〈論説〉
満 洲 事 変 後 の 総 合 開 発 プ ロ ジ ェ ク ト と 戦 後 日 本
松浦正孝
はじめに一満洲事変後の総合開発プロジェクト二「大アジア主義者」金子定一の戦前・戦中三大アジア主義から総合開発へ四鹿島守之助における総合開発論と汎アジア主義五日本近現代史における「総合開発」の意味おわりに
はじめに
満洲事変以降の日本の戦争に、財界や企業、個人はどう関わったのか。そして、「戦争」によってもたらされた不可逆的な変化や、「戦争」の終了と「平時」への復帰に伴う「戦後」過程は、その後の「戦後体制」の成立にど
のような影響を与えたのか。これが、筆者の近年の関心である。本稿では、こうした問いを、「総合開発compre-hensivedevelopment」という政治経済プロジェクトを切り口として、考えたい。本稿では、満洲事変以降の日本帝国における政治経済や外交思潮に影響を与えた特定の歴史現象を分析する際に「総合開発」という言葉を使うが、その前にまず、これと近いと考えられる「開発主義」という言葉を検討する。「開発主義」は通常、「通商主義」と対立する概念であると考えられる。主に国家ないしその地域の経済発展を最優先課題として、原材料やエネルギー資源などを発掘・開発するような行為や、それを指向する政策である。「開発主義」については、開発経済学や比較政治学において、台湾や香港、アセアン諸国など東アジアの経済発展を分析する言葉として、「開発独裁」「開発主義」「開発体制」「developmentalstate(発展指向型国家・開発主義国家)」などの概念が使われてきた。中でも、「開発独裁」は、工業化などの経済開発や経済発展を重視し、独裁的・権威主義的な国家体制をとるなどの含意においては共通しているが、定義の仕方は多様である。他の概念の場合には、独裁などの否定的ニュアンスを除去しようとするものもあり、国家の関与をどう見るのか(市場メカニズム重視か、
国家主導重視か)、経済発展の度合いをどこまで要求するのか、成長のパフォーマンスとイデオロギーのどちらを重視するのか、などで差があるようである。日本でいち早く「開発主義」という言葉を使い、日本の政治経済システムを欧米先進国と対比して検討し影響力を持った村上泰亮のように、「レッセフェールには基づかないもうひとつの産業化のあり方」と規定するものもある(堀金2004)。翻って、「開発主義」の対立軸である「通商主義」は、開放的な国際経済システムに信頼を置き、自由主義的な経済活動を通じて、国家や市場の満足が最大化されると考える。従って、国際協調的な政治行動と親和性を持つことが多い。本稿が用いる「総合開発」という概念は、「開発主義」と同様、国際経済システムに信頼性を置くというよりは、
立教法学 第 100 号(2019)
自己完結的な経済圏やプロックでの経済発展を目指すことが多いと考えられる。しかし、一九三〇年代の日本が「円ブロック」の構築を進めつつ、外貨獲得のためそれ以外の地域への輸出を増やそうとしたように、どちらも開放的な通商システムに対して論理的に排他的であるというわけでは必ずしもない。また、本稿で扱う「総合開発」は、満洲事変以降から「大東亜戦争」を経て日本の敗戦に至るまで、大アジア主義という心性と深く結びつくものであったが、「総合開発」が必然的に戦争と結びつくわけではない。敗戦後の日本でも、「総合開発」は形を変えながら、国際協調主義と結びつきながら、いろいろな形で発展していったからである。「総合開発」は、例えば、電力を創出するために自然環境を開拓して大規模ダムなどを開発し、治水を行うと共に、河川・港湾などを利用した輸送・運輸のシステムを整備するような活動である。単に資源を抽出・採掘するだけの採掘活動には止まらず、資源を利用した新たな産業開発や通商促進などをもたらす。それは鉱工業に重点を置いた生産活動であるが、市場への移出・輸出や加工、地域間の分業などを考慮して地域計画・国土計画を企画し、生産活動のための労働力の移動を含むシステムを準備・設計する。「総合」的で有機的な内容を持った開発であることが重要であり、その地域内で新たな産業需要が生まれ通商が盛んになるなど思わぬ相乗効果を生むばかりか、その地域に止まらない経済的な波及効果を生むこともしばしばである。その意味で、「総合開発」においては、広域性も重要な要件である。政治的には、そうした活動を動機づける精神的・イデオロギー的活動を行うこともあるし、その活動自体や活動の成果がその国や地域のアイデンティティとなることもある。こうしたイデオロギーと関わる生産活動は、雇用創出・生産パフォーマンス向上・民生向上などの予測やイメージや実際の結果を以て、他の体制に対する優越性を強調する。官僚制を中心とする国家機関・地方機関・植民地当局などがこれに関与することが多いが、それは、必ずしも独裁的・中央集権的な司令塔によって企画・命令されるとは限らず、民間の企業や技術者による自由主義的・私的利益追求の結果として、総体的にそうした方向性が出て
来ることもある。本稿で扱う事例は、そうした側面を持つと考えている。こうした、人間の自然や社会に対する楽観的・全能的な社会観に基づき、資源・労働力・空間に関する社会設計的・社会工学的な開発を行う政治経済プロジェクトを、本稿では「総合開発」と呼びたい。政治とは、人々に安全保障と活動環境を確保・提供し、生きるための経済活動や生活の場を整備し、アイデンティティを与える活動である。一方、経済活動を行う企業や産業には、原材料、資金、エネルギー、流通・販売・運輸力、労働力、(市場確保のための)企画力などが必要である。これらの確保には政治が必要とされることがあり、政治もまた、これら産業の行う経済活動と密接な関係を持つ。原材料やエネルギー、市場、労働力の確保を求めて、国家を含む政治経済主体は活動し、政治家や政治団体はカネと票を求めて企業や財界に接近する。政治が人々に日々の暮らしや文化、多様な行動を通じてアイデンティティを与えるのは、ナショナリズム、地域主義、モダニティ、宗教、精神修養などといったものを通じてである。「総合開発」の場合には、こうしたアイデンティティと密接な関係を持つことが多く、また、企業や産業も政治権力と深く結びつく傾向にある。では、なぜ本稿は、「総合開発」という概念を「開発主義」とは別のものとして立て、これを分析するのか。かつて「開発主義」についての共同研究を主宰した末廣昭は、それを、「開発」という政治的イデオロギーをテコにして、個人や家族あるいは地域社会ではなく、国家や民族の利害を最優先させ、国の特定目標、具体的には工業化を通じた経済成長による国力の強化を実現するために、物的人的資源の集中的動員と管理を行う方法、として定義づけた(東大社研編
19 98 、 18
)。しかし、この共同研究は、一九五〇年代後半から六〇年代初めにかけて、ラテンアメリカ、東アジア・東南アジア、中東などの途上国に波及し定着した国家主導の政治現象を、予め「開発主義」の分析対象として措定しているのであって、明治期日本における地方の工業化と戦後日本の石油化学産業の事例研究の章は、共同研究の中では恐ろしく座りが悪く、いわば不自然な印象は拭い難い(同、第8
章、第9
章)。立教法学 第 100 号(2019)
むしろここでは、この共同研究がその出発点として、同じdevelopmentの訳語である「発展」という言葉との対比において「開発」を検討した件で、一九世紀半ば以降のヨーロッパにおける外からの力による改造という使い方や、植民地本国による鉱物資源の商品化や経済社会状態向上などに触れていることにこそ、注目したい。この共同研究では、「開発」の中身について、第二次世界大戦以前は、植民地地域の住民の栄養や衛生状態の改善、モラルの進歩、教育水準の向上に主眼が置かれ、経済開発の目標が工業化、さらに一人当たり物的生産量の増大を意味するようになったのは一九四〇年代末からであるという変化についても触れられている(同、
16 -1 7
頁)。しかし、本稿で強調するように、第二次世界大戦の前後でこうした変化が起こったという指摘自体は誤りで、少なくとも日本帝国ではその少し前の一九二〇年代からこうした動きが始まり、一九三〇年代を通じてこうした変化が生じた。この共同研究が、国家・政府を主要な開発の担い手とする一九五〇年代半ば以降の途上国に限定して「開発主義」を分析することは、それ自体、特定の「開発主義」を記述することなのである。従って多くの章で(同、