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「二人の偉大な日本紹介者 ハーンとモラエス」

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Academic year: 2021

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案内絵ハガキから見た貴重書展示会のイメージ(4)

「二人の偉大な日本紹介者 ハーンとモラエス」

「二人の偉大な日本紹介者 ハーンとモラエス」

柴田 佳織

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございま す。新しい場所での生活には不安もあると思い ますが、多くの発見もあるでしょう。さて、今 回は日本で暮らし、日本を発信し続けた外国人 についての展示会、「二人の偉大な日本紹介者  ハーンとモラエス」をご紹介します。この展 示会は、ハーン没後

100

年、モラエス生誕

150

に当たる2004(平成16)年に開催されました。

 ラフカディオ・ハーン(

1850-1904

)はアメ リカでジャーナリストとして活躍していました が、

1890

(明治

23

)年に来日。松江や熊本など で英語の教師をし、松江の娘・小泉セツと結婚 しました。その後は神戸で新聞記者となります。

1896(明治29)年には日本に帰化し、小泉八雲

と名乗りました。広く国内を旅し、晩年まで日 本の文化を伝える本を出版しています。

 ハーンと言えば「耳なし芳一の話」、「雪女」

などの日本の怖いお話を英語で書いた、という イメージが強いと思います。しかしハーンが伝 えたかったものは単なる怪談ではなく、その中 にも含まれる、日本の文化と日本人の内面では ないでしょうか。『東の国から』に収められて いる「勇子−追憶記」では、

1891

(明治

24

)年 の大津事件後、犯人に代わって罪を詫び自決し た女性(後に畠山勇子と判明)に深く同情し、

勇子の死の直後の心理と行動を想像から小説化 して書いています。

 一方ヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854-

1929

)はポルトガルで生まれ、後に海軍に入り ます。初めて来日したのは1889(明治22)年で、

その後も武器購入や公務のためにたびたび長崎、

神戸、横浜などを訪れています。

1898

(明治

31

年にポルトガル副領事館の領事代理として神戸

に赴任し、

1900

(明治

33

)年にはヨネと同棲を 始めます。しかし1912(大正元)年にヨネがな くなり、翌年領事館を辞めて徳島に移りコハル と暮らしていましたが、そのコハルにも先立た れてしまいます。

 モラエスは日本の歴史や文化について多くの 本をポルトガルで出版しています。唯一日本で 出版されたのは『茶の湯』で、和紙が用いられ、

宇治の茶摘みの様子などの美しい挿絵も入れら れています。またモラエスも『日本夜話』で、

大津事件で自決した畠山勇子の墓を参った話を 書いています。

 ハーンとモラエスは、実際に会うことはあり ませんでしたが、同じ視点から日本人の心を見 つめていたのではないでしょうか。明治時代、

開国したばかりの日本を訪れ、世界に日本の歴 史や文化を紹介したハーンとモラエス。日本の 国際的な発展に貢献した二人の努力を私たちは 忘れてはならないと思います。

 展示会の案内絵ハガキや目録は、検索コーナ ーの横に置いてあります。また、目録は図書館 のホームページからもご覧いただけます。読書 や調べ物の息抜きに、ぜひご覧ください。

しばた かおり(29年度英米語学科卒業生)

学生と図書館

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