• 検索結果がありません。

― 見馴れた世界を〈旅〉すること

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "― 見馴れた世界を〈旅〉すること"

Copied!
7
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

見馴れた世界を〈旅〉すること

―ワークショップを終えて

野田 研一

(1)I have travelled a good deal in Concord. 「ぼくはコンコードの町をたっぷり旅 してまわったが・・・」(『ウォールデン』、酒本雅之訳、2000)

(2)(1851 年 9 月 4 日付日記)大切なことは、自分の生まれ育った村をこんなふうにと きどき、まるでそこを通りかかった旅行者(traveler)のように眺めて、自分の隣人の ことをまるで見知らぬひと(strangers)のように語ることだ。

アメリカのみならず、いまや世界のネイチャーライティングを代表する著作『ウォール デン』 (1854 年)の作者ヘンリー・D・ソローは、その作品の冒頭部分に「ぼくはコンコー ドの町をたっぷり旅してまわったが・・・」引用(1)と書いている。英語での動詞の選 択を見れば travel である。ソローにとってマサチューセッツ州コンコードの町は、生まれ 故郷であり、ずっと暮らしてきた土地にほかならない。ソローがそのように見馴れ、知悉 した町を歩き回ることを、 travel という動詞を選んで表現することにはけっして小さから ぬ意味があった。

“I have travelled a good deal in Concord” というシンプルな一文について、日本 の歴代翻訳者たちはどのような訳を与えてきたか、一瞥しておきたい。以下に 4 名の訳者 の訳文を挙げる。

「わたしはコンコードをずいぶん歩きまわったが・・・」(神吉三郎訳、1951)

「私はいままでコンコード村をずいぶん歩きまわってきたが・・・」(飯田実訳、1995)

「ぼくはコンコードの町をたっぷり旅してまわったが・・・」(酒本雅之訳、2000)

「私は、わが町コンコードを、毎日旅してきました。」(今泉吉晴訳、2004)

興味深いことが分かる。 1995 年の飯田実訳までは「歩く」という訳語が与えられている。

対するに、2000 年の酒本雅之訳以降は「旅する」という訳語に変化していると言う事実で

ある。 travel を「歩く」と訳すか、 「旅する」と訳すかはどちらが良いとか正誤の問題では

かならずしもない。travel という英語そのものが、「移動」の意味を含んでいるため、べ つに「旅」に限定される必要もない。とはいえ、酒本訳以降、 「旅」を選択しているのには ある理由があるだろう。それはコンコードという自分にとって見馴れた町を「旅する」と いう語彙の選択がオクシモロン(形容矛盾、撞着語法)に感じられる効果があるからだ。

通常、見馴れた町など「旅する」とは言わない。それを逆手に取ったソローらしい言い回 しが面白いからである。

加えて、(2)の引用から分かるように、ソロー自身が意図的にコンコードを「旅する」

(2)

ことを目的化していたことが分かるからである。みずから「旅人」を仮想して、自分の町 を外部者のように眺め直す。 〈異化〉の視線、すなわち親しいものを見知らぬもののように とらえ直そうとするまなざしである。

前置きが長くなったが、本企画「地域創生事業の一環としての写真ワークショップ」と は、いわば〈異化〉の視線を仮想しつつ、自分の町を〈旅〉する企て であり、そのとき自 分の町や地域が〈異化〉されてどのような姿を見せるのか。これを「方法意識としての旅」

と名づけてみる。そのポイントは次の 2 点である。いずれも「日常の非日常化としての異 化」にかかわっている。

方法意識としての旅

①未知の世界ではなく、既知の世界を対象とする〈旅〉 = 既知を未知に変換する〈旅〉

②存在の二重性=風景の発見 ⇒見馴れたものが見馴れぬものに変換される

写真ワークショップの実践を通じて、コーディネーター /参加者として、もっとも強く印 象づけられた出来事は、 「写真はよく観る方法」だという事実の再認識である。ファインダ ー越しに風景をとらえるとはいかなることか。それはまず第一に、連続体としてある現実 をフレームのなかに囲い込む、あるいは切りとるフレーミングの行為である。第二に、フ レーミングによって囲い込み、切りとり、つまりは選別された 、、、、、

画像が、その画像内に中心 と周縁というべき関係を所定の秩序として組み立てる。これを構図(composition)という だろう。ここまでで重要なのは中心の定立という問題である。現実の世界には 中心は存在 しない。中心を創り出すのは観る側である。

どういう機制によって中心が創出されるのかはいまは措くとして、このようにフレーミ ングという行為を介して中心が生成され、ある特定の秩序が形成される。このプロセス自 体に、価値づけや美意識や大雑把に秩序感覚というべきものが関与していることは確かで あろう。価値づけ、美意識、秩序感覚はかならずしも生得的なものではなく、文化によっ て決定されたものを多分に含んでいるだろう。

さて、 「写真はよく観る方法」という問題に立ち還ろう。写真というメディアを介して現 実を観るという方法は、いま述べたようなフレーミングプロセスを通過する〈視〉 (seeing) の方法だということである。それは日常的なまなざしとは根本的に異なっている。撮影行 為そのものが「日常の非日常化としての異化」に深く関わっている。たとえば、フランス 詩人ジャン・コクトーは 1920 年代に、そのような意識のあり方を「詩」の方法として提示 している。

不意に 、、、

私たちは犬、馬車、家を、初めて 、、、

目にする。すべてが奇妙で 、、、

、あるいは狂って 、、、

いて 、、

、あるいは馬鹿げていて 、、、、、、

、あるいは美しく 、、、

、私たちは圧倒される。次の瞬間、習慣 、、

というものが 、、、、、、

、この鮮や 、、、、

かな絵を消しゴムで擦りとってしまう 、、、、、、、、、、、、、、、、、

。犬を飼い、馬車を迎え、

家に住む。私たちはもはやそれを見ていない 、、、、、、、、、、、、、、、

。これこそ、詩の働き 、、、、

なのだ。言葉が持つ 最大限の意味において、それはヴェールを脱ぐ。何もまとわず、私たちを 無感覚から揺 、、、、、、

り起こす 、、、、

光の中で、私たちを取り巻き、すべての驚くべきものを露わにする 、、、、、、、、、、、、

。私たちの

感覚が機械的に記録しているものの中で、現れる・・・。(傍点引用者)

(3)

「日常の非日常化としての異化」を詩的なるものの本質として見ている詩人がいる。習 慣や無感覚に陥っている日常では見えなかったものが、不意に出現する。ただ し、それは 日常の外から訪れるのではなく、日常の内部に宿っているものである。ただ惰性化した感 受性、日常感覚の中では浮上しえない「鮮やかな絵」であり、 「驚くべきもの」である。フ ランスの環境文学研究者フランソワ・スペックは、この詩的なるものの出現を異化の方法 として、次のように述べている。

文学や芸術は、日常的な事物を「見知らぬ」ものに見せるのだ(「詩」とは、語源的また はエマソン的な意味において、あらゆる形態の創造を指す)。芸術は、固定的かつ自動的 な、私たちと世界との日常における関係性に逆らう。私たちに、ただ認識 するのではな く(すなわち分類するのではなく)、あらゆるものを見るよう促し、そうすることで、私 たちの知覚に新たな鋭敏さを与え、ついには私たちを取り巻く(たんに「環境」という 狭義の専門的な意味ではない)世界への意識を高める。 (フランソワ・スペック「環境意 識と文学の意匠 ソローにみる異化の方法」 (藤原あゆみ訳)、野田研一ほか編『環境人 文学Ⅰ 他者としての自然』、勉誠出版、2017 年、128−129 頁)

「日常の非日常化としての異化」という方法を、写真というメディアは多少意識的であ ればほぼ自動的に生成する。 「写真はよく観る方法」とはこのことで、まさしくスペックが 言うように、詩と同じように、写真というメディアは「日常的な事物を「見知らぬ」もの に見せる」、いわば方法が機構そのものに組み込まれた機械である。本ワークショップの基 本方針のひとつが、アートワークの制作という点に置かれていた。これもいわば惰性的な 日常の目をいったん脱するための条件づけのような効果を生み出していた。

さて、このように写真ワークショップの試みは、日常的な地域の風景を「更新」する試 みにほかならない。 「更新」する方法として、見馴れた世界を〈旅〉する方法、および写真 的な〈視〉の活用の重要性が理解できた。そうすることで何が「鮮やかな絵」 「驚くべきも の」として浮上してくるか。それは写真集として集成された対馬の風景から対象化してい く作業となるであろう。

ところで、講師として指導をお願いした写真家の宮嶋康彦氏より発せられたワークショ ップ中の言葉を列挙しておきたい。

写真は「よく見る」方法 何が心地いいんだろう 風景に呼ばれている 場所を風景へ 感 情を大事に 美意識から離れる わがまま・身勝手な美意識 ひととの差異 たくさんシ ャッターを切る 写真は途上 表現者になる 1 点の成功 気持ちが動く 一番最初に撮 った写真 文章は写真と別にある

また次に、ワークショップ中に交わされた言葉を記録しておきたい。

(4)

風景の再発見 各自の再発見を語り合おう 個人的なもの、歴史的なもの、公共的なもの、

隠れたるもの、些細なもの、微細なもの、見過ごされたもの 対馬に対する時間の差異 自 分の富士山 斬新 自然のなかへ 歴史の時間へ/から 感性 sense of wonder 自然 のなかで 光が見える 開放的な往来の場所(前田) 営業中 ツクヨミ 鹿 素直な写 真 コンテンポラリーな写真

最後に、本ワークショップ企画にご協力をいただいた宮嶋康彦氏、アシスタントを務め ていただいた笹川貴吏子氏、対馬市市民協働・交通対策課の前田剛氏に深く感謝申し上げ たい。有意義な実践と実験が今後も継続されることを願いつつ。

また、フランソワ・スペック氏(フランス・リヨン高等師範学校、フランス国立科学研 究センター(École Normale Supérieure de Lyon-CNRS IHRIM)教授)にも謝意を表した い。スペック氏はフランスを代表する環境文学研究者でかつアメリカ文学研究者であるが、

2017 年 9 月に立教大学にて 2 回の公開セミナーを行っていただいた(資料②〈pp.44〉参

照)。芸術(文学や美術)が環境意識の形成にとっていかに重要な働きをするのかを、ただ

の広報や情報的な問題とは一線を画した理論的かつ実践的な講義であった。写真ワークシ

ョップとは直接は結びついていないが、引用した論文を含め、スペック氏の研究はこうし

た芸術などのアプローチにとってきわめて示唆に富むものである。

(5)

【資料①:「写真ワークショップと地域創生」実施報告】

主 催:立教大学 ESD 研究所、同 ESD 地域創生研究センター設置準備室、文部科学省私 立大学戦略的研究基盤形成支援事業「ESD による地域創生の評価と ESD 地域創生 拠点の形成に関する研究」(研究代表者・立教大学阿部治)

協 力:対馬市

対 象:一般(ワークショップは 10 名定員。2 日目の講演・討議は一般参加可)

内 容:本企画では、長崎県対馬市における地域創生の一環として、対馬市民より参加者 を募り、写真撮影および写真集制作に関する実践講座を開催する。写真というメ ディアを活用することで、景観としての〈場所〉を意識化し、さらに 〈対馬〉と いう特定の場所・空間および風景がどのような要素によって組成され、機能して いるかを対馬市民自身が実践的に探ることを目的とする。上記の作業をふまえて 対馬市民を対象として「地域振興と風景の再発見」と題する講演と討議を行い、

景観としての地域の構造分析および地域創生のための議論を深める。なお本企画 は、昨年度、立教大学 ESD 研究所と対馬市との間に締結された「ESD 研究連携に 関する覚書」に基づくプロジェクトの一部として、対馬市の全面的な協力を得て 実施するものである。

講 師:宮嶋康彦(写真家、東京造形大学写真専攻領域講師)

4

野田研一(立教大学名誉教授、同 ESD 研究所運営委員)

アシスタント:笹川貴吏子(立教大学大学院社会学研究科後期課程)

対馬市役所担当者:前田 剛(対馬市市民協働・交通対策課)

実施状況:2017 年 9 月 9 日(土)及び 9 月 10 日(日)の 2 日間にわたって実施した。参 加者は、市民参加者 5 名に主催者側 4 名の計 9 名。第 1 日目は主に写真撮影及び 作品選択を行い、第 2 日目は、作品のプレゼンテーション及び写真集制作の実践 講座を行った。作品選択とは、当日参加者自らが撮影した作品より 5 作品を写真 集収録用に選択することを指す。撮影地は 対馬市厳原町豆酘周辺。自然林、神社 域、海浜、農地などを巡りながらおよそ 4 時間ほど撮影を行ったあと、対馬市交 流センター会議室に集合。講師による「風景写真」をめぐる講義を受講したのち、

自作品の選定作業を行う。選定された作品は、パワー ポイントにアップし、翌日 午前中のプレゼンテーションに備える。第 2 日目は、午前中に自作品に「タイト ル」と「キャプション」を付ける作業を行い、そののち、参加者全員の作品をパ ワーポイントで一本化したものをプレゼンテーションする。午後、選定された作 品をまとめて収録した写真集を制作するための実践講座を実施。写真のプリント アウト作業、そして製本講座の順に進めた。スケジュールは下記の 通りである。

4

1951

年長崎県生まれ。1975年、フリーランスのカメラマンとして活動を始める。1985年、『紀の漁師黒潮 に鰹を追う』でプレイボーイ・ドキュメントファイル大賞受賞。人、都市を含めた自然がテーマであり、とく に人と自然が出合う接点をフィールドに、写真と文芸の融合による独自の表現形式を創出している。主著に

『母の気配』、『日の湖 月の森』、『だからカバの話』、『さくら路』、『誰もいかない日本一の風景・絶景』、『脱

「風景写真」宣言 二〇一〇年の花鳥風月』他多数。共著に『〈交感〉自然・環境に呼応する心』(野田研一編 著)がある。対馬に

30

年以上通い、写真集『アジアンモンスーン』を刊行。

(6)

①9 月 9 日(土):写真撮影、作品選択

9:00 対馬市交流センター会議室集合 9:10-10:00 ワークショップ概要説明(野田)

写真撮影講座 1「脱風景写真論」(宮嶋氏)

10:00-10:30 移動

10:30-12:30 撮影(対馬市厳原町豆酘周辺)

12:30-13:30 休憩

13:30-15:00 撮影(豆酘周辺)

15:30-16:00 移動

16:10-18:00 写真撮影講座 2「風景と歴史へのまなざし」(宮嶋氏)

写真選定と抽出(対馬市交流センター会議室)

②9 月 10 日(日):作品選択、印刷・製本 9:00 対馬市交流センター会議室集合

9:10-10:00 自選作品 2 枚に短いタイトルを付ける 10:00-11:00 自選作品プレゼンテーション

11:15-11:45 質疑

11:45-12:30 参加者による投票及び集計結果報告

12:30-13:30 休憩

13:30-15:30 写真集制作実践講座(宮嶋氏)

15:45-17:30 講演と討議「地域振興と風景の再発見」/宮嶋氏、野田

撮影から写真集制作に至るプロセスを通じて、参加者は、写真というメディアが「風景」

を「よりよく見る」方法であることを自覚し、また、何気ない場 所や事物が「風景」とな

る不思議な感覚を具体的に学び、地域を異化しつつ眺める新しいアプローチを実践するこ

とができた。

(7)

【資料②:フランソワ・スペック氏のセミナー開催について 】

日 程:9 月 26 日(火)15 時~17 時/太刀川記念館 1 階 第 1・2 会議室 9 月 27 日(水)15 時~17 時/5 号館 1 階 第 1 会議室

講 師:フランソワ・スペック 氏(Francois Specq)

(リヨン高等師範学校(École Normale Supérieure de Lyon)教授、近代言語学 部学部長)

演 題:“Thoreau’s Radical Pastoral”(26 日)

“Art and Ecology: Thomas Cole, Henry David Thoreau, Sebastião Salgado”

(27 日)

概 要:ESD 地域創生拠点における地域環境意識形成に果たす〈場所論〉および〈場所意 識〉に関する研究の一環として、フランソワ・スペック氏によるセミナーを開催 する(非公開)。 1 日目は、19 世紀アメリカの思想家である H.D.ソローの〈場所 の感覚〉についてお話しいただく。 2 日目は〈環境芸術〉が環境意識の醸成にど のような力をもつかという問題について、絵画・文章・写真という三種の異なる メディアによる表現を比較しながらお話しいただく。

主 催:立教大学 ESD 研究所、文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「ESD によ る地域創生の実証的研究と ESD 地域創生拠点の形成」(研究代表者・阿部治)

(のだ・けんいち 立教大学名誉教授/同

ESD

研究所運営委員)

参照

関連したドキュメント

近世の日本では、お伊勢参りや四国巡礼が盛んだった時期があります。それと同じよう

代の成立に与って力のあった ﹁新プロテスタンテイズムの文化の特徴となっている自由﹂

 仕事の内容の大部分は、職員の方々と肩を 並べ書類を作成したりパソコンで作業するこ

 本書も例に違わず、「スペインで一番の人気 スポットと言えば、バルセロナのサグラダファ

ユニークな運動を始めたのは、帰国直後のことでした。だが、間もなく日露戦争が始まり、日本は、精神を深め

異なり、すでに目の前にある現象を理解してその原因を 推定し、対策を決めるという「逆解析」に相当するから

は幼いものを相手に詩をうたっていたのかもしれない」と。文さんは詩人ではありませんが、

Center for Interdisciplinary Studies,University of Fukui 5