近世河川絵図の分類と史料吟味
著者
小野寺 淳
雑誌名
筑波大学人文地理学研究
巻
13
ページ
1- 22
発行年
1989- 03- 25
セRS@
近世河川絵図の分類、と史料吟味
1 Vまじみう十こ
E 近!it%JJII絵 図 の 分 類 と 所 在
ll -l iセᅥj A
ll -2 捉 外 地 に 関 す る 河 川i絵留l ll -3 用 水 ・ 上 水 の 河)11絵 図
ll -4 filI)11交 通 の 河 川 絵 図 豆- 5 地 誌 的 な 河)11絵 図 盟 近 世 河)117Jく路
i
玄!の史料l吟味小 野 寺
1手i l l - l 北 上)11水路区i i11 - 2 最 と)11水 路 図 班- 3 阿 武 隈 川 水 路l翠
i11- 4 富 士)11水 路 図 W 筑後)11絵 図 の 史 料 吟 味
V 木 曽 川)11並 絵 図 の 史 料 吟 味 VI 調布玉) )1惣 回 図 の 史 料11今味 VIl お わ り に
I はじめに
江戸時代に作成された河川絵
I
Z
I
は,従来の古地図研究のなかでもほとんど言及されることがなかっ た. 河川絵図に限らず,近世の絵図は多種多機であるため,国絵図,城下町‘ 絵図,五街道分間絵図など幕府や諸蒋の
i
自蔵本,あるいは広く流布した木版刷りの絵図の研究に眼定されてきたといっても過 言ではないであろう. 近世の1nJ)1
1
絵図ひとつとっても,その所在すら十分に知られておらず,研究の 端 緒 す ら)
1
奇かれていないのが現状である. このため,管見の限りではあるが,本研究ではこのような近 世 河 川 絵 図 の 所 在 を 明 確 に し 史 料 的 知li{i 宣が高いと考えられる絵図について史料吟味を加えておく
ことにする
日本全国の河川絵図のなかから「近代測量以前において,
)1
1
船の通船水路を描き,特に難所を詳綿 に描くことを目的とした絵認u
を「河川水路国」と定義し,それぞれ複数現存している北上)1
1
・最上JI
I
・阿武隈)11 ・富士川の河川水路図を事例に,絵図の表現から作成主体の空間認識を解読するという 方 法 で 研 究 を 行 な っ て き た1) この研究の過程で, El 本全国の主要な河川に数多くの河川絵図が現存していることが明らかになってきた. もちろん今後各地で調査が進むに従い,前述の4 河川のように複
数の河川水路図が見出される可能性があると考えられるが, ここではひとまず管見のさまざまな河川
絵図を整理することによって,河川水路図の性絡をより明確にしておきたい. このため,本研究では iセ N
近世河川絵図の所在調査は,つぎのように行なった. まず,地方史研究協議会編
f
歴史資料保存機 関 総 覧J 2 ) に掲載された諸機関の所蔵文書のうち,所蔵目録,特に絵図目録から1 0 0 J!I
絵図」などの表j還をもっ絵図を検索した. つぎに, WI主! 書総目録J 3〉,都道府県史,主要な河川│流域の市町村史と
iセi N この作業は主として筑波大学付属図書館所蔵本を利用した.
2
認! の確認を行なった. 結果として,北陸地方・i JJ陰 地 方 ・ 徳 島 を 除 く 四 国 地 方 は3 坑j的J',D査 を 行 な っ て い な い 県 も あ る . ま た , 北 海 道 は 北 海 道 大 学 付 属 図 書 舘 北 方 資 料 室 で の
IH
1
:
誌 の み で あ り , 抑 制 県 は 現 地 調 査 を 実 施 し て な い な お , 北 方 資 料 室 に は 明 治 期 の 石 狩 )1[[ 玄! などがある.調査の段階で,
I
jf
J
セN QQQ iセ jI
1
1
絵 図 が 記 載 さ れ て い る が , 現 在 所 蔵 さ れて い な い こ と を 教 示 し て い た だ い た . こ の よ う に , 本 研 究 は 我 が
l
習 の 現 存 す る 近 可)1
1
絵 図 の リ ス トiセi N
豆 近 世 汚
)1
1
絵 図 の 分 類 と 所 在QPPIQQ j iセi
の 絵 図 の 作 成 目 的 な ど は 多 種 多 様 で あ る . ま た 多 く は 付 随 文 書 を 欠 く た め , 厳 密 な 作 成
o
的 や 作 成 年 次 の 考 証 が 困 難 で あ る こ と も 多 い . し か し な が ら , 近 世 河 川 絵 図 と い う ジ ャ ン ノ レ を 仮 に 設 定 し た 場 合 , 作 成 目 的 か ら 以 下 の よ う に 大 分 類 す る こ と が で き る .(1) 護 岸 堤 を 示 し た 治 水 に
i
到 す る 河 川 絵l
玄i
(2) 淀 外 地 の 開 発 や 所 有 を 示 し た 河 川 絵 図 (3) 農 業 用 水 や 上 水 に 関 す る 河 川 絵 図 (4) 河 川 交 通 に 関 す る 河 川 絵 罰 (5) 地 誌 的 な1
生 協 を 持 つ 河 川 絵 図ただし,
1 0 0
) 1 [ 絵図」とあっても短│ 玄関の部分凶である例は除くこととし逆に名称として1 0
0) [ 1
絵 図 」 と 記 さ れ て い な く と も , 比 較 的 長i
玄関の河川を柑抗、ている場合は加えることとした. このよ う な 河 川 絵 図 の う ち 代 表 的 な も の を 第l表に万三L,
tJ
、F
分 額 に 従 っ て そ の 分 類 上 の 特 色 を 記 す日- 1 治 水 に
i
却 す る 河 川 絵I
Z
I
現 存 す る 河 川 絵 図 の 多 く は , 治 水 に 関 す る 絵 図 で あ る . こ れ ら の 多 く は 築 堤 箇 所 を 中 心 に 拙 か れ た 部分図であり,計画│翠あるいは争論
i
玄 ! と し て の 性 格 が 強 い 慨 し て 小 型 の 絵 図 が 多 い が , 第l 表 に は比較的大型で、代表的なものを取り上( ずた,
関 東 の 河 川 は い わ ば 幕 府 の 直 結 河 川 で あ っ て , 諸 帯 は そ の
)1
1
普請を',MIJ り当てられた. iJ _ J 仁! 県文書館 所蔵の「関東1i ' 古川普請各落分担図J
は, )11普 請 を 命 ぜ ら れ た 毛 利 藩 が 所 蔵 し て い た 絵 図 で , 絵 図 に は 諸 藩 の 分 担 が 書 き 込 ま れ て い る .木曽) [
1
. 持斐)1
1
・長良J lI
の木曽三)1
I
は , 特 に 治 水 に 関 す る 河 川 絵 図 が 多 く 残 さ れ て い る . 岐 阜 古 地図研究会編著『美濃・飛騨の古地図j ]4) に は , こ れ ら の リ ス ト と 解 説 が 掲 載 さ れ て い る . と く に , 岐
阜 県 澄 史 資 料 館 に は , 美 濃 部 代 笠 松IITfl屋 堤 方 役 所 文 書 , 大 垣 の 郷 土 史 家 林j司教蒐集文書などがあり, こ れ ら に は 治 水 の 河 川 絵 図 が 多 く 含 ま れ て い る . こ の 中 の ひ と つ 宝 永l 年 ( 1704)
I
長良)1
1
通絵図」は , 宝 永2 年から実施された普請の計画図で、あり,宮
J
二村より河波村までの部分! 玄! である. 本来は普か;
第1表 主 要 な 近 位 向)11絵 図 の 分 類 別 一 覧
年次
f、、
j J 在
1 . 治水
2. J)泣 外 地
3. }! 1i
J
く・上水4. MJ I I交 通 ②
5. j也 ③
河)r1 絵盟名
関 東 河)111三和i図( 密書局文庫〉 摂JII二)117Jく入図・摂津掴芥)11筋 絵 図 淀 川 沿 岸 図
木 曽 三)11大 絵
i
盟 ( 高 木 家 本 )長良J1 1
3
ill
絵 図 ( 笠 松 陣 屋 堤 方 役 所 文 書 ) 関 東 筋)11普 請 各 務 分 但 図 ( 毛 利 家 文 庫 ) 岩 木 川 流 域 密 ( 津 軽 家 文 書 )ョセェ ャ i ( 英文庫)
淀)11)盈絵図 吉 野 川 絵 図 筑後)11絵 図 菊池)11全 国
l引11な ど 熊 本 藩 館 内 諸 川 絵 図 ( 6点) 米代)11絵 図
小兵)11絵 図 ( 狩 野 文 庫 ) 玉 川 上 水 ・ 神IJI上 水 大 絵 図
通Jtr:i )11出来絵│ 玄1( 阿賀野)1/ ・信濃川11Jj) 利 根 川 河 岸 絵 関
佐 波)11筋 絵 図 ( 毛 利 家 文 庫 )
河 絵 図 ( 淀)11) ( 木 j坂) (1U1EI :l家文庫) 衆院必甥大) / ! 使覧( 木版)
木 曽}![)II並 絵 図
1
築 中 鑑 ( 多 摩 川 )関八州J lI筋 絵 図 (1日幕引継文書)
調布王)11惣 掛 図 ( 木;J友)
球 謄 絵 図
点字
ハ
U
L
γ
い
ん
V
九
3
一
h
口
δ
イ
t
T
中
止
汀
h
y
円
λ
}
門
i
口
文
箆
天
1783 1845 1773
J9i'
1704 1786
間 立 公 文 書 館 内 閣 文 庫 京 都 大 学 文 学 部 付 属 博 物 館 大 阪 府 立 図 書 館
名 古 屋 大 学 付 属 図 書 館 岐阜県! ?正史資料館 IJj Iこi県 文 書 館 弘 前 市 立 図 書 館 静 岡 県 立 中 央 図 書 館 大 阪 府 立 図 書 館 徳 島 県 立 図 書 館 福 岡 県 久 留 米 市 な ど 熊 本 銀 菊 池 市 教 育 委 員 会 熊 本 県 立 図 書 館 秩 田 県 立 図 書 館 東 北 大 学 付 属 図 書 館 東 京 都 公 文 書 館 新 潟 市 郷 土 資 料 館 群 馬 県 高 崎 市 倉 賀 野 山 口 県 文 書 館
岡 山 大 学 付 属 図 書 舘 な ど 大
i
坂 城 天 守 閣 な ど 徳 川 林 政 史 研 究 所 な ど 東京都青梅干l
i' 国 立 国 会 国 書 館 多 摩 市 立 図 書 館 な ど 熊 本 県 人 古 市爪
町
一
1て1: gレし、
1770 1840 1819 1855 後 期
1759
注1 ) 一 覧 に 示 し た 河 川 絵 図 の な か に は 複 数 の 写 本 が 現 存 す る も の や , 木 版 の 場 合 な ど 所 蔵 者 が 援 数 あ る が , 代 ‘ 表 例 の み に 割 愛 し た . な おf宙人所 j誌の場合は所蔵者の市fl IJ村名とした.
2) 作 成 年 次 は 西 暦 で 示 し た が , 年 次 が 明 確 で な い も の は 年 号 な ど で 便 宜 的 に 処 理 し た 令 実 線 は 不 明 を 示 す . 3) 河)11交 通 ① 戸J)/!7Jく路区! については,第2表に示した。
11- 2
J是外地に! 到する河川絵図堤外地という表現は必ずしも適切とはいえないが,沿岸地先の流作場や! こ
i
コナト! など流路変更で所有が問 題 と な る 箆 所 , あ る い は そ の 開 発 を 示 し た 絵 密 で あ る 地 方 文 書 の な か に は 同 様 の 作 成 目 的 を 有 す る 数 か 村 単 位 の 小 型 の 絵 図 が し ば し ば み ら れ る が , 表 現 さ れ た 内 容 が 興 味 深 く , 比 較 的 長
i
玄関を描いた 河 川 絵 図 を 第1 表に示した. このうち,総区! 分類の上で、考証を必要とする筑後)1絵1
i
惑 に つ い て は 章を改めて詳述する.
静 岡 県 立 中 央 図 書 舘 ( 葵 文 庫 ) の 「 天 龍 )11通分間絵図 従波ケ島村至東駒場村・西弥J . j ; IJ新 EE! j は,
中 川 の 流 作 場5か所に関する高調べを表現した絵図で‘ ある.
「淀川通絵区l J は明和7年 ( 1770) の写本であり,伏見一大坂│跨における, とくに堤外地の所領・
4
写真1 菊池川全│ 丞1(売j池 市 教 育 委 員 会 所 放 ) 安政: 2:-;1三( 1855) の作と
J
北定され,折本である. 写真は
tャ ェ ェ ■j ゥゥセ
│
主i石j極付近をj広 大 し た も の で,淀は1i¥f 色,砂ナ1'1は灰色,
uャャ tィ セuij
る
「吉野)
1
1
絵 図 」 は 徳 島 の 豪 商 で あ っ た 森 敬 介1
:11
:
蔵本で、あり,詳細は今後検討されねばならないが, 流 路 変 更 に と も な う 郡 境 ・ 村 境 を 図 示 し て い る「菊池)
I
1
全i
豆l J は菊池市教育委員会所蔵本と熊本県立図書館所j抜 本 が 現 存 し て い る5 ) 両 者 を 比 較す る と , 菊 池 市 教 育 委 員 会 所 蔵 本 は よ り 丁 寧 に 描 写 さ れ て い る 点 で , ) 京本の可能性が高い 約
2
∞
o
分 のl の 縮 尺 で , 水 源 か ら 河 口 ま で を 措 乞 堤 外 地 の 開 発 耕 地 を 赤 で 着 色 し て い る 菊 池 市 教 育 委 員 会 所 蔵 本 に は 安 政2年 ( 1855) のHIl紙 が あ る こ と か ら , 同 年 を 作 成 年 次 と し て い る熊 本 県 立 図 書 館 で は , 鶏 池
)1
1
の ほ か , 緑JI
I
( 3
巻*) ・氷)1
1
. 白)1
1
. 加勢)1
1
. 球搭J 1
1
の6
河 川 の 絵 図 が 所 蔵 さ れ て い る . 菊 池 )1
1
. 緑)1
1
・氷)1
1
. 白)1
1
の 絵 図 は 年 号 の 記 載 が な い が , 球 磨J 1
¥絵図は天保7年 ( 1836) 9月,加勢)11絵 図 は 文 政6年 ( 1823) 5月 と 作 成 年 次 が 異 な る . し か し 記 載 内 容 を み る と,附' 1 +
1
な ど が 色 別 さ れ て い る 点 , 縮 尺 ・ 方 位 や 手 永 名 が 記 さ れ て い る 点 な ど 類 似 点 も あ る . 球 磨 )1
1
絵図は河口より八代・球磨郡境まで、を描き, ゥ iiセ ヲj 後 述 す る
「球磨絵図」とは異なる.
I
I
-
3 )fJ 7J ( . 上水の河川絵I
z
l
本 流 か ら の 取 水 堰 , 用 水 路 と 水 掛 か り の 村 々 な ど を 表 現 し て い る . 点 数 も 数 多 い と 考 え ら れ る が ,
iセャ
る . な お , 岡 山 大 学 付 属 図 書 館 所 蔵 の 「 吉 井
JI1
1
iJ5
之 図 」 も こ こ に 含 ま れ る .「米代)11絵 図 」 は3 南部領土沢升ニから能代までを
t
8
i
し、た87x344cmの折畳み絵闘で、ある. 沿岸の集落
i
習 の 距 離 , 水 深 , 水 掛 高 を 注 記 し て い る .=
rJ IIJ
二 水 の 絵 図 は , 貞 享 の 頃 の 作 と さ れ るi::T
:;
1
1
j] Mシ u iェ ieeijM⦅J イセャスI年の「江戸上水│ 玄1 J7), 幕 府 昔 話 奉 行 上 水 方 道 方 の 石 野 広 通 が 究 政3年 ( 1791) に ま と め た 「 上 水 記
J
の 付
i
玄1( 東京都水道局所蔵) などが現存している また小金井市教育委員会保管大久保家文書には,明治5年 「 玉 川 上 水 笑 側
1
2:1J,I
司4年11月 以 前 と 推 定 さ れ たiC
玉川! こ水絵1
2:1
)
J
があるめ.n
-
4 }TJJ 川 交 通 の 河 川 絵 図河川交通に関する河川絵! 玄
l
は , さ ら に 以 下 の4つ に 分 類 す る こ と が 適 切 で あ る①
J
1
1
セyイ ゥ ヲ ャhゥ QSQyセ ャ戸
J)
1
1
水 路 図 は4
戸T
JII
計24
点 に の ぼ る た め 第l
表 で は 省11惜 し 第2
表 に 提 示 し , 章 を 改 め て 詳 述 す る . な お , 新 潟 県 東 蒲 原 郡 津 川1I1J
には,明治前期の阿賀野川i
水 路12:1が現存するわ ② 難 所 はJ
liii
かれていないが,)
'1
船の水路に扶j す る 絵 図ゥ ↓セu N
③ ヲヲャゥェ サ エャセ■ izi
@ 筏 流 し に 関 す る 絵1
2
:
1
分 類 上 「 淀 川 両 岸 一 覧
J
などは名所l
迎会の一種とし, またj =J :l
山応挙,長官いている「淀川認
l
巻j は絵画と考えて河川絵里! の範騨から除くこととした.セjij
セカ QBI
1
1
出 来 絵 図j と 「佐波)1
1
筋 絵i
理 」 は 水 路 開 削 の た め の 計 画i
玄i
である 一方, I利根)11河 岸 絵 は 倉 賀 野 河 岸 よ り 行 徳 河 岸 ま で の 河 岸 名 ・ 番 所 ー な ど を 記 載 し て し 、 る10) 群 馬 県 高 崎 市 倉 賀 野 の 須 賀 太 郎 家 と 須 賀 健 一 家 に ほ ぼ 同 様 の 絵 図 が 所 蔵 さ れ て お り , 作 成 年 次 は 記 載 さ れ て い な い が , 安 永 頃 と 推 定 さ れ て い る11)
③ 旅 人 案 内 用 と し て 両 岸 の 景 観 や 河 岸 の 位 置 ・ 道 法 を 描 い た 絵12:1は,淀川を惜し、た絵図に多くみら
れる. ゥ iセカ N
-
1
河 絵 図 iセャ大 坂 安 治 川 伝 法 尼 崎 之 川iコ」は木版lhl l J りの絵図で,伏見と大坂を中心に沿岸の村々とその主な道法な
どが3Wiか れ て い る . 内 閣 文 庫 な ど に 所 蔵 さ れ て い る 「 二 水 合 流 図
J
を鮪i略 化 し て , 観 光 案 内 用 に し た も の と い わ れ て い る12) 寛 政9年 ( 1797) 版 の 「 河 絵 図 」 は 「 増 修 大 坂 指 掌l
玄l J の裏崩! j りで,岡田玉U
J
作,版元播磨屋赤松九兵衛,5
5
x
4
3
. 5
cm
の三色刷j で、あった. また, WI調書総i
ヨ録. ]v
こも掲載されて い る 大 阪 府 立 図 書 館 所 蔵 の 天 保6
年( 1835)
I
淀川筋絵│ 翠」は,I
河絵i
玄IJ )
坂本を荒)1
1
憲 章 が 筆 写 し た も の で あ る .サ iセ I 11便 覧J 13) へ と 受 け 継 が れ た . 大 坂 の 版 元 赤 松 九 兵
衛 と 京 都 の 版 元 竹 原 好 兵 衛 は , 名 所 旧 跡 の 記 事 ー な ど 観 光 的 要 素 を よ り 強 め , 高 島 春 松 屈 に よ る 「 来
l
控 必 携 大1
1
1
便 覧j を 刊 行 し た . そ の 後 , 安 政 jV j と文久J + J ] には名所図会形式の「淀川両岸一覧J 14) へ と 継 承された.④ 筏 流 し に
i
却する絵! 玄H
土木曽J !I
J
1並絵図が代表例であり,1 こ れ に つ い て は 章 を 改 め て 詳 述 す る . 東■GャZ j ゥA ュW ェH ャェセ ゥ ャ
6
]f
-
5
地 誌 的 な 河 川 絵 図江 戸 時 代 の 地 誌 書 に 官 撲 と 私 撲 のj也 誌 が あ る よ う に , 河 川 絵 図 に も 藩 が 作 成 し た と 考 え ら れ る も の と, 地 方 文 化 人 がfl:成ーしたものがある. 前者の例は,
i
口
日
3主〉矧l
区塁翠l J である. 第
2
表 に 示 し た 段 上 川 水 路i
玄! のひとつf
松) 11
舟運!玄I
扉風一! は,本来の利用l
,三!'!'0か ら す れ ば 地 誌 的 な 性 格 を 持 つ(iiJ)11絵! 丞! と考えることもできる. なお地誌とはいえないが,許可)11治岸. の村々をjr
l)JJ
Ijにj;:{分 し た 「 関 八 片l
川 筋 絵i
玄1J16) も こ こ に かlえた.i
調布玉川惣画│孟I
J
については,その作成1=1 的 な ど が 明 確 に な っ た た め , 章 を 改 め て 考 察 を 加 え る . ここでは, ,-球l奔絵│ 逗I
J
に つ い て 切 ら か に なっ た 点 を 記 し て お く
「球! 葬絵l玄
I
J
の! 京本は, I昭和' 27年人吉市教育会館における古美術展の!;m
催 後 に 紛 失 し た . こ れ 以 前 に2
つ の 写 本 が 作 ら れ て お り , そ のl
つ は 現 在 熊 本 市 武 蔵 ケj王のiL
4
rr(
美 家 に 所 蔵 さ れ て い る 幽 勤 務 の 関係で、転居しfこ が , 父 親 の 山 倉 基 は1:11f
捌人吉中学の国語教f :lliで あ っ た . こ の 絵 図 は 寺 社 のEl:l 来 な ど がtJ
:3
己されているが, J京本の写真と! 照合すると, と 人 吉 佐 無IJI 狩 所 の2 箇 所 で 書 き 込 み が1 1j- ず つ 脱 落 し て い る と い う の . し か し , 写 本 と し て は き わ め て 込L実にお1ii 写 さ れ て い る と 思jつれる写真
2
J初 出 絵 図 ( 熊 本 市 武 雄 ケli-_ 1I呼i立夫
家 所)1夜)
44_ 5x1107c mの巻物で, 'I(
/K
2セイ@ ( 1773;の作と故定されてし、る目写真は人占域付近 WQT jBヲセ Aiャ j ヲスェ
l Mh jス イセN
半IJ)fj, -'I1
U
家はik
三ミ角, といった記サで示され, セェZMョ jャ j J也誌( ( ; な
直 近 世 河 川 水 路 図 の 史 料 吟 味
近 世
M
川 水 路l
丞l
は,近代担JI量以前において, IQQ セGnゥ セ1
=
1
的 と し た 絵l
玄│ である. この定義に迎合する河川水路│辺は,第2 表 の 通 り で あ り , 以 下 河 川 別 に 偲 々 の 河 川 水l
弔問のP i"
i
在, ヲヲ jャ x iセi (1':] と年代などを切らかにしていく1
I
l
-
1
北上川│ 水路l
ヌ!北
i
二)1
1
水 路l
玄│は6点 現 存 し て い る し寸よれも盛間帯領最南端に位置した黒沢尻( 現北上I'I}") から( lJJ1-1 の石巻ーまでを
l8
i
し、たがiJ)11水路図で、ある. ゥ シ セェFj jャI 1[廻 米輸送に関連した絵図で、あることが切らかである. 北上川水路図の所蔵先はし、ずれも本来所蔵していた
説者ではなく, J京月i-j故 者 か ら 移 管 ま た はJ収集された.
北上)
1
1
] は, lIB
不[145年 以 後 にI
E
j I ,寄向滞御蔵物書役の斉藤家から移管された. よ れ ば , 北 上)111V士民Jt1d蒋勘定所へ提出した絵図の控えであり, iセA I
1
1
の 難 所 の 実 地 検 分 に よ っ て 作 成 され た こ と が 明 ら か で あ る . し た が っ て , 舟 道 と 蛾 所 の 記 載 が 詳 細 で あ り , 渇 水
J
U ] の浅瀬を航行するたA_QQ セ|Bセ Mヲ エ{[ ヲェ N
セエj 二)11水 路
i
又! もほぼi
引様である北 上) 112は,石巻の郷土史家であり, セュ|ェ ャF
で , 毛 利 コ レ ク シ ョ ン は そ の 私 設 資 料 館 で あ る . 北 上
)
1
1
3は岩! 日1
初 郎 か らl
'
t
I
;
城県区l
書 出 へ 寄 贈 さ れ た も の で , 当 時 巻 物 で あ っ た 北 上) 112を 昭 和27年 頃 に 模 写 し た . た だ し 番 所 を3
か 所 書 き 落 と し て おり , 完 全 な 模 写 本 と は い え な い .
北 上)11T U ゥ AeャIヲヲセ N jャャ 4は 北 上JII 2
と 酷 似 し て い る . 北 上jll 4Vこは嘉永3年 ( 1 850) と明治2年の奥富ーがある. 嘉三) く3年 の 奥 書 は 感ilt計器
、セ ュ ェ Z ZQ eej ェ ャjN R Z
は 東 京 台 所 米 入 用 の 送 り 状 で ¥ 仙 台 読 ま 領 改 所 宛 の 通 行 許 可 願 が 付 さ れ て い る . こ の こ と か ら , 北 上 川 4は 嘉 永
3
年 の 「 船 中 見 届 」 に 際 し て , 北 1=.)11 2ま た は こ れ と 向 一 内 容 の 河 川 水i
引云l
を 模 写 し た も の と 推 定 さ れ る . 北 上)I! 5は 記 載 内 容 に お い てf
訟の河川水路│ 豆! と呉質なjIl:Iを も っ て い る . 他 の?Uf 川 水 路nャゥ iセi ェw■ N S
li'J
川 水 路 図 で は ま っ た く 拙 か れ て い な い 平 野 部 の 水IJ l を図示している. し か し , 今 の と こ ろ 北 上jll5
iセi N
北 上
) 1
1
6
はii点 新 戸 芸 の 収 集 に よ る も の で , 唯 一 の 彩 色 絵 図 で あ る . 方 位 記 号 が 図 示 さ れ ,I
浪ら れ た 紙;111日 の な か に 方 位 に 合 わ せ て 河 川 の 蛇 行 を:ji'iiくため,河川を切断しておlliし、ている. したがって, 河 川 を つ な げ る に は 巻 物 を 切 断 し な け れ ば な ら な い . こ の よ う に , 実 測 図 で は な い 近 世 河 川 水 路 区 ! のなかでは,最も実証! 日留に近い表現方法ーを採用している
。 コ
i[セA⦅[@
JXI
2.
北上 rl1j'r .図書館
石巻市毛利つレクション
ゴnl奇2セQ HQWUSI
│玄!
iiセ
黒 沢 尻 一 石 巻 黒 沢 尻 一 石 巻
オ く )11
河
近
第2表
北一上) 11絵│玄i
Iセセ ェ エ⦅
宮
T
A : 県凶書館感冊子11中 央 公 民 館
! 忠岡市中央公民館
よJ l 沢尻一石巻 黒 沢 尻 一 石 巻 黒 沢 尻 一 石 巻 「黒沢尻川市より石巻迄)11筋絵│ 潤
J
「北! こ)11自/C/l,(; 1玄j J
「北上川県沢尻河岸より{/IIi封鎖石巻核
合)11/コ迄之)11筋絵! 玄IJ
「北上川県沢尻河岸より石巻淡迄之絵 図
J
円
、
V
A
付
p a w l ﹁ U
岩 手 県 立 図 書 館
弘化: ' i "F.II¥J ( J 84LJ - 1847)
黒 沢 尻 一 石 器 物 27. 5x4, 465cI11
2.
山 形 県 立 博 物 館
米 沢 市 宮 坂 考 古 館
i
JJ形 市 立 大 郷 小 学 校
山 形 市 蔵 王 桜EEI 横 山 裕
千葉県香] 阿部下総町 飯1/1.弘治通
大 石
m
llJ]"立歴史民俗資料館山 形 県 立 博 物 館
西 村 山 郡 河 北 町 損 真 司
鶴 岡 市 致 道 博 物 館
1
5
文8 -寛保2 ( 1668- 1742)明 治8年 ( 1875) 頃
ヲミ{呆7年 ( 1836) 8 月
延 草3年 ( 1746) 4月 下 旬
糠 野 @ ー 左 沢
糠 野 目 一 荒il民
高 │ 可一左沢
山 形 船IllJ一 泊 川 山形船/fJ]一泊山
寺 津 一 泊111
山 形 船Il l J -h7cQ川
上 ノ 山 一 酒1!1
イセ Zゥ Oャャj QQQ
谷 地 一 清 水
本 合 海
- y
古川谷 地 一 清)11
28 x1, 180cll1
61Jll 1双 ( 右 )
( 左) 27 X 870cI11
30 X 866cll1
29 x1, 251c日1
29. 5 X 700cll1
16 X 470cll1
6 4 x 871cl11
67. 5X 800cI11( 乾)
67. 5X 700cI11( 坤) 55 x 980cm
巻
セj■N Q
的1 風
巻物 28x1, 890cI11
n
n
物 27x2, 880cI11( 巻物を修正)
巻 物 26x3, 040Cll1
Il l J 物 27. 8x2, 880cI11 巻物 27. 5X 766cI11
「羽州川通絵図
o
米沢正fiM
i
立上左沢」松)11;j}jill図的l風
6.
巻 物
巻 物
巻物
巻物
巻物
折 口 み 式
巻物
N
立J
こ)IIJ 11通絵! 玄l
@()II • 立を
J
二)11絵i玄i!
'i
i
t
上川舟運絵! ヌi
)'/主上)11jili)!]袋内選;
ャGゥ セj IQQWj Q GNA ゥ
r
QセQi
l
i?:上川絵i立IJr-l 泣j二}II 谷J也
1
]11切波よりH
I
沢j Z絵iヌI_lq
J
A
A
に
d
p
O
寸
i
n
O
Q
d
稲 村 七 郎 左 衛 門
1
1
円
ノ
臼
つ
d
4
4
に
d
東 村 山 部 山 辺 町
西 白 河 郡 矢 吹 町 円 谷 重 夫
君fllJJ市 西IJIIll]' J曽 子 寿 郎 福 島 市 資 料 展 示 室
福 島 県 立 図 書 館
宮 城 県 図 書 館 嘉 永2一 文 久2 ( 1849- 1862)
天保13年 ( 1842)
明 和6- 7年 ( 1769- 1770) 文政 5- 6年 ( 1882- 1823)
安 政2i":'F ( 1855)
1] 1宇 山 一 木 宮
須 賀 川 一 福 島
福 島 一 水 沢
福 島 一 水 沢
セAスi@ 野 一 荒 浜
31 x 330cm 30 x1, : 330cl11
30 x,] 285C111 33 x1, 275cm 38 X 860cIl1
4
か
均
均
均
ム
m
ψ
均
d
n
吐
q,
d
川
河
l
d
パ
寸
白
J
内
川バ
B
d
パパ
B'
: 佳
巻
胤
︺
巻
札
佐
治
}
此!こ)11絵il司
阿 武IlJ'()lljffi船 絵 図
ャ■ャセスQQ ゥ A
iャjセ ゥ ャ
阿 武IlNJI 17.l<.I的 関 阿 武IlN川絵! ヌi
ハ
H v d a g
-品
南l三 摩 郡 鰍 沢 町 青山富貴江
南 巨 摩 郡j 72穂IflJ 小河内為{古
甲 府 市 伊 勢IIJ]ー 小 林 さ だ
l T Wll一 清 水
( 育相1)) 一岩淵
青 QセャャM
702Cll1
527CJ l l 643C111 16 x 25 x 25 x
ι
山
刀
仏
川
V
品
川
v
d
パ
イ
a d n X 1 d n
ベー
巻
迭
を
13土川絵図
寓ゴ二川通鰍沢より岩出
i
迄絵│ 玄1i
f
i
i
「富士川通鰍沢より岩淵迄絵│玄l而」
1
2
3 安 政4- 6年 ( 1857- 1859)
安 政4- 6年 ( 1857- 1859)
i盟 名 の あ る 河 川 水 路 図 は カ ッ つ を 付 し , 1珂 名 の な い;IIJ)II水 路 間 は 名 称 を 適 立 与 え た .
作 成 年1?を 記 し た (ii[JII水 路 閣 は 作 成 年 号 に ア ン ダ ー ラ イ ン を , 作 成 年 号 を 推 定 し う るil1))11水 路 閃 は 作 成 年 号 を 記 入 し た .
1ι jニ}115は日l欠,G セ@ I:}II 2は日fi欠 の た め , 巻 物 の 良 さ は 短 く な コ て い る
注] . )
111- 2
役一i
二)1
[ 水路│ ヌ!l
i
支上)1
水 路i
玄i
は1
0
点現存している.JW
i
かれた区! 日? に注目すると,糠野l
ヨ ー 左 沢 問 ( 最 上)[1
1
・2
,) 1-11
.
形 船i f l J -潤EFIIMJ (J校j二)
1
1 3
・4
.
5
・6
・7
・8)
,谷地一清川! 羽( 最J
二)
1
1 9
・1
0
)
の3
つ に お お そAN iセiM ゥ N
1
1
1
形 加IIlJ -澗EEII羽は-1L 1形位地の幕府領ならびに山形蒋・_ I 二
U
J
帯 の 廻 米 ノ レ ー ト で あ っ た . ョセャ は , お お よ そ 新 庄 詐 の 領 内 で あ る .段上)
1
1
Q R iセiM ゥ ゥ N IQQ 1は I投 長jl
二政太郎i収集の絵思i
であるが,j京 所 蔵 者 は 不 明 で あ る . 識 と)1¥2はJ
Jl!
J武絵i
玄lであり,現在の米沢市中I l IJに 居 住 し て い た 小 倉 某 家 よ り? 明治30年 頃 に 郷 土 資 本 ! の 収 集 家 で あ っ た 故 宮 坂 善 助 が 入 手 し た . 近 世m
の中I l lJは 米 沢T
R
下I fIJの外Q QZ iセZ ャ N J京 方 絃
i
玄│ のひとつ明示11:6
年 ( 1769) ,- 諸奉公人屋笥
i
l
絵 図J18) に よ れ ば , 中IHJに小倉姓は存在していないが,東! 坊のj十UlJに は 小 倉 伝 左 衛I
I
I
J
の 名 が み ら れ る . 小 倉 伝 左 は 上 杉 家 静 代 の 蒋 士 で 、 あ る が , 米 沢 葎 最 上 )1
1
廻 米 輪 送 が 始 め ら れ た 元 禄Jm
に は8
石3
人 扶 持 の 馬 廼r
M
c
-1
ごという下級蒋土で、あった19) したがって,-
1
ご級帯士が j芹j武絵│ 玄!を 所 有 し て い た と は 考 え ら れ ず 最 上
) 1
1
2
の涼所蔵者は小倉{ 云左衛門家ではないと推定されるが,少 な く と も 米 沢 器 家 中 の 所 蔵 で あ っ た こ と は 間 違 い な か ろ う . な お ,
JJlJm
し の 右 双 上 段 右 隅 と 左 双 上 段 左! 塙に「古泉斎! 玄i
之 」 と 記 さ れ て い る が , 御 用 絵 師 岩 瀬 、 家 に 古 泉 斎 の 号 を 称 し た 者 は い な い .最 上JII
3
は , 山 形 市 船U1rの 阿 部 忠 家 よ り 大 郷 小 学 校 へ 寄 贈 さ れ た . 阿 部 忠 家 は 三 右 衛 門 を 代 々 名 来 り,先日I !IJ主 問 屋 の ひ と つ で あ っ た . こ の 絵 簡 は 最 上 川 水 運 の 研 究 者 に 広 く 矢 口 ら れ て お り , 究 文8
年 ( 1668) か ら 呆2年 ( 1742) のI i 司の作と推定されている こ の 推 定 年 十 た は 図 中 の 大 石 田 の 箇 所 に 「 御 代 官 所 山 形 領 東 根 領j と 注 記 さ れ て い る 点 か ら , 大 石 113が幕府代官領・i JJ形 帯 ・ 東 摂 蒋 に 三 給 支ャャセヲjュ RPI
最 上
)1
1 4
は山形市蔵王桜F f3
の伊1
1
1
1
1
裕家所蔵で、あり,最上)1
1
3に酷似してし、る. 松山家は下桜田村のぞi主 で , 荷 宿 を 経 営 し て い た . 下 桜EEI村は船I lIJで、最上川に合流する須
)1
1
沿岸に位置し, j Mi l HJ より約1
2
キロメートノレ上流にあたる. 近世期の須)
1
1
で、は水運は行なわれていなかっずこが,明治8
年5
月1
9
日に「須
JI
I
筋船道御見分願書」を山形県参事務井龍之に提/ = lj し , 通 船 許 可 を 願 し 、 こ . こ の 願 書 に は 横 山 三 九 郎 の ほ か , 船 1111村 伊 藤 市 左 衛 門 ら 山 形 船 UITの 船 持 が 名 を 列 ね て い る . こ の 点 か ら , 最 上) 1
1
4
は 最 上J I 13
の 明 治 初 期 の 写 本 と 推 定 さ れ る最 上
)1
1 5
は , 千 葉 県 呑l
f
文部下総H lJの 飯 島 治 通 が 佐 原 市 の 古 物 商 よ り 購 入 し た . 古 物 商 の 仕 入 れ 先 は 明 ら か に さ れ な い が , 佐 原 市 津 宮 の 旧 家 の 所 蔵 か と い わ れ て い る . 利 根 川 治 岸 の 津 宮 は 呑11又ネ11J宮 参 詣者 が 上 陸 す る 河 岸 で も あ り , 村 E l 3 屋・佐原屋・模屋などの河岸問屋があった 現 在 の と こ ろ , こ れ
らの河岸問屋の! 日放か否かは判断がつかない. むしろ,最上川水運との! 主JJ i l i を考えれば¥佐倉落
V
l
i
I
EEI家 を 想 定 し な け れ ば な ら な い . 堀EEJ家 は , 延 享3(r:1三(1746) にIJI-7診より移圭j され,その後も! - L !71列こ4
万 石 の 所 領 が あ っ た . こ の 所 鎮 の 廻 米 に は 最 上 )
1
1
水 運 が 科 用 さ れ た . こ の た め , 最 上)1
1 5
は 佐 倉 務 関10
最上)11
V
、Miス
f fャ ャャi jスG コZ ュセ Zシシ
り,天保7年( 1836) の写本であることが明らかである. また,石i JJ儀左衛Illjの 懇 阪 に よ り , 延 沢 新
IlI
J
( 現尾花沢r
l
'
i ) 八幡山金 lihjlj院の主主弁法 I:IJが写したとある・ しかし, この絵1:;Z1に 類 似 の 絵 図 は 見 い 出 していない.最上)11 7は,最上)111と同様に故長井政太郎収集の絵図で、ある. 須)
QQ
QR
ェwゥセ
名を記していることから, ) 京所j践者は須)11流域に j苦 任 し て い た 可 能 性 が あ る . 長 崎 ・ 大 石 EEI ・本合町: ・清)11・澗FEl の5か 所 に 方 {it 記号を
W
li
l.-、ている. 河川水路i
認で、方位記号を払ilし、た他の絵i
玄i
は , 弘 化 年間( 1844- 1847) の北上)'1 6のみで,明治前期で、は阿賀野)11水 路 図 に み ら れ る . こ の 点 か ら3 早く ても幕末の作と考えられる最上)1 I8は , 河 北 町 谷 地 の 棋 真 司 家 所 蔵 で あ る . 谷 地 は 二 給 の 相 給 村 落 で , 幕 府 領 の 新Il!
J
・松橋・大Il JJ ・荒IllJ ・前小路・上工藤小路と, セt AN
i
長家は藤左衛門iャャj AZN ェ IQQQ wセ イャh ヲゥアェ
適地とする紅花を栽培した.
r
谷地花賞仲間」が結成され, セNQQQ IQQWI ij eャS QWセj
上)11三難所といわれた碁点・みかの瀬・ る た め , 紅 花 は 難 船 の 危 険 を 避 け て 大 石 間 ま で 接 送 さ
れたといわれている. したがって,紅花の輸送経路ではない山形! 前j l I J J - 酒田間を摘し、た絵図を必要と
する理由は希部であるが,幕府領名主として幕府御域米輸送経路であった山形船H l
J
一 諮 問 問 の 絵i
惑を作成した可能性が考えられる.
最 上)11Y QQ QQ セャ 2巻の装部I i 性の高い絵1:;Z1である. か1,には新j主 権15-IS奉 行 岩 間
作 右 衛 門 に よ る 延 享3年 ( 1746) T Q エセ 2段に分かれ,
J
二段は│ 主i
絵閣の郡境の異同, 下 段 は 清 水 よ り 柏 沢 ま で の 道 程 が 記 さ れ て い る . この奥書の考証は
J
J
Ij稿 ( r絵図にみる最J二)11の空間認識J ) に記したため, ここでは結論のみを記す. 最上)11 9は延享3年 に 新 庄 薄 か ら 鶴
岡葎に提出された. 奥書には正保田絵図における郡境の誤りを元探の│ 雪絵図改訂? こ! 探して修正した旨
が 記 さ れ て い る が , 絵 図 そ の も の の 表 現 内 容 とJ薬 害 の 内 容 は ま っ た く 無 関 係 で あ る 絵 図 そ の も の は
S セセis
れる.
最上川
1
0
は山辺IHJ大 字 肢 の 稲 村 七 郎 左 衛 門 家 所 蔵 で あ る 大 字 蕨 は 白 鷹 丘 陵 のl中央に位置し,稲村家は戦闘末期に土着したといわれている. 近世中期には,京者都
i
日: や越中にi
出j卦1
荷する青苧. 蝋. 紅花の「J
:
屋経営を行行. なつた豪商であつた. このため,大石日3に)11船 を 所 有 し て い た こ と も あ る . 絵 図 は 明 ら か
に最上:)11 9の写本であるが,最上J ! l 9で色汚r J されている新庄藩領の村々を色別していない. 稲村家と
新[ 主務, ま た は 鶴 岡 落 と の 関 係 に つ い て は 明 ら か で は な い が , 豪 商 ゆ え に 務 所 有 の 絵 図 を 写 す 機 会 が 与 え ら れ た も の と 推 定 さ れ る
111- 3
阿武)
1
呉川水路│ ヌi
1)州ω)1川11りJID
( 阿武! 限校j川
1
1
3
.
4)
, シ j Z ゥセ ( 阿武; 限1
股受引初川j月1
1
5
引) に区玄分することができるi
R セゥ ェ QQ ゥlェ h |j} 蓬 茶i峡峡とゥ ャA ゥ セZiシ ャ 川)
1
I
船のi
通面市船)i:が! 悶1
主詩l
s
(住史知難t
な不可! 航悦jj ' 此'Jiji ' LI区話玄: で、あった. このため, iャャセIQQ ェN QI エエiセ
らi I
J
i
斉月li-Ih'l ; ' を牛背で、運ばれた. この慌のi
加工会!三平均1
0
万俵にものぼったといオつれ,阿武│岐川上流t
1
1
)
のェ we ゥ ョセjヲャ N
阿武限)
1
1
1は西白河出矢吹町の円谷重犬家所i
訟である_I
T
J
谷家はりI
J
耐えj "O)t主屋を目的め,f
寄屋・太物j
{'fj • ¥Ia{:
?
lll
造 を 営 み , 会s
jJ: 帯担当米運送方I
:
:
'J
犀,j
d
肘HcJZ潟より会主[ 1 : まで諸荷物払i
刊 毘 ; の 続 出 を な っ た .Ij Qセゥ R HQ XTYI
4
月, iセj@ /河村p:j谷 茂 平 . )1
1
j efi GQ[G Z{Qヲ t S ヲ ェ サ QQM セAいを提出した. 翌年には大和久村市お街
1
1 1
1
も加わり,']i_ 政2
年( 1855)
8
月治、ら3
か年の1
式通商; } が実N R HQ XVRI セ
し,明治
1
5
年頃まで、通船が行われた21) こうした経粋のなかで,阿武/lj;V
Ill
は 嘉 永2
年 か ら 文 久2
年にわたってj古代官所へ提出された願書: の付- ,玄! として利) 一目されたものと考えらまt る.
阿武
1
1
引1
1
2
は郡山市西EEIIIlJ
根木屋の増子芳郎家所蔵である22) 所 蔵 者 に よ れ ば , 天d保13
年( 1842)
の作とされているが, 者都l日:合により付付1-槌路文書の! 関: 立渇
f
ll
覧i
覧芝を行なえない1:状i
伏犬況にあるTたこ占将宅ち〉λ,断日1j却折リ計; 定はでで、きない. 絵i
灰 関 叉 苅
σ
i
のコ表立現こ1
初l
i
肉苅であつた乙とは明らカか、でで、ある. とくに蓬莱峡と
I
1
手ばれる狭窄部の水路O
I
'Jig
1
j
を 目 的 と し た も の と 推 定 さ れ る . し か し こ の 計 画 は 実 現 し な か っ た .阿武隈
)1
1 3
・4
は, ji1J)1
1
7
)
く路閣の中では数少ない烏UI敢闘法でザ!?iかれ,表現情むにと内容が酷似している. 阿武! 桜)QQ セ[セ ェ
船 の 積 荷 を 積 み 換 え た . 絵
i
玄i
にあ肋冶れた福島一水沢I
M
j
は小鵜飼船の航行区間で、あり,小鵜飼j加は猿跳1
1
誌と呼ばれる狭窄部を乗り切るために3 木曽)1
1
の小鵜飼船を改良して導入さオ1た.福島市資料展示室所蔵の阿武隈川
3
は,昭和3
1
年故宮内富貴夫によって寄R
留 さ れ た . 宮 内 富 貴 夫 はのかたわら古銭・古H寺計・燈火・養蚕・煙草などの資料を収集しずこ. J京所j武者は不明である
が , 安EEl ゥ jォセ■セ RSI Z
の{ 寸築を主たる根拠とする点に若干の疑問も残るが,以
F
のような考察は納得ーで、きるものである. 安i
二El 初 球 の 野1
1
長に記録された瀬上河岸の付婆の内容は,元詰負渡辺十右衛門が明和6
年( 1769)
11月かQR V ↓セセ NiG iij
工事請負を引継し、だ上総麗幸右衛門が,明手0 6年11月から翌7年にかけて
flJ
定 し 幕 府 に 対 す る 報 告または願書: の付区
i
として用いられたとされている福 島 県 立 図 書 館 所 蔵 の 阿 武 隈
) 1
1
4
は,1
)1
1
村 瑞 ノj京l
玄i
ニヨノレ」という書き込みがあるため,戦前 か ら 河 村 瑞l
i
汗の絵図として古田良一24)や 問 中 館 秀 三25)によって紹介された. し か し 安I:EI初土佐は文政5
年( 1822)
から翌3
月 ま で に 作 成 さ れ た と し 阿 武 隈)1
1 3
の写本であることを明らかにしずこ26) こ12
し た も の で あ る
宮 城 県 図 書 館 所 蔵 の 阿 武 線 川
5
は, 一 説 に は 河 口 の 荒 浜 の 小 学 校 に 保 管 さ れ て い た 絵i
還 を 移 管 し た の で は な い か と い わ れ て い る 浜 の 武 者 惣 三 家 v士lN
'J
1
5 Z 人 を 世 襲 し た が , 武 者 家 に は 河 )11水 路j玄jは 所蔵 さ れ て い な い ャ■jセjii ャ�⦅F
台 藩 の 水 遇 制 度 に 従 っ た 輸 送 が 行 な わ れ た . 仙 台 藩 は 荒 浜 に )111コ 番 所 を 設 置 し , 玉ill奇 ( 現 岩 沼 市 ) の 渡 辺 家 な ど の 締
JJl
入 が 管 理 ・ 運 賞 し た . こ の 渡 辺 家 に も 河 川 水 路 ! 玄 ! は 残 さ れ て い な い が , 仙 台 辞 領 内の 水 路 を 描 い た 阿 武ri即日
5
は 肺 肝 入 な ど が 作 成 し た と 考 え る の が 妥 当 で あ り , そ の 作 成 目 ! 杓 は 仙 台 務 廻 米 輸 送 の 運 営 に あ っ た と み ら れ るI TI - 4 '言土)11 水路認
i
富 士 )11水 路 図 は3点 現 存 し て い る . 12 と3 は 表 現 様 式 ・ 記 載 内 容 と も 一 致 し た 絵 図 で あ る
が , 両 図 と 富 士)111は 全 く 関 連 性 が な し ¥
富 士
)1
1
1
は W'I霞高高;=iゴ土三j川1
1
水述運: 史j ]27η) を 著 わ し た 故 青11ほ出i
.
安 藤 政 治 よ り 談 り 受 け た . 安 藤 家 は 明 治 以
1
市前J
i
に は 鰍 沢 にj屠吾住しし, 呉呉-月服i
皮t
i蕗海を営んでいたという
7古{主7文文‘ 書書 な ど も 残 さ れ て お ら ず , 富 士) 1
1
1
の 伝 来 理 由 も 不 明 で あ る . し か し , 寓 土}1
1
1
は 富 士J1
1
の 水 路 に 加 え て , 河 口 港 の 機 能 を 有 し た 清 水 港 ま で の 各 を 措 い て い る 点 に 特 色 が あ り , 河 川 改 修 やI
}
!
g削 と い っ た
131め で は な く , 輸 送 経 路 を 示 す こ と を 主 根 と し て い る
富 士
)1
1 2
と3
は , 安 政4
年 ( 1857)
か ら6
年 に か け て 豪 農 小 林 八 右 衛 門 が 出 資 し て 行 な っ た 水 路 改 修 の た め の 計 画 図 国 と し て 利 用 さ れ た 絵 図 で 、 あ る こ と が 明 ら か と な っ た . 宮 士)113は 小 林 家 伝 来 の 絵図 で あ る . 富 士)11
2
は 青 椀 河 岸 の 河 岸 問 屋 で あ っ た 小 河 内 家 所 蔵 で あ る . 同 様 の 絵 │ 玄iの 部 分 写 真 が 依 田 敏 太 郎 家 所 蔵 と し て 『 増 穂 町 誌 j ]28) に 掲 載 さ れ て い る が , 現 在 で は 所 在 の 確 認 が で き な い . しかし , 依EEI家文書・29)の 一 部 が 増 穂 町 民 俗 資 料 館 に 保 管 さ れ て お り , こ の な か の 安 政5年「事; 士)IIJ i l l 岩切
写真 3 富士}I!通鰍沢より岩出
i
迄絵盟国( 南巨摩郡増穂
町 小 河 内 為 信 家 所 蔵 )
芝JII合流j互にある瀬戸島は溶
岩流によって形成された. )111院
が 5111
と狭まるため
)
1
1
船航行の難万r
r
となった. 写真のように難所を極端にデフ1 ノレメしている
点に特邑がある. 付築の番号は
工事箇所を示し,河川改修の計
一 付 甚 写 」 に よ っ て 絵
i
玄I fl二成の経緯が判明する. 指南人であった依EEl 喜有内は,水路改移の資金 を 必 要 と し て い た 船 頭 衆 の 求 め にj芯じて,青相JI河岸の小河内太郎左衛門らとともに,小林八右衛! ヨ
J
I
に 出 資 を し た . この11寺の普請飽所は安政
6
ゥ↓ jセセ QQQれ ば
27
街 所 で あ り , 富 士 川2
と3
に示された27
の朱筆番号と一致する. したがって, この絵図は河川改修を行なうための計臨密! であったことが切らかである.
W 筑 後JII絵図の史料吟味
第3表 に 示 し た よ う に , 筑 後 )11絵図を5点確認している. し、ずれも ]=113=1
1
m
境から河仁iまでを描き, 奥 書 の 年 代 が 文 政2
年 ( 1819)
と弘化4
年( 1847)
の2
5
ill
りがあるが,表現│司容はほぼ伺ーの写本関 係 に あ る筑 後jll 1は2巻本で,浮羽郡吉井町ーの大石堰土地改良区所j哉 の 絵 図 で あ る . 大 石 堰 は 延 宝2年
( 1
674)
に 完 成 し , 擢 j佼面積は1
7
0
0
1
町歩に及んだ. w久留米i 'J
I
史 第2
巻 』 で は , 恨 拠 は 示 さ れ て い ないが, l ' 宝} 奮王子I 'Mj以 降 の 図J
と推定されている30)筑 後) 112は , 久 留 米 藩)11筋見延! 役であった木村桂三家に所蔵されている. )1ぱJJ見 廻 役 は 受 け 持 ち の 河川
1
.
溝 渠 の 普 請 な ど を 担 当 し て お り , 職 務 上 筑 後 )1
[
絵簡を所蔵したものと考えられる.筑後J 1 13 ・4 ・5の所j読者は原所蔵者ではなく,収集された絵図で、ある. 筑後川3は 郷 土 史 家 行 徳
平 八 家 所 蔵 で あ る 筑 後)11T GH■[AセN IQQ 5 は 古 地 図 研 究 家 の 南 波 松 太
郎 収 集 の 絵 @ で あ る
筑後)I1絵
i
玄! は,表現内容から判断すると久留米務の作成によるものと考えられる. 筑後)I1中 ・ 下 流は久仔
i
; t と藩と佐賀葎の境界にあたっていた. 戸j 道中のJ1yf なども詳細にH1iか れ て い る が , 久 留 米 藩 領 の村々を色男I j している. 着色部分は村域を示しており,流路の蛇行によって凶まれた耕地についても帰
属 す る 村 名 を 記 し て い る . こ の 点 か ら , 堤 外 地 の 所 有 を 示 し た 河 川
i
絵図に分類した. これに対して, 対 岸 の 佐 賀 帯 側 で も 問 機 の 性 格 を 有 す る と 考 え ら れ る 絵 図 が あ る . 佐 賀 県 立 図 書 館 に は 筑 後 )I1の絵図 が 数 種 類 所 蔵 さ れ て い る31) そ の う ち 佐 賀 藩i
日蔵絵図を検討した結果では,天保1
2
年( 1841)
の「御境)11絵 図
J
と,近世後期と推定されているI 'lle筑堺川区l J は仕立かずここそ異なるものの,第3表 の 筑後 川 絵 図 と 類 似 の 絵 図 で あ っ た 可 能 性 が あ る
筑 後)1
i
絵 図 の も う ひ と つ の 特 色 は , 絵 図 そ の も の と 奥 蓄 が 一 致 し て い な い 点 で あ る この絵図は文政
2
年 ま た は 弘 化4
年の河口部における漁業裁定の奥書が言己されている. しかし,河仁l部 の 漁 場 争 論の 裁 許 にj刊し、られた絵
i
玄!ならば, 13E
f
3
セZヲiI ^ヲャGゥェ N したがって, この奥書ならひ、に花f: {場IKJ或を示す朱線は後筆と考えられる. こ の よ う に , 河 川 絵 図 が 他 の 目 的 の た め に 再 利 用 さ れ た 例 と し て は , 第2表 に 示 し た 最 上) 119
i
最上} [Q ェG ャェャ セZiZi Nしかしながら,筑後)11絵図のように現存が確認されるすべての絵闘に,
f
r
i
J
1コ部における漁場裁定の14
筑 後)11絵
i
理 2. 筑 後)11絵 図 3. 筑 後 川 絵 毘l 4. 筑後川絵! 玄! 5. 筑後)11絵 図第3表筑後)11 絵 図 の 所 在 一 覧
巻 物 38x1, OOOCl l l 日E l J 郡境一河口 文 政2年 ( 1819) 折 本21市 i
ヨ
i王11m境 一 河 口 文 政2年 ( 1819) 折 本2叩 日1I 1tll)境 一 河 口 文 政2: 9三( 1 819) 折 本 27x 740CJl1 iヨ
m
郡 境 ー 河 口 弘イヒ4年 ( 1847) 折 本 27x 716c m iヨ
m
郡 境 一 河 口 弘 化4年 ( 1847)合 弁 IliJ 大 石 堰 土 地 改 良 区 久 留 米 市 木 村 桂 三 日1:主 丸IIlJ 行 徳 平 八 三 瀦 IllJ 自主久二郎
神戸市立博物館( 南波松太郎)
注) 1番 『 筑 後 川50年 史 』 筑 後]11工 事 事 務 所1976年 p. 852
2番 円 高 岡 県 史 資 料 第9 ililU1938年付区I w セ QYWWセ ゥ
『久留米市史 第2巻J l QYXR iセ ーNWTT
文 政2年 筑 後 ) [ 1 絵 図 奥 書 久 留 米 市 木 村 桂 三 家 ( カッコ内筆者注〉
iセ ゥ A■ti Q
度見分,肥前i DllJl1共 立 合 之 上 又 見 分 有 之 , 柳 川 天 守 目 当 ニ ) J
i
i ,場枕木ヨリ方{立被 j、13i盃 候 , 右 場 所エ鐘ケ江青木島中古賀向島此辺ノ猟士共罷I . :B
1
i
侯 節 ノ ¥ 御 国 ( 久 留 米 落 )l E
!
前 〈 佐 賀 落 ) 柳川
C
t
i1ll)1I藩) 三ケ密ノI =IJ提リ侯札持出ノレ也,此札七ヶ年i
ヨニハ日間表ニテ右三ヶ国役人立会,於問所新札出来引替被相渡{ 民事
文 政 二
g
p
年四月公 儀 御 役 人 衆 御代官
御 代 官 手 付 御 普 請 役 元 〆 格 評 定 所 書 役 御 代 官 手 付
久 須 美 六 郎 左 衛 門
津弥兵 衛
司
J )11 jこ . 0}J青山政五郎
今 井 太 郎 九 郎
小 息 子 幸 助
弘 化 4 年 筑 後 )11絵 図 奥 書 神 戸 市 立 博 物 館 ( 南 波 松 太 郎 〉
右 猟 場 , 鐘 ケ 江 村 猟i罰共
n
巴前之者ト令! 喧! 嘩其末及公訴,左ノ御役人御下! 詩文政二卯年四月八1
=1榎 津 IllJエ街i入 込 海 面 御 克 分 有 之 , 同 二 十 七 日 ヨ リ 肥 前 諸 富 エ 御 引 越 又 海 面 街i見 分 之 上 , 右
jjeセ {jI 11立合, iDllJl1天 守 目 当 方 位 i:131副長事
豆、{ 七四年未秋改之写
( 公儀役人名は文政
2
年 と 同 文 の た め 省 If J 各した. )文 政2年 の 奥 書 よ り , 弘 化4年 は 文 政2年 か ら7年 目 ご と に 行 わ れ る 4回 目 の 新 札 引 替 の 年 に あ た る こ と が わ か る . す な わ ち , 弘 化 4 年 の 奥 警 は 漁 場
i
玄 域 の 確 認 の た め に 再 度 書 き 直 し た も の と 思 わ れ る.の者たちが, ihiI ケセ セ↓|ュャ○ 3名を生け捕りにし,
)
:5
尿小f
更を呑ませた. 文化12年2月271-=1, ひ 場 争 い が 生 じ , 佐 賀 落 傾 の 猟::1Hi が30余般の漁船で取り巻き,鎧ヶ江村の猟師5
名を殺害に及んだ. このど
I
s
論 が 起 こ っ た 原 因 は , 双 方 の 漁 場i
玄 域 が 明 確 で な か っ た こ と に よ る と して , 文 政2年幕府寺社奉行が裁定を行なうことになった. このH寺,美濃紙縦3
i
女半・棋2枚 半 の 絵 図を 仕 立 て る と のFI:Iし合わせがなされたが,久留米葎が差し出した絵図は砂川なども少なく,佐賀藩の
絵│ 玄! と異なっていた. しかし,この寺社奉行に提出された絵図Vi ,様式からみても筑後)11絵 図 で は な
い. このため筑後}II絵図は, )1は) ) 見廼役らがすでに所持していた絵留に,取り決められた漁場区域を
iセi N
V 木曽
)
[
1 )
1
1
並絵図の史料吟味木曽)11 . 揖斐川・長良
J
I
I
の木曽三)1rは,河口{寸近の輪仁│ コj也子'
i
i
の治オくに関する絵図が多く残されている. これらに対して,木骨)11)11並絵図は尾張薄木曽御用林の筏流しに関する絵図として興味深い絵図
である
木野) fijii T U SSI QQセj
)11合 渡 ( 現 岐 阜 県 福 島II ! J ) より熱田の白鳥( 名古屋市熱田区西1 l I J ) まで、をあ'ii,¥、ている. 近
l
: t t では)11合 渡 よ り 下 流 を 木 曽 )11と呼び, ! え( るは尾張l ' i l f の貯木場であった. 尾張務の木曽笹l
リ有林は,熱日:11主l ) 急に到iャ セ○ N
木曽の伐採は八一
-
1
八夜前後から始まり,1
1
月末までに支流に木材を流す「小谷狩J
を終える. 向n
寺HA iャャjI Iiiセセjj N
れ た 木 材 を 受 け
J1
_
める「綱場J
が設けられており,翌年立春にはここで、順次筏に組まれた. 筏は犬U
J
,I
巧成寺( 現岐阜県笠松町),荷│ 翠( 海部1
m
)
と流し, ここから海上を熱I J : J 白鳥まで運ばれた. 延宝
l
年 ( 1673)
円城寺に)11並奉行所が置かれ,尾張藩では対岸の北方( 現愛知県一宮市) に向じく川出奉行所を置いた.
木曽J!I )11並絵図の1番は, セ 資 料 編 近 世9Jl の付
l
玄i
として,後半部分の錦織から熱EHまでの写真が掲載されている 問書の解説によれば,上・下2巻で,
r
成立年代は享{ 来年中(
1716-35)
と推定される作者不明の絵図」と記されている34) 所蔵機関の事情により,原本を閲覧していない た め 推1111Jの域を出ないが,作成年代などの記載がないのではなL、かと思われる. しかし,後述する
ように, この絵図は木曽川)11並絵図の原本ではないかと考えられる. なお,
1956
年に干I j 行された『笠松 H1J史 上巻j ]
v
こも「享保i時代の木曽)11図録」として笠松付近の部分写真が掲載されている35) この時 点 で は 蓬 左 文 庫 架 蔵 と さ れ て い る が , 名 古 屋 市 蓬 左 文 庫 と 徳 )11索開会徳川林政史研究所が分かれる 以 前 で あ り , 現 在 名 古 屋 市 蓬 左 文 庫 に は 木 曽 )
IIJII
並絵閣は所蔵されていない.2番 は 一 宮 i'!=i北方の同 E13家所蔵( 一宮市立
i
専物館保管) の絵図である. 北方は)1日
I企番所がi
置かれ,ャ feャ iG iij IQ N iセャ I11)11並 絵 図 を 見 る 機 会 が あ っ た と 考 え ら
れ,その写本を所持したものと想定される. 現存しているのは前半部のみで、あり,錦織から熱田まで
16
第4表 木 曽 )11)11並 絵 図 の 所 在 一 覧
1. 木 曽 )11) 1 [並絵図 折 本 上松一熱! 日 享 保12年 ( 1727) 徳 川 林 政 史 研 ヲJE 所
2. 木曽)llJi1並 絵 図 巻 物 31 x 825Cll1 i二松一錦織 岡 田 正 男 ( 一 宮 市 博 保 管 )
3. 木 曽 川 )11並 絵 図 セェ QB RX x,1 350CIl1 上 松 一 熱I:EI 明 治10年 ( 1877) 犬 山 市 ( 文 化 史 料 館 保 管 ) 4. オミ曽)113mり京会! 玄j 巻 物 19 x 440cIl1 上 松 一 熱
m
長 野 県 大 桑 村 吉 村 義 雄 5. 木 曽)11通 絵 図 巻 物 31 x3, OOOcm 上 松 一 熱III i昭和16年 写 本4巻 徳 川 林 政 史 研 究 所自
立
l 番 町 岐 阜 県 史 史 料 編 近 世9 J 付 図 1973年, [ f ' 笠松111]史 i二巻J 1956年 pp. 714- 715 2番 『 長 野 県 ア ト ラ ス 』 平 凡 社 1985年 pp. 134- 1353番 『 犬111市 史 史 料 編1 近 世 絵 図 集J 1979年 所JI 又 4苓 rl主 張 落 と 木 曽 の 歴 史 民 』 名 古 罷j戒天守閣 1974年 5番 「 木 曽 川IHJ 52Jl Iコ絵 1981:::-'1三
3
番 は 犬 山 藩1
1
ヨ 蔵 の 絵 図 で あ る . 奥 蓄 に よ れ ば , 明 治10
年 に 元 犬111 議 士 近 藤 秀J
s
il
が , 同 じ く 犬 山 落土で、あった水野家所蔵の絵密を写したとある. 水野家ではこの絵図を「甚希有イ: ! 1 尤可賞可秘可信者也
J
と し て 秘 蔵 し , そ の 伝 に よ れ ば 「 小 森 先 生 」 よ り 許 可 を え て 文 化7
年 ( 1810)
に 写 し た と あ るiセ
れ, も は や 稀 本 と な っ て い た こ と が わ か る .
4番 は 名 古 屋 市 内 の 古 書j古から昭和3年 頃 に 購 入 さ れ た も の で ¥ 木 曽 )11)j1並 絵 図 の 最 も 簡 略 な 写 本 である.
5
番 は 片 野 温 に よ っ て 昭 和16
年1
月に模写された写本で、ある.4
巻 か ら な 仇 そ れ ぞ れ 長 さ 約750
c mに及ぶ. この写本の原本は, 以 下 に 引 用 す る 「 木 曽 )11通 絵 図 」 第
4
巻 のJ史 書 に よ れ ば , 享 保1
2
年( 1
7
2
7
)
5
月 に 完 成 し た と さ れ る 木 曽 川 )11並 絵 図 で あ る右此図ハ村! 谷捌j谷衛門と申者前方上松方相勤,木曽御材木川狩の裁許し、たし)11端 数j支,従来 道 の 絶 へ た る 所 ハ 材 木 に 乗 り 下 り , 街i領分他古賀入交り候内盗木等いたし候所をしらんため,
勘右衛門自筆ニ委主
I
I
I
乃絵図いたし置候付,此般錦織より名護屋白鳥まで弐! - 五里程の所見分い た さ せ 右 絵 図 に 書 足 さ せ , 都 合
)1
1
合渡より白鳥迄行程五十里余の所,)1
1
筋 の 絵 図 も 如W
i
勘右衛門に認させ候,方角を訂侯テハ殊の外場どり候ゆへ,オくの流に南北を記し)11端 斗 を 書 写 させ申者m
享保十弐未五月
この奥書から,木曽川)I1並 絵 図 の 原 本 は1 番であり,以下の絵図はその写本,または写本の写本で、 あると想定される.
1
番と5
番 は と も に , 尾 張 徳 川 家 の 文 書 を ヲi
継し、だ徳) 11林 政 史 研 究 所 の 所 蔵 で あり
,
5
番 の 奥 書 か ら 推 定 す れ ば 享 保1
2
年 の 絵 図 は1
番であろう. このような木曽) 11川並絵│ 玄! の作成目VI 調布玉川惣商函の史料吟味
市io-;(11 ] i ) 11 踊│玄│は, 10gJ戸村( 現東京都多摩市ー) の名主を勤めた相沢伴主がデッサンをし, これを江 戸の絵i '削羽':1':1出而lli1削il長 谷j川lハ│ 雪堤に
J
自打7品l古百祁riiiJ、せ, 弘化2年( 1845) に木版 )11¥11りされた河川絵図である36) QQQQセ 景 と し た 上 流 部 か ら 河 口 の ) 111埼 宿 ま で を 、 て い る . オ iセA j ゥゥャゥ○載されており,者1)史料( 東京都公文書館),国立国会図書館,毘立公文書ー館内閣文庫などに所蔵されて
いる. このなかでも,多摩市立図書館所蔵の綿布玉川惣画図は,木版刷りの上に筆彩が施されており,
N iセャ ゥ
えられるが,付│地文書は女1] られていない.
し か し iセii N
したかな文と,玉)11の水源,ヨミ)11の 地 名 , 沿 岸 の 村 々 の 名 所 旧 跡 な ど を 記 し た 「 調 布 玉 )1絵1 │玄i
之
弁
J
にわかれる. ここでは,かな文の箇所を抜粋する.H QP I QQQセ HI
次 に 出 し て , 忠 へ ら く 此 地 は 玉 )11セ eー
な も と を し ら さ れ ば こ た ひ 愛 に 遊 へ る , さ ち に そ の 水 源 を き は め か へ る さ に 川 た け の く ま く ま を 探り
i
f
l
j
j
かきうっし,亦玉)11に そ ひ た る む ら さ と に 有 と こ ろ の 名 所 旧 跡 を も 加 へ つ ら ね む と ほ り しくはたて,函図頗なれりといへともいまた残れる所有によりて,猶五歳過( 天保
1
5
年) 今年ネ111なっき,ふたたび水源に杖をひき其濫慨をきはめ ,)11にそひてくたることおよそ三十余塁,はねた( 羽
111) うらにいたり画国ととのひなれり, しかして後予の親友武蔵野のゑのきと( 榎戸) のさとの
長 な る 腹 戸 某 に か た れ ば , 留 を ひ ら き ミ て こ は 人 の た つ ね も と む る と こ ろ 無
F
にひめおくへきに あ ら さ れ は , い そ き さ く ら 木 に ち り は め て 好 事 の の 玩 に そ な へ よ と の す す め に ま か せ て , 板 に彫らしむることとはなりぬ, 弘 化 ふ た つ と い へ る 歳 ( 弘 化
2
年) のいやよひもちのE
l
( 3
月1
5
1
=1,) 玉川の方かすみの関のあとなる関戸のさと人松蔭の翁, 相 沢 伴 主 よ は ひ 七 そ ち あ ま り 八 に
て し る す ( カッコ内筆者と
t
J
QPIGMセ HQ XSYI QU ZQI 11の 水 源 を 探 索 し , あ わ せ て 沿
岸 の 名 所
i
日跡を調べて,玉 )11の絵図に仕立てた. セi ( 現,国分寺市北 IIIJ) の名主榎戸源I
ま の 勧 め に よ っ て 木j坂長IIJ りにしたとある.調布玉)1惣匝1
i
図 の 作 成 目 的 は , 玉 川 流 域 の 地 誌 を 絵 図 に 仕 立 て る こ と に あ っ た . こ のu
寺,相沢伴主 の考えていた地誌は, [ J 江戸名所! 盟会』であり,u
武 蔵 名 所 考 』 で あ っ た . こ の よ う な 地 誌 蓄 が 相 次いで刊行されたことが,調布玉川
i
惣i
l
l
i
l
l
l
玄i
の作成を{ 足したで、あろうことは想像にかたくない. なかでも,相沢伴主がこの絵図で強く主張した点は,ミliJl1 の水源の比定であった.
現 在 の 多 摩 川 の 水 源 は 笠 取 山 と さ れ て い る が , 住l沢伴主は玉)QQ ェ ャ セjゥQU
18
Y HQ VVYI Jセェ iセ I{iI{ Q [S カ dセェ N
わち,相沢伴主にとっての水源の定義は, 7)(系のなかで玉川! という地名がー若干上流で、使用されている
所なのであり, し た が っ て 現 在 の 多 摩 川 の 水 源 と 兵 な っ て い る の は 当 然 で あ る . こ う し た 相 沢 の 玉 川
水 源 説 は3 明治初期に作成された「玉川流域絵│玄
I
J
( 世間谷区大場代官屋敷保存会所蔵) にも路、襲されている.
一方,
1
{
3
沢と同時代人で、あったi JJ 出早 j!j!jviW
玉 川 訴 前 { 日 記 』 を わ し 同 じ く 玉 川 の 水 源 を 考 証 し て い る . 山E
E
l1
宇宙は青栴に生まれ,江戸で、荷売を営み,目立j苦後笠f
l
:
x
1
1
1
か ら 流 れI
J
'I
る一の瀬)1
1
までj 架涼した. EI記 は 天 伝13年 ( 1842) に一応完成しているが,その後も│ 随時追記されており,
r
小山│ 壬1
1
対の考」の追記の箇所に調布玉J ! I 惣
i
i
l
l
i
図 の 序 文 の-fri i
が記されている.IJI[U
早,113の玉)1
1
水 源i況は,多摩二 太 婆 , す な わ ち 丹 波 )1
1
と解釈して,汁波)1
1
の 水 源 に 近 い 三 重 )1
1
1
.
京( 三条)1
1
原) を玉)1
1
の水源とした.このように,近I l
t
後 期 の 江 戸 な ら び に 江 戸 間 辺 で は 相 沢 伴 主 や 山[
1
1
早 苗 の よ う な 地 方 文 化 人 が 地iセ N
IJl1
1
1
早 苗 の 場 合 は 克 明な日記形式の叙述, QZAセQ [ カ↓ N
四 おわ りに
本研究では, 日本全国に現存している近世河川│ 絵
a
l
の 所 在 を 明 ら か に し こ れ ら の 絵 図 の 分 類 を 試み た 上 で , 写 本 も 含 め て 複 数 現 存 し , か つ 史 料i均 価 値 が 高 い と 考 え ら れ る 絵 図 をrll' lンに史料吟味を試 み た . も ち ろ ん , 木 研 究 で 取 り 上 げ な か っ た 近 UtjIl
J
)
1
1
絵 図 が 今 後 も 見 出 さ れ る で あ ろ う が , 従 来 こ の 程 の 研 究 が 皆 無 で あ っ た だ け に , 本 研 究 は 近 世 河 川 絵 図 の 研 究 , な ら び に 近 │ 止 河 川 絵 図 を 用 い た 研 究 の ひ と つ の 指 針 を 示 す も の と 考 え ら れ る .本 研 究 に お い て は , 近 世 河
)1
1
絵j玄│ のなかでも,河川交通にi
却する絵i
却を数多くl[ y り上げた. なかで も,近代測量以前において, )1
1
船 の 通 船 水 路 を 払ijき , 特 に 難 所 を 詳 細 に 措 く こ と を 目 的 と し た 「 近l
止 河川i
水 路i
玄I
J
を 中 心 に , 他 の 近 世 河 川 絵 区 ! と の 異 同 を 明 確 に す る よ う 努 め た . 河 川 水 路i
玄! は3 河 川 交iセ Zャ}A_ ij I QQ iセi
として作成された. この絵函の表現上の特色は, IQQ セ iki
設,
)1
1
船 航 行 の 障 害 と な る 難 所 , そ し て 沿 岸 の 集 落 を 最 低 必 要 条 件 と し て い る 点 で 、 あ る . 木 曽 )1
1
) 1
1
並 絵 図 の よ う な 筏 流 し に 関 す る 絵 図 は , 問 じ 河 川 交 通 に 関 す る 河 川 絵 図 と い う 点 で 河 川 水 路 区 ! の 表 現 と 類 似 す る も の の , 綱 場 な ど の 筏 流 し 由 有 の 表 現 が み ら れ る . こ れ に 対 し て , 筑 後 )1
1
絵 図 の よ う に 堤 地 所 有 を 図 示 し た 河 川 絵 図 は , 堤 外 地 の 所 領 区 分 , 正 確 な 蛇 行 表 現 , 岸 淀 やj躍 の 位 授 が 表 現 上 の 特 色となっている. また,調布ヨミ)11セ ャシ ゥ シ
や 寺 社 に つ い て の 表 現 が 卓 越 し て い る .
以 上 の よ う に , 本 研 究 は1979年から実施してきた近世河川絵図に! 到する所在調査のまとめである
日本は│ 生界でもあまり類がないほど数多くの古地図が現存しているといわれている. こ の た め 古 地 図
の研究も踏んではあるが, A