主早 序
1
調 査 の経 緯1985年 8月 7日 、橿原市 は同市上飛騨町
731番
地ほかについて、小集落地区改良事業 に ともなう住宅建設工事 に原因する事前発掘調査の通知書 を文化庁 に提出 した。造成工事の 着手時期 は同年■月の予定であったが、申請地が市営 日高山団地建替工事 に ともなう残土 置場 にあて られたこともあ り、発掘調査着手 の時期が未定の まま8カ 月が経過 した。 とこ ろが1986年 4月 に至 り、当事業 を担当する橿原市飛騨地区改良事務所 は、年度内の早期着 工 を決定 した。そこで、奈良県教育委員会、橿原市教育委員会、奈良国立文化財研究所飛 鳥藤原宮跡発掘調査部等で協議 を重ねた結果、当調査部が発掘調査 を担当することになっ たのである。しか し、調査部では1986年度の発掘計画 を決定 した直後で、すでに予定 どお り調査が進 行中であった。そのため取扱 いは困難 を極 めたのであるが、年度計画の一部修正 をはか り つつ6月 に発掘 に着手することとした。調査 は、藤原京右京七条一坊発掘調査会 (代表、
松井住春
)と
橿原市長 との間で発掘調査の委託契約が締結 され、発掘調査会の委嘱 を受 け て当調査部が実施 した。2位
置調査 地 は藤 原宮 の南 面 中門か ら南西 へ300m、 藤原宮 の南 に横 たわる 日高 山丘 陵の西麓 か ら西へ約
70mの
位 置 にあ る。一帝 は南東 から北西へ 向 ってゆるやか に傾斜 す る地形 で あ り、調査 地 の南 方
100mの
と ころに は飛 鳥川 が南東 か ら北西 へ流 れてお り、 この場所 は飛 鳥川右 岸 の低 地 に位置 している (第 1図)。盛土 以前 の地形 は条里 で区画 された水 田で あ り、条里 の呼称 でい えば、高市郡路東二十 七条二里十一坪 の中央部 にあたる。 また岸俊 男氏 による藤 原京 の条坊 制復原説 によれ ば、
右京 七条 一坊 の西南坪 にあた り、奈 良国立文 化財研 究所 が設 定 した遺跡 の地 区割 りで は、
6AWH―
P・Q地
区に含 まれる。3
既 往 の調 査日高山の周辺では、1975年以来、橿原市が 市営住宅の建設 や小集落地区改良事業 にとも なう宅地造成工事等の事業 を進 め、当調査部
では、それ らの工事 にともなう事前調査 を数 第1 図 1908年 (明治41)の 調査地周辺
次 にわた り実施 して きた。それ らの発掘成果 については『飛′専・藤原宮発掘調査概報』6・
7'14〜
16等で報告 してある。おもな成果 は以下の とお りである (第 2図)。まず、朱雀大路 と七条条間路 を確認 し、藤原京条坊道路の実態の解明が大 きく前進 した 点があげ られる。朱雀大路 は、宮南面 中門の南
150mの
地点での発掘成果 による と、路面 幅19m、 東西両側溝の幅5mで
、側溝心 々間の距離 は24mで
ある。他 の大路の狽J溝心々間 の距離が9mと
15mとであるのに くらべ、よ り幅広 い京 中央大路 としての性格 をうかがい えた (第172。 23次調査)。この地点の南 にひかえた 日高山丘陵については、市営 日高山団地建替工事 にともなう事 前調査 を何度かおこなっているが、丘陵頂部 は近年 における削平が著 しく、朱雀大路の遺 構その ものを確認するには至 っていない。 しか し、朱雀大路の推定位置では、 日高山の北 か ら湾入する谷 を埋 め立てた大規模 な整地の跡 を確認 してお り、 これは朱雀大路の敷設 に
ともなう整地地業である可能性 の大 きいことが判明 している (第452・ 48‑6次調査)。
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第2図
調査地周辺 の地形 と条坊
数字は調査次数
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坊 内の利用状況 に関 しては、坊 を東西 に二分する南北掘立柱塀 と、この塀以西の場所で 七条条間路 を検 出 したことによって、坊の西半部が西北坪 と西南坪 との二区画 に分けられ ていた ことが判明 した (第171・ 19次調査)。 これに対 して、東半部の東北坪 と東南坪 と では、七条条間路 など、坪の間を区画する施設はない。 これは二つの坪 を一体で利用 した ため と理解する こともで きるが、 日高山丘陵が東南坪のほぼ全域 を占めていることとも大 きく関連 していよう。
日高山丘陵では、その北斜面か ら西斜面 にかけて、藤原宮所用の瓦 を焼いた瓦窯が計4 基確認 されている。登窯の1号窯 と平窯の
2号
窯 とがならんで検 出 されてお り、二種 の構 造 の窯が並存 する ことが知 られている1。 一方、丘陵のす ぐ北 に続 く低地、すなわち、東 北坪 の南部 では、鋳銅関係 の炉址 や井戸 な どが検出 されている (第17‑1次調査)。 東北坪 と東南坪 は藤原宮 の南 に接する京内で も一等地 にあたるが、ここには、造瓦工房 を含めて 藤原官 の造営工事 に直接関わる様 々の工房が設 けられていた可能性が強いのである。また、 日高山丘陵の北端か ら、藤原宮の南面中門に至る一帯では多量の円筒埴輪や形象 埴輪が発見 されてお り、 これは、京・宮 の造営 に際 して、 日高山丘陵上 にあった古墳 を削 平 し、その墳丘の盛土 などを使 って、一帯 を整地 したことに起因すると考 えられて きた。
そ して1984年には、舌状 にのびる二つの尾根の うち、西側の尾根の頂部で、墳丘 をほぼ削 平 された
5世
紀 中葉造営の方墳が発見 されて、 この想定の正 しいことが裏づけられたので ある (第40次 調査)。 そのほか、6世
紀前半代 の埴輪や6世
紀後半の須恵器 なども出土 し てお り、なお多 くの古墳が藤原京 。宮の造営工事 によって消滅 した状況が うかがわれる。さらにまた、最近では東側尾根の西斜面、つ まり、二つの尾根 を分ける谷の奥で
6世
紀 後半の横穴墓4基
(第452次
調査)、 東側尾根 の頂部 に近 い東斜面で7世
紀前半 か ら中葉 にかけての横穴墓4基
を発見する成果があった (第459。
482次
調査)。西斜面で検 出 した横穴墓群 は、前述 した朱雀大路 の造成地業の直下にあっ て、その造成工事 に着手する直前 に内 部 を発 き、遺体 と副葬品 とを取 り除 く とい う注 目すべ き事実が半J明 した (第
3図
)。 これ は藤原京 の造営工事 の際 に見つかった横穴墓 を改葬 した跡 と理 解 され、それはまさに『日本書紀」持 統7年
(693)2月 10日条 にみえる「造 京司衣縫王等 に詔 して、よ捕老ポ芦秘収 め しむ」の命令が忠実 に実行 されたこ
とを示す もの といえよう。 第3図
第452次調査検 出の横 穴墓
西から
第19次 調 査 で は西北坪 と西 南坪 の一部 を調 査 し、藤 原京 の遺構
(B期 )と
、 それ に先 だ つ7世
紀 後半 の遺構(A期 )を
検 出 したが、 ここで は、今 回の調 査 と密接 な関係 の ある藤 原京 の遺構 につ いて簡単 に説 明 して お く (第1表 ,第 4図
)。西 北坪 は発掘 面積 が狭 く、第 17‑1次 調査 で検 出 した坪 の東 限 の南 北塀SA1855と 、小 規 模 な建 物 SB2035。 2040を 検 出 した に と ど まる。西 南 坪 は坪 中央 部 の北 部 を一 部発 掘 した 程度 で あ るが、建物群 を規則 的 に配 置 す る坪 利用 の実 態 を解 明す る重 要 な手 が か りが得 ら れ て い る。 す なわ ち、坪 の北 を七条条 間路
SF2031に
並 行 して設 けた東西塀SA20291こよ って画 し、 区画 の内部 で は、坪 を東西 に三分 す る中軸線上 に建 つ6間×3間の大規模 な建 物SB2000を 中心 に、周辺 に小 規模 な建物 や井 戸 を配置 す る構 成 が判 明 したので ある。また、坪 の内部 は数条 の塀 によって、い くつかの ブロ ックに細分 されて いた とみ られる。
こ とに、前 述 の大規模建 物 の北側柱 に取 りつ く東西塀 SA1975。 2005と 、 中軸線 か ら東 ヘ
31mの
位 置 にあ る南 北塀SA1997に よ って、坪 内 は内郭 と外 郭 とに分 け られて いた可 能性 が ある。 この こ とは西南坪 が一体 で使 われて い た こ とを示唆 し、 さらに また、SB2000の 南方 にあ たる坪 の 中央部 に、主要建 物群 の存在 を予想 させ たので あ る。これ までの藤原京 内の発掘 は、条坊 地割 の基本計画 の解 明 に重点 をおかね ばな らず、条 坊 道路 に囲 まれ た坊 や坪 内 の利 用状 況 に関 して は、 これ を明 らか にで きる ほ ど調査 が進 ん で い ないのが実情 で あ った。今 回の調査地 は、藤原京 での坪利用 の実態 を解 明す る重要 な 地域 と認識 し、その発掘 成果 を大 いに期待 したので ある。
1
網千善教「橿原市飛解町日高山瓦窯」『奈良県文化財調査報告書―埋蔵文化財編』第 5集,1962.奈良国立文化財研究所編 『藤原京右京七条一坊調査概報』1978
時期 遺構番号 種 類 規模
/庇
桁行m
梁行m
庇 m 備 考A期
SB1971 SB1995 SB1996 SB2008 SB2009 sB2010 SA2020 SA2036
南北棟 東西棟 東西棟
9 東西棟 南北棟 東西塀 東西塀
5× 2 1×1 1× 1 9
?×2
4× 2 14以 上
4以 上
90 29
3.0 9 9 6.8 38.0以上
8.0以 上 6.0 2.7
20
9 4.8 4.0
総柱 SB1970。 SA1975よ り古 SA2029よ り古
SA2005よ り古 SB2025。 2026よ り古 西北坪
Bl剣]
SB1970 SA1975 SB1994 SA1997 SB2000 SA2005 SB2026 SA2029 SB2035 SB2040
東西棟 東西塀 南北棟 南北塀 東西棟 東西塀 東西棟 東西塀 南北棟 東西棟
3× 2 4以 上
?× 2 2以 上 6× 3 2 5× 2 28以 上
3× 2 3× 2 メヒ
5,4
96以上 9 4.4以上
144 59 116 625以上
7.2 6.9
3.3
30 57
5.0
3.8
36
SB1971よ り新 SB2000の東 にと りつ く SA2029に とりつ く
SB2000の西 にと りつ く SA2020よ り新
西北坪 西北坪
B2期 SB2025 東西棟 3× 3 5.1 総柱 SA2020よ り新 第1表
第19次 調査
建物・塀規模一 覧
臨
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SA2029
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▲ 二 員
i°
そ
B亀9甚軒駆
SB1994
│
Y二十17570
│
600 第4図
第 19次 調 査 区遺構 配 置 図 1/600
第5図
第19次調査 区南半全景 と今 回調査地
北から
西 一勢 大 路
⌒オ 暮 一方 一 漁 i 坊 大 路
︵右 京 i 坊
︶
口口園園口圏 困題題
困 園
園園因離 司 理解雨
第6図