一八七一)の宗門人別改帖資料の検討によると
8 )
一
2 3 0
あげ
られ
る︒
一方この村の山林所有は各戸共に平均化され︑
気回川沿いの自然堤防内の土地利用景観 一一松問付近一一
写真
3
戸当りの家族構成は︑平均五!六人で多婚家族の性格を帯びてい
る︒このように多婚家族と二戸当り耕地面積の零細性と相いまっ
て︑近世中期頃︑江戸へ︑大工︑商家︑寺奉公として村外に転
出︑出稼が目立っていた(享保八年一七二三﹁他村江奉公罷越書
参照
﹂)
︿
63それとは対照的に在村して︑薪炭︑
しい
たけ
︑茶
︑
養蚕を行なって現金収入策を辿っている農家と︑天竜川︑気回川
を利用する樽木︑用材の筏流し︑筏乗り︑助船︑柏木挽︑渡船な
どす
﹀︑
人夫
︑
人足による日傭労働現金収入を得て︑生活基盤を
支えている農家とに大別されて隔絶山村の出稼︑離村現象とは異
なっている︒その奉公先は︑江戸︑二俣︑掛塚︑中泉および天領
村落
関係
が多
いこ
とが
(望
︑ 特色をなしている︒または男女共こ
の村の林業活動の中枢的な存在となっているが︑部落の労働者の
生活基盤は︑地元の林業労働以外に浜松︑日坂宿駅の荷助郷課役
の人足としての日傭労働や池田渡しの船場助郷役︑天竜川︑気回
川の洪水による河堤修理︑築堤などの土木工事関係の労働などが
一部の草分け農民上位層を除いては︑階層的に極端な所有格差がみ
られ
ない
︒
ニ︑人口構造
小川村の人口構造の地域的性格を把握するには︑当村代々庄屋役をつとめた旧家溝口家の近世文書類の中で︑文化
三年
(一
八
O
六)と明治四年(一八七一)各宗門別人別主御改帖や文政二年(一八一九)から明治四年(一八七一)υ
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因
まで小川村人別増減表(明治三八調)の諸史料に吟味検討を加えると︑まず戸数八五戸内外︑人数は弘化五年(一八
四七)まで四八
O
人内外を維持していた︒安政二年(一八五五)から明治三年(一八七O )
約一五年間︑幕末の変動
期は
五二
五人
内外
を一
Fし︑常住人口は横ばいで余り増減の較差がなかったこと︑同じ天竜川や気田川上流部の山村と
比較
する
と︑
いわゆる過疎化現象の顕著な山村には含まれない︒﹁第二大区廿二小区戸数人員調官﹀表﹂によると︑隣
概して家族構成は︑平均五︑六人二戸平均の石高は一石内接の横川︑横山︑大嶺三ケ村に続いて第四位であるが︑
外で︑最高石高を示す溝口家は一三石五斗六升四合︑次いで酒井家の六石台︑鈴木︑五石五斗︑北村家は四石弐斗を
示すが︑階層分化の進行も目立っていない︑俗に草分け百姓層を中心に一つの血縁︑地縁的な共同体制に基づく地域
秩序を成している︒すでに記述したように中島︑上嶋︑小田︑日掛︑松問︑千草各村落は︑平均二︑三人前後︑遠く
は江戸表︑近くは瀬尻︑二俣︑鹿島︑中泉などに出稼がみられた︒殊に幕末期︑続発する災害︑飢麓で農山村は非常
な困窮化をもたらしたが天保一二年(一八四一)﹁村高井人別書上帖丑五日﹂(主の記録から検討すると︑人別四七一
人のうち︑男二五七人︑女一二四入である︒とくに男二五七人のうち一五才以下︑六
O
才以上八二人で二一人は他稼2 3 1
の者︑柏木挽二八人︑船筏乗り四六人が村役人一一人以上の構成からなっている︒また文化元年(一八O
四)
﹁農
業
2 3 2
之外男女売薪を伐出稼‑一仕候尤男ハ船乗リ稼等茂仕候﹂
(9
﹀と
記載
され
てい
るが
︑
小川村の労働人口は︑天竜川︑気
田川を利用する山林関係の仕事に生活基盤を支えていたことが立証される︒
三︑村落構造
ここでは︑近世初期における近世的な特徴づける村落構造を把握する︒それには当村に温存する近世史料類の抽出
と︑その吟味検討を試みた︒殊に﹁溝口家文書﹂(天竜市史四編所収)の中で享保一五年(一七三
O )
﹁高反別差出帖﹂畑
小作証文︑杉山年季販売証文などを手懸とした︒先ず寛文一三年(一六七三)松平市右衛門様御検地帖によると︑村高
一八
五石
余︑
面積
一一
一町
一反
五畝
余り
︑筆
数五
筆︑その内田方四筆︑畑方五四
O
筆を数える︒その畑方筆数の圧八O O
倒的なことは︑山地的な農業利用の進行を裏付けるものであるが︑また耕地面積は︑水田約五反五畝二六歩︑畑は約
一八町六反二畝一四歩︑下茶畑二反三畝二七歩︑屋舗は一町七反三畝一一歩︑合計二一町一反五畝一八歩︑筆数の耕
地所有面積から検討すると︑上︑中︑下畑のうち上畑筆数が多い︒上畑と中畑合計三二五筆で六
OM
を示
して
いる
が︑
一筆当り平均面積は同数値に近似し︑中畑は上畑より若干上回っている(第一表参照)︒以上の事実は近世初期以降︑
水田を中心とする可耕地開発が進みその限界に達し︑その結果寛文期前後には開発前線が後背地の山地に上昇し︑
L
わゆる焼畑︑切替畑を主体とする山地的農業利用の拡大が見出される︒これとは対照的に前時代の段階において耕地
開発の焦点であった水田は︑その生産可能限界にあり︑上田三反四畝︑中田一反六敵︑下回四畝︑合計五反五畝二六
歩︑筆数回
O
筆を
数え
︑
一筆平均面積一︑三敵︑殆ど︑皆無に等しいほど僅少である︒然も水田造成の技術上山問︑沢
等の自然湧水可能な地点に開田が多い︒また天竜川︑気田川の河川氾濫や逆流による増水︑水位の上昇など自然災害
2 3 3
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因第
1
表 寛 文1 3
年( 1 6 7 3 )
小川村字別耕地集計(畑)上 畑 │ 中 畑 │ 下 畑 │ 下 々 畑 │ 言十
*
名 筆数│面積│筆数│面積│筆数│面積│筆数│面積│筆数│箇積 反畝方
日 う ち
5 1 3 3 . 2 9 1 1
,2 4 1 1 6 . 2 4 7 1 4 2 . 1 7
石 仏 の 本
2 1 1 3 . 1 7 1 2 3 9 . 0 2 6 1 8 . 1 7 20 6
1. 06 か ま な わ て2 1 2 . 1 2 2 1 2 . 1 2
な か 畑 ケ9 1 2 9 . 0 8 1 0 1 7 . 0 2 3 1 8 . 1 5 22 54.25
下 白鳥2 0 77.06 1 0 2 5 . 2 6 4 1 6 . 1 6 34 109.18
宮 野 上9 1 3 . 2 6 1 1
1. 021 1 3 . 0 0 1 1 7.28
花 田
2 1 4 . 1 0 1
1.02 3 1 1 3 . 2 2 3 1 4 . 1 1 9 1 2 3 . 1 5
からくり大信津 l 1.
1 9 3 1 9 . 1 8 4 1 1
1. 07 堀 き し F吋3 . 0 6 1 1 0 . 2 6 2 1 4.02
J I I
は た3 1 1 3 . 2 3 3 1 1 0 . 1 3 6 1 2 4 . 0 6
大 カミ 嶋
2 1 1 5 . 0 6 4 1 5 . 1 8 6 1 2 0 . 2 4
宮 の 上
2 2 1 1 1 . 2 3 1 5 1 2 6 . 0 5 4 1 2 . 0 3 3
1.1 7 4 4 1 4
1.1 8
ち く さ
6 1 2 9 . 2 9 6 1 2 9 . 2 9
東 間
8 1 4 7 . 2 8 4 1 4 . 2 7 7 1 6 . 0 0 9 1 1 7 . 0 0 2 8 1 7 5 . 2 5
中 嶋
2 3 1 9
1. 21 9 1 1 5 . 1 2 6 1 1 9 . 2 8 4 1 7 . 1 2 4 2 1 1 3 4 . 1 3
井
戸
尻4 1 1 6 . 2 2 3 1 4 . 0 4 2 1 3 . 1 8 9 1 2 4 . 1 4
道 の 上
3 1 3 . 2 0 1 1 0 . 0 8 4 1 2.28
堀 の 上
4 1 1 4 . 2 9 5 1 4 . 1 9 9 1 1 9 . 1 8
上 か い と
6 1 2 9 . 2 8 6 1 2 9 . 2 8
堂 の 上2 1 1 6 . 0 2 2 1 4 . 0 2 4 1 1 3 . 2 9 8 1 3 4 . 0 3
下 嶋4 1 1 3 . 2 9 3 1 3 . 2 4 1 1 0 . 0 8 8 1 1 8 . 0 1
来 嶋 道 表2 8 1 3 7 . 2 0 1 1 0 . 0 8 2 9 1 3 7 . 2 8
寺 の 面2 0 1 3 4 . 0 6 2 0 1 3 4 . 0 6
小 田 お ち た ん1 4 1 2 3 . 0 2 1 1 2 . 1 8 5 1 9 . 0 6 2 0 1 3 4 . 2 6
次郎大夫かいと4 1 1 4 . 0 8 3 1 9 . 2 1 7123.29
道 の 上 下1
1.1 4 3 1 1 0 . 2 1 2 1 1 2 . 2 5 6 1 2 5 . 0 0
2 3 4
上 の 平
1
1.1 4 1 2 1 3 4 . 1 2 1 1 0 . 2 4 1 4 1 3 6 . 2 0
く ら 嶋
1 2 1 6
1. 06 4 1 2 2 . 1 8 2 1 0
,1 4 1 8 1 8 4 . 0 8
市 ケ 本4 1 1 7 . 2 9 4117.29
谷 沢3 1 2 2 . 1 5 1 1 3 . 1 8 4 1 2 6 . 0 3
市 か い と4 1 3 5 . 2 6 1 3 1 8
1. 02 5 1 5 . 1 2 2 2 1 2 2 . 1 0
道 あ わ ひ1 3 1 1 8 . 0 1 4 1 7 . 1 1 1 7 2 5 . 1 2
家ノ
前7 1 1 9 . 2 9 7 1 1 9 . 2 9
日
カ ミ
け3 1 6 . 1 6 2 1 1
1.1 5 5 1 1 8 . 0 1
た ち か ら 嶋
4 1 1 7 . 1 1 2 1 6 . 0 3 1 1 1 3 6 . 1 7
篠 起4 1 1
1. 20 2 0 2 6 . 1 3 1 5 1 4 3 . 2 3 3 1 4 . 1 0 4 2 8 6 . 0 6
さ l . .
う へ3 1 2 . 1 7 1 2 1 9 . 2 7 1 2 3 4 . 2 7 2 7 4 7 . 1 1
計
1 206 1悶 17 1 叫24.1~~む|必4. 2 1 1 6 4 1 1 3 3 . 6 3 1 5 4 0 1
刷2
寛文1
3
年づサ11
村御検地帖による寛文
1 3
年( 1 6 7 3 )
小川村耕地形態(畑)全 体 上七 一 筆
筆 数 面 積
数 │ 面
筆 積 平均面積
町 反 畝 歩
上 止岡
2 0 6 6
,3
,0 0
,7 38% 37% 3 . 0
中 畑
1 1 9 4
,6
,4
,2 3 2 2 2 3 3 . 9
下 止回
1 5 1 5
,6
,7
,28 28 3 1 3 . 7
下
ノ を
止問6 4 , 1 9
,9
,1 6 1 2 9 3 . 1
計
5 4 0 1 2 9
,5
,1 4 1 0 0 1 0 0 3
第2
表の危険瀕度が少く
ないが︑沢︑谷頭
の地点では︑集中
豪雨で一時的に雨
水が水田ほ場に流
水 か つ 土 砂 の 流
寛文1
3
年小川村御検地帖による(溝口家文書所収)入︑埋没被害を豪
ること︑時には排
水不良な不安定な
水田も散在する︒
このような水田で
も上畑納金と同様
に二百一五文であ
る
︒ こ の 事 実 は
如何に米作生産が
地形的な条件を十
分に
活用
して
︑
反当り生産量を高め︑かつ年貢米および現金納入化との関係と相いまって︑高く評価されていたことが窺われる︒当
村の水田は寛文十三年(一六七三)検地帖分析によって︑小田︑掘きし︑宮ノ前︑かまなわて︑竹のはな︑大ケ嶋︑
等小字名地区に散在している︒その畦畔区画は︑大体二間半と拾四聞が多いが︑水田地の地形条件によって短柵︑正
方形の諸タイプが混在しているが︑大体零細的な所有面積を呈している︒これは常水を一定量畦畔区画内に導水確
保︑いわゆる濯甑水利の技術面から配慮したものと推定される︒したがって︑上回︑中田の生産力の高い水田地域
2 3 5
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因は︑土地の起伏と地味の肥沃とともに自然湧水の流下に好適な土地条件の地点にみられる︒然も近世初期︑検地帖に
看取される品等級の格差は︑地形的条件によって大きく左右されたものと判断される︒そのことは︑寛政四年(一七
九二)﹁田畑高反別井口問々書上帖﹂史料
( 9
によると︑田高は︑五石六斗九升七合五勺︑上田は壱石五斗︑中田九升︑
)
下回七升五合の割合生産である︒他方︑畑高一九
O
石壱斗三升三合︑石盛一石︑屋敷畑は壱石五升︑上畑壱石五升︑中畑九斗︑下畑七斗五升︑下々畑四斗五升の数字を示している︒このように水田と畑の生産高に大きい較差が認めら
れる︒その要因として水利︑土壌︑土地の勾配︑日照関係など土地条件があげられる︒現在︑小川村地区内における
水団地の多い字名と︑近世中期の検地帖に見られる水田地の字名とは︑ほぼ一致する︒従来︑中世期から近世初期に
かけて︑水田可耕地の開発は促進し︑耕地の土地条件によって近世中期その開発が限界に達していた︒したがって年
貢米関係と相まって︑一時的な河川の氾濫で形成された河谷沿いの荒地を開墾︑いわゆる新田耕地の開発で若干の増
加をもたらした︒しかし近世中期以降有力な可耕開発地として後背地の山林原野が注目されるに至った︒
と り わ け
正徳︑一克文︑寛延︑享保の各期約八八年間の年貢割付推移の一端をみると︑田方は年貢納金の比率上余り変化はない
が︑畑方は生産石高の推定が大きく変動している(第
3
表)︒時期によって台風や集中豪雨の襲来で相当の減収をも2 3 6
時代別年貢寄j付一覧表小川村高
1 8 5
石2
斗3
升5
合 第3
表田 方 畑 方
考
i
備
反 反
反 畝 歩 石 斗 升 合 町 反 畝 歩 石 斗 升 合
正 徳
3
年( 1 7 1 3 5 , 5 , 1 6 5 , 4 , 5 . 3 1 2 , 2 , 3 , 1 0 , 5 , 4 ,
元文元年
5 , 5 , 1 6 5 , 4 , 8 1 1 , 9 , 2 , 2 8 7 3 , 2 ; 8 , 2
川土山崩石欠砂荒地入引I ( 1 7 3 6 )
1
曲石合石欠7
砂斗の寛(延
1 7 4
元8
年)5 , 5 , 1 6 5 , 4 , 8 1 1 , 9 , 2 , 28 4 3 , 5 , 9 , 5 5
升5
揃 │
享(和
1 8 0
元1
年)5 , 5 , 1 6 5 , 4 , 8 1 1 , 9 , 2 , 2 8 1 0 6 , 8 , 5
たらしていることが裏付けられる(第
3
表 ) ︒
このような格
差は︑畑地が河谷沿いと谷壁の傾斜面および尾根伝いの平坦
地に分布していることに原因の一つが見出される︒
四︑農民層分化
次に検地帖に明記されている名請人数は︑一一五人そのう
ち屋舗七二人︑屋敷四三人を数える︒さらに階層的に分類す
ると︑大部分五敵前後で一反以上は僅少である︒一般に近世期
天竜市史第四編,溝口家文書所収より
における検地政策の狙いは︑小農民自立策に重点が置かれて
いるといわれる宮
u o
小川村は﹁慶応二年壱人限り高付帖﹂
2 u
によると︑小川村惣小前高付は︑名主役︑又右衛門が最高一
三石六斗六升︑次いで伝右衛門︑九石五斗︑弥五左衛門︑長
八各々五石を数える︒大部分一石前後にすぎない︒ここに近
世期の特徴づけを表徴する小農民自立段階においてその前段
階の中世的な遺構が集落農民層に反映しているものと推測さぬ一方全名請人に対する屋敷持ちの名請は︑約六
O%
のれる
︒
比率を示し先述の﹁壱人限り高付帖﹂(巴から吟味を加えると︑
一見大部分零細農民で構成されているようにみられるが︑又右衛門︑彦十郎︑元右衛門︑助左衛門など︑分付主とし
て氏名が︑記載されている︒そのことは︑中世的な草分け百姓層の変形が中枢となって︑近世村落構造の特徴づけを
現示している︒逆説的に考究すれば中世的な素地の上に近世的なものが重複かつ錯綜し︑いわゆる移行段階の性格を
如実に反映しているものと判断する︒殊に又右衛門︑伝右衛門︑助右衛門は︑高付帖に五石以上と記録され︑
一応
村 落の上層的な農民階層に位置づけられるが︑とくに又左衛門の耕地は︑一字地区に数筆の耕地を保有している︒この 近世村落の性格形成と育成林の展開に関する英国
現象については地籍図宮﹀の吟味検討を加えて考究すると︑初期本百姓層は大体屋敷周縁で日照︑地味の肥沃︑水利
関係などの好適な耕地を占有し︑その後谷傾斜面か︑尾根伝いの不安定な林地を獲得して︑逐次焼畑︑切替畑を農地
に転換したものと推測される︒
これら草分け百姓層との結びつきは︑隷属関係︑または社会的な相関関係か︑いずれに妥当するか否か︑新たな課
題として指摘される︒
次に寛文︑享保︑天保各時代の検地帖から屋舗地の筆数増減をみると︑寛文十三年(一六七一ニ)には︑三
O
筆である︒字別に吟味すると長沢(二
O )
中嶋
(一
五)
千草
(一
ニ
O
)
栗嶋(五
O )
合計一一五筆︑そのうち屋敷のみでは栗
嶋(三七)千草(なし)中嶋(一つ)長沢(五)合計四三を示している︒その総面積は屋舗合計一町七反三畝一一歩で
あるが︑平均一畝五反で明瞭に零細性を呈している︒概して検地帖に明記されている屋舗地は筆数が多く︑その反対
に宅地面積は小さいが︑平均一反歩の屋敷内には︑大小幾棟の建物が存在し︑分家筋や下人筋など︑家族と共に居住
237
していたと立証付けられている官)︒すなわ以上の立論に適する一反歩内外の屋敷規模範囲が当村では見当らない︒
ち長沢地区︑孫大夫(五畝)︑中嶋地区︑武兵衛︑惣太郎(二畝)千草地区︑藤兵衛(三畝)与惣右衛門会ニ畝)栗島
238
地区︑又兵衛︑権左衛門三郎助︑宮大夫(四畝)で一一五戸のうち三畝以上は八人の僅少にす︑ぎない︒以上の数値は
﹁宝暦六年(一七五六)高反別差出書上帖﹂の屋舗総面積と同様である︒したがって屋舗地の増減は差がない︒現実
の屋敷自体とは別に寧ろ天領関係において年貢割付の謀役負担などによる一つの掛引に近い反別数値ではなかろうか
と考
えら
れる
︒
地域の字名は明治六年(一八七三)﹁小川村の地理誌取調帖﹂品﹀によると︑中嶋︑千草︑上ケ島︑長沢︑松問︑唐
井栗︑栗島︑小田︑日掛(日陰)︑門原︑笹合以上十一に区分されている︒寛文十三年(一六七三)小川村の検地帖による
と︑長沢︑中嶋︑千草︑栗島の四つの字名が明記され︑屋舗の立地も限定されている︒さらに屋敷と屋舗を区別する
と︑栗嶋地区は村内の屋敷数四三を数え八六形の比率を示しているが︑そのことは当村の草分け百姓層が在住し︑お
そらく当村の発祥︑あるいは行政︑経済機能の中枢的な拠点であったものと推定される︒なお集落内の有力な同族系
統の人脈を吟味すると︑鈴木姓(一七戸)藤田姓(五戸)北村姓(五戸)溝口姓(四戸)長田姓(四戸)酒井姓(六戸)そ
のほかに松浦姓(二一戸)松島姓(三戸)高辻姓(三戸)石原姓(=戸)が存在する︒家屋景観的には︑屋敷の位置や
家屋の構え︑家屋内の規模(間取)などで一見同族系の中心存在が認知される︒当村の名主を代々務めた名家︑溝口
家はその典型的な家柄でもある︒このような有力な姓を名乗る家屋周縁には同姓の屋敷が大体集中しているが︑本家
と分家︑血縁的な同族関係の連結︑屋敷地の分割過程については︑今後の研究課題であるが︑要は人脈︑屋舗の密集
立地などから近世初期︑唐井栗付近が旧小川村の近世的集落の拠点として芽ばえたのではなかろうか︒
さらに﹁宗門人別御改帖﹂
8 )
史料から家族構成の検討を加えると︑
一家
族当
り平
均︑
六人内外であり︑五人以上
が四九戸約六
OM
で過半数を示している︒近世期︑一般的に単婚小家族であるが︑当村は多婚家族の特色を現わしている︒この家族構成の在り方とその就業の多様化と相まって︑近世独自の小農体制に基づく近世村落の性格が確立し
た︒殊に村の業種労働力の指向は大部分︑林業従事関係すなわち︑気回川を利用する木材運送︑俗に筏乗り︑柏木挽
りなどが主である︑先述した近世村落の性格形成を促進かつ維持した要因には︑一つに耕地の零細性と︑平均化され
た所有面積の均衡︑二つは濯排水の地形条件に対応する独特な自然濯視の利用︑三つは水田造成によって小農体制の
基盤として︑生産の安定化を促進したこと︑四つは屋舗の立地︑その規模から小農的な農民層が主体構成を成してい
239
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因ること︑五つは草分け百姓層が新しい土地の開墾︑その買得によって次第に耕地を拡大し︑その素地基盤を確立した
﹂と
︑以
上が
指摘
され
る︒
五
一斉育成株の展開要因
遠州小川村の絵地図の吟味からみると︑林野利用の地域変化は集落を中心にして遠近の距離間隔と︑日帰り出作耕
作を主とする営農体制の進行によって外縁地域に切替︑山畑焼畑耕地が展開している︒殊に秋葉山峠方面にかけて多
く分布している︒その主要な要因として︑地形的条件︑すなわち標高二
0 0
米の分水界付近︑尾根筋に平坦
1
三OO
な緩傾斜面がみられ︑林地︑原野として農業空間に利用される分野が多い︒そのこと自体が日帰り出作耕作の好適な
可耕地開発地であったこと︑また屋敷持ち︑名請人の農民層が山畑所有によって普通畑︑水団地の耕作限界を打開する
一つを試みたこと︒したがって百姓割賦に関する焼畑︑切替畑の荒廃に伴う杉檎の植林︿資料
3
﹀︑
百姓
山の
地形
(資
料
2 u
︑地質の多彩で鍬入れが困難な実情などの︑
訴訟
文︑
ある
いは
畑小
作(
資料
5
﹀︑年
季証
文(
資料
1
﹀︑山林売買証文などによっても考証される︒然も小川村は薪炭︑しいたけ︑茶︑みつまた︑こうぞなど現金収入の多い商品作物の栽培がすす
2 4 0
んでいた︒然も︑焼畑の跡地に直ちに杉檎の植林を促がすよりは︑寧ろ薪炭の原木︑ナラ︑クヌキブナなど雑木林の
造林が先駆的であった︒殊にシイタケ︑茶︑薪炭は︑鹿島︑二俣が市場で︑いわゆる二俣を中枢とする北遠経済圏に
包括されている︒その動向はシイタケ毒荏円資料る︑茶︑こうぞ︑等の市場価格の低下によって︑逐次杉︑檎の植林が
進行された︒明治以降︑近接の竜山︑横山各地区の植林化の推進で一斉育成林の契機づけを得て︑ダムの建設︑住宅
造成︑さらには内地材の木材市場の価格騰貴と相まって︑昭和三五年高度成長のブlムに便乗して︑急速に一斉育成
林化が進行した︒したがって︑それ以前は隣村の旧光明村と同じく︑山の頂上付近は雑木林があり︑中腹付近から
杉︑檎の針葉林の植林が行なわれ︑いわゆる針広混植的な林業経営方式が普及していた︒明治一
O
年(
一八
七七
)﹁
山
反別取調﹂ハーでは︑造林地面積は小規模であるが︑先述のように先駆的な焼畑経営を主とする農林的林野利用の一駒
であり︑その展開と村落の性格変遷との関連づけの吟味検討によって︑問題解明の手懸が見出されるものである︒
むすび
以上で旧小川村の近世的な村落性格の一端を把握したが︑一斉育成林の要因については︑紙数の関係で若干試論を
述べたにすぎないが次の事項が問題解明としてあげられる︒付広大な林野所有を持つ大山林地主層が僅少で零細な自
家山林を持つ農民層が多いことが︑外縁地域からの企業的山林経営に伴う︑造林化の進行を︑一方的にしなかったこ
と︑白焼畑や切替畑の経営は自給的な農民層の副業︑現金収入の糧として︑重要な再生産への位置づけをもったこと︑
日開部落地域の経済開発の段階では︑先ず水田可耕地開発を先駆に︑村民の生活安定度を高め︑その営農的エネルギー
を前提に後背地の林野地域を切替︑焼畑経営の場として拡大された︒
帥一斉育成林の展開は自家労働力に依拠して︑商品農業の発達と林地の合理的な計画と相まって︑各農家の現金収
入による'経済的な余裕に伴って︑逐次杉︑檎を主とする育成林に転換し︑自給的な農家林業の特色をもたらした︒
日開一斉育成林化は地元篤農家層の推進によるが︑林野の零細性と自家労働力の依存関係によってその育成林化の遅
速に段階がある︒殊に造林地の時間的な距離の遠近関係と薪炭の茶︑橋︑
みつ
また
︑
しいたけ等栽培転換いわゆる林
地利用タイプの変移に対応して︑育成林地域の拡大が大きく左右されている︒
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因
資料
1
年季限売渡杉山証文之事
我等所持之場所家の瀬どニ而杉山壱ケ所境之儀南ハ徳兵街地切北ハ平太夫地切下ハ武兵衛山土手切右三角之場所杉木雑木ともに
此所所持之分不残但比内檎之分ハ相除置代金五両弐朱ト四百七拾六文ニ売波只今請取申所実正也わ事会幹
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恥骨卦
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点配
札中
手札
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砂め取亦成骨尤荷物出し道木之儀無故障様取斗ひ可申候其節至
少も違論申間敷候伐取跡地所無相違御返シ可被成侯争後日証人加判品目而如件
売 り 主 藤 三 郎 証 人 文 右 衛 門
年号文化十三子年四月
横山村善右衛門殿
2 4 1
組 頭
外 武其
平 奥
円
u o
戸ト
↑
2 4 2
資料
2
乍恐以書付御訴訟申上候
一︑此度高反別小前井切添木御吟味被付奉承知候得共村々惣百姓共被争申開候処御検地以来年久敷儀明細之訳ケ相知不申候尤切
添立出一切無御座候
て一 伊掛 一小 骨ー 山北 伸一 軒・ 山骨 骨恥 一貯 仲一 恥砂 吾上 ケ侯 様‑ 一被 仰付 候温 付共 惣市 山地 之儀 ハ岩 山谷 間難 所ニ 御座 候得 ハ反 別難 附所
‑一 御座 候
此段前々之通御免被成下候様‑一奉願上侯
一︑山焼畑之儀年々増減ものに御座候勿論谷間岩間二種蒔仕候得ハ其畑之鍬入不成所過半‑一一間御座侯故反別難積御座侯
右之通逐一御吟味ニ御座候得共村々惣百姓難奉承知旨ニ御座候間右御案紙之儀幾重にも御免被下候様‑一奉願上候︒
延享二年丑二月晦日
遠列豊田郡小川村
名主
組頭 又右衛門
徳兵衛
資料
3
乍恐書付を以申上候
一︑前々被仰付候松栗実植苗植御尋之趣承知仕候松栗ハ村居近所一一自然与生立候ニ付実取植付不住候
て元竹御林一一去申年杉檎指木仕候得共根付不申候故杉槍苗生立置当西春弐百本余植付申候所是ハ只今迄ハ根付可申様子ニ御座
候得共六月土用越不申内ハ無覚束奉存候
一︑空地ト申ハ無御座野山と申峯山御座候是ハ前々長子骨骨賦‑一一骨骨骨熟背中外恥ト争肝心恥レ
bb
骨柴草生立悪敷相成候節ハAr
中申合四五ヶ年間ニ致放火畑こやし出来候様‑一仕候右之通御座候間往士口与峯山‑一杉檎類立不申何連一一茂折節放火不仕候而者柴
草出来不申畑こやしニ迷惑仕其上雑木立‑一相成候而者猪鹿猿免繕居諸作荒難儀仕候故村民町近所者大概杉木植候得卦遠山ハ猪鹿
木遠去ケ争相互‑一中合木立ニ不仕候以下略:::松杉年々代替御役相勤渡世之助ω一茂仕候︒以下略
明和二年西五月
大草太郎左衛門
御役所
資料
4
毒荏未植付書上帖
近世村落の性格形成と育成林の展開に関する要因
一︑毒荏木数五千株余
肉 リ
木数千本
木数弐千本
木数弐千本 上い門川
41
r日 引
e耳 ・
名 主 又 十 組 頭 太 郎 太 夫 百 姓 代 太 郎 左 衛 門
当子秋蒔付可仕分
来丑年蒔付可仕分
来寅年蒔付可仕分
右者毒荏木植付百姓助成仕旨柳生主勝正様被仰渡候由を以被仰渡難有承知奉畏侯然ル所空地木無御座候一一付山林之内成木難仕或
争や骨恥品川除又者あ掛恥
Rr
bm
世1 n
迄骨体可相成場所も巨細見立且植付侯ハ毒荏之元土を和らかに草木不生立候様手入いたし当秋
β来寅年︑迄追土ニヶ年‑一植付候様可仕候の之鹿絵図弐枚相添奉差上候以上
寛 政 四 年 子 四 月 豊 田 郡 小 川 百姓代 村 組 頭 名 主
野田松三郎様
夫嶋田御役所
2 4 3
資料
5
小作証文之事
又 太 普 左 郎 左 衛 太 衛 門 門
244
一︑当村大津田ニ其元御組下之畑有之候付拙寺方江やか山預ト申度故且方之内松間村甚右衛門殿を以申入候得者早速拙土寺方江
御預ケ被成儲‑一子作‑一而預リ申侯御年貢之儀者一ヶ年ニ金壱分ト銭百文宛小作金夏冬両度目一壱分百文急度無相違上納可仕候且
又其元御組下地主致手作度之節者右之畑無相違返可申候為後日小作証文加判的如件
覚 保 三 年 亥 九 月 廿 七 日 暗 雲 寺
⑮
甚右衛門⑮
名主又右衛門殿
参考文献
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享保十五年(一七三
O )
遠州豊田郡小川村高反別差出帳天竜市史(第四編)溝口家文書所収
明治六年(一八七一二)地理誌取調第二大区廿二小区豊田郡小川村天竜市史(第四編)溝口家文書所収
享和元年(一八
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二年季売杉木山証文之事天竜市史(第四編)鈴木家文書所収文化三年(一八
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六)文化三年宗門人別御改帳遠州豊田郡小川村天竜市史(第四編)溝口家文書所収伊藤通玄・桜井貞彦・松井孝友秋葉山を中心としての地学案内静岡地学二一号(一九七二)
斉藤磁見五万分の一地質図﹁秋葉山﹂同説明書地質調査所(一九五四)