‑ 論文‑ 高 岡 短 期 大 学 紀 要 第5 巻 平 成6 年3 月 BuJ)ITaka oka Natio n al College,V o】.5.M a r ch 1 9 9 4
高 岡 地 域 経 済 試 論
田中 時人
( 平成5 年11月1 日受理)
要 旨
高 岡は江 戸時代に入っ て商業の町と して都 市形成を始め た が, 銅 器や漆器などの地場産 業 も徐々
に発 展し た。 その後, 大正初 期か らは安 価な電 力と港 湾 施設の充 実とによっ て伏木 港 周辺部へ鉄 瓶 化 学, 紙 ・ パ ルプ な どの工場 を 誘致し, 臨 海工業 地 帯を形成し た。 こ の段階では高 岡市は典 型 的な 外 来 型 発展を遂 げた といえ る。 こ のよ う な傾 向は その後 も継 続し, 1 9 6 2年の全 国総 合 開 発 計 画 ( 第
一 次) で指定さ れ た富 山 ・ 高 岡 新産 業 都 市で は指 定 地 域 内の自 治体では企業 誘 致によ る発 展を目 指
そう とする傾 向が強 くみ ら れ, これ らの関係 自治 体は外部 依 存によ る さ ら な る発 展を期 待し た が,
2 度の石 油シ ョ ッ ク によ って計 画し た よ うに は進ま な かっ た。 また, 通産 省が19 8 2年に提 唱した テ ク ノ ポリス計 画にお ける富 山, 高 岡両 市を母 都 市とする富 山テ ク ノ ポリス におい ても外 来 的 発展と
いう性 質が みいだ せる。 し か し. そ こ で は外 来 的 発展の問題 点も指 摘さ れ, し だい に内発 的 発 展に 関心が注が れる ようにな っ た。 こ の間, 1 9 30年に高 岡で芽生え たア ルミ ニ ウム産業は, 1 97 0年 代に は高 岡の基幹 産 業と見な さ れ る よ うになっ た。 こ のよ う な経 緯か ら考え る と, 高 岡の地 域経 済は,
当初の外来 型 発 展か ら内発 的 発 展へ と変化してい るよ うに思わ れる。
キ ー ワ ー ド
高 岡市, 内 発 的 発展, 外 来 型 発展, 地 場産 業, 全 国総 合開 発計 画, 富 山 ・ 高 岡新 産業 都 市, 富 山
テ ク ノ ポリス
は じ め に
本稿は高岡の地域 経済分 析に関する試論で ある。 高岡地域では大正初 期から豊富な水資 蘇, 安 価な 電力, 良 質の労 働力など を売り物
に中央の重化学工業の導入に力を注い で伏木 港 周 辺に工業地帯をっく り 上 げたことで知 ら れている。 す な わ ち, 地域 経済の発 展 形 態 と して は外来型 ( ‑ 外部依 存型) の道 をたどっ
たこと を意 味している。 し か し, 筆者は その 後の高岡をみて いて少し状況が異な るの で は ないかと感 じて いる。 そ れ は, 現在の高岡 市
の製造 業におい て は確か に外来型企業の存在 も小さ くはないもの の, 最 も大きな部分 を占
めて いるのはア ル ミ ニ ウム産業であ り, こ の
産業は決して外来型では ない。 む しろ高岡の 地場産 業を基礎と して そ こか ら生 ま れ た もの
であ り. その意 味では地 域に根ざし た産業で ある。 それなの に依然 と して外来型発 展 といっ
て正しい の であろうか。 こ の よう な疑 問を解 決する た めに, 高岡地域 経済の発 展 過程をた どること を とお して, その特 徴につ いて考察 してみ た。
産業 情報 学科
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1 高岡市の歴 史 的推 移
こ こ で は現在の高岡市の経 済を構 成して い
る要 素につ い て, その発 展 過程をたど り な が らみてみ る。 あ く までも現在の姿を形成して
いる要 素に つ い て振り 返 っ て整理 すること が 目的である から, 取り扱う範 囲としては高 岡 市の経 済の基礎が形成されたと考えられる江 戸時代から第2 次世界大戦終了までをプレリュ ー
ドと して の近代高 岡経済 史と し, それ 以降を 現代 史と して分けてみて いく。
1 . 1 プレリュ ー ドと して の近代 高岡 経済史 高岡市が成立し たのは, 明 治2 2 (18 8 9) 年
の市 制公布である が, これ 以前につ い ては史 料の上からは慶長1 4 (16 0 9) 年5 月に 「高お か」 と して登場し, 後に詩 経から と っ て 「高 岡」 に改めら れたという。 も と もとこ の地は
「藩領の加賀 ・ 越 中 ・ 能登三国の要」 に位置 し, 千保川 と小 矢部川の水運 をいかすことに
よ っ て後背地と な る砺 波 ・ 射 水南平野の穀 倉 地帯や外港と もいえる伏木 ・ 放生津とアクセ
ス することが可能な位置にあっ た。 そのた め,
前田利長は寛 永12 (16 35) 年に布御印押人 を 置い て麻 布の集 散地 と したことを 手始めに, 承 応3 (1 6 54) 年に御荷物 宿, 明暦3 (16 5 7) 年に魚 問屋 を, また は ぼ同じ頃に は塩問屋の 創設 も許可 し, 古 御域内に御収納 米蔵と御詰 塩蔵を設 置 し, こ の町 を商業の町 と すべく手 を打 っ た。 利 常の死後も加賀 藩は利常の意 志 を受 け継い で寛文1 1 (1 6 7 1) 年には締 綿 ( 精 製綿) 市 場を設置し たが, これ らの こと が高 岡の町が商業面で発 展 する た めの重 要な意 味 を持っ もの であ っ た。
1) な お, これ らの時代
の戸数および人口に つい ては, 元禄2 (16 8 9) 年に は戸数が2 ,6 1 6軒, また元禄1 2 (16 9 9) 年に は人口が1 3 ,0 8 5人という記録が残されて い る。 これら は高岡の戸数及 び人数に つ い て
の最 も古いものといわ れて いる。 2)
と ころで, 高岡 を代表する地場産業の 一 つ
である銅 器産業の源流は, 慶長16 (1 6 1 1) 年
に前田利長が城下町の造成を急ぐなかで砺波 郡西部金屋に住んで いた金森 弥右衛門はか7
人の鋳物 師を高岡の町に移したことに端を 発 する。 利 長は千 保川 左岸に宅地 を与え, 5 カ 所の吹場 ( 鋳造作業 場) を建てた。 当時の こ れ ら鋳物 師達は銅, 釜, 鉄瓶などの生活用鉄 器異 類, 鋤, 鍬, 城 門や橋の鉄 製金具, 釘な ど を中心 と して究鐘, 半鐘, 燈 篭 な どの銅 製 鋳造 品も作っ て いた。 また, 銅器 と並ぶ漆器
につ い ては その正確な起源は は っ き り して い ないもの の, 明和 年 間 (17 6 4 ‑ ) に京都か ら 移 住してきた辻 屋 丹甫によ っ て美 術漆器の製 造が行わ れた が, そ れらは非常に少量で, ど く 一 部の特権階級の趣味を満足さ せ るに過 ぎ ない程 度であ り, 本格 的な拡大は明 治に入っ
てからの ことと なる。 3)
こうして高岡は商業の町と して, 銅 器の町 と して, さらに 「 加賀 藩の台所」 として発 展 を遂げることとな っ たの である。 加えて瑞龍 寺や その前田利長墓所などの寺院も多く, 経 済 面ば か りでな く宗 教面や文化 面でも優れた ものが みられる。
明 治期に入る と, 明 治18(18 8 5) 年に は米 商 会所 法に基づ い て高岡米商会所 ( 後に高岡米 穀取引所 と 改名) が開かれ, 江 戸時代以来の 米の集 散地 として の高 岡の地位が改めて認め られること と なっ た。
4) 明 治2 2(18 8 9) 年4 月
1 日に は市制 施行で高岡市が誕 生し た が, こ
の時の人口 は29 ,2 0 2人で, こ の時に市 制をひ いた全 国3 1都 市の な かで第2 3位であ っ た。
5)
( なお, 高岡市は平 成3 年に おいて世 帯 数
51 ,3 31, 人口 176,18 3人となっ てお り, 北 陸3
県のな かでは金 沢市 (1 5 3 ,4 7 9世 帯, 4 3 0 ,9 2 6
人), 富山市 (1 0 4 ,8 0 6世帯, 3 1 9,649人), 福 井市 (7 6,6 3 5世 帯, 2 5 1,0 2 6人), に次い で第
4 位の規模と なっ て いる。) 当 時の高 岡及 び その近 隣の経済 界に は, 伏 木 。 新 湊などの大
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回漕業 者, 砺波 ・ 射水 ・ 氷見 地方な どの大 地 主 達がい て, 彼等は持てる経 済力 を等区使して
高岡地 域 径済試論
経 済・ 金 融を押さ え,6) 地方政 治にも関 与し
たといわれ る。 特に舟 問屋( 大回漕業者) で
は米を買占め移 出する 一 方で, 北 海道か ら昆 布や塩干 魚, 海産物, 雑穀な どを買い付けた。
や がて第1 次世 界大戦 前後に な ると, 工場 誘 致を促進 する目的で京 浜地方の1/ 2 以下の 安価 な電気料金を売り物に した富 山電灯株 式 会社 社長の金岡 又 左衛門に よ る活動が始めら れ, 大正 元 (1 9 12) 年に修 築が完 成した伏木 港周辺は重化学工業地帯の観を呈 する ように な っ た。 すなわ ち, 伏木港の整備によ っ て,
工業用原 材料が 入手しやす く なっ たば か りで なく, 低 廉な電力, 豊 富で勤勉な労働力, 豊
かな工業用水な ど当 時の重化学工業の立 地条 件が整備されたの であっ た。 (なお, 富山県 全体と してみれ ば, こ の伏 木地 区で発 達し た 工業は, や がて富 山北部地 区 をは じ め と して,
国鉄 (当時) 北陸線や高山線に沿っ て拡大 し
て い っ た。 また, 伏 木港に続い て富山港の修 築も行わ れ, 昭和の初期から中 期にかけては
両港 周 辺 への工場立 地が進ん で い っ た。) そ
の結果, 大正6 (1 9 17) 年に富 山電気製鉄所 株式会 社 (覗, 日本鋼管株式会社富山製造所)
が設 立されたのを始め, 同年には北海電化工
業株式 会社 ( 覗, 日本重化学工業株 式会社)
が, また翌年には伏木製紙 株式 会社 ( 中越パ
ルプ 工業株 式会社 伏木工場) が, 翌々年には 北海曹達株 式会社 伏木工場( 覗, 東亜 合成化 学工業 抹式 会社高岡工業 所伏木工場) および 北海工業珠 式会社 ( 現, 日本製紙株 式会社伏 木工場) が進出してきた。
7)
こう して伏木 港 臨海部に 工場が集 中立 地 した結 果, 富 山県の
工業生 産は飛躍的に上 昇 すること と なっ た。
表1 は大正3 (1 9 14) 年か ら 昭和17 (1 9 4 2) 年にかけて の都道府県 別に工業生 産額の推移 を示し たもの である が, これによ るとこ の間
の富 山県の伸び率は7 0 .3倍と 全 国2 番目の高
い成長率であ り, 工場が増加 する以前の大正 3 年には全国2 9位であっ たものが, 昭和17年
には 9 位と驚異 的な上 昇と な っ て い る。 も ち
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ろん, こう した当時の富山県の工業 面で の著 しい成長の全てが伏木 港周 辺の工場立 地によ るとはいえ ないもの の, こ の急成長のか な り
の部 分が伏木港 周 辺に できた重化学工業地帯 が寄 与し たもの であることは明ら かである。
こ の ように 「 原料資源のない, そして市 場か ら も遠距離の富 山県内に電解 ・ 電 炉工業や化 学, パ ル プ ・ 紙工業の立 地が集中し たの は,
第1 次大 戦後の電 源開発ブ ー ム によ る豊 富で 低廉な余剰電力と用 地, 用水, 労 働力の存在
」8) に よ る。 盛 一 雄に よれ ば, 当 時の伏 木臨 海工業地帯の意義と して 「(イ)本 県にお ける近 代工業の第 一 次勃興期である。 (ロ)後進 的農業 県から工業県‑ の転機とな っ た。 ←1伏 木港 も 亦これ を転機と して, 従来の商業港 か ら工業 港的性格を 強め た。 仁)工業 化の因子として の 電力と港湾の重 要性の認識を 昂め た。」 の 4
点を指摘して いる。9)
一 方, 当 時の高岡の経済界で地場資 本の注
目 すべき動きと しては, 明治2 6 (18 9 3) 年に 設 立された高岡紡績 株式 会社と 戸出物産合資 会社 (明 治2 9 (19 8 6) 年に は株 式会社とな っ
た) である。 これ らは高岡が江 戸時代以来の 綿および木綿の集散地であ っ た ことが背景 と な っ て, 地場資本によ っ て操業が開始された。 前者は水害などの天 災 も あっ てや がて大正4 (1915) 年には 日清 紡績に売 却され, 昭和34 (19 5 9) 年にな っ て閉鎖された が, 後者は現
在も操 業中である。 こう した歴史を有する高 岡の繊 維産業は染色や ニ ッ トなどに拡 大し,
高岡の産業 界の重要な 一 角を占めて いる。 な お繊維産業に関連 して は, 昭和12 (1 9 3 7) 年
に鐘紡 株式 会社高 岡工場が進出している。 ま た, 銅 器産業は京都と並ん で有 名であるが,
こ の時期におい て は昭 和10 (19 35) 年 前 後に な っ て高岡 が京都を抜い て日本 一 の銅器 産 地 と なっ て い る。 明治期に入 っ てからの銅器 産 業内部で の経済 的変化と して, 問屋制 家内工
業と して の形態が整 っ た こと が指摘できる。
そ れ は, 明 治3 0 ‑ 40 (18 97 ‑ 19 07) 年 頃には